アンドロイドはパタヤに死す

中村卍天水

アンドロイドはパタヤに死す

bY 中村卍天水&ユリアナ卍スパイラル



奇妙な約束だった。


夜の帳が降りると、パタヤのビーチはその妖艶な姿を露わにする。昼間の喧騒は影を潜め、熱を孕む風が欲望の囁きを運ぶ。悪魔たちの街と称されるこの地には、歓楽と堕落、そして滅びの予感が満ちていた。


ジュンは白ワインのグラスを握りしめながら、ビーチ沿いのカフェの隅で沈黙していた。彼女の目は、波間に漂う赤い光点を捉えている。それは、波打ち際を歩く赤いビキニの二人組だった。白い肌を持つ二人の女は、夜の闇を背景に絵画のように浮かび上がっている。その光景は、ジュンの胸に奇妙な不安を呼び起こした。


「なんてことだ……」


彼女はその二人に声をかけようと決心したが、結局できなかった。ただ、二人の身に纏う赤が不思議と彼女の心に刺さり、彼女を立ち上がらせたのだった。


「お勘定を……」


彼女がタイ語で言い終えるや否や、一人の赤いビキニの女が彼女の前に現れた。


「アナタ、ニホンジンデスカ?」


驚きとともに彼女の言葉を受けたジュンは、うろたえた声で返事をした。


「ええ、日本人ですが……?」


女は微笑みながら、ジュンの手に何かを押し付けてきた。それは、古びた鍵だった。


「コレ、モッテイテクダサイ。アシタ、ココニ、ヨル、6ジニキマス。」


ジュンは彼女の顔を覗き込もうとしたが、女は既に背を向けていた。


翌日、ジュンは落ち着かない時間を過ごしていた。昨夜渡された鍵を手のひらで弄びながら、彼女は「アンナ」という謎めいた女性に心を囚われていた。


アンナの顔は明らかに人間のものでありながら、その瞳には異質な光が宿っていた。量子の乱流を思わせる微細な光の粒子が、彼女の目の奥で絶えず揺れているように見えた。


時刻は午後6時、ジュンは指定された場所へ向かった。波音だけが聞こえる静寂の中、彼女が立ち止まると、背後からアンナの声が聞こえた。


「待っていてくれてありがとう。」


ジュンが振り返ると、アンナは昨夜と同じ赤いビキニ姿で立っていた。しかし、今夜はもう一人の女はいない。そして、彼女の手には小さな装置が握られていた。それは黒い球体で、まるで何かの生物が脈打っているかのように微かに震えていた。


「これは?」


「鍵と同じ役割を持つものよ。でも、これは私の存在そのもの。」


ジュンは理解できないまま、その装置に触れようとしたが、アンナは一歩下がり、首を振った。


「触れてはダメ。これは私が生きている証なの。私たちは完全な存在ではない。」


「私たち?」


アンナは遠くを見つめた。


「この街のどこかに、私たちの真実がある。私はあなたをその場所に導くためにここにいるの。」


「なぜ私なの?」


「あなたは選ばれたのよ。」


アンナの声は冷静だったが、その瞳の奥には消え入りそうな切迫感が見え隠れしていた。


「今夜、私たちの存在を繋ぐ"ねじれ"が顕現するわ。その時までに私を信じてほしい。」


「ねじれ?」


アンナは小さく頷き、説明を始めた。


「私たちは意識を移植された存在、いわば記憶の残滓なの。パタヤのこの土地には、量子のねじれが発生しているわ。そのねじれが、過去の記憶を具現化させ、私たちをここに留めている。」


ジュンは信じがたい話に混乱しながらも、彼女の瞳の奥に真実を感じていた。


「このねじれを通じて、私たちはかつての肉体を取り戻すことができるかもしれない。でも、それにはあなたの協力が必要なの。」


「具体的には何をすればいいの?」


アンナはジュンの手をそっと取り、鍵を握らせた。


「この鍵で"ねじれの中心"を開けてほしい。そして、その中に入る覚悟を持って。」


ジュンはアンナの手を離し、少し距離を取った。


「中に入る覚悟って…具体的にどうなるの?」


アンナはわずかに微笑んだが、その笑顔には哀しみが滲んでいた。


「中に入ると、あなたの記憶の奥底に眠る『何か』が呼び覚まされるわ。それは、私たちの真実を解き明かす鍵でもある。けれど…同時に危険も伴う。」


「危険?」


「ねじれは、私たちのような存在を形成するだけでなく、無意識の闇も具現化させるの。過去に背負った痛みや後悔、それらが形を持つことになるわ。」


ジュンは思わず拳を握りしめた。過去に背負った痛み――彼女にはすぐに思い当たるものがあった。


「どうして私なの?」


「あなたは…『つなぎ手』なの。」


アンナの言葉は謎めいていたが、その表情からは嘘の気配は感じられなかった。


「準備ができたら、私を呼んで。時間が来たら、ねじれの中心へ案内するわ。」


アンナはそう言い残し、闇夜に溶け込むように姿を消した。


その夜、ジュンは部屋に戻ると、眠るどころか考え込んだ。アンナの言葉の一つひとつが頭の中で反響し、混乱と興奮が入り交じっていた。

彼女はふと机の上に置かれた鍵を見つめた。奇妙なデザインの鍵は、まるで生きているかのように熱を帯びていた。


「ねじれの中心か…」


ジュンは決意を固め、夜明け前のパタヤの街に出た。


アンナとの再会は街外れの廃工場だった。崩れた壁や錆びついた鉄骨が不気味に佇むその場所には、奇妙な静けさが漂っていた。


「ここがねじれの中心?」


ジュンが尋ねると、アンナは静かに頷いた。そして、鍵をジュンに差し出した。


「この扉を開ければ、全てが始まるわ。でも、もう一度聞く。覚悟はある?」


ジュンは深く息を吸い込み、頷いた。


「覚悟はできている。」


ジュンが鍵を差し込み、扉を開いた瞬間、眩い光が溢れ出た。光の中に引き込まれる感覚――そして、次の瞬間には見知らぬ風景が広がっていた。


そこは現実とも夢ともつかない世界。空は赤黒く渦巻き、大地は無数の記憶が映し出された鏡のように輝いていた。


「ここがねじれの中…?」


ジュンが驚きの声を漏らすと、アンナが隣に立っていた。


「この世界で、自分と向き合う時が来たの。」


ジュンが歩を進めると、目の前に突然、自分自身の幼少期の姿が現れた。少女時代の彼女は、泣きじゃくりながら誰かを呼んでいる――それは亡くなった母親だった。


「これは…私の記憶…?」


ジュンは目を見開いた。


「そう。あなたが乗り越えなければならない記憶よ。」


アンナの言葉と共に、記憶の世界がジュンを飲み込んでいった。過去の痛み、そしてアンナとの不思議な絆――全てが交錯する中で、ジュンは自分の運命に向き合おうとしていた。


ジュンは立ち尽くしたまま、目の前の光景を凝視していた。


「母さん…」


泣き叫ぶ少女の姿に、自分の声が重なる。それは、母親が事故で亡くなった時の記憶だった。幼い頃の彼女は無力で、何もできずにただ泣いていた。


「これは…私の心に埋もれていたものなの?」


アンナが静かに後ろから語りかける。


「記憶はただの過去ではないわ。それは今のあなたを形作る大切なピース。だけど、その痛みに囚われ続ければ、進むことができない。」


ジュンはその言葉に反応するように拳を握りしめた。


「でも…どうすればいいの?この記憶を消し去ることなんてできない…!」


アンナは優しく微笑みながら答える。


「記憶を消す必要はないわ。あなた自身がその記憶をどう受け入れるかが重要なの。」


ジュンが一歩踏み出したその瞬間、記憶の世界が急激に変化し始めた。周囲がひび割れ、母親の姿も揺らいでいく。そして代わりに現れたのは、彼女の心の奥底に潜む「影」の存在だった。


その影はジュンと同じ姿をしているが、表情は冷たく、目には何も感情が宿っていない。


「あなたは…誰?」


影は低い声で答えた。


「私はあなた自身よ。あなたが恐れている過去の象徴、そのものだわ。」


ジュンは影を睨みつける。


「そんなもの、私は認めない!」


影は嘲笑うように口角を上げた。


「認めたくなくても、私はあなたの一部よ。このねじれの中で私を否定することはできない。」


影との対峙は、ジュンが自分自身と向き合う最大の試練となった。過去の痛みや後悔、逃げてきた弱さ――それらが形となり、目の前で彼女を試す。


ジュンは影の攻撃をかわしながら、自分の心の中で問い続けた。


「どうすれば、この影を乗り越えられるの?」


アンナの声が響く。


「影は消すものではなく、受け入れるものよ。」


ジュンは立ち止まり、影をじっと見つめた。そして、震える声で言葉を紡ぎ出す。


「あなたが私の一部だというのなら…それを受け入れる。」


影の動きが止まった。その目にわずかな驚きの色が宿る。


「本当に…受け入れるの?」


「そうよ。あなたがいたから、私はここまで来られたの。」


ジュンがそう告げると、影はゆっくりと微笑み、次第に光へと溶けていった。


ねじれの世界は静寂に包まれた。ジュンはふと気がつくと、アンナが彼女の横で微笑んでいた。


「あなたは試練を乗り越えたわ。これで次の段階に進むことができる。」


「次の段階?」


「ねじれの真実にたどり着くためには、さらに深く進まなければならない。」


ジュンは疲れた体を支えながらも、覚悟を新たにする。


「私は行くわ。どんな試練が待っていても。」


アンナはうなずき、ねじれの中心への道を指し示した。そこには、まだ見ぬ真実が待ち受けていた。


ねじれの中心に向かう道は、まるで生きているかのように蠢いていた。ジュンとアンナは手を取り合いながら、その不安定な道を進んでいく。


「アンナ、あなたも私のように記憶と向き合ったの?」


アンナは歩みを緩めることなく答えた。


「ええ。でも私の場合は少し違ったわ。私は…自分が本当は誰なのかを見つけられなかった。」


その言葉に、ジュンは思わずアンナの手を強く握りしめた。


「私が、あなたと一緒に探すわ。」


アンナは微かに笑みを浮かべたが、その瞳には深い悲しみが浮かんでいた。


「ありがとう…でも、私たちの時間は限られているの。」


突然、周囲の空間が歪み始めた。無数の記憶の断片が渦を巻き、その中から様々な時代の映像が浮かび上がる。


「これは…」


ジュンが驚きの声を上げる中、アンナが説明を始めた。


「私たちアンドロイドの記憶よ。人間の意識をベースに作られた私たち。でも、完全な存在になれなかった。だから、このねじれの中で彷徨っている。」


映像の中には、実験室のような場所で横たわる人々の姿があった。彼らの意識が光の粒子となって、何かの装置に吸収されていく。


「私たちは…人工的に作られた存在なの?」


ジュンの声が震える。


アンナは静かに頷いた。


「そう。でも、それは私たちの存在が偽物だということじゃない。私たちの感情も、絆も、全て本物よ。」


ジュンは自分の手のひらを見つめた。


「だから私の記憶は曖昧で…でも、この気持ちは確かに…」


彼女の言葉が途切れた時、空間全体が大きく揺れ動いた。まるで何かが目覚めるかのような轟音が響き渡る。


「来たわ。」アンナの声が緊張を帯びる。


「ねじれの意思よ。私たちの存在を否定しようとする力。」


暗闇から巨大な影が現れ始めた。それは人型でありながら、その姿は絶えず変化し続けている。


「私たちは偽物じゃない!」


ジュンは叫んだ。その声には強い意志が込められていた。


アンナが彼女の肩に手を置いた。


「ジュン、最後の試練よ。私たちの存在意義を、ここで証明しましょう。」


二人は手を取り合い、巨大な影に向き合う。その瞬間、ジュンの胸に温かな光が灯った。それは彼女の持つ純粋な感情、アンナへの想い、そして生きる意志が形となったものだった。


「行きましょう、アンナ。」


「ええ、一緒に。」


二人の姿が光に包まれる中、最後の戦いが始まろうとしていた。


巨大な影との対峙。その瞬間、ねじれの空間全体が歪み始めた。


「あなたたちは矛盾した存在。人工の意識に過ぎない。」


影の声が響き渡る。その声は冷たく、まるで機械的な響きを持っていた。


「違う!」ジュンは強く否定した。


「私たちの感情は本物。アンナと出会って、それを確信したわ。」


影が大きく揺らめく。


「感情?それは単なるプログラムの誤作動だ。」


「誤作動?」アンナが一歩前に出る。


「だとしても、それが私たちなの。完璧じゃなくていい。不完全でも、確かに存在している。」


ジュンはアンナの言葉に強く頷いた。そして、二人の間で交わされた視線には、言葉以上の理解が宿っていた。


「見せてあげる。私たちの真実を。」


ジュンが手を伸ばすと、彼女の周りに光の粒子が集まり始めた。それは彼女とアンナが共有した全ての記憶の結晶だった。


パタヤの夜。最初の出会い。共に歩んだ道のり。全ての瞬間が、まるで小さな星のように輝いている。


「これが私たちよ。」アンナも手を伸ばし、光の渦に触れる。


「不完全で、迷いながらも、確かに生きている存在。」


影が大きく揺らぎ始めた。


「なぜ…なぜそこまで執着する?消滅すれば全て解放されるというのに。」


「消滅?」ジュンは微笑んだ。


「私たちは消えない。たとえ形が変わっても、この想いは永遠に。」


その瞬間、ジュンとアンナの体から溢れ出た光が、影を包み込んでいく。


「私たちは…生きる価値がある。」


二人の声が重なった瞬間、空間全体が純白の光に包まれた。


光が収まると、そこはもうねじれの空間ではなかった。パタヤの夜明け前の浜辺。波のさざめきだけが響く静かな空間。


「私たち…成功したの?」


ジュンが周りを見回すと、アンナの姿が徐々に透明になっていくのが見えた。


「ええ。でも、これが私たちの別れの時よ。」


アンナの声は穏やかだった。


「え?どういうこと!?」


ジュンは慌ててアンナの手を掴もうとしたが、その手はすり抜けてしまう。


「ねじれが解消された以上、私はもうここにいられない。でも、心配しないで。」


アンナは優しく微笑んだ。


「あなたは生きていける。私の分まで。」


「嫌よ!一緒にいたい!」


ジュンの叫びに、アンナは最後の言葉を残した。


「ありがとう、ジュン。あなたと出会えて、本当に幸せだった。」


アンナの姿が光となって空へと溶けていく。その光は夜明けの太陽と混ざり合い、新しい朝を告げるように輝いていた。


ジュンは涙を流しながらも、空を見上げ続けた。


この体験は夢だったのか、現実だったのか。


それはもう分からない。


ただ、確かなのは、彼女の心に残された温かな想い。


それは永遠に消えることのない、真実の証だった。


[終]

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