冬の精霊

秋のやすこ

冬の精霊

来週のクリスマスに間に合わせようと、現代人はせかせかと近場のショッピングモールを出たり入ったりを繰り返している。

いつの間にか、しんしんと降っていた雪は轟々した吹雪に変貌していた。気温は-3℃まで下がったが、せわしない年の瀬が人々の身体を麻痺させてしまって誰も寒さなんて感じていないように思えた。


寒いからと部屋にこもっていた笹川桜次郎は耳障りにもなりきれないガスヒーターの燃焼音に意識を向けながら温風を存分に浴びて、外の人間を恨めしく見つめていた。

窓に指をそっと触れさせて、ミリ程の茹る体温を吸収させると、細胞たちが喜んでいることを脳内でイメージさせる。そうしていると、部屋の中に一人でいる桜次郎は体の中だけでも誰かと共存できていると錯覚させるからだ。

2分後に忘れ去っていそうな特に面白みもない考えごとをしながらふと幼少期のことを桜次郎は思い出した。

今日以外で最後に吹雪が降ったのは桜次郎が5歳の冬、流行り病に侵され右も左も曖昧になってしまうような発熱があったが、その時に吹雪を見た桜次郎は雪の結晶たちが荒々しく通り過ぎていく様をずっと忘れられず、幼子が母親に買ってもらった飴玉を大事に取っておくように、脳の引き出しに入れていた。


世界が回転していてもなお綺麗に見えた吹雪は、今の桜次郎にはそれほど綺麗にも見えなかった。

通り過ぎている雪のその先には輝かしく灯る光たちがいる。その光に目を焼き尽くされてしまった桜次郎は吹雪を吹雪と観測できずにいる。

寒い。寒くてしょうがないが、あの日布団から見ただけの吹雪、それは荒々しくてしょうがなく、桜次郎以外の者から見れば迷惑でしかない雪の結晶。天がもたらす白き結晶。心地よいだろうか、痛いだろうか、美味しいだろうか。

桜次郎は吹雪がどんな感覚かを経験できずに生きた。


心底では吹雪が見たいと思っていたのかもしれないが、自身はそれに気づかずただ外に出たいと脳が言っていると桜次郎は認識した。

その時、無意識下のうちに吹雪を拝みたい心に操られるマリオネットになっていた。

ただ虚ろになっていたわけではなく、いつもと変わらないことだった。いつだって深層心理に操られて生きてきたのだ。

いつ頃買ったかも覚えていないコートを羽織り、暖かい茶を一杯胃の中に納めてから未知の世界へと歩き出す。足はいつも通りに歩いているようにも見えるがどこか緊張を包ませているようにも見える。


ドアが開く瞬間、ガスヒーターが供給していた温気が消え去り、冷気だけが桜次郎を世界へ押し出した。


ドアが開いた刹那、感じたのは冷たくも温かい冬の夜。

つま先だけ外に出した途端に雪が鼻を掠める、初めて感じた冷たく固い雪の結晶。

赤くなった鼻をこすりながら一歩二歩と歩を進めると、こめかみ、頬、指。

体の部位それぞれが初めての感覚を味わい、今桜次郎の肉体はたしかに悦んでいた。


それにより、桜次郎は寒さを感じなかった。

人々が寒さを感じないように歩いていたのは、年の瀬が麻痺をさせていたからではなく、なにかしらの事柄が、寒さをどうでも良くさせているのだろうと気づいた。


大通りの人々は幹の太い木に巻かれた虹の模造品を機械の板に収めることに夢中で、埋められていく命にも気が付かなかった。

桜次郎は積もった雪を掬ってやると、手のひらにある白い砂をポケットの中にしまった。帰った後、また触れるように。


「ちょっとお兄さん!」


後方から桜次郎の父親に似た声が聞こえた。桜次郎の父親は寝ているため、ここにいるはずがなく、その声の主はただ声帯が父親に似ていただけのただの中年だった。


「あそこの雪をどけたいんだけど、手伝ってくれないかな?ちょっと腰が痛くってさ」


中年は少し先を指差している。その先には軽トラックがあり、荷台にはパンパンに雪が積もっている。あれでは仕事にはならないだろう。


「いいえ私は…その…」


桜次郎の会話といえばはいといいえ、そうですね、の機械化されたもの。そうでない会話をしなければならない場面に遭遇するのは久方振りのことだった。

生まれつきコミュニケーションが下手というわけでもなく、会話が多い方の子供であったが、長いこと機械化された生活を送っている間に、人間としての生き方が欠如していた。


「とりあえず頼むよ。ね」


現代に見合わない強引な会話は、不快以外の何物でもなかったが、機械化されたものを人の手に戻してやるような、不快な人間にしかない技量で修正されたようだ。

道具を渡してくる中年の頭には雪がまとわりついており、白髪なのかどうかの判断ができなかった。


実に数年振りの運動、外に出て何かをするなど想像もしていなかった。少しだけ出たら帰るつもりだったはずと、どうにも上手くいかないことだらけの冬が桜次郎の冬だった。

一通り雪を落としたら中年はタバコを吸いながら、トラックの中から顔を出した。


「お兄さんありがとう。お礼に何か奢るよ、何が良いとかあるかな?」


「お礼だなんて、そんな…」


桜次郎は食べられるものが偏っているため。断ろうとしたが、曖昧な言葉は場をかき乱す。適当なものと判断した中年はそのまま車で走り去った。

桜次郎は待つことなくその場を後にした。バックライトの赤い光が見えなくなるまで、トラックを見つめてから。


吹雪は一層に勢いを増し、顔に体当たりを続ける。

その乱れた雪はいつの間にか人間の生活を襲わせるほどのものになり、周りには腐るほどに実ったリンゴのように蠢いていた人たちが、残響も残さずに消えていた。

歩いているといつの間にか、木々がコピーペーストされたような量の木が生えている道についていた。

風が強く吹いて、首に巻いていたマフラーが飛ばされた。




桜次郎は、体温調節が下手な人間だった。全身の機能のバランスが崩れているため、病気にかかりやすい。故に桜次郎はここ数年は常に寒さを感じていた。絶えることのない寒気は桜次郎の精神を蝕み、入院という形で生きることになった。

生活の中で看護師と機械化された会話しかせず、なにか楽しみがあるわけでもなく。口に入れるものは狭まれている。家族はいつしか見舞いにも訪れることがなくなった。体が感じる寒気は孤独によるものではないかと思考することもなかった。

コートがなびき、俯瞰して見た桜次郎は寂しさを感じるようで、なにかに誘われているかのように歩を止めなかった。同じく、吹雪も止まることはない。

決して弱まることのない質量を持ったような風と、依然硬く凍ったような結晶は、桜次郎を包み離さない。雪の精霊が桜次郎を守ってくれているのか、それとも連れ去ろうとしているのか。


そのうち桜次郎は、木々が生い茂る道で、雪だるまを作り始め、雪玉を作りそいつに投げつけた。

桜次郎が経験できなかった雪遊びは一人、夜の一本道で開催された大会だった。その大会は寂しく悲しいものであったが初めての体験、それだけが桜次郎の心を温め、大会と呼ぶに相応しいスパイスだった。


孤独は永遠の時に一時訪れる影であり、その影はいつしか誰かの元に向かい、永久にとどまることは無く。人へ人へと移っていく。見方を一つ変えれば他者から見たときに孤独であろうと、必ずしも孤独は一人だからなるのではない。


孤独とは、心の貧困さがもたらす深刻な人間の病である。桜次郎はそう唱えた、雪玉を雪だるまにぶつけながら。



そして、桜次郎は指先の感覚どころか腕の感覚を失った、指先は白く腫れ、水疱ができている。しかし寒さの感覚はない。桜次郎は外に出た時からずっと、寒さを感じていなかった。立つのが困難になっても投げ続け、投げ終わった後は、また歩を進めた。


桜次郎の目には、雪が積もっていた。


白と黒が混ざり合った夜に、桜次郎は横になった。雪の布団を被せて、吹雪に当たりながら。降り続ける吹雪は、夜空に輝く星たちのようで、桜次郎の目の雪を溶貸した。

どこかでサイレンが鳴り、車が雪をかき分けながら進む音が耳に入った。耳に入りはしたが、鼓膜まで届くことはなく、桜次郎が聞こえるのは風の音と、雪が我が身に降り積もる音のみ。


雪の精霊が、桜次郎の体にそっと乗った。重さを感じることはなく、ただ寝ている人間をソッと眺めている。この際に信じるのは科学ではなく超常的ななにかで、急に目の前に現れた雪の精霊についてのことは、そういうものだと信じて疑わなかった。

ポケットに手を突っ込んで、先ほど拾った雪を精霊に渡した。精霊は礼をすると、それを持ってどこかに消えた。


桜次郎は、死が間近に迫っていることを悟る。どこか遠いところから、鈴が鳴っているような気と、だんだんと感覚が元に戻っていくことから。桜次郎が寒さを感じなかったのは、心がどうでもよくさせたからではなく、最初から、寒さによって感覚がおかしくなっていたからだと、冷静に自身を説き伏せた。


悲しいのか虚しいのかもわからなかった。結局自分の人生は自分の不必要な要素によって潰されることを理解したのか、理解させられたのか。冬の夜に咲く花を見て、目を閉じた。


吹雪はまだ降り続けている、桜次郎を隠すよう、目立たせぬよう。誰にも見つからないように、一人の青年を埋もらせた。翌日、この場の木々にも光を取り付けに来る業者がやってきた。数時間かけて木々に巻き付け、また夜がくると光りだす。

それを撮り、指を差し、あれが綺麗だ、これが綺麗だと言う。そんな人々の後ろで、吹雪はずっと吹雪いている。

やはり、誰も寒さなんて感じていないように思えた。


人々はその灯りに魅了され、喜び、生きる。その場に埋められた命には気にも止めず。まだ吹雪は、誰かの元で、吹雪いている。誰かを誘い、隠し、埋めるために。



吹雪が強く吹く寒き夜、人々は今日も、クリスマスに向けて、せわしなく歩き続けている。

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