春を待つ君に

しばふなぎ

第1話 春風の招く席

夕方の図書室は、春の風がそっと吹き抜けていた。

開け放たれた窓から漂う桜の香りが、静まり返った空間を優しく満たしている。

カーテンが揺れるたび、淡い陽射しが床に反射し、光の模様がゆっくりと動いていた。


最近、新しい自習室が別棟に作られたことで、図書室を訪れる人はめっきり減った。

その静けさが、僕にとっては心地よかった。

机に置いた手のひらの冷たささえも、この空間に馴染むように感じられる。


校庭の桜は今が見頃だった。

窓から見える枝先は満開の花を咲かせ、風に揺れるたびに淡い花びらが図書室のすぐそばまで舞い込んでくる。

その光景をぼんやりと眺めていると、時間がゆっくりと流れていくようだった。


「その本、面白い?」

柔らかい声が耳に届き、僕は驚いて顔を上げた。


そこには、一人の女子生徒が立っていた。

肩までの髪が夕陽に照らされ、優しい光をまとっている。その瞳は穏やかで、控えめな笑みが浮かんでいた。


「……まだ読んでいません。ただ、気になって手に取っただけで。」

戸惑いながら答えると、彼女はふっと微笑んだ。


「そうなんだ。」

彼女の声は静かで、図書室の空気にすっと馴染んでいた。


「私は深澤美咲。よろしくね。」

彼女が胸元の名札を軽く指差すと、青い文字が夕陽に照らされてきらめいた。三年生の先輩だ。


「羽田誠です。」

僕が名乗ると、彼女は「よろしく」と小さく頷いた。


そのとき、窓から一枚の桜の花びらがふわりと舞い込んだ。

花びらは彼女の手元に落ち、指先に触れると机の上に滑り落ちた。


彼女は花びらをじっと見つめ、そっと指先で撫でるように触れた。

「どこから来たのかな。きっと遠くから、ここまでたどり着いたんだね。」


その言葉に、僕は何も答えられなかった。

けれど、その静かな声と、花びらを見つめる彼女の仕草に、どこか心が温かくなるのを感じた。


その後、彼女はふっと立ち上がった。

「またね、羽田くん。」


彼女は窓の外に目を向けながら、静かに図書室をあとにした。


彼女が立ち去った後も、机の上には桜の花びらがひとつだけ残っていた。

僕はその花びらを指先でそっと摘み、窓の外に吹き返した。

空高く舞い上がる花びらを見送りながら、僕はどこからかやって来たその花びらに、彼女の言葉を重ねていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る