マンツーマン

 M子は男を惹き付けた、たとえ本人にその気がなくとも。

 裏アカのカズの一件以降も、M子はちょくちょく野郎どもに声を掛けられては、席を空ける機会が増えた。やるべき仕事は期日までに順調にこなすM子だったので、俺は気に留めないように心掛けた。

 まだ彼女に確認はできていないがM子はおそらくは独身。

 M子はいつしか心惹かれた男に抱かれ、そして結婚をして子供を産むだろう。彼女を射止めた男が財を成す者なのか、しがない低所得者なのか、飛び切りのイケメンなのか、ブサイクなブタ野郎なのか、そんなことは大した意味を持たない。

 男と女が互いに惹かれ合うのは生物学上において当たり前のこと。雄は雌に求愛をして、交尾をして、そして子孫を増やす。何億年も前からずっと、神から植え付けられた自然の摂理に従って、この世の生物は生かされている。M子も周りの野郎どもも、地球上の生物の一端にしか過ぎないのだから。

 だが、それをよしとしない輩も、この世の中には存在する。


「サカウエさん、M子さんの教育はどうなっていますか?」

 四日間の国内出張から戻った上司の戸塚は、斜め向かいの席に着くなり、そう切り出した。ほぼ手ぶらで出社した戸塚からは、出張の土産の品は期待できそうにない。

「M子さんの教育はもう終了しています」冷めた口調で静かにそう答えた。

「終了……ですか?」

「はい、私が教えられることは全て彼女にレクチャーしました。あとは実際に仕事をしながら覚えて貰おうと思います」

「いやいや、それじゃ困るんですよ」

「えっ?」

「マンツーマンで教育を、とお願いしましたよね?」

 戸塚の口調からは明らかにイラつきが漂っている。こうなると戸塚は面倒な上司に変貌して、厄介だ。

「M子さんは一人で仕事を覚えていくタイプの人ではないです。誰かが傍らにいて、一から十まで彼女を指導し続ける必要があります。マンツーマンでとお願いしたのは、彼女の人としてのタイプを見定めてのことですから、守って頂かないと困ります」

 まだ出社前のM子の机に一瞬視線を向けて、戸塚はそう言い切った。昔ながらの封建的な社風がいまだ残るこの会社において、上司の命令は絶対だ。たとえその上司が年下の後輩であったとしても。

 定時を知らせるチャイムが部署のフロアに鳴り響く中、今日も定刻にM子は出社した。

「おはようございます。あ、戸塚さん、出張お疲れ様でした」

「おはようございます。M子さん、ちょっといいかな」

 そう言って、戸塚は出社したてのM子を少し離れたミーティングスペースへ連れ出して、暫くのあいだ二人で話し込んでいた。


 午前の就業時間の終わりを告げるチャイムは、社員が食堂へと向かう民族大移動の号令となる。会社の食堂は手狭で、いつも配膳の順番待ちをする社員の列が食堂の外まで長く続く。

 列に並ぶのが嫌いな俺は、いつも昼休みの前半は本を読んで過ごし、定食メニューが売り切れになるギリギリのタイミングを見計らって食堂へと向かうのが常だった。

 民族移動を終えた部署のフロアに人は少なく、弁当持参の輩が箸で弁当箱の底を突く渇いた音が行き場もなく宙を彷徨う。

 省エネのために休憩時間中は照明が消されるこの薄暗いフロアは、老眼と化した俺の眼から視力を強奪する。文字の認識に難儀しながらも、目を細めて手元の本を読むことに集中した。

 腕時計に目をやり、そろそろだなといつものタイミングで本を閉じて食堂へ向かおうとした刹那、視界に隣の席のM子が映った。本に集中して、彼女の存在には全く気が付かなかった。

「食堂ですか? 私もご一緒させて下さい」とM子に言われて面食らった。M子はここ数日、若手の男性社員に誘われて一緒に食堂へ向かっていたはず。なのになぜ――。

「いいけど……定食が売り切れだったら、売店でパンを買うことになるよ」

「はい、それで構いません」

「……じゃあ、行こうか」

 M子と一緒に食堂へ向かった。彼女は俺の早歩きのペースに歩調を合わせて、ぴたりと後ろを付いてくる。その途中、食事を終えてフロアへ戻る同じ部署の連中と何度もすれ違う。その度に、俺とM子の隊列に向けられる物珍し気な視線が痛い。

 早歩きの甲斐もあって、幸いにも「残り三食」とボードに書かれた定食に二人でありつけた。

 先に食事を終えた社員が立ち去った人気の少ない食堂で、M子は俺の対面の席に座った。首元の第一ボタンが外されたワイシャツからは、美しい鎖骨のくぼみが少しだけ見えている。それをM子に悟られないようにちらりと見て、確信した。その美しいくぼみは俺の推しである証に他ならない。

「戸塚さんから何か伺っていませんか?」

 M子が突然口を開いて、ドキリとする。慌てて視線を一旦自分の定食に落としてから顔を上げて、

「仕事をマンツーマンで教えて、と念を押されたよ」と返事をした。

「はい、なるべく一人で行動せずにサカウエさんと常に一緒に行動しなさい、と戸塚さんに言われました。ですので、昼食もこうしてご一緒させて頂いています」

「あのねえ……はっきり言うけど、君は一人で何でもこなせるタイプだ。いまどきの若い人と比べて優秀な人材だよ。俺がマンツーマンで手取り足取り教える必要なんて、もうないと思うけど」

「そう言われても困ります。戸塚さんの指示は絶対なので……サカウエさんのお邪魔にならないようにしますので、一緒に行動させて下さい」

 俺は「んん」と言葉にならぬ声を発して腕組みをし、眼下の定食に目を向けた。今日のメニューは肉じゃが、品切れ間近だったためか、じゃがいもはすっかり煮崩れして、どろどろの状態で汁と同化し始めていた。

 汁に浮かぶ無数の脂の粒を意味もなく眺めていると、M子は黙って静かに食事を再開した。言うべきことは言いましたので、あとはあなたのマターです、と表明するかのようだ。

 腹を括らなくては。俺はもう一分間だけ、このまま肉じゃがの汁を眺め続けると決めた。


 それからというもの、M子は俺と一緒に行動をし続けた。

 俺が席を立ってほかの部署へ移動しようとすると「同行します」と言い、俺のあとを付いてきた。

 打合せの会議も一緒、昼食も一緒、ちょっとした休憩も一緒、「掲載期間の過ぎたPRポスターを剥がして欲しい」といったくだらない依頼でさえも、彼女は俺と行動を共にした。

 M子は後方一メートルの距離を保ちながら、俺と同じ歩速をキープした。きっと他人からは「二人だけのロールプレイングゲームのパーティー」とでも見えていたに違いない。

 俺が一人になれるのはトイレに行く用事のときぐらいだった。トイレで便器に向けて小便を放っていると、見知った顔が現れて隣に立った。同期入社の山崎健一だった。

「綺麗な女を連れ回しているって噂に聞いたんだが……今日はいないのか」

 ニヤついた顔を向けながら山崎は軽口を叩き、便器に向けてアーチを描いた。

「トイレまで一緒に行動されたら、こっちの気が狂っちまうよ」

「ふーん、羨ましいかぎりだけどな。俺の席の周りはオールドミスのババアばかりだぜ」

 同期入社きってのハンサムな顔立ち、総務課長にまで昇りつめた山崎はオンとオフの使い分けが激しい。性根にある口の悪さが、今後の彼の人生を狂わさなければいいのだが、と余計な心配が浮かぶ。

 山崎に誘われるまま、休憩がてらに屋上へと場所を移した。

 社内の全面禁煙化が進むなか、愛煙家の最後の砦として残されていた大気開放型の屋上の喫煙所。それすらもこの冬に撤去されてからというもの、まだ肌寒い気候も相まって屋上に人気は少ない。

「お前、ソーキそば食うつもりか?」

 山崎にど真ん中の直球ストレートを、いきなり投げこまれた。こんなセンシティブな話を直に聞いてくるのは、同期のなせる技か。それとも只の空気の読めない奴なのか。

「二年後だよな……制度が終わるって噂があるけど、本当なのか?」直接な回答は避けて、俺は気になる噂を山崎に質問返しをする。

「心配無用、早期退職はまだ継続されるぜ。上の連中は組織の若返りを相当願っているらしい、自分らだって十分ジジイなはずなのに。予算が尽きた、って言うのはガセネタだ。長い目で見りゃ、給料だけ高くてコスパの悪い連中に早く辞めて貰ったほうが、将来の資金繰りは安定するだろ? 銀行もその辺は理解しているから、退職金のための追加融資を決めたらしいぜ。で、どうなんだよ、辞めるのか?」

「……決めかねているところだ、辞めたところで、行く先があるわけじゃないし。山崎、お前はどうするんだ?」

「俺は辞めないぜ、絶対に。石に齧り付いてでもここに残る。俺みたいな何の腕も持たない総務野郎なんて、ほかに潰しが効かないから。総務の三つ上の先輩が三ヶ月前に辞めていったけど、アホだよな。何の取り柄もない人だったんだぜ、資産もコネもないだろうし、残りの人生、どうやって生きて行くんだろうな」

「そりゃ、再就職ぐらいするだろ」

「五十半ばを過ぎたジジイの再就職先なんて、たかが知れているぜ。相当自分を安売りしなきゃ、雇ってなんかくれないって。いままでいい給料を貰っていたんだから、プライドだってあるだろうし」

「それを見越して、再就職支援って名目で退職金が加算されるんだろ? 当面の生活は、それで何とかなるんじゃないのか?」

「あんなのはさ、目の前の人参だって。退職金がちょっと増えたところで、そんなの直ぐに無くなっちまうよ。人参に目が眩んで辞めていった奴らのいったい何人に、人生設計ができていたっていうんだ? 俺に言わせりゃ、こんなドミノ退職なんて、会社側の思う壺だよ」

「言うなあ……総務課長の発言とは思えないんだけど」

「そりゃそうさ、こんなこと同期のお前ぐらいにしか言えないよ」

 屋上のフェンス越しに、近隣の街の景色を見下ろしながら、二人でこんな会話を交わすのは何年ぶりなのか。

 バブル経済が弾け飛んだ翌年に入社した俺たちは、当時の経済状況を反映して同期入社は僅かに九名。そのうち三名は転職して会社を去り、一名はメンタル休職が長引いた挙げ句に不祥事を起こして会社をクビになった。残るは俺と山崎を含めて五名だけ。二年後に控えた早期退職で絶滅危惧種認定も目前だ。

「彼女がお出ましだぞ」

 山崎に言われて振り返ると、屋上入口のドアから女が一人、こちらに向けて近付いてくる。

 なるほど、この距離からでもスタイルと美貌が際立っているのだ、と再認識をさせられた。M子だった。そしてM子がいつも俺の一メートル後方を一緒に歩く姿を頭の中で俯瞰して、その光景にぞっとさせられた。

「ここにいらっしゃったのですね。私も会話に混ぜて頂いてもいいですか?」

 一瞬、俺と目を合わせた山崎は「そろそろ会議の時間だ」とわざとらしく時計に目をやり、その場を離れた。別れ際にM子にも会釈と微笑みを忘れないのは、総務課長らしい所作だった。

「どなたですか?」

「同期入社の山崎、総務課の課長だよ」

「そうですか……あの、わたし、お邪魔でしたか?」

「いや、いつまでもサボっていられないから、いいタイミングで来てくれた。席へ戻ろう」

 M子はこくりと頷いて、俺のあとを付いてくる。さっき俯瞰した俺たち二人の光景が脳裏にリフレインして、またぞっとさせられた。

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