第2話 頭はよくないようだ





「--し、」



「--し、--もし」



(ン…?)



「-しもーし?聞こえているかな?」



 沈んでいた意識が浮上して目を開ければ、そこには見知らぬ男が私を覗き込んでいた。



「…だっ!誰!?」



 ガバっと横になっていたらしい体を起こしてその男から数歩後ずさる。


 なにこれどういう状況私どうしたの!?

 キョロキョロと周りを見渡せば、どこかも分からない見知らぬ部屋で、香ってきたイ草の匂いに、自分が畳の上に立っていることがかろうじて分かった。


 どこかの和室なのは分かったけど、どうしてこんなところにいるのかはさっぱりわからない。


 たしか私は、仕事に行こうとアパートを出た瞬間に、何故か深い穴に落ちて、それから…確か、鐘の音が聞こえたんだ。

 いやでもなんでそこからこんなところで寝ていたのだろうか…

 もはや何もわからないけど、とりあえず目の前の男は警戒するべきだ、と私は男を視界にとらえたまま、少しずつ体を出入り口らしき戸へ寄せる


 その間、男は何をするでもなく、ただ窓際の椅子に座りながら、まるで観察しているかのように私をじっと見つめてきた。

 その顔にはなんとも胡散臭い笑みが浮かんでいて、私の警戒心をさらに駆り立てる


 さっさと逃げたほうがいいかもしれない、と背中で隠しながら後ろ手に戸へ触れた時ーー



「…ふむ。君は誰かな?」



 ーー声を発した男に多少驚きながら頭の中で、こっちのセリフだ、と声をあげた。


 なんなんだこの男…

 よく見れば、まるで時代劇みたいな着物を着ているし…、座っている座椅子も隣にある座卓も、なんだか時代を感じるような趣があるし、その手にはキセルのようなものも握られている。


 あんなのまだ日本にあるのか、と一瞬物珍しさに感心してしまった自分の危機感のなさに頭を振って、戸を引こうと力を入れれば

 おもむろに男が椅子から立ち上がり、こちらに近づいてきた。


 ビクッと体が跳ねたせいで手が戸から離れてしまった。


 近づく男の存在に、震えだした体が恐怖を訴えているのに…近づいてくる男から逃げなくてはいけないのに…


 何故だか腰が抜けたように体が動かない。


 成すすべなくその場にペタンと座り込んでしまった私の前に、男は止まると、私と視線を合わせるように屈んだ。



「どうやら君はこの世界の人ではないんだね」



 にっこりと胡散臭い笑みを深めて、そう言った男の言葉に「…ハ?」と私の口から息が漏れる



「まぁ、なんとなく、そんな気はしてたんだけどね。君のその反応と装いで確信が持てたよ」



 なにを言ってるんだこの男は…世界が…なに?


 意味がわからなすぎて、募っていく恐怖心と焦燥感に歯の奥が震える。


 どうしようこの人おかしい…とにかく逃げて、警察に駆け込もう…


 ああその前にここがどこかも調べなきゃ、家から遠く運ばれてしまった可能性もあるし、そうだったらこの目の前の男は誘拐犯でいよいよ危険だ。


 だけど恐怖のせいか、体が思うように動いてくれない…

 これが腰が抜けるということなのか、と気付けば熱くなった目頭から涙が溢れ、私の頬を濡らしていた。


 「そうだね」と男がなにかに納得したように小さく呟いたと思えば、その手が私の震える手を包んできた



「ひっ…は、離して…」

「まずは落ち着こうか。私は君に危害は加えないからね。」

「っ…い、家に帰らせてください。」



 私を誘拐したところで身代金なんて誰がだしてくれようか、と混乱していく頭で叫ぶ。

 もしや夢ではないかと淡い期待を抱いた瞬間に男が否と私の期待を否定した。



「ここは間違いなく現実の中に存在する、『エレムルス』という国の『マナカノ』という町。そしてこの部屋は私が宿泊している旅館の一室」



 どの名も聞き覚えはないだろう?、と私の手を離し座椅子に座り直した男に、私は呆然とする。


 理解が追いつかない。


 夢ではないということすら飲み込めないのに…日本ですらない?そもそも世界が違う?


 それにしては話す言葉は通じているし、男の装いもこの部屋にあるものも、まるで昔の日本のような…時代劇を彷彿させる光景だ。

 でも国名が違うし、タイムスリップしたにしては矛盾が生じる。



「次に、君の世界はどこか聞こうか?私の記憶だと君の装いはスーツというものだと思うんだけど…その装いの世界は…えーと…」



 思い出そうとしているのか、眉間をつまんで考え出した男に眉を寄せる。

 胡散臭いのは変わらないけど、私を騙しているようにも、嘘をついているようにも見えない…でも待って、だとしたら…



「…ここは私がいた世界とは違うんですか?」

「おや、今やっと理解したのかな?」



 頭はよくないようだ、とギリギリ私に聞こえる声で呟いた男に、私の眉がピクリと反応する。

 どうやら私の感情が恐怖と焦りを通り越したらしい、目の前の男に気持ちいいほどの苛立ちしか感じない…。


 固まっていた体がようやく動き、気付けば奥歯の震えも涙も止まっていて…、私の目はジトリと目の前の男を睨む。



「ちょっと思い出せないんだけど、君のいた世界はどんなのかな?」

「どんなって…普通ですよ。世界というか私のいた日本ってところは平和だけど少子化とか、税金とか、汚職とか、小さな問題はたくさんあるような小さな島国です。そんな国で私は小さなアパートで独り暮らししてて、小さな会社のいわゆる社畜というやつで。イヤミ上司に耐えながら日々限界まで仕事をー」



 つらつらと止まらない口が話す内容が、だんだんと聞かれた質問から離れていくのを自覚しながらも私の口は止まらない。

 今まで愚痴をこぼすことなく日々を過ごしていた代償のような…どうやら私はずいぶんと鬱憤が溜まっていたみたいだ。


 男は黙って私の話を聞いていたけど、もはや会社と上司の愚痴しか発しない口を、私はいい加減にしようと無理やり手で押さえこんだ。


 一体なにを初対面の人に、しかも得体の知れない人に長々と愚痴ってしまってるのだろうか私は…



「ごめんなさい。脱線しました」

「うん?まぁ思い出したよ。あの世界だね」



 私の話を聞いていたのかいないのか、リアクションもなにもないまま、キセルに葉を詰めながら頷く男を見つめる


 どこか飄々として胡散臭く、本当に信じてもいいの分からないけど…


 私のいた世界がわかるということは帰る方法も知っているはず、だよね…



 男はキセルを片手に持ちながら障子窓をスッと開けると、サッシに座ってフーっとキセルの煙を外に吐いた。

 煙草のような独特な匂いが私の鼻を掠める。



「この世界はね、君に分かるように説明すると…『悪しき化け物から平和を取り戻すため戦うゲームの世界』…と言った感じかな」

「…はい?」

「舞台は君の世界でいうところの江戸時代が一番近いね」



 見てごらん、と指差した窓の外には、確かに教科書や時代劇で見たような着物を着て往来する人々がいて私は愕然とする。



「嘘でしょ…」

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