ドニャ・キホーテ
第40章 乃至《土曜だどうよ》第二幕で示さるるは姫君ら含む安息日厳守の女たちが如何にして別のふたりが粉を拭い去ったが如くそれを撒き散らしたか、皆せっかちな兎が駆け巡り「遅刻だ遅刻!」と叫ぶに(後略)
第40章 乃至《土曜だどうよ》第二幕で示さるるは姫君ら含む安息日厳守の女たちが如何にして別のふたりが粉を拭い去ったが如くそれを撒き散らしたか、皆せっかちな兎が駆け巡り「遅刻だ遅刻!」と叫ぶに(後略)
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第四十章
乃至《
別のふたりが粉を拭い去ったが如くそれを撒き散らしたか、皆せっかちな兎が駆け巡り
「
Capítulo XL.
O el Segundo Acto del «Sábado, sabadete» que muestra cómo se espolvorearon las sabatarias incluso algunas princesas
tal y como los otros dos despolvorearon, apresurados por el conejo que de prisa y corriendo estaba gritando,“¡Es tarde, es tarde ya!”,
puesto que era una condición sine qua non para asistir al aquelarre en Viena.
[訳註:《
「お久し振りです」
――いつ、
「……ご無沙汰」
「おじいちゃんが帰国するまで
「……え? ああ、」果たしてこの少女は正気に戻ったのだろうか? それとも嘗てはその身に宿していた
「じゃあひと月近く経ってやっとってこと?」
「ナジル人の如く詰りなさる!」[訳註:「
「なじり?」[訳註:「かのナジル人のように?」]
「あいや……」
「ああそっか、部屋から全然出なかったから」
「そりゃもう、彼の《小森の騎士》すら眉を顰める
「芙蓉の?……ああ」[訳註:本稿では芙蓉を一貫して《
「不要不急が聞いて呆れる。丁度七日前の昼日中に
「レンちゃんは電話で野次らないでしょう」花の含み笑いに呼応して新たに肺腑を圧迫された青年の鼻からは、押し殺した嗚咽に代わり
「いやぜんぜ――カハッ!」
「あぶないっ……」立ち上がり損ねた弾みで更に
「……ぜん…………ぜん」ギーリはひとつ大きく空咳を吐いて喉の
「本来の意味での桃尻ですね」[訳註:これは先端が尖っている為。著者も事ある毎に文中で「肉付きが好いという意味ではなく据わりの悪い尻のこと」との解説を繰り返してきた]
「そこは
「カメルース? コブ付きってこと?」
「だから……」各務は言葉に詰まった。日本語で《
「ツバ?」
「いや燕返し……」おお、
「刀の、鍔?」
「いやその、《桃尻》の称号まで取り上げちゃ従者ど――チヨちゃ、ハンザさんが可哀想ですよと」さて千代さんの二つ名としてその称号が用いられている場面にこれまで青年が出会していたかどうかを本書を読み返して確かめる手間は省かせてもらいたいけれど、少なくとも彼が一度は
「はあモモス……」
「まァ桃尻は内腿の上かな」
「なるほど。スモモとモモならどちらかといえばスモモの内ですけどね」この
「……ごもっとももす」すっかり消耗した各務は力なく片手を差し出した。「《
「無理してリカにまで……ん?」[訳註:第二十章、岡崎にて千代「無理して理科にまで冠出さずとも」]
青年を助け起こそうと背中に重心を乗せた花がふと首を捻ると、その視線は自然と川下へ投じられた。勿論眼下の水面には最早、ゆっくりと流れていく桃だの兜だのが浮かんでいる気配など些かも感じられなかったに違いないのだが。
「――んっ」少女は後ろ髪を抑えようと、何気なしに片手を添える。「……あれ?」
まさか三軒茶屋の実家を飛び出して後の記憶が丸々失われているというのも俄には信じ難い事態であるし、騎士だ何だという狂気自体が端から狂言であった可能性も未だに否定できないとはいえ、何が引き金となってこの少女が豹変したのかを一向に見定められておらぬ以上、
花が噎せ返るような川の香りに背けた眼差しを北へ転じると、直ぐに高欄の根元で横たわる若干草臥れた祖父譲りの
「いたた」片側の足首を摩りつつ近寄り、腰を屈めて助け起こすお尻の小さなノーマ・ジーン。[訳註:第十八章では左右の靴踵の高さを変えて魅惑的な尻振り歩行を実現した女優マリリン・モンローについての言及があった。片足首の負傷がそれと似た効果を齎したと?]
次いで石畳の上に無造作に転がっている棕櫚箒を視界の片隅に捉えるや、愛車の
「お預かりしましょう」青年は依然として
「エンドーラ」花はそう繰り返すと、
「いやまあ、円ドルはまだ固定相場制だったかもだけど……何かこっちまでお口周りに昭和臭が染み付いちゃったよ」
「慥かに……《
「ゴスロリ趣味の後輩ちゃんになら
「荒廃というより頽廃かな」[訳註:「
「え?……こちらもそこまで世話できるほどにゃ余裕がありませんがね」
「はあ、功名……馬」
「
幾分大振りな防護帽を手渡された花は、然程の興味もなさげに
「これでチャリ漕いで恥ずかしいってこたないと思うけど……恥ずかしいか、
「《奇貨
「きかきか、アマディスの旗下に参じ……三茶への帰還もとい帰参にも入り用でしょう」
「何だか帰り途で《奇禍に遭うべし》と予言されてるみたいな……」花は改めて四方を見回して以下に続けた。「――ここって名古屋、なんですよね?」
「そのようで……ご安心なさい。僕はベルガラスでもなければ祝いの席に呪いの品を持ち込んだ招かれざるボルカラスでもありませんので、」その
「ああ茨の森って、それを言うならカラボスでしょ?」
「そうだカラボスカラボス、ボスカラス」
「お姫様の指に刺さるのはお尻じゃなくてお
「ふうん、カエルの代わりにカラスが聖ミカエルの役割を果たすとか?」尤も我々が耳にしたのは蛙に依る
ラ・サンチャの娘の精神状態を量る為に敢えて
「さ――て、どうやって帰ろう……」
ヘニル川沿いでは防護帽を隠し持てる程には大きな
青年はここで思案する……彼女は一体巫山戯ているのか、それとも寝惚けているのかと。
さて《ラ・サンチャの騎士》が徹頭徹尾この娘の
では真実多重人格障害(DPM)――
けれども後々降り掛かるであろう諸々の瑣事に心を砕く前に、先んじて判断を下さねばならぬ喫緊の問題が別にあった。それは言わずもがな、その目にこの不登校中の女学生がこれまでとは一転して甚だ頼りなく映っていたことに他ならない。則ち出会した旅館の玄関先で初めてその
「帰りもお供と一緒なら何かと安心でしょ」
「お供ですか?」
「だからほら……犬猿雉とか、猿豚河童的な」その
「同じ同行二人ならキタさんよりソラさんの方が……」そう答えつつも――このソラとは浜名湖で出会った少女の名ではなく[訳註:本書では《穹》の字を当てている。第十四および十五章を参照されたい]、江戸時代の俳人松尾芭蕉の諸国行脚に同行した弟子河合曾良を指すのである――花が上の空であることは我々の耳にも明らかであった。「行く先々で面倒に見舞われちゃ大変ですし」(この少女の口からこんな科白が飛び出すとは!)
「……まァ、行きは何事も無かったのかも知れんけど」
「
「ん?」
「――賢き敵より阿呆の味方」……待て、これは如何にも我等のよく知る例の騎士こそが口にしそうな格言ではないか?[訳註:《
「こ……れは手厳しい」不意に届いた
「――それが将なら尚のこと[訳註:《
各務は返答に窮した。
「ちょっと、変な顔しないでくださいよ」意想外な反応に堪らず噴き出すその呼気が、顎先を包む面頰に跳ね返りその唇を更に湿らせる。「カガミさん別に私の上官でも責任者でもないでしょ」
「ん?……まァこの場に限ってはある意味保護者――というか、」彼が閉口したのは自身を愚者に擬えれられたと早合点したから? そうではあるまい。というのも主従各々にとって《
「カガミさんもこれから東京帰るとこなんですか?」花は
「ハッケツの
「ラ・サンチャ?……ああ」この相槌も筆者の耳には幾分空々しく響く。「でもこの子、持って帰らないと」
「あいにく荷台や側車は備え付けておりませんので、そちらのお子さんは郵送するなりしていただかにゃなりませんけど」ママチャリは運べても競技用自転車はお断りなどという法があるだろうか!……とはいえ沼津での話にしても、千代さんとシャルロットの双方を載せて公道を走るとなれば流石に無理があったかも知れぬ。「お尻は痛くなるだろうし快適な旅とまでは望めないにせよ、ほらさっきも言った通りその……
「見送り狼って何?」
「腹に一物あったところで指を咥えてサヨナラするしか能がないってこと」
「腹に……下腹に毛が無くても?」[訳註:第十九章の岡崎の《殿堂》内でも「おぬしの下っ腹に毛が無いなんてことは――」という科白が確認できる]
「そうそれ。その点俺なんかは大ガラスの羽毛付き毛皮を被った仔羊ですから」調子付いた嘗ての烏小路は戯けて両腕を翼のように広げてみせた。「
「そんな
「腹の下に毛もあれば背中の下には当然ケツもあるって寸法ですんで心配しなさんな」ここまで嘯いて漸く、肩より下の毛を失ったばかりの少女に対する配慮が余りにも欠けていたことに思い至る嘗てのサラマンドラ。「……女の子の前で毛だのケツだのってのはあんまり気高い言葉遣いじゃあなかったあね。橋の上で槍振り回す無骨なアバズ――暴れん坊相手ってんならともかく」
「槍が無いからって駄々こねて、無理やりこんなもの振り回しちゃったらどっちかというとむしろ甘えん……甘い、[訳註:《~むしろ
「甘い――何?」
「……何か甘い物でも買って帰ろうかな」
「え? ああ……アンちゃんとおばあちゃんにか」たしかに安藤さんであればここから五分も踏み板を回せば辿り着ける場所に居る筈、
「いっ、週間?」
「一瞬、一瞬間。ほんの、週末だけ[訳註:《
「いや長崎じゃないんだから」カステイラ(又はカステラ)とは
「……そりゃういろうでもなめろうでも構わないけどさ[訳註:《
尤もアンダルシアのアン[訳註:恐らく阿僧祇花の実妹の名ないしその一部、つまり現実世界での情報]の二文字ですら、口にしたのは本来なら観察者に徹すべき存在たる彼自身だったのであるが。
「青柳だ大須だ[訳註:共に名古屋名物ういろうの老舗で市内に複数の支店を持つ]なんてのはどっち方面行ってもありそうだけど……」各務は現在時刻を確認する。「この時間だと先回り出来る方角のが賢い?」
ぼちぼち
「兜の挿げ替えがあったとはいえあんまり悠長に甲羅干ししてたら……気付けば後発の長耳連中に追い抜かれたなんてこともまあないとは限らんし」
無論彼にはこの足で少女を自動二輪の後部に乗せ、早駆け宜しく今晩中に東京まで連れ帰ってしまうという選択肢も残されてはいた。それは再度猫の従士と引き合わせることで、折角快方に向かっていると思しき彼女の病気が又候ぶり返すような事態は当然忌避すべきであったからだ。とはいえ正気に戻ったからこそ友人たちの許へと返してやるのが分別ある年長者の務めであるという考えにもそれなりの説得力が見て取れるし、何より――これは筆者の過剰な忖度に過ぎぬ可能性もあるにせよ――今から未成年者に背中を預けつつ夜通し費やして百レグアを走破するには青年の心身に於ける消耗が過ぎていようことは、その口振りからも如実に窺い知ることが出来たのである。
「新幹線の最終が……いや違うわ、帰りは夜行とか言ってたか」これがドニャ何某であれば失った長槍の代わりにアリカンテの箒を引き抜いて構えるや、「
「バス……幾らか割増料金払えばこの子も一緒に載っけってってもらえそうですか?」
「
「売ってます?」簡単な道具なら彼女の
「まあそりゃドン――どでかい量販店とか行けば……でもあの子のママチャリは送るしかなさそうよな」化け鯨が網に掛かったという沼津の海水浴場から自転車の修理屋まで運び得た事実[訳註:第八章後半で語られた挿話。千代のママチャリを修繕した自転車店は特定されていないものの、所要時間から算出するにせいぜい浜辺から一レグア余りという距離だったと推定される]を踏まえる限り、その十倍[訳註:百倍の間違い?]も時間を掛ければ名古屋市から世田谷区までとて存外運搬不可能とも言い切れないのでは? その乗り手もまとめて乗り合いに押し込めば運ぶのは乗り物だけで済むわけだし、第一あの猫娘が憎き森の石松の駆る単車の後ろに跨っての二人旅を承知するなどとは万にひとつも考えられぬ。「そこら辺の雑事は不肖この
「はあ……お手数掛けます。こちらが仕えるどころか[訳註:直近の上官云々の件を指しているのだろう]知らぬ間に我が家のお抱えとして雇われてらっしゃったとは」変わり身の早い男である。「でも予約が間に合わなかったら?」
「間に合わなかったらしょうがないから東海道新幹線かな。あっ今晩の分までホテル取ってあるって書いてたっけ……じゃあ明日でもいいのか。部長さんとメガネちゃんは先に帰っちゃうみたいだけど」そもそも夜行乗合車の利用者に許される
「ハコ?……通り道かもだけど、箱根にも停車しますか?」
「いえ途中停まるにしても足柄とか海老名じゃないの……じゃなくて、ググっても詳細が発掘できないんだけど」
「《夜伽には――》」
「寝物語というか、千夜一夜程度の意味なんだろうけど……ん、何?」
「《辻衛門も夜伽の相手には諦めたんじゃねえ――》」[訳註:第十八章冒頭で掲載され、パロミも出演した劇中芝居『ものども』内に於いて、戯曲では《壱の者》と記されし浪人の物した台詞の一節である]
「すじえもん……誰、骨川? スネおもん?」ホネカワ――《
「《――ですかね》……ん、何云ってんだろ」花は何とか記憶の糸を手繰り寄せようとしたが、結局その文言を引き当てることが出来なかったとみえる。「……米でも研いで、れば?」
「……そっか、そうだった。ヌマンシア以降色々あったのよね。静岡のテルマエで手放したアインラドンだかツヴァイモスラだかは、
「アンドー……レンちゃんの?」花は手ずから紙幣の入った封筒に(セビーリャ某の
「いやお米券には化けんでしょ。馬券にも化けないだろうけど[訳註:《
「……うん」つい今し方まで彼女の頭の上――乃至その額の上――にも《
「うん……はい?」すわ、今晩東国に向け出発する《夜行》の座席の空き状況を携帯端末で照会していたと思しき青年は、敢えて口に出さずにいた遍歴の騎士の名を耳にして完全に虚を衝かれたようだった。
「ハコ……箱根で偶然?お会いした時に」
「あっあれ? 憶えてた?」
「そりゃまだ一週間も経ってませんし」思えば芦ノ湖の畔で邂逅したのが日曜の夜半、駿河湾を臨む
「はい何でしょう」
「私が強羅に向かうと思って先回りしてたんですか?」
「ご――ゴウラ?」烏小路の声が上擦った。
六日前の午後、連日の強行軍に加え高尾登山の疲れも癒えぬままに相模湾沿いの東海道を一路西へと進んだラ・サンチャの主従が、もし湖の南岸を通り峠へと至る経路を取っていなければ――つまり千代さんが一時帰宅の際に利用した箱根湯本駅の辺りで枝分かれする国道1号線の南側でなく北向きの道を択んでいたら――、彼女たちは
成る程、多少遠回りになるとはいえそこから南下しても箱根峠を越えて駿河湾に出ることは可能だし、実際にそうしていたところで名古屋行きの旅程を狂わすような深刻な妨げになったとは思えない。そもそも鹿島立ちからして三軒茶屋より直線的に小田原を目指さず八王子くんだりに寄り道したり、《
先の週末エル・トボソの姫君より出し抜けに届いた騎士出立の報は、微睡む驢馬の耳元に落ちる霹靂と同様の効果を三茶女子演劇部の
無論現在勘案すべきは男の洞察力でもなければ少女の推理力でもなかったのだが。
「まあいいや……それこそここまで来て鞍替えはこの子が可哀想だけど」花は尼僧の如く滑らかに剃り上がった丸い頭を撫でた。「新しいドンガメさんの甲羅の方は……違った、カラス?……何でしたっけアルカラウスの兜?」
「カラスコのカスコ」
「カラスコ……なるほどサンソン・カラスコ――の
「あっと真っ直ぐ進んだら公園突っ切る形で……丁度電波塔と、北側はアレ何だ?県庁やら市役所やらとの間を通る感じかしら」橋の上からだと真東に伸びる京町通が消失点に吸い込まれるのが確認できるくらいで、左右の景色は建築物で目隠しされた状態だ。「庁舎の方は地上からだと見えないかもだけど」
「電波塔……名古屋のテレビ塔って銀色なんでしたっけ」花は夕闇の迫る東の空を遠くに仰ぎつつ以下に続けた。「東京タワーまでは無謀でも、こちらの塔さんというかお兄さんのお膝元までであれば日暮れまでには着けそうですよね」[訳註:名古屋電視塔の竣工は一九五四年で、東京のそれよりも四年早い。第二十五章で言及された《タワー六兄弟》に拠ればそれぞれ長男と四男に該当する]
「そんなん五分十分チャリ漕げば直ぐでしょ……東京も天空樹の方は
「アッチは
「へえ……アイザメ[訳註:アオザメと混同しそうだがこちらは全長一米程度の比較的小型の鮫]とホオジロザメの交配種みたいな。因みに金ピカ鯱の城は向こうで」青年は上流を指差して、次いで西陽に目庇の下の目を細めながら中央駅のある方角を振り返った。「――君らの泊まった……いや貴女が昨晩どこで夜明かししたのかは知らないけど、カスティーリャもといキャッスルはあっち方面ね。大通りでなけりゃ憚りながらこの不肖鏡の学士めが、慎んで先導いたしますけども」
「それはご丁寧に」箱根山頂上付近の湖畔から沼津港までの下り坂を減速した自動二輪で自転車二台に伴走ないし並走できたのも、偏に深夜帯かつ山道で交通量が少なかったからに他ならない。「でも付いてけるかな、私そんな飛ばせませんよ」
「ならば鶏口牛後、牛の尻より鳥頭……いや蜂の頭」《
「橋の頭?」首を巡らせて親柱に鼻を向ける少女。[訳註:
「ここでの再会を約束するわけでもなし飽くまで便宜的というか儀礼上というか、」厳めしい語調が幾らか和らいだとはいえ言葉の端々には依然として浮世離れした単語が見え隠れしていたし、彼女がこの先
「よろしいですけど、何ですか? 何か怖いですね」
「怖いのはこっちだよ……饅頭もお茶も怖かないが、ここらで一番ラ・マンチャが怖い」
「キーマン茶が苦手ならウバでもダージリンでも好きなお茶を飲んでくださいな」この時不意に花の鼻腔を、小劇場の幕間にて千代と共に喫した
「おっしゃる通り……では前振りもそこそこにお伺いします」青年は二三度咳払いして、内から全身を揺るがす早鐘のような鼓動を強引に押し隠した。「――お名前は?」
「はい?」嘗ての騎士が怪訝な顔で聞き返したのも無理からぬ反応であったろう。「誰のお名前?」
「貴女の」
「どういう意味です?」数年来の再会を果たしてから経過した時間が十分であれ六日間であれ、今更になって誰何され姓名の確認を求められるなどとは慥かに思いも寄らぬ事態であったに相違ない。「私の名前――」
各務の問い掛けが些か胡乱に響いたのは、双方の遣り取りを終始追い掛けていた我等の耳にしても同じことだろう。だがここは察してやらねばなるまい……彼の神経の昂ぶりを。然らでだにこの男は長らく
「黄昏刻だから?」
「だったら目の前のカガミにも自分の顔が映ってるでしょ? 彼女は誰?」
「ど……あ、」
眼前の少女はここ一週間余り、恰も四百年の昔に未練を抱えたまま息絶えた別の人格が憑依したかの如く振る舞っていたかと思えば、その間の記憶も少なからず残しているときた。そもそも彼女とて己の真名を忘れたことはなかったのだ……となれば、今の阿僧祇花を支配しているのが一体どの人格なのか、それを
「そう、ハナちゃ――」
「ちょぉぉっとよろしいかなあ?」
「――ん、ん?」
「お嬢さんはちょっと離れてて。もう大丈夫ですから」
「おっとお巡りさんご苦労さまです」
「はいはいたしかにご苦労だけどこちらも仕事ですからね……え~成る程、バイクの男が高校生くらいの娘さんに迫って――」
「ちょっ、ちょっと」
「――まあ分からんでもないけどさ、何も橋の上から突き落とそうと」
「いや端から見たらそんな風にも映るんじゃないかとは僕も恐れちゃい――」
「まあまあ分かってますよそれは、アナタが落とそうとしたんじゃなくて女の子の方が逃げようとして自分から――」
「飛び込もうとしてたって?」
「脚だってそんだけ長けりゃ欄干によじ登るのもラクだろうしなあ……まあそんな感じで近隣にお住まいの方から通報というかご連絡があったもんだから。別にこっちだって噛みつきゃしませんので、そちらも急に暴れたりポケットから刃物出したりとかしないでね」
「ハナちゃん、いいからここは――」今まさに
疲労に依る判断力の低下も手伝って
さて拙著を通読しても取り分け重要な一篇と思われる本章に漸く辿り着いた読者諸賢の中には、この小説が物語を展開させる為事ある毎に用いる手法が余りに偏っている点に不満を覚える向きも少なくないと拝察する。即ちある種の《
それが都会の雑踏であれ田舎道であれ、皆さんが行き会う可能性のある
「この道や、行く人なしに……夏の暮れ」
この一句が示す通り東に続く小路には、箒を
かと思えば
これが
とある十三階、その一室の、玄関入って左手ないし右手直ぐの扉が僅かに開いた。
「お先いただきました~……」
ここから北東
「おっ出てきた」
「チヨさんチヨさ~ん」小走りで近付いてくる軽い足取り。
「ちょ待てい、まだ開けんな」慣性に任せ自然と
「ハンラ・チヨ……[訳註:「
「結構なお湯加減でした……なんだフローラルて」
「そいや《銀河は膀胱シャワー》っての何の歌だっけ?」[訳註:《
「そんな歌はない」先刻衣装棚から持ち出していた浴衣を羽織った千代さんは、扉の向こうの相手を突き飛ばすような勢いで戸板を押し開けた。「つかさこっちが折角いいお湯だったっつってんのにわざわざ水というか、汚水?を差す、な、よ――」
「お、うまい」
「……いや誰だおめえ」客室の玄関扉を顧みてから、次いで
「何か云ってる」
「しまった知らん内にラップバトルに挟まれた」
「ふざ……けるなよサル野郎」湯冷めでもしたか従者の唇が震えているようだ。「――メガネザルやろ……めろう?いえろう?……モンキー?」[訳註:《
「だからさんを付けろよ」
「ニコ助野郎さん」相手の顎下から人差し指を突き上げると、通路上に灯る照明を当て
浴室の扉が開錠される音を聞き付けた馬場久仁子は自身の
後輩の胡乱な知識は本人の為にも極力その場で訂正せんと、生真面目ないし幾分神経質な安藤蓮の良く通る声が部屋の奥から届いた。
「アリジゴクの成虫がウスバカゲロウなんだけどね」
「え?」
「てかアレだぞ、それ薄馬鹿の下郎じゃなくて薄翅の蜉蝣だぞ」
「……マジすか」これは
「別名極楽
不意に静岡の姉妹の内のふたりが、その哀れみを帯びた視線で四つ目を挟み撃ちにする。
「……いや死なねえよ!」[訳註:こちらは馬場久仁子の反論]
「いやサンチョすぐ出て来ないから浴槽で溺死してっかと思ったよ」
「シャワーだっつってんだろ。溺れようがないですがな」
「まあ刺殺でもいいけど」
「それ『サイコ』でしょ」物騒な物言いを窘めるドゥルシネーア。お湯で排水口に流してしまえば元通りとはいえ、当のミコミコーナとて一度流血を見た風呂場を敢えて使いたくはあるまい![訳註:前々章で御子神は中学生ふたりが出掛けた後、花も含めた美女三人で仲睦まじく入浴するという妄言を物していた。因みに血液中に含まれるタンパク質は水温が高いと凝固するので、浴槽に血痕を残さず処理する為には冷水やぬるま湯を用いた方が無難であろう]「でも宣言通りちょうど四五分で出てきたね」
「髪濡らしてないんでまあ」
「カゲロウどころか残り数時間の命なんだからもっと寸暇を惜しめよ」慥かに、幾ら最前列を諦めたとはいえ、うかうかしていると開場どころか開演時間にも間に合わぬ。「烏の行水なら四五秒で上がってこいや」
「誰がカラスだ!」
「いやうちらも暇潰しして待ってるわけだから」
「誰がカラマツだ!」カラマツとは
「いや暇潰して」
「マスカラ下郎ちょい黙ってて」千代はほんの一分前まで
「マゴマゴしてたら終わんねえだろ」[訳註:《
「横で見てて勉強にはなるけど全然真似できる気はしなかったねえ」舞台用の化粧にはそれなりに熟れているであろう演劇部部長も、
「こいつらムシケラ共はともかく――」
「マスカラマスカラ」
「――蝶や花やの可憐なるレン様こんな加工する必要ないよ」尤も楽屋にてまだ不慣れな後輩の
「外歩けねえだろっつかフロントでお客様ァ言われるわ」矢張り下着に浴衣を引っ掛けた程度の装いのようだ。「……いや顔に付かないように着れるヤツしか持ってきてないので大丈夫かと。もちっと涼んでから」
「いいご身分やん」
「どうせ姫さま方と比べたらゴミみたいなもんですし」
「待ってチヨさんうちまだ髪とかノータッチなんだが」
「要らんでしょうが。先輩のチケ少なくともお前にはやらんぞ」雲隠れせしドニャ・キホーテこそ最早見限ったといえど、行き場を失った招待状の使い途くらいは《嘗ての従者》の手に委ねられて然るべきである。「もしかミコさん地顔は結構地味顔だったりするんすか?」
「やお前タシのそこそこスッピンはすでに見てんだろ」入湯時に
「はい、おねげーしますだ」
「どうすっかな……」
その覚悟たるや俎板の上の鯉、屋根の上の鯱、寝台の上で初夜を待つ花嫁が如し……シェーンブルンの夜空をラ・ハンザの
ミコミコーナは自身の
「……とりま時短レシピで」
「でもどメガネよりは時間掛けていいですよ」
「コルセット締めんのに多少時間掛かんじゃね?」
「だから気安くつまむなてこしょいわッ!」
「う~ん三日四日でこんな変わるもんかなあ……」長姉の関心は妹の顔よりも寧ろその胴部にあるようだった。「三段腹だったのが二段くらいに昇級しちゃったんじゃないん?」
「めくるなっつの!」浴衣の両襟の間に突っ込まれた手を撥ね除けて、「前屈みになったら誰だって段くらい上がるだろ!」
「段位だったら昇級というか降段ですけどね」俄に身を乗り出すエル・トボソ。「ミコさんそれドーランですか?」
「カテ的には一応ファンデだけど……でも割と汗に強いヤツ」ドーランといってもエンドーラや
「ドーランオ・ブルーム」
「ああ、落ちないから……アレ違いって油分以外に何かあるんですか?」
「ゆぶん?」
「油ね」
「……いやほんそれ、個人的にはリアル中学生のリアルな肉体がいかにもリアルで良かったんだけど」
「リアルて三回言いおった」アフリカの姫君が
「ドテッパラというかボテッパラだったな」[訳註:《
「その脂じゃなかったんだけど……」[訳注:西aceite/grasa《
「そんな引き締まんならうちも二学期からチャリ通にすっかな」
「一日数キロとかじゃさすがにあんま意味ねんじゃね?」
「そうだよケツ痛くなんだけだよ……そうだじゃあニコ助私の代わりにママチャリ漕いで東京帰んなよ死ぬほどスリムになんよ?」この場の全員が幸せになれる選択である。「ネコ助がアンドーさんと一緒に今晩の夜行で帰ったげっから。よし決まった」
「それむしろスリムになって死ぬのでは?」
「ムスリムだって断シャリするというじゃないか」
「ラマダンは断食だろ」そうは言っても日没と同時にご馳走が待っている彼らならば飢えて命を落とすことなどそうはあるまい。
「アレ、今私何つった?」
「断捨離と銀舎利はシャリの漢字も違うから」ギンシャリは俗に《
「だ、騙したなダン・シャーリー!」因みに『
「お前も顔動かすなよ目ん玉に突き刺すぞ……」漸く
「そうしていただけると、助かりますが……」千代が唯一《アビンダラエスの帷子》を装着したのは岡崎で迎えた朝、それも花の助けを借りてである。「ハコ内が混んでそうだったら近くのコンビニとかのトイレで着替えようかと」
「いやでかい鏡とか見ながらじゃないとムズいぞコレ。着慣れてるってんならまだしも」
「いや~ミサ服着て独りで地下鉄はちとハードル高めかと」本坂峠で耳にした
「だーからニコも行くってばよ!」
「夕方でもこの時期ならラッシュってこたないだろうし」おお、
「
「そうそれクリノリンとかでもな――」
「クリノリンのことかーーーっ!」
「うっせっつんだよもうお前どっか行ってろ!」炭酸水を樽一杯飲ませれば直ぐにも手洗いに駆け込むであろう!「――クッソ邪魔なんでもないんだから気にすっことねえべさ」
「単純に人目がハズいだけです」
「生け贄というか晒しモンだろ」
「……そんなもん買える金が、」いやはや
「パニエってパンの名前でなかったっけ?」
「それパニーニな。パニエとクリノリンて結局何が違うんだっけ?」
「モンブランのフランス語」
「
「ホネロックのことか……それでモッシュ入ったら無敵ですね」
「なんで?」
「いやぶつかった相手全員ハネ飛ばせるし」
「やめい邪魔すな、殺すぞ」
「この状況だと私が脅されてるみたいなのでやめていただきたいんですが」片頬に刃物を突き当てられているかのように錯覚してしまいそうだ。それにしても皆さんに伺いたい、馬場嬢に対する
「いや結構丈夫だよアレ。そして相当動きにくい」
「その前につまみ出されるっつうの」ハコの中が混み合っていればこれは当然顰蹙を買うであろう。最悪
「早すぎだろ……マジでどうなってんのか楽しみなんですけど。楽しみさ」
無駄話に参加している間にも熟練した化粧師の手は休みなく動き、その
親友の変身していく様を食い入るように見守っているのかとでも思いきや、観覧席の位置取りを誤ったらしき[訳註:千代の背後からでは当然化粧する様子を観察しづらい]馬場久仁子は早くも手持ち無沙汰になっていたようだ。
「チヨさん携帯借りてよき?」枕元で壁と繋がれたそれをもう手に取っている。
「何でだよ、ご自分のを使いなさい」瞑目したまま千代が応答した。「今何パーなってる?」
「あとゴパーでハチジュウナナパー」
「そんな不吉な数字のパーに揃えんでいいけど」くどいようだが8はハチ、7はナナと発音する為、《
「ちゃうねんここ一週間の旅の思い出写真とか拝見しよう思って」
「ん?……ああ、そいや写真とか全然撮った記憶ないな」
「写真に残す価値が一瞬もないシケた旅路だったってこと?」暗号入力を要する施錠機能が解除されていた従士の携帯端末[訳註:第十九章の紛失時および三十二章の名古屋城内東南隅櫓付近での会話を参照のこと]は、今現在それを手に取った第三者の一存で自由に閲覧可能な状態にある。「見てよし?」
「自分が目見えない時に勝手に携帯の中見られんのイヤなんですけど」件の六条河原で晒されたのは目を閉じた罪人の首だけであったが、こちらはこちらで首と胴が繋がったままにその個人の情報のみ公開される
「カイセンドン?……異世界で壁ドン?」[訳註:「
「どういう耳してんだ」目も耳も使い物にならぬとあらば残るは嗅覚くらいだ。
「箱根の……駅の下で食った海鮮丼は何となく一枚撮った気がする」人の財布で、しかもその持ち主抜きで初めて味わう食事の記念であろうか?[訳註:狂気に気触れた主人を山中に残し、峠を下った箱根湯本駅付近の釜飯屋で千代は独り夕食を取っている。第六章参照]
「しょっ、しょーもなっ! 箱根ならせめて箱根駅ドン撮れよ!」
「何だ駅ドンて」
「駅弁なら解るけど」
「八月になんか走らされたらランナー死ぬだろ。箱というより棺桶だわ」つまり経路全体が差し詰め《
「まっ、マツ? もう開けていいっすか」
「ホントだ……でも凄い自然だし、ビューラー使わないんですね」
「時間ないってのもあるしケースバイケースだけど」まるで
「な、何でよ」蝋人形さながらに表情を固め、為されるがままとなっていた千代が僅かな唇の動きで不服を申し立てる。「完遂してよ。少なくとも片目は開けてて問題ないんじゃ……」
「こっちの気が散るんだよ」
「ひどさ」見目麗しき花や蓮に見詰められて集中できぬと言うならいざしらず!「自分でやんとプリクラで盛ったみたくなるんすよね……あっ、待って違うわ同じ日の朝に高尾山で初日の出を――」[訳註:第四章から五章を跨ぐ形で主従は小学生ふたりと旭日を望んでいる。正しくは月初めの日出]
「――で部長はさっきから何を」音もなく寝台から滑り下りていたニコニコーナが、這い廻る蛇のような所作でドゥルシネーア姫の傍らへと忍び寄っていた。既に関心の外にあった千代の端末は置き去りである。
「聞けや」
「ん~?……うん、ちょっと何となく昔の画像を」余裕の声色で応じることが出来るのも、偏に覗かれて困る写真など只の一枚も記憶されていないからに他ならない。「私も結構長い間機種変してないから随分溜まってるなと」
「見して見して」身長差を埋める為に机辺の椅子に膝立ちする馬場嬢。「……あっすご、かわうぃ~やっば、ちっこいハナ先輩だっ!」
「「「え?」」」
「――わった! こちらが噂の妹ちゃんすね?」
「ちょっと」
「見たい見たい、ちょいタンマ」流石の
「はは、《あなにやしえをとめを》?」
「……ちょっと」
「こっちはえっらい女の子女の子してますのな……マジ人形。超対照的」
鹿島立ちの朝、半坐宅を訪れた阿僧祇花は「
「お名前は?……いや待って当てる」床屋娘は大きく息を吸い込んだ。「……ヒナちゃん」
「それじゃ三人目も女の子だったらフナちゃん?」三女まで狂気に冒されたとなると、こちらでは次女の方が苦労しそうな役どころではないか![訳註:これは『リア王』で賢女として描かれたコーディリアが三姉妹の末娘だった為である。因みに
「……妹さん私も見たいんだが」
「別にいいけど今目ェ開けたら……何だっけさっきの、アンダルシアの――猫」もう猫でも
「だからアンタいちいち怖いんだよ表現が!」視力を奪われた暗黒の中で聴く脅迫となれば、これは戦慄も
「はーい、後でね」
「うちにもヨロ……てかこれ隣りにいるの部長じゃん?」先輩の端末を引っ手繰ると、勝手に別の画像を参照しつつ馬場嬢が奇声を上げた。「うわちょ待っ、えっ?クッソイケメンなんだけど!」
「見せろこら」務めを思い出しやっとのことで持ち場へと戻りかけたミコミコーナも、猿の
「お引き取り?」
「何なら誘拐してショタから育成したい! 逆源氏
「途中から自分で恥ずかしくなったっしょ……じゃあ便乗してうちも」徐ろに自身の携帯端末を取り出して、「ヘナちゃん単品のもセットで、ヨロシコ」
「四人姉妹になっとるやんけ。若草かよ」
「いや流石にご本人の――」蓮ちゃんの視線が宙を泳いだ。「まあ了解を得ませんことには」
「そりゃそうだ」
「……てかこの部長若すぎないか?」――蓮嬢にも美丈夫の弟が?「いつの写真?」
「は~いそれまで」
「時間?……ジ考えるな、感じろ」
安藤蓮は以上の応答を経て漸く時間潰しに開いていた
画家は渋々ながら
「えっ何もう目ェ開けていんすか?」
「そんなもんお前の好きな時に好きな場所で好きなだけ開けろや……《秘密めいた猫目がどこかで開くよ》って
「アンリはいいけどアンダルシアの猫どこ行ったよ……」否々!、エンリケであれば両の目蓋は言わずもがな兜に付いた
「じゃあパスロック
「なんで《シコ》だよ!《シク》でもイヤだけど……ヤンキーか!」
「シコシコーナだからだろ[訳註:この呼称は第三十一章の観覧車内と三十四章の五条橋上にてそれぞれ言及があった]」《ニ・ミ・シ》で
「またですかい!」おお、この部屋の中に従士が
「じゃあ忘れにくさと打ちやすさを考慮して2525が無難かな」
「勝手に設定すな! ニコニコもミコミコもシコシコもヤだよ、そもそも数字反復してたり連続した数字とかって禁止じゃないん?」慥かにそういった数列は比較的類推し易いに違いないが、それこそ銀行口座や《
「1234とか0000とかにしてる人が一番多いってどっかで読んだけどね」
「マジックリンすか!」誰しも会計の度に逐一煩わしい思いをしたい者などおらぬというわけだ。「そいつらのセキュリティ意識どうなってんの?」
「マジックリリンのことかーーーっ!――っていやチヨさん自分画面ロックそのものオフにしとんやんけ」
「その方がロックだろ!」
「お前口動くと顔全体揺れるってんだよ大人しくすれ。死にたくなければな」化粧道具に如何程の殺傷能力があるのか聴いているだけでは判断しかねるものの、もしもの時はそのまま死に化粧に転用できることから殺人者の仕事とてその殆どを無駄にせずには済むという算段である。「死に……死なせ……《ミナゴロシ》はどう? かなり憶えやすくね?」
「色々云いたいことはありますがとりあえず五桁なので却下で」
「ハイ姫、《ミナゴロシ》からの~?」
「からの? その《皆》って私も入ってるんでしょうか……」嗚呼
「《テンシ》?……十と四なら14……
「《の》を9と読ませれば9104でギリ行けませんかね?」
「意外とネバる姫」そう言ってミコミコーナはニヤけるけれど、これは従士の為にも早々に話題を切り上げてやろうという甘味姫なりの配慮であろう。「そして謎の中二ワード」
「いや何となく……知らない間に皆この部屋から出られなくなってそうで」
「詩的で素敵ですがでもすみませんアンドーさん、九秒後には忘れてる自信あります」
「じゃあ……チヨちゃんの《チ》って千でしょ? なら1004とか」
「素晴らしさ!」己の名前を忘却してまで携帯端末を操作せねばならぬ状況もそうそうあるまい。「そしてそれこそこのふたりが居ないところで提案していただきたかった!……あとメガネが十秒黙ってると後ろで何悪事働いてるのか超不安になるんだけど」
「失礼な……じゃない、
「うっさ!」
「昔チヨさんが間違えて《大便》て読んだの何の天使だっけ?」
「『傷だらけの大便』だろっていつの話だよそれ」
「どういう状況……状態?」王女の手が止まる。「血便ってこと?」
「いや《トイレの神様》が居んなら《ウンコの天使》だってワンチャン――何の話だよ、いやメガネ暇なら風呂場……えっと、0268で目ん玉ハメてこいよ」
「あっせや、鏡も見てねえや……んじゃま
「何だ1010て、マルイは0101だぞ。サンチョもう開けていいよ」
「トイレだっつの。そもそも名古屋のマルイがどこにあんのか知らんすわ」これは関東を中心に展開する有名百貨店の名だが、生憎愛知県には出店しておらぬ様子。「あっじゃうちもついでにちょちょいとシャワーシャワってきてもよき?」
「あれ、チヨちゃんの変身見届けてかないの?」
「魔改造は完成形だけ拝見します」
「魔改造言うな」マカイゾ――《
「着替えあり」
「あっそ」日帰り旅行の割に用意が良い。ともあれ
「え~……じゃあチヨさんの使用済みの使うよ」
「それは私がイヤだわ。
「そうだな表面積も小さいしな!」[訳註:これも短身であるニコ自身の自虐]
「顔も濡らすなよ」化粧師が釘を刺す。暇潰しというのは方便で、矢張り自分の手掛けた作品たるや最低限人目に晒してからでないと抹消するのも惜しいとみえる。椅子から立ち上がると窓硝子に背が当たるまで後退し、充分に距離を取りながら、「……やはり天才かもしれん。自分やるより出来が好いのが多少癪ではあるが」
「おお……」思わずその白く長い人差し指を薔薇の唇に押し当てるドゥルシネーア。
「はいはい、元がよろしいと伸び代少なくてお気の毒なこって」
「……まあいいや」御子神嬢は改めて腰掛けると、
「ん……何がまあいいや?」千代はふと八王子の家族食堂で明かした八日前の夜を思い返した。「まあいいや――か」
「もっと、アヘ顔みたく出来んのか」
「いやアヘ顔が分からんし[訳註:第三十七章序盤では著者自らが、アヒル顔の解説に次ぐ形でアヘ顔を《
「それはラリってるだけだ」
「アヘ顔なら舌出さんことには」ニコニコーナが自身の
「じゃあ下を脱ぐ代わりにそろそろお前の舌でも抜くかな」
「おっとエンマ様に抜かれる前に自分で上下マッパになって」靴を脱いで備え付けの内履きに両足を突っ込む馬場嬢。「――釜茹で地獄に浸かってくるわ」
「ここで脱ぐな。つか地獄は血の池でしょ」猫の目は後頭部にも予備があるらしく、(浴室の狭さを考慮してか)寝台の脇で脱衣を始めた床屋の娘に相方が牽制を加えた。
「マジメな話、素で湯張って二十五分長風呂とかしてたらお前出てきた時には百パーここ無人だかんな」
「いやミコパイセンは残っててよ」自身の外出中に客室を荒らされる心配は兎も角、斯くも長き不在を経て帰還した阿僧祇先輩を出迎えるのが馬場久仁子ひとりでは流石に気が引けるということか。「頼むよミナゴロシのエンジェルパイセン」
「エンゼ――ルパイセンな。口、ん~って」ん~~。「……うん、まァあと二・五秒経ってもメガネそこ居たらエンゼらない方の、デビる方のミコパイセンにニコゴロシの守護聖人が憑依するとは思うが」
「ほな時間余ったらババ抜きでもして待ってておくれやす!」[訳註:奇しくも西語では特定の一枚を除いて配り順々に隣から一枚ずつ抜き取って揃った札を捨てていく
「自分で言うなよ」浴室の扉が閉じられた。「つか待たねっつってんのに……あざます、もう鏡見ていっすか?」
「ちょい待って、頭どうすっかな……」ギネアの化粧師は腕組みして首を捻った。「お姫今何分?」
「今四十三分ですね」
「おけ。着替えも考えるとあってせいぜい五分よな」新たに
「おす。お頼みもうしま――」
半坐千代が敷布からその重い腰を上げた刹那、背後からは又もや動物園も斯くやというような金切り声が響いてくるのだった。
時刻は奇しくもラ・サンチャの蜂が橋の上に横たわる
「うっせーぞサル!」
「たた大変だチヨさん!」勢いよく開け放たれる扉。「――と、とんでもねえメガ、メガトン級のメガネ美少女と目が合った!」[訳註:《
「よかったね」[訳註:《
「メガトン級?」
「しかもどこか見覚えのある……ハッ!」
「じゃあもう二十五秒経過してることだしその、メガネ取ったら目が点の[訳註:《
「うっとうしいとは思いますが勘弁してやってください」椅子を反転させ窓の外を向いて着席した千代は、場所を入れ替わった御子神を背中越しに窘めて以下に続ける。「あの
「フォローになって……根が砂埃? しかも甘えん坊将軍とか、地上と地中ダブルで鬱陶しいことこの上ないな」
「埋葬されてますがな」
「
「あーじゃあオネーサンにお任せで」
「ではモヒカニックスタイル[訳註:《
「モヒカニックは……今日はモヒカる気分じゃないので」
「申し訳ございません今日コテ持ってきておりませんので」
「今からプリンて、まず金髪にせな(原註:La cabeza de purin/pudín es la condición del cabello bicolor que se están volviendo a crecer las raíces y necesita teñirse el pelo de nuevo. Quizás pueden imaginar un flan de huevo con salsa de caramelo, ¿no?)……プリンなるまで何ヶ月掛かんの?」
「……二ヶ月くらい?」
無駄口を叩いている間も美容師の手は機敏かつ精確に動き続けていた。
「あっドライヤーもないわ日帰りだったし」
「お風呂んとこにあるよ」
「いいよもうくっついてるヤツだろ? 事故でババアのヌード見ちゃったら気分悪いし」
「ババア……垂れるほどオッパイないけど」
「ドライヤーの音と拍手勘違いしてカーテンコールとかって出てきそうやんヤツ」随分と手狭な劇場だこと!「レン姫はくるくるドライヤーとか使う人?」
「くるくるですか?」
「何つんだアレ……カールドライヤー?」
「カール・テオドア・ドライヤーなら嗜む程度には?」
「ダメだ分からん」美女に構ってほしいという浅ましき欲求に於いては存外ギネア女も四つ目を責める資格を持たぬようであった。「お客様カユイとこございませんか~?」
「痛い痛い痛い」従士の
「ウィッグ用なんだけどな」
「ハゲたりしませんよね……」
「後ろでおとなしくしてるんなら控え目でいいかね?」次いで
「ああ、よく貼ってますよね。コスプレなのにスプレー禁止とはこれ如何に」首から上はほぼ完成を見たようである。「まァ今日はこんなもんでいいですけど、あれガッチガチに固めたら固めたで逆に部分的に固まったまま変な風に崩れたりしません髪?」
「それは君がヘタクソだからでしょ」
「えっちょ、ちょっ鏡、鏡おくれ」
「あっいいのは俺の腕か」眼の前の窓硝子も流石に鏡台の役割を果たすとまではいかなかったようで、御子神は千代の正面に回りつつ胸像の出来上がりを確認した。「うん、いい感じにフワフワ……スプレーといやサンチョ銭湯で会った時さ、めったくそ制汗剤と磯の香り混じったなんつうか、名状しがたい異臭放ってたよね」
「それはもう言わん約束だぜ……」沼津を発って後、右手に富士を仰ぎ左手に駿河湾を見下ろしつつ犬には吠えられ、無数の蝿にもたかられた月曜の午後[訳註:第九章冒頭を参照]が脳裏を掠めたか、サンチョは堪らずに顔を顰めた。ミコミコーナとの邂逅は更に一晩野宿した挙げ句のことだったのを鑑みれば、その臭気が
「いや、騎士さまの方はそれこそ芳しきフローラルの匂い漂わせてた」
「それ名前に引っ張られて記憶改ざんされてるだけだろ。だったら私だってチヨ……」私だって
「何臭だよ」千代田区は日本の首都機能を担う地域であり、東京駅を始め皇居や国会議事堂・官庁街、それから秋葉原を有する。「お前世田谷じゃなかったんかい」
「じゃあお茶の匂い?……チヤ、チヨ何とか、チヨ……千代紙って何でしたっけ?」
「千代紙は折り紙とか、工芸品とかに貼って使う和紙の……別に匂いはしないかな」
「香り付きだったらもうティッシュとかトイレットペーパーでいいだろ」日本では一度鼻汁をかんだら捨てる
「待て待てそんな悲劇的な蛇足があるかよ」[訳註:《
「猫はヒゲ生えてんだから蛇の足とは違うっしょ」成る程蛇に足は無用だが、
「そういう可愛げな小細工はサンチョとかニコ助みたいなザコキャには似合わぬ」
「そう卑下しなさんな[訳註:《
「ヘアメイクさんお時間が」
「ですよね」
どうやら口内に立ち並ぶ
後は着付けさえ済ませれば直ぐにも出発できよう。
「じゃあエクサントリークじゃなくて何だ、そのアビエタージュでぐいぐいと締め上げるとしますか![訳註:《
「そんな岡っ引き奉行所が認めるか![訳註:《
「吐くなら便器に吐け。膀胱シャワー浴びてるメガテン頻尿の隣でな」
「何その地獄絵図……いやまあ吐くほど食っちゃないですけど」矢張り先述の葡萄酒食堂では幾分節制していたようだ。まったくこうなると
「どれどれ」タンタン!――
「やーめなさいって」
「なるほど……こっちは?」タランタラン……
「やめいちゅうにこれ以上バカになったらどうする!」
「――あちゃあ、こっちもあんまり詰まってないな」いや
「無茶言いなさんな。脱ぎますよ」
「えっ、マッパの上にコレ?」
「痴女じゃねえか! そんなSM女王みたいなコスあんたしか似合わんわッ」千代は敷布の上に置かれた
「何今更……ご開帳しーてくーださいよ~、お~ね~いいじゃないのぅ~」場違いな嬌声を上げながら王女は従士が羽織る浴衣の両襟を掴んだ。「減るもんじゃなし~」
「きゃーおかされるー」[訳註:「
「もうそんな鎖骨してないで~」[訳註:「
「オカーサーン」[訳註:「
「チカさんじゃなかったっけ?」[訳註:「
「じゃあ今の内に私ちょっと洗面所使わせてもらうね」
「あっどうぞ」
「えっレン姫はこのミコお姉ちゃんを差し置いてあの、メガネ改めレンズ豆のメロウとしっぽりお風呂にしけ込むおつもり?」
「込みませんて」苦笑する安藤部長。「私もちょっと汗かいたから。顔だけでも」
「それならよし……でもお気をつけあそばせ? ヤツの貧乳と目が合ったが最後お姫様は石になってしまうとも伝え聞くから」
「ふふ、お互い合宿のお風呂とかで免疫付いてるから大丈夫」
「なっ、それは聞き捨てならんな!」誇り高きアフリカの次期女王は下民の四つ目に先を越されたことがつくづく我慢ならぬ様子であった。「まあ?、ミコミコーナも?、ついこないだハナちゃんとは裸の付き合いをしましたが?」
「私もあの子との裸の付き合いは長いですよ?」安藤さんが浴室の扉を開く。「――じゃあお借りします」
「ごゆっくり」
客室には千代と御子神嬢が残されたが、彼女らが二人きりになったのはほんの一時間と少し振りである。
「幼馴染属性に対抗心を燃やされてしまった」
「アンタ仏の顔にも限度がありますよ」如才なき従士は着替えを介助する
「相手の男女を問わず美しいものは愛でたくなるのが審美家のサガってもんだろ」
「おサガんなことで……でもイケメンの舎弟さんとは裸の付き合いしても」猫娘は寝台の上に腰掛け直すと、胴衣を手に取ってその背面に目を見張った。「あっ紐がキレイに揃って緩んどる、ありがとござます――向こうも激萎えだったみたいだけど、可哀想に……結局愛でなかったんでしょ」
「
「は~い……美形は別にイケてなくても一応美しい形なんだから愛でりゃいいじゃん」
「中身を知る前だったらオカズくらいには出来たと思うんだけどね」
「それぜってえ向こうも同じこと思ってるよ!」否、
「ちょい待って……よっ」
「う」
「大丈夫っぽい。もうちょい姿勢正せよお嬢様よう」下衣の皺を伸ばし、鎖帷子の位置を微調整する。「つかお前上にこんなん巻いててさ下もっとマシなパンツなかったわけ?」[訳註:《
「ほ、ほっとけ。こちとら金が無いんだ、見えないんだからいいだろ」
「さてはおぬし江戸っ子じゃねえな」嘗て江戸の町人は渋めの茶色や藍色そして無地や地味な柄の着物を好んだが、その裏地には対照的に派手で豪華な色柄を好んで用いた。この美意識を称して《
「いやパンツァーもネコ科だけれども」それは
「いや見えない方のパンツは知ったこっちゃねえけどだったら……まあ今言ってもしゃあないか」ミコミコーナは中央の鳩目から飛び出た左右の紐に指を入れた。「あんま人の着るのやったことないから加減が分からんですまんけど……じゃ引っ張るよん」
「おなしゃす」昨朝トルデシリャスの洗面所で試着した際にはそこまで締め上げなかったが、今回は本番である。「ちょっとずつね」
「上下の穴緩んでんだからちょっとずつしか出来ねえよ」
「あと多少絞れたとはいえあんまやると背中ハムレッツみたくなると思うので」
「ハムカッツ揚がる前にバスクが歪むわ」
「ケチらずに化け鯨の骨でも使ってればもっと頑丈だったんでしょうが」でなければ岡崎の舞台上で鼾睡していた
「骨じゃなくてヒゲだろ」ヒゲクジラのヒゲは口内の上顎に生えている為、見たところは歯列と見紛うかもしれない。「何お腹に鯨のヒゲ描いてほしいの?」
「腹見えないのに意味ないだろ……見えてたらもっと嫌だが」サンチョの
「ごめん昔の絵とかのイメージで何となく。いいから黙って息止めて力抜きんしゃい」
「怖い……アンドーさんにやってもらえばよか――っぐぅぅぅ!」こちらの
「何お前ナメてんの?」そのまま布団の上に倒れ込んだ少女の背中を
「……ワガハイは寝込んでいる」つい十秒前はサンチョの腰の辺りを抑えていた王女の足裏が今度はその臀部を勢いよく踏み付けたものだから、布団の下の緩衝敷物も大きく沈んでからその反動で寝台上の両者を豪快に跳ね上げた。「てててちゃうねん違くて、いててて背中つった」
「甘えてる間はない――つかさっき金シャチの前でコケてブリッジした時も思ったけど君カラダ硬すぎだろ。ライブでもケガすんぞ」とはいえ身体はともかくも、あの兜が固かったお陰で彼女がその頭をかち割らずに済んだのもまた紛れもない事実であった。[訳註:第三十四章名古屋城篇を参照]「あと吾輩寝込むのはいいが枕で顔拭くなよな」
「だいじょぶおメイク様の傑作は死守してます……ててて右肩の筋が、やっぱ寝起きに柔軟とかしといた方がいいんすかねこの歳になると」寝起きに
「筋トレしろ」
「えっマッチョになったらコスプレできんくないです?」怠け者の従士は少しの運動で何故か一足飛びに筋骨隆々となった己の姿――いやMICO☆MICOの肢体か――を幻視しているかのようだった。「アナタだって乳ポヨンポヨンのくせに
「気安く触んな。鍛えなきゃ垂れるんだよ……貴様も油断してっとまだ若かろうがバカだろうがどんどんケツとか垂れてくっぞ」とどめの一蹴り。「ほれ、呑気にへたってねえでゆっくり肩甲骨回してみれや時間ねえんだろ」
「おう……ちょっちマシになってきた」右肩を抑えつつ慎重に起き上がる
「お前もまた色々ギリギリな奴だな……」末妹が背中の筋肉を解している間に、捩れたアベンセラヘスを整えてやるウルド。「悪いけどこう見えてアタシ股抜きできるけどな」
「だからサンチョは中坊ですから! そういう風俗用語みたいのは通じませんて!」
「何だよ風俗用語って!……いや股抜きじゃサッカーとかか」《
「足で抜く……それも何か最近ピンク街的なワードとして耳にしたような」これは特定の地域から《
「誘拐は知らんがハムは――っと、普通解体してから縛って吊るすんだろうから、その時点で縄解けても逃げんのはムリじゃね?」
「アンッタガタほんっとお似合いだよッ!」
「いやてめえオキシトシン先輩なめんな」これは《
「どっちでもな――うおっ締ま……その、アイツ……松屋とだ、よ!」
「呼吸苦しくない?」
「大声出さなければ何とか……でもアバラがバラバラ、」千代は短く浅い呼吸を繰り返しつつ以下に続けた。「――どころ、か、むしろ肋骨上下、前後も、全部くっつきそう……ああそうか、これがお腹と背中、が、くっつくという、あの――」
「もう腹減ったんならてめえのバラ肉でも取り出して食ってろや……つか何だ松屋がお似合いって、肉食系ってこと?」
「いや別に……ほらやっぱ、乳牛のようなご立派なのを下げて、おいでだから――では?」
「なにゆえ半疑問形、自分の発言には責任を持てよな……それすき家吉野家じゃあかんかったのか」これら《屋》の付く三社こそ今朝方アンダンドーナの足下で著者が読者に解説を施した
但し食用に用いられる肉牛の多くは
しかして圧死の危険を察知したサンチョ
「すんません私がやりました」(
「……え、まだ牛丼出してねえけど」
「そこはカツ丼だろ」――架空の罪を告白することで何とか難を逃れた。やれやれ、彼女が所謂《
「ここじゃ出来てせいぜい壁ドンだけどな……ほら
「ちょっと待って……なんか背中に物差し入れられてるようで重心が」
「慣れる慣れる」――
「あっでも何か……きもちいかも。上から糸で吊られてる的な」
「いやさっきからの流れで昇天されるとミコミコーナがイカせたみたいでイヤなんだけども……これ出した方がよくね?」御子神は千代の首元から覗く鎖に指を掛けると、その先端に垂れる
「ハァ……赤のが映えた気はしますけど」
「あそっか、静岡だとハナちゃんがこれ巻いてたんだっけ」三軒茶屋でも沼津でも、そして無論駿府城址付近の銭湯に於いても、黒きモーロ騎士の遺物纏いし主人の着脱を介助したのは他ならぬ猫の従士だったのだ。「お揃いで買ったん?」
「えっ同じヤツですよ?」[訳註:同じ
「じゃなくて、これ胸の」
「ああ、いえなんか路上で配ってたっぽい。知らんけど」
「てこたタダかよ!……どっかジュエラーのキャンペーンか何かか? じゃコレ石もガラスか……」雑音が交じるので余り擦らないでいただきたい。「――にしてはなかなかの……今から三茶?行ってももう配ってねえよね」
「ん~と試験休み明けの登校日……終業式の二三日前だからどんだけ経ってんだ?」それは馬場久仁子の背信が明らかになった、そして何より
「そりゃせやろ。ほんだらそれわいにくれろ」
「中坊にたかりなさんな。出張ヘアメイクの代金ならパチもんネックレスよりこのボンレスハムでも売って支払いますよって」変装遊戯に使うだけなら他に幾らでも当てがあるだろうに……千代は自身の
「それもそうだ。そんでミコ様が黄色い、
「そんないちいち自分から注意喚起せんでもアナタが危険人物ってことは赤も青も先刻ご承知ですから」つまり
「『エロイカ』は池田理代子だろ……もしくは北斎の春画」イカは
「池だの沼だの……タコスギだのタイマツ[訳註:鯛松?]だのと……」
「サンチョはマツ好き過ぎかよデラックスなのかよ」好き嫌いはともかく意識の外に押し出せていないことだけは真実のようだ!「――てかニコスギうちら待たせ過ぎだろ、風呂場で転生でもしてるんかメガネだけに?」
「シャワー浴びてる途中に転生したら転生先でも裸なんすかね」
「それは転送だろ」
「えっ嘘、今何分?」上半身を捻ることが難しい従士は
「あと二分でロック時でござい」
「ちょちょっ、あと三十分でハコが……
「マジマジ、マジソンスクエアガーデン。収容人数百分の一くらいしかないだろけど」
「ほんとに戻ってこないんだ」
千代さんが駝鳥かキリンの首よろしくピンと背筋を伸ばしたまま布団に膝立ちとなり、二床の寝台の枕に挟まれた小卓上の電話機と、その直上の壁に設置された
《
「チヨさん見て見――」だが日本にはこんな諺もある……そう、《
ここでカラスどころか
「「――誰アンタ?」」
「シンクロすんな」窓辺から呆れた声が届く。
「ちょっとチヨさん、自分じゃ勝手に人入れんなとか云っといて――あれ?」半時間ばかり前の
「何その恰好?……何を企んでんだ?」[訳註:「
「おっカッコウだけに」浴室の中から
「あっはい」
「何どんな恰好?」また窓辺から。「シャワーで化けの皮剥がれたらまた
「全然、まだ美少女。ちょっと前までビショビショウ女だったけど」[訳註:《
「ちゃんと拭いてから出てこいよ……」相棒に
「あってめ顔濡らすなっつったろがい直してやらんからな!」
「顔濡らしてねっすよ!」
「長風呂すっからだろこのド曇りメガネが!」これが真実
「さーせん」同じ隘路とはいえ足を踏み外せば真っ逆さまの橋の上に比べれば幾分緊張感に欠ける道だったとみえ、千代さんの両肩に手を乗せた久仁子は壁に自身の背を擦りつけるようにして彼女の脇を抜けながら以下の言葉を残した。「意外にもめちゃしこ似合ってるよサンチョさん……うち完全体に戻ったら行く前にツーショット撮ろうぜ」
「それはいいけどあの――」
「おっとこれも死亡フラグじゃろか?」
「……さ、いや撮んならみんなで撮りゃいいじゃん」
「いやさすがに天然モノと並ぶのはちょっと、折角化けたのにわざわざアラ目立つ愚は犯さずに行こうじゃまいか……」[訳註:後半部は「~
「具がオカズって何だ?[訳註:「
「食われてないでーす」
「よかった~元メガネの巻き添え食って蒸しマン[訳註:《
「ジョって! 満面の笑みだろ!」
「メガトンチキは認めるんだ……まァ座れや、時間ないし」ほんの一分前まで千代の占めていた寝台の縁を馬場嬢がまた凹ませる。「さすがにコス慣れはしてる感じだっつって……よく持ってきたなこんなん、着替えって汗かいた用だと思うじゃん」
「一応夏用は夏用ですけど……ほらチヨさん、先週の」言葉を失って浴室の前に立ち尽くしたままの猫娘の視線を背中に感じながら、「――シブミサの時の、送ったっしょ?」
「いやま写真は見たけども」丁度一週間前の夕べに渋谷の《夜伽》へと独りで参内した馬場嬢は(自分のせいで)その場に立ち会い損ねた哀れな
「丼屋?うどん屋?……あっ牛丼屋?」この盲女、
「言われてねえよ」
「あっうん何言ってないかまだ言ってないけど」
「口閉じてしゃべれ」睨みを利かせるギネア女。
「さーせん」顔を真正面に固定されたまま、視線だけ落として手元の携帯端末を操作したニコニコーナは、「ほい」と言ってそこに表示された画面を肩越しに突き出した。
「真夏なのに鏡こんな曇らすとかあり得ます?」しかし浴室に首を突っ込んでいた千代はそれに気が付かぬ。「何も見えへんやんけ」
「クーラーとの温度差かな。鏡面冷えると水の表面張力で水玉になるから」科学的な解説を施す洗面台の前のドゥルシネーア。「ドライヤー、温風掛ければある程度取れるよ」
「チヨさーーん、腕がツル……ツル、ツールドラフランス」《
「用がないなら黙ってろ」
「何……」己の仕上がりを確かめるのを一旦保留し客室の半ばまで引き返した千代は、液晶の中の文字列を目に止め前屈みに接近する。「いてて……今猫背になれねっつうのに、ん? てめまた人の携帯勝手に――違う、煮込みうどん子のじゃん……え、なんで?」
「なんでとは?」
「だって……」首を捻ると枕元にはまだ充電中であった自身の電話が転がっている。「まさかとは思うが貴様――」
「バカめようやく気づいたか!」
「実は名古屋のラドゥン自分の分も取っていた……いやワイハだかパンサイだかの家族旅行があったはず」まさにラ・サンチャの主従が沼津の浜辺にて
「ばか~んでもオカンとオトンがイヤ~ンフルエンザでってさっき言ったやん」[訳註:但し第二十四章の訳註でも述べた通り第六章では「明日から旅行」と言ったのに対し、今朝のコメダ珈琲では「出発の三日前に両親が発症した」と、朝令暮改の食い違いが生じている]
「それはアンタ、一週間前?くらいになってからの話でしょ」
「だーからその後で予約入れたんだってば」
「……お前インフル以前にそもそも旅行自体が作り話だってんじゃねえだろな」そうだ、この少女は相手が肉親であれ親友であれのべつ幕なしに嘘を並べ立てる女なのだ!
「まあ申し込んだんは部長に名古屋行き誘われてからだけど。空席余裕でした」
「別に誘った覚えは……」一応通知したら勝手に付いてきたのである。
「よっ――」開いた口を暫く塞ぐことが出来ない従士は、歯と歯の間で何やら聴き取れぬ呪文を唱えてから以下に引き取った。「渋谷は三日間もあって、十日前ですでに
「アウスファ――何?」
「ソールドがアウトってこと」博学の
「あ?」
「まあまあ……で名古屋は何日やんの? 今晩と明日?」
「今晩だけっす」そして来週の大阪公演は週末の二日間が予定されている。
「地元以外じゃガラガラという典型的なパティーンだな」ボンの
「アマパレス?……アマレス?」これは
「日本人なら英語を使え!っつかお前はしゃべんなチュロスでもしゃぶってろ!」東国に興し建てられた
「んで部長にも一緒にナゴミサ行きましょうて誘ったんすが、うちがオゴるからって」
「お前いい加減かなり感じ悪いぞ」
「やほらマデっ子は宵越しのゼニーは持たねえから[訳註:第二十四章で朝食の払いを受け持った後にも同じ科白を吐いている]」これも元来江戸っ子の気性を表した言葉だが、成る程彼の神童も稼いだ端から賭博や酒、女に金を注ぎ込んで晩年は債鬼に追われ、葬儀も極質素なものだったとされる。尤も浪費癖に関しては悪妻コンスタンツェの方が一枚上手だったとも伝えられるとはいえ。「――だども《そこまでお邪魔は出来ない》とかって慎んでお断りされちゃったんよ、ここまで押しかけといて今更って感じじゃないすか?」
「それ翻訳すると《ヘタクソなバンドのライブとかいう拷問は御免こうむる》ってこったろ察しの悪いやっちゃなお前も」御子神は久仁子の顔を一通り取り繕うと、別の道具へと持ち替えつつ空いた手で画布の両頬を鷲掴みにした。「……いっちょ下がり。サンチョごめん後二分で終わらすから、いつでも出れる用意だけしとって?」
「え?」
「むごご」
「一応乗り換えの時間だけ調べとけば? 地下鉄止まってるとかでもない限り開演に間に合わないこたないとは思うけど」
「――あ、はいそうすね」
「あり、髪もやってくれんの?」[訳註:口を抑えられている為]聴き取りにくい。「ラッキ!……いっちょ下がりってなんぞ?」
「いいから場所変われ……気の毒に、今も
「あのう……」
ここで渦中にあったその美しい
安藤さんは珍しくそそくさと部屋の奥まで戻ってくるなり机の上あるいは足下に置かれていた自身の手荷物を開き、中からその場の全員にとって見覚えのある封筒を取り出した。
「――ん、もう貰ってるよね?」
「いえ……実はこの、先程からチヨちゃ――従士さまよりお預かりしております
「えっユキっつぁんは?」横目で焦点が合わないのか、それとも真実眼球に張り付いた透鏡の度が合っていないせいかニコニコーナの目にはくっきりと映っておらぬ様子。
「諭吉さんは」
「ああ焦った、よかったあ」ニコ嬢はほっと胸を撫で下ろし、徐々に照度を下げていく水晶板に映った己の
「一葉さんね……こちらは
「で何が二枚目? さっきの微ショタ部長?」諸兄もこれまで何度か目にしたであろうこの《
「ちょっと失礼……」洗面所への進入を中断し、自身も窓辺まで戻ってくると、従士は封筒から飛び出たその二枚を手に取りその身を強張らせた。「どういうことだ?……増えた?」
「ポケットの中に入れて叩いたのか?」
「財布……」千代は手提げから紙入れを取り出し広げて覗き込む。「……いや入ってる」
「ぼけっとしてると終わりませんぜ旦那」
「あ?……いやうるせえな」気付かぬ内に作業する手が止まっていた御子神は眼の前の頭に意識を集中させんと努めたものの、直ぐ傍で少女がパンパンと音を立て始めたのが耳に入るやもう一度注意を引き戻されてしまう。「ダメだ、
「何ですと、青い猫型の分際で相棒たるこの眼鏡キャラを差し置いて?」
「いや今外しとるやん自分」
「お札には通し番号あるから難しいけど、コインならワンチャンありかもですね」
「いやお姫にまでくだらないコメされるとまたツッコミ不在になるんだけど」たしかに硬貨である限り、寸分違わぬ複製を作れる前提に於いて無尽蔵に富を蓄えることが可能となろう。「つか今更だけど電子以外なら置きチケにしちゃった方が郵送の手間も金も掛かんなくてコスパいいんじゃないのって思うんだけど」
「それはホラ、当日精算にしちゃうとキャンセルになった時とか取りっパグれることになるやないですか」
「いや、そりゃ……せやな」小規模な公演ならば成る程、これは
「ニコミコーナ」
「あいよ……えっどっち?」
「八万八千九百二十五の方」三枚の招待状を敷布の上に並べた千代が問い質す。「お前さん、ラ・サンチャのキチにラドゥン何枚渡した?」
「何枚とは?」
「だからキチガールはアンタに何枚発注したかって訊いてんの」
「ふひ、キチガール」
「それはてめえだろ。ちょっとピン足んねえから一瞬自分でここ抑えてて」
「かしこま」単なる暇潰しの筈が図らずも宮殿での
「あちこちで……私の見とらんとこで、紙チケをバラまいてたってこってしょ?」
「……ああ、」得心するミコミコーナ。「はいはい、つまり――」
「ミコさんに渡したのも自分のとは別の、云うなれば予備の一枚であってさ」自身のアインラドゥンはその手に確保したまま、則ちアマディス麾下に――もといアマデウスの弥撒に参列する約束を違えたわけではなかった。ドニャ・キホーテは決して妹分の従士を裏切ってはいなかったのである……という推論も決して埒外なものではない。しかし胸中で渦を巻いていた
「おっ、サンチョのツンゲージが高まってきましたわータワーだけに」期せずして主従間の
「感謝に堪えられません」跳ねるように椅子から立ち上がりつつ、携帯画面を鏡代わりに首より上だけ生まれ変わった己が美貌に耽溺するニコニコーナ。「ただ四十秒ってのは土台ムリな注文でございますよ……何故かといえばしっこするにはそれプラス四十五秒掛かりますのでな」
「もうシャワー浴びながらついでに出しとけ!」
「そいやチヨさんもう宿代って払った?」[訳註:《
「は?――何?」不意を突かれてキョトンとする千代さん。「ここの?」
「じゃなくて、宿題の話」[訳註:「
「普通に言えや……こんな無駄な長旅に引っ張り出されたんだからそんなんやっとる暇あるわけねえだろ」一学期を終えてから七月最後の一週間を自宅から出ず只ひたすら無為に過ごした従士がそう嘯く。
「……そんなわけで私もこの子たちに付いていきますけど」ドゥルシネーアが上目遣いに訊ねた。「ミコさんどうします? 部屋に残ってます?」
「か、悲しいこと言うなよ」
「だってミコミコーナ夜んなったらまたさっきの……何城だっけ、名古屋城戻ってあのポスター貼ってあった――」有料区間へと入る際に通過せし東門周辺に掲示されていた夏祭りのことであろう。[訳註:第三十二章参照。《
「何だまたさっきのって……さっきだってワイン数杯でセーブしてたでしょが」大体飲んだくれる云々は中学生が言い出したことである。「股裂きで思い出した、ねえねえレンちょんて股割り出来る?」[訳註:「
「股割り?」
「何つったっけハヌ……ハネムーンみたいの」
「ハヌマーン――ってスプリッツですか?……どうだろ、最近全然やってないけど」
「か~いきゃ~くし~てく~ださ~いよおおうぅぅ」
「さっきから誰のマネなのそれ……うちらはともかく姫様にセクハラすんのいい加減やめていただきたいんだが」いつでも出発できる状態で待機していた千代はそう云って長姉に釘を刺すと今度は同輩へと向き直って、「――そしてお前は何勝手に人のカバン
「えっここでですか?」絨毯を見下ろすドゥルシネーア。
「いやほら今日荷物少ないし、まとめた方がロッカー一個で済むやん」
「何故私の方に移す」
「こっちのがキモチでかいから」
「じゃあベッドの上とかでも」
「別に有料だったり空きが他に無かったりしたらバッグ二個一個ん中に詰め込みゃええやん……まあいいけど、まとめたのアンタなんだから私のカバンでもニコが持ち運べよ」千代さんは何か気掛かりなことがあるようで、机上にあった宿泊者への注意書きに目を通している。「あとそのキャリーには着替えくらいしか入っとらんぞ」
「何か面白いモンが……何コレ、これも入れてっていい?」
「何でもいいけどそこら辺散らかすなよ帰ってきて片付けんの私なんだから!」冊子を捲りながらも
「――よっとっとっと」靴を脱いだ安藤部長は一方の足の踵を窓側の寝台に、他方の足の甲を入口側の寝台に乗せると、敷布の上を滑らせながら徐々に股関節の角度を広げていく。その姿態は切り立った渓谷間に凛として架かる
「すっげ、縦スプだ!」手を叩いてはしゃぐ御子神嬢。「タシどんだけやっても前後はペタっとならなかったんよね……二百度くらいいってね? やっぱバレエとかやってた?」
「すっげ……」歓声を耳にして反射的に振り向いた従士は、その
「横の開脚ってアレ、」会場に持ち込む品を粗方収め切った馬場嬢が口を挿む。「お相撲さんとかが稽古でやってるヤツっしょ?」
「いやそうだけど……バレリーナもやってんだろ」巨漢力士が左右の脚を一直線に伸ばしたまま土俵にへばり付いている様は如何にも異様に思えるけれども、これに依って怪我の防止と下半身の安定に必須である柔軟性が養われるのだと謂う。「……まァある意味相撲取りのストレ――スモトリェッチと言えるな」
「……あの光景にエロスを感じたことはねえですが。ミコさん男のでけえケツもっつか、フンドシ好きなん? シリトリビッチなん?」
「でけえケツはあんまり……何だそのロシアの妖怪みたいなの」
「いや、『オスシリンダー
「じゃてめえは馬だしニンジンスキー(原註:¿zanahófila?)だな」日本人にとって人参といえば驢馬よりも馬なのである。「たくそんなぽっちゃりバレリーナ、エドガー・ドガが認めるかよ」
「ドガというよりボテーロですかね」
「――あごめん、股開かせっ放しにして。バレエとか新体操とか、それか雑技団?にでも入ってないとこうはならんよね」
「小学生で辞めちゃいましたので」照れ笑いしながらも寝台の谷間に落ちぬよう、均衡を保ちつつ両脚を閉じていく。「いてて……
「いやもう求めてるレベルが違いすぎて」
「おそまつさまでした」寝台の端に腰掛けた部長は淑やかな所作で靴を履き直す。
「もしかしてですけど」千代が部長の背に問い掛けた。「ド――ハナ先輩も一緒にバレエ習ってました?」
「うん。私に付き合って始めて、で私に付き合って辞めちゃった感じ」
「うわあやっぱふたりともブルジョワ育ちですやん」
「いやあそんな、百年前にはまだ携帯電話とか発明されてませんでしたから」安藤嬢はそういって誤魔化したけれども、
「ん?――ふうん……で、お前はナニ既に閉めとんねや。パンパンじゃねえか」
「え、チヨさんまだ何か入れる? スペースあんよ?」
「いやまあ……金とか水とかはケツバッグ入れっからいいけど」ドニャ・ハンザは面々を急かすようにして玄関口に立った。「マジメな話あと十分以内に電車乗ってないとマジ間に合わんかも知れん……出すもんあんならはよ出してこいや」
「カツアゲみたい」久仁子は浴室の前まで引き摺った荷物を一旦置き去りにすると、「まあカツは揚げたてが美味いからな」と言い残し扉を閉めた。
「コスとか一旦着込んだら便所行けないの結構あんのに」ニコミコーナスは変装趣味という共通項があるし、安藤部長も舞台衣裳にはある程度精通しているだろう。「普段からオムツ穿いて授業受けてんの?」
「心配ならミコミコーナのサラサーティ一枚貸してあげてください」
「サラサーティじゃねえっつうの!」たしか
「イヤな話題を振ってしまった……てかミコさん本気でアマデミサ入るつもり? 許されんのそんなん?」
「そっただこと云ったってしゃあねえべ、ハナちゃんが自腹切って買い占めたチケ無駄にしたら勿体な――くは別に無いけど、アマデなんちゃらはともかく騎士さまのその、心遣いにだけは応えてやんないと仁義にもとるってヤツじゃないの?」これでルートヴィヒ紋の貼り付いたネコカブリーオの兜が従士の手にまだあったらば、
「いやアナタのストレスとかは知りませんが」
「まあドニャキチ様からは――」扉一枚隔てた浴室の中から。「チケ代一人分しかもらってないんすけどね」
「あん?」
グルルルルルル!――
「こりゃ鷲鼻の兄さんや、後ろ
ラ・サンチャのドニャ・キティホーテが以上のような、或いはそれに類した文言を以て獲物を求め荒ぶるイポグリフォを窘めていた頃、
「何、そう長くは掛からんさ」植物性もしくは
阿僧祇花は正面口の階段を一歩一歩踏み締めて上り切ると、自動扉の前で一旦踏み留まった。硝子張りの第一城門が左右に分かたれる……こちらの城塞にも
「このまま押し入ったものか」試しに懐中を弄ってみるも、今や
致し方ない、ドニャ・キホーテは
蜂の騎士はひと思いに
しかし大胆不敵な我等が主人公は事もあろうに広間のど真ん中で、まるで己が威容を誇示するかのように仁王立ちとなったのである……小さな頭をカラスコの兜に隠し、細腕に握られたアリカンテの棕櫚箒を大理石の床面に突き立てながら。(或いは一方の足首を庇って屹立するにはそのような用途に頼るのが最善だったのやも知れぬ)
「……いざや」
「ようこそいらっしゃいましたこんばんは、お泊りのお客様でらっしゃいますか?」
おお、それみたことか! 矢張り空想しただけで実体のない
「それともどなたかとお待ち合わせですか?」
「待ち合わせ……ふふ、そのようなものですじゃ」仮に昨晩夜明かしした部屋の番号を花が記憶していたからといって、まさか掃除婦を騙って受付を素通りするわけにもゆくまい。何故ならもし彼女が施設に雇われ客室清掃の為に馳せ参じたのだとしたら、少なくとも裏口を通って出勤した筈だからである。「此方が旅籠屋である以上、宿帳にジョヴァンニだかフアン・ナディエだかいう小洒落た記名が御座いましょう」
「ジョヴァンニ……様でございますか?」
「宿賃が未払いならば早めに取り立てて置くことですじゃ……と申しますのもその
「えぇっとラ・サンチャの……ドン?キホーテ様でらっしゃいますか?」
「ドナ」後ろからそう訂正したのは男性従業員である。彼が過分に出しゃばらぬ寡黙な紳士でなければ、けだしその後に《キショト》乃至《キショッテ》と付け加えていただろうことは想像に難くない。[訳註:カタルーニャDona Quixot/伊Donna Chisciotte――但しカタ語のdonaは《女/妻》の意で、敬称としてならばsenyoraが適当であろう。因みにフィリピーナスで話されるセブ語ではdonyaが接頭辞として用いられているらしい。飽くまで訳者個人の見解だが、ジョヴァンニが«Dona»と表記したというよりこの従業員がñの«
「――失礼いたしました。ドナ・キホーテ様で宜しかったでしょうか?」
「概ねそのような者です」花はそう云って苦笑したが、直ぐ様鹿爪らしい面相を取り戻すと先ずは突き当りの昇降機の自動扉を、次いで
「皆さんお出かけになってらっしゃいます」
「な、何と申されたか?」
「メッセージお預かりしておりますので」伝言が記された紙切れを差し出す接客係。「こちらですどうぞ」
「構わぬから読み上げてくだされ」騎士は目を通すのも厭わしいとばかりに空の方の手の平を掲げて取り合わぬ姿勢を見せた。「ふん、居留守なのか
「あっ、私共の方でお読みしちゃっても宜しいですか?」
「ええ、手間潰しにて
「では失礼いたします……」女性の指先が紙の両端を恭しく抓み、自身の胸の高さまで持ち上げられた。「スィン(/sɪn/)、ヘァバー(/'hæb.ə(ɹ)/)……ヘイバー(/'heɪ.bə(ɹ)/)……これ英語じゃないですよね、読み方合ってます?」
「スペイン語とかポルトガル語でしょう」背後から見守っていた男性が差し出された文面を覗き込んで私見を述べる。「いやジョヴァンニだとイタリアか……とりあえずローマ字読みで良いんじゃないの?」
「どうぞ続けて」
「はい……シン、ハベール、ヴィスト・ユー……ウ?、オイード、デラ、フローラ、ワイ、ファウナ……デラ、サンチャ」
「¡Bah, qué flora y fauna, fanántico!」耐え切れず悪態を吐く蜂の騎士。その標的は
「……続きがございます」
「続けてくだされ」
「えっと――デスディチャードス、ロス、オジョス、タント、コモ、ラス、オレジャス……」
「ええい《我が目我が耳の不幸でござい》とは何とも白々しい、[訳註:《
「申し訳ございません」
「いや触れ役紛いの真似事をさせてこちらこそ痛み入る」騎士は呼吸を落ち着けた。
「……続きがございます」
「続けてくだされ」
「ええとですね……ああっと、アーヴェ?」
「ラテン語だあね」[訳註:因みに同綴で西語の《
「Ave... Salve... 愚直に訳するならば《良き具合たれ》[訳註:«que estés bien.»]といったところでしょうか」律儀に註釈するラ・サンチャの騎士「¡Vale!――終いですかな?」[訳註:何れもローマ時代の挨拶だが、前二つのvを眼前の婦人に倣い古典式/u/でなく/v/で発音しているのに対し、主に別辞として使われたvaleのみ西語と同じく/b/と読んでいるのは、現代のイスパニア人が頻繁に用いる間投詞《
「もう少々ご辛抱ください」深く息を吸い込んで接客係が最後の仕上げに掛かる。「……アーヴェ、インペラ……インペラトリックス?」
「¡Imperativamente![訳註:《命令口調で!》]」そう叫んで天井を仰いだ花蜂は空いている方の手を差し出した。「――どれ、貸してみなさい」
「あっどうぞ」
「«Ave Imperatrix,...»――ふん、どうやら一足遅かったようじゃの!」これは無論彼女が彼の許に馳せ参じる頃合い以上に、彼が彼女にこの文言を読ませるべき時機を逃したという話であろう![訳註:第三十五章泥江町交差点にてセビーリャ人たちと別れて後、その次の章の牙城東南端にある便利店内で帝位を継承したドニャ・キホーテは、その又次の章にて早くもその冠を返上してしまっていたのであった。つまりこの文面を読んだのが百五十~百分前であれば、その短い期間に限って彼女はジョヴァンニが記した通りトランピソンダの《
それにつけても《
「皆さんお帰りになるのは十時前後と承っておりますが」まさか今より三四時間、客溜まりの真っ只中に生えた二本の枯木か灯火の消えた祭壇上の蝋燭さながらに突っ立っているわけにもいくまいし――というのもこのままでは通り掛かるお歴々が果たしてどちらが人間でどちらが棒切れなのかと頭を悩ませる結果になりかねないからなのだが――、かといって玄関脇から沿道を一望できる硝子張りの空間に設えられた
「あいや、死地に赴くと言い残した
「では……お越しになったこともお伝えしない方が宜しいでしょうか?」
「お腰に付けたチビ
「か――しこまりました」
「左様然らば……ごきげんよう」[訳註:「Así, por ende... Valete, omnes.」]
「お気をつけて――」「「行ってらっしゃいま――」」「――あっ」
「Heu!」
「おっと危ない」
「…iterum id feci.」恭しく一礼したドニャ・キホーテが入り口に向き直っての振り返りざま、夕方の散策を終え宿に戻ってきたらしき――この物語にはこれ以上出番のない――宿泊客の鼻先を、出会い頭に我等が《
「え?……いえいえ」
「ご苦労さまです」連れ合いと思しき女性が花に会釈する。掃除婦(カラスコの全面帽を被った?)と誤認したのであろう。
「「お帰りなさいませー」」
「「ただいまー」」
内門を潜った
短く咳払いするなり徐ろに立ち上がった騎士は階段途中で引っ掛かっていた
「時にサラマンドラの白ウサギも眼鏡や
馬の腹を軽く蹴る。
「尤もあのヤサグレ男たるや、
然るが故に阿僧祇花、いやドニャ・キホーテよ……お前こそ《
斯くなる上は
「Piensa en la muerte... y no te creerás tan fuerte.」
南北に伸びる公園へと行き当たった少女がそう呟いてから、ふと視界の開けた左手の空を見上げると、その眼差しは北を統べるバルハラの神が一つ目と俄に交錯したのである。
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