凄まじき隣人

白くま/Ours.blanc.

第1話

 朝の目覚め。カーテンを開けた先にカボチャが寝転んでいた。

 

ハロウィンでお馴染みのジャック・オ・ランタンがベランダに干した俺のパンツを頭から乗せるように被り、蹲るように横たわっている。

 警視庁の犯罪統計では、10月から11月にかけて空き巣の件数が上がる傾向にある。と言うのも、行楽シーズンで家を抜けていたり、窓を開けっぱなしにする人が増えたりというものらしいが。

 とはいえ、つい先程まで俺は家のベッドで惰眠を貪っていたのだから留守にしていたわけではない。同時に、就寝中を狙った忍び込みというものを食らったという点で言えば統計上よくある手口に遭ってしまったというのが正しいものだろう。


「何やってんだコイツ……」


 超絶真面目な大学生こと俺、仁村桃李の本日第一声がこれであった。

 

 年末年始が近づくにつれて経済的不安を感じた人間が、魔が差して空き巣に手を染めるというケースが増えると聞いた覚えがある。

 大学の授業でやったっけな。

 俺は寝ぼけた頭に突如冷や水のように浴びせかけられた情報を整理しながら、そっと窓を開ける。

 目の前の惨状ですっかりずり落ちたウェリントン型のメガネを上げ直す。


「おいコ……いえ、ゴホン」


 思わず素の自分を晒け出そうとして、咄嗟に口を咎めた。

 自分は大学では真面目で大人しい学生で通しているというのに。

 普段通りの話し方をしてしまってはイメージが損なわれるというもの。学生ばかりが住まうこの安アパートで大声でも出そうものなら、すぐに周囲に自分の本性がバレてしまう。

 

 へぇ。仁村くんって、そういうタイプなんだ。


 こうしたイメージが作られてしまうだけで、周囲からの目が変わってしまう。

 折角法学部にギリギリ滑り込んで大学進学ができたというのに、周囲の目が変わってしまっては元も子もない。

 国家試験を受けて大手の法律相談所にOB・OG訪問からインターンを経て、就職するというこの流れを壊してしまう。

 仮に空き巣の被害者になってしまったからと言っても、下手に本性を出してはならないのだ。


 まぁそうは言っても、この空き巣のようなカボチャを無事に帰すのか、はたまた畑に埋め直すのかは起こして話を聞かないことには全くもって話は進まない。


「君、君。起きてください。大丈夫ですか?」


 うむ、今日も俺の優等生具合は完璧だ。


 自らのロールプレイに酔っている中、目の前のカボチャは目を覚ましたようで、表情一つ変えないまま、俺のパンツを帽子のように立たせながら上体を起こす。


 首から下を見て俺は思わず固まった。

 魔法使いを彷彿とさせる、マントのような形状をしたローブが捲れると、その下はほとんど水着の上に黒いシアーシャツを羽織っただけの姿で、何とも言えない扇状的なラインがほとんど透けて見える。

 おおよそ規制される前の渋谷ハロウィンにいそうな、ほとんど痴女であった。


 高校時代、警察の目を掻い潜って深夜のハロウィンイベントに出た時は、大体こんな感じのお姉さんをナンパして遊んでいた感じだったな。


 そんなカボチャの痴女は、同じ表情のままに周囲を見渡して俺とようやく目が合う。


「お、おはよう……ございま……? ひゃっ!」


 カボチャは自分の服装を見て咄嗟に胸元を隠した。


 黙れ。朝から人のベランダに入り込むような人間に欲情すると思っているのか。


 心の中で毒を吐いたのは、もしこの場を第三者に見られたらという気まずさのような後ろめたさがあった。


「おはようございます。お家、間違いましたかね?」


 俺は優しく彼女に対して声をかけてみた。

 カボチャは自分の顔を隠して慌てふためく。

 顔の前に体隠せやと心の中で毒付いたのはここだけの話にしてくれ。


「あの、すみません。隣のアパートに住む者なんですけど、鍵をお店に無くしてしまって……。窓から入ろうとしたんですけど、入るベランダを間違ってしまったみたいです」


 不用心なことを言ってのけるカボチャの正体は、隣に住む同じ大学の伊藤雪菜という先輩だった。

 先輩は普段黒い髪をしなやかにたなびかせて、講義か図書館でばかり顔を見せる寡黙な人だ。

 物静かでも講義中は色々とグループワークに積極的で、教室の後ろでタムロしているような連中ですら真面目に取り組ませるような芯の強さと場を乱さずに言い聞かせられるだけの柔和さが取り柄だ。

 大学に入って真面目になり、人の言うこともハイハイ聞けるようになった俺も、全く嫌な思いをせずに従うことができる。


 正直、学内人気は高い。


 だからこそ、こんな渋谷の煮凝りみたいな服装の彼女を見るというのは、ドキドキするよりもショックの方が大きかった。


「まぁ、そんなこともありますよね。昨日のハロウィンは楽しんだようで」


「え、えぇ。でもこれはアルバイトで行ってるお店でやったコスプレでして。飲みすぎてそのまま帰ってきちゃったみたいなんです」


「あ、ああ。そうなんですね……」


 何とも歯切れの悪い返事をしてしまった。


「……そこまで変なバイトじゃないですからね」


「いえ、むしろ安心しました」


 何を動揺しているのか、全くひどい返し方である。


「仁村くんには刺激が強かったですかね?」


 彼女はクスッと笑って見せた。

 俺は、心の中ではいと叫んでいた。

 確かに刺激は強い。正直に言えば渋谷や新宿のハロウィンに行けば、このまま捕まるんじゃないかってレベルの服装のグラドル級がそこらを闊歩している。

 単純な露出の多さや扇情的な仕草だけを考えれば先輩よりも刺激の強い人たちなんていくらでも見てきた。

 大体高校生も終わりを迎えるころにはそういうお姉さんに持ち帰られて、後から高校生とバレて怒られるまでが定番だったものだ。正直それだけなら見飽きている。

 しかし、先輩はというと、どちらかというとそういう世界に縁がなさそうな生真面目さとお淑やかさがある。

 そういう人間がクラブで遊びふけるような浮ついた格好をするというのは最早危険物のようなギャップそのものだ。

 自分の破壊力をあまり理解できていないのだろうか。と不安に感じてやまない。


「お、僕は生真面目な学生ですからね? あ、あまりそういう世界は詳しくないものでして……」


「そうなんだ? ごめんね。仁村くん。でも幻滅だけはしないでね?」


「そんな、むしろ、僕は嬉しかったです」


 挙動不審になったふりをして見せたが、我ながら何とも気持ちの悪い返しだ。

 普通の女ならニコニコしていても心の中では「うわ……きっしょ」と思ってしまうものだろう。

 この女はどうだろうか。

 後からやってしまったと思ってももう遅かったが、気づけば俺はやれ寒くないかとか温かい飲み物はどうかとか焦って流暢になっていたことだけが記憶にある。


 それから先のことは覚えていない。


 気付けば、俺は雪菜先輩をベランダ伝いに送り届けてから、すっかりと不貞寝をしていた。

 別段女の経験がないわけでもないのに、どうにも初心な感情の揺れ動きをしたものだ。

 別に先輩がどんな仕事でも、嫌にならないとは思っていたのに。

 筆舌に尽くし難い気まずさは、二度寝をしてから昼に食ったラーメンが何とも味気なかったところまで続いたらしい。

 真面目に学生をやりすぎたか。

 この時の俺はそんなものかと感傷に浸ってばかりいた。


*************************


 気分が沈んでいる時は何を食っても砂のように感じるものだ。

 条件反射で頼んだバリカタの麺も、今日はどこか喉越しが悪い。

 とりあえず腹ごなしだけ整えてから、俺は高校時代の後輩の家へ向かった。

 後輩は一個下で、今年受験を迎える高校生である。もっとも、この後輩は来年には就職して大手の製鉄所に入社するから、別段受験が必要というわけではない。

 故に問題行動さえ起こさなければ、後の高校生活はひたすら遊びたい放題という状況である。そのため、俺も大学に通うようになっても気兼ねなしに遊びに行けるものなのだ。


 しかし、今日後輩から呼ばれたのは明るいお誘いではない印象だった。


 カボチャがうちに泊まりにくる前の日、後輩からは「お耳に入れていただきたい話があります」という文章だけ来て、こっちが何を返信しても特に事情を話すことはなかった。

呼び鈴を押して少々、そこにはあの能天気とは思えないほどに青白い顔を浮かべた後輩が迎えに来る。


「桃李さん、ちっす……」


 後輩はドアを開けるなり、泣きそうな表情を浮かべるもので、俺もついぶっきらぼうに後輩を部屋の中へ押し込んだ。


「どしたん? お前随分へこんでんじゃんよ。彼女にフラれた?」


「半分正解なんです……」


「あ?」


 後輩は去年の暮れに彼女ができた。生まれて初めての彼女らしい。

 俺たちとつるむタイプの女だから、それは当然生真面目なタイプとは裏腹の、中坊の頃からメイクなんてしてしまうタイプなのだが、まぁ見た目にそぐわず結構しっかりとした性格で、下半身に脳みそがあるような後輩とこの半年とちょっと清らかな交際を続けさせるような子だ。

 思わず襲って幻滅されたかとたかを括る。


「お前、あんだけ真剣交際頑張ってくれる系の子泣かしたんか?」


「……でもあの子が言うには俺は悪くないって言うんです」


「ほな違うか。……じゃあ何でフラれたんだよ」


「何でも、俺に合わせる顔がないから別れたいって言うんです」


 後輩が彼女から聞いた分には、彼女の実家が作った借金が払えないから、利息分の帳消しとして援助交際を求められたという。


「……で、受けたんだな。あの子は」


「そうらしいです。利息分だけでも、来年から俺がもらう手取りくらいあって、それだけで帳消しになるなら、いっそ……って」


 後輩は思わずちゃぶ台を叩いた。折角俺に出してくれた未開封のコーヒー牛乳が宙を舞う。


「俺、言ったんですよ! お前の意志じゃないから悪くないし、辛いなら今からバイトして少しでも楽させてやるって! でも、あいつ、真面目だから……あの、俺に顔向けできないって……」


「……辛いな、それ」


「桃李さん、俺悔しいっす。どうにかならないっすか」


 後輩は手に持っていた未開封の缶コーヒーを握り潰した。よほど悔しいらしい。


 涙の代わりと言わんばかりに後輩の足元はコーヒーで溢れていく。


「おい、その借金してる先の男の面撮ってもらえねぇか? 最悪他の罪でぶち込めねぇか考えてみるわ」

 

後輩は涙ぐんで頭を下げてきたが、何とも後味の悪いものだった。


「後よ、バカなこと考えるんじゃねぇぞ。俺たちもう大人になるんだからな。俺も頑張ってみるから彼女ともう一回話し合えるように頑張ってみろ。お前あんないい子、こんなしょーもないことで逃すんじゃねぇぞ?」


「は、はい……」


 とは言ってみたものの、いかんせん情報がない。

 後輩から何かしらの情報が来ることを祈って、ひとまず俺は家に帰ることにした。

 帰り道、このまま家に帰っても気分が上がらないと思って、明日は学校も休みなので、近場の街で遊ぶことにした。


 ふとどこかで一杯と思ったあたりで、一つの雑居ビルに目が映る。

 その入り口にはまだ晩秋も始まったばかりと言うのに、大きめのトレンチコートに包まれた女の子が、中年に頭を下げさせられている姿があった。


 俺の心臓が早鐘を打つ。


 その女の子は雪菜先輩だった。多分そういう店で働いているんだろうなという予想はしていたが、悲しいことに予想は当たってしまった。


 せめてもの救いだったのが、その雑居ビルは以前行ったことがあるという点だ。

 そういえばあのビルはコンセプトバーやキャバクラくらいしかない。となると、おおよそ二号営業かキャバクラなどの一号営業しかない。この前の服装からしてコンセプトバーの方向か。

 しかし、まだ俺には安心するには程遠い懸念事項がある。

 先輩の横で店長と思しき男に向かって雪菜先輩の頭を下げさせているあの男。

 すっかりと緩み切った腹を大きく揺らしながら何かを喚くあの中年。

 雪菜先輩とどういう関係があるのか。

 ただの客ではないかと考えるよりも前に、手がスマホのカメラへと伸びていた。

 フォーカスを当ててシャッターを切る中、脳裏をよぎったのは今日の様々なやりとりだった。


『変なバイトじゃないですからね……?』


『桃李さん、俺悔しいです……』


 後輩の話を聞いた後だと、恥ずかしがりの割に思い切ったバイトをしている雪菜先輩の存在が違和感となって頭の中に強調される。


 何か関係があるのだろうか。


 しかし、こういう時に限って、悪いことが続けばそれが関連づいているのではないかと邪推するのが人間の癖だ。

 俺はひとしきりシャッターを切った後、何だかどこにいてもケチがつく気がして、今日はそのまま帰ることにした。


*************************


 大学生のバイトとくれば、各々イメージは異なると思う。

 賄いも出て食うに困らないあたり、飲食店を狙う人も多いとは思うが、俺は将来の夢を考慮して塾講師のバイトに精を出すことにした。

 教員免許課程の講義ばかりでは実践ができないので、学校と違って真面目に授業に取り組む子ばかりが揃う塾は教員になった時のいい練習になる。

 俺は社会と英語が得意なのだが、最近では算数や数学もそれなりにスラスラと教えてあげられるようになった。

 受験勉強を始めたばかりの時は一次方程式すら危ぶまれたのが今では懐かしい。

 あの陰鬱さに支配された日から数日経ったが、生徒の親御さんに人の頭ほどあるカボチャを貰って気持ちが浮き足立つ中、バイトも終わった夜に俺は雪菜先輩とまた再会した。

 雪菜先輩は、肌寒い時期になったばかりというのにやたらと厚手のコートを羽織っていた。


「あ、こんばんは。先輩……」


 迂闊に話しかけにくい空気があったものの、それを無視して何とか話を持ちかけてみる。

 先輩は意外にも明るく返してくれた。


「あ、仁村くん。こんばんは。今バイトの帰り?」


「ええ。塾のバイトだったもので。先輩は今からですか?」


「いや、今日はバイトじゃないのだけれどね。ちょっと実家の家業で用事があって」


「家業ですか」


「実家が神社なんです。お父さんが亡くなってしまって、畳まないといけないのだけど」


「そうだったんですか。それであんなバイトを……」


 先輩の表情が少し暗くなった気がした。

 しまったと思ったが、先輩は言葉を続けてくれる。


「はい、他の神主さんに譲渡するまでの間は神社を維持しないといけませんので」


「ははぁ……。ああいうのって維持しないといけない感じありそうですものね」


「えぇ。それに……」


「それに?」


 今度は先輩の方がしまったという表情を浮かべる。


「あの神社、実は神様は神様でも、あまりいいものじゃないってお父さんが言ってて。管理する人がいなくなったら悪いことが起きるからって昔教えてくれたんです」


「だから、お父さんが亡くなってからすぐに近くの神主さんたちから引き継ぎの連絡が来たんです。ですが……」


「ですが?」


 先輩は今度こそ首を横に振った。


「ここからは身内の話だった。話しすぎちゃってごめんね?」

 先輩はにこりと笑うものの、どこか誤魔化しているような印象だ。


「先輩……」


 事実、身内の話なら部外者の俺では介入はできない。

 聞く権利すらないというのが現状だ。


「悩みあったら、解決できないかもっすけど、言ってください。スッキリするくらいなら手伝えますから」


 これくらいしか言えないことに、俺はもどかしさを覚える。


「ありがとね、仁村くん。また手伝ってもらうかもしれないね」


 先輩はそれじゃと一言告げて去っていく。

 俺は彼女の後ろ姿を見送るものの、そこにまた新たな違和感があったことをどこか無意識に感じていた。

 彼女が歩くと生地が大きく擦れる音がする。

 コートの下に何か着込んでいるだろうか。

 その違和感に気付きそうになったところで、自分のポケットがけたたましく鳴り響いた。

 後輩からの着信を確認すると、気持ちを切り替えて電話に出ることにする。


『お疲れ様です。桃李さん、例の情報手に入れましたよ』


「おう、お疲れ。それでどんなやつだった?」


『そうすね、今写真送ります。どうぞ』


 後輩がそう言い終わるや否や、携帯にメッセージの受信が入る。俺は携帯をスピーカーに直して、添付された写真を開いた。

 そこには、緩み切った腹のせいでやけに大柄に見える中年の男の姿があった。

 俺は咄嗟に自分の写真フォルダを開き、写真を交互に見比べる。

 後輩の彼女に借金の利子の取引をした男と、雪菜先輩に擦り寄った男は全く同じ人物であった。

 あの日、後輩の家で感じた首の裏から後頭部にかけて熱を帯びるあの感覚が駆け巡る。憎悪という言葉がまさにぴったりと当てはまるようだ。


「こ、こいつは……」


『桃李さんもこいつに見覚えが?』


「あぁ、うちの大学の先輩に擦り寄っている男に酷似してやがる……。先輩の場合、実家の家業の件でやられてるってことになんのかな」


『あぁ!? クッソダラァがァ! どん、どんだけ多くの女に手ェ出してんだコイツァよォ!』


 電話の向こうから何かが割れる音がする。おそらく後輩のことだ。怒りに任せてちゃぶ台を叩き割ったに違いない。


「おい、落ち着け。お前は下手なことすんなよ? お前はもう一人で責任負える立場にねえんだからよ?」


『でも桃李さん……。我慢できねぇ……!』


「しんどいの我慢すんのも大人だよ。それに、これからお前がやらなきゃならない喧嘩は大人の喧嘩だ。しかしな……」


『……?』


 電話の先にいる後輩は鼻息が荒いものの、俺の言葉を受け止めてくれている様子である。


「大人がやっちゃいけねぇ喧嘩ってのは、後輩にはさせちゃなんねぇよ。全部任せとけ」


 俺はそれだけ告げて、電話を切る。

 後輩が怒ってくれたおかげで、逆に俺が冷静になれた。

 男の情報が浮かんでくる中、ふと先程までの違和感を思い出す。

 彼女の違和感。

 今ここでようやく気がついた。

 何故厚手のコートが必要だったのか。足元まで隠す必要があったということだ。かろうじて見えた彼女の足元はやけに赤いスカートで覆われていた。

 いや、違う。あれは袴だ。恐らくは巫女装束のそれである。

 今から彼女は家業の件で外に出ると話していた。単に神主に引き継ぎをするだけなら問題はないだろう。

 しかし、あの口ぶりは引き継ぎをするためのものではない。

 猛烈に嫌な気配がしたためか、俺は大きなメガネが落ちることも厭わず、アパートから駆け出した。


*************************


 夜の月明かりに照らされた神社には、箒の目が見えるほど手入れの行き届いた境内が広がる。昼間と比べて参拝客のいないこの場は、晩秋のうっすらとした冷たい空気も合わさって、どこか震えるような怖気を覚える。

 体の関係はないものの、資金がないからと叔父に出るように言いつけられたバイトはどれも学生がするにはあまりよろしいものではないとされているものばかりだ。

 無論、そういうところで働くことそのものが悪いわけではない。しかし、神事を司る仕事の一つを任されている身としては、何か自分の大切な場所からどんどんと離れていく気がして、仕事を増やすごとに何かが自分の中から削れていくような感覚に襲われていた。

 この寒気はここで祀られている神様の、これ以上近づくなという警告だろうか。

 私は境内を通り過ぎ、本殿へと差し掛かろうとした時、不意に背後から誰かが近づいてくる気配を感じた。

 それと同時に、遠くの昼間に箒で掃いたばかりの砂利道で何かが歩く音が聞こえる。

 背後から近づいてきた気配は叔父のものであった。彼は振り向こうとした私に覆い被さるように抱きつくと粘り気のある吐息を浴びせながら耳元で語りかけてくる。


「金の準備が出来たって言ったらちゃんと来てくれたなぁ雪菜」


「お、叔父さん……。いきなり何を……」


 叔父は私の体をものすごい力で抱き止める。時折腕の骨が軋むような音がして、思わず私は痛みに息を漏らしてしまう。


「何ってその歳になって分からない訳はないだろう。雪菜、金を援助するということはその分何らかの担保や見返りを求めるものだ……」


「本当に何を言って……。わかってるんですか? 私はあなたの兄弟の娘ですよ……!?」


「何の問題があるんだ。何も分からないお前にいきなりこうしては申し訳ないから、ああやってバイトで段階を踏んでやったと言うのに……私の親切を……!」


 私が思わず叔父の顔を見やると、彼の目を見てくぐもった悲鳴をあげた。

 白目がなくなり、目全体が黒目になったかのように闇一色に染まっている。

 その顔に気づいてからか、叔父は意味のある言葉を吐くと言うよりもただうめき声をあげて本能のままに私を襲おうとしている。


「わタしの しんせつ を 受けなさイ」


 叔父がそのまま私を地面へ組み伏せようとした時、境内の入り口から人の声が響いた。


「すみません、先輩。遅くなりましたわ」


 それと同時に叔父は宙を舞い、本殿の方へと転げ回っていく。

 顔を上げたそこには、仁村くんが立っていた。

 牛乳瓶の底のようなレンズの眼鏡をしている時とは違い、素顔の彼はとても鋭い目をしていながらも、どこか優しさを覚えるような目をしている。

 右手を振り抜いているあたり、叔父のことを思い切り殴打したのだろう。

 叔父は叔父ですぐに立ち上がると、ポケットからナイフを取り出して仁村くんへ襲いかかる。

 彼は左手で掴んでいた黒く大きな物体で叔父を殴りつける。それは、人の頭がまるまる入るほどの大きさのカボチャであった。


「チェッ、まだ生きてやがったか」


 彼はそう悪態付くが、私は仁村くんではなく叔父に戦慄した。

 叔父は人を恫喝するような人間ではあるものの、喧嘩が強いわけではない。どちらかと言えば、自分の痛みには人一倍に敏感だと思う。

 そんな叔父が頭から血を出しても泣くこともなく立つのは、どうもおかしい。

 その時気づくが、先程砂利道を歩いていた足音が、着々とこちらに近寄っている。

 砂利道を歩けば石が鳴る音がするが、その音に合わせてどこかベタベタとした素足のような音も聞こえてくる。それに合わせて何か服の裾を引き摺るような音。

 日付が変わる時間帯のような、こんな夜更けに人が歩いていることがそもそもおかしいのだ。

 気づけば、私は仁村くんを抱き寄せる形で引き留めていた。


「仁村くん、もう、もういいの。早く逃げよう!」


「あのおっさん、あれ食らって起きてきてるんだぞ? 逃げられるのか?」


「違うの、さっき私が話したこと、この神社は……」


 言い終わる前に、背筋が伸びるような鈴の音が聞こえる。

 いや、凍りつく方が正しいか。

 鈴の音が聞こえる方向を見て、叔父はよだれを垂らしながら笑っている。


「これがあるから、神社を守らなきゃいけなかった……。どうしよう、神様を起こしてしまった……」


 私は震えて思わず倒れそうになる。

 けれど、それを仁村くんは支えてくれると普段の間の抜けた笑顔とは違い、小さく笑って私の背中を押そうとした。


「じゃあよ、先輩が神主やら連れてくるまでの間、俺が引き付けておくわ。……後は事情を知っている人に任せるしかねぇな」


「仁村くん……だめだよ……?」


 私は手を伸ばすが、仁村くんはそのまま叔父の方へ駆け出していく。足音は相変わらず近づいてはいるものの、それは私の方でなく、仁村くんと叔父の方へ逸れている気がした。

 私は心の中で何度も仁村くんに謝り続けた。

 境内から出ると、深夜にも関わらず譲渡の約束をしていた神主さんへ電話をかける。向こうも何か良くない気配を察知していたのか、私の電話にすぐに出てくれた。

 時間はすっかりと丑三つ時を過ぎて神主さんがやって来る。すぐに戻ろうと話をしたが、私たちの安全を考えて、朝方になってから神社に入ることになる。

 日が上り始め、朝日が本殿を照らす頃に私たちは戻ったが、そこには叔父の姿も仁村くんの姿もなかった。


*************************


 叔父がいなくなってから、すぐに神社の譲渡の話が決まった。

 叔父が神主さんと私の間で金銭的な問題が生じるように裏で手を回していたらしい。

 全ては私に向けた自分自身の欲望を曝け出すために。

 悍ましい計画に身震いしたものの、これで叔父からの圧力やバイトに悩むこともなくなり、今では新しい神主さんの元でバイトを始めることができた。

 今まで通りの神社で働き続けられるのは神主さんのご厚意あってのことだ。

 仁村さんはどうなったかは分からない。

 でも、これで叔父と一緒に連れて行かれたとしたならば。

 私は今後一生消えない罪を背負っていくことになる。

 それでもこれは逃げてはいけない罪なのだ。

 そうしてこれからの道を決心したとある朝、ふと玄関先で何かが倒れる音が響く。

ドアの向こうを見て、私は思わず声を上げる。


「なんで普通に帰ってきてんのこの人……」


 朝日が差すアパートの廊下。熟睡する仁村さんの横でカボチャが寝転んでいた。

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凄まじき隣人 白くま/Ours.blanc. @miasa-hirg3966

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