異表記――異世界から帰ってきたら幼馴染(男)が成長していた話

似而非

第1話

 異界のトンネルを潜った。その先は、夜半の冬だった。気付いたとき、おれは雑踏に立っていた。肌寒い。細かな雪が、宙に散らつく。仕事帰りとおぼしい会社員や家族連れで、街は日常の経済で賑わっていた。ここはどこだろう、と考え込むまでもなく、生まれ育った地方都市の一角であることが理解できた。視界の片隅に、年下の幼馴染とよく通った玩具店があって、窓越しに陳列された派手なサンタクロースの人形が目についたからだ。どうやら、クリスマスシーズンの最盛であるらしい。

 帰って来たんだ……!

 現代的な街の彩りに促され、感懐めいたものが、おれの心理を激しく揺さぶった。いまは何もかも懐かしく感じられそうで、街角のすべてに親しげな挨拶を交わしたいくらいだ。しかし、高揚もそこそこに、まず現状の把握に努めるべきだろう。それは「向こう」で培われた習い性といえるものだった。おれは、ついつい弛緩しそうなる表情筋をひき締めた。

 風貌は勝手知ったる、高校指定の制服だった。マフラーを巻いて、リュックサックを負っている。スニーカー履きで、外傷も無い。良かった、何もかも、あのときのまま……

 突然、横合いから、甲高い警笛が鳴った。停止していたトラックの脅迫的なクラクション。

 呆れたことに、いままで横断歩道の真ん中に突っ立っていたのだ。とうに信号は赤に変わっており、周囲には誰も居ない。痺れを切らした運転手の険悪な目つき。

 慌てて、横断歩道を渡り切る。途端に、背後で車両が大量に行き違いはじめた。その度、ヘッドライトが周囲のビルの外壁に明滅する。たぶん、おれは、あのとき、この場所で、信号無視のトラックに跳ねられた――唐突に、記憶の断片がよぎる。そう、あの日も、肌寒い夜で、クリスマスの前日で…… それなら、今日は、おれの十七歳の誕生日?

 何もかも急なことで、少し動悸がした。帰ってきて早々、無暗に人身事故に巻き込まれるわけにもいかない。しかし「向こう」には信号機も自動車も無かったのだから、勘弁してほしい。辺りの通行人の視線を感じた。いらぬ注目を浴びたようで、小っ恥ずかしい。

 ところで、おれはここからどうすれば良いのだろう? おそらく、ここにいてもどうにもならないことは確かだろうけど。

 ひとまず、自分の家に帰るに越したことはないだろう、ということで歩き始めてみようか。この場合、自分の足がある以上、歩きながら考えればいいわけだ。わが家に帰れば、どうせ隣はあいつの家なんだから。いまが本当に、あのときのままであるなら、不都合は何もないはずだった。おれには根拠不明の楽観があった。いまは「向こう」から持ち帰った楽観を、お土産みたいにぶら下げて、ゆっくりと歩を進めればいいという気がした。それから、二、三歩もいったところだった。

 はるちゃん……?

 何やら、おそるべき不発弾を意図せず地下から掘りおこしたみたいに、ひきつった声が背後でした。

 それは確かに、おれを呼ぶ声だ。さっそく知り合いに遭遇したのかと思い、しかし、ただごとではない声の調子を訝りながら振り返ると、仕立ての良いダークスーツとコートが人目を惹くであろう、ビジネスマン風の若い男が呆けたように佇んでいた。細身で背がスラリと高く、頭髪まで上品に整えられ、身だしなみに隙がない。一見すれば、俳優か何かと見紛う美男だ。しかし、問題はそんなことより、おれの名前、正確には愛称を、見知らぬ男から深刻げに呼びかけられることについて、全然身に覚えがないことだった。

 そんな戸惑いをよそに、振り返ったおれの顔を見たとき、さらなる衝撃を受けた様子で男が目を瞠った。おまけに指先の力まで喪失したのか、携えていた鞄をアスファルトの地面にドサリと落下させた。ああ、信じられない物体を認識したときの人間的態度の一類型…… 男の垢抜けた容貌も相まって、なんだか映画の一幕を見ているようだった。

 「はるちゃん!」やや低く、よく響く声音。男が鞄もそのままに切迫感いっぱいに走る。

 見ず知らずの成人男性が全速力で突進してきた場合、通常であれば素直に逃げたほうがいいと思う。おれがそれをしなかった理由は、すでに走りながら泣きそうになっている男の相貌にひとつの幼い面影を再発見したからにほかならない。

 はるちゃん……

 こっちは透明感のあるコントラルトといった調子の声域だ。まぶたに去来する、泣きっ面でランドセルを負った幼馴染が、こちらに駆け寄ってくるイメージ。それは既に過ぎ去った懐かしいものであると同時に、いつも意識に潜在する親しげなイメージだった。そして、そのイメージはぐんぐんと、遠近法にしたがい、物理的に拡大し、ダークスーツの美丈夫に姿を変えて、とうとう、おれに激突した。

 はるちゃん!

 衝撃で現実に引き戻される。おれは尻もちを着いていた。パリッとしたビジネスマンが人目もはばからず、おれを掻き抱きて、おいおいと号泣していた。男前が台無しになるくらい。それにしても、この男はさっきから「はるちゃん」しか言っていない。

 え、透?

 おれは道行く人々からの好奇の視線を浴びて、へどもどしながら、先ほどのイメージを裏書きするみたいに、おそるおそる尋ねてみた。すると、男は虚を突かれたように一拍だけ静止したので、ああ、やっぱり人違いなんだな、と思った矢先、

 「やっぱり、はるちゃんだぁ……!」

 と、歓びの声をいっそう高くあげて、おれを強く拘束した。痛い。そろそろ頬擦りまで始めそうな気配で、男前が台無し、というより、もはや大型犬みたいだな、こいつ。さっきから視線が辛い。

 この男が透であるならば、なぜ、幼馴染でお隣さんで、二学年も下である透が、いっぱしのビジネスマンみたいな風体をして繁華街をうろついているのだろうか。おれは自分のなかの嫌な予感を否定したかった。しかし、それ以上に、事実を事実として受け止めることの困難に直面していたのだった。

 なあ、今日って、何年何月何日……

 「今日は……」透、らしき男は、感に堪えないように言い淀んだあと、数年来の思いの丈を吐き出すみたいに、二の句を紡いだ。

 今日は、二〇二四年の十二月二十四日! はるちゃんの二十七歳の誕生日……! 十年も、どこ行ってたんだよぉ…… 

 語尾が、すでに弱々しい。十年とは、一体どういう事の次第なのだろうか。ふたりには、厖大な時間の齟齬があった。透、らしき男の口から爆弾のように炸裂する数字の羅列、そこから導かれる年月の空白について、すぐには理解がおぼつかなかった。

 確かに、おれは突然「向こう」に行き、帰ってきた。どこから? 異世界から。RPGなんて全然、遊び慣れていなかったけど、誰にも知られない冒険が実在した。おれは王国を救った英雄……の、冴えないパーティの一員となって、気高く逞しい仲間たちと出会った。数限りない、たたかいがあった。凱旋と祝福もあった。それでも、おれは帰らなければならなかった。元の世界に帰れば、すべての日常が恢復すると信じて疑わなかった。根拠不明の楽観が、おれの微かな希望だった。透に、また会いたかったから。おれ、魔王みたいなやつをぶっ倒して来たんだぜ。なんて、うそぶいたなら、泣き虫のこいつは信じてくれるだろうか。少しだけ、可笑しみが湧き上がった。

 ひとまず、おれは透の背中をあやしつけるみたいに軽く叩き、密着した図体を引き剥がすことにした。そして、あらためて目線をしっかりと合わせた。相対すると、確実な存在感で、紛うことなく、十年分だけ大人びた幼馴染の顔がそこにある。ふいに、こみ上げるものがあった。

 ただいま、透…… 遅くなって、ごめん。

 あいにく、この程度の月並みな言葉しか出てこない。とりあえず、これで勘弁してくれ。おれはいま、クソったれファンタジーの不条理の数々に疲れはて、胃潰瘍を起こしているんだ。我ながら、いたたまれない。さぞかし、不器用な笑顔だったと思うが、しかし、

 「お、おかえりぃ……」

 くしゃくしゃに濡れたレトリバーみたいに情けなくて、現実の消化不良をもて余している困り顔は、存外、おあいこと言うべきかもしれない。

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