第12話 其の二 生まれ変わり 二
白壁に囲まれた下屋敷の敷地は九千二百九十三坪もあり、敷地内には玉川上水が引き込まれていた。
門番に取り次ぎを頼んだが、いつまで経っても戻ってこなかった。
親切そうな初老の門番は広い屋敷地を探しまわっているらしく、門内はしんと静まりかえっていた。
腹の虫がもう息絶え絶えになった頃、
「おお、よう来てくれたの、静馬どの」
利之進が颯爽とした姿を現した。
今日も上物を身にまとっている。
(大違いも大違いだな。やはり場違いもよいところだ)
静馬の小袖の襟、肩、袖、袴の裾には、みずから針を手にして施した継ぎ当てがいくつもあった。
親愛の情を表すとびきりの笑顔を浮かべながら、
「これをお届けに参りました。利之進どのの守り袋ではありませぬか」
丁寧に包んだ袱紗を開いて利之進の眼前に示した。
「おお、これはまさに拙者の守り袋だ。代々、嫡子に伝えられておる品ゆえ、無くしてしもうたと落胆しておったのじゃ」
一点の曇りも無い明るい笑顔が眩し過ぎる。
(拙者にこのような笑顔は無理だ。限りなく似せた、まがい物の笑みなら工夫できようがな)
育ちの違いはいかんともしがたかった。
「早くにお届けすればよかったのですが、申し訳ありませぬ」
「いやいや、静馬どのが謝る筋合いではない。うかと落とした拙者が悪いのだ」
恥ずかしそうな顔で頭をかくと、
「もう少しで終わる。中に入ってくれ」
利之進は屋敷内に招き入れてくれた。
田安家の下屋敷は広大だったが、先ほどの門番以外、誰もいないかと思えるほど人影がなかった。
(どこの大名家でも下屋敷は広いばかりで人が少ないと聞くが、ここは特にひどいようだな)
きょろきょろと眺めながら、利之進に案内されて庭に出た。
ゆったりとした光景が広がっていた。
よく手入れされた庭には澄んだ流れが引き込まれ、遠景の築山では、庭師が木々の手入れに余念がなかった。
「大納言さまの御世嗣匡時さまは、書画を好まれる心優しきお方でな。生き物すべてに心を寄せられる。出入りの庭師に任せておけば、あまりにも刈り込み過ぎて庭木がかわいそうじゃと仰せられるのだ。手入れは要るが、今少しのびのびとさせてやりたい、ついては拙者に庭師の見張りをせえとの仰せなのだ」
誇らしげに言いながら東屋の腰掛けに座すと、すぐ脇に座るよう促した。
「利之進どのは匡時さまのお覚えもめでたいというわけですね」
「しょせんここでのお務めは一時のもの。幕臣としてしかるべきお役目に就くまでのつなぎでしかないが、ただそつなく務めるだけでなく、大納言さまを主君と考え、誠を尽くしてお仕えしたいのだ」
利之進は庭師の動きに油断なく目を向けながら言った。
御三卿には諸大名のような家臣がいないため、家老以下御付人と呼ばれる八職は幕臣で、幕府の諸職へ転任するまでのつなぎといった閑職だった。
「それは立派なお考えですね」
適当に相槌を打つうちにも、腹がぐううと大きな声を上げたため、こほんと咳払いしてごまかした。
利之進は気づかぬふうで、
「匡時さまもこちらにお出ましになりたいとの仰せだったが、ここは家臣がおらぬゆえお止めいたした。考え過ぎやもしれぬが、匡時さまの身辺で不穏な動きがあるような気がいたすのだ」
庭に目をやったまま、独り言のようにつぶやいた。
「熾烈なお世継ぎ争い、お家騒動は古今よく聞きます。特に御三卿ともなれば……」
静馬も深刻な口調で返した。
御三卿は、将軍家に跡継ぎがない場合に養子を出すため興された。当代の十一代将軍家斉も一橋家からの養君(将軍家の養子)だった。
「いや、拙者の考え過ぎだと思うのだがな」
利之進は照れたように笑った。
「何だ、そうだったのですか」
途端に拍子抜けした。
のんびりした務めでも、利之進のように職務に真摯に向き合えば重責なのだ。万が一の折を常に考えている生真面目さが微笑ましく思えた。
「ところで、先般の曲者たちは何者だったのでしょう」
「あれ以来、何事も起こらぬゆえ、夜盗の類であったやもしれぬな。だが……」
利之進は言いかけて急に、
「これ、その枝は切るでない! 残しておくのだ!」
庭師に向かって大声で命じた。
与えられた務めに熱心過ぎる利之進に、笑いが込み上げてきた。
庭のどこかから鹿威しの音が優雅に響いてきた。
飛び石の上をぺたぺたと歩く足音とともに、さきほどの門番が白湯を運んできた。
男は敷地内の田地で作物を作っている百姓で、門番の役目だけでなく、下屋敷内のさまざまな用を一人でこなしているらしかった。
「あいにく何もありやせんが……」
見た目も不揃いな切り方の沢庵が、粗野なまでの山盛りに添えられていた。
沢庵くらいで腹はくちくならないが、ともかくありがたかった。
利之進と静馬は白湯をゆったりと飲みながら、素朴な味の沢庵を口にした。
「道場破りは感心いたしませぬ」
恐る恐る苦言を呈すると、
「なぜだ」
利之進は不思議そうに首を傾げた。
「あの夜の曲者たちは、道場破りをされた道場の手の者やもしれませぬ。看板を持ち去られたとの噂が立てば弟子が激減します。いずこかのお家から禄をいただいていた場合、縁を切られますから道場が潰れるやもしれませぬ。ですから噂が広まる前に利之進どのを亡き者にせんとする弟子も出てくるでしょう。あるいは潰れた道場の主が遺恨に思っての襲撃やもしれませぬ」
「未熟であった己を恥じるべきで、拙者に逆恨みとはけしからん」
利之進は鼻息も荒く憤慨したと思うと、
「これ! その枝も残しておくのだ。分からぬやつめ」
庭師を大声で叱りつけた。
「それじゃあっしら庭師の仕事になりやせん」
庭師も言い返し、さっさと片付けを始めてしまった。
「途中で放り出すとはいかなる所存だ!」
利之進はこめかみに青筋を立てたものの、大股で歩み去る庭師を追うことはなかった。
「あ、あの……。さきほどの続きですが」
むっつりとした利之進に、語気を弱めながらも友として進言した。
「もちろん不心得者は論外です。ですが、道場主やその家族を路頭に迷わせるのは気の毒ではありませぬか。他流試合のみにとどめるべきかと存じます。それなら恨みも買いますまい」
「おお、なるほど。そこまで考えておらなんだ」
利之進はあっさり納得してくれた。
眉間に寄せていた皺はすっきり消え去り、口元に笑みが宿った。
「ただ愉快だと思うて看板を取り上げておったが、以後は試合のみで看板は取らぬようにいたす」
利之進は単純なだけに素直だった。
真っ直ぐにのびた若竹を思わせた。
(さしずめ拙者は雑草だな。雑草には雑草の良さがあるが)
などと心の内で己を慰めながら、
「庭師にも庭師の考えがありましょう。相手の身になって事情を忖度することも大事かと存じます」
上手く締めくくった。
「やはり静馬どのを友として良かったの」
利之進は快活に笑った。
「わたくしも同じ心持ちです」
静馬は親しみを感じさせる笑みで応じた。
利之進は飲み干した湯飲み茶碗をゆったりとした手つきで茶托に戻した。
「ところで、友と思うて打ち明けるのだがな」
声を落とし、
「母、牧惠が、近頃、内々に縁談話を進めておるので困惑しておる」
とこぼした。
妙な言い回しに引っ掛かりを感じながらも、
「良きことではありませぬか」
と気楽に間の手を入れた。
「実は拙者には思う人がおる。先日、一目見て以来、その女性が毎夜、夢に出てくるのだ」
利之進は日差しの強い晴れ渡った空をまぶしげに見上げた。
(ま、まさか)
静馬は『先日一目見て』との言葉にどきりとした。
(世吉が申しておったように、お熊どののことではあるまいな)
急に尻の座りが悪くなった。
「夢だけではないのだ。静馬どの。昼日中もその女性の美々しい顔がちらついてお務めにも支障をきたすありさまでな。武士として何とも情けないことなのだ」
話す言葉とは裏腹に、利之進の口調はどこか誇らしげである。
(なんだ。思い過ごしか。美々しいと言うからにはお熊どののことではないな)
ひとまず胸をなで下ろした。
お熊は浮世絵の美人画に描かれているような当世風の美女とは大違いだった。
目は切れ長だが大き過ぎる。鼻も高くないうえ小ぶりである。細面や下膨れした顔でもない。日焼けしているため、美人の第一条件とされる色白とはほど遠かった。
「静馬どの、これを恋患いと申すのかな。今の今まで、それなりに女遊びをしてきた。露骨に言い寄ってきた娘も一人や二人ではない。だが、拙者のほうからこのような心持ちになった女性は初めてなのだ」
利之進は早口でまくし立てた。
鼻の下がだらしなくを伸び、若武者といった風貌がたちまち台無しになった。
「残念ながらわたくしはそのような心持ちになったことがございませぬのでよくわかりませぬが、それはそれでよろしいのではありませぬか」
何だかばかばかしくなって気のない返答をした。
紅屋の娘、お八重を好もしく思うものの、真に恋い焦がれているかと訊かれれば否と答えるしかなかった。
「ともかくだ」
利之進はすっくと立ち上がった。
背を向けたまま、今度はとつとつとした口調で語り始める。
「拙者はその女性を妻に迎えたく思うのだ。むろん、すぐかなう話ではないと分かっておる。今のままでは妻に迎えることは難しかろう。父上母上と相談の上、しかるべき家の養女とした後めとりたいと思うておる」
「で、さきほどのご母堂の話につながるわけですね」
「母が勧める相手はさる有力大名家のご息女らしいのだ。まだ、どこのどなたというはっきりした話には到っておらぬがな」
利之進は枝ぶりの良い松の木の太い幹に大きな手をつきながら、
「難儀なことだ。拙者は〝隈〟どのを正妻として迎えるつもりなのに」
大きな吐息とともに思い人の名を告げた。
「え? それは蟻通熊のことでございますか?」
まさかのまさかがまことになった。
「ほかにあれほどの美形はおるまい。汚れを知らぬ純な乙女でありながら、きりりとして気が強そうだ。あのような女性は二人とおらぬ。一目見ただけで拙者は、この女性こそ生涯の伴侶と心に決めたのだ」
「あの熊をですか」
大事な妹を嫁にやる父親か兄のような心持ちになった。
さまざまな気掛かりがあぶくのように湧いてきて、心は岸壁に打ち当たる飛沫のごとく泡立った。
(一時の気の迷いに相違ない。利之進どのの気持ちが冷めた後、歓迎されぬ花嫁であるお熊どのはどうなる。四面楚歌、針の筵の上で一生を過ごさねばならなくなる。我慢できずに嫁ぎ先から飛び出すとしても、子をなした後であれば、愛しい我が子と別れねばならぬ。どのみちお熊どのが不幸になるに決まっておる)
先の先まで考えれば、笑みも固くなった。
「あのじゃじゃ馬娘の熊に、大身のお旗本家の嫁が務まるとは思えませぬ」
「一目で賢い娘と知れたゆえ、さような心配はいたしておらぬ。家風やしきたりなどすぐさま飲み込んで稗田の家に馴染むに相違ない」
利之進は物事を単純に考え過ぎだった。
(仮に、利之進どのが言うように、家風に従順な良妻賢母になれたとすれば、それはとりもなおさず、お熊どのの持ち味を殺すことだ。それでお熊どのが幸せになるとは思えぬ。不釣り合いは不縁のもとだ)
そこまで考えて思い直した。
(お熊どのは利之進どのを嫌っておる。当のお熊どのが不承知であろう)
一目惚れした利之進もお熊の真の姿を知れば気が変わるに違いない。
(つまりは拙者の取り越し苦労だな)
しだいに平静さを取り戻した。
「縁談を断ったうえで、父上、母上にお願い申し上げようと思うておる」
鼻息も荒い利之進を、
「ご母堂も良かれと思ってのことでございましょう。わたくしも断るには惜しい良縁だと思います。親孝行にもなりましょう」
やんわりと諭した。
「蝶よ花よと育てられた姫君など、我がまま気ままに違いない。高貴な姫君を迎えて、生涯、頭が上がらぬなどごめんだ」
利之進はぷいと顔を反らせると、
「さらに気掛かりなのはだな」
声を潜めて顔を近づけてきた。
「母上は父上に縁談話をまだ相談されておらぬ。仲立ちをいたす者とこそこそ会うておられるのだ。母上の跡をこっそりつけるわけにもいかぬから気掛かりでならぬ。下僕の話では、そやつはいかにも立派で品のある人物らしい。公家の出ともいう。話もなかなか上手いそうじゃ。父上は無骨者で風采も上がらぬ古武士のごときお方ゆえそやつとは大違いだ。縁談を相談いたすうちにその……」
牧惠が縁組みを口実に不義密通を犯していないか危惧しているらしかった。
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