陽口(ひなたぐち):小学校の思い出(貧乏編)
鵺
陽口(ひなたぐち):小学校の思い出(貧乏編)
我が家では、物心ついた頃から「ウチは貧乏だから」という言葉が挨拶よりも頻繁に母親から発せられていた。口を開けば「お金がない」と当たり前のように飛び出すのである。実際にどれくらいお金が無かったのか、母親亡き今となっては知るすべはなくなってしまった。しかし今思えば、この呪文の言葉を毎日言い聞かせることで、子供たちがおかしやおもちゃ等を欲しがらないように、先んじて『洗脳』していたのではなかろうか。日常茶飯事のその言葉は、当然私の身体に沁みつき、「ウチは貧乏」と意識しなくてもパッと浮かぶまでになっていた。母親の思い通り『洗脳』は大成功し、私は物欲をほとんど持つことなく育った。
そんな私が、1度欲しいものをお願いしたことがある。小学校1年生のクリスマス前に、母親が突然「欲しいものを紙に書いてサンタさんへお願いしてみたら」と提案してきた。これまで保育園でサンタさん宛に手紙を書いたことはあったものの、希望のプレゼントをお願いするという夢のような「裏メニュー」があるなんて思ってもみなかった。母親は「手紙を書いてお願いすると『良い子』のところにサンタさんがプレゼントを持ってきてくれる」というのだ。家族でも親戚でもないのに、『良い子』にはなぜか欲しいものを届けてくれるらしい。サンタさんとは子供にとってこれ以上ない「都合の良いじいさん」である。「知らない人から物をもらってはいけません!」が当たり前の時代でもサンタさんだけは別格扱いで、欲しいものをリクエストすることまで許されているのだ。何とも矛盾した不思議な話である。私はサンタさんの粋な計らいに驚きつつも、電池で動く時計のおもちゃをお願いすることにした。私はいつだって『良い子』だ。ということは、クリスマスまでそのまま生きながらえるだけでいいのだ。「そんなのお茶の子さいさいだ」と私はすでにプレゼントをゲットした気持ちでいた。
しかし、次の日から厳しい監視が付くことになる。学校から帰っていつものようにコタツにもぐりこんだ。そんな私に母親は「ランドセルを片付けてすぐに宿題をやらないとサンタさんからプレゼントをもらえないよ!」と言ってきたのだ。「そんなルール聞いてない!」と抗議したが、「サンタさんは不思議な力でどこに居てもあんたの事を見ているからね」と言われ、子供心に恐怖を感じた。そりゃそうだ、親でもないのに無条件で希望のプレゼントをくれるお人好しがこの世に居るわけないのだ。甘い考えだったが、時計のおもちゃを何が何でもゲットしなければ気が済まない。もう後には引けないのだ。仕方なくランドセルを片付け宿題に取り掛かった。しかし、サンタの不条理なルールはそれだけにとどまらず「食べた後のお皿を運ばないと…」「お風呂にすぐに入らないと…」「9時までに布団に入らないと…」など、『良い子』の基準となるサンタルールを次々とぶつけてきたのだ。母親はいつの間にか厳しいサンタルールを子供に押し付けそれを監視するサンタの手下と化していた。
苦々しいサンタルールに翻弄されながらも、とうとうクリスマスの日の朝となった。目を覚ますと希望した時計のおもちゃが枕元に置いてあった。赤い服を着た陽気なじいさんは私を『良い子』と認めて、わざわざこの団地まで来てくれたのだ。子供に忌々しいサンタルールを押し付ける「ろくでなし」だと思った時もあったが、世界中の子供たちから「サンタ!サンタ!」ともてはやされ好かれる意味をようやく理解した。おもちゃの箱を見てはニタニタと笑いが止まらなかった。これはサンタさんから貰った『良い子』の勲章なのだ。母親は、「せっかくサンタさんから貰ったんだから大切にしなさい」だの「使った後は箱に仕舞うこと」だの、また口うるさく言ってきた。何を言われようが貰ってしまったからにはもうこっちのものだ。「はいはい」と適当に聞き流し、私は毎日そのおもちゃで遊んだ。しかし、面倒くさがりで飽きの早い性分であったため1週間で箱から出すのが面倒になった。1ヶ月後には押し入れに仕舞われ、箱を目にしなくなったことも手伝って、いつの間にか私の記憶から存在ごと消え去り、押し入れの養分となっていった。都合の良いじいさんは物陰からその様子をしっかりと見ていたのだろう。次の年のクリスマスでは、手下から希望の品をお願いすること自体を却下され、サンタルールも自然消滅した。
そんなこともあり、自ら物を欲しいと思うことが益々なくなっていった。おもちゃ屋なんて連れて行ってもらうことがないため、今どんなものが流行っているのかも知らなかった。学校や日常の生活に必要な物が最小限揃っていれば何とか工夫して乗り切ることができると、経験で分かってからは、それ以上の物に必要性を感じないようになっていた。
小学校3年生の時、同級生から「見せたいものがある」と言われ家に招待されたことがあった。噂では何やらすごいものを見せてもらえるらしいのだ。あまりにも楽しみで、その後は全く授業に身が入らなかった。黒板の上の時計をにらみ、長針短針に「早く、早く回れ!」と念じ、その隣のスピーカーに「もういいから早くチャイムを鳴らしてよ!」と無茶ぶりした。やっと帰りの会が終わり、いつも一緒に帰っている友達に「先に帰る」と断って一目散に家にかけていった。母親は私の慌ただしい様子に「また学校でおしっこせずに我慢して走ってきたんでしょ」と呆れたように言ったが、今日はいつもと違うのだ。「友達の家に行ってくる。すごいもの見せてくれるってさ」とランドセルを放り投げ、待ち合わせ場所に急いだ。
どれくらいの時間待っただろうか。「すごいものって何だろうか」と想像する時間が楽しくて待ち時間も全く苦ではなかった。その当時『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』という番組が流行っていた。「もしかしてライオンやトラを飼っていたりして!ワニか象の可能性もあるなぁ」と想像しウキウキしていた。同じ町に『小さなムツゴロウ王国』ができると考えると楽しみでならなかった。
遠くの方からゆっくりと歩いてくる同級生が見えた。いつもと変わらない平均的な小学3年生の姿なのだが、これから未知のすごいものを私にもたらしてくれる同級生に神々しささえ感じた。私はエサを待つ犬のように同級生の周りにまとわりつき「何を見せてくれるのか」「どんなジャンルなのか」「ヒントがほしい」と問いかけた。そんな私に、同級生は余裕の笑みを浮かべながら、「着いてからのお楽しみ」とだけ答えた。
同級生の家は洋風のレストランのような外見だった。ウチの団地とは全然違う様式に「さすが、すごいものを持っているだけあるなぁ」と感心した。「どうぞ入って」と言われ通された部屋はアンティークなキャビネットや本棚に囲まれていた。中央には大きなソファが1つと一人掛け用のソファが2つ、その真ん中に大きなテーブルがあり、テーブルの上には深紅色の布で覆われた何かが置いてあった。今回の見せたいものはこの布の下にあると言う。
同級生は神妙な面持ちで「決して触れてはいけないよ」と言った。私は慌てて手を後ろに組み、少し後退りした。毒を持っているから触れたらだめなのか、と咄嗟に思ったのだ。タランチュラやキングコブラだとしたら、いくらケースに入っていても恐怖だ。悲鳴を上げてしまわぬように口をグッと結んだ。心臓がバクバクするのが分かった。
「じゃあ、見せるよ」と、同級生は深紅色の布をゆっくりと持ち上げた。恐怖で私の目は自然と薄目になり眉間に皺が寄って目を背けそうになっていた。しかし、現れたのは、初めて見る「おもちゃ」だった。理解が追い付かない私を尻目に、同級生は誇らしげに
「シルバニアファミリーでーす!」
と言った。
なんじゃそりゃ!
私が楽しみにしていた野望『小さなムツゴロウ王国』はシルバニア家の革命によって呆気なく滅亡した。
同級生は、自慢のコレクションだと言って手のひらほどの大きさのウサギやネズミの人形とその家族を一つ一つ紹介してくれた。そして、それらの動物たちに買い与えたという大きな3階建ての庭付きの家や、その中に配置されているティーセットにダイニングテーブルセット、ベッドやタンスなどの様々な家具を次々と事細かに悠々と説明しだした。動かないウサギやネズミは立派な洋服をまとっていたが、なんとお着替え用の洋服まであるというのだ。
後ろで組んだ手がゆっくりと外れていった。「動きもしないのにどうやって遊ぶのか」「何のためにこんな小さなものを買い揃えているのか」「汚れもしない人形になぜ着替えがいるのか」「そもそもこれの何が楽しいのだろうか」という疑問が私の頭の中を埋め尽くしていた。勝手に『小さなムツゴロウ王国』を想像してライオンやトラを期待してしまった私が100%悪いと今ならわかるのだが、その時の私は『ムツゴロウ』と『志村けん』が人生の大半を占めており、この「人形の世界」が異質の文化に映ってしまった。同級生からの説明は、初めて聞く異国の言葉のように私の脳裏をかすめることなく通り過ぎ、小学3年生にして初めて無味乾燥を味わった。本家『ムツゴロウ王国』のスケールを知っている私にとって、目の前にあるウサギもネズミも庭付き3階建ての家も、全てがしょぼくて無価値に見えてしまったのだ。私のリアクションは同級生が考えていたものとは違っていたのだろう、多分ガッカリさせてしまったと思う。その証拠にその後、同級生の家に呼ばれることは一度もなかった。
私は空虚感に襲われ、その後どうやって家まで帰ったのか覚えていなかった。元気なく帰宅した私に母親は「すごいものってなんだったのか」と尋ねてきた。「人形だった」力なく答える私とは裏腹に母親は興奮していた。「フランス人形でしょ。あれはすごく高いよ!」と、昔見たことがあるアンティークのフランス人形について饒舌に語りだした。もう人形の話はうんざりだ!『ムツゴロウ』と『志村けん』以外の情報をシャットアウトしたい気分だった。
大人になってからシルバニアファミリーが大変高価なものであることを知った。それを知ったうえで「あれだけのシルバニアファミリーを買い揃えるにはどれくらいお金がかかったのか?」にしか興味を持てない私は、たぶん一生同級生の家には招待されないだろう。
小学校高学年になる頃、「香り付きのポケットティッシュ」や「キャラクターが印刷してあるポケットティッシュ」が流行り、クラスの女子はみんな可愛いティッシュを持ってきていた。しかし我が家はというと「貧乏」という言葉を免罪符にポケットティッシュは買ってもらえず、箱ティッシュから必要な分を自分で取り、四つ折りにして持っていけばよいのではないかと母親が世紀の大発明をしてしまったことで、それがルールとなっていた。女子の間ではお互いのティッシュを交換する『ティッシュ貿易』が盛んになったが、箱ティッシュ四つ折りの私と交換したいものがいるはずもなく、声がかかることはなかった。私だけが自動的に『鎖国』状態となった。ただ、私には「香り付き」も「キャラ印刷」も、「ティッシュ貿易」も全く理解できず
「どうせ鼻水べっちょりついて捨てるだけなのになぁ」
としか考えていなかった。一通りの交換が終わったからなのか、あっという間にティッシュ貿易は衰退していった。
同じころ、可愛い柄の鉛筆や香り付きの消しゴムも流行った。ある時、体育の授業から戻ると可愛い鉛筆や香り付き消しゴムが盗まれるという大事件が起きた。クラスは騒然となったが、あっけなく犯人は見つかった。体育に参加していなかった子が一人いたのだが、クラスの女子とあまり仲が良くなかったことが原因で盗んでしまったと知った。私はその年に転校してきた新参者だったこともあり、自分のことで精一杯で女子のいざこざにまで気が回っていなかった。その子と町内が一緒で帰り道に会って途中まで一緒に帰ることもあったのだが、鈍感な私はクラスでその子が孤立していたことに全く気付いていなかった。
先生が被害の確認をするからと、筆箱を持って一人ずつ別の部屋に行くことになった。仲良くしていた子が私のそばに来て「お気に入りの鉛筆1本が無くなったよ」と悲しそうに教えてくれた。先週買ってもらったばかりだと言う。新品に近いまだ使える鉛筆がなくなったのだ、さぞ悲しいだろうとおもんぱかった。
私の順番になり筆箱をもって別室に行き、先生の前に座った。「無くなったものはありますか」と聞かれたので正直に「ありません」と答えた。しかし、先生はなぜか私の言葉に納得がいかない様子で「念のため筆箱の中を確認してほしい」と言った。何も盗られてはいないが、確認してほしいといわれれば仕方がない。私は1年生から使っているあずき色のボロボロの筆箱を開けた。中には、5センチほどになった緑色のトンボ鉛筆を尻で合わせてセロハンテープで止めた二刀流鉛筆が5本と、消しゴムと間違えて使っていた白と灰色のツートンカラーのトンボの砂消しが入っていた。先生は一瞬ハッとした顔をして「わかりました」とだけ言い、次の人を呼んでくるように言った。
可愛い鉛筆や消しゴムなんて買ってもらえるわけがない。親が使うために買った筆記用具のおこぼれが私の取り分なのだ。後から聞いたが、何も盗まれなかった女子は私だけだったらしい。自動「鎖国」状態が功を奏したともいえるが、なんとも複雑な気持ちが残った。
「貧乏だ」「金がない」と毎日念仏よりも唱えていた母親は、節約をはき違えた、ただの「ケチ」だと思う時がある。子供が喜ぶようなおやつは家にあったためしがないが、芋けんぴや干し芋は常備されていた。子供心に
「何でウチにはさつま芋のおやつしかないんだろうか?」
と思っていたが、それは母親の好物だったからだ。塩辛やサキイカ、チーズ等のお酒のつまみも食卓に並ぶことがよくあったが「子供は食べちゃだめ」と言われ、食べさせてもらえなかった。今思うと、親の好物はかなり常備されていた気がする。子供にだけ「貧乏」を強いていたのではないかと邪推してしまう。
母親の「ケチ」によって引き起こされた『水着事件』なる、最も忘れられないエピソードがある。
転校先の学校ではプールの授業があった。家にあったスクール水着は低学年の時に買ったもので着ることができず、さすがの母親も「仕方がないね」と観念し、週末に水着を買いに行くことになった。高学年になって一気に背が伸び胸も少し膨らんできたので、胸のところが二重生地になっているスクール水着にしようかな、なんて考えて浮足立っていた次の日、事件は起こった。
学校から帰ってきた私に「水着買ってきたから、ちょっと着てみなよ」とビニール袋を指さした。「え!?週末の約束は」と驚く私に「ちょうど安い水着を見つけてさ、半額だよ!すごいでしょ」と自慢げに話してきた。週末の約束を破られたことに納得はいっていなかったが「ウチは貧乏」なんだから仕方ないという気持ちもあり、ビニール袋を開け水着を取り出した。私は目を疑った。袋からはスカイブルーのハイレグ水着がドーンと飛び出してきたのだ。背中には全く生地がなく、V字に大きく切れた胸には座布団のような分厚いパットが入っていた。これまで見たことのない水着だったが、これがハレンチだということは私でさえ即時に感じた。145センチで35キロもないガリガリの小学生が着てよい代物ではないのだ。あばらの見える枯れ木のようなヒョロヒョロの身体を、男を魅了するセクシーな水着で着飾ることの異様さになぜ気が付かないのかと、はらわたが煮えくり返る思いだった。もし私がお店で「これが欲しい」ということがあれば、「色気づいてんじゃないよ!」と親として断固止めるべき品である。そもそもこんな水着、誰も欲しくないから売れ残っていたのだろう。『半額』という魔法の言葉につられた「ケチ」なおばさんが飛びついてしまったのである。学校のお便りにはどのような水着でもOKとは書いてあったが、こんなふしだら水着は学校側だって想定外で驚くに違いない。「あの子の水着はけしからん!」なんて職員会議にでもなったらたまったもんじゃない。
私は、「こんなの着たくない」と水着を放り出し全身で拒絶した。学校で笑いものになんてなりたくないのだ。そんな私の気持ちなど母親はわかろうともせず、「なんでよ、せっかく買ってきたのに。文句ばかり言って全然嬉しそうにしないから買ってきた甲斐がない。」と言い放った。この水着で喜ぶ小学生が居たら紹介してほしいものだ。紹介されたとしても、そんな奴とは絶対に仲良くなんてしてやらない。
そのまま私は母親と口をきかなかった。そうこうするうちに週末になったが、新しい水着は買ってもらえなかった。プールは月曜だというのに、もうどうすることもできないのだ。私にある選択肢は2つ。低学年の時の水着を着るか、『半額』水着を着るか。低学年の水着を伸ばして無理やり着ることができたとしても、きっと股に食い込んでハイレグ以上のハレンチ状態になってしまうだろう。どちらにしても地獄だ。
日曜、私は憂鬱で仕方なかった。布団にもぐり、明日のことを考えると、悔しくて涙が流れた。泣くことが大嫌いだった私は、辛いことがあっても泣かない、人に涙は見せないとその当時決めていた。それなのに、明日のことを考えただけで涙が止まらなかった。その時、母親が声をかけてきた。「叔母さんのおさがりの水着もらってきたから、着てみな」隣の市に住んでいる叔母さん(母親の弟の妻)から、着なくなった古い水着をもらってきてくれたのだ。明日への希望の光が見えたことで心のモヤモヤが少しずつ晴れていく気がした。私は泣いていたとバレないように涙を両腕で必死に拭って布団から出た。黄色の袋を手渡され、中から水着を取り出した。
「もっとハレンチやん!」
バイオレット色のその水着は股間が鋭角のハイレグ水着で、背中にもお腹にも生地がなく、たくさんの「紐」で繋がっている見たこともないハイカラな品だった。正直、どうやって装着するのかもわからない。そして案の定、座布団のような分厚い胸パットが入っていた。叔母さんは母親とは違い、金髪に近いパーマヘアで、9センチのヒールを履くようなイケイケ女子である。
希望の光が断たれ、またどん底に突き落とされた私は、怒りを露わにして喚き散らした。人前では泣かないなんて信念を冷静に考えていられなかった。怒りに任せて水着を引きちぎろうとしたが、憎たらしいことに無数の「紐」がビヨーンと伸びるだけでイケイケ水着は平然としていた。余計に腹が立った。私の尋常じゃない態度に「何が嫌なのよ!」と母親が逆切れしてきた。なぜこれで良いと思っているのか、自分の気持ちが伝わらないことが悲しくてしょうがなかった。「こんなパットついていたら胸が目立つから嫌だ」としゃくりあげながら説明した。母親はハサミを取り出して胸パットの縫い目を切った。「これでいいんでしょ!」と半ばキレ気味だった。胸パットだけが問題ではない。「こんなに紐いっぱいで、着方もわからん」と伝えると、今度は紐をハサミで切り出した。他の紐より少し太い紐にハサミを入れたが、それが間違いだった。その紐は、胸の布をぐるりと身体に止めるための紐だったのだ。ブラジャーで言う所のホックが付いているバックベルトの部分で、それを思いっきり切ってしまったのだ。この瞬間、イケイケ水着はただの端切れとなってしまった。念のため着てみろと言われ、しぶしぶ着てみたが、ハレンチの代表「貝殻水着」よりも胸が固定されていない『パカパカ状態』だった。そりゃそうだ、ただ布がふわっと胸の前にあるだけなのだから。イケイケ水着がダメだとわかると母親は『半額』水着の胸パットをハサミで切り離した。もう選択肢はこれしか残っていない。「明日はこれ着な」と胸パットを取り外した『半額』水着を渡してきた。嫌でしょうがなかったが、さっきのイケイケ水着がもっとひどかったこともあってしぶしぶプールバックに仕舞った。
次の日、思い切って「今日、休みたい」と伝えてみた。我が家のルールでは、熱が37度以上になるか、見た目の変化(怪我や皮膚の病気等)以外は休むことを許されていなかった。「熱ないよね」とだけ言われたのだが、これは休ませてもらえないのだと悟った。布団から出ないとか暴れわめいて学校にいかないとか、きっとやりようはあったのだろうが、その時の私は親に甘えることが全くできず、仕方なく学校へ向かった。先生にプールの授業を休みたいと伝えようと思ったが、嘘をつくことができなかった私は、休む理由を上手く考えることができず断念した。結局あの『半額』水着を着用しプールの授業に参加した。せめて誰か一人、「ハイレグ」もしくは「V字に大きく胸のあたりが切れた水着」の生徒がいますように…と神様に祈ったが、そんな無謀な祈りが叶うわけもなく、全員紺色のスクール水着だった。スカイブルーのハイレグ水着は当然私一人で、恥ずかしくて顔から火が出そうだった。転校生だったので「きっと前の学校がこの水着だったんだろう」と周りのクラスメートが勝手な解釈をしてくれたおかげで少し気が楽になった。しかし、『半額』水着は私の体には大きすぎて、胸のあたりがパカパカするのだ。必死に両手で押さえながら胸が露わになるのを阻止した。ハイレグを隠すために出来るだけ水の中にいるか、プールサイドにしゃがむことで目立たないようにもした。苦労の末、何とかプールの授業を乗り切ったのである。終わってしまえば何てことない、楽天家の私は「案外何とかなるなぁ」と、自信につながる体験となった。
その後、学校の改修工事が決まり、プールを取り壊すことになったため、プールの授業が全て取りやめとなった。問題の『半額』水着はたった一度の着用で終わった。母親は「1回しか着ないんだから『半額』でちょうどよかったわー」と勝ち誇ったように笑っていた。なんとも憎たらしい。
私はこれを反面教師として、たった一度しか使わないとしても、自分の子供には「ケチ」なことはせず、きちんとしたものを買ってあげようと強く心に誓った。
小さい時に心と身体に沁み込んだ考え方を変えるのは難しく、今でも高い商品を買うのは憚られるし、『半額』や『〇%OFF』に心が躍って反応してしまう。子供に『ウチは貧乏』だと伝えることの是非は私にはわからないが、
もし仮に、本当に貧乏であったとしても、心は豊かでありたいと思う。なんてね。
「貧乏」編はこれにて終結。おあとがよろしいようで。
陽口(ひなたぐち):小学校の思い出(貧乏編) 鵺 @n-nue
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