川沿い
見おろされていたのは、私だった。
瞬きをする。
由理さんはまんじりもせず、私のそばに正座していた。
目があうと、彼女は口を開けたり閉めたりしてから、
「大丈夫ですか」
と、聞いた。
階段から落ちた瞬間の記憶が頭をよぎる。
体を起こすが、どこもさほど痛くなかった。
「大丈夫です」
「それならよかった。病院へ行ったほうがいいと思いますけれど、どうしましょう。車を出しましょうか」
「いや、全然痛くないので本当に大丈夫ですよ」
「そうですか。ああ、もう夜中ですけれど……おなかすいてますよね。さっきろくに食べられなかったから」
「ありがとうございます」
あまり頭が働かなかった。
周囲を見わたす。静かだった。
「ナツミは?」
「どこかに行っちゃいました。たぶん帰っちゃったのかと」
「……そうですか」
私は気を失うまえの騒ぎを思いだし、
「由理さん、さっきのことですが」
と、声をかけた。
しかし彼女は聞かないふりをしているのか、逃げるように台所へ行った。申しわけなく思い、それ以上言葉をかけられなかった。
「少し外の空気を吸ってきますね」
そう声をかけ、携帯だけ持って外へ出た。
庭は真っ暗で、青臭い草の匂いがした。
私はからっぽになった倉庫をのぞいた。
土ぼこりが舞っているだけで、もうなにも入っていない。
奥に進み、棚を背にして座った。
風が吹き、扉が音を立てながら少し閉まる。
床をななめに横断していた光が狭くなり、私の座っている場所は、ほとんど暗闇になった。
そのため目を閉じなくても、足元に転がっていた女性の肉体を思い浮かべられた。
魂に投げ捨てられたようだった。
見たことがないのに、彼女が自信ありげに歩く若かりしころの姿や、中年になって衰えたあと、祖父の絵を見てほほえむ顔がすぐに想像できた。
息苦しさを感じて、口元をおおった。
携帯を取りだすと、液晶の強烈な光が目を刺した。
祖父の名前を検索する。賞の受賞歴、展示の知らせ、その類の結果が、五、六件並ぶ。
それだけだった。
うなだれて倉庫を出る。
足が家に向かわなかった。庭からは浴室の出窓が見える。ここから窓の中は見れないが、視界に入るだけでも目眩がした。
私は庭を出て、坂をのぼった。
五分ほど歩くと、だれが住んでいるとも知れない古びたアパートにつく。
雑草が生え放題の駐車場を突っきり、裏手に回ると、やはりそこだけガードレールが切れていた。携帯のライトをつけて、あたりを照らすと、狭い階段が見つかった。
階段を降りていく。光に羽虫が群がり、手に止まった。
小さな羽が玉虫色に光り、すぐ暗闇に飛んで溶ける。
川が近づいてきた。ぼんやりした薄暗がりに、水面だけが帯のように光っている。
最後の一段が少し高くなっているので、私は砂利にそっと足を下ろした。子供のころは、ジャンプで降りていたことを思いだす。祖父も私の真似をして、膝が痛いと笑っていた。
携帯を握ったまま、両手で顔をこする。
ここは祖父のお気に入りの場所だった。
あのころは目的もなくこの場所へ来ていた。砂利の中にある綺麗な石を探したり、観光客の落し物や生物を見つけて遊んでいた。
祖父は、いつも私の数歩後ろを歩いていた。私が川に近づきすぎるとたしなめたが、それ以外は友達のように話した。
なぜ、あのころの私は、あれほど祖父が好きだったのにも関わらず、川の生物や面白いものにばかり興味をひかれ、肝心の祖父について知ろうとしなかったのだろう。
今更だ。祖父は死んだ。なにもかもが終わってしまった。
そう思うと、本当に嫌になった。
嫌でしかたがなくて、携帯を川に向かって振りかぶった。指が画面から離れかけたタイミングで機体が震え、飛びあがりそうになる。
ほぼ反射的に電話に出た。
「省吾さん」
由理さんだった。
「ごはん、いらないんですか」
「いや……」
「それならそうと言ってくれないですか。もう温めなおしちゃいましたよ。もう一回温めなおしたら、もっと不味くなりますよ。もう温めなおしませんよ」
「すみません」
「どこにいるんですか」
私は、あたりを見わたした。
どこにいるのだろう。
「さあ」
由理さんは黙った。怒らせてしまったかと思い、
「散歩していて」
と、言いわけをする。
すると意外にも「私がナツミさんを殴ったから、怒っていらっしゃるんですね」と悲しそうな声がした。
「でも、許せないじゃないですか。省吾さんのことを殴るなんて、ひどいですよね」
「まあ、ひどいですけれど」
「でしょう? あんなことで怒って、ぎゃあぎゃあ泣いて……まあ、それはいいですけれど。人間ね、そういうときもありますから」
由理さんは、自分もナツミを追いつめて殴ったことなど忘れたように、神妙な口調で言った。
「私もヒステリックになるときや、自分で制御がきかないときがあるので、ナツミさんのこと、わかりますよ。私も失礼なことを言っちゃったから、たぶん不安定だったんですよね」
「べつに由理さんはなにも悪いことしていないですよ」
「ううん」
彼女は唸った。
「それならいいですね。まあ怒っていないですよ、私は。だから省吾さんも許してあげてください、ナツミさんを」
一瞬、言われていることが理解できなかった。
いったい、なにを許さなければならないのか、わからなかったのだ。的外れなことを言われているような不思議な気分だったが、徐々に気づく。
これまで、すべてを他人事のように感じていたのだ。
殴られることは、私にとってさほど重要な出来事ではなかった。あれらは通過儀礼であり、私たちがちゃんとした恋人関係でいるために必要な行為だと思っていたのだ。
そこまで流れるように考えて、声をあげて笑ってしまった。はたから見たら、真夜中に川ぞいで笑っている変人だと思うと、より奇妙で面白かった。
しばらく笑った。
そうしていると涙が出てきた。
「どうして、許してなんてやらなきゃいけないんですか」
「どうして?」
体が笑いの発作で焼け落ちそうだった。
手が勝手に震えていた。口が止まらない。
「許せるわけがないですよ。ずっと、昔から許せないんですよ。でも、なにもできないんだ。今さら文句も言えないし、やり返すこともできないし、でも嫌いなわけじゃないし、そうしていると何度も何度も痛いし苦しいし、もうこんなやつ死んでしまえって思うけれど、そんなこと思うだけで、実際にはずっと鬱々と恨むだけで」
「許せない?」
私はうなずいた。
「それは、ナツミさんのこと?」
左耳のそばを、ブン、と虫が飛んだ。
驚いて悲鳴をあげ、バランスを崩す。左足だけ川に突っこむ。浅瀬なので靴の半分ほどしか沈まなかったが、飛沫が服と手を濡らした。
息をついた。水の流れる音が大きく聞こえた。
「じいちゃんはどうして」
「はい」
言葉が出てこなかった。
沈黙が続く。息が苦しくなる。胸をさすりながら向きを変える。右足も川に突っこんでしまった。靴からじわじわと水が染みこみ、足が冷たくなる。
その場に座った。砂利が尻に食いこんで痛んだので寝転がった。
なぜか、祖父に預けられた日を思いだした。
坂の上で、祖父が私の横に座っている。私と同じ背丈になってくれたのだ。母の背中が小さくなっていく。ふたり並んで見送っている。
「わかんない、ぜんぶです」
私は言った。
「ぜんぶ、許せない気がする」
「おじいさまのことも?」
「うん」
「そうですか。まあ、それはそれとして、おなかすいたと思うので帰ってきてください。本気で冷めるので」
電話が切れた。
空を眺める。
東京よりは綺麗だったが、学生のころに、長野県の高原まで行って見た星空とは比較にならない。この場所は、しょせん、そんなものだ。そうか。それはそれとして。
腹が鳴った。私は立ちあがった。
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