海に沈むジグラート32
七海ポルカ
第1話
その日ルシュアン・プルートは一日の勉学の予定を終えると、暇になった。
最近はずっと夜会やら、夕食会やらがあったのだが、先だって王宮に侵入者があってから、しばらくそういう予定が無くなっている。母親である王妃と懇意にしている有力貴族だけが何家族かだけ呼ばれ、夕食会を催したが、今日はその予定もなかった。
今日は母妃は大臣たちと政の会議をしている。
【王太子ジィナイース】はいずれ玉座を継ぐので、政の話には同席してもおかしくないのだが、母妃はあまり会議にはルシュアンを出席させたがらなかった。
ルシュアンを伴うのは、彼が発言を求められない、そういう公の行事だけである。
母妃は「王位を継げば、自然と同席することになる」と言っているが、多分未熟な自分に、大臣たちや有力貴族の前で発言をさせたくないのだろうとルシュアンは思っている。
自分に政の才能なんてないことを、彼はよく分かっていた。でも、無い才能を欲しいなんていつまでも頑張っても、無駄だということもよく分かっている。自分には王位についたあとも優秀な側近や参謀が張り付く。
母妃が今も参謀ロシェル・グヴェンを連れ回すのは、いずれロシェルを王太子ジィナイースの参謀としてつけるためなのである。
(俺はなんの才能もないからな。
剣も上手くねえし。
芸術も分かんねえし。
勉強も出来ねえし)
今日も色んな勉強担当の教師に会ったが、何か猛烈に好きだと思う勉強が何も無い。
よく、教師には「もっと自ずから興味を持ってください」と言われる。
自分で興味を持たなければ、知りたいという気持ちが湧いてこない、それでは自発的に学ぼうと思えず、覚えも悪くなるのは当然だと、彼らは言い方は違えど、みんなそう言った。
(興味を持てって言ってもよ……)
ルシュアンは窓辺から王都ヴェネツィアの城下町を眺めた。
夕暮れ時。
城下町には明かりが灯り始めている。
あれが自分の国で、自分の街ですよ、と言われても彼には何の実感も湧かなかった。
時々城下に行ってみたいと思うことがあるけど、いつも「貴方はたった一人の王太子なのだから、色々な人間がいる城下町などに出て何かあったら大変だ」と母妃が禁じてきた。
ルシュアンはだから、城下町に出たことはない。
馬車で走行したことは何度かはあるが、実際に馬車から降り、街を歩いたことはないのだ。彼の場合、そうまで禁じられると「余計気になる!」と思うほどの気力が湧いてこない。なんでも「ならいいよ」で諦めてしまうのだ。
本当に何も興味が無いのだ。
王になるから勉強はしなくてはならない、それくらいの理屈は分かるからやってる。
多分王にもならなかったら勉強すら、しないだろう。
(あの街に住む奴ら、全員が、何かに興味を持って毎日生きてたりすんのかな)
街には色々な店がある。
店の人間は全員、その店に興味があって、仕事にしたのだろうか?
やらなきゃいけない使命に興味が持てない人間は一人もいないのだろうか?
考えたくもないことを、ぐるぐるとずっと考えている。
煮詰まって、ルシュアンは部屋を出た。
広い王城。
それでも行きたいと思うような場所は驚くほどない。
部屋にはいたくないけど、一人になりたい。
しかし本当の意味でルシュアンが気兼ねなく自由になれる場所は少ないのだ。
何度かそういうことがあったからかもしれない。
自然と足が向いていた。
王城でも最も端の小さな庭だから、いつも人気がない。
そこに歩いて行くと、何度か見た姿がそこに無いことに、自分でも意外なほどがっかりしてしまった。別に、いるかなと思って来たわけではないけど。何度か、休憩中に煙草を吸いながら一人で湿地帯の方を見ている姿を目撃したことがあるから。
(まあ、そうだよな。あいつも別に暇人ってわけじゃないもんな。いつも休憩してるわけじゃないよな)
ふと、そういえば新設された近衛団の団長だから、隣接した騎士館の方にいるのかもしれないと思った。イアン・エルスバトが王宮に来るのは、王太子ジィナイースが公の行事として現われる時の護衛としてなのだ。だから彼は普段はこちらにはいない。
きっとそうに違いないと思って、やることも無かったルシュアンはフラフラと、一度も行ったことのない騎士館に行ってみるかという気になった。
王宮の南。本城から裏門をくぐって行くことも出来るが、城壁伝いに回廊が通ってもいる。
(子供の頃から住んでるけど、こんなとこ来たことねえや)
小さい頃はいつもお付きの人間がいて、今よりももっと口うるさかった。そっちには貴方が見るべきものは何もありませんよ、などと端から行こうとした場所を遮るからだ。
ルシュアンが騎士館へ続く回廊に向かうと、入り口のところには見張りがちゃんといた。
話をしていたが、ルシュアンが現われると少し驚いた顔をする。
敬礼をした。
「殿下。どうなさいました?」
「あぁ……、ちょっと散歩がてら……騎士館の方見に行ってもいいか? ……そう、新設された近衛団があるって聞いたから。ちょっと見ておこうかと」
「ご案内しましょうか?」
それは初めておもむろに王太子がそんな風に現われたら驚くのは当然だが、見張りは声を掛けてくれた。しかしルシュアンは首を振る。
「いや、いいよ。ちょっとふらっと見て来るだけだから」
大仰に案内なんかされて、王太子が珍しく現われたなんてまた大事になったら面倒臭すぎる。ルシュアンは本当に、何となく見たいだけなのだ。思いっきり不思議そうな顔は見張りにされたが、ルシュアンは足早に回廊を歩いて行った。角を曲がると、ようやく視線を感じなくなって息をつく。
この回廊はそのまま、騎士館の周囲を囲む城壁へと続いている。回廊の途中、右手には王家の森が続いているのが向こうに見えた。王家の森の入り口にも巨大な門がある。
そしてその遥か先の空に、今日も霧に包まれて全貌が見えない【シビュラの塔】の不気味な影が、暮れ行く夕陽の中に見えた。目を反らすように立ち止まっていたそこからまた歩き出す。
正面に騎士館の入り口が見えてきた。階段があり、そこを降りれれば敷地に入れるのだ。
ただ城壁は更に続いていたので、ルシュアンは降りず、城壁の上の回廊から様子を見ることにした。
すでに敷地には篝火が焚かれている。
――と。
不思議な光景がそこに広がっていた。ルシュアンは思わず立ち止まる。
騎士館の前の広場、普段演習などが行われているのであろう場所に、船がどんと座っていたのだ。ここは陸地である。一体どこから運び入れたのかは分からないが、まるで演劇をする舞台のように、大広場に大型の船がある。
騎士館らしい、金属音と、男たちのどよめきと歓声。船の周囲に騎士たちが集まって、何かを見ている。状況は訳が分からなかったが、何を見ているかはすぐに分かった。
本当に、あの真紅の軍服はヴェネト王宮では見慣れず、目を引くのだ。
船の上で、近衛団の軍服を着た何人かと、イアン・エルスバトが剣を交わして戦っていた。模擬戦、というものだろうが、それにしても大がかりだ。
船の上と言っても一般的な船の上に置いてあるような木箱や縄や、そういうものも芸が細かく置いてある。
陸地といえども足場のあまり無い船の上をきちんと再現されていて、どうやら、船の上の白兵戦、という状況を作っているらしい。
イアンが剣を合わせた相手の剣を跳ね上げた。
近衛隊は六人いるが、船の上で苦心しているようだ。
振り回す剣が船の壁に当たったり柱に当たったりもしているし、狭い通路で味方と、どっちが先に行くかで迷ったりもしている。
対するイアンはこの複雑な船の上の足場を、楽しんですらいるような足取りで、木箱に飛び乗ったり帆柱を盾のようにして敵の剣を交わしたり、何より、彼の剣は周囲のものに一切当たっていない。
狭い場所では剣を後ろから振り上げ打ち下ろすような動きをしたり、鋭い突きで仕留めたり。サッ、と空間が開くと、その瞬間大きく円を描くように剣撃が広がる。
船の上に焚かれた篝火が、彼の剣の動きをなぞるように輝かせた。
ルシュアンは剣のことは全く分からない。
一応習ってはいるが、本当に型どおり、一応基本的な扱いだけだ。
それでも、決して目立つ赤服を着ているからではなくイアン・エルスバトの剣だけ「違う」ことがちゃんと分かった。
置かれた樽を踏み台のようにして船の縁に身軽に飛び上がった。
風が通り過ぎ、赤い軍服の長い裾を捲り上げる。
突然相手が目の前から消えて、驚いて上空を見上げた近衛兵の手から、跳躍した空中からイアンは剣を跳ね飛ばした。跳ね飛ばされた剣が甲板に転がる。
数秒の沈黙のあと。
船の上階部から見下ろしていた騎士たちが拍手と歓声を上げ、船の周囲で見守っていた騎士たちも一拍遅れてワッ、と盛り上がっている。
イアンは相手をしていた兵たちに、身振り手振りで剣の操り方を二、三助言したようだ。
笑い声が聞こえる。
今日の模擬戦はこれで終わったらしく、解散の指示が出て、騎士館の方に引き上げていく者たちもいたが、イアンは船の上にいて、上階部から見下ろしている騎士たちと何かを話しているようだ。どちらの顔にも笑顔があり、楽しそうに笑っている。
イアン・エルスバトに王太子の近衛隊を率いらせることになったのは、武勲の誉れ高い軍人だからだと、ルシュアンは参謀ロシェルから説明を受けている。若いのでそんな風には見えないが、彼はすでに国では輝かしい戦歴を持っている武人なのだそうだ。とはいえ、ルシュアン自身、王太子だからといって、お膳立てをされて実績を作ったりすることはあることを知っているので、あまり本気にしていなかった。
彼は王位継承権からは遠いがスペイン王国の王族の一人だから、きっと自分と同じように立派な戦歴がつくよう、周囲がお膳立てしたのだろうなどと思っていたのである。
(なんだ本当に強いんだ、あいつ)
驚いた。
ぼけーっと煙草吸いながら休憩してたのに。
ヴェネトは明確な軍隊を持っていない。
近衛や、守備隊の規模だ。
ルシュアンは生まれた時から王城にいて、城にはそれを守る兵士がいるのは当然だと思って生きていた。彼らは強いのだろうと漠然と思っていて、興味も持ったことがない。
他人の剣技を美しいなどと思ったことは初めてで、驚いた。
剣なんか、強いか弱いか、そのくらいだと思っていたのに。
イアン・エルスバトの剣は他の兵と明らかに違った。上手いのは分かるけど、それだけじゃない。剣技に美しいとかあるのか。
ルシュアンは初めてその日、知った。
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