私の小さな幸せ
桜橋 渡(さくらばしわたる)
第1話 マシュマロサイコパス
午後二時十三分。噛田は腕時計から目を離すと、足元の男を見下ろした。スーツ姿の男は地面にうつ伏せのまま動かず、顔は水溜りに完全に浸かっていた。このまま放っておけば彼は溺死してしまうだろう。
噛田は周囲を見回した。夜の寂れた商店街は、どのシャッターもまぶたのように閉ざされている。まるでお化け屋敷だ。唯一の光源は切れかかった街灯だけで、噛田の影がパン生地のように長く引き延ばされていた。
足元の男と噛田の繋がりはほぼない。しかし社内での悪評はよく耳にしていた。男は部署違いの上司に当たる立場であり、新人に対して執拗なモラハラを繰り返していた。女社員には連絡先を聞き出そうと付きまとい、男性社員には自身の仕事を押し付けるなど、お手本のようなハズレ上司であった。
彼の親族が経営に関わっていなければ、会社は即刻彼の首を切っていただろう。
彼は決して飛ばされない立場をいいことに、周囲へ好き放題していたのである。
だから噛田は殺害を決意した。
(まだかなあ)
時計を見ながら肩をすくめる。人間が溺死にかかる時間は五分以上で、三分から脳の機能が停止し始めるそうだ。
「でも中途半端なのも可哀想だよね。せっかくだし、楽にしてあげよう」
噛田が飲みに誘うと、彼はびっくりする程簡単について来た。人気のない酒屋でひたすら褒めちぎれば、彼は調子に乗って酒をあおり、散々自分の自慢話をした後に泥酔状態に陥った。噛田はお酒を一滴も飲まなかったが、紅茶の方が好きなので辛くはなかった。
それから彼を連れて数軒のガールズバーの前を横切り、ここまで連れて来たのだ。途中で客引きに会ったが、誰も噛田達の様子を怪しむ者はいなかった。
当然だ。側から見た自分はきっと、酔った同僚を介抱するサラリーマンだろうから。
「でも噂通りの困ったさんだったなあ。人に嫌がらせしちゃいけないって、お父さんやお母さんから聞かなかったのかなあ」
自慢話と言ったが、正確に言えば自分がしたこれまでのモラハラ自慢だ。何人も退職に追い込んでやったぞ、自分の立場を守ったぞと、小学生でも呆れるようなことを上機嫌で宣っていたのだ。
数分後に階段で突き飛ばされ、水溜りで溺死するとも知らずに。
噛田は十分が経ったことを確認し、ふうと胸を撫で下ろした。
「久々にやったけど、結構上手くいったみたいでよかった〜。これで少しでも、新人さんが働きやすくなれば嬉しいな」
これ以上現場に長居する必要はない。早く帰ってスキンケアをしなくては。
噛田はスーツケースを持ち直し、その場を立ち去った。
(人を殺したのはこれで何人目だろうか)
その夜、ベッドの中で噛田は考えた。最初の殺人は小学校の頃だ。クラスの乱暴者を山奥の沼へ誘き寄せ、事故に見せかけて溺死させたのだ。
「川島だっけ……?」
小学五年生にしてはやたら体格が良かったそいつは、自分より弱い子に喧嘩を仕掛けては、小遣いを取り上げていたのだ。一度若い教員に注意されたが、そいつは表面だけの反省でその場を凌ぎ、後に彼女を階段から突き落とし、病院送りにした。
噛田も例に漏れずターゲットにされ、毎日のように殴打を受けた。どんな説得も彼には届かなかった。
(懐かしいなあ)
それから思考は実家へ移った。地元には長いこと戻ってなかったため、近いうちに帰省をしようと考えていたのだ。
今は一月だが、今年は暖冬だから雪は少ないと聞いている。高速バスを使えば安全に帰れるだろう。
噛田の地元はあまり発展している方ではないが、自然が豊かで食べ物が美味しく、人の暖かさに触れられる場所なのだ。特に一番最後は、都会ではなかなかお目にかかれないだろう。
「明日、有給申請しよう」
そして翌日、噛田が申請のタイミングを伺いながら仕事をしていると、同僚の長谷川が声をかけてきた。
「なあ、聞いたか?」
彼はこちらへ顔を寄せるよう手招きした。顔を寄せると、人目を気にしながら小声で話し出した。
「近隣の部署に中谷って奴がいるだろ。昨日死んだらしいぜ」
「中谷って……」
「あのモラハラ野郎。親戚が会社の上にいて、その立場で色々やってたあいつだよ」
噛田はあっと声を上げた。昨日殺した人だとようやく思い出した。
(本当は殺した人のことは早く忘れたいけど、やっぱり失礼なことなのかな……)
「何があったんだろう」
「酔って階段から落ちたらしいぜ。詳しくは人づてだからよく分からねえけど」
第一発見者は、恐らく商店街の人だろうか。朝一に死体を発見した人の気持ちを思うと、少しだけ胸が痛んだ。
「見つけた人は気の毒だろうね」
「全くだよ。死んでもなお迷惑かける所はあいつらしいけど」
噛田は何ともいえない気持ちで席に戻った。
(事故死を装うことばかり意識していたけど、もっと周りを見ればよかった)
次からはもう少し気をつけようと自戒し、再び仕事に集中した。
今日は行きつけのコンビニで新商品のマシュマロが発売される日で、真っ先に確保しておきたかったのだ。
終業後、無事に申請を終えた噛田は、マシュマロが入った袋を手に人気のない家路を急いでいた。すぐに店へ駆け込んだおかげで首尾よく買うことができ、ホクホク顔が抑えられないでいたのだ。
だが、角を曲がってすぐに足を止めた。妙な気配を感じる。前方には街灯がついた電柱が立っており、噛田の家はその向こうのアパートにある。しかし足が前に進まない。
(道を変えようかな)
背中を向けたその時だった。
「待てよ、人殺し」
子供の声だ。振り返ると、街灯の下に黒い人が立っていた。高校生くらいの少年だ。マスクにサングラスを着用し、くたびれた黒いコートを羽織っている。彼は右手のスマホをこちらに見せながら、噛田の元に歩み寄ってきた。
「これ、お前だろう?」
スマホには動画が入っていた。水溜りに突っ伏す中谷を、自分が見下ろしている。視点が動かないことから、監視カメラのように固定された状態で、どこかから撮ったのだ。
「どうやってこれを……」
「極秘だ」
サングラスの奥で、少年の目が笑っていた。
「バレたらお前は人生終了だ。いつでも警察に見せたっていいんだぜ」
噛田は思わず袋を落とした。中からマシュマロの袋が覗いたので、慌てて拾い上げた。
(もし両親が自分の逮捕を知ったら、きっと悲しんでしまうだろう。それに今年はまだ帰省もしていない……)
「お前、これが初じゃないだろ。すでに何人か殺ってる顔をしてる。俺には分かるんだ」
この少年の意図がよく分からない。
(彼は何の目的で、自分に接触を図ったのだろうか)
「君は……」
噛田はスーツの襟を正し、少年に尋ねた。
「私にどうして欲しいの?」
少年は一枚のメモを取り出した。数人の名前と住所、職業がシャーペンで走り書きされ、隠し撮りと思われる顔写真が貼られていた。
「社会のゴミ共を抹殺しろ。このマシュマロサイコパス野郎」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます