第8話   其の一  妓楼の怪異  六

(よし今度はこの手でいくか)

 お熊とともに蟻通家に戻った静馬は、墨伝から小袖と袴を借り受けた。


 墨伝の着物は、八王子にいた頃にあつらえた品や、本家の当主孫十郎から贈られた反物から仕立てた着物なので、汲々とした生活には不似合いな上物ばかりだった。


 墨伝より静馬のほうが格段に長身なので、身丈に無理があったものの馬子にも衣装である。


(このなりで良かろう)

 こざっぱりした兵法者に見える格好で再び吉原の大門をくぐった。

 懐には五十文ほどしか入っていなかったが。


 今しも夜見世が始まったばかりだった。

 遊客が吸い込まれるように次々に大門をくぐり、立ち並んだ茶屋からはにぎやかな音曲が漏れてくる。茶屋並みのはるか向こうに、水道尻の火の見櫓がぼんやりとにじむ。

 大門から水道尻までの一直線の通りが仲の町通りで、両側には引手茶屋が並んでいた。遊客、妓楼の者、茶屋の者たち、さまざまな人々が入り乱れてかまびすしい。


(夜見世は六ツから四ツまでが建前だが、九ツまで見世を開けておるそうだな)

 昼見世の閑散としたありさまと比べようもないほど、人、人、人でにぎわう通りを見渡した。


 面番所をのぞくと、右近が畳の上に寝転がりながら《吉原細見》をぱらぱらとめくっていた。

 蔦屋が出版する《吉原細見》は吉原の案内書で、茶屋や遊女屋の名と、位付けした遊女の名が刷られていた。細見売りが売って歩き、江戸に出てきた侍たちが、故郷への土産として購う人気の品でもあった。


「おい、その身なりは何でえ。身の丈と合ってねえじゃねえか。それによ、はははは。静馬、おめえにゃ上物の着物は似合わねえや」

 寝転がったままさもおかしそうに大笑いした。

 気が利いた台詞を返そうと考えていると、右近は急に真面目な顔つきに戻って、

「修験者が呼ばれたそうでえ。雲詔ってえやつと弟子たちがしばらくの間、倉田屋に逗留するそうだぜ」

 言いながら吉原細見を畳の隅に放り投げた。


「怪異封じの祈祷というわけですか」

「お祓いで蝋燭の炎みてえに噂を吹き消せれりゃ、これでおしまいってえことになるわけだがなあ」

 そばに置いてあった煙草盆を引き寄せながら、

「そう上手くいくかどうか」

 にやりと笑った。


 このにやりがなかなか曲者だった。

 口の右端の吊り上げ具合が絶妙で、生き方に熟達した壮年の渋さを醸し出している。


(今の拙者には会得しがたい笑みだ。歳を重ねてはじめて到達できる境地だな。ともあれお熊どののごとき子供には、このような大人の男の色気は解せぬだろうが)

 右近が商売女に惚れられる訳は、この『にやり』にあると思えた。

 寝転がって煙草を吹かせる姿のだらしなさもさまになっている。


「右近どのも祈祷などでは解決せぬとお思いなのですね」

「人のせいかどうか、今まだ探っているんじゃねえか」

 右近は鼻を鳴らした。


「これは勝手な推測ですが」

 畳の上の《吉原細見》を見るともなく目を向けながら、

「亡霊騒ぎを起こした者を始末して倉田屋側は一安心となった、次に修験者を呼んで祈祷させ、世間に向かって怪異は消えたと知らしめようとしている、とは考えられませぬか」

 下を向いたまま推測を語った。


「そりゃあどういう意味でえ」

 右近は跳ね起きると着流しの裾を割ってあぐらをかいた。顔つきがきりっと引きしまった。


「……と、こういうわけなのです」

 今までの探索の結果や、文次郎の行方が知れぬことを語った。


「そりゃあお手柄じゃねえか。倉田屋が文次郎を殺害したとなりゃあ……」

 右近はにんまりと笑った。

 皺が深くなって狡猾そうな目が獰猛な光を放っている。


「なあ、静馬、生身の人間が起こした事件となりゃあよ」

 狭い部屋の中で、静馬の脇ににじり寄ると、

「それこそ、八丁堀の出番ってえわけよ。なあ、若先生よお」

 意味ありげに笑いながら静馬の肩をぼんぼん叩いた。

 思いのほかの怪力に、静馬は肩に痛みを感じた。


(右近どのは、同心として手柄にできると喜んでおるのか、目こぼしするからと倉田屋から大枚の金子をせしめるつもりなのか)

 判断がつきかねた。


(ともあれ拙者は拙者だ)

 真相のかけらを見つけて縫い合わせる作業が面白くなり、今や右近の真意などどうでも良くなっていた。


「では、もう少し倉田屋を探ってみます」

 目立たぬように裏口から外に出て、江戸町一丁目に向かった。

 遊女屋の並んだ通りにはどぶ板が敷かれ、覆い板に店の名が記された用水桶が置かれていた。

 先日の若い者が倉田屋と記された用水桶の脇に立って、呼び込み役の妓夫と冗談を言い合っている。


「ありゃ、この前のお人じゃねえですかい」

 若い者は上物を身につけた静馬を見て目を丸くした。


「今日はどうなすったんでえ。へっへ」

 からころと下駄を鳴らしながら近寄ってきた。


「剣客としての腕を見込まれて雇てもろたんや。どことは言わへんけど、まあその筋の遊び場っちゅうこっちゃ」

 壺を振る真似をして、賭場の用心棒に雇われたと匂わせた。


「それはけっこうなこった。で、今日は何の御用ですかい」

 若い者は値踏みするように、子細に静馬の身なりをうかがった。


「多少の小遣いもできたさかいな。江戸の女子とも仲良うしよか思{おも}て来たわけやが、どうにも不案内で困るさかいに、顔見知りのお兄はんに聞こか思てな」

 右近から借りた吉原細見を懐から取り出すと、

「これ見たかて、よう分からへん。安うてええ見世を教えてんか」

 十年来の友にしか見せぬような親しみのこもった〝必殺の笑顔〟を作った。


「そうさなあ」

 若い者の片頬に笑みともいえぬ変化が浮き出た。


「一番、安いといやあ〝羅生門河岸〟と決まっているが、手強い古手の女が多いからなあ。ふへへへ、おらあ、おめえの腕が心配でえ。ぶふふふ」

 打ち解けた口調でつまらぬ冗談を言った。


 最下級の女郎屋が並ぶ東河岸は、客を無理矢理引きずり込むため《引っ張って腕を抜かれる》という意味で羅生門河岸とも呼ばれていた。

 能の《羅生門》に、渡辺綱が羅生門で鬼の腕を切り落とす場面があることからきている。


 若い者は、江戸に不案内な静馬を馬鹿にするように笑いながらも、

「俺は辻平ってんだ。《魚心あれば水心》ってもんでえ」

 手招きして親しげに肩を寄せてきた。

 凶暴に見えた頬の傷跡さえ、愛嬌のある皺に見えてくる。


「なあ、いくら持っている? 何ならうちの見世の女と遊ばせてやろうか。近頃は亡霊騒ぎでとんと客が寄りつかねえ。ふだんなら茶屋を通してしか遊べねえ格式の高けえ見世なんだがよ、裏から話を通してやってもいいぜ」

 静馬の耳に辻平の息がかかった。


(倉田屋は背に腹は代えられず、なりふり構わないのだろう。非常時につき、倉田屋だけ裏で『仮宅営業』をしているというわけか)

 静馬は心のうちで苦笑した。


 吉原が全焼した折、再建されるまで山谷、浅草、両国、深川での仮営業が許される。

 仮宅の際は、たとえ大見世でも、廓内でのようなうるさいしきたりにこだわらず気軽に遊ばせた。


「そらおおきに」

 所持金を見せろと言われぬかと案じながら、とびきりの笑顔をみせた。


「よし、任せなって。今、お甲さんを呼んできてやらあ」

 大暖簾の中に首を突っ込もうとする辻平を、袖の端をつかんでぐいと引き止めた。


「ちょっと待ってんか。そのお甲さんっちゅうのは遣り手のお甲はんかいな」

「何だ、お甲さんも知ってるのか」

 辻平は見世の中に向いていた爪先を通りのほうへひょいと戻した。


「お袖はんが世話になってたお人やさかい、よう知ってるがな。故郷{くに}への文にかて、お甲はんの名前がしょっちゅう書かれてたで」

 静馬は相手の胸襟をさらに開かせる笑顔を放った。


「そうだったのかい。舞袖花魁、いやお袖さんも、お甲さんにはどれだけ助けてもらってたかしれねえや。お甲さんは厳しくって口やかましい婆ァだが、ほんとはいいお人なんだよな」

 辻平は破落戸のような顔の下に隠されていた素朴な表情をみせた。


 遣り手は楼主に代わって遊女を折檻することが多々あると聞いていた。


(右近どのの話をうのみにして、遣り手は無慈悲な鬼女だと思い込んでいたが、お甲さんは違っておったのだな)

 お甲の素顔に戸惑いながらも、

「ほんまにお甲はんはええ人やなあ」

 と口を合わせた。


「お甲さんはうちの見世でお職を張っていた花魁で、舞袖花魁の姉女郎だったんだ。実の妹のように可愛がっていたから、遣り手になってからも格別、目を掛けてたんでえ」

 亡くなった女将のお滝は遊女泣かせの阿漕な女だったから、お滝と遊女たちの間に立つお甲は苦労していたのだろう。


(拙者は遣り手というものを思い違いをしておったのかもしれぬな)

 遊女揚がりであるだけに、遊女に憎まれつつも、楼主と遊女の間に入って上手く案配し、遊女の利益になるよう取り計らってやる、そんな遣り手も数多くいるに違いなかった。


「お袖はんが亡くなって、お甲はんは、さぞかし気落ちしてたやろな」

「舞袖花魁が亡くなったときゃあ、そりゃあ半狂乱だったぜ。花魁が死んだのは女将さんのせいだって、女将さんにひどく食ってかかる始末でよ。お甲さんは見世を辞めると言い出して女将さんとつかみ合いの喧嘩になったんだ。おいらは『お甲さんがいなきゃこの見世の切り盛りはどうなる』って気をもんだんだが、旦那が二人を上手くなだめて、お甲さんが見世を辞めることもなく収まったんだ」


 お甲なら復讐しかねない。

 鉄五郎の取りなしでその場は収まっても、舞袖の兄文次郎が合力を頼めば二つ返事で手引きしそうだった。


「じゃあ、お甲さんを呼んで来らあ。舞袖の縁者だったと言やあ喜ぶぜ」

 辻平は屋号が染め抜かれた大暖簾をくぐろうとした。


 そそそろ潮時だった。


「あちゃあ~」

 静馬は頓狂な声を上げながら懐中をまさぐった。


「おい、おい、どうしたい」

「辻平はん、財布を落としてしもた。さっきい寄った蔦屋はんで細見を買うたんやさかい、落としたんはその後やな。あ~、ほんまに、えらいこっちゃがな」


「面番所に届いてるかもしれねえぞ」

 辻平の気遣う声を背に、仲の町通りを待合の辻方向へと一目散に走り去った。


 面番所に戻ると、右近と岡っ引きの千八が待っていた。


「お甲が手引きしたと思われます」

 静馬の報告に、右近は大きく頷いた。


「なかなか静馬は役に立つじゃねえか。この先、俺っちの手伝いをしちゃあどうでえ。蟻通道場の台所事情はよ~く知ってるからな。手当をはずむぜ」

 冗談とも本心ともつかぬ誘いに、

「では今回の探索にもお手当をいただけるのですか」

 訊きたい気持ちを抑えながら笑顔を作った。


「これからどうする」

「ひとまず道場に戻ってお熊どのに報告しようと存じます」

「もうすぐ町木戸が閉まらあ。木戸でいちいち言い訳しながら通してもらうのは面倒じゃねえか。明朝、木戸が開いてから帰りゃいいだろ」


「無断で外泊するわけにはゆきませぬ」

 静馬の即答に右近は、

「ここはほかでもねえ花の吉原でえ。場所が場所だけに、やはり泊まるってえのはまずいよな。へっへ」

 嫌な含み笑いをした。


「静馬さま、あっしは今から深川まで戻りやすから、ついでに蟻通家まで伺ってお伝えしてめえりやす。ですからご安心を」

 千八が口を挟んだ。


「し、しかし、それでは……」

 怒り狂うお熊の顔が目に浮かんで、千八を引き止めようとしたが、

(ここは不夜城の吉原だ。さらに探るには夜も深くなってからが良い。そもそも探索せよと命じた張本人はお熊どのではないか)

 お熊への意地もあり、このまま探索を続ける決心をした。

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