浴室

みけろくろ

帰省

 私と祖父は、浴槽で向かいあい、窓の外を見つめていた。

 想像していたのだ。

 箱根山から吹きおろす風の音、黒々しい夜。正体を知らない生き物の声。

 浴室の電球の下に収束する、午後九時という時間。


「省吾には未来があるね」


 ふいに祖父が言った。

 その言葉は優しく聞こえたが、小学校四年生だった私は淡い不快感を覚えた。

 未来という単語が嫌いだったのだ。

 大人が好んで使う言葉というイメージだった。未来、希望、友情、信頼、その他諸々の、体育祭のスローガンに採用される言葉は、一様に嫌いだった。

 ペガサスについて真面目に語られている気分になるのだ。

 羽の生えた白い馬を飼育する環境や、エサや、乗り方について大人が議論しているのを見ていると、社会の基盤の弱さを見せつけられているような絶望感がある。

 言語上で存在するだけの生物は、私にとってなんの役にもたたない。

 つまり未来も、役にたたないものだった。

 だが私は、その虚しさを言葉にしなかった。祖父が好きだったので許すことにした。

 そして未来のなにがそんなに良いのだろうかと聞いたのだ。


「未来があることは、それだけでいつも素晴らしいよ」


 祖父の大きな両手が湯をすくった。揺らぎが手のひらに広がった。

 そのしわだらけの両手に、未来を想像する。

 そちらのほうが、ずっと素晴らしいから。

 狼のように森を歩く。鳥のように空を飛ぶ。太陽は猫の目で見つめ、和毛を嗅がせようとする……魚のように空を泳ぐ。

 祖父の描いた動物が教えたのだ。

 彼は画家だった。






 私は目を覚まし、窓の下枠に蝉の死体を発見する。白い腹もガラスの羽も、見えない両目も透けている。猛暑を予感させる光を、体いっぱいに浴びている。

 掛け布団をはぎ、息をつく。

 よく通る女性の声。祖父の笑い声。

 私は立ちあがり、二人のいる台所に向かう。

 廊下には、空気の糸が舞いあがっている。階段を降りると声は少しずつ大きくなる。居間を通りすぎて食卓へ向かうと、すでに朝食の用意がされている。

 青磁の小さな器にうずくまる納豆。大きな白い皿に厚く切ったハムと、きゅうり、ミニトマトが乗っている。昨晩焼いた鯖の余ったものと、なめこと豆腐の味噌汁の手前に赤と黒の格子柄の箸が置いてある。

 いただきます。

 両手をあわせ、三人そろって箸を取る。

 朝食のあと、私は醤油皿に鯖のかけらを取って外に出た。家の前はコンクリートで舗装された坂になっている。野良猫にエサをやりたかった。

 坂をトラックがのぼってきた。

 運転手の正体は見えない。車体は汗をかき、足元に黒い跡を残している。

 その跡を辿りながら、小さな女の人がやってきた。

 そうだ。これは母が迎えに来た朝の記憶だ。






 私は母のように、坂をのぼった。

 着ているTシャツが汗で張りつく。

 ガードレールの向こう側、崖の下に早川が流れているため、涼しさの香りが微かにするが、日本の猛暑そのものである湿度はいっそう高まっている。

 私は、巨大なリュックサックになかば潰されかけながら、空の水色と、坂に敷かれたコンクリートの灰色で、上下に分断されたこの景色は、永遠に変わらないのではないかと疑っていた。

 大人になり体力が衰えた。昔は坂など存在しないように駆けまわっていたのに。

 やがて、坂の頂点に見慣れた家が見えた。

 石垣の中から、だれかが出てきたかと思うと、突然、顔に水がかけられた。

 私は驚かなかった。

 前髪と眉毛、まつげから水が垂れて、目の中に入った。

 視界のピンク色と青色がゆがむ。それは彼女の着ているサマーニットの色と、右手に握られた青色のホースの色だった。

 顔を右腕でぬぐうと、水の温度はすぐにぬるくなり、首元に居座る水滴だけが、襟の中から乳首の横を垂れていった。

 私はとっさにTシャツの胸のあたりをつかんで、中の水滴をこすりとった。その動作が急に恥ずかしくなり、頭をさげる。


「由理さん、おひさしぶりです」


 考えていたわけではないのだが、想像よりかしこまった言葉が出た。

 小鼻の横を水滴が流れ落ちていくのを感じた。

 今の自分が想像以上に格好悪く、昔とさほど変わらない鼻たれであることは、彼女に隠せないのだろうと思い知らされている気がした。

 彼女は、塀の中にある蛇口の栓をひねって止めてから、私を見た。

 今年六十三歳になるはずだが、若く見える人だった。明るい茶髪のボブヘアにパーマをかけていて、ピンク色がよく似合う。

 こちらを見つめる視線は、少しこわい。そんなところも、あまり変わらない。

 由里さんの足元に、小さな水たまりができて、空がうつっていた。黄色いビニールサンダルが、容赦なく踏みつけた。


「なんで今来るんですか?」


 彼女は怒っていた。


「あれ、すみません。でもお昼には行くって電話で言ったような」


「お昼ってお昼すぎのことじゃないんですか」


 私は頭をかいた。すみません、とつぶやく。


「省吾さんのお昼ごはん、ないですよ。どうすればいいんですか」


「べつにいいですよ。適当に食べるので」


「いいえ。このあいだ、お中元で貰ったハムがありますから食べてください」


 彼女はまくしたてた。


「それと今日夕飯用に浸けていた唐揚げも、たぶん食べられます。こういうとき、おじいさまはお魚のほうが好きでしたけれど、省吾さんはお肉好きで助かりますね。補填がきいて」


 由理さんは話しながら、早足で家へ向かった。

 話を聞かない性格も昔通りだなと、そう思いながら後をついていく。

 祖父の家は二階建てで、小さな倉庫が横についている。漆喰の壁は薄汚れてあちこちに黒いひび割れがあるが、築年数の長さを考えれば綺麗な家と言えるかもしれない。元々、とある会社の保養所として建てられていたため、一般宅と比べれば広い家だ。

 この家を、長いこと由理さんが一人で切り盛りしている。

 玄関の横に花壇があり、すでに茶色くなった紫陽花がしぼんだ花弁を私たちに差しだしている。由理さんは茶色の花びらを乱暴にもぎとってから、扉を開けた。

 玄関には窓がないため、薄暗く、寒々しい。

 左側の靴棚に、懐かしい水色のモズの絵が掛かっていた。

 祖父はこの絵を「優しいために死んだモズの絵」と呼んでおり、由理さんは「早贄が世界一上手いモズ」と評していた。

 私はこの絵のせいで、長いあいだ、この水色の鳥が実在すると信じていた。

 こうした誤解を、なつかしく思う。

 田舎の埃の香りがする。乾いて水気の全くない死が、家の壁や窓の淵、床下から匂う。

 廊下が奥に伸びている。手前に螺旋階段があり、右手に洋風の扉、左手に引き戸がある。戸は縁側に繋がっていて、かつて祖父が使っていた和室がある。

 私は由理さんに続き、右の扉に入った。


「あいかわらずですね」


 私はつぶやいた。

 本当になにも、昔と変わっていない。

 そこは広い居間兼応接室となっており、庭に面した大きな窓のある明るい部屋だった。

 問題は壁を埋めつくす動物の絵だった。

 彼らはカラフルで、派手で、祖父には悪いが、悪趣味な色をしていた。

 統一性のない額縁の中に一体ずつ住んでおり、ソファに腰かける人間を、じろりと見下ろす。外界から侵入する日差しを受けて、ひとつのジャングルを形成している。

 それらを、子どものころ、どのような心持ちで眺めていたのか。私には思いだせなかった。

 今の私にとって、彼らはただ奇妙だった。電車の扉の端に電柱のように立つ、ひとりごとの激しい乗客のように。私は彼らを遠巻きに気にした。

 しかし、昔は彼らを友達のように思っていたのか。過去がぐちゃぐちゃに姿を変える。私は彼らを親友として扱い、自らの想像の糧として愛していただろうか。 

 由理さんは居間と繋がっている台所に入り、


「昔と変わらず、すてきな部屋でしょう」


 と言った。

 なにも答えないでいると、冷えた麦茶をテーブルに置いてくれた。


「そうして座っていると、おじいさまの気持ちになります?」


 由里さんは優しい声色で聞いた。


「いや、そうでもないですね」


「私はたまになりますよ。おじいさまは、きっと愛しい動物たちのことを考えていたのです。例えばそこのキリン。このキリンの気持ちになって考えるのです。栄養失調のせいで青いのか、大切なことを物忘れして青いのか」


 時計の横に、首の地の色は瑠璃色、斑点模様と目は白で塗られた、巨大なキリンがいた。影が薄い朱色で、赤い涙を流しているように見えた。

 私には絵心や感性というものが、悲しいほどに存在しない。


「青は青じゃないですかね」


 などと、余計なことを言うと、由里さんはこちらをふりかえった。


「省吾さんはそう思うのですか?」


 口をつぐむ。絵の話題となると彼女の話は長い。

 小学四年生の春に私は祖父に預けられたが、そのときすでに由理さんはこの家に住みついていた。

 彼女は箱根で生まれ育ち、強羅にある大きな温泉旅館で働いている。

 祖父いわく、気づいたときには家にいた。家政婦のような、家事手伝いのような、不思議な存在だった。家族との折り合いが悪く実家に戻りたくないので、この家に住みついているのだ、とこれは由理さん本人から聞いた。

「あなたのおじいさまは神様なのですよ」と、家に預けられた当初、由理さんは事あるごとに言った。彼女は祖父の信奉者だった。

 由里さんいわく、高校生のころ、彼女は美術部に所属していた。夏休み、先生に引率されて行った東京の展覧会で祖父の絵と出会った。


「魚の絵でした」


 由里さんは、わざわざその絵を人さし指で描いた。私に見せるためではなく、今この場にない過去の記憶、その魚に触れるためのようだった。


「死んでいました。傷だらけの魚の絵。でも綺麗でした。怪奇趣味とか、耽美主義とか、そういうのとは違って、なんでしょうね。すごくどっちつかずな、明るくも暗くも感じとれる絵でした。このような絵を描く人が世間に居るんだって思いました。省吾さんに想像ができますか?」


 由理さんの熱意は理解できなかったが「その絵が見たい」と言った記憶がある。


「そうですね。私も、もう一度見たいです。でも見られないんですよ」


 その魚の絵は、祖父が誤って捨ててしまったのだそうだ。

 そう聞いて、子供心に祖父らしいと思った。

 呑気でおおらかで、そそっかしい人だった。


「でもいつか、もう一度描いてくださるかもしれませんね。省吾さんのために」


 由理さんは期待をこめた口調で言った。

 私も同意した。

 祖父は私のためなら、なんでもしてくれるだろう。そんな無意識の自信があった。

 魚の絵を描いてくれるだろう。いつも私を一番に考え大好きだと言ってくれる祖父であれば……そう考えていた。

 しかし、その願いを伝える前に、私は母親の元へ戻ることになった。

 祖父の家を出た後も、由理さんは頻繁に連絡をしてくれた。私が成長し返事が遅くなっても、それは変わらなかった。

 祖父の逝去を知ったのも彼女からの電話だった。

 五年前、祖父は九十歳を手前に亡くなった。心臓発作が原因で、家のソファで静かに死んでいたらしい。

 慎ましい葬式が行われ、家には由理さんが住みつづけた。

 祖父が亡くなった年に私は就職し忙しくなった。箱根に来たのは、葬式以来だ。


「ヘルメット、持ってきました?」


 由理さんは、突然そう聞いた。


「持ってきていないですよ」


「倉庫、相当ガタが来ていますから。危ないかもしれません」


「さすがにそんな、いきなり崩れたりはしないでしょう?」


 私は笑ったが、由理さんはニコリともしなかった。

 今回、私は老朽化した倉庫の片付けのために箱根を訪れた。一ヶ月前、由理さんから電話がかかってきたのだ。倉庫にシロアリが巣を作っており、崩落の危険があると業者に言われたらしい。中には祖父の画材や絵が大量に保管されているため、盆休みを控えていた私は片付けの手伝いを申しでた。


「省吾さんも疲れているでしょうから、とりあえず掃除は明日からにしましょう。今日はゆっくりとおじいさまの作品を眺めていてください」


 由理さんは勝手に決めると、あれを食べるか、これを飲むか、などと世話を焼いてくれた。


「汗まみれなので、シャワー、貸りてもいいですか?」


「この家は省吾さんのものなので、貸すものはなにもないですよ」


 私は礼を言い、タオルの場所を教えてもらってから階段を上がった。階段を上りきった正面に出窓があり、山並みと青空が見えた。

 左手の廊下に四つ扉が並んでおり、一番手前の扉が浴室である。

 扉を開ける。

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