第40章 乃至《土曜だどうよ》第二幕で示さるるは姫君ら含む安息日厳守の女たちが如何にして別のふたりが粉を拭い去ったが如くそれを撒き散らしたか、皆せっかちな兎が駆け巡り「遅刻だ遅刻!」と叫ぶに(後略)

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第四十章

乃至《土曜サーバドどうよサバデーテ》第二幕で示さるるは姫君ら含む安息日厳守の女たちサバターリアスが如何にして

別のふたりが粉を拭い去ったが如くそれを撒き散らしたか、皆せっかちな兎が駆け巡り

遅刻タールデ遅刻タールデ・ジャ!」と叫ぶに急かされし故だが、其こそ維納の魔宴アケラーレ・エン・ビエーナに参ずる為の須要しゅよう也。

Capítulo XL.

O el Segundo Acto del «Sábado, sabadete» que muestra cómo se espolvorearon las sabatarias incluso algunas princesas

tal y como los otros dos despolvorearon, apresurados por el conejo que de prisa y corriendo estaba gritando,“¡Es tarde, es tarde ya!”,

puesto que era una condición sine qua non para asistir al aquelarre en Viena.

[訳註:《粉を掛けるエスポルボレアール埃を払うデスポルボレアール》は《化粧する/化けの皮が剥がれる》と解釈すべし]


「お久し振りです」

 ――いつ、どの日付からデースデ・クアンド、ケ・フェチャ可愛い矢さんプティータ・フレーチャ?[訳註:前章末で著者は《矢尻》を《売女な矢プタ・フレーチャ》と訳したものの、流石に品がないと反省してかputita《売女ちゃん》と音の近いカタルーニャ語のpetita《小さなペケーニャ》に置き換えている。発音は/pəˈti.tə/で仏語のpetiteにより近いが、バレンシア方言ではカスティーリャ語と同様/peˈti.ta/と読む]

「……ご無沙汰」各務かがみは恐る恐る相槌を打った。[訳註:兜の覗き窓を上げて]目を合わせたという意味でなら、五日前の沼津海岸以来と解釈すべきだろうか? しかし青年は、ひとつ大きく息を吸い込んでから、敢えて冒険に出るセール・アベントゥレーロ[訳註:名詞としては《遍歴の騎士アベントゥレーロ》の意味も]道を選んだ。「大恩ある先生の門出も知らず、遠き異郷にてのうのうと」

「おじいちゃんが帰国するまでしらせるなって言うから、ごめんなさい」我々が一度として聴いた例のない、頗る線の細い声ボス・コモ・ウナ・リネーア・タン・デルガーダであった。「それでカガミさんはいつ頃のお戻りだったんですか?」

「……え? ああ、」果たしてこの少女は正気に戻ったのだろうか? それとも嘗てはその身に宿していた分別コルドゥーラをさも再び迎え入れた風を、戯れに装っているだけ?――というのもラ・サンチャの騎士が欄干に吊り下げられてから石畳の上に帰還するまでの間、彼女自身が月まで四頭立てを走らせるなり、然もなくばオルランドがそうしたように、盟友アミーゴ・フィエールを遣いに出すなりして瓶詰めの正気インヘーニオ・エンボテジャードを取り返してきてもらい、その鼻から吸い出すといった一連の出来事が、盲のアベンダーニョは兎も角その場で絶えず光っていたと思しき他ならぬ学士の目をすら欺きつつ発生したなどという説明は到底受け入れ難いものだったからである。[訳註:とはいえ呼吸困難にて悶絶していた数十秒間に関しては、白目を剥いていたとまでは言わぬにせよ、とても他人の様子を注視できるような状態でなかったことも又事実であろう]「――まぁ、先月の中頃には」

「じゃあひと月近く経ってやっとってこと?」

「ナジル人の如く詰りなさる!」[訳註:「彼のナジル人のように蘇ったなボルビーステ・ア・ナセール・コモ・エル・ナサレーオ!」土師はじのサムソンは頭を剃られ一度はその怪力を失うも、神への祈りが聞き入れられてその力を取り戻すや建物の支柱を折って倒壊させ、大勢のペリシテ人を道連れにその下敷きとなった]

「なじり?」[訳註:「かのナジル人のように?」]

「あいや……」余りに真っ当な反応レアクシオーン・ムイ・アプロプリアーダに各務はたじろぎながら以下に続けた。「アソーギ家には何度かお邪魔したんですが……天岩戸がね」

「ああそっか、部屋から全然出なかったから」

「そりゃもう、彼の《小森の騎士》すら眉を顰める繭籠まゆごもりで」去る七月の半ばというと我々がこの物語に耳をそばだて始めた日――則ち阿僧祇花が自室の扉を開けたばかりか自宅の玄関まで破り出て回転木馬の辺境伯マルグラーベ・デル・ティオビーボ[訳註:第一章では《おっさんティーオ》と呼称されている。《馬上模擬戦闘カロセージャ》を語源とする回転木馬カルセールをtío vivo《生けるおっさん》と呼ぶようになった由来としては、十九世紀前半のマドリードにて或る回転木馬の所有主が一度は病死と診断されたものの、埋葬の直前に突然起き上がり「俺は生きてるエストーイ・ビーボ!」と叫んだ――という逸話が残っているのだと謂う]と邂逅し騎士に叙任せられ、半坐千代が馬場久仁子の失態と背信に依って神経衰弱に陥った日[訳註:共に第一章参照]――から遡ること更に一週間前後であろうか?「携帯も通じないとかで芙蓉姫ふようひめに相談を持ち掛けられたまさにその日、何の前触れもなく蛹を抜け出したと思ったら、このジリ貧おじさんとは一度も顔を合わせぬままにその十日後、一度会った切りの後輩を従者に据えてあらぬ旅へと飛び去ったのだとか」

「芙蓉の?……ああ」[訳註:本稿では芙蓉を一貫して《ナイルの薔薇ロサ・デ・ニロ》と訳しているが、それに依り蓮華と《美しき薔薇ロサリーンダ》という呼び名も自然と結び付けられている]

「不要不急が聞いて呆れる。丁度七日前の昼日中に端無はしなく箱根行きを命じられたかと思えば、不用意なまま天の配剤のみ頼りに芦ノ湖岸で捕まえたはいいが……いやあそこで鉢合わせるとはこちらも想定外だったし実情は《捕まった》が正しいか……、浜辺じゃ巧く煙に巻けたと眉を開いていたのも今は昔、終点間際の県境まで来て主従は煙のように消え……つまりは撒かれましたと報告するやその芙蓉のまなじりを逆八の字に吊り上げて――まァ電話だからあくまでこっちの想像ですけど――《この役立たずのしくじりギリーの》と詰るわ野次るわ……」[訳註:《しくじりギリー》の語意は測り兼ねるが、例えば英語のgillieを当てるとなれば「未成年の案内役ギリーも満足に出来ないのか」となろうか。著者は「旅行気分か」という非難を込めて西語のguiri《白人観光客》と記した。実際にはBillieと発音されていて、尻と《ビリッケツ》を掛けたのではないか、若しくはイーストウッド監督主演の映画『荒馬ブロンコビリー』のbroncoとblancoを掛けたのだとも考えられるが、何れにせよ柔和な安藤嬢の口から発せられた科白とは信じ難い。場を取り繕わんとした烏小路に依る咄嗟のお巫山戯であろう。「その若者の顔に《悪行三昧の観光客ギリ・デ・フェチョリーアス》なる渾名を浴びせずにはいられなんだ(No pudo evitar echarle en cara al muchacho un apodo como «guiri de fechorías».)」。又、《眼尻を逆八の字に》は《眉を奇形にしてコン・ラス・セーハス・マレーチャス》となっているけれど、通常cejas mal hechasと書けば化粧で眉墨を失敗した顔を思い浮かべるのではないか]

「レンちゃんは電話で野次らないでしょう」花の含み笑いに呼応して新たに肺腑を圧迫された青年の鼻からは、押し殺した嗚咽に代わり妙な踏ん張りエクストラーニョ・エスフエールソ――これが彼の理性ラソーンでなければよいが!――が漏れ出る。「――あっすみません《矢尻》が、突き刺さったままでした」

「いやぜんぜ――カハッ!」

「あぶないっ……」立ち上がり損ねた弾みで更にとどめの尻落としアターケ・ファタール・デ・カデーラを食らわせてしまった少女は、次こそは慎重を期して先に敷石の上へ両手を付いた。「ほんとごめんなさい。凄い靴履いてるな……」

「……ぜん…………ぜん」ギーリはひとつ大きく空咳を吐いて喉のつかえを内から押し出した。「次は是非とも背中の方に跨っていただけるのでしたら、戦いに備え愛馬が足を休めている束の間くらいの腰掛け代わりに、僭越ながら多少はお役に立てるものと存じます」

「本来の意味での桃尻ですね」[訳註:これは先端が尖っている為。著者も事ある毎に文中で「肉付きが好いという意味ではなく据わりの悪い尻のこと」との解説を繰り返してきた]

「そこは二瘤駱駝カメルース・バクトリアヌスとでも呼ぶべきだな」因みに瘤がひとつウナ・ホローバのものをアラビアラクダカメージョ・アーラベと呼ぶ。[訳註:学名では《競走駱駝カメルース・ドロメダリウス》]「転じて《バクトリアの椿カメリア》か」

「カメルース? コブ付きってこと?」

「だから……」各務は言葉に詰まった。日本語で《コブ付きコン・ヒーバス》といえば前の相手との間に出来た子供たちムヘーレス・ケ・ブエールベン・ア・カサールセ・トラジェンド・ア・スス・ニを連れで再婚する女性ーニョス・デ・アンテリオーレス・レラシオーネスを指すが、広義には年少者を伴って出歩く場合などにも用いられる言葉だ。となると寧ろ沼津に於ける彼自身や、静岡やここ名古屋での御子神嬢の役どころこそに当て嵌まる状況だろう。[訳註:西語のgibaにも《邪魔者/厄介事》といった語義がある]「ラクダやらラマやらはよく唾を吐くと言うし」

「ツバ?」

「いや燕返し……」おお、ツバメ姫プリンセーサ・アンドリーナ、貴女の放った追跡者ペルセギドールが遂にホシエストレージャを捕えましたぞ!

「刀の、鍔?」

「いやその、《桃尻》の称号まで取り上げちゃ従者ど――チヨちゃ、ハンザさんが可哀想ですよと」さて千代さんの二つ名としてその称号が用いられている場面にこれまで青年が出会していたかどうかを本書を読み返して確かめる手間は省かせてもらいたいけれど、少なくとも彼が一度は水爆水着ビキーニに身を包んだ女子中学生を間近で視認していたことだけは筆者にも憶えがある。[訳註:第八章ではそれ以降、従士が学士を《場を弁えぬ猥言好き》と見做す契機となった件を確認できる]「あの御仁もああ見えて果肉以上に面の皮が厚い、謂わば皮肉を司りし《非難の神モーモス》の化身なんじゃないかと僕は睨んでるんだけど」

「はあモモス……」手応えが薄いススシータ・ポカ・レアクシオーン。「モモスもスモモもモモの内?」

「まァ桃尻は内腿の上かな」

「なるほど。スモモとモモならどちらかといえばスモモの内ですけどね」この李の果実シルエーラとはスモモ属プルヌスを意味している。[訳註:但しサクラ属ケラススに分類する地域もある]「……さあ《李下に冠を正さず》、そんなとこでいつまでも寝そべってたら邪魔なだけじゃなくてかなり怪しいですよ」

「……ごもっとももす」すっかり消耗した各務は力なく片手を差し出した。「《瓜田かでんくつれず》って? 瓜畑と距離を置くのは容易いけども、ウリ坊は向こうから突進してくるから防ぎようがない。この上モモだかスモモだかまでがひとりでに落ちてくるとなったらとても……っこいしょ、リカちゃんまでは手が回らんね」[訳註:前章にてドニャ・キホーテは椿からの流れで《牡丹の騎士》という呼称を引き合いに出し、細やかながら自身と猪とを関連付けている。又ここでいう《ひとりでに落ちてくる桃》とは、言うまでもなく彼女の尻落としを揶揄したもの]

「無理してリカにまで……ん?」[訳註:第二十章、岡崎にて千代「無理して理科にまで冠出さずとも」]

 青年を助け起こそうと背中に重心を乗せた花がふと首を捻ると、その視線は自然と川下へ投じられた。勿論眼下の水面には最早、ゆっくりと流れていく桃だの兜だのが浮かんでいる気配など些かも感じられなかったに違いないのだが。


細流リアチュエーロに依り東西に分かたれた土手を抉るが如き疾風が新たに吹き抜けるなり、河岸に沿って植わっている木々の豊かな頭髪カベジェーラを賑やかにさざめかせた。

「――んっ」少女は後ろ髪を抑えようと、何気なしに片手を添える。「……あれ?」

 まさか三軒茶屋の実家を飛び出して後の記憶が丸々失われているというのも俄には信じ難い事態であるし、騎士だ何だという狂気自体が端から狂言であった可能性も未だに否定できないとはいえ、何が引き金となってこの少女が豹変したのかを一向に見定められておらぬ以上、臆病なカガード各務参三[訳註:《糞するカガール》の形容詞形で子供の排泄訓練コントロール・デ・エスフィーンテレス・インファンティールを意味することもあるが、一般には極度の怖がりを指す]としては次に採るべき言動も慎重に選択せざるを得なかったであろう。

 花が噎せ返るような川の香りに背けた眼差しを北へ転じると、直ぐに高欄の根元で横たわる若干草臥れた祖父譲りの競技用自転車ビシ・デ・ルタが目に付いた。つい先刻などは二度に渡る自動二輪の突進にさえ驢馬の如く耐え切っていたというのに、いやはや大自然の口笛一吹きウン・ピティード・デ・ラ・グラン・ナトゥラレーサの前では然しもの風切る塩振りサレーロ・ピタンド[訳註:ここまで《塩の騎士》を背に乗せ≒揺らして走っていたから?《警笛のように去るサリール・ピタンド》でずらかる程度の意味]とて押し止める術がなかったとみえる。

「いたた」片側の足首を摩りつつ近寄り、腰を屈めて助け起こすお尻の小さなノーマ・ジーン。[訳註:第十八章では左右の靴踵の高さを変えて魅惑的な尻振り歩行を実現した女優マリリン・モンローについての言及があった。片足首の負傷がそれと似た効果を齎したと?]

 次いで石畳の上に無造作に転がっている棕櫚箒を視界の片隅に捉えるや、愛車の握り手マニジャールを押して傍まで進み、再度地面へと手を伸ばした。

「お預かりしましょう」青年は依然として紳士的なデ・ウン・カバジェーロ――というより多分に芝居じみたオ・メホール・ディチョ・コン・ムチャ・テアトラリダッ――態度を崩さぬままに手を差し出した。「僕がサラマンドラ出の学士でないのと同じく、貴女だって魔女サマンサやその母親エンドラじゃあないんですから」[訳註:一九六四年に始まり日本でも二年遅れで放送されて人気を博した米国の状況喜劇番組スィットコム『奥さまは魔女』――原題Bewitchedは《魅せられて/魔法を掛けられて≒魔女に生まれて?》――の主人公の名がSamantha Stephens]

「エンドーラ」花はそう繰り返すと、その可愛い鼻を小さく動かして渋面を作ったアシエンド・ウナ・ムエーカ・コン・エル・レベ・モビミエーント・デ・ス・ナリース・ボニータ。「……エンドルの巫女いたこ?」[訳註:旧約則ち猶太語聖書『サムエル記』でペリシテ人との闘いを前にサウル王が預言者サムエルを口寄せしてくれるよう頼んだ霊媒師は《エンドルの降霊窟オブを所有する女》と呼ばれ、人類史上で最初に記録された魔術師のひとりとされる。橋の上でしつこく引用され続けた土師サムソンからダビデ戴冠に至るイスラエル建国史を繋ぐ一逸話の挿入は、少女の自意識の是非を類推する上でも極めて興味深い]

「いやまあ、円ドルはまだ固定相場制だったかもだけど……何かこっちまでお口周りに昭和臭が染み付いちゃったよ」策士トリッキーディッキーが自国の通貨を金の軛から断ち切って以降、日本も他の先進諸国――我が国の窮乏に関しては(ここに居る誰かさんとは別の)《白い尻クロ・ブランコ》を箒の穂で思い切り打ち据えることで不問に付すとしようではないか![訳註:独裁者フランシス・フランコの死は七五年]――と同様一九七三年には変動相場制へと移行している。いやそれ以前に目の前の十代の少女アドレスセーンテは、盾貨エスクード王貨レアールどころかどうやら紀元前の魔女を引き合いに出しているようだぞ?「それとも映画通たる幼馴染への手土産に、《黄金の棕櫚パルム・ドール》とか何とか云って献上する?」

「慥かに……《金の球バロン・ドール》貰うよりは実用的かも」――《金の玉ボラ・デ・オロ》といえば丁度一時間半前、地下駐車場でも聞いた言葉だ![訳註:文脈はかなり異なるが、前々章を参照されたい]

「ゴスロリ趣味の後輩ちゃんになら磁器人形ビスク・ドールとかのが相応しいかもだけど?」その後輩コーハイも今頃は客室内で、アベンセラーヘの胴着コルピーニョの重要な構成要素たる前面留具ブースケに依る痛みドロールを味わっている頃合いだろうか?……主人の捜索ブースケダを早々に打ち切って![訳註:X型の括れを作る為とはいえ、背面の縦一列に空いた鳩目オハーレスに紐を通し締め上げることで、肋骨や内臓が厳しく圧迫されるからである。服飾用語のbusque/buskについては第二章の半坐家浴室の場面にて詳解した]

「荒廃というより頽廃かな」[訳註:「片足ではなくノ・コハ目の大きなコン・オハーソス人形ムニェーカ)」]

「え?……こちらもそこまで世話できるほどにゃ余裕がありませんがね」骨董品アンティグエダーデスともなれば、それこそ《激安の殿堂サントゥアーリオ・デ・スペルバラート》で購った箒千本分の代金が請求されてもおかしくはなかろう。「まっ、何にせよハキハキとモノを云うようになったのは怪我の功名塞翁が馬ってとこかしら」

「はあ、功名……馬」

人形ドール球体ボールの代わりといっちゃ何だけど、今後馬から落ちて怪我せぬ為にもここからはこいつを冠ってくといい」青年は愛車の尻――つまり兜入れポルタカースコ――を押し開くと、ネクロカブリーオの代用品スブスティトゥートを取り出した。常時予備を携行するというのも不自然なので、もしかしたらこれもわざわざ《殿堂》で買い求めた代物やも知れぬ。[訳注:急遽二人乗りする必要に迫られた際の保険として予備を持ち運ぶ分には然程おかしいとも思えない]「川下りしてったのも自転車用じゃなかったように見えたがまァ、気に入らなけりゃ途中で捨てるなり……怒られるか、東京戻ってから返してくれてもいいし」

 幾分大振りな防護帽を手渡された花は、然程の興味もなさげに開閉式の風防面ビセーラ・アバティーブレを上下させてみる。

「これでチャリ漕いで恥ずかしいってこたないと思うけど……恥ずかしいか、山下りダウンヒルってんならともかく」全面帽カースコ・インテグラールなのであろう。「まァ怪しいと思ったらこれ上げて乗れば少なくとも変ではないだろ……ほら、李下じゃなくて……ナントカおくべし?」

「《奇貨くべし》」[訳註:《珍品逃すべからずアルゴ・ラロ・ノ・テ・ピエールダス決して手放さず活かすべき時に備えよアテソーラロ・イ・グアールダロ・アスタ・ケ・セ・ブエールバ・ウーティル》と意訳した上、後半部分は丸括弧で囲っている]

「きかきか、アマディスの旗下に参じ……三茶への帰還もとい帰参にも入り用でしょう」

「何だか帰り途で《奇禍に遭うべし》と予言されてるみたいな……」花は改めて四方を見回して以下に続けた。「――ここって名古屋、なんですよね?」

「そのようで……ご安心なさい。僕はベルガラスでもなければ祝いの席に呪いの品を持ち込んだ招かれざるボルカラスでもありませんので、」その贈答品ガラ自体ならば高価なお椀ボル・カロではあるだろう!「――中に茨の棘やらお尻の針やらを仕込むなんて真似はしてませんから」

「ああ茨の森って、それを言うならカラボスでしょ?」

「そうだカラボスカラボス、ボスカラス」

「お姫様の指に刺さるのはお尻じゃなくておつむの……じゃなくて紡錘つむの針だし」舌鋒ボカドゥーラならぬ尻針ピカドゥーラ[訳註:『眠れる森の美女ベル・オ・ブワ・ドルモン』で暁姫オロール――神話上の曙女神アウローラ太陽神ソル月女神ルナの妹でもあった――を目覚めさせたのが王子の接吻であるのに対し、本書では逆に眠り姫が男に尻餅を搗いたことが覚醒の契機となったことを示している]を通じて長き眠りから目覚めたのだと思しき齢十六の少女としても、些か尖り気味な己の臀部に況して妙に風通しの好い後頭部の方が――指の触れる毛先の尖り具合などはさぞかし針の筵レチョ・デ・エスピーノスを想起させるに違いない!――ずっと気に掛かるようであった。「ペローの童話とバレエの台本じゃ大分趣きが、違うみたいですけど……えっと」

「ふうん、カエルの代わりにカラスが聖ミカエルの役割を果たすとか?」尤も我々が耳にしたのは蛙に依る受胎告知アヌーンシオ・デル・エンバラーソではなく、蛙自身が埋葬される一場であったのだが。[訳註:第三十三章参照。駄洒落に口を挿むのが大人気ないのは承知の上、聖母マリアに懐妊を告げた大天使がガブリエルであってミカエルでないことは記憶に留めておくに如くは無しだろう。又、蛙が王妃に暁姫誕生の予告を齎すのはグリム版のみであり、ペロー版にその件は無い]「……バレエといえばプティパの『ドン・キホーテ』に出てくる宿屋の娘は名前何ってったっけ?……尻取り?塵取り?」[訳註:第十章の銭湯浴場内でも俎上に載せられていたが、正解はKitriキトリ。原作小説ではQuiteriaキテーリアで、これはアフロディーテの生地とされるキテラ島(Κύθηρα)から派生し、この女神の異称でもあった古希Κυθέρειαキテーラーに由来すると謂う。他にも羅語のquietusクウィエートゥス《穏やかな、平和な》に起源を求める説などがある]

 ラ・サンチャの娘の精神状態を量る為に敢えて綱渡りが如き話題テマ・フナンブレースカ[訳註:西funamblescoの語義は《これ見よがしな》が近い]へと踏み込んだ望まれし渡り烏カカローテ・デセアード[訳註:『眠り姫』で口付けする王子の名が仏Désiré《望まれたデズィレ》]ではあったものの、これが彼女の耳には聞き流して構わない冗談と響いたのとて矢張り無理からぬことには違いなかった。

「さ――て、どうやって帰ろう……」

 ヘニル川沿いでは防護帽を隠し持てる程には大きな荷物入れボールサを携行していたわけだから[訳註:岡崎のパロミ宅を発った直後の第二十一章終盤を参照のこと]一先ずそこに仕舞う手もあったとはいえ、頂戴した側から使わないというのも気が引けたらしき阿僧祇花は、ドンブリーノと比べるとかなり圧迫感が強く、《水精オンディーナ》や《紫丁香花の妖精アーダス・デ・ラス・リーラス》が戴くそれよりも数リブラ――つまり数十オンシーナ[訳註:カタルーニャ語圏の苗字oncinaはカスティーリャ語の常磐樫エンシーナと語源を共にするが、質量の単位onza《オンサ》とは関係ない。因みに植物の名称がlilaと綴る一方、通貨単位はLira(₤)と書き、こちらは質量・通貨の単位でもあった《天秤リーブラ》が変化したもので蘭pond/英pound=16ozと相関する]――は重かろう兜鉢をスッポリと被るや、所在無げに、そしてやや覚束ない足捌きフエーゴ・デ・ピエールナスで自転車に跨るのだった。


青年はここで思案する……彼女は一体巫山戯ているのか、それとも寝惚けているのかと。

 さて《ラ・サンチャの騎士》が徹頭徹尾この娘の演技アクトゥアシオーンだったとする限り、それはもう訳無き話である。一渡り家族や友人に気を揉ませ周囲を混乱させたのを見て本人も気が済んだということなら、後は東京に連れて帰ればよいだけのことだ。箱根山に置かれた大釜カルデーラの湖岸で主従と巡り合った折にその場で確保しなかったのみならず、剰え更に西へと泳がせるという各務の機転とて、遣り場なき花の心情を汲んでのこと[訳註:第七および八章を参照されたい]――と、今となってはそう斟酌できぬでもなかった。

 では真実多重人格障害(DPM)――解離性同一性症トラストールノ・デ・イデンティダッ・ディソシアティーボであった場合はどうか? そうなれば状況は多分に複雑化するだろう。無事阿僧祇家に送り届けたところで、祖母や中学生の妹にどのような説明を付すべきか、今後如何にして彼女を社会に復帰させるか等々に思いを馳せるに付け、偽カラスは日夜頭を悩ます羽目となるに相違ない……[訳註:著者は当然のように話を進めているが、現時点でこの若者と阿僧祇家の接点については全く以て明らかにされていない]

 けれども後々降り掛かるであろう諸々の瑣事に心を砕く前に、先んじて判断を下さねばならぬ喫緊の問題が別にあった。それは言わずもがな、その目にこの不登校中の女学生がこれまでとは一転して甚だ頼りなく映っていたことに他ならない。則ち出会した旅館の玄関先で初めてその実物ビダ・レアールを目にして以来禁じ得なかった《何か仕出かすのではないかセ・プディエーラ・アトレベール・ア・アセール・アルゴ》という鬼胎が、今度は《何かに巻き込まれるのではポディーア・インボルクラールセ・エン・アルゴ》という老婆心に取って代わられたのである。

「帰りもお供と一緒なら何かと安心でしょ」

「お供ですか?」

「だからほら……犬猿雉とか、猿豚河童的な」その臨時編成コンポネーンダではひとり押し出されてあぶれる計算となろう……否、『西遊記』に登場する美僧グアーポ・モンヘの別名《三蔵トリピタカ》――三つ揃いの籠トリープレ・セースタ――が参三と読みを同じくすることも鑑みれば、ことに依ってはふたり弾き出されぬとも限らぬではないか![訳註:『西遊記』及び『桃太郎』に関しては第二十六章にて、牙城を出発する間際の千代さん一行がそれぞれ誰が何に該当するか議論する件があった]「……大所帯が煩わしけりゃその、往路と同じくキタさんひとり連れて帰路に付くってのもありか」

「同じ同行二人ならキタさんよりソラさんの方が……」そう答えつつも――このソラとは浜名湖で出会った少女の名ではなく[訳註:本書では《穹》の字を当てている。第十四および十五章を参照されたい]、江戸時代の俳人松尾芭蕉の諸国行脚に同行した弟子河合曾良を指すのである――花が上の空であることは我々の耳にも明らかであった。「行く先々で面倒に見舞われちゃ大変ですし」(この少女の口からこんな科白が飛び出すとは!)

「……まァ、行きは何事も無かったのかも知れんけど」何事も無かったノ・レス・ア・パサード・ナダ?「――そら飽くまで相互扶助の、相方がいたからこそ手を出しにくかっただけであってさ、今度は女の子独りで帰り変な奴らに絡まれでもしたら……ねえ? 危ないでしょうに」

に恐ろしきは――」

「ん?」

「――賢き敵より阿呆の味方」……待て、これは如何にも我等のよく知る例の騎士こそが口にしそうな格言ではないか?[訳註:《愚者が友であった場合そウン・トント・テ・アメーナサ・マス・スィ・エス・れは賢き敵以上の脅威だトゥ・アミーゴ・ケ・トゥ・エネミーゴ・サービオ》という西訳は恐らく別の諺《賢人は敵から愚者が友かウン・サービオ・アプレーンデ・マス・デ・スス・ら学ぶ以上のことを学ぶエネミーゴス・ケ・ウン・トント・デ・アミーゴス》を捩った表現であろう]

「こ……れは手厳しい」不意に届いた少女の決断的な物云いロ・ケ・ア・ディチョ・デテルミナンテメンテ輝く尻の二輪乗りモテーロ・デル・クロ・エスペホーソは思わずたじろいだ。

「――それが将なら尚のこと[訳註:《指揮官であった場合は尚悪いスィ・エス・トゥ・コマンダーンテ・アウン・ペオール》]」花は柔和な声色に似合わぬ冷徹な科白を吐きつつも、向かいに立つ青年をやや上目遣いに射抜いた。「……とか?」

 各務は返答に窮した。

「ちょっと、変な顔しないでくださいよ」意想外な反応に堪らず噴き出すその呼気が、顎先を包む面頰に跳ね返りその唇を更に湿らせる。「カガミさん別に私の上官でも責任者でもないでしょ」

「ん?……まァこの場に限ってはある意味保護者――というか、」彼が閉口したのは自身を愚者に擬えれられたと早合点したから? そうではあるまい。というのも主従各々にとって《命令者コマンダーンテ》と呼び得る存在といえばそれはアマディス/アマデウス只一人を措いて他になかった筈ではあるものの――それとも中世の救護騎士団オールデン・オスピタラーリアに於ける称号としてはドン・スエロを推す向きもあるだろうか?[訳註:レオンの騎士スエロ・デ・キニョネスが何処ぞの団で指揮を執ったという記録はないが、彼が《武装の路パ・ダルム》を実践した橋に接する街オスピタル・デ・オルビゴの地名およびその由来については第二十九章の訳註にて述べた通り]――、この物語でもし《制する女コマンダーンタ》――乃至《女騎士長コメンダドーラ》[訳註:《騎士長》であれば勿論ドン・フアンが殺害したドニャ・アナの父ドン・ゴンサロのことである]――という呼称が記された場合それは阿僧祇花を意味し、《従う女スィルビエーンタ》といえば差し当たりこちらは半坐千代を指す単語だったからに他ならない。[訳註:つまり道中を共にしてきた従者を冷酷にも阿呆扱いして突き放したのかと思いきや、実際に卑下していたのがこれまでは寧ろ尊大な言動が顕著であった花自身だったことに面食らって《変な顔》になったのである]「後見というか……世話役?を務めるべき立場かも知れんけども」

「カガミさんもこれから東京帰るとこなんですか?」花は足踏みマルチャール・エン・エル・ルガールに代え踵で片側のエストリーボを逆方向へ蹴り上げると、空転する爪車トリンケーテに伴って上下する踏み板ペダールを横目に見下ろしながら小さく呟いた。「……自転車だと何日掛かるだろ?」

「ハッケツの騎士リッターなんて商標レッテル貼られちゃいるけども、こちらの立升リッター[訳註:排気量千立方糎以上の大型自動二輪リッターバイク、つまりケルピエのこと]に限ってはうっかりガス欠なんて無様を晒したこたあこれまで一度もございませんので」鞍の後部をポンと叩いて、「何ならラ・サンチャはアソーギ邸の門前までニケツにてお送りしてもよろしくてよ?」

「ラ・サンチャ?……ああ」この相槌も筆者の耳には幾分空々しく響く。「でもこの子、持って帰らないと」

「あいにく荷台や側車は備え付けておりませんので、そちらのお子さんは郵送するなりしていただかにゃなりませんけど」ママチャリは運べても競技用自転車はお断りなどという法があるだろうか!……とはいえ沼津での話にしても、千代さんとシャルロットの双方を載せて公道を走るとなれば流石に無理があったかも知れぬ。「お尻は痛くなるだろうし快適な旅とまでは望めないにせよ、ほらさっきも言った通りその……ヴォルフ様、だっけ?がこの地に留まってる限りは、その閣下?だって見送り狼以上の役は演じられんわけで」

「見送り狼って何?」

「腹に一物あったところで指を咥えてサヨナラするしか能がないってこと」

「腹に……下腹に毛が無くても?」[訳註:第十九章の岡崎の《殿堂》内でも「おぬしの下っ腹に毛が無いなんてことは――」という科白が確認できる]

「そうそれ。その点俺なんかは大ガラスの羽毛付き毛皮を被った仔羊ですから」調子付いた嘗ての烏小路は戯けて両腕を翼のように広げてみせた。「シヴァ派シャイヴィズム[訳註:ヒンドゥー教に於ける宗派のひとつ。《内気派》であればshyismシャイズムとでも訳すべきであろう]に傾倒することはあっても剃毛派シェイヴィズム[訳註:これは彼の造語に違いないが、直前に出たナジル人の剃髪に関する誓願から連想を得たものとも考えられる]に荷担する気なんか更々ないもんで(原註:頭頂部に修道士の剃髪トンスーラを模したが如き皿を載せた河童が日本では好色の象徴であることについては、六時間も前にボルランドを遣り過した四人組が伝馬橋を通過した辺りで述べた通りである)――、」

「そんな盲目的優越主義ショーヴィニスムみたいな」ほんの数分前まで散々騎士至上主義シュヴァルリスムに耽っていたとは思えぬ口振りではないか![訳註:《騎士制度/騎士道(精神)》の仏語訳としてはchevalerieシュヴァルリが適当だが、恐らく西語のcaballerismo(caballerosidad)を仏語風に置換したのであろう]

「腹の下に毛もあれば背中の下には当然ケツもあるって寸法ですんで心配しなさんな」ここまで嘯いて漸く、肩より下の毛を失ったばかりの少女に対する配慮が余りにも欠けていたことに思い至る嘗てのサラマンドラ。「……女の子の前で毛だのケツだのってのはあんまり気高い言葉遣いじゃあなかったあね。橋の上で槍振り回す無骨なアバズ――暴れん坊相手ってんならともかく」

「槍が無いからって駄々こねて、無理やりこんなもの振り回しちゃったらどっちかというとむしろ甘えん……甘い、[訳註:《~むしろ甘やかされた子供ニニョ・ミマード……愛されたアマード》]」――アマディス? それとも《我が甘やかなる恋人にア・ミ・ドゥールセ・アモール》?「……甘い物」[訳註:「……甘味ドゥルスーラ」]

「甘い――何?」

「……何か甘い物でも買って帰ろうかな」

「え? ああ……アンちゃんとおばあちゃんにか」たしかに安藤さんであればここから五分も踏み板を回せば辿り着ける場所に居る筈、戦勝品ボティーン[訳注:西botín (de guerra)《戦で得た略奪品》]なら別だが名産品エスペシアリダッ・ロカールを手土産にされても荷物が増えるだけだろう!「まあ色々言って誤魔化してるとはいえ一週間以上も音沙汰なしに家を空けちゃって――」

「いっ、週間?」

「一瞬、一瞬間。ほんの、週末だけ[訳註:《語義的にはセマンティカメンテ君は週末旅行者に過ぎないソロ・エーレス・ウナ・ビアヘーラ・デ・フィン・デ・セマーナ》]……名駅とか栄駅周辺ならまだ全然お店も開いてるでしょ」各務はそう言って前後で視界を遮る建築群を見越すかのように顎を上げると、橋の両岸の遥か先に視線を送る。「何が喜ぶかね……カステイラとか?」

「いや長崎じゃないんだから」カステイラ(又はカステラ)とは四角い型モールデ・レクタングラールに入れて成形された海綿状焼き菓子ビスコーチョ・エスポンホーソのことで、十六世紀にこの甘味を日本の南西端に位置する九州に伝えたのはポルトゥガルの宣教師だと謂う。製法の出処から《カスティーリャのパンパォン・ドゥ・カステーラ》と呼ばれていたことがその名の起源だそうだが、興味深いことにポルトゥガル国内にはそのような食物は存在せず、似たような菓子にしても《マデイラ洋菓パシュテル・マダイラ》《ロのパンパォン・ドゥ・ロ》等という通り名であるとされる。[訳註:前者は葡マデイラ島産葡萄酒と共に供されたことに由来するだけで、料理そのものは英国発祥。後者のpão de lóに関してもLotという名のドイツ人が持ち込んだという説が唱えられる一方で、伊ジェノヴァ生まれで全く違う名前の料理人に依る創作であるという主張もまた根強いのだとか。何れにせよ修道院で広く作られる一品であったことから、旧約聖書の創世記に登場する義人ロトとの関連性を考慮するのが最も理に適うとも考えられよう。又、猶太語のלוט/Lõtには顔を覆う面紗ベロの意味がある点を踏まえると、《ロのパン》の派生形として表面を砂糖の薄膜で固めた亜種――アロウカ等――が認められることに起因するといった見解まであるらしい。最早カスティーリャは何処へ行ったのか、甚だ以て謎である]

「……そりゃういろうでもなめろうでも構わないけどさ[訳註:《カスターニャの載った白山モン・ブランでも黄凝乳クスタールの載った白黒シロノワールでも》。但しコメダ珈琲の一般的なシロノワールに載っているのは白い軟氷乳菓クレーマ・デ・エラードである。第一クレマ・カタラーナ宜しく《英国凝乳クレーム・アングレーズ》こと英custardカスタード(creamクリーム)を用いたら、品名もキイロノワールになってしまうだろう]」最後の悪足掻きウールティマ・ルチャで何とかラ・サンチャの記憶を呼び覚まさんと――というのも仮にラ・サンチャの騎士と三軒茶屋の女子高生の意識が共有されていたことが分かれば、多重人格は詐病と診断され爾後の社会復帰に至る道程で通過せねばならぬ数々の関門とて大分押し開きやすくなる筈だったからなのだが――試みた嘗ての参三であったものの、到頭少女の小箱カスィージャからはカスティージャは疎かその最初の三文字すら引き出すことが出来なかった。

 尤もアンダルシアのアン[訳註:恐らく阿僧祇花の実妹の名ないしその一部、つまり現実世界での情報]の二文字ですら、口にしたのは本来なら観察者に徹すべき存在たる彼自身だったのであるが。


一匹の犬アン・シャン[訳註:仏un chienは西語風の発音だと/un t͡ʃj.en/――《ウン・チエン》か]は疎か、半島南部に住まう百人のアンダルシア人シエン・アンダルセース・アル・スール・デ・ラ・ペニーンスラにも況して超現実的な一場面ウナ・エスセーナ・スルレアリースタは、日暮れを待たずして幕引きを迎えようとしていた。

「青柳だ大須だ[訳註:共に名古屋名物ういろうの老舗で市内に複数の支店を持つ]なんてのはどっち方面行ってもありそうだけど……」各務は現在時刻を確認する。「この時間だと先回り出来る方角のが賢い?」

 ぼちぼち晩課ビースペラスの刻限である。日没まではまだ一時間ほど残しているが、その時打ち鳴らされる入相の鐘カンパーナ・デル・オカーソがそのまま《シェーンブルンの夜伽ビースペラス》の開演を告げることは我々は言わずもがな、突然物語に割り込んできたこの青年とて――どの筋から聞き及んだものか――決して忘れてはおらぬようであった。今から名古屋駅に近い投宿先へ戻ったところで四匹の猫ら一行と入れ違いになるやも知れぬ。となれば件の楽隊の演奏会場たる矢場町――ヤバとは日本語で《弓を射る野カンポ・デ・アールコ》を指し、これは危険ペリグロスィダッを意味する若者言葉ヘールガ・フベニール《ヤバい》の語源ともなっている――、つまり単身下見に出掛けた千代さんが思い直して引き返す程度[訳註:第三十四章では自転車でも往復三十分を要する旨が呟かれていた]には遠方に位置する地区への通過点であるところの栄駅を一先ず目指すのこそが合理的だと判断したとしても、それは至極自然な成り行きと思われた。

「兜の挿げ替えがあったとはいえあんまり悠長に甲羅干ししてたら……気付けば後発の長耳連中に追い抜かれたなんてこともまあないとは限らんし」

 無論彼にはこの足で少女を自動二輪の後部に乗せ、早駆け宜しく今晩中に東京まで連れ帰ってしまうという選択肢も残されてはいた。それは再度猫の従士と引き合わせることで、折角快方に向かっていると思しき彼女の病気が又候ぶり返すような事態は当然忌避すべきであったからだ。とはいえ正気に戻ったからこそ友人たちの許へと返してやるのが分別ある年長者の務めであるという考えにもそれなりの説得力が見て取れるし、何より――これは筆者の過剰な忖度に過ぎぬ可能性もあるにせよ――今から未成年者に背中を預けつつ夜通し費やして百レグアを走破するには青年の心身に於ける消耗が過ぎていようことは、その口振りからも如実に窺い知ることが出来たのである。

「新幹線の最終が……いや違うわ、帰りは夜行とか言ってたか」これがドニャ何某であれば失った長槍の代わりにアリカンテの箒を引き抜いて構えるや、「勇み足の百鬼夜行めデモーニオス・インパシエーンテス・エン・エル・デスフィーレ・ノクトゥールノ姿を現せ![訳註:《夜行乗合車アウトブース・ノクトゥールノ》]」とか何とか雄叫び上げつつ盲滅法斬り掛かったに違いない!「深夜バスって当日っつか数時間前の便でも予約できんのかな」

「バス……幾らか割増料金払えばこの子も一緒に載っけってってもらえそうですか?」

輪行りんこうってヤツね……海外だとそのまま積み込んだりしてたけど」この辺りの事情は八王子駅にて従者が駅員から説明を受けた通りであろう。[訳註:第三章参照]「……工具と、何かそれ用の袋が必要かしら」

「売ってます?」簡単な道具なら彼女の腰巾着リニョネーラに備えがあったのではないか? どうせなら自転車携帯袋フンダ・パラ・ビシクレータ並みの大袋を提げていれば良かったものを……然すれば肝臓リニョーンのみならず心肺や胃腸に至るまで防護出来るし、おまけに愛車まで持ち運べて一石で二鳥を殺すマタール・ドス・パーハロス・デ・ウン・ティロが如しだったであろうに!

「まあそりゃドン――どでかい量販店とか行けば……でもあの子のママチャリは送るしかなさそうよな」化け鯨が網に掛かったという沼津の海水浴場から自転車の修理屋まで運び得た事実[訳註:第八章後半で語られた挿話。千代のママチャリを修繕した自転車店は特定されていないものの、所要時間から算出するにせいぜい浜辺から一レグア余りという距離だったと推定される]を踏まえる限り、その十倍[訳註:百倍の間違い?]も時間を掛ければ名古屋市から世田谷区までとて存外運搬不可能とも言い切れないのでは? その乗り手もまとめて乗り合いに押し込めば運ぶのは乗り物だけで済むわけだし、第一あの猫娘が憎き森の石松の駆る単車の後ろに跨っての二人旅を承知するなどとは万にひとつも考えられぬ。「そこら辺の雑事は不肖この屠所としょの執事めが済ませておきましょう。ご両人がそのライブ――ミサか、をお愉しみの間にでも」

「はあ……お手数掛けます。こちらが仕えるどころか[訳註:直近の上官云々の件を指しているのだろう]知らぬ間に我が家のお抱えとして雇われてらっしゃったとは」変わり身の早い男である。「でも予約が間に合わなかったら?」

「間に合わなかったらしょうがないから東海道新幹線かな。あっ今晩の分までホテル取ってあるって書いてたっけ……じゃあ明日でもいいのか。部長さんとメガネちゃんは先に帰っちゃうみたいだけど」そもそも夜行乗合車の利用者に許される営みプラークティカスといえば、ひたすら眠るか暗闇の中で黙して起きているかの二者択一なのだ。というのも大抵の運行会社では、途中立ち寄る休憩所アーレアス・デ・デスカーンソに駐まっている時間帯を除き車内の照明は消灯され、且つ走行中の会話など就寝中の他の客の迷惑となるような行為は制限されている。であれば無理して同じ便で帰郷したところで、その車中の数時間が仲の好かった幼馴染との旧交を温める一助とはなるまい。「そいや会場ハコの詳しい住所も聞いてなかった……」

「ハコ?……通り道かもだけど、箱根にも停車しますか?」

「いえ途中停まるにしても足柄とか海老名じゃないの……じゃなくて、ググっても詳細が発掘できないんだけど」排外的な集会レウニオーン・エクスクルスィーバの告知となると余人の検索にも容易には引っ掛からないというわけだ。成る程土曜サーバドに開催される夜宴フェスティーン・ノクトゥールノ[訳註:魔女の夜会サバトのこと]であるなら会場の場所は秘匿して然るべきとはいえ、自ら門戸を閉ざす姿勢を貫く以上いつまで経っても短調エスカーラ・メノール[訳註:《無名の段階》? 第二十四章ではアマデウスの楽曲の検索を試みるも、既に解散した別の同名楽隊の作品しか見付からなかったという御子神嬢――一方で彼女の推し《ルートヴィヒ》は着実に信徒の数を増やし、彼我の差は開く一方のようだ――の不平が確認できることから、意図的に電網上の情報公開を控えている節が見受けられる]から脱することとて叶うものではない。「えぇっと、ツアー名が《シェーンブルンの――》……キワいなあ。モーツァルトなら夜曲ナハトムジークとかさ、『ドン・ジョヴァンニ』の何だっけ窓下の求愛歌セレナーデなんかでいいだろうに」[訳註:第二幕で歌われる《ああデー窓辺においでヴィエニ・アッラ・フィネストラ》を指す。独Serenade及び伊serenataの語源は伊sereno/羅serenus《穏やかな》でありながら、その語感からsera《夜》と紐付けられることが多く、本邦でも大抵《夜曲》と訳される。因みに各務青年が言い淀んだのは日本語の《夜伽》に男女の同衾の意が含まれるからだが、著者が西語訳で用いたvísperaには《夕べ》程度の語義しかない]

「《夜伽には――》」

「寝物語というか、千夜一夜程度の意味なんだろうけど……ん、何?」

「《辻衛門も夜伽の相手には諦めたんじゃねえ――》」[訳註:第十八章冒頭で掲載され、パロミも出演した劇中芝居『ものども』内に於いて、戯曲では《壱の者》と記されし浪人の物した台詞の一節である]

「すじえもん……誰、骨川? スネおもん?」ホネカワ――《骨と皮だけの人物ペルソーナ・コン・ソロ・ピエール・イ・ウエーソス》といえばそれは目の前に立つ《嘗てのドニャえもんドニャエモナーンテ》の符牒なのでは?

「《――ですかね》……ん、何云ってんだろ」花は何とか記憶の糸を手繰り寄せようとしたが、結局その文言を引き当てることが出来なかったとみえる。「……米でも研いで、れば?」

「……そっか、そうだった。ヌマンシア以降色々あったのよね。静岡のテルマエで手放したアインラドンだかツヴァイモスラだかは、見縊みくびるなかれ」二輪乗りも怪獣映画などそろそろ卒業すべしという女子中学生の忠言[訳註:第八章の浜辺にて。但しこれは飽くまで女騎士に向けられた言葉である]を思い返しては頬を緩ませた。「――三つ首の多頭竜ギドラ[訳註:露гидра]宜しく今や売るほどあるそうですよ。えっと、アンドーさんの手元に?」

「アンドー……レンちゃんの?」花は手ずから紙幣の入った封筒に(セビーリャ某の入筆エスクリートが認められた一枚だけを懐もとい兜の内に残して)招待状インビタシオーネスを加え入れたことすら失念してしまったのだろうか? それとも何故半坐嬢ではなく安藤部長の手に渡ったのか訝っているだけ?[訳註:前々章の駐輪場にて防護帽から野球帽へと一万円札を移し替える場面で具体的な描写があった]「お米……売るほど……ああ、札差だから?」(Fudasashi es un tipo de marchantes/usureros que prestaba dinero a los samurais con sus estupendios de arroz como garantía.)

「いやお米券には化けんでしょ。馬券にも化けないだろうけど[訳註:《お米券クポーネス・デ・アロースには》《駅馬車の乗車券ビジェーテス・デ・クペにも》]」少女の余りにも埒外の反応は然しもの口八丁チャルラターンをして混乱を来さしめていた。「つまりお相手が誰であれ……それこそ差しであれ団体さんであれ、ここまで来てアマディ――天照あまてらすの夜伽だか尼寺の剃刀研ぎだかを……っと今のは無しね[訳註:尼僧に限らず出家者の剃髪の是非は宗派次第。尤もここでは花が肩までの長さで髪を切り落とした《尼削あまそぎ》の状態だった可能性もあろう]、むざむざ諦めるこたないってこと」

「……うん」つい今し方まで彼女の頭の上――乃至その額の上――にも《一個の積荷アイヌ・ラードゥン(原註:una carga)》が積まれており[訳註:独語のEinladungとeine Ladungの意図的混同については第二章終盤の訳註に詳しい]、そしてそれが細流という名のひとりの泥棒ウン・ラドローンに持ち去られてしまった――更にはその手助けをしたのが他ならぬ彼自身であった――などとは、目の前のこの男が知る由もないことなのである。「――アマディスといえば、」

「うん……はい?」すわ、今晩東国に向け出発する《夜行》の座席の空き状況を携帯端末で照会していたと思しき青年は、敢えて口に出さずにいた遍歴の騎士の名を耳にして完全に虚を衝かれたようだった。

「ハコ……箱根で偶然?お会いした時に」

「あっあれ? 憶えてた?」

「そりゃまだ一週間も経ってませんし」思えば芦ノ湖の畔で邂逅したのが日曜の夜半、駿河湾を臨む島郷とうごう海水浴場で学士が雲隠れしたのもその翌日の昼日中である。「あの時もしかしてカガミさん」

「はい何でしょう」

「私が強羅に向かうと思って先回りしてたんですか?」

「ご――ゴウラ?」烏小路の声が上擦った。

 六日前の午後、連日の強行軍に加え高尾登山の疲れも癒えぬままに相模湾沿いの東海道を一路西へと進んだラ・サンチャの主従が、もし湖の南岸を通り峠へと至る経路を取っていなければ――つまり千代さんが一時帰宅の際に利用した箱根湯本駅の辺りで枝分かれする国道1号線の南側でなく北向きの道を択んでいたら――、彼女たちは登山鉄道フェロカリール・デ・モンターニャの終点にして鋼索鉄道フニクラールの起点たる箱根屈指の観光地《強羅》に到達していたことであろう。

 成る程、多少遠回りになるとはいえそこから南下しても箱根峠を越えて駿河湾に出ることは可能だし、実際にそうしていたところで名古屋行きの旅程を狂わすような深刻な妨げになったとは思えない。そもそも鹿島立ちからして三軒茶屋より直線的に小田原を目指さず八王子くんだりに寄り道したり、《凡ての道はイケブクローマに導くオムネース・ウィアエ・ドゥークント・イケブクローマム》[訳註:第十三章で花が引用したのは《千の道が人類を永遠に羅馬へと導くミーレ・ヴィーエ・ドゥークント・ホミネース・ペル・セークラ・ローマム》。それらしく諳んじるので大抵は聴き流してしまうが、彼女のラティン語発音には時折古典式クラースィカ教会式エクレスィアースティカが混在する]などと験を担いでわざわざ姫街道を北上し遊園地を彷徨った挙げ句ハマッシーの冒険へと繰り出す羽目に陥ったのとて阿僧祇花の気紛れに依るところが大きかったのではなかろうか?


先の週末エル・トボソの姫君より出し抜けに届いた騎士出立の報は、微睡む驢馬の耳元に落ちる霹靂と同様の効果を三茶女子演劇部の臨時指導員インストゥルクトール・インテリーノへと齎したに違いない。飛び起きるや否や訳も分からず矢も楯も堪らず東京を発ったその足で何とか寝起きの頭を働かせ、部長から仄聞そくぶんしたであろう校庭での物々しき言動を鑑みても彼の少女騎士が《ゴウラ》[訳註:羅馬字表記ではGoraの使用頻度が高いと思われるが、ここではGaula(Gales)と紐付ける意味も込めてかGouraが採られている]の名を持つ温泉郷アルデーア・バルネアーリアをむざむざ素通りするとは考え難いと見た彼が一先ずその地まで黒馬を飛ばし、次いで主従が南北何れの道に進んでいたにせよ結句で西に向かう運びとあらば再び交わるべき地点――芦ノ湖南岸――に移動し待ち伏せるが得策と考えた……というのは慥かにありそうな筋書きであった。

 無論現在勘案すべきは男の洞察力でもなければ少女の推理力でもなかったのだが。

「まあいいや……それこそここまで来て鞍替えはこの子が可哀想だけど」花は尼僧の如く滑らかに剃り上がった丸い頭を撫でた。「新しいドンガメさんの甲羅の方は……違った、カラス?……何でしたっけアルカラウスの兜?」

「カラスコのカスコ」

「カラスコ……なるほどサンソン・カラスコ――のカスコ?の方も馴染んできましたし、そろそろ……」右足で踏み板を蹴り上げると、最高位に達したその上面を踏み締めて――「……こっちでいんでした?」

「あっと真っ直ぐ進んだら公園突っ切る形で……丁度電波塔と、北側はアレ何だ?県庁やら市役所やらとの間を通る感じかしら」橋の上からだと真東に伸びる京町通が消失点に吸い込まれるのが確認できるくらいで、左右の景色は建築物で目隠しされた状態だ。「庁舎の方は地上からだと見えないかもだけど」

「電波塔……名古屋のテレビ塔って銀色なんでしたっけ」花は夕闇の迫る東の空を遠くに仰ぎつつ以下に続けた。「東京タワーまでは無謀でも、こちらの塔さんというかお兄さんのお膝元までであれば日暮れまでには着けそうですよね」[訳註:名古屋電視塔の竣工は一九五四年で、東京のそれよりも四年早い。第二十五章で言及された《タワー六兄弟》に拠ればそれぞれ長男と四男に該当する]

「そんなん五分十分チャリ漕げば直ぐでしょ……東京も天空樹の方は白銀しろがねカラーだったんでは?」[訳註:第二十五章の訳註で解説した通り、一九六〇年の航空法改正以降地上六十米以上の鉄塔や煙突、骨組構造の建築物には昼間障害標識として赤白塗装が義務付けられていたが、現在では代わりに高光度航空障害灯を設置することでこの制約からも回避されるらしい]

「アッチは藍白あいじろ色(原註:《漂白された藍色コロール・イーンディゴ・ブランケアード》つまり青味がかった白ブランコ・アスラード)っていうんだそうですよ」

「へえ……アイザメ[訳註:アオザメと混同しそうだがこちらは全長一米程度の比較的小型の鮫]とホオジロザメの交配種みたいな。因みに金ピカ鯱の城は向こうで」青年は上流を指差して、次いで西陽に目庇の下の目を細めながら中央駅のある方角を振り返った。「――君らの泊まった……いや貴女が昨晩どこで夜明かししたのかは知らないけど、カスティーリャもといキャッスルはあっち方面ね。大通りでなけりゃ憚りながらこの不肖鏡の学士めが、慎んで先導いたしますけども」

「それはご丁寧に」箱根山頂上付近の湖畔から沼津港までの下り坂を減速した自動二輪で自転車二台に伴走ないし並走できたのも、偏に深夜帯かつ山道で交通量が少なかったからに他ならない。「でも付いてけるかな、私そんな飛ばせませんよ」

「ならば鶏口牛後、牛の尻より鳥頭……いや蜂の頭」《千鳥の頭カベーサ・デ・チョルリート》は兎も角《蜂の頭カベーサ・デ・アベーハ》とは何か?……蜂の頭部はそれこそ鋭い針を持つその尻に比べ如何にも頼りない為、取るに足りない物の代名詞となっているのである。「――先頭はお譲りしてこちらは殿しんがり務め追走するのでも構わないし……但しその前に、えっとこれはたまたま橋の上だからってわけじゃないんだけど」

「橋の頭?」首を巡らせて親柱に鼻を向ける少女。[訳註:橋頭きょうとうとは橋の袂のこと]

「ここでの再会を約束するわけでもなし飽くまで便宜的というか儀礼上というか、」厳めしい語調が幾らか和らいだとはいえ言葉の端々には依然として浮世離れした単語が見え隠れしていたし、彼女がこの先中世盛期プレーナ・エダッ・メーディアの騎士と現代の女学生のどちらに転んでも子供らしからぬ振る舞いに終止する限りはとどのつまり箱根で出会したその時から何ら進展がないのと同義ではないかという思いを、黒馬の乗り手は振り払うことが出来ないでいた。からかわれているだけならそれも良し、この場を発つ前にこの問題点エーステ・アスーントだけは彼女の口から直接引き出しておく必要を感じていたのである。「――確認しても宜しいでしょうかね?」

「よろしいですけど、何ですか? 何か怖いですね」

「怖いのはこっちだよ……饅頭もお茶も怖かないが、ここらで一番ラ・マンチャが怖い」

「キーマン茶が苦手ならウバでもダージリンでも好きなお茶を飲んでくださいな」この時不意に花の鼻腔を、小劇場の幕間にて千代と共に喫した王室風牛乳入り紅茶テ・コン・レチェ・レアールの香りが通り抜けた。[訳註:第十八章岡崎篇参照。実際には「ロイヤらぬイレアール」――西irrealは《空想上の》だが、王家レアールの対義語であればcomún/público/populachero等の形容詞を当てるのが適当であろう――と訂正してから注文を通している。勿論この記述は著者独自の解釈に基づくものである点に注意]「お茶会には遅すぎですね。このままだとお夕飯も食べそこねるかも」

「おっしゃる通り……では前振りもそこそこにお伺いします」青年は二三度咳払いして、内から全身を揺るがす早鐘のような鼓動を強引に押し隠した。「――お名前は?」

「はい?」嘗ての騎士が怪訝な顔で聞き返したのも無理からぬ反応であったろう。「誰のお名前?」

「貴女の」

「どういう意味です?」数年来の再会を果たしてから経過した時間が十分であれ六日間であれ、今更になって誰何され姓名の確認を求められるなどとは慥かに思いも寄らぬ事態であったに相違ない。「私の名前――」

各務の問い掛けが些か胡乱に響いたのは、双方の遣り取りを終始追い掛けていた我等の耳にしても同じことだろう。だがここは察してやらねばなるまい……彼の神経の昂ぶりを。然らでだにこの男は長らく孤立無援の追跡劇をエン・ペルセクシオーン・アイスラーダ・スィン・アジューダ続けてきたのである。

「黄昏刻だから?」夜陰に入る直前の夕暮れ刻オーラス・クレプスクラーレス・アンテス・デル・アノチェセールを漢字では《暗黄色アマリージョ・オスクーロ》と綴り、俗に《誰だ彼はキエン・エス・エル?》と読むが、これは薄明の刻限になると人の顔を判別するのが難しくなるからだ。「……まだそんなに暗くないけど」

「だったら目の前のカガミにも自分の顔が映ってるでしょ? 彼女は誰?」

「ど……あ、」

 眼前の少女はここ一週間余り、恰も四百年の昔に未練を抱えたまま息絶えた別の人格が憑依したかの如く振る舞っていたかと思えば、その間の記憶も少なからず残しているときた。そもそも彼女とて己の真名を忘れたことはなかったのだ……となれば、今の阿僧祇花を支配しているのが一体どの人格なのか、それをしかと見極めてからでなければどうして心丈夫にして次なる行動へと移る覚悟が出来ようか?

「そう、ハナちゃ――」

「ちょぉぉっとよろしいかなあ?」

「――ん、ん?」

「お嬢さんはちょっと離れてて。もう大丈夫ですから」

「おっとお巡りさんご苦労さまです」

「はいはいたしかにご苦労だけどこちらも仕事ですからね……え~成る程、バイクの男が高校生くらいの娘さんに迫って――」

「ちょっ、ちょっと」

「――まあ分からんでもないけどさ、何も橋の上から突き落とそうと」

「いや端から見たらそんな風にも映るんじゃないかとは僕も恐れちゃい――」

「まあまあ分かってますよそれは、アナタが落とそうとしたんじゃなくて女の子の方が逃げようとして自分から――」

「飛び込もうとしてたって?」

「脚だってそんだけ長けりゃ欄干によじ登るのもラクだろうしなあ……まあそんな感じで近隣にお住まいの方から通報というかご連絡があったもんだから。別にこっちだって噛みつきゃしませんので、そちらも急に暴れたりポケットから刃物出したりとかしないでね」

「ハナちゃん、いいからここは――」今まさに誰何ペディール・ノンブレもとい職務質問インテロガトーリオに対応している最中であったこの自動二輪の男性カバジェーロ・エン・モトシクレータは、管轄区の巡査が警邏用自転車ビシ・パトゥルージャ支え台カバジェーテを立てる際にその視線を地面へと落とした隙を見計って、問答の間は自らの背中――流石に塵取りよりは頼りにもなろう!――を盾に何とか覆い隠さんと努めていたと思しき少女の長い両脚ピエールナス・ラールガス・デ・ラ・チカを振り返るなり、「僕にまか……」[訳註:但し訳者の手元にある音源から実際に聴き取れるのは辛うじて「~いいから」までである]

 疲労に依る判断力の低下も手伝って最後の犠牲的精神ウールティモ・エスピーリトゥ・デ・サクリフィーシオに目覚めた――これを日本では《毒を飲むなら瓶ごとスィ・ベーベス・ベネーノ、ス・ボテージャ・ポルケ・ノ?》(差し詰め《どうせ罰を受けるのならばでかい罪でが好いスィ・メ・バン・ア・カスティガール・ケ・セーア・ポル・アルゴ・ゴールド負け戦なら川にでも飛び込めデ・ペルディードス・アル・リーオ》)、若しくは《一旦船に乗ったが最後ウナ・ベス・ア・ボールド・デル・バールコ》などと呼ぶそうなのだが――《嘗ての森の石松イシマツァンテ・デル・ボースケ》が振り返っても、そこに長い脚は疎か短い髪も小さな頭も、それこそ落とされた蜂の頭カベーサ・デ・アベーハ・デスカベジャーダに至るまで何ひとつ目に留めることは出来なかった。[訳註:第三十章では動詞descabellarについて《髪を振り乱すデスペイナール》が原義との解説を付したが、こちらは蓋し《頭皮を剥ぎ取るアランカール・ラ・カベジェーラ》、転じて《首を刎ねるデカピタール》――闘牛士が髪切り刀デスカベージョで牛の喉笛を掻き切り止めを刺す行為――がより似付かわしかろう。尤も形容詞としての訳語が《思考力を欠いた》、つまり《愚かな、馬鹿馬鹿しい》である点は変わらない]


さて拙著を通読しても取り分け重要な一篇と思われる本章に漸く辿り着いた読者諸賢の中には、この小説が物語を展開させる為事ある毎に用いる手法が余りに偏っている点に不満を覚える向きも少なくないと拝察する。即ちある種の《破落戸どもガンベーロス》や《公僕たちセルビドーレス・プーブリコス》の介入であるが、その咎は総じて史実エチョ・イストーリコを魅力的に翻案する為に要する発想力を本書の著者が欠いているが故だという指摘ならば筆者は甘んじて受け入れるつもりだ。但しもしこの先『ドニャ・キホーテ』の舞台たる日本各地へと旅行する予定があるか或いはそれを熱望しておられる我が同胞ミス・コンパトリオータスが、各章にて執拗に描写されてきた想定外の治安の悪さファールタ・イネスペラーダ・デ・パス・イ・デ・セグリダッに大層幻滅し失望したとすれば矢張りこれはアベンダーニョの本意とするところではないので、仮令水桶の中の雫数滴ウーナス・ゴータス・エン・ウン・バールデ・デ・アーグア以上の効果が期待できないとしても数箇所だけはこの場を借りて補足させていただきたい。

 それが都会の雑踏であれ田舎道であれ、皆さんが行き会う可能性のあるチンピラマレドゥカードス程度であれば大半は――ヤクザが絡みでもせぬ限り――恐らく大した武装もしておらず、空手や忍法の達人だったという事態も極めて稀であろう。又、街角に立つ末端の警察職員フンシオナリオ・ポリシアール・デ・ラス・バーセスが路上で観光客に心付けプロピーナ賄賂ソボールノをせびることは先ずないし、マッポ官僚ポリソーンテス・ブロクラーティコスに依る汚職の実態などはそれこそ税金を納めているわけでもない我々ガイジンの与り知らぬところだ。

「この道や、行く人なしに……夏の暮れ」東風神エウロが運び来るのもどうやら一銭ウン・セーンティモにもならぬ暑気や雨雲ばかりではなかったようで、船首に吹き付ける風ビエーント・ポル・ラ・プローアと徐々に右手へと後退していく陰に代わり瀝青舗装アスファールトを照り返している船尾の陽光ソル・エン・ラ・ポパの双方に目を細め瞼甲ベンタージャを下ろしたラ・サンチャの精華とて、或いは二十数時間を経て再びオディーンの足下へと引き寄せられるに連れ土地柄アーンビト・ロカールないし精神風土エートスとも呼び得る空気を吸い込んだ影響であろうか、旧き友ビエーホ・アミーゴが培った詩情ポエスィーアの一端がその愛らしき蕾から湧いて出るのに抗う術を持たなかったものとみえる。[訳註:久屋大通公園内に立つ電波塔の北東側柱脚付近の《蕉風発祥之地》の碑については第三十二章の馬場嬢が触れている。前々章の地下駐車場に於いてもメルダリンが同じく言及していたが、著者は劇中明かされて間もない石松との旧交に芭蕉――となると第二十三章冒頭で花が諳んじた十四行詩ソネートスもこの地に漂う俳聖の残り香に当てられて?――の姓を絡め引き合いに出したのであろう]「――夏日暮れ……夏の行き暮れ?」

 この一句が示す通り東に続く小路には、箒をかたどりし長槍持ちたる馬上の路上掃除婦バレンデーラの行く手を阻む邪魔者バレドーラスなど[訳註:西barrenderaもbarredoraも共に動詞《掃くバレール》から派生した女性名詞だが、後者には掃除機アスピラドーラの意味に加え、蹴球フートボルに於いて味方門衛ゴレーロ前中央に位置取り自在に動いて時には攻撃にも参加する守備選手デフェンサ自由人リーベロ》の語義も。敵方の攻撃陣を一掃する役割ということなのだろう。ともあれてっきり用済みと思われた棕櫚箒も、結局はちゃっかり失敬してきてしまったらしい]――それが破落戸であれ小役人フンシオナーリオス・デ・ポカ・モンタであれ――只のひとりも待ち受けてはおらぬ様子が見て取れた。

 かと思えば名古屋の五条小橋プエンテシート・ゴホ・デ・ナゴーヤを発って一エスタディオ余り踏み板を回転させた辺りで、こちらも京都に在らざる京町通カジェ・キオマ-チ・ケ・ノ・エスタッ・タンポーコ・エン・キオ-トは無慈悲にも――あなやこれこそ彼の大蛇の橋渡しプエーンテ・デル・セルピエーンテ・ヒガーンテ、差し詰め嘗てはユグドラシルの地下茎リソーマを伝い下りた折[訳註:第二十六および二十七章を参照のこと]にもセビーリャの連中と噂したヨルムンガンデルが横腹なのではないか?――南北にその長大なる胴体を横たわらせた無足の蜥蜴ラガールト・スィン・パータス[訳註:伏見通に接続する都心環状線丸の内出口の傾斜路ランパ・デ・アクセーソを怪物に見立てた表現]に依り分断されていたのである。西陽を怪しく反射する無数の鱗は白き光の矢フレーチャ・デ・ルス・ブランコを以て我等がカラスコの覗き窓パンタージャ曇り硝子ビードリオ・オパーコすら貫いたとみえる、これには無敵の矢尻プタ・フレーチャ誇りしラ・サンチャの自転車乗りシクリースタも余りの眩しさに耐え兼ねたか、迂回路を求めて舵を切るより他なかったと謂う。成る程前方に伸びる《この道エーステ・カミーノ》にこそ通行人ペアトーネス罪人ペカドーレスもなけれども、《交差する別の道そのものス・プローピオ・オートロ・クルサード》が弁慶やロドモンテ宜しく頑然と立ち塞がることならばこれはままあることのようであった。

 これが十字型教会堂バスィーリカ・クルシフォールメ中央交差部クルセーロであったなら《囲いを通り抜けてア・トラベース・デル・セルカード》を意味する柵越え廊トランセープトを南から北へと直走り、中央船体廊ナーベ・セントラール祭壇プレスビテーリオの間を突っ切って進んだ筈だし、わざわざ東に遠回りして周歩廊ヒローラを通るなどという手間は掛けずに済んだであろうに![訳註:教会建築に於いて、西presbiterio/nave/transeptoはそれぞれ内陣/身廊/翼廊または袖廊等と訳される。一般的な教会堂では主祭壇を安置する為の内陣を東に配置し、その東側外縁を半周する形で周歩廊――西側で南北に身廊を挿む側廊ナーベス・ラテラーレスの延長線上――が囲んでいるが、劇中での進行方向は南から北ではなく飽くまで西から東であるわけだから、西端の正面口から東西に伸びる身廊を通って内陣に至る方角にこそ一致するであろう。察するに著者は中央通路である身廊と大通りたる伏見通の方が親和性が高いと踏んだのか、敢えて四半回転させた位置関係で見立てているようだ。因みに京町通から伏見通を右に折れると直ぐに対岸へと渡れる歩道橋が架かっているものの、階段のみで自転車用の斜路が設置されていない為、――愛機を肩に担いで上り下りでもせぬ限り――彼女が東岸に達するには更に南へと下り横断歩道を利用せねばならぬ。尤も名古屋の電波塔があるのは桜通の南側なわけで、いずれにせよ後々南下する必要を鑑みれば実際には遠回りでも何でもないのだが]


とある十三階、その一室の、玄関入って左手ないし右手直ぐの扉が僅かに開いた。

「お先いただきました~……」

 ここから北東半ローマ哩メーディア・ミジャ・ロマーナに位置する橋では三軒茶屋から遥々馳せ参じた女子高生が、丁度擬宝珠の玉葱頭上で風見千鳥チョルリート・ベレータに変化するかしないかといった頃合いであろう。[訳註:則ち石松と決闘している間に前々章末尾で描かれた千代たちの時間軸を追い抜いてしまい、逆に花が五条橋を立ち去る間際より半時間ほど巻き戻した計算となる]

「おっ出てきた」

「チヨさんチヨさ~ん」小走りで近付いてくる軽い足取り。

「ちょ待てい、まだ開けんな」慣性に任せ自然と戸枠マールコから遠退いていく戸板オハを内側から引き止める猫の従士。「まだ半裸……あっつ」

「ハンラ・チヨ……[訳註:「私はまだ半ば裸だトダビーア・エストーイ・セミデスヌーダ」に対し「昔々半玉の星がおりましたウナ・ベス・アビーア・ウナ・エストレージャ・セミコホヌーダ」。«Había una vez...»は昔話の出だし。西cojón/cojonesはそもそも睾丸のことだが転じて肝っ玉を指し、形容詞形のcojonudoは俗に《すげえいい感じの》程度の意味を持つ。日本語でも美女をたま、芸者をぎょくなどと呼ぶものの、こちらは勿論翡翠などの玉石を想定してのことであろう。著者は相方に対する馬場嬢の些か気色の悪い愛着を誇張して、如何にも「これが一糸纏わぬ生まれたままの姿であれば、自分にとって完全無欠のお星様だったのに」というような耳当たりを醸し出している]」では何故着衣を済ませる前に浴室を開放したのかといえば、これは恐らく狭い室内に充満した熱気と湯気を逃がす為だと想像が付くであろう。「どう? フローラルな風呂だった?」

「結構なお湯加減でした……なんだフローラルて」花の香り付きの風呂塩か風呂爆弾サーレス・オ・ボンバス・デ・バニョ・コン・アロマ・フロラール[訳註:入浴剤の一種]のこととは察しが付くが、余りに危険な単語ばかりが並んでいるではないか!……ここは風呂粉ポールボス・デ・バニョか、いっそ砂浴バニョ・デ・ポールボ辺りで我慢していただこう![訳註:前々章では章題からして《ポールボ》に固執した記述が見られた。となるとpolvos de bañoも粉末入浴剤というよりは、入浴後に使う滑石粉ポールボス・デ・タールコのことか?]「いやシャワーだけだけど」

「そいや《銀河は膀胱シャワー》っての何の歌だっけ?」[訳註:《小鳩尿の雨が銀河の中を行き交うジュービア・デ・ピス・パロミータ・セ・クルーサ・エン・ラ・ビーア・ラークテア》……汚らしいという印象を受けることを除けば一聴して意味不明な歌詞だが、ここでいうPiss Palomitaとは第三十一章末尾で紹介したチュルーカ社が販売している有名な乾燥ヒマワリの種の看板娘こと《小鳩嬢ミス・パロミータ》のMissをpis《小便》に置き換えたもの。名詞pipa《種》がpipí《おしっこ》を連想させるのか……どうかは断言できない。そもそもパローマに縮小辞-itoを付けたpalomita自体は爆裂種玉蜀黍ポップコーンを指す単語らしい)

「そんな歌はない」先刻衣装棚から持ち出していた浴衣を羽織った千代さんは、扉の向こうの相手を突き飛ばすような勢いで戸板を押し開けた。「つかさこっちが折角いいお湯だったっつってんのにわざわざ水というか、汚水?を差す、な、よ――」

「お、うまい」

「……いや誰だおめえ」客室の玄関扉を顧みてから、次いで障害ケツオブスタクーロ[訳註:障害物オブスタークロは通常第二音節に強勢記号アセント・アグードを付しobstáculoと記すが、ここでは誤記か意図してかそれが抜け落ちている為に《邪魔な尻クーロ》という意味合いが色濃くなっている]の後ろの窓辺で西陽を受けている――それとも既に向かいの建物が陽射しを遮っているだろうか?――と思しき面々に向け首を伸ばしつつ以下に続けた。「ちょっと、ニコだかミコさんだか知らんけどここ一応私の部屋なんですから勝手に余所者入れんといてください。中から開けちゃったらオートロックの意味ないじゃんか」

「何か云ってる」濡れ衣を着せられた寝台上のビークティマ・デ・ウナ・カマ・エン・ラ・カマ御子神嬢は[訳註:《寝台を作るアセール・ラ・カマ》には寝具を整える意味の他、続けて《誰かをア・アールギエン》を伴った場合には《陥れる、罠に嵌める》という語義を生じる。どちらも他者の為に用意するという点では共通しているわけだ]、直ぐに大声を張り上げてこれに応じた。「今てめえが心配せなならんのは施錠ロックじゃなくて時計クロックだろ! もうすぐにロック時だぞ?」

「しまった知らん内にラップバトルに挟まれた」余所者フォラステーラは肩を竦めながらも、手にしていた一対の小さな硝子板ウン・パル・デ・プラキータス・デ・クリスタールを目の高さまで持ち上げつつ弁解を試みる。「オッスオラスーパーサンチャ人」

「ふざ……けるなよサル野郎」湯冷めでもしたか従者の唇が震えているようだ。「――メガネザルやろ……めろう?いえろう?……モンキー?」[訳註:《女郎めろうイエロウ》とは元来岡崎のパロミが御子神を罵って吐いた言葉である。第十八章参照]

「だからさんを付けろよ」

「ニコ助野郎さん」相手の顎下から人差し指を突き上げると、通路上に灯る照明を当てその鋳物の造型コモ・ラ・イシエーロン・フンディーダを吟味するネコ助さん。「ウスバカなゲロウさんがトリバネのアゲハ様に完全変態したみたくなっとる」

 浴室の扉が開錠される音を聞き付けた馬場久仁子は自身の変化メタモルフォースィスの程を確認すべく、取り敢えず眼鏡だけ持って――彼女は午前中に外した密着型透鏡レンテス・デ・コンタークト[訳註:第二十六章参照]を未だ再装着していなかった筈だ――壁一面の大きな鏡を有する洗面台目掛け駆け付けた……概ねそのようなところであろう。


後輩の胡乱な知識は本人の為にも極力その場で訂正せんと、生真面目ないし幾分神経質な安藤蓮の良く通る声が部屋の奥から届いた。

「アリジゴクの成虫がウスバカゲロウなんだけどね」

「え?」

「てかアレだぞ、それ薄馬鹿の下郎じゃなくて薄翅の蜉蝣だぞ」

「……マジすか」これはカゲロウネウロープテロス[訳註:原義は希語《脈持つ翅》]の一種ウスバカゲロウミルメレオーティドの日本語訳《薄い羽の蜉蝣エフィーメラス・デ・アーラス・フィーナス》が、単語の区切り方に依っては《愚鈍な下人トースコ・トーント》とも訓釈できることから起こった混同である。[訳註:千代が誤解した所以を敢えて劇中に求めるならば第二十章にて花がそのように洒落た為と考えられるが、この時著者はアリジゴクインフィエールノ・オルミゲーロを《蟻獅子オルミーガ・レオーン》と意訳する一方で《薄馬鹿の下郎》に関しては直訳を選んでいた。それこそ実在するジゴクアリオルミーガ・デル・インフィエールノことハイドミルメキナエとの混同を忌避したが故とも慮れよう]

「別名極楽蜻蛉とんぼね[訳註:《天国のトンボオドナート・デル・パライーソ》)]そう言うとエル・トボソはやや切なげに窓外を見遣った。「……こっちはすぐに死んじゃうからだろうけど」

 不意に静岡の姉妹の内のふたりが、その哀れみを帯びた視線で四つ目を挟み撃ちにする。

「……いや死なねえよ!」[訳註:こちらは馬場久仁子の反論]

「いやサンチョすぐ出て来ないから浴槽で溺死してっかと思ったよ」

「シャワーだっつってんだろ。溺れようがないですがな」

「まあ刺殺でもいいけど」

「それ『サイコ』でしょ」物騒な物言いを窘めるドゥルシネーア。お湯で排水口に流してしまえば元通りとはいえ、当のミコミコーナとて一度流血を見た風呂場を敢えて使いたくはあるまい![訳註:前々章で御子神は中学生ふたりが出掛けた後、花も含めた美女三人で仲睦まじく入浴するという妄言を物していた。因みに血液中に含まれるタンパク質は水温が高いと凝固するので、浴槽に血痕を残さず処理する為には冷水やぬるま湯を用いた方が無難であろう]「でも宣言通りちょうど四五分で出てきたね」

「髪濡らしてないんでまあ」

「カゲロウどころか残り数時間の命なんだからもっと寸暇を惜しめよ」慥かに、幾ら最前列を諦めたとはいえ、うかうかしていると開場どころか開演時間にも間に合わぬ。「烏の行水なら四五秒で上がってこいや」

「誰がカラスだ!」

「いやうちらも暇潰しして待ってるわけだから」

「誰がカラマツだ!」カラマツとはラリクス松ラーリセのことで、言葉通り訳せば《唐王朝(現在の秦国)の松ピノ・デ・ラ・ディナスティーア・タング(アクトゥアル・チナ)》となるが実際には日本固有の品種である。

「いや暇潰して」

「マスカラ下郎ちょい黙ってて」千代はほんの一分前まで愚鈍なフロレーアフロレーア・トースカ[訳註:歌劇『トスカ』の表題役フローリア・トスカを捩った名称か。男性形のfloreoに《お喋り、暇潰しの無駄話》といった意味があることから、馬場嬢の発する戯言が留まることを知らないのを揶揄した表現とも取れる]が占めていた敷布の上に飛び乗った。「マジメな話四五分でこの仕上がり何なの? リアルに魔法なのマゴマゴーナなの?」

「マゴマゴしてたら終わんねえだろ」[訳註:《ナマナマけ女マガマガンソーナでは~》。西maganzón《怠け者》]

「横で見てて勉強にはなるけど全然真似できる気はしなかったねえ」舞台用の化粧にはそれなりに熟れているであろう演劇部部長も、変装遊戯女コスプラジェーラの見事な手並みには手放しの称賛を惜しまなかった。「まさに職人にして芸術家」

「こいつらムシケラ共はともかく――」

「マスカラマスカラ」

「――蝶や花やの可憐なるレン様こんな加工する必要ないよ」尤も楽屋にてまだ不慣れな後輩の粉飾デコラールセを手伝ってやる際には頗る役立つ技術に違いない。「なんかクソフザけたカッコしてるけどそれでミサんの?」

「外歩けねえだろっつかフロントでお客様ァ言われるわ」矢張り下着に浴衣を引っ掛けた程度の装いのようだ。「……いや顔に付かないように着れるヤツしか持ってきてないので大丈夫かと。もちっと涼んでから」

「いいご身分やん」

「どうせ姫さま方と比べたらゴミみたいなもんですし」

「待ってチヨさんうちまだ髪とかノータッチなんだが」

「要らんでしょうが。先輩のチケ少なくともお前にはやらんぞ」雲隠れせしドニャ・キホーテこそ最早見限ったといえど、行き場を失った招待状の使い途くらいは《嘗ての従者》の手に委ねられて然るべきである。「もしかミコさん地顔は結構地味顔だったりするんすか?」

「やお前タシのそこそこスッピンはすでに見てんだろ」入湯時に偽の入れ墨タトゥアーヘ・ファールソを落とすことを彼程まで頑なに突っ撥ねたギネアの王女ではあったものの[訳註:第十章参照]、たった今披露した手際を踏まえれば眼鏡アンテオーホスよろしく直ぐ元通りに被り直すのも可能な仮面アンティファースを付けたまま風呂に浸かっていたとは考え難い。然らずとも折角の気ままな一人旅ビアーヘ・ソリターリオ・イ・バルアーブレ・スィン・プレオクパシオーネス、疲れを癒やす為に立ち寄った銭湯でまで己を飾り立てていては気も休まるまい。「えっ、もうこんまま始めちゃっていいの?」

「はい、おねげーしますだ」

「どうすっかな……」

 その覚悟たるや俎板の上の鯉、屋根の上の鯱、寝台の上で初夜を待つ花嫁が如し……シェーンブルンの夜空をラ・ハンザのマリポーサ――彼女はマリアでもオカママリーカでもないけれど、今は敷布の上で《じっとしていてポーサテ》という表現がしっくりくることからも[訳註:西mariposaの語源が《マリア(私の花に)止まってポーサテ(・エン・ミ・フロール)》である為。但し写真撮影などの際に《科を作って、静止して》という意味で用いられる西posarは自動詞なので、その場合は«¡Pósate!»ではなく«¡Posa!»となるだろう]――が如何に彩るか、全てはギネアの王女の手に委ねられた。


ミコミコーナは自身の小物入れカルトゥチェーラまさぐると、小瓶や刷毛といった化粧道具を数点選び取った。

「……とりま時短レシピで」

「でもどメガネよりは時間掛けていいですよ」暇潰しマタラートス殺鼠剤マタラータス――これまで度々諸君が目にしてきた《猫いらずノ・ネセスィータ・マス・ガートス》又は《猫をクビにする雇用者デセンプレアドール・デ・ガートス猫解雇デスペディガートス》[訳註:どちらも著者に依る造語だが、西desempleadorは《失業者デセンプレアード》と《雇用者エンプレアドール》を掛け合わせた言葉であろう。《猫いらず》は作中で花や千代が何度か使用した。アマデウスの弥撒に参じるのは他ならぬ猫の従士であり、彼女こそが主役たるべき存在だという主張が垣間見える]とはこれのことである!――を一緒くたにされては困る。「目下蒸発中のハナ先輩の分余裕出来たですし」

「コルセット締めんのに多少時間掛かんじゃね?」

「だから気安くつまむなてこしょいわッ!」

「う~ん三日四日でこんな変わるもんかなあ……」長姉の関心は妹の顔よりも寧ろその胴部にあるようだった。「三段腹だったのが二段くらいに昇級しちゃったんじゃないん?」

「めくるなっつの!」浴衣の両襟の間に突っ込まれた手を撥ね除けて、「前屈みになったら誰だって段くらい上がるだろ!」

「段位だったら昇級というか降段ですけどね」俄に身を乗り出すエル・トボソ。「ミコさんそれドーランですか?」

「カテ的には一応ファンデだけど……でも割と汗に強いヤツ」ドーランといってもエンドーラや黄金郷エル・ドラードとは関わりがない、要は舞台等で役者が用いる化粧下地バセ・デ・マキジャーヘの一種なのである。成る程画布画リエーンソ・エン・アールテかと思いきやどうやら生乾き画法フレースコの方だったとみえ、サンチョの顔面には漆喰アルガマーサ――夕焼けのデル・アタルデセール?――が塗られている最中であるようだ。[訳註:第七章冒頭の訳註で記した《夜明けの漆喰アルガマーサ・デ・ラ・アールバ》を参照されたい]「ドーランえもんもあるにはあるがワセリンとかめんどいしな、あとコスの会場とかスタジオってNGのとこ多いんスよ」

「ドーランオ・ブルーム」

「ああ、落ちないから……アレ違いって油分以外に何かあるんですか?」

「ゆぶん?」

「油ね」

「……いやほんそれ、個人的にはリアル中学生のリアルな肉体がいかにもリアルで良かったんだけど」

「リアルて三回言いおった」アフリカの姫君がリア女王レイナ・レアールか否かという議論も、慥か静岡で寿司を食して別れた直後に主従の間で交わされていたと記憶する。[訳註:正確には約束していた焼津での一宿が叶わなくなったことを報せる電話の直後。共に国を追われた――という設定の――ミコミコーナと«el rey Lear»リア王レイ・レアールを引き比べるような遣り取りが第十一章末尾に確認できる。因みに静岡の銭湯で目視した千代さんの腹部が幾分引っ込んでしまったことに対し御子神嬢が懐古的に苦言を呈するのもこれで三回目]「さっきも云ったがホネホネロックの隣に立たされてたせいで勝手にアナタの脳内でサンチョの土手っ腹にポッチャリ修正入ってるんですってば」

「ドテッパラというかボテッパラだったな」[訳註:《太腹パンサというより孕み腹エンバラパンサーダ》? 後者は西panzaとembarazada《妊娠中の/妊婦》の複合語]

「その脂じゃなかったんだけど……」[訳注:西aceite/grasa《アセーイテグラーサ》の違いは、ざっくりと常温で液体か固体かの差だと理解すれば大きく外れることもあるまい]

「そんな引き締まんならうちも二学期からチャリ通にすっかな」

「一日数キロとかじゃさすがにあんま意味ねんじゃね?」

「そうだよケツ痛くなんだけだよ……そうだじゃあニコ助私の代わりにママチャリ漕いで東京帰んなよ死ぬほどスリムになんよ?」この場の全員が幸せになれる選択である。「ネコ助がアンドーさんと一緒に今晩の夜行で帰ったげっから。よし決まった」

「それむしろスリムになって死ぬのでは?」

「ムスリムだって断シャリするというじゃないか」

「ラマダンは断食だろ」そうは言っても日没と同時にご馳走が待っている彼らならば飢えて命を落とすことなどそうはあるまい。

「アレ、今私何つった?」

「断捨離と銀舎利はシャリの漢字も違うから」ギンシャリは俗に《銀の米アロース・デ・プラータ》とも訳出されるが、シャリとは元来仏陀の遺骨ウエーソス・デ・ブダを指す言葉で、以後転じて火葬された故人の遺灰を意味するようになった。つまり端から貴重な聖遺物サンタ・レリーキアに輪を掛けて銀を施した品が白米を表すわけだから、日本人の米食ディエータ・ア・バセ・デ・アロースに対する並々ならぬこだわりを示す好例と言えよう。

「だ、騙したなダン・シャーリー!」因みに『緑の切妻屋根のアンアナ・ラ・デ・テーハス・ベールデス』原作者の伯父ジョン・キャンベル一家の屋敷であり現在博物館として公開されている《銀の森プラータ・ブッシュ》は、小説家モンゴメリ自身の命名だと謂う。尤も我等がラ・サンチャのアナが誇る想像の余地カンポ・パラ・ラ・イマヒナシオーンであれば、間違っても銀甲冑の騎士カバジェーロ・エン・アルマドゥーラ・プラテアーダ黒太子プリーンシペ・ネーグロ黒馬に乗った森の学士リセンシアード・ア・カバージョ・ネーグロを混同するが如き愚は犯すまいて! 「胃がシャリでいっぱいになるとか何とか云ってたくせに……」[訳註:第十七および二十一章では花が《甲が舎利となる》なる慣用句を用いている。恐らく伊賀と甲賀を混同して記憶したものであろう。尚、《救世主/白馬に乗った王子》といった意味合いで使われる表現に《輝ける鎧の騎士カバジェーロ・エン・アルマドゥーラ・ブリジャーンテ》があるが、もしかしたら豪州東部に生息し英silver knightとして知られるセミシガーラPsaltoda plagaの内で黒色の物をblack princeと呼ぶことから生じた連想なのかも知れぬ。一般的に黒太子といえば十四世紀の英国王太子エドワードを指し、その呼称も黒い盾や甲冑に由来するという説があるものの確たる証拠は無い]

「お前も顔動かすなよ目ん玉に突き刺すぞ……」漸く顔料ピグメーントスを乗せる段に入ったようであるが……おお、この制作過程が他ならぬ壁自身にサカモンテシーノスの悪夢を思い起こさせんことを![訳註:第十六章序盤に於いて、県境の暗い隧道内の壁面に色鮮やかな落描きの数々を発見した花がそれらを古代エヒプト王墓の壁画に見立てる一場があった]「ネコネコ詐欺さスリムはいいけどコレ自分でちゃんと締めれんの? 手伝おうか?」

「そうしていただけると、助かりますが……」千代が唯一《アビンダラエスの帷子》を装着したのは岡崎で迎えた朝、それも花の助けを借りてである。「ハコ内が混んでそうだったら近くのコンビニとかのトイレで着替えようかと」

「いやでかい鏡とか見ながらじゃないとムズいぞコレ。着慣れてるってんならまだしも」

「いや~ミサ服着て独りで地下鉄はちとハードル高めかと」本坂峠で耳にした吸血鼠どもバンピラータス讒謗ざんぼう[訳註:第十六章内のマルッペの科白「中二病のガキ」「アホくさい/キチガイみてえなカッコ」]に信を置くならば、道中もそれなりに奇抜な扮装ベスティールセ・エクセーントリカスではあったのでは?

「だーからニコも行くってばよ!」

「夕方でもこの時期ならラッシュってこたないだろうし」おお、学生の身分でイン・スタートゥ・プピラーリ![訳註:学生が長い夏休みを謳歌している一方で、日夜出勤する社会人の描写は作中でも時折挿入されてきた]「下も別にああいう、パニエとか何だ……クリ――何つったっけ?」

釣鐘型骨組クリノリン?」

「そうそれクリノリンとかでもな――」

「クリノリンのことかーーーっ!」

「うっせっつんだよもうお前どっか行ってろ!」炭酸水を樽一杯飲ませれば直ぐにも手洗いに駆け込むであろう!「――クッソ邪魔なんでもないんだから気にすっことねえべさ」

「単純に人目がハズいだけです」斯様な人並みの羞恥心センティード・デ・ベルグエーンサ・タン・アビトゥアールを名古屋城で発揮していたら、とても金鯱を相手に大立ち回りを演じることなど出来なかったであろうに!「パニエというかイケニエですよそれ」

「生け贄というか晒しモンだろ」

「……そんなもん買える金が、」いやはや矯正胴着コルセッ何着分の価格であるものやら!「ヘソクリンがそもそもねえし」

「パニエってパンの名前でなかったっけ?」

「それパニーニな。パニエとクリノリンて結局何が違うんだっけ?」

「モンブランのフランス語」

双籠袴パニエは左右に膨らんでるイメージですけど、クリノリンはお尻の方までこう丸く……ふっくらしてますよね」この場で最も貴族の子女の扮装が似合うと思しきひとりが的確な解答を物した。(……というのも別のひとりは《半分破廉恥な恰好ディスフラーセス・セミデスベルゴンサードス》に身を包んだ写真を大量に公開しているらしいからなのだが)[訳註:第十一章冒頭では銭湯の脱衣場にて千代が液晶端末に表示された御子神の変装画像集フォトス・デ・コスプライを花に見せる場面がある]「あと厳密にはクリノリンて下着ペティコートの生地じゃなくて骨組み部分のことを指すんじゃないかな」

「ホネロックのことか……それでモッシュ入ったら無敵ですね」

「なんで?」

「いやぶつかった相手全員ハネ飛ばせるし」緩衝敷物コルチョーンに座ったニコが尻を上下に動かすと、それに呼応して寝台が波のように揺れた。「バネみたくなってるっしょアレって」

「やめい邪魔すな、殺すぞ」

「この状況だと私が脅されてるみたいなのでやめていただきたいんですが」片頬に刃物を突き当てられているかのように錯覚してしまいそうだ。それにしても皆さんに伺いたい、馬場嬢に対する過度に辛辣な暴言や仕打ちパラーブラス・イ・トラタミエーントス・セベーロス・エン・エクセーソに於いて、この王女にサンチョを詰る資格が果たしてあるものだろうか?[訳註:第三十四章にて一行が堀川沿いを南下している場面を参照のこと]「巻き添えでシカバネみたくされんのはゴメンだ……まあそんなんでとつしても速攻で折られるから。傘の骨みたいなもんしょ」

「いや結構丈夫だよアレ。そして相当動きにくい」

「その前につまみ出されるっつうの」ハコの中が混み合っていればこれは当然顰蹙を買うであろう。最悪出入り禁止エクスプルサーダもあり得る。「目ェつぶって」

「早すぎだろ……マジでどうなってんのか楽しみなんですけど。楽しみさ」

 無駄話に参加している間にも熟練した化粧師の手は休みなく動き、その画布リエーンソには着々と地下三階くらいの偶像の面相ローストロ・デ・ラ・イードラ・カスィ・エン・エル・テルセール・ソータノ[訳註:第三十六章に於ける御子神本人の発言に拠る。尚、西ídolaはídoloの女性形であり、《多頭竜》のhidraとは無関係である点のみ注意されたい]が物の見事に描き出されてゆくのであった。


親友の変身していく様を食い入るように見守っているのかとでも思いきや、観覧席の位置取りを誤ったらしき[訳註:千代の背後からでは当然化粧する様子を観察しづらい]馬場久仁子は早くも手持ち無沙汰になっていたようだ。

「チヨさん携帯借りてよき?」枕元で壁と繋がれたそれをもう手に取っている。

「何でだよ、ご自分のを使いなさい」瞑目したまま千代が応答した。「今何パーなってる?」

「あとゴパーでハチジュウナナパー」

「そんな不吉な数字のパーに揃えんでいいけど」くどいようだが8はハチ、7はナナと発音する為、《八十七オチェーンタ・イ・スィエーテ》はこれ則ちラ・サンチャの騎士の諱を示す隠語となる。「まァもうバッテリヘタってるし、九十くらいなるまでは繋いどくか」

「ちゃうねんここ一週間の旅の思い出写真とか拝見しよう思って」

「ん?……ああ、そいや写真とか全然撮った記憶ないな」

「写真に残す価値が一瞬もないシケた旅路だったってこと?」暗号入力を要する施錠機能が解除されていた従士の携帯端末[訳註:第十九章の紛失時および三十二章の名古屋城内東南隅櫓付近での会話を参照のこと]は、今現在それを手に取った第三者の一存で自由に閲覧可能な状態にある。「見てよし?」

「自分が目見えない時に勝手に携帯の中見られんのイヤなんですけど」件の六条河原で晒されたのは目を閉じた罪人の首だけであったが、こちらはこちらで首と胴が繋がったままにその個人の情報のみ公開される特殊な晒し刑ペナ・エスペシアール・デ・ベルグエーンサ・プーブリカといえよう。「……あっ違うわ、カイセンドン」

「カイセンドン?……異世界で壁ドン?」[訳註:「海産物ドンマリースコ・ドン?……オカマドンドン・マリコーン?」]

「どういう耳してんだ」目も耳も使い物にならぬとあらば残るは嗅覚くらいだ。

「箱根の……駅の下で食った海鮮丼は何となく一枚撮った気がする」人の財布で、しかもその持ち主抜きで初めて味わう食事の記念であろうか?[訳註:狂気に気触れた主人を山中に残し、峠を下った箱根湯本駅付近の釜飯屋で千代は独り夕食を取っている。第六章参照]

「しょっ、しょーもなっ! 箱根ならせめて箱根駅ドン撮れよ!」

「何だ駅ドンて」

「駅弁なら解るけど」

「八月になんか走らされたらランナー死ぬだろ。箱というより棺桶だわ」つまり経路全体が差し詰め《野天の火葬場クレマトーリオ・ア・シエーロ・アビエールト》と化すというわけである。「……う~んまあこんなもんか。アンドーさんどう? ちょっとまつエクっぽいっしょ」

「まっ、マツ? もう開けていいっすか」

「ホントだ……でも凄い自然だし、ビューラー使わないんですね」

「時間ないってのもあるしケースバイケースだけど」まるで牝驢アースナ擦弦楽器インストゥルメーント・デ・クエールダ・フォルターダ、或いは機械に強い独逸人の発明みたような名称[訳註:西burra/伊viola/独Bühler?]だが、これは所謂睫毛巻き上げ器具リサペスターニャス、つまりは《小さな目を誤魔化す為の仕掛けコソ・パラ・ブルラール・ロス・オーホス・ペケーニョス》の通称である。[訳註:本文では«biular»と綴られているが、元となった商標名《ビウラ》の語源はbeautiful curlerなのだとか。動詞burlarには《欺く、笑い者にする》という語義の他に《克服する》といった意味もあるようだ]「常にパッチリが正解って発想がね、すでにもう素人のホワイト[訳註:《雪のような新人ノバータ・ネバーダ)?]なのよ……ここでやめてよければ開けていいよ」

「な、何でよ」蝋人形さながらに表情を固め、為されるがままとなっていた千代が僅かな唇の動きで不服を申し立てる。「完遂してよ。少なくとも片目は開けてて問題ないんじゃ……」

「こっちの気が散るんだよ」

「ひどさ」見目麗しき花や蓮に見詰められて集中できぬと言うならいざしらず!「自分でやんとプリクラで盛ったみたくなるんすよね……あっ、待って違うわ同じ日の朝に高尾山で初日の出を――」[訳註:第四章から五章を跨ぐ形で主従は小学生ふたりと旭日を望んでいる。正しくは月初めの日出]

「――で部長はさっきから何を」音もなく寝台から滑り下りていたニコニコーナが、這い廻る蛇のような所作でドゥルシネーア姫の傍らへと忍び寄っていた。既に関心の外にあった千代の端末は置き去りである。

「聞けや」

「ん~?……うん、ちょっと何となく昔の画像を」余裕の声色で応じることが出来るのも、偏に覗かれて困る写真など只の一枚も記憶されていないからに他ならない。「私も結構長い間機種変してないから随分溜まってるなと」

「見して見して」身長差を埋める為に机辺の椅子に膝立ちする馬場嬢。「……あっすご、かわうぃ~やっば、ちっこいハナ先輩だっ!」

「「「え?」」」

「――わった! こちらが噂の妹ちゃんすね?」噂の妹ちゃんエサ・ファモーサ・エルマニティータ……未だ最後の乳歯も抜け切っておらぬアウン・ノ・ジェガーバ・ア・ペルデール・ス・ウールティモ・ディエーンテ・デ・レチェというあの?「似てる~かわゆす~リトルドニャキだ!」[訳註:そのまま《小さなキホーテペケーニャ・キホーテ》と訳出。永久歯への生え変わりは小学校の卒業前後までに終わるのが一般的、但し思春期を過ぎて尚乳歯が残る人も居る。余談だが、小説『ドン・キホーテ』に登場する主人公の姪アントニア・キハーナは《二十代に届かぬケ・ノ・ジェガーバ・ア・ロス・ベインテ》と記されている……それはそうと、他学年であったにせよ千代や久仁子と完全に面識がないとなれば、花の妹が三茶女子ではない中学校に在籍している可能性も決して低くないという話であろうか?]

「ちょっと」

「見たい見たい、ちょいタンマ」流石の黒き玄人娘ペリータ・ネグリータ[訳註:普通名詞negritoがアフリカ系の人種、固有名詞としては東南アジアに居住する一部の民族を指す他に南米に生息するスズメ目の鳥セアカタイランチョウの語義を持つ。加えてエル・サルバドルでは《熱意を持って我が道を突き進む性格》というような形容詞的用法もあるらしい。又、西perito/-aの語源はラティン語の形容詞perītus《熟練した》だが、これは同じく羅expertusから派生したexperto/-aもほぼ同義(則ちperrita《メス犬ちゃん》とは無関係)]も集中力が途切れたとみえ、好奇心の赴くままに制作中の胸像カベーサ・エン・プロドゥクシオーンの前を立った。「うっわあなかっわッ!」

「はは、《あなにやしえをとめを》?」

「……ちょっと」

「こっちはえっらい女の子女の子してますのな……マジ人形。超対照的」

 鹿島立ちの朝、半坐宅を訪れた阿僧祇花は「床屋の娘からこの手形を預かったイハ・デル・バルベーロ・メ・オフレシオッ・グアルダール・エステ・パセ」と宣ったけれども[訳註:第二章末の例の転落事件直前を参照のこと]、その娘親方マエスィータが家族と顔を合わせていないとなると、招待券の受け取りも阿僧祇邸の門前で為されたか、若しくは郵送に依る引き渡しであったかの何れかとなろう。[訳註:著者の手元に花が自宅前で出会った男性から首飾りを託された朝――則ち高校の校庭に乱入した日――以降の全記録があるのだとすれば、当然この辺りの経緯も詳らかとなっている筈だ。但し訳者に送付された音源は残念ながら編集済みとみえ、第一章終盤で千代がニコから受け取った怪電文の内容以上の情報は不明のまま]

「お名前は?……いや待って当てる」床屋娘は大きく息を吸い込んだ。「……ヒナちゃん」

「それじゃ三人目も女の子だったらフナちゃん?」三女まで狂気に冒されたとなると、こちらでは次女の方が苦労しそうな役どころではないか![訳註:これは『リア王』で賢女として描かれたコーディリアが三姉妹の末娘だった為である。因みに狂女フアナフアーナ・ラ・ロカとして知られるカスティーリャ女王は加特力両王レージェス・カトーリコスの次女]「いやいやイソノ家かよ」(El término hina/jina significa «polluelo», y el huna/funa «carpa sin (dos) bigotes» o «de barco».)

「……妹さん私も見たいんだが」

「別にいいけど今目ェ開けたら……何だっけさっきの、アンダルシアの――猫」もう猫でも茄子ベレンヘーナでも胡瓜ペピーノでも何でも宜しい。[訳註:第三十二章参照]「……みたく眼球切り裂かれるよ?」

「だからアンタいちいち怖いんだよ表現が!」視力を奪われた暗黒の中で聴く脅迫となれば、これは戦慄も一入ひとしおだ。しかし刮目して失明するくらいならもう暫く瞑目を続けていた方が賢明ではあろう。「アンドーさん私にも後で見してください」

「はーい、後でね」

「うちにもヨロ……てかこれ隣りにいるの部長じゃん?」先輩の端末を引っ手繰ると、勝手に別の画像を参照しつつ馬場嬢が奇声を上げた。「うわちょ待っ、えっ?クッソイケメンなんだけど!」

「見せろこら」務めを思い出しやっとのことで持ち場へと戻りかけたミコミコーナも、猿の金切り声チジードとも馬の嘶きレリーンチョとも取れるその耳障りな誘惑テンタシオーン・チリアーンテ[訳注:動詞chirriarは扉の開閉や乗り物の急制動が立てるようなけたたましい軋み音だけでなく、例えば小鳥が囀るような時にも使われる]には抗う術なく踵を返す。「おおおおこれはっ、セットでお引取りしたい!」

「お引き取り?」

「何なら誘拐してショタから育成したい! 逆源氏物語ものがたって将来結婚したい!……無理ならせめて待ち受けにするのでデータオリ画質で下さい」

「途中から自分で恥ずかしくなったっしょ……じゃあ便乗してうちも」徐ろに自身の携帯端末を取り出して、「ヘナちゃん単品のもセットで、ヨロシコ」

「四人姉妹になっとるやんけ。若草かよ」

「いや流石にご本人の――」蓮ちゃんの視線が宙を泳いだ。「まあ了解を得ませんことには」

「そりゃそうだ」

「……てかこの部長若すぎないか?」――蓮嬢にも美丈夫の弟が?「いつの写真?」

「は~いそれまで」希少にして貴重な画像保管庫アルキーボ・デ・イマーヘネス・ラーラス・イ・プレシオーサスは所有者の手で没収された。「ほらミコさん時間無いんでしょ」

「時間?……ジ考えるな、感じろ」

 安藤蓮は以上の応答を経て漸く時間潰しに開いていた機能ソフトウェルを画面下へと追いやり、続け様に液晶の一画に表示された社交的通信網セルビーシオ・デ・レッ・ソシアール図形イコーノを押下することで、不定時報告インフォールメス・アペリオーディコスの更新有無の確認も叶えられたのである。


画家は渋々ながら死面マスカリージャ・フネラーリアのように固まったままの少女の顔面にその睫毛を向けると、綺麗に整えられたその眉根を寄せながら、「サンチョいつまでキス待ちみたいな顔してんの? 何感じてんだキモいよ?」と宣った。

「えっ何もう目ェ開けていんすか?」

「そんなもんお前の好きな時に好きな場所で好きなだけ開けろや……《秘密めいた猫目がどこかで開くよ》って杏里あんりも唄ってんだろ」

「アンリはいいけどアンダルシアの猫どこ行ったよ……」否々!、エンリケであれば両の目蓋は言わずもがな兜に付いた瞼甲ベンタージャも始終下ろしておくことだ[訳註:仏王アンリ二世が馬上槍試合に於ける右目の負傷に依り命を落とした史実は前章でも仄めかされている]……千代は凝り固まった筋肉を開放するかのように上半身を捻るなり、寝台の逆側へと戻っていた久仁子を威嚇した。「そしてお前は人の携帯に触るな」

「じゃあパスロック4645よんろくよんごーにしとこうか憶えやすいし」

「なんで《シコ》だよ!《シク》でもイヤだけど……ヤンキーか!」

「シコシコーナだからだろ[訳註:この呼称は第三十一章の観覧車内と三十四章の五条橋上にてそれぞれ言及があった]」《ニ・ミ・シ》でドストレスクアトロなのである。「ほれシコリーナ、今度右目やるから目ェ潰れや……揃えるから両目な」

「またですかい!」おお、この部屋の中に従士が暗所恐怖症ニクトフォービアを患っていること[訳註:第十二章掛川篇に於ける深夜の墓地および第十五~十六章の旧本坂隧道の件を参照されたい]を知る者など(我々を除けば)一人としておらぬ彼女の不幸よ!

「じゃあ忘れにくさと打ちやすさを考慮して2525が無難かな」

「勝手に設定すな! ニコニコもミコミコもシコシコもヤだよ、そもそも数字反復してたり連続した数字とかって禁止じゃないん?」慥かにそういった数列は比較的類推し易いに違いないが、それこそ銀行口座や《魔法の板タルヘータ・マーヒカ》の暗証番号でもない限り然程神経質になることもなかろう。「あっ当然《オーナゴヤ》もやめてな」[訳註:第二十七章参照]

「1234とか0000とかにしてる人が一番多いってどっかで読んだけどね」

「マジックリンすか!」誰しも会計の度に逐一煩わしい思いをしたい者などおらぬというわけだ。「そいつらのセキュリティ意識どうなってんの?」

「マジックリリンのことかーーーっ!――っていやチヨさん自分画面ロックそのものオフにしとんやんけ」

「その方がロックだろ!」

「お前口動くと顔全体揺れるってんだよ大人しくすれ。死にたくなければな」化粧道具に如何程の殺傷能力があるのか聴いているだけでは判断しかねるものの、もしもの時はそのまま死に化粧に転用できることから殺人者の仕事とてその殆どを無駄にせずには済むという算段である。「死に……死なせ……《ミナゴロシ》はどう? かなり憶えやすくね?」

「色々云いたいことはありますがとりあえず五桁なので却下で」

「ハイ姫、《ミナゴロシ》からの~?」

「からの? その《皆》って私も入ってるんでしょうか……」嗚呼聖ヤコブサンティアーゴよ、貴方とて九世紀のクラビーホなどではなく彼女たちと同じこの表面的平和の時代エラ・デ・パス・スペルフィシアールを選んで蘇ってさえいたら、何もシチリア生まれの《伴天連殺しスカンナクリスティアーニ》に類するが如きぞんざいな二つ名アーリアス・ブルースコ[訳註:伊scannacristianiの西語訳はmatacristianosだが、ここでは特定の信仰者というよりも人間そのものを指す言葉であろう。九〇年代半ばに逮捕された犯罪組織の殺し屋アセスィーノ・デ・ラ・マーフィアジョヴァンニ・ブルスカの異名のひとつで、百人以上二百人未満の殺人事件に関与したとされる]を賜らずに済んだであろうものを!(尚、日本語のmatamorosこと《回教徒殺しモロゴロシ》の後ろ四音は6564と四桁の数字で表せるものの、最初の《モ》だけが難題アセルティーホである。《ム》であれば6に分類されるし、カタカナの《モ》は漢数字の一と七にも分解できる為、謎解きアディビナーンサスを好む日本人であれば176564と置換するかもしれぬ)「からの……《――の、天使》?」

「《テンシ》?……十と四なら14……104いちぜろよんでもいいのか。三桁だ」

「《の》を9と読ませれば9104でギリ行けませんかね?」

「意外とネバる姫」そう言ってミコミコーナはニヤけるけれど、これは従士の為にも早々に話題を切り上げてやろうという甘味姫なりの配慮であろう。「そして謎の中二ワード」

「いや何となく……知らない間に皆この部屋から出られなくなってそうで」

「詩的で素敵ですがでもすみませんアンドーさん、九秒後には忘れてる自信あります」

「じゃあ……チヨちゃんの《チ》って千でしょ? なら1004とか」

「素晴らしさ!」己の名前を忘却してまで携帯端末を操作せねばならぬ状況もそうそうあるまい。「そしてそれこそこのふたりが居ないところで提案していただきたかった!……あとメガネが十秒黙ってると後ろで何悪事働いてるのか超不安になるんだけど」

「失礼な……じゃない、4207よんにーれーなな

「うっさ!」

「昔チヨさんが間違えて《大便》て読んだの何の天使だっけ?」

「『傷だらけの大便』だろっていつの話だよそれ」

「どういう状況……状態?」王女の手が止まる。「血便ってこと?」

「いや《トイレの神様》が居んなら《ウンコの天使》だってワンチャン――何の話だよ、いやメガネ暇なら風呂場……えっと、0268で目ん玉ハメてこいよ」千四嬢ドニャ・ミル・クアートロの気を落ち着かせる意味でも四つ目にはご退場願おうと、制限時間を気に掛けて御子神が引導を渡す。手出し無用ラス・マーノス・キエータス!(或いはメス猿は黙ってろオ・ラス・モーナス・キエータス!)「もう痛くねんだろ?」

「あっせや、鏡も見てねえや……んじゃま1010いちぜろいちぜろ行ってきま」

「何だ1010て、マルイは0101だぞ。サンチョもう開けていいよ」牝熊猫ガタ・オスーナの面目躍如、従士の両目は大熊猫パンダ・エル・マジョールさながら立派に黒く縁取られたようだ。「あとマルイはトイレは貸してくれても風呂はねえと思うが」

「トイレだっつの。そもそも名古屋のマルイがどこにあんのか知らんすわ」これは関東を中心に展開する有名百貨店の名だが、生憎愛知県には出店しておらぬ様子。「あっじゃうちもついでにちょちょいとシャワーシャワってきてもよき?」

「あれ、チヨちゃんの変身見届けてかないの?」

「魔改造は完成形だけ拝見します」

「魔改造言うな」マカイゾ――《悪魔的改造レモデラシオーン・デモニーアカ》――とは、例えば聖女の彫像エスタトゥーア・デ・ラ・サンタ・ムヘールを加工して淫婦ニンフォーマナへと作り変えるが如き凶暴な所業アークト・デ・フェロース[訳註:《信仰/信頼に基づく行為アークト・デ・フェ》)]則ち悪徳そのものビーシオ・エン・スィ・ミースモを指す。「別にいいけど……また汗かいたの着るの気持ち悪くないん?」

「着替えあり」

「あっそ」日帰り旅行の割に用意が良い。ともあれ眼鏡ガーファス透鏡レーンテスとなって舞い戻る頃にはこちらの支度プレパラティーボスも粗方済んでいよう。「――あっでもバスタオル新しいの使わんでよ?」

「え~……じゃあチヨさんの使用済みの使うよ」

「それは私がイヤだわ。18いちはちだわ」新しい湯上がりの身拭いヌエーボ・トアジョーン・デ・バニョを残しておけというのは弥撒から帰参し汗だくになった自分の入浴後に使う為? それとも……「ハンドタオルでもなんでもいいっしょ、頭濡らさないならそれで足りんべ」

「そうだな表面積も小さいしな!」[訳註:これも短身であるニコ自身の自虐]

「顔も濡らすなよ」化粧師が釘を刺す。暇潰しというのは方便で、矢張り自分の手掛けた作品たるや最低限人目に晒してからでないと抹消するのも惜しいとみえる。椅子から立ち上がると窓硝子に背が当たるまで後退し、充分に距離を取りながら、「……やはり天才かもしれん。自分やるより出来が好いのが多少癪ではあるが」

「おお……」思わずその白く長い人差し指を薔薇の唇に押し当てるドゥルシネーア。

「はいはい、元がよろしいと伸び代少なくてお気の毒なこって」

「……まあいいや」御子神嬢は改めて腰掛けると、囲み筆デリネアドールを目の高さに保ちつつ画布へと顔を寄せた。「天井見て……いや顎上げんな目ん玉だけ動かせや」

「ん……何がまあいいや?」千代はふと八王子の家族食堂で明かした八日前の夜を思い返した。「まあいいや――か」

「もっと、アヘ顔みたく出来んのか」

「いやアヘ顔が分からんし[訳註:第三十七章序盤では著者自らが、アヒル顔の解説に次ぐ形でアヘ顔を《激しい呼吸の擬音に基づカラ・エクストラーニャく恍惚状態の奇異な表情・デ・エークスタスィス》と記している]……アヘ、あっアヘン顔?」

「それはラリってるだけだ」

「アヘ顔なら舌出さんことには」ニコニコーナが自身の肩掛け鞄モラール[訳註:西morral(《道徳》の綴りはmoral)。若しくは背負い袋モチーラ]から着替えを一式取り出して立ち上がる。察するに午前中一度入室した際、嵩張る荷物は残して出掛けたのではないだろうか?「出すっつっても下を脱げって意味じゃないよ?」

「じゃあ下を脱ぐ代わりにそろそろお前の舌でも抜くかな」

「おっとエンマ様に抜かれる前に自分で上下マッパになって」靴を脱いで備え付けの内履きに両足を突っ込む馬場嬢。「――釜茹で地獄に浸かってくるわ」

「ここで脱ぐな。つか地獄は血の池でしょ」猫の目は後頭部にも予備があるらしく、(浴室の狭さを考慮してか)寝台の脇で脱衣を始めた床屋の娘に相方が牽制を加えた。

「マジメな話、素で湯張って二十五分長風呂とかしてたらお前出てきた時には百パーここ無人だかんな」

「いやミコパイセンは残っててよ」自身の外出中に客室を荒らされる心配は兎も角、斯くも長き不在を経て帰還した阿僧祇先輩を出迎えるのが馬場久仁子ひとりでは流石に気が引けるということか。「頼むよミナゴロシのエンジェルパイセン」

「エンゼ――ルパイセンな。口、ん~って」ん~~。「……うん、まァあと二・五秒経ってもメガネそこ居たらエンゼらない方の、デビる方のミコパイセンにニコゴロシの守護聖人が憑依するとは思うが」

「ほな時間余ったらババ抜きでもして待ってておくれやす!」[訳註:奇しくも西語では特定の一枚を除いて配り順々に隣から一枚ずつ抜き取って揃った札を捨てていく歌留多遊戯フエーゴ・デ・ナイペスを《汚いケツクロ・スーシオ》と呼ぶが、これは決着が付いた後、敗者の臀部に他の全員が蹴りプンタピエッを食らわせる決まりがあったことに拠ると謂う。或いは騙し合いが肝である故に《屁っ放りペドーロ》――つまり苛々する遊びフエゴ・ペドーロであることが語源だという説も。但し日本語の《ババ抜き》はばばではなくばば――つまりその特定の一枚が嘗ては女王の札であり、一枚間引かれた為に最後に余る運命にある女王は行かず後家オールド・メイド――則ち《おババ》となることに由来する]

「自分で言うなよ」浴室の扉が閉じられた。「つか待たねっつってんのに……あざます、もう鏡見ていっすか?」

「ちょい待って、頭どうすっかな……」ギネアの化粧師は腕組みして首を捻った。「お姫今何分?」

「今四十三分ですね」

「おけ。着替えも考えるとあってせいぜい五分よな」新たに美容師用刷子セピージョ・デ・ペルケリーア霧吹きロシアドールが取り出される。どうやら本当の娘親方はこちらの方だったらしい!「お前今度こっち座れ。爪とかは今日はもういいよね」

「おす。お頼みもうしま――」

 半坐千代が敷布からその重い腰を上げた刹那、背後からは又もや動物園も斯くやというような金切り声が響いてくるのだった。


時刻は奇しくもラ・サンチャの蜂が橋の上に横たわる鏡腹ビエントレスペーホに、矢にも槍にも匹敵する尻針を地球の重力任せに突き立てた――則ち自らの虚像イマーヘン・ビルトゥアールを粉々に打ち砕いた――瞬間とほんの数秒程度しか違わなかったのである。

「うっせーぞサル!」

「たた大変だチヨさん!」勢いよく開け放たれる扉。「――と、とんでもねえメガ、メガトン級のメガネ美少女と目が合った!」[訳註:《百万屯のメガネ美少女チカ・マハ・デ・メーガネ・メガトネアーダ》。体重が?]

「よかったね」[訳註:《神よ永遠にビバ・アールファ・イ・オメーガ!》。西Alfa y Omegaで《創造主にして完成者》]

「メガトン級?」

「しかもどこか見覚えのある……ハッ!」

「じゃあもう二十五秒経過してることだしその、メガネ取ったら目が点の[訳註:《太った鳥糞娘チカ・グアネーラ・グアテアーダ》]、何だっけ、トンデモ美少女のメガネを叩き割りにニコ殺しの美女が今飛び立つとするか……」扉は改めて閉じられた。「何なんだアイツは、いくらなんでも構って欲しがりすぎだろ」

「うっとうしいとは思いますが勘弁してやってください」椅子を反転させ窓の外を向いて着席した千代は、場所を入れ替わった御子神を背中越しに窘めて以下に続ける。「あの根は砂埃なんだけど、手のつけられない甘えん坊者なの」

「フォローになって……根が砂埃? しかも甘えん坊将軍とか、地上と地中ダブルで鬱陶しいことこの上ないな」床の上ではなくヌーベス・デ・ポールボ・レバンタードス・ノ・エン・地中に舞う砂埃エル・スエーロ・スィノ・デントロ・デ・ラ・ティーエラ[訳註:西en el sueloには《床板の上/土の中》双方の意味がある]ともなれば、馬場嬢の顔もけだし白粉ポールボで叩き過ぎたのに違いない。[訳註:皮膚の中まで浸透した?]「天は地の上にニコを造らず、土の下にのみニコを造れり」[訳註:第三十四章終盤、偽の母親からの電話を切った千代たちが駐輪場のある城壁東側の小径で福澤翁に纏わる会話を物していた件を参照されたい]

「埋葬されてますがな」

獣こそ我が魂ビース・ティズ・マイ・ソウル……」それを言うならば《安かれビー・スティル》であろう。尤も魂の平穏カールマ・デル・アールマからは程遠いカールマ[訳注:西calma del alma / karma]を背負い日々を生きていると思しき大ミコミコンの王位継承者に無垢なる美女像イマーヘン・デ・ウナ・ベジャ・イノセーンテを期待するのは酷というものかも知れぬ。「ケモミミでも生やすか……ムリか。サンチョ様本日はどのようになさいますか?」

「あーじゃあオネーサンにお任せで」

「ではモヒカニックスタイル[訳註:《モホーク族の作法エスティーロ・モイカーノ》]など如何です?」小気味良い噴出音を伴って従士の髪が湿り気を帯びてゆく。「サンチョ様おキレイだしお似合いだと思いますよ」

「モヒカニックは……今日はモヒカる気分じゃないので」然様に惨めな顔カラ・ウン・タント・モイーナでシェーンブルンへ参上するのに比べたら、ラバの尻尾ラボ・デ・モイーノ[訳註:動物のmohínoというと鬣や鼻面の黒い馬や騾馬ムロ、更には牡馬と牝驢の間に生まれる駃騠ブルデーガノを指す単語でもある。前々章序盤の訳註も併せて参照のこと]でも頭に乗せて出掛けた方が幾分気も晴れるのではないか!「じゃあ縦ロールにでもしていただこうかしら」

「申し訳ございません今日コテ持ってきておりませんので」イエーロ[訳註:西hierro/fierro共に原義は《鉄》で、後者は主に中南米で用いられる言葉]などと聞くと家畜類ガナード焼印マールカスを押す際の焼きゴテフィエーロ・ケマドールを連想してしまいがちだが、ここでは巻髪用の鏝プラーンチャ・デ・リサードのことであるから読者諸兄も安心されたい。「あとオネーサン実はシナモよりポムポム派なのでロールの代わりにプリンにしてもよろしいでしょうか?」

「今からプリンて、まず金髪にせな(原註:La cabeza de purin/pudín es la condición del cabello bicolor que se están volviendo a crecer las raíces y necesita teñirse el pelo de nuevo. Quizás pueden imaginar un flan de huevo con salsa de caramelo, ¿no?)……プリンなるまで何ヶ月掛かんの?」

「……二ヶ月くらい?」

 無駄口を叩いている間も美容師の手は機敏かつ精確に動き続けていた。

「あっドライヤーもないわ日帰りだったし」

「お風呂んとこにあるよ」

「いいよもうくっついてるヤツだろ? 事故でババアのヌード見ちゃったら気分悪いし」

「ババア……垂れるほどオッパイないけど」おばあちゃんティタ[訳註:《オッパイテタ》]でないのなら別の笛オートロ・ピトをぶら下げたおじいちゃんティトとも考えられる。「カーテンくらい閉めてんしょ。閉めてなかったら床ビチョビチョだわ」

「ドライヤーの音と拍手勘違いしてカーテンコールとかって出てきそうやんヤツ」随分と手狭な劇場だこと!「レン姫はくるくるドライヤーとか使う人?」

「くるくるですか?」

「何つんだアレ……カールドライヤー?」

「カール・テオドア・ドライヤーなら嗜む程度には?」

「ダメだ分からん」美女に構ってほしいという浅ましき欲求に於いては存外ギネア女も四つ目を責める資格を持たぬようであった。「お客様カユイとこございませんか~?」

「痛い痛い痛い」従士の柔らかな猫っ毛ペロ・スアーベ・デル・ガト[訳註:第二十五章での用法とは対照的に、ここでは日本語本来の意味通り軟質の髪を表す言葉として用いられている。著者とて直に千代さんの風貌を目にしているわけではないのだから、その髪質についても勝手に想像するより他に術がないのだ]が天使の蝋セラ・セラーフィカの力を借り次第に厚みを増してゆく……「そんなベトベトしてないっすね」

「ウィッグ用なんだけどな」

「ハゲたりしませんよね……」

「後ろでおとなしくしてるんなら控え目でいいかね?」次いで整髪用噴霧器ラカ・パラ・カベージョが西陽挿す窓辺の空気を歪ませる。「コスイベとかでも大抵トイレ持ち込み禁止なんよ」

「ああ、よく貼ってますよね。コスプレなのにスプレー禁止とはこれ如何に」首から上はほぼ完成を見たようである。「まァ今日はこんなもんでいいですけど、あれガッチガチに固めたら固めたで逆に部分的に固まったまま変な風に崩れたりしません髪?」

「それは君がヘタクソだからでしょ」調髪技術テークニカ・デル・ペイナードが? それとも振頭技術デ・カベセーオ?「……れ、お前こうして見ると結構カワイイというか、顔いいのな」

「えっちょ、ちょっ鏡、鏡おくれ」

「あっいいのは俺の腕か」眼の前の窓硝子も流石に鏡台の役割を果たすとまではいかなかったようで、御子神は千代の正面に回りつつ胸像の出来上がりを確認した。「うん、いい感じにフワフワ……スプレーといやサンチョ銭湯で会った時さ、めったくそ制汗剤と磯の香り混じったなんつうか、名状しがたい異臭放ってたよね」

「それはもう言わん約束だぜ……」沼津を発って後、右手に富士を仰ぎ左手に駿河湾を見下ろしつつ犬には吠えられ、無数の蝿にもたかられた月曜の午後[訳註:第九章冒頭を参照]が脳裏を掠めたか、サンチョは堪らずに顔を顰めた。ミコミコーナとの邂逅は更に一晩野宿した挙げ句のことだったのを鑑みれば、その臭気が公害の域エターパ・デ・ラ・コンタミナシオーンに達していたとて不思議ではない。「つかそれ言ったらハナ先輩だって同条件だったし」

「いや、騎士さまの方はそれこそ芳しきフローラルの匂い漂わせてた」

「それ名前に引っ張られて記憶改ざんされてるだけだろ。だったら私だってチヨ……」私だっておバカな匂いペルフーメ・デ・ラス・チョーラス?「――オラル?……千代田区の匂い?」

「何臭だよ」千代田区は日本の首都機能を担う地域であり、東京駅を始め皇居や国会議事堂・官庁街、それから秋葉原を有する。「お前世田谷じゃなかったんかい」

「じゃあお茶の匂い?……チヤ、チヨ何とか、チヨ……千代紙って何でしたっけ?」

「千代紙は折り紙とか、工芸品とかに貼って使う和紙の……別に匂いはしないかな」

「香り付きだったらもうティッシュとかトイレットペーパーでいいだろ」日本では一度鼻汁をかんだら捨てる鼻紙パニュエリートや尻を拭うだけの便所紙パペール・イヒエーニコにすら花の香りを塗布して販売する。しかも高品質かつ安価な携帯用懐紙パペール・ティスッ・デ・ボルスィージョに至っては、街頭にて無料で配布されてすらいるのだ。ミコミコーナは唸った。「……やっぱつまらんな。ヒゲでも描くか」

「待て待てそんな悲劇的な蛇足があるかよ」[訳註:《痛ましい足付きの蛇が如きコモ・ウナ・セルピエーンテ・コン・パータス・パテーティカス》]

「猫はヒゲ生えてんだから蛇の足とは違うっしょ」成る程蛇に足は無用だが、ヒゲ無き猫ガト・スィン・ビゴーテスは(それを想像で補える)ラ・サンチャの騎士にも況して哀れを誘うであろう。「いっそさっきのキス顔からの流れでアレ、キッスの猫男キャットマンメイクとか」

「そういう可愛げな小細工はサンチョとかニコ助みたいなザコキャには似合わぬ」

「そう卑下しなさんな[訳註:《元気出せよビゴリーサテ》]」化粧箱の中を漁るギネア王女。「猫耳の用意はないがヒゲメイクくらいなら秒で描けるぞ。猫がイヤなら雑魚ヒゲでもいいし[訳註:髭の生えた魚といえばナマズやヒメジ科のオジサンを思い浮かべるが何れも小魚とは呼べまい。となると煮干しのような形の口髭か、若しくは如何にも三下が生やしていそうな情けないチョビ髭とか?]……似合いそうだよね、ねえバブ姫?」

「ヘアメイクさんお時間が」

「ですよね」整髪師エスティリースタは戯れに物した提案を撤回した。

 どうやら口内に立ち並ぶディエーンテスのみでは飽き足らず、わざわざ外側にまで蛇の足パータス・デ・セルピエーンテを生やす事態だけは避けられたようである。


後は着付けさえ済ませれば直ぐにも出発できよう。

「じゃあエクサントリークじゃなくて何だ、そのアビエタージュでぐいぐいと締め上げるとしますか![訳註:《この鬱陶しい粉挽き女を握り潰すアプレタール・エスタ・モリネーラ/絞り上げる・モレースタ》]」おお、無実の罪で一族諸共謀殺されたアベンセラヘスの呪いは六百年を経た今以て尚拭い去れずにいるのか?「……えっと容疑はね、万引き犯ならぬお茶っ挽き――三茶っ挽きの罪で」

「そんな岡っ引き奉行所が認めるか![訳註:《粉挽き女じゃねえジョ・ノ・ソイ・モリネーラ!》]」ならば引っ繰り返った女エーレス・カポターナ・トゥ?[訳註:西capotar《飛行機が鼻から落ちる/車が横転する》。この下の句は第二十九章でも引用されたメヒコ民謡『ラ・バンバ』の歌詞《僕は水夫じゃないヨ・ノ・ソイ・マリネーロ船長だソイ・カピターン》に拠るのだが、一九五八年にこれを揺転楽ロック風の演奏で発表し世に知らしめたリッチー・ヴァレンスはその翌年飛行機の墜落事故に依り十七歳で夭折している。余談だが八七年に同曲の新録で全米一位に輝いた楽隊の名は《狼たちロス・ローボス》であった]「何も吐きませんよ……さっき食ったもん以外は」

「吐くなら便器に吐け。膀胱シャワー浴びてるメガテン頻尿の隣でな」

「何その地獄絵図……いやまあ吐くほど食っちゃないですけど」矢張り先述の葡萄酒食堂では幾分節制していたようだ。まったくこうなると棘付き帯シリーシオでも巻き付けた方が余程負担も少ないのではないか?(附録としてコモ・スプレメーント神の子の苦痛まで体験でき実にお得バスターンテ・レンターブレである)

「どれどれ」タンタン!――空の樽ほどよく響くトネール・バシーオ・メテ・マス・ルーイド

「やーめなさいって」

「なるほど……こっちは?」タランタラン……やや鈍いエスタッ・ウン・ポコ・アモルティグアード

「やめいちゅうにこれ以上バカになったらどうする!」

「――あちゃあ、こっちもあんまり詰まってないな」いやギネアのウサギ姫プリンセーサ・コネヒータ・デ・ギネーアよ、殿下は片目だけでなく両耳まで閉じてギニャール[訳註:西guiñoは片目を閉じて合図する行為。通年で繁殖可能な兎は耳長の動物であると共に、ここでは好色の象徴としても用いられている]エル・トボソを誘惑しておられるのでしょうか? 然もなくばその長い耳を澄ましてよくお聴きなさい、《よく鳴る胡桃こそ実が少ないムチョ・ルーイド・イ・ポーカス・ヌエーセス》とも謂うではないか……[訳註:前者が太鼓タンボール、後者は恐らくカンパーナを鳴らした際の擬音。つまり御子神は先ず千代の後ろから手を回しその腹を平手で数度小気味好く、続けて頭頂部も同じように叩いたのである]「これこんまま着るの?」

「無茶言いなさんな。脱ぎますよ」

「えっ、マッパの上にコレ?」

「痴女じゃねえか! そんなSM女王みたいなコスあんたしか似合わんわッ」千代は敷布の上に置かれた純白の寛衣ブルーサ・プラ・ブランカを手繰り寄せる。「えっと……すんませんおふたりともちょっと後ろ向いてていただけます?」

「何今更……ご開帳しーてくーださいよ~、お~ね~いいじゃないのぅ~」場違いな嬌声を上げながら王女は従士が羽織る浴衣の両襟を掴んだ。「減るもんじゃなし~」

「きゃーおかされるー」[訳註:「脅さないでくださいノ・メ・アメナーセス!」]

「もうそんな鎖骨してないで~」[訳註:「軽々しくお前を愛する人類などおらぬノ・アイ・ウマーノス・ケ・テ・アーメン・アル・アサール」]

「オカーサーン」[訳註:「たしかにアメーン!」]

「チカさんじゃなかったっけ?」[訳註:「拉麺のが好きでしょラーメン・トゥ・プレフィエーレス」]

「じゃあ今の内に私ちょっと洗面所使わせてもらうね」乙女の恥じらいティミデース・デ・ラ・ドンセージャを慮ったドゥルシネーアが家主ドゥエーニャサンチョの了承を求めた。「ババちゃん鍵かけてないみたいだし」

「あっどうぞ」

「えっレン姫はこのミコお姉ちゃんを差し置いてあの、メガネ改めレンズ豆のメロウとしっぽりお風呂にしけ込むおつもり?」

「込みませんて」苦笑する安藤部長。「私もちょっと汗かいたから。顔だけでも」

「それならよし……でもお気をつけあそばせ? ヤツの貧乳と目が合ったが最後お姫様は石になってしまうとも伝え聞くから」

「ふふ、お互い合宿のお風呂とかで免疫付いてるから大丈夫」

「なっ、それは聞き捨てならんな!」誇り高きアフリカの次期女王は下民の四つ目に先を越されたことがつくづく我慢ならぬ様子であった。「まあ?、ミコミコーナも?、ついこないだハナちゃんとは裸の付き合いをしましたが?」

「私もあの子との裸の付き合いは長いですよ?」安藤さんが浴室の扉を開く。「――じゃあお借りします」

「ごゆっくり」

 蓮口アルカチョーファから迸る通り雨チャパローンが浴槽や仕切り幕に打ち付ける音が数秒間だけ届いたものの、それらは再び閉じた一枚の板に依り直ちに遮られた。


客室には千代と御子神嬢が残されたが、彼女らが二人きりになったのはほんの一時間と少し振りである。

「幼馴染属性に対抗心を燃やされてしまった」

「アンタ仏の顔にも限度がありますよ」如才なき従士は着替えを介助するお付きの王女アマ・デ・コンパニィーアが余所見している間を狙って寛衣の装着を済ませた。「そりゃあの部長さんなら仏頂面してもさぞかし美しかろうですが、同性だからってセクハラが許されるご時世じゃねえですから」

「相手の男女を問わず美しいものは愛でたくなるのが審美家のサガってもんだろ」

「おサガんなことで……でもイケメンの舎弟さんとは裸の付き合いしても」猫娘は寝台の上に腰掛け直すと、胴衣を手に取ってその背面に目を見張った。「あっ紐がキレイに揃って緩んどる、ありがとござます――向こうも激萎えだったみたいだけど、可哀想に……結局愛でなかったんでしょ」

彼奴きゃつは美形なだけでイケメンではない」王女はアビンダラエスを奪い去るや、自らも敷布の上で膝立ちとなって、「イケメンとは素材ではなく演出を指す言葉なのだ……まァ稀に内面の男前っぷりを表す用例もあるけど。はい前は自分で留めて」

「は~い……美形は別にイケてなくても一応美しい形なんだから愛でりゃいいじゃん」

「中身を知る前だったらオカズくらいには出来たと思うんだけどね」主菜プラート・フエールテとする為には深く付き合う必要があろう。元々縁が無かったと諦めるよりない。[訳註:日本語を直訳するならばオカズこそ主菜でその本来の対義語は《ゴハンアロース》則ち主食アリメーント・バースィコである筈だが、よくある誤訳で主菜に対する副菜グアルニシオーン――日本人の感覚では双方ともオカズだろう――として対訳されている。これでは実際の恋人と想像上の恋人……というよりも、本命と浮気相手のような関係性になりはすまいか?]

「それぜってえ向こうも同じこと思ってるよ!」否、A地区セクシオーン・アー……否々、無性愛アセクスアールの可能性はまだ残っている。[訳註:第三十章の伝馬橋前で交わされた会話を参照のこと]「……でけた。これ曲がってませんか?」

「ちょい待って……よっ」

「う」

「大丈夫っぽい。もうちょい姿勢正せよお嬢様よう」下衣の皺を伸ばし、鎖帷子の位置を微調整する。「つかお前上にこんなん巻いててさ下もっとマシなパンツなかったわけ?」[訳註:《下の部分パールテ・デ・アバーホ》]

「ほ、ほっとけ。こちとら金が無いんだ、見えないんだからいいだろ」

「さてはおぬし江戸っ子じゃねえな」嘗て江戸の町人は渋めの茶色や藍色そして無地や地味な柄の着物を好んだが、その裏地には対照的に派手で豪華な色柄を好んで用いた。この美意識を称して《江戸の粋シック・デド》と呼ぶ。「そんなこっちゃラ・サンチャのサンチョ・パンツァーは名乗れんぞ」

「いやパンツァーもネコ科だけれども」それはパンター[訳註:西pantera]である。「逆に中坊が何か気合入った勝負パンツ穿いてる方がイヤじゃない?」

「いや見えない方のパンツは知ったこっちゃねえけどだったら……まあ今言ってもしゃあないか」ミコミコーナは中央の鳩目から飛び出た左右の紐に指を入れた。「あんま人の着るのやったことないから加減が分からんですまんけど……じゃ引っ張るよん」

「おなしゃす」昨朝トルデシリャスの洗面所で試着した際にはそこまで締め上げなかったが、今回は本番である。「ちょっとずつね」

「上下の穴緩んでんだからちょっとずつしか出来ねえよ」

「あと多少絞れたとはいえあんまやると背中ハムレッツみたくなると思うので」

「ハムカッツ揚がる前にバスクが歪むわ」

「ケチらずに化け鯨の骨でも使ってればもっと頑丈だったんでしょうが」でなければ岡崎の舞台上で鼾睡していた鯨丸女王レイナ・ラ・バジェーナの背骨か![訳註:第十二章の寺墓地では花が胴着の素材を山羊革と鯨骨ではないかと問い返す場面があった。鯨丸とは第二十章の芝居でパロミが演じた牛丸のこと]

「骨じゃなくてヒゲだろ」ヒゲクジラのヒゲは口内の上顎に生えている為、見たところは歯列と見紛うかもしれない。「何お腹に鯨のヒゲ描いてほしいの?」

「腹見えないのに意味ないだろ……見えてたらもっと嫌だが」サンチョのパンサに立派な髭が生えたのを見たら、《嘗ての主人》もさぞかし嫉妬するに違いない!「――ってミコさんプロレス技掛けようとしてる? コルセットの骨の前に全力で私の背骨折りに来てね?」

「ごめん昔の絵とかのイメージで何となく。いいから黙って息止めて力抜きんしゃい」

「怖い……アンドーさんにやってもらえばよか――っぐぅぅぅ!」こちらの拷問着ベスティード・トルトゥラドールも[訳註:前述の棘付き帯と比べても]どうしてなかなか、我々の為に死なれたイエスヘスースの崇高なる最期をその身で味わう為の機能は十全に備えていたとみえる……但し十字架クルクス・インミッサではなくX字型の対角線架クルクス・デクッサータ・エン・フォールマ・デ・イークスの苦難ではあるが。[訳註:言うまでもなくきつく締めれば締めるほど胴体が砂時計型に矯正されるからだ]「ちょちょちょちょちょちょ、ちょっタンマタンマ」

「何お前ナメてんの?」そのまま布団の上に倒れ込んだ少女の背中を着付介助士アジュダーンタ・デ・カメリーノの冷徹な視線が貫く。「いや何斜めってんのだ、まだコルセットのコの字も締めてねんだけど……何しとん?」

「……ワガハイは寝込んでいる」つい十秒前はサンチョの腰の辺りを抑えていた王女の足裏が今度はその臀部を勢いよく踏み付けたものだから、布団の下の緩衝敷物も大きく沈んでからその反動で寝台上の両者を豪快に跳ね上げた。「てててちゃうねん違くて、いててて背中つった」

「甘えてる間はない――つかさっき金シャチの前でコケてブリッジした時も思ったけど君カラダ硬すぎだろ。ライブでもケガすんぞ」とはいえ身体はともかくも、あの兜が固かったお陰で彼女がその頭をかち割らずに済んだのもまた紛れもない事実であった。[訳註:第三十四章名古屋城篇を参照]「あと吾輩寝込むのはいいが枕で顔拭くなよな」

「だいじょぶおメイク様の傑作は死守してます……ててて右肩の筋が、やっぱ寝起きに柔軟とかしといた方がいいんすかねこの歳になると」寝起きに伸縮体操エスティラミエーント?……ここ一週間の内にそのような光景を目にしたことも或いはあったやも知れぬ。

「筋トレしろ」

「えっマッチョになったらコスプレできんくないです?」怠け者の従士は少しの運動で何故か一足飛びに筋骨隆々となった己の姿――いやMICO☆MICOの肢体か――を幻視しているかのようだった。「アナタだって乳ポヨンポヨンのくせに上乳うえちちの――乳上?の上ガッチガチすぎでしょ。さっきビックラしたわ」

「気安く触んな。鍛えなきゃ垂れるんだよ……貴様も油断してっとまだ若かろうがバカだろうがどんどんケツとか垂れてくっぞ」とどめの一蹴り。「ほれ、呑気にへたってねえでゆっくり肩甲骨回してみれや時間ねえんだろ」

「おう……ちょっちマシになってきた」右肩を抑えつつ慎重に起き上がる脆くも軽からぬノ・アーヒル・スィノ・フラーヒル猫の上半身。「もっかい頼んます、前は外れてねっす。これまで世界を股に掛け色んな男に……男女問わずか、その門戸を開いてきたビッチパイセンとて別に、その何だ、股関節が特別柔らかいってわけではないんしょ?」

「お前もまた色々ギリギリな奴だな……」末妹が背中の筋肉を解している間に、捩れたアベンセラヘスを整えてやるウルド。「悪いけどこう見えてアタシ股抜きできるけどな」

「だからサンチョは中坊ですから! そういう風俗用語みたいのは通じませんて!」

「何だよ風俗用語って!……いや股抜きじゃサッカーとかか」《股を抜くサカール・ラ・エントレピエールナ》とは俗に言う《筒を抜くアセール・ウン・カニョ》と同義であろう。[訳註:《水道管カニョ・デ・アーグア》]「何つったっけアレ力士とかが稽古でやってる……股割り?――からの足抜き?」[訳註:《股壊しケブラエントレピエールナス足抜きサカ・エントレーピエス》という新語で表現されているが、通常柔軟運動の開脚は字義通りのapertura de piernas又は《大開きグラン・テカール》等と呼ぶ。それから股間を指すentrepiernaが《両脚ピエールナスエントレ》の意である一方でentrepie《両足ピエスの間》なる単語は存在しない。熱力学や情報理論で用いられる無秩序度エントロピーア(西entropía<独Entropie)と掛けたものか]

「足で抜く……それも何か最近ピンク街的なワードとして耳にしたような」これは特定の地域から《足を抜いてサカンド・ロス・ピエス》外に出ることであろう――換言すれば逃亡エスカーペ脱走フガの類だ。[訳註:これも第十八章冒頭に掲載した戯曲内に「足抜きを図った遊女」という台詞が確認できるので、その件を千代さんが部分的に記憶していたことも考えられよう。因みにsacar los piesは《相手を無視する/疎遠になる》ことを表す慣用表現である]「まあ誘拐犯に捕まって縛られたりとかピンチな時でも軟体動物ぅ、うっ――並みに柔らかけ、りゃ、縄抜けとかも出来るだろし逃げるのにも役立つで、すかっかっか……ね?」

「誘拐は知らんがハムは――っと、普通解体してから縛って吊るすんだろうから、その時点で縄解けても逃げんのはムリじゃね?」非加熱クルードであれ燻製アウマードであれ、そのような芸当を身に付けた豚を他の食肉と一緒くたに出荷してしまうのは惜しくはないか?[訳註:生きている内から縛られておらぬ限りその才能を見出す機会もないのだから、この指摘は的外れと言わざるを得ない]「まァストレッチなんかしてる暇あったらヒトリェッチでもしてた方がまだ健康的な気もするけど」[訳註:《単独柔軟運動アウトエスティラミエーントなんか~/自己慰楽アウトエントレテニミエーントでも~》。恐らく後者の語感からは幼児や愛玩動物の一人遊び用玩具的何かが思い浮かぶであろう]

「アンッタガタほんっとお似合いだよッ!」

「いやてめえオキシトシン先輩なめんな」これは《迅速な出産ナシミエーント・ラーピド》を意味する古希語が元になった生体物質オルモーナで、その名の通り分娩を促進させる作用を持つことで知られるが、近年はドパミーナやセロトニーナと共に多幸感を促す幸福物質としても注目されている。「それ以前に何、この文脈でソロプレイのどこら辺がお似合いなのよ? 女優業とか所詮自己陶酔じゃんとか……それかアレ、騎士遍歴なんて独りよがりの自己満じゃんとかそういう?」

「どっちでもな――うおっ締ま……その、アイツ……松屋とだ、よ!」

「呼吸苦しくない?」

「大声出さなければ何とか……でもアバラがバラバラ、」千代は短く浅い呼吸を繰り返しつつ以下に続けた。「――どころ、か、むしろ肋骨上下、前後も、全部くっつきそう……ああそうか、これがお腹と背中、が、くっつくという、あの――」

「もう腹減ったんならてめえのバラ肉でも取り出して食ってろや……つか何だ松屋がお似合いって、肉食系ってこと?」

「いや別に……ほらやっぱ、乳牛のようなご立派なのを下げて、おいでだから――では?」

「なにゆえ半疑問形、自分の発言には責任を持てよな……それすき家吉野家じゃあかんかったのか」これら《屋》の付く三社こそ今朝方アンダンドーナの足下で著者が読者に解説を施した牛丼御三家エル・トリウンビラート・デル・ボル・コン・テルネーラ[訳註:第二十七章終盤で花がセビリア男と名駅通りを横断した件を確認されたい]、そして昨昼訳も分からぬまま河畔に取り残された従士が矢作川を発って最初に立ち寄った店がその一角――恐らくすき家――[訳註:第二十一章末尾に記述があるが、実際にはその手前で便利店にも入っている]だったのである。「よしこんなもん、か……もうちょいイケるかな?」

 但し食用に用いられる肉牛の多くは去勢牛カベーストロスである為、ギネア王女は――もしかしたら岡崎の女王も――除外されるやも知れぬ。乳牛の肉が食されるとすればそれは長期間の搾乳や出産を経た後の廃牛デセチャーダスが対象となるわけで、脂が乗って柔らかい牝の肉牛は勿論、筋肉質で固い去勢された牡牛と比べても、老いた彼女らの肉は数段味が落ちるのだと謂う。


しかして圧死の危険を察知したサンチョ戦車パンセール[訳註:独Panzerパンツァーの原義は《鎧》]はその車体ごと押し潰される前に――、

「すんません私がやりました」(引き攣った声でエン・ラ・ボス・テンサ・イ・アオガーダ

「……え、まだ牛丼出してねえけど」

「そこはカツ丼だろ」――架空の罪を告白することで何とか難を逃れた。やれやれ、彼女が所謂《中身のない乙女ドンセージャ・ウエーラ》でさえあれば斯様な苦痛を感じることもなかったろうに![訳註:きつい胴衣を拷問具《鉄の乙女ドンセージャ・デ・イエーロ》に見立てた表現。胃の中の昼食もしくは無駄な脂肪や内臓が無ければ多少の圧迫にも屈しなかった筈だという意味?]

「ここじゃ出来てせいぜい壁ドンだけどな……ほら故郷くにでおふくろさんも泣いてるぞ[訳註:西訳では《お前を待っているぞテ・エスタッ・エスペラーンド》]」実際に故郷で待ち受けているのは模擬試験エクサーメン・デ・プラークティカである。「……おおクビレてるクビレてる。持ち主サンチョなのにケツの線がエロい……ちょ立ってみ、すっと立てる?」

「ちょっと待って……なんか背中に物差し入れられてるようで重心が」

「慣れる慣れる」――パチンプム! 膝立ちで布団に穴を開けながら寝台の縁まで進み、それから漸く絨毯の上に爪先を下ろしたミコミコーナがもう一度画架カバジェーテの前へと回り込む。「おお……もちょっ肩開いて普通に起立せえや」

「あっでも何か……きもちいかも。上から糸で吊られてる的な」肉吊り鉤ガラバートではなく?「このまま天に召されそう」

「いやさっきからの流れで昇天されるとミコミコーナがイカせたみたいでイヤなんだけども……これ出した方がよくね?」御子神は千代の首元から覗く鎖に指を掛けると、その先端に垂れる首元飾りコルガーンテを寛衣の胸元へと引き出した。「――イイ感じのワンポワント」

「ハァ……赤のが映えた気はしますけど」

「あそっか、静岡だとハナちゃんがこれ巻いてたんだっけ」三軒茶屋でも沼津でも、そして無論駿府城址付近の銭湯に於いても、黒きモーロ騎士の遺物纏いし主人の着脱を介助したのは他ならぬ猫の従士だったのだ。「お揃いで買ったん?」

「えっ同じヤツですよ?」[訳註:同じ胴衣コルセッが二着あるのか訊かれたのだと誤解して]

「じゃなくて、これ胸の」

「ああ、いえなんか路上で配ってたっぽい。知らんけど」

「てこたタダかよ!……どっかジュエラーのキャンペーンか何かか? じゃコレ石もガラスか……」雑音が交じるので余り擦らないでいただきたい。「――にしてはなかなかの……今から三茶?行ってももう配ってねえよね」

「ん~と試験休み明けの登校日……終業式の二三日前だからどんだけ経ってんだ?」それは馬場久仁子の背信が明らかになった、そして何より両者の馴れ初めコミエーンソ・デ・ラ・ビンクラシオーン・エントレ・アーンボスの日でもあったのではなかったか?[訳註:第一章参照]「――二三週間ってとこすかね。何かの処分品でおもくそ大量に在庫が余ってるとかでもなきゃさすがにハケてるでしょうな」

「そりゃせやろ。ほんだらそれわいにくれろ」

「中坊にたかりなさんな。出張ヘアメイクの代金ならパチもんネックレスよりこのボンレスハムでも売って支払いますよって」変装遊戯に使うだけなら他に幾らでも当てがあるだろうに……千代は自身の骨有り片腿ムースロ・ウエサード[訳註:西huesadoという単語は存在しないが、deshuesarで《肉からウエーソを剥がす》、骨無し腿肉はjamón deshuesadoと呼ぶ。語源の関係上musloと書かれてはいるものの、音から察するに――加え直立姿勢を矯正された状態であることも鑑みれば――実際に手で打ったのは反対側の二の腕だと思われる]をぎこちなくピシャリと叩いてからそのまま腰を下ろし、背後の枕元に手を伸ばそうとするも、「上手く腰が捻れん……それにハナ先輩とシンメトるならミコ様よか幼なじみ様っしょ。あげるとしたらアンドーさんの方に献上するわ」

「それもそうだ。そんでミコ様が黄色い、黄玉トパーズ黄水晶シトリンみたいな玉で同じデザインのを自作すれば……」宝飾加工ビステリーアの覚えもあるとは何とも多芸な乳牛であること!「美少女ふたりの間に挟まれて晴れて両手にハナちゃんとハスッパナちゃんの三原色信号機が完成するって寸法よ……あっ信号機のキは姫のキね?」

「そんないちいち自分から注意喚起せんでもアナタが危険人物ってことは赤も青も先刻ご承知ですから」つまり赤信号セマーフォロ・ロホを見掛けたら《暫し立ち止まれアス・ウン・アールト・ウン・ラト!、然もなくば高く付くぜオ・バス・ア・パガール・ムイ・カロ?》と解釈せよと? それとも紅き紫陽花は何かの弾みで項垂れた際にその薄い胸元で光る紅玉に目を奪われ、蛇髪の女ムヘール・コン・クレーブラスの目で睨まれたかの如く自らその歩みを止めてしまったのだとでも? 尚、多くの日本人は慣習的に緑信号セマーフォロ・ベールデを《アスール》と呼ぶけれど、これは実際に青色の信号が多いという理由以上に色覚に於ける文化的背景が大きく起因している。つまり青と緑の区別を曖昧にしてきた歴史がある故だが、他にも例えば東洋人にとって白月は黄色だし、黄色く輝く太陽も赤く描かれることが少なくない……(そもそも我等とて赤茄子トマーテ・ロホを《黄金林檎ポモドーロ》などと呼ぶし、本来赤味掛かった色コロール・ロヒーソを意味する筈のrubioで金髪カベージョ・ドラードを指すではないか?)[訳註:西tomateの語源はナワトル語のtomatlで、その語義は《肥えた水アーグア・ゴールダ》なのだとか。西rubioは羅rubeus《赤》の転化であり、赤毛は赤髪ペリローホと言う]「そもそもイエローというかエローだし……エロいか、そうかエロイカかって何がそうかなんだ?」[訳註:第二章半坐家洗面所の場面を参照のこと]

「『エロイカ』は池田理代子だろ……もしくは北斎の春画」イカは海の烏賊カラマール・デ・マルを指す日本語で、カラマルとは《絡まった状態エスタール・エンレダード》を意味する……否、ルートヴィヒの愛聴者エスクチャドーラならばこれとは別の返答こそ相応しかったのでは?[訳註:第二章で花は交響曲第3番『英雄エロイカ』に言及している]「いやアレは蛸か……エロダコか」

「池だの沼だの……タコスギだのタイマツ[訳註:鯛松?]だのと……」

「サンチョはマツ好き過ぎかよデラックスなのかよ」好き嫌いはともかく意識の外に押し出せていないことだけは真実のようだ!「――てかニコスギうちら待たせ過ぎだろ、風呂場で転生でもしてるんかメガネだけに?」

「シャワー浴びてる途中に転生したら転生先でも裸なんすかね」

「それは転送だろ」生まれ変わりトランスミグラシオーン移送トランスポルタシオーンとでは大分趣きが異なるだろう。「ニゴジューどころかサンゴ十五分は経っとるやんけ」

「えっ嘘、今何分?」上半身を捻ることが難しい従士は回れ右メーディア・ブエールタして枕元の時計表示に目を凝らした。

「あと二分でロック時でござい」

「ちょちょっ、あと三十分でハコが……85はちごー開場オッフェンなんすけど」仮令直ちに城門を出たところで乗り継ぎや最寄り駅からの徒行を考える限り、整理券の問題クエスティオーン・デ・クポーン・ヌメラードなど言うに及ばず[訳註:一応第十四章に記された浜名湖東岸のうなぎ屋二階で床に就く寸前には「早めに会場入りして一桁台を手に入れる」意志を表明していた]ハコが開く定時に間に合う保証すら疑わしいのだ。「ま~、マジかあ」

「マジマジ、マジソンスクエアガーデン。収容人数百分の一くらいしかないだろけど」

「ほんとに戻ってこないんだ」

 千代さんが駝鳥かキリンの首よろしくピンと背筋を伸ばしたまま布団に膝立ちとなり、二床の寝台の枕に挟まれた小卓上の電話機と、その直上の壁に設置された卓上灯火ラーンパラ・デ・エスクリトーリオの丁度半ばから臍の緒コルドーン・ウンビリカールさながらに栄養補給ヌトリシオーンを享受していた胎児フェト目掛け身体を傾け右手を差し出そうとしたその刹那、彼女の視界の片隅に飛び込んできたのは不意に開く扉から飛び出ずる者……その姿には瀟洒な一張羅ロパ・デ・サーバド[訳註:直訳は《土曜服》]で腹を引き締めたばかりであった然しもの《引鉄の従士エスクデーラ・デル・ガティージョ》[訳註:出発間際だから? 何故gatilloと呼ぶかといえば猫の尻尾コラ・デ・ガトに似ているからなのだとか。因みに本稿ではこれまでempuñadora《握り締める物≒引き金》の訳語が当てられていた]とてその猫目を見張らざるを得なかったのである。


袈裟が坊主を作るのではないエル・アービト・ノ・アセ・アル・モンヘメス猿が絹で身を包んだところでアウンケ・ラ・モーナ・セ・ビースタ・デ・セーダ……猿は猿だモナ・セ・ケーダ!》――その通り、何と愛らしいケ・モーナ![訳註:第十八章の原註および第三十二章でも《馬子にも衣装》の説明として引用されているが、ここでいう西hábitoは《行い、習慣》ではなく僧服のことで、解釈に依っては《外見より中身が大事》とも《中身より外見が大事》とも読める金言となっている。第三十四章の地下通路で御子神嬢が発した「人は見た目が九割だぞ」が尾を引いたものであろうか]

「チヨさん見て見――」だが日本にはこんな諺もある……そう、《良い衣服は馬方さえ変えるインクルーソ・ロス・カレテーロス・セ・カンビアン・コン・ウナ・ロパ・ブエーナ》そして《それが女馬方なら尚更ラス・カレテーラス・ムチョ・マス》なのだ![訳註:西carreteraは通常幹線道路アウトビーアを指すことが多い]

 ここでカラスどころかアヒルの子パティートさながら浴槽に張った湯にでものんびり浮かんでいたのではないか[訳註:第七章でも沼津の宿にて《烏の行水バニョ・デ・クエールボ》に対する《家鴨の行水バニョ・デ・パト》なる表現が用いられていた]という疑いも濃厚な牝猿と、その旧知たる牝猫の目が搗ち合った。

「「――誰アンタ?」」

「シンクロすんな」窓辺から呆れた声が届く。

「ちょっとチヨさん、自分じゃ勝手に人入れんなとか云っといて――あれ?」半時間ばかり前の仕返しベンガーンサであろうか、馬場嬢は恥じらいもなくスィン・ベルグエーンサ背伸びして障害物の肩越しに、その向こうの寝台へと視線を投げ掛ける。[訳註:つまりこの時点で千代は、寝台の上から玄関前通路の方まで移動していたことになる]「……ちょっとミコさんサンチョはど――ハッ!」

「何その恰好?……何を企んでんだ?」[訳註:「つかどういう服装だペロ・ケ・ロパ・テ・ポーネス?……冗談抜きでフエーラ・デ・ブローマ」]

「おっカッコウだけに」浴室の中から害意なき合いの手インテルヘクシオーン・スィン・オフェンデールが響く。「……いやどうぞ続けてください」[訳註:前半は「《ローマの外ではフエーラ・デ・ロマ好きな服を着ろポンテ・ラ・ロパ・ケ・キエーレス》」と意訳されているが、これはラティン語由来の格言《ローマではローマ人の如く振る舞えエン・ロマ・アス・コモ・ロス・ロマーノス》及び四世紀のミラン司教アンブロシオの語録でも特に有名な《訪れた場所ではア・ドンデ・フエーレス見たままに振る舞えアス・ロ・ケ・ビエーレス》の二句――共に日本語の《郷に入っては~》と同義――を適当に織り交ぜたもの]

「あっはい」

「何どんな恰好?」また窓辺から。「シャワーで化けの皮剥がれたらまた少女に再退化しちゃった?」[訳註:《バカ女マハドーラに》。動詞majarで食材などを《押し/擂り潰す》]

「全然、まだ美少女。ちょっと前までビショビショウ女だったけど」[訳註:《魅力的な女子チカ・マハビショ濡れのケ・セ・モハ》]

「ちゃんと拭いてから出てこいよ……」相棒に身体用手拭いトアジョーン・デ・クエールポの使用を禁じた張本人が、いまだ顔を火照らせている二つ目を詰った。「――つか、」

「あってめ顔濡らすなっつったろがい直してやらんからな!」

「顔濡らしてねっすよ!」証明せんとするもビエン・ケ・インテーンテ・デモストラールラ、立ちはだかる弁慶が邪魔である。「風呂場の蒸気が美顔スチーマーの役割を果たしちった感は否めぬが」

「長風呂すっからだろこのド曇りメガネが!」これが真実顔面噴霧器バポリサドール・ファシアールであれば、白粉ポールボスどころかその下の皮脂まで根こそぎ落としてしまったに違いない。面倒見の良いミコミコーナは一端仕舞いかけた化粧道具をもう一度引っ張り出して、「こちとら慈善事業やらされてんだ、とっととこっち来て座りやがれ!」

「さーせん」同じ隘路とはいえ足を踏み外せば真っ逆さまの橋の上に比べれば幾分緊張感に欠ける道だったとみえ、千代さんの両肩に手を乗せた久仁子は壁に自身の背を擦りつけるようにして彼女の脇を抜けながら以下の言葉を残した。「意外にもめちゃしこ似合ってるよサンチョさん……うち完全体に戻ったら行く前にツーショット撮ろうぜ」

「それはいいけどあの――」

「おっとこれも死亡フラグじゃろか?」

「……さ、いや撮んならみんなで撮りゃいいじゃん」

「いやさすがに天然モノと並ぶのはちょっと、折角化けたのにわざわざアラ目立つ愚は犯さずに行こうじゃまいか……」[訳註:後半部は「~分かるでしょコモ・サーベス?……ここだけの話でエントレ・ディエーンテス」という科白に差し替えられている。《歯の間で話すアブラール・エントレ・ディエーンテス》で他者に聴かれぬようぶつぶつ呟く又はこそこそ会話すること]

「具がオカズって何だ?[訳註:「具材イングレディエーンテス……菓子が出来る前に食うなよノ・コーマス・エル・ドゥールセ・アンテス・デ・ケ・セ・アージャ・エチョ! 分かったサーベス?」]」化粧師は声を張り上げた。「お菓子姫無事? 完成前に食われてない?」

「食われてないでーす」

「よかった~元メガネの巻き添え食って蒸しマン[訳註:《甘い蒸しパンパン・ドゥールセ・アル・バポール》]にでもされてたらあたしゃドニャ・キホーテに顔向けできないよ」そう言って顔を向けた先に、呼ばれるまま寄ってきた床屋の娘の粧し込んだ姿が――「……え? メガトンチキなカッコで微笑してるジョが、ジョジョ立ちしとるがこれは一体?」

「ジョって! 満面の笑みだろ!」

「メガトンチキは認めるんだ……まァ座れや、時間ないし」ほんの一分前まで千代の占めていた寝台の縁を馬場嬢がまた凹ませる。「さすがにコス慣れはしてる感じだっつって……よく持ってきたなこんなん、着替えって汗かいた用だと思うじゃん」

「一応夏用は夏用ですけど……ほらチヨさん、先週の」言葉を失って浴室の前に立ち尽くしたままの猫娘の視線を背中に感じながら、「――シブミサの時の、送ったっしょ?」

「いやま写真は見たけども」丁度一週間前の夕べに渋谷の《夜伽》へと独りで参内した馬場嬢は(自分のせいで)その場に立ち会い損ねた哀れな灰被り姫セニシエーンタを不憫に思ってか、箱根から単身一時帰宅していた従士に翌朝電話を掛けるなり宮中で催された宴の様子を事細かに報告したのであるが[訳註:第六章参照]、どうやらその際現場で撮影した自身の画像をこれ見よがしに添付して寄越したものとみえる。「見たけどもさ、925きゅうにーごあなた意地でも今は亡き87はちなな先輩の紙チケ奪って入るつもりっしょ……そうは問屋が――ドンニャ・サンチョ・デ・ラ・ハンザが卸さねえぞ?」

「丼屋?うどん屋?……あっ牛丼屋?」この盲女、水の礫グラビージャ・リーキダに打たれながらも存外耳だけは冴えていたのだろう!「ちゃうねん、アレ言ってなかったっけ?」

「言われてねえよ」

「あっうん何言ってないかまだ言ってないけど」

「口閉じてしゃべれ」睨みを利かせるギネア女。

「さーせん」顔を真正面に固定されたまま、視線だけ落として手元の携帯端末を操作したニコニコーナは、「ほい」と言ってそこに表示された画面を肩越しに突き出した。


「真夏なのに鏡こんな曇らすとかあり得ます?」しかし浴室に首を突っ込んでいた千代はそれに気が付かぬ。「何も見えへんやんけ」

「クーラーとの温度差かな。鏡面冷えると水の表面張力で水玉になるから」科学的な解説を施す洗面台の前のドゥルシネーア。「ドライヤー、温風掛ければある程度取れるよ」

「チヨさーーん、腕がツル……ツル、ツールドラフランス」《魔法の蝋版タブリージャ・デ・セラ・マーヒカ》を掲げた腕が小刻みに震え始めた。「――え、おフランスにもツルっているんすか?」

「用がないなら黙ってろ」

「何……」己の仕上がりを確かめるのを一旦保留し客室の半ばまで引き返した千代は、液晶の中の文字列を目に止め前屈みに接近する。「いてて……今猫背になれねっつうのに、ん? てめまた人の携帯勝手に――違う、煮込みうどん子のじゃん……え、なんで?」

「なんでとは?」

「だって……」首を捻ると枕元にはまだ充電中であった自身の電話が転がっている。「まさかとは思うが貴様――」

「バカめようやく気づいたか!」

「実は名古屋のラドゥン自分の分も取っていた……いやワイハだかパンサイだかの家族旅行があったはず」まさにラ・サンチャの主従が沼津の浜辺にてビショ美少女チーカス・マハ=モハーダスと化していた丁度その頃には馬場家親子四人で成田なり羽田なりを飛び立つ予定である旨を、直接本人の口が語っている。「待て待て、本来なら今日はまだ南国でバカンスの――」

「ばか~んでもオカンとオトンがイヤ~ンフルエンザでってさっき言ったやん」[訳註:但し第二十四章の訳註でも述べた通り第六章では「明日から旅行」と言ったのに対し、今朝のコメダ珈琲では「出発の三日前に両親が発症した」と、朝令暮改の食い違いが生じている]

「それはアンタ、一週間前?くらいになってからの話でしょ」

「だーからその後で予約入れたんだってば」

「……お前インフル以前にそもそも旅行自体が作り話だってんじゃねえだろな」そうだ、この少女は相手が肉親であれ親友であれのべつ幕なしに嘘を並べ立てる女なのだ!

「まあ申し込んだんは部長に名古屋行き誘われてからだけど。空席余裕でした」

「別に誘った覚えは……」一応通知したら勝手に付いてきたのである。

「よっ――」開いた口を暫く塞ぐことが出来ない従士は、歯と歯の間で何やら聴き取れぬ呪文を唱えてから以下に引き取った。「渋谷は三日間もあって、十日前ですでに売り切れアウスファカウフトだったのに?」

「アウスファ――何?」

「ソールドがアウトってこと」博学の透鏡娘チカ・デ・レンテスが年上の王女に講釈クラーセを垂れる。「そしてソルト先輩が消えてアウチなのが後ろの子です」

「あ?」

「まあまあ……で名古屋は何日やんの? 今晩と明日?」

「今晩だけっす」そして来週の大阪公演は週末の二日間が予定されている。

「地元以外じゃガラガラという典型的なパティーンだな」ボンの聾者ソールドの追随者も定めし耳より目の方が聡かったと見え、戦地へと向かう少女の足跡を見つけるなり然もこともなげにその狼の足並みアンダーレス・ロブナス[訳註:《ヴォルフ歩き方ガンク》]を乱さんとするかのようであった。「そっかあっちゃ~大量の在庫が余っちゃってるのはネックレスじゃなくて、アマデパレスのチケッツの方でしたか!」

「アマパレス?……アマレス?」これは非職業の組打ち格闘競技ルチャ・ノ・プロフェシオナールを表す英語を略したものだが、愛好家アマトゥールという仏語自体が愛する者アマドール――神が愛するように我等も愛そうではないかポルケ・ノ・バーモス・ア・アマール・コモ・ディオース・アマ!――と同義ではある。「いやレオパレスじゃなくてシュロス・シェーンブルンなんでそこんとこ間違えないように」

「日本人なら英語を使え!っつかお前はしゃべんなチュロスでもしゃぶってろ!」東国に興し建てられたネズミの国ラトンラーンディアに帰って?[訳註:第三十二章参照]「つかもう飛び入りでも全然入れそうじゃんな……まあタシャ行かんが」

「んで部長にも一緒にナゴミサ行きましょうて誘ったんすが、うちがオゴるからって」

「お前いい加減かなり感じ悪いぞ」

「やほらマデっ子は宵越しのゼニーは持たねえから[訳註:第二十四章で朝食の払いを受け持った後にも同じ科白を吐いている]」これも元来江戸っ子の気性を表した言葉だが、成る程彼の神童も稼いだ端から賭博や酒、女に金を注ぎ込んで晩年は債鬼に追われ、葬儀も極質素なものだったとされる。尤も浪費癖に関しては悪妻コンスタンツェの方が一枚上手だったとも伝えられるとはいえ。「――だども《そこまでお邪魔は出来ない》とかって慎んでお断りされちゃったんよ、ここまで押しかけといて今更って感じじゃないすか?」

「それ翻訳すると《ヘタクソなバンドのライブとかいう拷問は御免こうむる》ってこったろ察しの悪いやっちゃなお前も」御子神は久仁子の顔を一通り取り繕うと、別の道具へと持ち替えつつ空いた手で画布の両頬を鷲掴みにした。「……いっちょ下がり。サンチョごめん後二分で終わらすから、いつでも出れる用意だけしとって?」

「え?」

「むごご」

「一応乗り換えの時間だけ調べとけば? 地下鉄止まってるとかでもない限り開演に間に合わないこたないとは思うけど」

「――あ、はいそうすね」

「あり、髪もやってくれんの?」[訳註:口を抑えられている為]聴き取りにくい。「ラッキ!……いっちょ下がりってなんぞ?」

「いいから場所変われ……気の毒に、今も盤麺バンメン全員でハコ前の路上立って、ギリギリまで手売りとかしてんじゃね?」おお、独立系ラス・イーンディエス[訳註:嘗て西方航海に依って欧州人が《発見》した概念上の印度《新大陸ラス・イーンディアス》を捩った表現]の荒野は広大なれどそこで生き延びることの何と苛烈なことよ! 嘗ては同じ舞台にも立っていたルトヴィを推し盤スレコメンダブレバーンダ押す為の楽団バンダ・ケ・エンプハール)に戴く《ギャ》たるミコミコーナは、今以て大地を這いずりながら細々と音楽活動を続けるアマデの現状に憐憫の情を禁じ得ぬ様子であった。「まァお陰でお前も合法的にチヨさんにくっついて行けるわけだし、……対するミコ姉さんは残ったバブ姫と客室にふたりっきりのロイヤルストレートワンペアでひと夏の思い出をしっぽりと……騎士さまがご帰還したらそれこそたっぷり大三元の、ダブル役満でやる気万元戸まんげんこですよ」

「あのう……」

 ここで渦中にあったその美しい風船噛飴姫プリンセーサ・チクレボーンバが如何にも申し訳なさげな表情を湛えつつ浴室の扉の陰から現れたものだから、太陽を背に受け黒々と聳える向かいの建築物と窓硝子を挟んで睨めっこすること以外の営為を認められていなかった馬場久仁子を除く湯泉の姉妹ふたりは思わずその細声ボス・スアーベが発せられた薔薇の口元へと双眸を傾けざるを得なかった。


安藤さんは珍しくそそくさと部屋の奥まで戻ってくるなり机の上あるいは足下に置かれていた自身の手荷物を開き、中からその場の全員にとって見覚えのある封筒を取り出した。

「――ん、もう貰ってるよね?」

「いえ……実はこの、先程からチヨちゃ――従士さまよりお預かりしております状袋じょうぶくろの中にですね、」エル・トボソの白い指先が二本、檸檬型に開いた口の中に吸い込まれる。「このようなものが……二枚」

「えっユキっつぁんは?」横目で焦点が合わないのか、それとも真実眼球に張り付いた透鏡の度が合っていないせいかニコニコーナの目にはくっきりと映っておらぬ様子。

「諭吉さんは」二枚の入場券ツヴァイ・カートゥンを指の腹で抑えたまま、別の指で紙幣を引っ張り出す。「――この通り、ご無事です」

「ああ焦った、よかったあ」ニコ嬢はほっと胸を撫で下ろし、徐々に照度を下げていく水晶板に映った己の写し絵カールコへと向き直る。「天は諭吉の上に英世を造らずと言いますからな……五千円女子の名前は忘れたが」

「一葉さんね……こちらは二葉にようあるけど。いや二片、やっぱ二枚か」

「で何が二枚目? さっきの微ショタ部長?」諸兄もこれまで何度か目にしたであろうこの《二枚目セグーンダ・オハ》という表現は歌舞伎由来の言葉で美男子チコ・グアーポを指す。何でも一枚目がその演目に於ける主人公プロタゴニースタ、三枚目が道化役パペール・デル・ブフォーンなのだとか。「さっきヘルメッツから発掘した時は万札一枚しか入っとらんかったよね?」

「ちょっと失礼……」洗面所への進入を中断し、自身も窓辺まで戻ってくると、従士は封筒から飛び出たその二枚を手に取りその身を強張らせた。「どういうことだ?……増えた?」

「ポケットの中に入れて叩いたのか?」

「財布……」千代は手提げから紙入れを取り出し広げて覗き込む。「……いや入ってる」

「ぼけっとしてると終わりませんぜ旦那」

「あ?……いやうるせえな」気付かぬ内に作業する手が止まっていた御子神は眼の前の頭に意識を集中させんと努めたものの、直ぐ傍で少女がパンパンと音を立て始めたのが耳に入るやもう一度注意を引き戻されてしまう。「ダメだ、ひみつ道具バイバインで小遣い増やす魔道に堕ちたのび太みたいな顔してる」

「何ですと、青い猫型の分際で相棒たるこの眼鏡キャラを差し置いて?」

「いや今外しとるやん自分」

「お札には通し番号あるから難しいけど、コインならワンチャンありかもですね」

「いやお姫にまでくだらないコメされるとまたツッコミ不在になるんだけど」たしかに硬貨である限り、寸分違わぬ複製を作れる前提に於いて無尽蔵に富を蓄えることが可能となろう。「つか今更だけど電子以外なら置きチケにしちゃった方が郵送の手間も金も掛かんなくてコスパいいんじゃないのって思うんだけど」

「それはホラ、当日精算にしちゃうとキャンセルになった時とか取りっパグれることになるやないですか」

「いや、そりゃ……せやな」小規模な公演ならば成る程、これは死活問題クエスティオーン・デ・ビダ・オ・ムエールテであるに違いない。「気持ちは分かるけどさもしいな。聞かなきゃよかった」

「ニコミコーナ」

「あいよ……えっどっち?」

「八万八千九百二十五の方」三枚の招待状を敷布の上に並べた千代が問い質す。「お前さん、ラ・サンチャのキチにラドゥン何枚渡した?」

「何枚とは?」

「だからキチガールはアンタに何枚発注したかって訊いてんの」

「ふひ、キチガール」仔猫娘キティガールは君だろうという指摘を飲み込む代わりに、馬場嬢の口からは控え目な含み笑いが溢れた。「……アレ、キチジョージアって誰だっけ」[訳註:前々章で裏口から再入館し昇降機に入る直前の件を参照のこと。西訳では吉祥寺という地名を知らぬ欧州人に合わせて《興削ぎ野郎キタグーストス》という南米の慣用表現に差し替えられている]

「それはてめえだろ。ちょっとピン足んねえから一瞬自分でここ抑えてて」

「かしこま」単なる暇潰しの筈が図らずも宮殿でのお披露目ムエーストラとなってしまった為、彼女の頭部には先程よりも大分凝った装飾が為されているものとみえる。「……えっ何、ドニャキチ先輩が名古屋ミサの空席埋める為に大量購入してくれたんかって話?」

「あちこちで……私の見とらんとこで、紙チケをバラまいてたってこってしょ?」

「……ああ、」得心するミコミコーナ。「はいはい、つまり――」

「ミコさんに渡したのも自分のとは別の、云うなれば予備の一枚であってさ」自身のアインラドゥンはその手に確保したまま、則ちアマディス麾下に――もといアマデウスの弥撒に参列する約束を違えたわけではなかった。ドニャ・キホーテは決して妹分の従士を裏切ってはいなかったのである……という推論も決して埒外なものではない。しかし胸中で渦を巻いていた蟠りアベルスィオーンが俄に晴れ渡ったからといって、矢作川での別れからこれまでに一度も姿を見せず、開演間際に至っても未だ戻ってこぬ不義理と非常識に対する怒りまでもが瞬く間に払拭されるなどというほどに都合の良い性格を彼女は持ち合わせていなかった。「……本人は伊達や酔狂気取ってるつもりか分かりませんけど振り回されるこっちはいい迷惑ですわ。私ゃハコで顔合わしてももう口利きませんからな」

「おっ、サンチョのツンゲージが高まってきましたわータワーだけに」期せずして主従間の不和コンティエーンダ元凶クルパーブレとなっていたことに少なからず気不味さアンスィエダッ後ろめたさクールパを感じていたギネア王女は、そう軽口を叩きながらも内心肩の荷が下りた心持ちであったに相違ない。「――おわりんこ。四十秒で支度しな……どうだい?」[訳註:恐らくこれはニコの仕上がりについて、他の二名に感想を求めているのであろう]

「感謝に堪えられません」跳ねるように椅子から立ち上がりつつ、携帯画面を鏡代わりに首より上だけ生まれ変わった己が美貌に耽溺するニコニコーナ。「ただ四十秒ってのは土台ムリな注文でございますよ……何故かといえばしっこするにはそれプラス四十五秒掛かりますのでな」

「もうシャワー浴びながらついでに出しとけ!」

「そいやチヨさんもう宿代って払った?」[訳註:《勘定クエーンタ料金タリーファはどうした?》]

「は?――何?」不意を突かれてキョトンとする千代さん。「ここの?」

「じゃなくて、宿題の話」[訳註:「ニコは夏の宿題の話を持ち出しているニコ・トラーエ・ア・クエーント・ラ・タレーア・デ・ベラーノ」]

「普通に言えや……こんな無駄な長旅に引っ張り出されたんだからそんなんやっとる暇あるわけねえだろ」一学期を終えてから七月最後の一週間を自宅から出ず只ひたすら無為に過ごした従士がそう嘯く。

「……そんなわけで私もこの子たちに付いていきますけど」ドゥルシネーアが上目遣いに訊ねた。「ミコさんどうします? 部屋に残ってます?」

「か、悲しいこと言うなよ」

「だってミコミコーナ夜んなったらまたさっきの……何城だっけ、名古屋城戻ってあのポスター貼ってあった――」有料区間へと入る際に通過せし東門周辺に掲示されていた夏祭りのことであろう。[訳註:第三十二章参照。《己が本能に忠実無比な姫君はフィデリッスィマ・プリンセーサ・デ・ス・プローピオ・インスティーント~》]「ビアガーデン?で独り寂しく飲んだくれるっつってませんでした?」

「何だまたさっきのって……さっきだってワイン数杯でセーブしてたでしょが」大体飲んだくれる云々は中学生が言い出したことである。「股裂きで思い出した、ねえねえレンちょんて股割り出来る?」[訳註:「麺類フィデーオで~/股割りシュパガート出来る?」但し、独Spagat/伊spaccataと伊麺の代表格たるspaguettiの語源に相関関係はない]

「股割り?」

「何つったっけハヌ……ハネムーンみたいの」

「ハヌマーン――ってスプリッツですか?……どうだろ、最近全然やってないけど」

「か~いきゃ~くし~てく~ださ~いよおおうぅぅ」

「さっきから誰のマネなのそれ……うちらはともかく姫様にセクハラすんのいい加減やめていただきたいんだが」いつでも出発できる状態で待機していた千代はそう云って長姉に釘を刺すと今度は同輩へと向き直って、「――そしてお前は何勝手に人のカバンなかを漁ってんだこら」

「えっここでですか?」絨毯を見下ろすドゥルシネーア。

「いやほら今日荷物少ないし、まとめた方がロッカー一個で済むやん」

「何故私の方に移す」

「こっちのがキモチでかいから」

「じゃあベッドの上とかでも」

「別に有料だったり空きが他に無かったりしたらバッグ二個一個ん中に詰め込みゃええやん……まあいいけど、まとめたのアンタなんだから私のカバンでもニコが持ち運べよ」千代さんは何か気掛かりなことがあるようで、机上にあった宿泊者への注意書きに目を通している。「あとそのキャリーには着替えくらいしか入っとらんぞ」

「何か面白いモンが……何コレ、これも入れてっていい?」

「何でもいいけどそこら辺散らかすなよ帰ってきて片付けんの私なんだから!」冊子を捲りながらも牽制の恫喝コントロール・エ・インティミダシオーンを怠らない。「……直接訊くしかないか」

「――よっとっとっと」靴を脱いだ安藤部長は一方の足の踵を窓側の寝台に、他方の足の甲を入口側の寝台に乗せると、敷布の上を滑らせながら徐々に股関節の角度を広げていく。その姿態は切り立った渓谷間に凛として架かる斜張橋プエンテ・アティランタードさながら。

「すっげ、縦スプだ!」手を叩いてはしゃぐ御子神嬢。「タシどんだけやっても前後はペタっとならなかったんよね……二百度くらいいってね? やっぱバレエとかやってた?」

「すっげ……」歓声を耳にして反射的に振り向いた従士は、その優美な錨型エレガーンテ・フォールマ・デ・アーンクラに思わず息を呑んだ。

「横の開脚ってアレ、」会場に持ち込む品を粗方収め切った馬場嬢が口を挿む。「お相撲さんとかが稽古でやってるヤツっしょ?」

「いやそうだけど……バレリーナもやってんだろ」巨漢力士が左右の脚を一直線に伸ばしたまま土俵にへばり付いている様は如何にも異様に思えるけれども、これに依って怪我の防止と下半身の安定に必須である柔軟性が養われるのだと謂う。「……まァある意味相撲取りのストレ――スモトリェッチと言えるな」

「……あの光景にエロスを感じたことはねえですが。ミコさん男のでけえケツもっつか、フンドシ好きなん? シリトリビッチなん?」

「でけえケツはあんまり……何だそのロシアの妖怪みたいなの」

「いや、『オスシリンダーVSバーサスシリトリビッチ』的な」[訳註:第二十六章参照]

「じゃてめえは馬だしニンジンスキー(原註:¿zanahófila?)だな」日本人にとって人参といえば驢馬よりも馬なのである。「たくそんなぽっちゃりバレリーナ、エドガー・ドガが認めるかよ」

「ドガというよりボテーロですかね」

「――あごめん、股開かせっ放しにして。バレエとか新体操とか、それか雑技団?にでも入ってないとこうはならんよね」

「小学生で辞めちゃいましたので」照れ笑いしながらも寝台の谷間に落ちぬよう、均衡を保ちつつ両脚を閉じていく。「いてて……大投足グランジュテの時もこのくらい開けばいいんですけど、こればっかりは素養よりも素質が物を言いますからね」

「いやもう求めてるレベルが違いすぎて」ギアナ女グジャネーサは恍惚とした表情だ。「眼福なり」

「おそまつさまでした」寝台の端に腰掛けた部長は淑やかな所作で靴を履き直す。

「もしかしてですけど」千代が部長の背に問い掛けた。「ド――ハナ先輩も一緒にバレエ習ってました?」

「うん。私に付き合って始めて、で私に付き合って辞めちゃった感じ」

「うわあやっぱふたりともブルジョワ育ちですやん」幼児向け習い事クラーセス・パラ・ニーニョスの中でも比較的金銭的負担の大きい部類だ。「えっ、その、ふたりのレオタード写真はそこに入っとらんの?」

「いやあそんな、百年前にはまだ携帯電話とか発明されてませんでしたから」安藤嬢はそういって誤魔化したけれども、写真乾板プラーカ・フォトグラーフィカであれば十九世紀には出回っている。「ちっちゃい頃は散々引っ張り回したというか、迷惑かけてましたね。あの子あんまり運動とか得意じゃなかったのに」

「ん?――ふうん……で、お前はナニ既に閉めとんねや。パンパンじゃねえか」

「え、チヨさんまだ何か入れる? スペースあんよ?」

「いやまあ……金とか水とかはケツバッグ入れっからいいけど」ドニャ・ハンザは面々を急かすようにして玄関口に立った。「マジメな話あと十分以内に電車乗ってないとマジ間に合わんかも知れん……出すもんあんならはよ出してこいや」

「カツアゲみたい」久仁子は浴室の前まで引き摺った荷物を一旦置き去りにすると、「まあカツは揚げたてが美味いからな」と言い残し扉を閉めた。

「コスとか一旦着込んだら便所行けないの結構あんのに」ニコミコーナスは変装趣味という共通項があるし、安藤部長も舞台衣裳にはある程度精通しているだろう。「普段からオムツ穿いて授業受けてんの?」

「心配ならミコミコーナのサラサーティ一枚貸してあげてください」

「サラサーティじゃねえっつうの!」たしかさらさら粉末清拭布サラ=サラ・パウダー・シートである[訳註:第三十三章末の名城内にて、制汗目的で御子神が乳房の谷間に挿み込んでいる事実が明かされた]「いやたとえサーティでもオシッコ吸わせたらベットベトになってクッソ気持ち悪いと思うが……そして臭そう」

「イヤな話題を振ってしまった……てかミコさん本気でアマデミサ入るつもり? 許されんのそんなん?」

「そっただこと云ったってしゃあねえべ、ハナちゃんが自腹切って買い占めたチケ無駄にしたら勿体な――くは別に無いけど、アマデなんちゃらはともかく騎士さまのその、心遣いにだけは応えてやんないと仁義にもとるってヤツじゃないの?」これでルートヴィヒ紋の貼り付いたネコカブリーオの兜が従士の手にまだあったらば、晒し台に置かれし邪教徒エレーヘ・プエースト・エン・ラ・ピコータよろしくその頭に被らされた上でアマデウス宗徒アデレーンテス[訳注:西adherenteの原義は糊など粘着性の物]の一団クルーステルの只中に放り込まれ、凄惨な私刑の餌食となったとてとても文句は言えまい。「とつるっても端っこで、それこそ壁の花にでもなってりゃアシのストレスも許容範囲に収まるっしょ……隣にバブ姫も居ることだし」

「いやアナタのストレスとかは知りませんが」

「まあドニャキチ様からは――」扉一枚隔てた浴室の中から。「チケ代一人分しかもらってないんすけどね」

「あん?」

 グルルルルルル!――獣の咆哮が如き流水音ソニード・デ・アーグア・コリエンド・コモ・ウン・ルヒード・ベスティアールに次いで、嘗てのメガネザルが利口にも洗面台で両手を洗う音が届いた。先程――濡らしていない頭部を除く――その小さな全身の水滴を余さず拭き取った手拭き布トアージャ・デ・マノに掌の湿り気を吸収させ、満を持して再び彼女を待つ一行の前に姿を現すまで、三人の――取り分け半坐千代の思考は改めて状況整理コンプレンシオーンに費やされ、その場の誰一人として不用意に口を開く者はなかったのである。


「こりゃ鷲鼻の兄さんや、後ろたてがみを引かれるその思いおもんばかれんでもないが今は堪えてこのまま進んじゃくれまいか……慥かに彼処を北に折れておれば噂に聞く妖怪変化ナグアルの怪魚[訳註:西nagual/nahualは中南米で妖術師や呪医を指すナワトル語で、姿形を変えて動物の形態を取る能力を持った神話上の人物という意味も併せ持つ。ナゴヤの語感から?]――金シャチだか銀ザメだかを屋根なり堀割ほりわりなりから釣り上げこの手ずから直々に料理してくれようぞと……それがしもつい先刻までは然る如き冒険に胸を踊らせておったのじゃ。例えばおぬしが虎の頭とにらくらをしとる間にその尻尾がオルカなら入鹿の首さながらに刎ね将又カルパのそれなら伊万里か美濃の色絵が透けて味わえるほどに薄く削いでやっただろうし、思い浮かべてもみるがいい、それこそ《銀の合成獣キメーラ・プラテアーダ》なんて異名もまた遍歴の騎士が舌鼓どよもす酒肴[訳注:趣向とも]としちゃどうしてなかなか気の利いた響きとは思うまいか?」[訳註:ギンザメはギンブカとも呼ばれ、しばしばカマボコの原料として用いられる。カルパッチョは兎も角ふぐ刺し用の皿であれば、貫入ひびの美しい萩焼などに盛っても存分に酒席の目を愉しませてくれよう]

 ラ・サンチャのドニャ・キティホーテが以上のような、或いはそれに類した文言を以て獲物を求め荒ぶるイポグリフォを窘めていた頃、城の広場プラサ・カステリャーナに築かれし宿泊施設の十三階では大ミコミコンの王女が依然床屋の馬娘カバジュニータ・デル・バルベーロクリンだか尻毛コラ・デル・クロだかと格闘している最中だった――と見受けられる一方で、いざ四匹の牝猫たちが揃って客室を出る段になってみればそれはリペオスの悍馬に跨った蜂の騎士がその手綱を目的地デスティーノの馬駐に預けるのとほぼ同刻であった……その事実が時間と空間の推移トランスィシオーンは決して比例して増減するものではないことの歴とした証明だと吹聴する者が現れても、この物語の著者は敢えてそれに対する反証を挙げるだけのアリメーントを持たない。[訳註:要約すると、片方が部屋に留まっていた十分足らずの内に他方は長距離を移動したというただそれだけのこと。中学生ふたりの身支度を観察している間に彼我の時間軸の差が埋まったので、今一度騎士の視点へと場面を転換させたのである。因みに伏見通りにて先の独白を物してから《目的地》に到着するまでの約五分間、花は恰も真っ当な自転車乗りがそうするように終始口を閉じたまま走行した]

「何、そう長くは掛からんさ」植物性もしくは炭化水素瓦斯系ブータンブターン・ボターニコ・オ・ブタネーロの騎士――というのもバラロサツバキカメーリアスに似た花を付けるボタンペオニーアが秦や日本ではこのように呼ばれるからなのだが[訳註:《牡丹》という漢字は台湾や福建省南部等では/bótan/と発音されるようだが、北京語や所謂標準中土語では/mǔdānムーダン/と読むのが一般的]――は沿道の枯木に馬を繋ぐと、その耳元に口を近付け囁いた。「絶倫なる彼のセビリヤ男セビリャーノとて、成程《フシダラインモラル》ではあろうが断じて《不死インモルタル》ではあり得ぬからの……さて」

 阿僧祇花は正面口の階段を一歩一歩踏み締めて上り切ると、自動扉の前で一旦踏み留まった。硝子張りの第一城門が左右に分かたれる……こちらの城塞にも玄関室ザグアーンが設えてあるのだ。さて――

「このまま押し入ったものか」試しに懐中を弄ってみるも、今や透明化トランスパレンティサシオーン[訳註:中身の可視化という意味での《透明化》はtransparentaciónだが、こちらは中身そのものを視覚的に消し去る意味]の効験を持つアンジェリカの指輪は弾切れスィン・バーラスである。「ままよ」

 致し方ない、ドニャ・キホーテは不可視の吹奏型錠菓カラメーロス・デ・タブレータ・インビスィーブレ・デ・スィルバートを一粒取り出すと音を立てて口中に放り込んだ。[訳註:第三十三章の補遺で訳者が挙げた「実は一粒残っていた」という仮説が俄に現実味を帯びた瞬間であるが、著者は飽くまで《食べたつもり》という解釈]


蜂の騎士はひと思いに内門ベールハ・インテリオールを潜り抜けると、客溜まりフワイェの中央まで大股で進み出た。そのまま地上階を真っ直ぐ突っ切りさえすれば、その正面奥には自動昇降機が待つ。

 しかし大胆不敵な我等が主人公は事もあろうに広間のど真ん中で、まるで己が威容を誇示するかのように仁王立ちとなったのである……小さな頭をカラスコの兜に隠し、細腕に握られたアリカンテの棕櫚箒を大理石の床面に突き立てながら。(或いは一方の足首を庇って屹立するにはそのような用途に頼るのが最善だったのやも知れぬ)

「……いざや」

「ようこそいらっしゃいましたこんばんは、お泊りのお客様でらっしゃいますか?」

 おお、それみたことか! 矢張り空想しただけで実体のない呪具アルゴ・エチサーンテなどには――如何にラ・サンチャの騎士が神霊エスピーリトゥ・ディビーノの類の加護を遍く享受していたにしてもだ――何の効果も発現し得ぬのである……入り口左手に位置する樫製の監視台プエースト・デ・オブセルバシオーン・ファブリカード・エン・マデーラ・デ・ローブレの中から女性従業員がひとり、突然の闖入者に声掛けをしながら外へと出張ってきた。

「それともどなたかとお待ち合わせですか?」

「待ち合わせ……ふふ、そのようなものですじゃ」仮に昨晩夜明かしした部屋の番号を花が記憶していたからといって、まさか掃除婦を騙って受付を素通りするわけにもゆくまい。何故ならもし彼女が施設に雇われ客室清掃の為に馳せ参じたのだとしたら、少なくとも裏口を通って出勤した筈だからである。「此方が旅籠屋である以上、宿帳にジョヴァンニだかフアン・ナディエだかいう小洒落た記名が御座いましょう」

「ジョヴァンニ……様でございますか?」接客係ラ・コンセールヘが受付の奥に控えていた同僚を振り返ると、彼は目配せするとともに貼り付けてあった覚え書きを机上から剥がし、背を向けたままの彼女に手渡した。

「宿賃が未払いならば早めに取り立てて置くことですじゃ……と申しますのもその悪名あくみょうは浮き名共々三途を渡り、早晩点鬼簿へと――つまり閻魔帳に転記される運びとなるからなのだが」

「えぇっとラ・サンチャの……ドン?キホーテ様でらっしゃいますか?」

「ドナ」後ろからそう訂正したのは男性従業員である。彼が過分に出しゃばらぬ寡黙な紳士でなければ、けだしその後に《キショト》乃至《キショッテ》と付け加えていただろうことは想像に難くない。[訳註:カタルーニャDona Quixot/伊Donna Chisciotte――但しカタ語のdonaは《女/妻》の意で、敬称としてならばsenyoraが適当であろう。因みにフィリピーナスで話されるセブ語ではdonyaが接頭辞として用いられているらしい。飽くまで訳者個人の見解だが、ジョヴァンニが«Dona»と表記したというよりこの従業員がñの«~ティルデ»を見落とした、若しくは読み方を知らなかったと考えた方がそれらしく思える]

「――失礼いたしました。ドナ・キホーテ様で宜しかったでしょうか?」

「概ねそのような者です」花はそう云って苦笑したが、直ぐ様鹿爪らしい面相を取り戻すと先ずは突き当りの昇降機の自動扉を、次いで吹き抜け構造の二階部分プリメーラ・プラーンタ・コン・ビースタス・アル・アートリオを睥睨しつつ以下に続けた。「とまれかくまれ面会の取極めが御座る。はて下天げてんまでおいで願えるかしら、それとも倶利伽羅剣くりからけんを這い上がる炎竜さながらそれがしの方から一足飛びに駆け上がり躍り上がってこんがりと焼き上げた上、地獄まで引きずり下ろすのでも一向に構わぬのだが」

「皆さんお出かけになってらっしゃいます」

「な、何と申されたか?」

「メッセージお預かりしておりますので」伝言が記された紙切れを差し出す接客係。「こちらですどうぞ」

「構わぬから読み上げてくだされ」騎士は目を通すのも厭わしいとばかりに空の方の手の平を掲げて取り合わぬ姿勢を見せた。「ふん、居留守なのか今出るところイールセなのか甚だ疑わしいものじゃて」[訳註:《外出してしまったのか既に炎で焚かれたのかセ・アン・イド・フエーラ・オ・ケマード・コン・フエーゴ・ジャ》]

「あっ、私共の方でお読みしちゃっても宜しいですか?」

「ええ、手間潰しにてかたじけないが」騎士は兜鉢共々堀川を流れていった――元は《魔法の筆燈》の包み紙でもあった[訳註:第三十五章末に譲渡の経緯が描かれている]――券面に恐らくは色事師自ら走り書きしたのだろう彼の筆跡を思い起こす。「その乱行乱倫に比べたら奴の筆運びには一片の乱れも認められませんでしょうからな。判読するに難無しかと」

「では失礼いたします……」女性の指先が紙の両端を恭しく抓み、自身の胸の高さまで持ち上げられた。「スィン(/sɪn/)、ヘァバー(/'hæb.ə(ɹ)/)……ヘイバー(/'heɪ.bə(ɹ)/)……これ英語じゃないですよね、読み方合ってます?」

「スペイン語とかポルトガル語でしょう」背後から見守っていた男性が差し出された文面を覗き込んで私見を述べる。「いやジョヴァンニだとイタリアか……とりあえずローマ字読みで良いんじゃないの?」

「どうぞ続けて」

「はい……シン、ハベール、ヴィスト・ユー……ウ?、オイード、デラ、フローラ、ワイ、ファウナ……デラ、サンチャ」

「¡Bah, qué flora y fauna, fanántico!」耐え切れず悪態を吐く蜂の騎士。その標的は狂信者ファナーティコでも反狂信者アンティファナーティコでもなく《狂反信者ファナーンティコ》である![訳註:《熱心な反信者アンティクレジェーンテ・フェルビエーンテ》? 《植物相フローラ動物相ファウナ》とは当然ドニャ・キホーテの主たる異名《紫陽花と蜂》を指すのだろう]

「……続きがございます」

「続けてくだされ」

「えっと――デスディチャードス、ロス、オジョス、タント、コモ、ラス、オレジャス……」

「ええい《我が目我が耳の不幸でござい》とは何とも白々しい、[訳註:《幸せなるは両目ディチョーソス・ロス・オーホス》で「お目通り叶いまして光栄至極」程度の意]」少女が勢いよく石突を鳴らし、そのまま長槍で横薙ぎに素振りしたものだから、受付階に居合わせた者は労働者と宿泊客の如何を問わず、二度の激突掻い潜り毛羽立ったその穂先が大輪の蛙の子花ラヌーンクロス谷間の百合リーリオス・デ・バジェ[訳註:和名はそれぞれ花金鳳花はなきんぽうげ鈴蘭すずらん]を生けた花瓶ごと粉々に砕きやしないかと気が気でなかったに違いない。「――斯様に歯の浮き足立った逃げ口上などついぞ聴いたためしがないわい!」

「申し訳ございません」

「いや触れ役紛いの真似事をさせてこちらこそ痛み入る」騎士は呼吸を落ち着けた。

「……続きがございます」

「続けてくだされ」

「ええとですね……ああっと、アーヴェ?」言ってごらんディーガメでないと飛び去ってしまうぞオ・メ・ボイ・ア・ボラール? 接客係は重ねて肩越しに振り返り、「――アヴェって《聖母に幸あれアベマリア》のアベ?」

「ラテン語だあね」[訳註:因みに同綴で西語の《アベ》は羅語だとavis]

「Ave... Salve... 愚直に訳するならば《良き具合たれ》[訳註:«que estés bien.»]といったところでしょうか」律儀に註釈するラ・サンチャの騎士「¡Vale!――終いですかな?」[訳註:何れもローマ時代の挨拶だが、前二つのvを眼前の婦人に倣い古典式/u/でなく/v/で発音しているのに対し、主に別辞として使われたvaleのみ西語と同じく/b/と読んでいるのは、現代のイスパニア人が頻繁に用いる間投詞《よしバレ!》に擬えてのことだろう。因みにaveよりもsalveの方がより口語的である他、それぞれ《良かれ》とする対象が前者は振る舞いコンドゥークタに、後者が肉体的ないし精神的救済サルバシオーン・フィースィカ・オ・エスピリトゥアール――則ち健康状態エスタード・デ・サルッに置かれているという解釈もある。又、aveは西語圏に於いて《神が汝を救いますようディオース・テ・サールベ≒やあ、ようこそ》と翻訳されることが多い]

「もう少々ご辛抱ください」深く息を吸い込んで接客係が最後の仕上げに掛かる。「……アーヴェ、インペラ……インペラトリックス?」

「¡Imperativamente![訳註:《命令口調で!》]」そう叫んで天井を仰いだ花蜂は空いている方の手を差し出した。「――どれ、貸してみなさい」

「あっどうぞ」

「«Ave Imperatrix,...»――ふん、どうやら一足遅かったようじゃの!」これは無論彼女が彼の許に馳せ参じる頃合い以上に、彼が彼女にこの文言を読ませるべき時機を逃したという話であろう![訳註:第三十五章泥江町交差点にてセビーリャ人たちと別れて後、その次の章の牙城東南端にある便利店内で帝位を継承したドニャ・キホーテは、その又次の章にて早くもその冠を返上してしまっていたのであった。つまりこの文面を読んだのが百五十~百分前であれば、その短い期間に限って彼女はジョヴァンニが記した通りトランピソンダの《女帝エンペラトリース》だったのにという意味]「何何……«...morituri te salutant.»」[訳註:«Avē Imperātor, moritūrī tē salūtant.»で《幸あれかし皇帝陛下、死にゆく者たちがご挨拶申し上げる》等と訳される。羅imperātrīxは女帝と皇后の双方に使用された]

 それにつけても《これから死ぬ者たちロス・ケ・バン・ア・モリール》とは随分と大仰な捨て台詞を書き殴ったではないか!……否、彼らの向かった先が仮令取引先との商談をも兼ねた宴席セナ・デ・ガラ・コモ・ウナ・レウニオーン・デ・ネゴーシオス・コン・スス・クリエーンテスに過ぎなかったとしてもだ――というのも極東の会社員は専ら昼食アルムエールソの席では酒を飲まぬ為、終業後の晩餐バンケーテこそが彼我の信頼性コンフィアビリダッを築く最良の場だと固く信じているからなのだが――、企業に務める日本人にとって《接待アガサーホ》や《飲み会フィエースタス・コン・ベビーダ》は生死を分かつ命懸けの冒険アベントゥーラ・リエスゴーサ・デ・ビダ・オ・ムエールト以外の何物でもないのである。


「皆さんお帰りになるのは十時前後と承っておりますが」まさか今より三四時間、客溜まりの真っ只中に生えた二本の枯木か灯火の消えた祭壇上の蝋燭さながらに突っ立っているわけにもいくまいし――というのもこのままでは通り掛かるお歴々が果たしてどちらが人間でどちらが棒切れなのかと頭を悩ませる結果になりかねないからなのだが――、かといって玄関脇から沿道を一望できる硝子張りの空間に設えられた応接椅子ソファッ・パラ・レセプシオーン司教ポンティフィカードよろしく踏ん反り返り眠ったように石化してペトリフィカーダ・コモ・ドゥルミエンド泥酔せし放蕩者どもディソルートスの帰りを待つというのも矢張りゾッとしない。「恐らくそれからすぐまたお食事に出かけられるのではないかと思いますので……宜しかったらご伝言お残しになります?」

「あいや、死地に赴くと言い残したつわものどもへの言伝ことづてを敢えて認める法もなかろうて」そうは云うが羽音スンビードの蜂娘よ、門衛には夜十時の帰還を告げて出ているのだ。肉体は死してもその魂だけは、或いは生ける屍《尸者ソンビード》となりつつも熱帯夜の腐乱死体と成り果てることだけは避けようと涼を求め、空調管理の行き届いたこの旅籠まで一目散に駆け戻ってくるやも知れぬのだぞ?「こちらのうつけ文は頂戴していこう」[訳註:恋文カールタ・デ・アモールに対し《騒文カールタ・デ・ルモール》と訳されているが、西語のrumorは噂や風評の他に蚊や蜂の羽音や人混みの騒音、加えて草葉や波の立てる静かなざわめき等も指すのだと謂う]

「では……お越しになったこともお伝えしない方が宜しいでしょうか?」

「お腰に付けたチビ持ち手マンゴ[訳註:箒の柄のこと]では――」騎士は些か寸足らずな長槍の握りエンプニャドーラを指先で擦りながら(石松が《殿堂》で購ったと思われたこの棕櫚箒の出処がよもやMANGO栄店だったなどということがあるとでも?)自然と相好を崩す。成る程セビーリャの美食家スィバリータめは今この瞬間にも手ずからもぎ取った菴摩羅果の最後のひと舐めラ・ウールティマ・チュパーダ・デル・マンゴ[訳註:《一流品》を指す慣用句。特に秘国ペルー富岸国コスタ・リカ等ではこの前にcreerse《自分でそうだと信じる》を付けて自惚れ屋プレスミードの意味となる。因みに第二十六章後半で著者自ら記した説明を信じるならば、栄駅付近に店舗を構えるのはZARA名古屋店であって、MANGOに関しては愛知県内の出店自体が確認できない]を愉しんでいるところでないとも言い切れぬではないか……!「奴さん等の空騒ぎファンダンゴを掃いて消し去ることなど到底叶いますまい。んぬる哉、キホーテが如き老残は黙して立ち去るのみ……向こうで問われぬ限り捨て置いてくだされ」

「か――しこまりました」

「左様然らば……ごきげんよう」[訳註:「Así, por ende... Valete, omnes.」]

「お気をつけて――」「「行ってらっしゃいま――」」「――あっ」

「Heu!」

「おっと危ない」

「…iterum id feci.」恭しく一礼したドニャ・キホーテが入り口に向き直っての振り返りざま、夕方の散策を終え宿に戻ってきたらしき――この物語にはこれ以上出番のない――宿泊客の鼻先を、出会い頭に我等が《前進が為の箒エスコーバ・ポル・アバンサール》の穂先で引っ掻きそうになったその既のところで持ち堪える。「Ignosce mihi...」

「え?……いえいえ」

「ご苦労さまです」連れ合いと思しき女性が花に会釈する。掃除婦(カラスコの全面帽を被った?)と誤認したのであろう。

「「お帰りなさいませー」」

「「ただいまー」」

 内門を潜った嘗ての女帝蜂アベーハ・エンペラトリサーンテは多少の決まり悪さを背中で堪えつつ、新たな長槍を剣帯タアリッに吊るそうと試みるも――嗚呼それはドゥランダルテのようにはいくまいよ!――アリカンテの魔女顔負けの豊かな乱れ髪カベージョ・アブンダーンテ・イ・デスペイナードが邪魔をして思うように挿さらぬとみえる。程なく観念し玄関室内で背後に誰も立っておらぬのを確認するなり、《担へ銃アールマ・アル・オーンブロ!》とばかりに気色ばんで棒切れを肩に担ぐや第一城門を抜け、パルナソ山から身を投げたデダリオンも斯くやという勢いで階段を飛び降りたまではよかったが、着地の寸前に黄泉平坂で受けた片足首の負傷へと思いが至ったか咄嗟に空中での体勢を崩したものだから、ややもすれば瀝青の隙間から顔を覗かせるような殊勝な牧草セースペッ・エンコミアーブレを探し倦ねつつ主人を待つイポグリフォの腹の下に危うく転がり込まんとする始末であった。


短く咳払いするなり徐ろに立ち上がった騎士は階段途中で引っ掛かっていた棒付きの刷毛セピージョ・コン・パロを拾い上げると、愛馬の許に跪きその後ろ脚に嵌められた足枷グリジェーテを手際良く解錠した。

「時にサラマンドラの白ウサギも眼鏡やたもと時計こそぶら下げちゃおらんかったが、どうして《時間が時間が》とおやかましゅうしとったではないか……ふむ、彼奴も兜屋カスケーロと同程度にゃ狂気帯びたる男であったにせよ[訳註:西casquero本来の意味を辞典で調べると、《精肉業カスケリーアの従事者または臓物ビースセラスの販売員》《イタリアカサマツの松の実ピニョーネスを割る場所》とある。カスコ共々動詞cascar《壊す、引き裂く》を語源とした名詞で、前者は肉の解体作業がその由来であろう。兜だけを専門とした防具職人・甲冑店があるのか浅学寡聞の身ゆえ断言することが出来ないけれど、英mad as a hatter《帽子屋のように狂ったロコ・コモ・ウン・ソンブレレーロ》を下敷きにした表現である点に疑う余地はない]」長い脚を振り上げてリペオスの鞍に跨ると、鐙に乗せた片足を一先ず静止させてから一言、「彼方の自由なノウサギリエブレ・リブレ――差し詰め八月ウサギか――も存外その《すこぶる大事な用事》とやらに遅刻し女王レイナだか公爵夫人ドゥケサだかに素っ首だのご自慢の長耳だのをねらるるのは御免だと、主人急かして早々に宿を引き払った……という線も、強ち的外れではないのかも知れぬな」[訳註:ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロが伊leporo《ノウサギ》の縮小辞であることから、花は第二十六および三十五章にて彼の同僚を指し《野兎殿ドン・レポリーノ野兎レープスの従士》等と呼んだ。尚、受付の女性曰く彼ら――《皆さん》と言うからには劇中登場した四人全員か――は「十時前後に戻ってくる」とのことなので、《宿を引き払ったウビエーラン・デサロハード》という部分は遺憾ながら的外れ。最低もう一泊は留まる筈である]

 馬の腹を軽く蹴る。

「尤もあのヤサグレ男たるや、少女アリスと呼ぶより悪意マリスと称してこその色事師よ!」[訳註:著者は優男とヤサグレのカバン語である点を汲み取って、《見た目が良いビエン・パレシード》と《出る者アパレシード≒幽霊》を掛け合わせた«bien aparecido»なる造語に置き換えている]

 然るが故に阿僧祇花、いやドニャ・キホーテよ……お前こそ《鏡の中のアリスアリーシア・ア・トラベース・デル・エスペーホ》なのではあるまいか? 汝は今、果たしてどちらに身を置いているのだ……こちら側かそれとも向こう側か?

 斯くなる上はラ・サンチャの雌エーンブラ・デ・ラ・サーンチャよ、今宵限りは我輝花アマリーリスの――いっそ騎士星百合イッペアストルムの騎士とでも名乗ったらどうだろう? そのまま白月より早く薄暮に照り輝く一番星プリメーラ・エストレージャとなりて、彼の《美しき泉ベジャ・フエーンテ》が水面にその身を映してから涸れ果てるがいいアゴスタード![訳註:南米産アマリリスことヒガンバナ科ヒペアストルム属Hippeastrumの語源は古希語ἱππεύςヒッペウス《騎士/二輪戦車乗り》で、その元は勿論ἵπποςヒッポス――馬の意。一方でアフリカ南部原産の本アマリリスは同じヒガンバナ科のベラドンナ属に分類される。因みに薬草のベラドンナはナス科。動詞agostarは八月アゴーストの派生語で《カラカラに乾かす、萎れさせる》、一字違いのagotar《疲れさせる、消耗する》との語源的な繋がりはない]

「Piensa en la muerte... y no te creerás tan fuerte.」

 南北に伸びる公園へと行き当たった少女がそう呟いてから、ふと視界の開けた左手の空を見上げると、その眼差しは北を統べるバルハラの神が一つ目と俄に交錯したのである。

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