第7話
月曜日。
目が覚めて時計を見てみると、まだ五時一五分だった。
桜は上体を起こし、ベッドの方に目をやった。
――葵がいない。もう学校に行ったのだろうか。
そうであってもおかしくはない。彼女の通う高校は、紅風の家からは近いが、このアパートからは結構遠いはず。これくらい早く行動しなければ、始業時間に間に合わないのだろう。
桜は大きな欠伸をして、頭を掻いた。
「弟子になっても、家で生活してればよかったのに。早起きは苦痛じゃなくても、通学は大変になったでしょ」
「――それは否定しませんが。そんなものは、ここを離れる理由にはなりません。わかっているのでしょう?」
言ったのは、洗面所から出て来た紅風 葵。
驚いた。まだいたのか。鏡でも見ていたか。
――ああ、可愛い。セーラー服が似合っている。
桜が葵に見蕩れていると、女子高生討滅師は首を傾げ、紫色の髪に手櫛を通し、自分の体を見た。
「あの、兄さん……? 何かおかしいですか?」
両手を広げた葵が、桜に問いかける。
桜は立ち上がって、かぶりを振った。
「ううん。可愛いなって思っただけ」
「――っ!?」
葵が両手で頬に触れ、桜に背を向けた。
真っ赤になった顔を見られたくなかったからだが、それがわからなかったので、桜は怪訝な表情をした。
「そ、そうですか。ありがとうございます。――えっと、あの、兄さんは着物やパジャマより、この格好の方が好きですか?」
「えっ? いや、そういうわけじゃないけど。葵は何着てても可愛いから」
「う……あっ……嘘……。――きょ、きょ、今日はお仕事で依頼人さんに会いに行くんですよねっ!? 残念ながら私は付いて行けませんが、頑張って下さいね!」
近くに置いてあった鞄を持って、葵は逃げるように部屋から出て行った。
暫くきょとんとしていた桜は、台所に行って水を飲み、全ての目覚まし時計の指定時刻を変えてから、再び布団に入って目を閉じた。
「……もしかして怒ってたのかな? 可愛いとか言わなければよかった。早く忘れてくれますように」
時間は流れ、お昼を少し過ぎた頃。
桜は依頼人の家の前で、目を見開いていた。
住宅街にあるその建物は、どういうわけか半壊しており、至る所に血が付いている。
警察は既に来ていて、野次馬が大勢集まっているので、辺りは随分と騒がしい。
事件か。事故か。一体ここで何があった。
周りにいる人達の会話を聞きながら、桜が考えていると、狐の面を被った仲介屋兼情報屋が、隣にやって来た。
「遅かったな」
「――なるほど。君がここにいるって事は、妖の仕業だね。雷神だと思うんだけど、違うかな?」
「雷神だよ。何のつもりか知らんがな。状況は最悪と言っていいぞ。ここに住んでいた夫妻は、救急車で病院に運ばれたが、つい先程死亡が確認された。息子は行方不明のままで、彼の寝た切りの祖母も行方不明になっている。雷神が何処にいるかもわかっていない」
「そう。確かに最悪の状況だね。依頼人が妖に殺されてしまうっていうのは、決して珍しい事じゃないけど……何時まで経っても馴れないな。悔しいよ」
落ちこぼれ討滅師が拳を強く握り締めたのを、見逃さなかったいずみさんは、懐から一枚の写真を取り出した。
「しかし其方の仕事は終わった。もう妾もこの件に手を出すつもりはない。ここからはサービスで教えてやるが、雷神は他にも何人か人を殺していてな。警察は近い内に、奴等が信頼する討滅師に声を掛けるそうだ。……だがそれでもと言うのなら、勝手に探すがいい。これは先程警察に無理を言って譲ってもらった、行方不明者の写真だ」
いずみさんから写真を受け取った桜は、そこに写っていた少年を見て、目を丸くした。
この少年を知っている。三日前自動販売機の傍で話した、紅風 桜のファンで妖が好きだと言っていた、よく喋るあの少年だ。
「
「そこまでの関係じゃない。でもこの少年とは一度だけ、話をした事がある。妖が好きだと言っていたけど、雷神に付いて行って行方不明になった可能性は――流石にないか。付いて行っても何もないものな」
桜はいずみさんに写真を返し、彼女に頭を下げてお礼を言ってから、半壊した家に背を向けた。
「必要なかったか?」
「もう顔は覚えたから。この件は警察と、彼等から依頼を受ける討滅師に任せるけど、見付けたら保護くらいは出来るかな」
「見付けたら死ぬ気で救うの間違いだろう? まぁこれが妖の仕業だったら、慎重にやらねばならんぞ。横取りは好かれん。今回は依頼すら受けていないのだ、それを忘れるな」
「わかってるよ」
「ならいい」
狐の面の仲介屋と、桜色の討滅師が、それぞれ別の方向に向かって歩き出した。
数分後、アパートを目指して住宅街を歩いていた桜は、妙な気配を感じて足を止めた。
気配がする方――路地裏の方に目をやると、そこにはなんと行方不明になっていた、橘 悦子の姿があった。
灰色の衣を纏っている、寝た切りだったはずの老婆は、ごみ箱の前にしゃがみ、猫の死体をかじっている。彼女の顔の下半分と両手足は骨だけになっており、目はどちらも外側を向いていて、長い白髪はウネウネと動いている。
あまりに醜い。
あまりに恐ろしい。
桜の存在に気付いた彼女は、猫の死体を投げ捨てて、ゆらりと立ち上がった。
「シニタク……ナイ……」
彼女の言葉を聞いて、桜は理解した。
雷神に襲われた橘 悦子は、死にかけの状態で生に執着し、妖となったのだ。
妖は欲望に忠実である。彼女がこんな所で猫をかじっていたのは、死にたくなかったから――誰かに見付かったら殺されてしまうとか、お腹が減って何も食べなかったら死んでしまうとか、そのような事を考えたからに違いない。
これが今回の行方不明事件の真相か。
橘 康太はこうなっていなければいいが。
桜は路地裏に入り、橘 悦子の近くで止まった。
「シニタクナイ……シニタクナイ……」
「運が良かった。――逃げようとはしないんだね。騒がないからかな? 僕自身が君を殺すとは思わなかった?」
目の前にいる妖を倒す為、討滅師は聖操を使って指輪を刀に変え、それを振り上げた。
橘 悦子が目を見開き、悲鳴をあげる。
桜は瑰麗舞姫を容赦なく振り下ろし、目の前にいる妖を真っ二つにした。
否。そうなるはずだった。
生に執着する妖は、骨だけになった両の手で、振り下ろされた瑰麗舞姫を受け止めていた。
桜の呼吸が一瞬だけ止まる。
橘 悦子は瑰麗舞姫の刀身を強く握り、それを桜から奪い取って、武器を失った討滅師の顎を骨の足で蹴り上げた。
「ぐっ!?」
「シニタクナイィィィィィィ!!」
油断した。
この妖は思っていたよりずっと強い。
ふらふらと後ろに下がった桜は、右手を壁に当てて、左手で口元の血を拭った。
「――何処までいっても生きる為か」
瑰麗舞姫を投げ捨てた橘 悦子が、こちらに背を向けて逃げようとしたので、桜は数歩前に出て死神の力を解放し、彼女の髪の毛を後ろから掴んだ。
ウネウネ動く白い髪の毛を強く引っ張って、妖に尻餅をつかせた死神は、地面に突き刺さっていた瑰麗舞姫を握り、それを横一閃に振るった。
橘 悦子の顔が真っ二つになる。
彼女は倒れたがまだ生きていた。
骨だけの両手足を必死に動かして、死神から逃げようとしている彼女は、しかし少しも前に進めていない。
「人間だった頃の君は、死ぬのが本当に怖かったのだろうけど、ここまでして生きたいなんて思っていなかったはず。だからもう楽になるといい。
桜は橘 悦子の心臓を刀で貫き、彼女が完全に動かなくなったのを確認してから、瞳の色を元に戻した。
「……」
「理性もない。人間だった頃の記憶もない。欲望に支配されただけの醜い生き物。やはり下位の妖は切り捨てるべきだな」
背後から何者かの声が聞こえてきたので、桜は妖の死体から刀を引き抜き、振り返った。
しかしそこには、誰もいなかった。
桜は刀を指輪に戻し、妖の死体に目をやった。
「いろいろとあり過ぎるな。ちょっと疲れてきたよ。ややこしい事にならなければいいけど」
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