第11話 其の二 生まれ変わり 一
風神静馬は、朝餉のために七輪で目刺しを三匹焼いていた。
蟻通墨伝と娘のお熊は二人して近くの神社に出掛けている。
(先日は、少し目を離した隙に焦げてしもうた。お熊どのに散々、文句を言われたからな。今日こそケチのつけようが無いほど上手く焼き上げるてみせる)
焦げ始めた目刺しの尻尾をじっと見つめていたときだった。
「静馬どの!」
お熊が肩を怒らせ、鼻息も荒く戻ってきた。
「中村屋に賊が入ったそうです」
しゃがみ込んだ静馬の目の前で仁王立ちになった。
「中村屋? 中村屋と申しますと?」
顔を伏せたまま目刺しをひっくり返した。
干物特有の良い匂いが鼻をくすぐる。裏面を今少しあぶれば見事に焼き上がりだった。
「中村屋といえば先日、わたくしが振袖を新調したばかりの呉服屋ではありませぬか」
お熊は苛立った様子で一歩踏み出した。
松皮菱模様の袴の裾がさらりと揺れる。
「同じ名前の店が多いので念のためお訊きしただけです。では、本郷にある呉服屋の中村屋に賊が押し入ったというのですか?」
じらすように、わざとのんびりした口調で聞き返した。
「静馬どのは鈍感で、何もかものろまゆえ、話していると勘に触って困ります」
お熊はふくれっ面をした。
「すみませぬ。〝下僕〟は愚鈍なもので〝姫〟に叱られてばかりです」
目刺しは焦がし過ぎず、かつ適度に火を通さねばならない。
焼け具合に集中しながら口先だけで謝罪した。
「もうっ、肝心の本題にたどり着けないではありませぬか」
お熊は袴の裾が七輪に触れて焦げぬかと思うほど肉迫してきた。
「数名の賊が押し入って、主夫婦と番頭が殺害され、二百両が奪われたのです」
「なんと、それは確かなのですか?」
目刺しからようやく目を上げた。
「源光寺の御住職からお聞きしました。御住職は本郷にある自身番の書役から直接、聞かれたのですから確かです」
「それはお気の毒でした。番頭さんとは反物の代金の支払いの件で、先日、お目にかかったばかりですのに」
中村屋の番頭は、損得勘定ばかりが顔に出た気にくわない男だった。
だが、殺害されたとなれば話は別である。
「番頭さんといえば、たしか……。四十を前にして住み込みから通いに変わるから、貯めた金で馴染みの女郎を落籍{ひか}せて所帯をもつ、故郷{くに}の母親を呼び寄せると嬉しげに話していたな」
今思えば静馬の笑顔に懐柔されて好意を抱いてくれていたのだろう。
番頭を頼みにしていた女郎も老いた母親も気の毒だった。
一人の不幸の裏に何人もの不幸が隠れている。
(まさか、お熊どのはまたも……)
目刺しの煙とともに、悪い予感がむくむくと湧き上がってきた。
「で……?」
目刺しの焼け具合に目を戻しながら尋ねた。
「むろんのことではありませぬか。わたくしたちで賊を探し出して成敗するのです」
お熊は胸を張ってきっぱりと言い切った。
「この前は首尾良く終わりましたが、物事を甘く見てはいけません。そもそも盗賊団の探索など素人の手に余ります。お上に任せればよいではありませぬか」
静馬の言葉に、お熊の丸い目がすっと細くなった。
「見損ないました。静馬どのが嫌なら、わたくしだけで探索いたします。明日にでも右近さまにお目にかかって詳しい事情を尋ねて参ります」
探索だけならまだしも、またも物騒な企てなどごめんである。
倉田屋成敗は薄氷を踏むような心地だった。
次も首尾よくいくとは限らない。
「懇意とはいえ、右近どのも職務については口が固いと存じます。先日のように、みずから手がけておられれば、裁量の範囲も広いでしょうが」
反論にお熊はますますいきり立った。
目尻がきっと釣り上がる。
「馴染みの店の災厄を見て見ぬふりとは情けない。静馬どののにやにやした呆け顔などもう見とうもありませぬ」
お熊はその場で地団駄を踏んだ。
七輪に触れて袴の裾が燃えそうになり、慌てて後ろに飛び退いた。
「これは失礼いたしました。そういえば大事な用件を思い出しましてございます。朝餉の用意はお熊どのにお任せいたしますゆえ、これより出掛けて参ります」
小娘相手に大人げないと思いつつ、ついついむっとしてしまった。
「これ、どこへ参るのですか、静馬どの」
目刺しが焦げる臭いに申し訳なさを感じながら、朽ちた冠木門をくぐった。
(お八重どのと出くわさぬかな)
横目で見ながら紅屋の前を通り過ぎた。
お八重は勤め先の楊枝屋に出掛けた後で、店先で開店の支度をしていたのは、不景気な顔をした主と太った小僧だけだった。
むしゃくしゃする気持ちを抱えたまま、あてどなくどんどん歩いた。
魚を仕入れた棒手振りが両国橋を駆ける。
大工や左官といった出職の職人たち、お店勤めの奉公人が思い思いの方角へと急いでいる。
黄色い笑い声を上げてじゃれ合いながら、早々と寺子屋へ向かう子供たちの姿もあった。
人通りの多い道の真ん中では、餅や飴、煎餅を立売していた。
近江屋と墨書された大きな傘を看板代わりに立てている。舞い上がった砂ぼこりが菓子に降りかかるが、店側も客も頓着していなかった。
朝餉を食わずに出てきたことが無性に悔やまれた。木戸番小屋で子供相手に売られている駄菓子さえ美味そうに見える。
懐には屋台で買い食いする銭も無い。腹の虫がぐううと大きな鳴き声を上げた。
(そうだ)
急に名案がひらめいた。
(あれきり忘れておったが、守り袋を届けぬままであった。これから利之進どのを訪ねてみよう)
利之進は田安家で、家老に次ぐ地位である用人を務めている。
訪ねていけば茶菓子くらい出すだろう。
先日の今日だから『昼餉をともに』と言われるかも知れない。
(これは名案だな)
不在なら、守り袋を誰かに託して帰るまでのことである。
大納言(田安斉匡)の上屋敷――田安屋敷をめざす足取りも軽くなった。
江戸城の北側に位置する田安邸は予想以上にひっそりとしていた。
家臣は大勢いるものの、甲斐国三万石をはじめ武蔵国一万七千石、下総国・播磨国にそれぞれ一万二千石、摂津国・和泉国にそれぞれ一万三千石を領しているため、散在する知行地二百三十五箇所の代官や配下の手代などに千名ほども人員を割かねばならなかった。
江戸屋敷には、家臣がほとんどいないといってもよかった。
門番に取り次ぎを頼んだが、利之進の代わりに、痘瘡跡のあるがっしりとした体つきの男が姿を現した。
「相良源八と申します」
男は丁寧に頭を下げた。
大刀を帯した羽織袴姿だったが、背筋が伸びておらず、武士らしい物腰ではなかった。
(若党だな)
若党は、大小二刀を差すことを許されず、一刀のみであるため、一目で区別がついた。
武家奉公人には、用人、給人、中小姓、若党、中間の区別があり、若党は、中間に毛が生えた程度の軽輩で、武士に憧れる農民や町民が安い給金で雇われている場合が多かった。
源八も近在の百姓の二、三男の出だろうか、真面目で純朴そうな男だった。
「あいにくご用人さまは四谷の下屋敷まで所用で出向いておられます。お帰りは夕刻になりましょう」
三十前後と見える源八はいかにも気の毒そうに語った。
卑屈に見えるほど小腰を屈めた姿は鋤や鍬が似合いそうで、武士らしい言葉遣いをしているものの、およそ武芸の心得などなさそうだった。
(こうなれば乗りかかった船だ。四谷まで参るしかない)
四谷大木戸にある下屋敷に向かおうとしたときだった。
「蟻通道場のお方とな」
外出先から戻ってきた侍が声を掛けてきた。
源八や門番の頭の垂れ方から推測すると、さしたる重職ではなさそうだった。
「ではそれがしはこれにて失礼いたします」
源八は軽く一礼してから屋敷の内に姿を消し、門番も持ち場に戻っていった。
閑散とした道幅の広い通りの彼方には陽炎が立ち上っている。静馬は侍に向かって丁寧に腰を折った。
「蟻通道場で師範代を務めております風神静馬と申します」
「拙者、宿院玄蕃と申す」
地味ながら、あくまで清げな風体の玄蕃は、眉が異様に濃く、鷲鼻が目立っていて、一度会えば忘れられぬ特異な顔貌の持ち主だった。
目立つほど大柄な体つきで、両肩は肉塊を感じさせる逞しさである。
「お名前は師の墨伝から伺っております。タイ捨流をよく遣われるとか」
興奮に似た感情を抱きながら笑いかけた。
笑顔は、修練で得た作り物ではなく素直な心の発露のつもりだった。
刹那、かすかな陰りが玄蕃の顔を過ぎった気がした。
(タイ捨流の道場が上手くいかなかった一件を揶揄されたと思われたのか)
玄蕃の顔をうかがった。
瞬きの少ない窪んだ目はビ―ドロを思わせ、顔全体に表情がなかった。
所々に面擦れの痕のある角張った顔は、墨伝よりはるかに老けてみえた。
「お暇な折に道場へ遊びにおいでください。墨伝も喜びましょう」
嫌でも笑みを見せるよう、満面の笑顔で訴えかけてみたが、
「せわしき身なれば無理じゃ」
何の感情も読み取れぬ顔のままくるりと踵を返し、潜り門の内に姿を消した。
(何を考えているかさっぱり分からぬ御仁だ)
気味の悪い男という印象だけが残った。
人は変わるものである。
墨伝と玄蕃の間を隔てた歳月が、《清廉潔白の士》からほど遠い何者かに変貌させたのだろう。
墨伝は懐かしさのあまり変化に気づかなかったに違いなかった。
静馬は誰にも嫌われたくない、嫌いな相手にさえ好かれたい、浅ましいともいえる性分である。
(よし、今度出会うたときは、玄蕃どのの無表情な顔に笑みを浮かべさせてやる)
四谷御門を出た静馬は、四谷大通りをずんずん歩いて大木戸方向へ向かった。
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