イチ推し
中途採用された彼女の名は……いや、ここで氏名を晒すのは卑怯だ。仮に彼女のことはM子と呼ぶことにしよう。
配属初日、戸塚はM子を連れ立って席までやって来た。
M子は綺麗な女だった。身長は百七十センチメートルぐらい、色白でスタイルが良く、ショートカットから覗く顔は薄化粧で凛としている。「聡明な」という単語がぴたりとくる第一印象だった。
着用が義務付けられている会社支給の白い作業上着は彼女には全く不釣り合いで、その下には買ったばかりかと思わせる純白のワイシャツがあった。腰から下へ伸びる細身のパンツがスタイルの良さを一層際立たせた。
「サカウエさん、今日から同じグループとなる、中途採用のM子さんです」
戸塚はM子を俺に紹介した。そして、
「こちらが教育係のサカウエさん、当面の業務はサカウエさんからマンツーマンで教わって下さい」と続けて、俺をM子の教育係に任命した。普段から礼節をわきまえた物の言い方をする戸塚だが、この日の彼の口調からは何か意味深なものを感じ取った。
「M子です。ご足労をお掛けしますが、よろしくお願い致します」
中途採用のM子は社会人としての挨拶は身に付けているらしく、両手を腰の前に重ねて美しい角度でお辞儀をした。五秒ぐらいその角度を保ったのちに静かに姿勢を戻したM子。俺に正面を向けたその顔には見覚えがあった。いや、正確には顔ではない。
頬から顎にかけての輪郭と、緩やかに曲線を描く首筋のライン。薄い唇とそのすぐ右下にある茶色の小さな黒子。そして、いつもはモザイクで隠されている彼女の面差し。デジタル処理が及ばないこのリアルな世界、俺の予想どおり彼女は美しかった。
俺のイチ推しだった。
M子が配属されてからというもの、俺の席周辺はにわかに騒がしくなった。普段は寄り付きもしない若い野郎どもが、ろくに用事もないくせに、俺の隣に座るM子をひと目見ようと席の周りをうろちょろする。
それはそうだろう。「リケ女」とかいうくだらないブームに触発されて、世間に女性の研究者が増えたといっても、うちの部署のフロアに溢れているのは精気盛んな野郎どもばかり。そんな職場にM子みたいな女が舞い降りてきたのだから、野郎どものテンションも上がるというもの。
上司の戸塚からM子の教育係を命じられた俺は、彼女にひと通りの業務を教えた。
普段からさほどの負荷を感じない俺の業務量からすると、M子と仕事をシェアするのは適当ではないから、定例的にこなせる業務はすべて彼女に回すことにした。俺は退職する佐々木さんから引き継ぐ予定の業務と、ずっと後回しにしていた少々面倒な案件に取り掛かる、と決めた。
M子は頭の良い女だった。業務レクチャーを始めると、隣の席のM子は俺に向けて少しだけ椅子を寄せて、業務の説明をする俺の左斜め後方からパソコンの画面を一緒に眺めて、メモを取りながらひとつずつ内容を理解していった。
M子が俺の席に体を寄せてくると、仄かな香りが漂った。それはフレグランスの類ではなく、どこか懐かしさを感じさせる匂いだった。
M子は疑問に思う箇所は臆するところなく、俺に質問を投げ掛けた。
俺にとっては「曖昧でファジー」にしておいた部分を指摘されて面倒だな、と思いつつもM子のA型気質に倣う形で曖昧だった幾つかの事柄を、確定的な事柄へと変えていった。彼女の血液型が本当にA型なのかは、定かではないのだが。
M子とのQ&Aを繰り返しつつ、至近距離で彼女の顔の輪郭や首筋、作業着の胸元からわずかに覗く鎖骨のくぼみを網膜にしっかりと焼き付けて俺は確信した。
間違いない、彼女は俺の推しなのだと。
業務レクチャーを終えた俺は、M子を放し飼いにすると決めた。頭の悪い女だったら暫くの間、付きっきりで仕事を教え込むつもりだったが、その必要性を彼女からは感じられない。仕事を一人で任せてもM子なら大丈夫だ、と判断をした。
自分に正直になれば、M子と一緒に行動することによって生じる野郎どものやっかみを含んだ視線が面倒だった。
「運営管理に人を増やす必要なんてあるのかよ」
「あのオッサン、いい思いをしやがって」
どこからともなく、そんな声が耳に届き始めていたのを自覚していた。人から無益に妬まれるなんて、そんなアホらしいことなどない。
いつものように定時に出社したM子に向かって、俺は言った。
「おはようございます。もうこれ以上教えることはないので、今日からは一人で業務を進めて下さい」
M子は何かを言いたげに少しだけ間を取ったが、すぐに、
「おはようございます、承知しました。今日から一人でやってみます」と言って、俺に向けて少しのあいだ頭を垂れた。今日までの感謝の意を表す、嘘偽りのないお辞儀だった。
放し飼いにされたM子は粛々と、指示されたとおりに業務をこなした。朝は定時に出社して「おはようございます」と俺に向かって静かに微笑みながら挨拶をし、スケジュールどおりに業務を進めて、そしていつも夕方の定時には「お先に失礼します」と会釈をして帰路についた。
だが、放し飼い三日目にして、早くもその業務スケジュールに狂いが生じ始めた。社内の常便室へ荷物を預けに行ったM子がすぐに自席に戻って来なかった。歩いて三分もかからぬ距離にある常便室、まあM子だって休憩はするだろうと、大して気にも留めないでいた。
俺がほかの用事で食堂の脇を通りかかると、その一角にM子と若い男が座っているのが見えた。俺の姿を見つけるや、M子はすぐに助けを求める視線を投げかけた。
M子の対面に座るこの男の後ろ姿には見覚えがあった。営業一課の小林和樹、通称「裏アカのカズ」。
俺の耳にさえ、こいつの悪い噂は届いていた。出会系のSNSに複数の裏アカウントを抱え込み、日々、女遊びに勤しむ二十代後半のキザ野郎。性病検査を月一で受けていると噂の立つ、社内きっての遊び人を自負するコイツに、早くもM子は目を付けられたらしい。
俺に向けてM子は再び視線を投げつけた。
面倒だなと思いつつ、足取り重く二人の座る席に向かう。ほどほどの距離に近付いたタイミングで「おお、M子さん。ここにいたのか」と馬鹿馬鹿しく大声を出した。驚いた小林は振り返って俺の姿を確認するや「じゃ、また連絡するね」と言い残し、その場からそそくさと逃げ出した。
裏アカのカズから救出されたM子は「すみません、強引に休憩に誘われてしまって……」とバツが悪い様子。
「あいつには、気を付けたほうがいいよ。評判悪いから」と、M子に忠告をしておいた。若い男女の間柄に無用な口は挟むまいと思うも、M子は俺の推し。本音をいえば誰にも渡したくはない。
そして勿論、あいつからも、引き離したい。
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