第9話
隣りのビルの非常階段、その踊り場に見える黒い影。
あたしの居る所より一階下がった場所に居るその影は、こちらに背を向けていた。
シャツに黒いパンツを穿いた男だって言うのは、一目で分かった。
そんな細い彼の肩から一本の棒が見え隠れする。
どうやら音はその棒に合わせて聞こえてるらしく……更に言えば彼の左腕が何かに沿う様に伸ばされているのにピンときた。
ヴァイオリンだ。
あの人が弾くヴァイオリンが音の正体だ。
なんだ、と肩を竦めて手すりに頬杖ついたあたしは彼を見下ろしながら音に耳を傾けてみた。
駅のアナウンスに何度も邪魔されるヴァイオリンの音色は、クラシックを全く聞いた事が無いあたしにとってはお経に似てる。
とにかく眠くなる。そしてつまんない。
汚い非常階段に突如として現れたヴァイオリン弾きって言う乙女なら誰しも胸が高鳴るシチュエーションは、二分と経たずに現実に帰還出来る。
もう戻ってビール飲もう。
すっかりヴァイオリンの魔力から醒めたあたしは、今度はアルコールの魔力に魅入ろうと回れ右して非常階段を後にする。
筈だった。
顔を背けようとする動作の中で、ヴァイオリンを弾いていた彼の手がピタリと止まったのを見た。
そして肩越しにこちらを見上げた彼とバッタリ目があった。
その瞳に射抜かれてあたしはその場から動けなくなる。
低い位置から見上げてくる彼は微かに唇を歪めながら目を細めて、親しみのある口調でこう言った。
「……良い振り方だったね?痺れた」
それが奏太(そうた)との出会いだった。
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