捕獲者
遠藤
第1話
──つかまえた。
なめらかな声がした。脳の内側で、あるいは鼓膜の裏側で。
声は確かに女のものだったが、しかしとなりにいるのは三十路を過ぎた年頃の男である。
「あの、何か用ですか?」「神奈川」「え?」「さん付けをするかは任せるよ」
しまった。会話ができない人だった。
困惑を覚えていると神奈川は喫茶店に入ろうと提案してきた。
「いきなりどうして」疑問を口にするが、はて、彼は俺の素性を知っているかもしれない。
あまり明るくない人生を送ってきた俺の素性を知っているとなると、これは厄介なことになるかもしれない。後々の身を案じ、俺は神奈川に従うことにした。
窓際の席に案内され、俺はホットコーヒー、神奈川はクリームソーダとチーズケーキを頼んだ。
昼下がり時、店内では主婦やカップルが話に花を咲かせている。
「この曲、店主が好きなのかな。まさに "わたしのお気に入り" ってことかな。そういえば店名も『至上の愛』だったもんね」
神奈川の発言で耳を傾ける。小気味良いジャズが流れていた。俺でも知っているくらいだから、相当に有名な曲であるはずだ。
俺は神奈川を見た。
流行りの格好に自分なりの個性を出している。黒を基調としているのが印象的だ。耳にかかる程度の黒髪にパーマをあてている。
眉毛も形良く整えられており、垂れ気味の目からは理知的な印象を感じた。
「何か私に用があるのなら言ってください」改めて疑問をぶつける。
「用はないよ。というより、もう達成したから」神奈川は俺の質問に返答しているようでいて、要領を得ない。
「おれは君の追跡者なんだ。もしくは捕獲者」怪訝な顔をしているであろう俺の顔を見てか気まぐれか、神奈川が継いで説明をする。
『捕獲者』などという日常生活では耳にすることがない言葉に、警戒心が肉体を号令した。
「捕獲者…。ではなぜ喫茶店に行こうと誘ったのですか。捕獲した余裕というやつですか」俺は相手よりも優位に立とうと口を開く。
そもそも捕獲者ならどうしてすぐさま捕まえて連行なりをしないのだ。俺はそのちぐはぐに面白みすら感じた。
「まあ、そんなに焦ることはないって。時間はたくさんあるから」神奈川は俺の質問をはぐらかし、運ばれて来たチーズケーキにフォークを刺した。
「ちょっとこれすごく美味しい!コーヒー飲んでみて!」神奈川が俺にコーヒーを勧めてきた。頼んだものが違うのだから感動は共有できないだろうに。
神奈川はまともに質問に答える気がないらしい。これは長期戦になりそうだ。
俺はコーヒーに口をつけた。
深煎りされたことがわかる豆の香りが鼻腔を抜けた。まるで湯気のように意識に充満する。それと同時に心地の良い苦味が舌に染みる。後味が余韻として残った。川底を浚った時に見つけた砂金のようだ。
店の入り口にあるガラス扉に人影が映る。
すると入店を告げるベルの音とともに男が入ってきた。店員に案内されるがまま、俺と神奈川の近くに座る。
目の端に黒い影が動くので目をやると、犬がいた。黒のラブラドール・レトリバーだ。入店してきた男が連れていた盲導犬である。
男も座ったことで休憩とばかりに盲導犬も伏せの体勢になる。犬にもまつ毛ってあるんだな、と思った。
「盲導犬ですね。初めて見たなぁ」神奈川が呑気な声をあげる。「盲導犬ってそれ用の器具?をつけてるから一目でわかるよね」
俺は神奈川の発言には返事をしなかった。
犬は毛並みが綺麗だった。ブラッシングなども日々丁寧にされているのか。互いに信頼があってこそ成り立つ関係なのだろう。
ふと、神奈川の発言が引っかかった。
何か居心地が悪い。
──ばれちゃったかしら。
女の声。
喉が渇く。
神奈川に向き直りコーヒーを一口飲んだ。先ほどとはまた違った印象がある。神奈川はクリームソーダのバニラアイスをどう食べようかと、敵城を攻め入る算段をする軍師のような顔していた。
俺はその場から逃げ出した。
冷や汗が首筋を流れる。
俺を捕まえたもの、それは〈情報〉だ。
捕獲者 遠藤 @maro0624
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