第39章 では此処に来て図らずも跛の小虫嬢の橋へと差し掛かるが、其処には追って白兎こと仔山羊の楽神殿も現れ、或る勧告を齎さん。
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第三十九章
では此処に来て図らずも
其処には追って白兎こと
Capítulo XXXIX.
Donde a caso vino aquí doña Cojijo cojo a pasar esta puente de Gojo,
para donde iba a ir más tarde don Musa-chivo, el blanco conejo, para darle un consejo.
[訳註:CojijoはCojiro、Musa-chivoはMusashi-boの
ラ・サンチャの
然らば
何れにせよ、たった四五分であれ乙女の
連綿と立ち並ぶ監視者が順繰りに灯す赤い目玉は時として戦場へと赴く勇者の昂揚した戦意を徒らに挫いて憚らぬものだが、その藪睨みに依る横槍を幸いにも被らずに済んだ阿僧祇花とその半鷲半馬は南北を貫く大通りを一跨ぎにすると、それと平行して流れる堀川までの街道を一息に突き通ることが出来た。
「斯様に狭隘な水路となれば、槍を突き合うに足る川っ
橋梁の上は相も変わらず引っ切り無しに行き交う四頭立てや鉄牛でごった返してはいたものの、こちらは対照的にどいつも
「さてと」ドニャ・キホーテは下流に架かる伝馬橋を一瞥するなり、直様その首を愛馬のそれと同期させてから不意にその横腹を蹴った。「奴の腹こそ量り兼ねるものの、川を下るも野に下るのも嫌というからには[訳註:前章でメルリンは決闘の待ち合わせ場所として「浜辺は遠いからせめて川辺で」と所望し、騎士もそれに応じている]――成程厠で下るは腹ばかりとは云い条――、一先ずこいつを遡らずばなるまいて。何、北と云ってお前さんの生国と見紛うばかりの雪渓を拝むが如き、深山幽谷に達するまで歩かせようとはそれがしも思わんで安心せい」
川の東岸に渡るや馬首を左へと巡らせ、それからは一路
「――急くなリペオス。此れを越えれば件の
幅員の広さを鑑みる限りこの橋は
「ふうむ……今となれば、押し返しお城の空堀でも間借りした方が余程――」首を伸ばして淀んだ川面を覗き見る。この際せせらぎが歓声、野次馬も川魚のみという試合場にも一考の余地がありそうとはいえ、この中に飛び込むとなると
折り返して美濃路に入ったはいいが、一旦橋を渡り切ってしまうと両岸とも遮蔽物に目隠しされるので路上から河畔の様子を窺うことは出来なかった。
そのまま南下して最初の四つ辻を左に折れると又橋が見える。こちらは幾分小振りで、喧騒と呼ぶほどの人いきれも伝わっては来ないようだが……
「はてさて《橋に逢いては須らく――》!」さては石畳の凹凸に尻か膝を揺らされでもしたか、馬を徐行させつつやおら鞍から飛び降りる蜂の騎士。「――痛っ……供でもあれば兎も角、単騎じゃ
花はふと
「おい君、
どうやらその母親に比べると声帯模写[訳註:第十二および三十五章他を参照のこと]の精度も納得の行く出来たり得なかったようで、少女は小首を傾げて鼻を鳴らすと徐ろに石畳の一枚を蹴った。
それから暫くの間、依然として見通しの悪い西岸の小径を戻り、右手に現れた橋を渡り河岸を変えて尚、南下を継続する……指摘するまでもないことだけれども、どれだけ川沿いを下ろうと――
「時に羽根持つ駿馬、蹄蹴る猛禽よ……」花が約二分振りにその口を開く。今度は橋の袂にてきっちり一時停止してから下馬した様子である。「鵜の目鷹の目と謂うけれど、お前さんのはどうだったかしら――馬の目と鷲の目のどちらだったかのう?
リペオスの悍馬が微かに嘶いた。まさかこの《
「いやそいつは思い違いというものだ……縦しんば空の皿を泥水で満たした河童が川に拐われようが、
そりゃ《
「まだき猫の目を借りねばならぬ刻限でもあるまい」花は進行方向より僅かに左へと伸びる己の影を横目で押さえながら、愛馬の
だが速歩はやがて常歩へと移り、
「«... No está la carne de caballo en el garabato por falta de gato;»」そう呟くと、蜂の騎士は橋の終点――その
蕾のような口唇から肺腑を空にするが如き大きな溜息が漏れ出る。ドニャ・キニョネスがバルセロナの浜辺に代え敢えてこの手狭い橋梁を選んだのも、一つには当然午前中の輝かしき勝利に験を担いだことがあったであろうとはいえ、これ以上鐙に乗せた踵を何周も回転させるには太腿や足首の具合が芳しいとは言えなかったからというのも又、一概に思い過ごしとは断じ切れぬものがあった。
――ブロム、ブルム。
阿僧祇花は筋の通った鼻を咄嗟に埋めていた両膝の合間から引き上げると、まるで聡く反応した片耳に引っ張られたかの如く堀川の対岸を振り返った。ともすれば研ぎ澄まされていたのは聴覚よりも、年頃の娘にしては脂肪の薄い大殿筋だったやも知れぬ……というのも件の排気音が――さも《
だが騎士が梟とは言わぬまでも鷲さながらに捻ったその首を尚又長く伸ばし、橋の向こうへと目を凝らした頃には既に、美濃路を南に突っ切ったと思しき鉄騎の影も左手の物陰へと隠れてしまっていたようだ。となれば
体勢を戻し改めて親柱に凭れ掛かった花は、その口から自然と溢れる欠伸を途中で押し殺すと徐ろに懐中を弄ぐった。二分ばかり微睡んでいただろうか……気付けば目庇も下げたままだ。ドン・ジョヴァンニが中天の太陽を浴びつつ居眠りしていたのと丁度似たような格好で[訳註:第二十八章に拠れば、紳士は日光が遮られた南側の高欄に凭れて休んだと記されている。彼が炎天下に晒されたのはその直後、一旦牙城へと戻った花を待つ間、橋の只中にて立ちながらに石化させられていた折の出来事]、遅蒔きながら己も
「No parece muy claro que se pueda sustituir el opio ni el cannabis por estos huevitos...[訳註:「こんな卵モドキで阿片や大麻の代わりが務まるとは俄に信じ難いが……」]」小袋から開いた掌上へと、ボーロが数粒零れ落ちる。「なあに腐っても
音を立てて噛み砕き生唾と共に嚥下する。《
「何の……大英無敵艦隊を沈めし
「……まったく、《黒き駒を駆りその手に
しかしながら替え馬橋の東岸に立ち塞がって五分待とうが十分待とうが――鳴り物入りで登場したガレスの魔術師が、
「¡Bah!」遂には音を上げるラ・サンチャの騎士。
第一昼間のように
「ことに依ると――」花は傍らで待機する自転車に問い掛けた。「お前さんはどう思うねイペルグリフォ? 今この時も暗渠に巣籠もりする物臭なハヤブサのことだ、暗がりからピーチク
イペルグリフォは沈黙を以て先を促した。
「……待てよ奴め、ラ・サンチャの偉業に茶茶入れたその熱き椀の中へも
突としてドニャ・キホーテは馬首をもたげさせるや半ば強引に百八十度回頭させた! 咄嗟の出来事に不意を突かれ、訳も分からず
鞍上に飛び乗るなり横っ腹を蹴り上げると、堀川に沿って南北に伸びる木挽町通を一路北上する間、一時も鞭を振るう手を休ませることはなかった。
「俄仕込みの鬼若丸よ、レオンの獅子が分捕った百六十六条の更に六倍余りの稲穂を刈り上げたとそう御坊が仰せならば、」軍記物『義経記』に拠ると、弁慶なる
おお、疾駆するその勇姿はまさしく陸に上がったドニャ・ブラソさながら!――というのも片足を負傷した花には既に、
桜通を見下ろす三つ目の監視者も此度に限って騎士の
――五条橋。そう、これこそ陸に上がった金鯱を調伏せし四匹の猫の一行が内一匹の投宿先へと帰参する道半ばで立ち寄った、そして牝牛の姫をして《
慥かに腕試しの舞台としては伝馬橋と比してもより相応しい名を持つ橋であることを否定するものではないにせよ……つい先程渡った際には立っておらなんだ
「山吹色した
……いや。誰かを呼び出すだけのことなら、件の《
[訳者補遺:前章にて著者は駐輪場を発ってから一騎討ち開始までを《
――ブロロム、ブルルルム。
それから何分が経過したのか――欄干の端に腰掛けウトウトしていた東国のトローラ[訳註:三匹の山羊を待ち伏せる
「やれやれこちらにお出でで……さてさて名にし負うラ・サンチャのドニャ・キホーテよ、心ならずも長らくのご無沙汰――」男は考えた……果たして己の記憶には、箱根峠から沼津港に掛けて主従と同行した折の次第が微かにでも残っておるものだろうかと。「一寸の虫にも五分の沙汰無しと謂うからには、セタ・ガヤのツバメバチと謳われた貴顕であれば、うむお見受けするに身の丈五尺六寸は下らぬ背格好、つまり五日くらいお見受けなくとも失礼には当たらぬかとは存じますけども」[訳註:主従が沼津を発ったのは五日前の月曜午後。第八章を参照されたい]
「汝
「何時と申されても……小生ガウラのマーリンからも詳しい刻限は元より、ジョスト会場の所在すら聞かされてはおりませなんだ」彼女が偽のドニャ・キホーテであれば、迷わずサラゴサを目指したかも知れないが……騎手が黒馬の首筋を一撫ですると、それまで低く唸っていた馬体がまるで眠りに落ちたかのように静まり返った。「先達ても下流の方で船をお漕ぎになっているのをお見掛けしました故、てっきり舟島もアチラだったのかと……あっ、ええっと――ドニャキ
「な、何ですと?」
「勝たば何ぞその鞘を捨てん」
「勝った後で拾えば宜しかろう」
「ごもっとも」浜辺で打ち返す波に拐われたり、高欄を支える
「そいつは御尤も」
「どうも……第一その刀身じゃ物干し竿というより釣り竿――いや鳥刺し竿?」
「パ――パゲーノ」ここに至ってもモーツァルトの呪縛が! 矢張りドニャ・キホーテに割り振られた役回りは[訳註:魔笛を授けられた]
「その白刃で返せるのだってせいぜい雀止まりでしょう」要するに燕の方は帰ってこないと?[訳註:科白は「
花は勝敗が決するを待たずして石畳の上に転がる鞘を拾い上げると、大人しく小刀の切っ先を収めた。《
「競技用の槍となると、伝統に則る限り本来ならば十尺は欲しいところ」依然兜で顔を隠したままの学士がこのような一言で機先を制したお陰で、出鼻を挫かれた騎士は続けて腰に差した別の一物を引き抜く機すらも逃してしまったのである。「馬を下りるにしても
「犬の喧嘩でしたらば」さも足元を見たような底意地の悪い挑発を真に受けた
――ピム!パム!プム! 騎士の口上とは裏腹に、正面切って放たれた全ての
「うわっといたた……これじゃ鳩に豆鉄砲、鬼若は外と――いやここは既に屋外ですけども――そう仰せなら、半年前の節分にでも済ませといていただきたく……何です?」
嗚呼、これがボルランドを仕留めた黒たまごであれば烏小路とて[訳註:
やがて従者に続き次は自ら《
「それにつけてもラ・サンチャ殿は知らぬ間に随分と立派な甲羅を冠っておいでのようですが……はて《
「はっ、どうだか!」一転こちらは虚勢を張って哄笑してみせる。「
「トメ?……乙女、セクシャルな?」
「未だ姿を見せぬ御自分の従者、森の――否、《小森の従士》をお忘れか?」すっかり忘れていた! 続篇『騎士ドン・キホーテ』に今も綴られる彼の
「あらあら、ポトリと落ちるは同じこと」二輪乗りが今度は右手を向いて首を伸ばし、川下の両岸を見渡した。「道理で六条河原の直ぐ
「天に口無しとは云い条、貴兄こそ物言わぬ《
「ははのんきだね――ってアンタそれ戦前の……いや大正?時代の流行歌じゃないの?」
「石田一松というからにゃ貴兄の親戚筋じゃあないのですか?」[訳註:石田一松は一九二〇年代から活躍した歌手で、戦後は衆院議員も務めた]
「……流石にそんなものまでご碩老の英才教育が賜物とは思いたかないが、それはそれとして――」Seki-rouの翻訳には幾つかの候補があるものの、どの漢字を当て嵌めるか絞り込むには筆者の日本語の知識が不足している事実は認めよう。故にここでは《
「騙りじゃと?」何処までも糞真面目にドニャ・キホーテは問い質す。「では親の譲りの
「そりゃもう、
「それがしは
「まったく同感です! キハなのかキハノなのか判然しない――キハダならば何でしたっけ
烏小路参三と阿僧祇花の眼光が搗ち合った。
「交通法規は遵守しとったつもりだが」[訳註:否、岡崎に到着するまで毎夜繰り返した無灯火走行は歴とした道路交通法違反である]
「狂えるオルランドよ、小生が遅参いたしましたのは
「これは……」左右の手で受け取ったそれらを、ドニャ・キホーテは入念に吟味する。「とんだ業物――尤もそれがしの目にはどちらも只の箒としか映らぬが」
「見ての通りの代物です」カラスコは臆面もなくそう言い放つ。「敢えて名付けるならばそうですな……《意気地ありきの箒》」[訳註:《
「アリカンテの魔女が跨るには些か寸足らずのようじゃ」名駅前に今も鎮座まします魔女帽の
「河川敷の闘いといって流石に化繊ホウキじゃ趣きに欠けますでな」察するところ、長槍に代えて箒で突き合おうという算段か。「当方自由契約の身故、恥ずかしながらこいつも無料でお配りいたす所存[訳註:《
「ナゴヤ・アイ?」
「いえ、聞いた話じゃ奴は
「犬の喧嘩[訳註:英dogfight]を真に受けて、こいつで空中戦をやらかそうという腹積もりならば……」イポグリフォを東岸に残してきたドニャ・キホーテは戯れにその一本を股に挟んで見せる。「生憎それがしに邪法の心得を期待されても困る(原註:これまで彼女が幾度となく超自然的な呪術を披露してこれたのは、偏に霊力を帯びた《
「折悪しくドンキには
「
「生憎サラマンドラゴラには薬効がありませんで」学士は苦笑いを押さえつつもそのように
「赤猫で宜しければこの紅紫陽花、」花が胸元から手繰り上げた紅玉の首飾りは、西陽を浴びてカラスコの瞳孔を突いた。「――黒駒御するサラマン殿より先にこの橋焼き落としてくれましょうぞ!」[訳註:江戸時代以降の隠語で《赤猫を這わす/赤犬を
「眩しい眩しい……焼いて良いのは八ツ橋だけと、
「……然り、《
ここで大方東岸から進入した自動車であろう、短い
花は端から
「言った傍から」参三は東西に伸びる京町通の前後を交互に見渡した。「取り分け橋の周囲は許可取りが難しい。お役所がしゃしゃり出てくる前に、これはお互い偶然を装って擦れ違いざまに白黒――紅白?付けるよりありませんかな」
「元よりこの《
「枯れ葉集めて落ち葉焚きにゃ少々早うございますがね……では打ち込まれた槍を骨灰さながらに打ち砕くこちらを弓手にどうぞ」サラマンドラは箒の入っていた袋から別の武具を取り出してみせた。「兜鉢も一応予備を持参しましたがご自身で用立てていただいた模様、となると後はこいつがあれば
「頂戴いたす……」右手で持った箒をドン・ブラソとは反対側の棒義足として石畳に突き立てながら、空いた左手を差し出したドニャ・キホーテ。「此度は
「落馬して尻餅を
「差し詰め又候フレストン奴の仕組んだ芸のない目眩ましだろうが、せめて吾が想い姫への忠義を図案に模した
「
「人鳥というとハルピュイアかね?」
「ペンギンです」
「¡Qué pingo![訳註:「ピンゴとな!」。西pingoには売女、悪ガキ、悪魔といった語義がある]……とはいえ白黒もとい
「塵取りより相撲取りをご所望で? 何なら尻餅予防に尻取りで勝負を決めますか?」
「貴兄に勝ち目があるとすればせいぜい揚げ足取りくらいじゃて!」
「《弘法ペンを
「……膀胱は便所を択ばず」[訳註:第十三章、浜松はカラオケ店前の場面を参照]
「本番前のお花摘みでしたらこの
「それには及ばぬ」ラ・サンチャの騎士は得物をクルクルと回転させてから、結局は
「我等揃って
「尤も
「名を落とすも何も観覧席は空ですから」
「是あるかな、
「お待ちなさいな、名誉も余命もそうおいそれたあ逃げやしませんぜ」カラスコ学士が呼び止める。「禍根を残さぬよう事前に取り決めを。内輪のことですし略式で構いますまい」
「念の入ったことだ。そうじゃな……
「異論なし」地上に降りての
「一、 敵騎の馬体を害するべからず」
「願ってもない」肝を冷やすのはククリヒメを振り翳された地下墳墓だけで懲り懲りなのに違いない。[訳註:前章参照]「こいつを傷物にされた日には、あの麗しきシャルロッテ姫のパンクを直すのとは訳が違いますから」[訳註:第八章に拠れば、沼津では千代のママチャリの修理費用を烏小路が負担している]
「この
「……まァいいでしょう」兜を落とせば勝ちというわけでもなし、
「一方の息が絶えた場合は是非もないが、一見して戦闘不能と判断できる時も決着は着いたものと見て異存はありません。敗北宣言も然り」次いでドニャ・キホーテは右腰で水平に構えた《
「一発必中を為す傾注なくして何の
「馬を下りて拾うことは許されぬと?」
「五条の上でご冗談でしょう? これが只の
「下りる暇がなくとも止む無く落ちることならあろう」
「落ちた後の心配ならばそれこそ無用の
「御高談の腰を折るのは忍びないが、それがしの足首や欠伸にも限界があるでその辺りに留めていただこうか」
「はは、はっ――花嫁候補がおられるだけ羨ましい限り。小生が読めるのは空気のみ」
「然るに此度は野良試合故に報奨の類は期待できぬ。となれば勝者は相手の生殺与奪の権に加え馬と兵具一式を手にするという条件で障りないかな?」
「従います」烏小路参三は負ける気など毛ほども無いという口振りだ。「元来このサラマンドラゴン、痩せ馬や掃除用具にゃ興味はございません。移動は火蜥蜴や炎竜に跨りゃ済むし、ゴミの類も連中が火炎一吹きでキレイに燃やしてくれますので」
「便利なことだ」
「然らば騎士よ、博覧強記が錯乱狂気へ終には立ち戻る前に、早速手合わせ願いましょうか」学士は最後に抜け目なくも以下の如く付け加えた。「但し先刻フレストンと――メルリンの方か、メルリンと交わした約定の方はお忘れなきよう何卒どうかご確認たまわりたい」[訳註:前章で花は蘇った学士との果し合いに敗れた場合、三軒茶屋に帰って高校に復学し、一年半以上故郷を離れない旨の誓いを立てている]
「二言は無い」騎士は再び背を向けると、東の親柱の傍らで主人を待つ愛馬と
それは扠置きイポグリフォの不憫なこと! 主人の狂気を鑑みるに幾分なりとも腹を括っていたろうとはいえ、八日掛かりで漸う百レグアを走破したかと思えば
しかし
「...Esta victoria con todo mi amor la dedicaré a la señora del palenque, dama de honor, flor de mi vida, de bello loto renaciente andando en el Toboso.」蜂の騎士は強ち見当違いでもない方角[訳註:東岸南側の親柱の隣からであれば西か南西になるだろうか]を向いて跪坐すると、欄干に両肘を付きその細い十指を組んだ。「どうしたイペル、お前の出番……それも最後の見せ場じゃぞ? というのもこの一本目、
立て続けに四頭立てが二台――前方と後方から一台ずつ――橋の上を通り過ぎた。
「It is the sword of a good knight, though homespun was his mail, what matter if it be not hight, Joyeuse, Colada, Durindale, Excalibar, or Aroundight?――どうだ見るがいい! 彼の湖のランサローテとて斯程の
西の対岸では
「¡...Pero qué extraño se siente!, y no sé qué es...」ふと花は首を捻った。[訳註:「……得も云われぬ違和感!、然るにその正体が知れぬ……」]
――その時である。
――
騎士の背後で
「¡Toca la trompeta!」ドニャ・キホーテは今一度
両者の隔たりはせいぜい百
おお神よ、取り分け
馬術に於ける
では四脚の代わりが前後の車輪二枚であった場合はどうか? 言うまでもなく自転車や自動二輪が走行中の車体を安定させる為に大きな役割を担っているのが、運転手が左右の手で握り締める
石畳の形作る凹凸に関してはこの際目を瞑ろう……我等が蜂娘の
しかしながら忘れることなかれ。ふたりの騎士が今から二秒後、
「...Eur-eurítmica.」[訳註:名詞形の《
右斜め前方では彼女の
不意にドニャ・キホーテは弓手に把持していた革楯を肩の後ろに打ち捨てると、右脇に抱える
「――ぇえっ!」
面食らったはサンソン・カラスコ、内側へとえぐり込むように投じられた《
擦れ違いざま、今度はラ・サンチャの騎士が外側から捩じ込むように振り被り――いやこれは間に合わない、《二世》が突き刺したのも又、サラマンダラの背中が通り過ぎた後の何も無い空間であった……或いは相手の背後からの一撃は違反となる為、否、仮にそうでなくとも騎士道に悖る卑怯な攻撃――まさしく
……
だがそのままでは騎手も槍の柄を通して間接的に
となるとどうやらドニャ・キホーテの思惑は別のところにあったらしい。
――
後ろから届く
この時前後転身して間もない馬上のドニャ・キホーテの真横で俄に停車した四頭立ての、僅かに開いていた車窓の隙間を更に大きく下ろしつつ、手綱を預かる
「何か踏んづけちゃったっぽいですけどすみません、何か――」これは十秒前の対岸にて唐突にリペオスの悍馬が揺らす尻尾の直ぐ後ろでけたたましい警笛を鳴らし、それこそ尻尾に火を付けられたが如く吃驚した彼が――その直前まではむずかって突撃を渋っていたくせに――一目散に駆け出すよう仕向けた張本人に違いない。「落としました?」
「御気に召さるな」
「えっ、あぁ……ご苦労さまです」見上げればこの少女、肩に箒を担いでいる。「でもまあ、何つうか……さすがに下りてやった方がいいですよ」
「ふふ、返す言葉も御座いませなんだ」花は思わず相好を崩すやゆっくりと目庇を下ろしながら以下に続けた。「お手間を取らせ申した。貴方がたも道中御用心くだされ」
「は~いお疲れさまで~す」奥から女の声。「うわあ絵になるぅ」
「セニョリータ……」
「じゃ失礼します。えっと暗くなってくるしお姉さんも車に気を付けて」運転席の車窓が音を立てて迫り上がって行く。「まだちょっと開けとく?」
「いいよ冷房入れよもう」
「あいよ」――
四頭立ては左右の安全確認を行ってから細い美濃路を横断し、そのまま風船の飛んだ交差点[訳註:第三十章参照]に向け走り去った。
「«Vamos de paseo,...»――か。まったく返す返すも返す言葉に窮するわいね」尤も旅人が乗車していたのはそこまでの
橋の向こうでは同じく方向転換を済ませた烏小路卿が、
元を辿ればその原因は人種や時代に限らず人類の九割が右利きだからで、ではそれは何故なのかといえばヒトとその他の動物を分かつ決定的な差異――則ち言語能力を司る部位が脳の左側であったから、要するに言葉の能力の発達こそがそれと並行して我々を右半身の優位性へと導く帰結となった次第なのである。(左脳が右半身、右脳が左半身に対応するという知識は、既に初等教育を終えていると思しき皆さんの左脳が十全に記憶していることと拝察する)
往時欧州では馬車の運転者が御者台中央に腰掛け、利き手で鞭を振るっていた。となると
一方で江戸時代の終焉までは舗装された街道もなく、それ以前に馬の数が圧倒的に少なかった日本については多少事情が異なる。最もよく知られる説を紹介すると、侍が(勿論彼等も右手で刀を振るう)左側の腰に帯刀していた為、他の武士と擦れ違う際にそれがぶつかることを防ぐ必要性から左側を歩く習慣が広まったというものがある。刀は
ところが馬上槍試合はどうだったか?……論ずるまでもなく、二頭の馬はそれぞれ右側を駆け抜け、騎士は左手に向かってくる対戦者目掛け槍を喰らわす。何故なら武器は右手に持っているからで、これは利き手の問題のみならず盾で守るべき自身の急所が左胸に位置することも或いは無視できまい。もし左側から右手の敵に得物を突き立てようとすれば、頗る不自然な方向に身体を開く羽目になりこれは著しく安定性を損なうであろう。日本の伝統的な神事にして
第一走の開始間際、花が覚えた違和感はそこにあった。馬は左側、相手は右側、にもかかわらず《意気地》は右手に構えている。この
「さても吾が友ビシカンテ、
東に二十パッスス、対岸の南側親柱の傍らには早速サンソン・カラスコが次の攻撃に備え、一分前のラ・サンチャの騎士と寸分違わぬ位置取りで待機している。車線の左右を取り替えるつもりはなさそうだ。ご覧なさい、日本人の大半は斯様にも
「――おや、常時下がり松殿もアダルガをかなぐり捨てたぞ?……ふん、これを以て《武蔵敗けたり》とは申すまいよ。肉を切らせて骨を断つとは良い心掛け……尤も奴さん、屍肉を幾ら切り刻まれたところで痛くも痒くもなかろうがね」
小型の自動二輪が花の背後より忍び寄り、大きく中央線からハミ出しながら躱し追い越すや――対向車が皆無である以上咎め立てすることもあるまい――そのまま少しずつ左車線に戻りつつ向こう岸へと渡って行く。
狩蜂は考察する……サラマンドラは――右手で槍を構えていたとはいえ――一貫して彼女の盾ではなくその右半身、つまり防具を帯びておらぬ喉か肩か胸の何れかに狙いを定めていたのではないか?……成る程、
臆病風は何処かに吹き飛んだとみえ、奮い立ったリペオスの悍馬が矢庭に棹立ちとなったものだから、あわや鞍上にあった痩身の騎士も振り落とされんばかりであった。
「¡So, monstruo, soo!――
――
「¡He aquí, la hora viene, y ha venido ya!」
おお、迫りくる
――
不意に蹌踉めいたケルピエが小刻みに鼻先を揺らすや、学士は咄嗟に南の欄干側へと馬首を振った。つまり中央線から逸れることで馬同士の接触を避けたのである。
しかし己の
それでは対向車線の騎手や如何に?――何のこれしきの椿事に泡を食うラ・サンチャの暴れ蜂ではない! 彼女とて数多の戦火を潜り抜けここまで辿り着いた
花は
一方のサンソン・カラスコは――筆者の見立てが正しければの話ではあるものの――対戦相手の転落ではなく武器の破壊ないし取り落としに依り勝機を得んとしているわけだから、互いの
ところが青年は出遅れた。
学士の右腕当てを嫌った騎士は自然と、打突の瞬間に肘をもたげることで水平に構えた得物の軌道をやや高めへと移行させる手を選んだであろう。そうすれば彼の厄介な右腕を飛び越えてその
さてカラスコはカラスコで、遅きに失した当初の目論見はさっさと項の辺りに押しやって、今やガラ空きとなったドニャ・キホーテの
ところがここでも青年は出遅れた。只でさえ狙いを手前の槍先から奥の持ち手へと修正してその分余計に間合いを詰めねばならぬところ、その為に馬首の上まで身を乗り出した彼の眼前へと唐突に飛び込んできたのが先んじて放たれたラ・サンチャの
――
そうなればさして摩擦のない箒の柄はラ・サンチャの騎士の握り拳の中をするすると後退し、右に位置する対戦相手に得物を届かせようと左肩をかなり内側へと捩じ込んでいたのも手伝って、跳ね返った《二世》の反対側の先端――則ち
何故だ? 神は息絶えたか? 乙女の美しい前額に風穴が開くのに比べたら、その薄い胸元を貫かれた方がまだしも慰めになったではないか!――と申すのは他でもない、いざ棺に納める段になったとて首より上に施す
――
「¡Ppuf!」
――幸いにも彼女の
「...¡¡Bah!!」
然りとて考えてもみよ、
[訳者補遺:箒の穂先が烏小路の兜前面を打ってから跳ね返った柄の極端が花の頭部に直撃するまでの所要時間は僅か四半秒にも満たぬ。人間の反応速度ギリギリに近い瞬目の間に斯程までの状況説明を詰め込んだのには勿論、それまで供人なくとも多弁であった騎士が――流石に敵に突撃する最中くらいは――言葉少なになったのを補う意図もあろうが、初走および第二走に於ける一連の描写は指摘するまでもなく著者アベンダーニョ独自の推察に過ぎない。尤も対戦者間の前後の掛け合いと照応する限り大きな矛盾は見受けられないことからしても、概ねその通りではあったのだろう。但し容喙が許されるのであれば以下の管見を付け加えておきたい。前述の如くことが進む為には、ドニャ・キホーテは長槍を左小脇に挿む形ではなく左肩に担ぐようにして突進した筈なのだ。仮に腰の高さから得物を突き出したとすれば、如何に騎手が身を乗り出して前傾姿勢を取っていたにせよ、往路に近い軌道で戻ってきたそれが花の額を打つというのは余りに不可解(手首が不自然に捩れる)だからである。その点槍を投擲するのと同じく顔の真横を起点として水平に敵方を狙ったのであるなら、学士の防護面に押し返された箒の柄をまだ握ったままの彼女の顔面目掛け、滑らかな拳の中を擦り抜けたその柄の突端が飛んできても何ら物理法則に反してはなかろう]
降りて湧きし
――
迚も斯くても慌てふためき鞍から飛び降りた烏小路参三は車道のど真ん中で愛馬を置き去りにすると(とはいえ
「あっ、ハッナ――ドッ……」
果たしてドニャ・キホーテの首から下はまだ鞍上にあった。そして……
対戦相手ほど派手な手綱捌きで急停止を行わなかった騎士は、それでも東の親柱に至る前で馬を停めると、瞬きも忘れ宙空を仰いだままに暫しの間放心していたようである。
「ああっ焦っ――あべっ!」
大型二輪での
「ごっご尊容に、創傷などは?」自身と敷石の隙間に手を挿し入れ、強打した臀部を摩って痛みを堪えつつも、その身を案じ少女を仰ぎ見る白月の騎士。
最早ドニャ・キホーテの左右何れの手にも箒の柄は握られていなかったものの、それはサンソン・カラスコとて同じことであった。瞼甲に打突を喰らった刹那はまだ辛うじて把持していた可能性があるが、その先の展開にこそ心底面食らった彼も等しくその場で得物を手放してしまっていただろう。というのも急ぎ制動を掛けるとなれば、両手で手綱を握るに如くはないからである。[訳註:尤も自動二輪の制動は通常前輪を右手、後輪は右足で行う]
「Mi señora, mi dama...」ハッと我に返って、「……いや《
「ノストラ、ダマス……ああ、アンリ二世」
「――どうにかこうにか免れたようですじゃ。ホレこのとお――」破顔しやおら風防眼鏡に手を掛けると、それを眉の方へとずらして両眼の無事を……「――り、ん?」
花の右手の指先は眼鏡の
はて馬が駆け出した時点では下ろしていた筈だが――と兜の目庇の辺りを探ってみるも、矢張りその感触はなかった。否、それ以前に上げた瞼甲を乗せる兜そのものが消え失せている。成る程、道理で先刻から頭周りが涼しかったわけだ……
「ぬ、抜かったァ!」
トランポリソンダ女帝はその名に恥じぬ
休む間もなく何とか片足だけで跳ねながら、北側の高欄に手を掛けて眼下を覗き込む。次いで
「――何をなさっ!」長い脚を折り曲げて手摺に攀じ登ろうとした騎士の尻を仰ぎ見て言下に立ち上がろうとするサラマンドラ予科生、しかし少女は途中で思い留まったらしく一度は振り上げた片足をゆっくりと橋板の上に戻した。
「……悪いことをしたな」伊勢湾に向け見る見る遠ざかっていくネクロカブリーオから目を離すことが出来ない阿僧祇花の気怠げな面持ちに、蕾のような口唇から溢れる溜息を押し返すかの如き
そう、山羊の頭骨は慥かに額への槍傷や前頭葉の負傷から花を防護した。だがそれは直接的な打撃を緩衝したに過ぎず、猛烈な推進力を秘めた《意気地ありき》の前進を完全に阻むことなど到底敵うものではなかったのである……であれば騎士は如何にしてその力を逃したのか?
「……ん?――ややっ!」
打突に依る第一次の衝撃を回避したドニャ・キホーテではあったものの、頭の上の防護帽には尚も
「«...Pacta, sunt, cervanta.»」[訳註:第三十五章の終盤で、花はセビーリャの青年から手渡された浜名湖の野球帽の中に、複数枚の紙片に包まれた筆燈が差し入れられているのを発見したが、その紙の一枚に上記の文言が記されていたのだと考えられる。著者が明言を避けているので訳者独自の解釈は蛇足となる恐れがあるのも踏まえて追記すると、騎士は第三十章末で美容師から受け取った紙片と合わせた後、文言の書かれた一葉のみを手元に残して金一封と共に野球帽に収め、兜の交換に乗じ千代へと移譲したのだろう]
騎士は箒の石突きを目庇に食らった瞬間、驚異的な反射神経で頭部と、更には続けざまにその上半身を、
思うにソレント生まれの彼の大詩人はこの橋上の一場面に想を得て、ガリーレアの騎士タンクレードが、それが密かに想いを寄せていた相手とも知らず、出会い頭に敵の猛将と相打ちになり、膂力に勝った己が槍を折りつつもその切先で異教徒の女傑クロリンダの鉄兜を弾き飛ばしたあの鮮烈な一節を紡ぎ出したに相違ない。(尤もこちらの面頬の下から姿を見せたのは――その花の顔容こそ彼女にも引けを取らぬにせよ――夕陽に波打つが如き金髪でもなければ溢れ出んばかりの豊かな毛並みですらなかったわけだが)[訳註:野暮を承知で追記すると第一回十字軍は十一世紀末、タッソが大叙事詩『
腰でも抜かしたものか、他に通行する車輌が無いのを良いことに《嘗ての小森の石松》はいつまでも地べたに座り込んでいたが、少女の背中越しからでも消沈する様子がまざまざと伝わったらしく、やがて恐る恐る声を掛けた。
「矢張り小生のメットをお貸しするべきでしたな」
「否、腐っても蜂の騎士が己の鉢を脇に押しやって、人の
「ふむ……馬に乗っても便乗はすまじとな」成るように成ったということか。ネクロカブリーオも
「何です?」
「ええっと……《長からん心も知らず黒髪の》」これでは何か言外に匂わせているように思ってか、学士は言葉尻を濁しつつも以下に続けた。「――いえ、《めでたからんこそ》」
「ああ、そうか」そういえばブラドイドの湖畔だかヌマンシアの浜辺だかで袂を分かってこの方、カラスコが無帽のドニャ・キホーテを目にするのはこれが初めてかも知れぬ。花は笑って高欄を離れると、敷石の上で横倒しとなった愛馬を引き起こし、南北どちらかの欄干に凭れ掛けさせた。「捨てる神あれば拾う神……捨てられた髪を追って拾われた紙が今一度それがしの手を離れただけのこと」
「え?」
「先陣の方は追っ付けバルセローナ[訳註;伊勢湾沿岸のことか]に出た辺りですから、サラゴサで槍試合に立った兜がこれより髪の毛に追い付くにゃまだ大分掛かるでしょうて」
「ハァ……」何だか煙に巻かれたようだが余りしつこく訊ねてわざわざ寝た狼を叩き起こさねばならぬ道理もなかろう。「……てっきりアレにフラれでもした弾みで――っと」
「アレ?」
「いえいえ、槍をね、振り回した拍子でご自身の、こう後ろ髪を断ち切ったのかと」
「ふふっ、トボけたことを申される」日本人が長い髪を落とすとなると、それは
「へぇ……小森の石松は卒業しましたけど?」
「然もあろう。然らば
「ハッケツ? はて……病原菌を
「Franco, Franco, que tiene el culo blanco...[訳註:《フランコ、フランコ、その尻が白いのは》。第二十七章を参照するとこの後に《女房が
「訊かれましても」
「いやね上官や親分が居る身でもなし、黒い烏を白い鷺と呼ばせるよな無体に従う義理もないかと思いましてな」
「ああ《白いケツ》ね……ケツなんて言葉を使う子じゃなかった筈だが。羽根を毟ったら存外お尻は白いかも知れませんよ?」学士は臀部を摩りながら漸く立ち上がった。カラスも羽根の根元は白く、地肌は灰色だと謂う。毟らずとも例えば
「ハッケツで構わぬとな」
「ですが《蜂のケツ》と混同されて、高名な騎士を討ち取り名を挙げたい売出し中の若武者どもの標的にされちゃ敵いませんね」カラスコは落ちていた
「針で突かれる度胸があるなら今此処で御覧に入れても宜しいが」
「尻の逸物に刺されておっ死んだ日にはてめえでてめえに読経するのも叶いませんで、今ここではご遠慮いたしましょう」慎み深い学士はそう言って愛馬の許まで戻ると、その場に跪き足回りの状態を点検する。「あちゃあエキパイに……これも因果か」前輪が巻き込んだ
「ふん、出歯亀殿に
「いやだって《ハチのムサシは死んだのさ》って謂うからにゃ、蜂の世界じゃコジローが返り討ちにしてるのかも」カラスコはケルピエの山羊脚を上げると、欄干の側へと押していく。人通りも疎らとはいえ、いつまでも近隣住民の往来を妨げるわけには行くまい。「然もなきゃ負けたムサシたあアベコベで、真白に輝くお月様に喧嘩を吹っ掛け勝ったなんて線もまぁ捨て切れんじゃあないですか?[訳註:一九七二年の楽曲『ハチの~』の歌詞では《真赤に燃えてるお日様に試合をいどんで負けたのさ》とある]……流石に古過ぎる? いや石田ナントカののんき節よかナンボかマシだわ」
「やれやれ夕暮れ前から随分よく鳴くカラスであること!」
「声を嗄らすはご勘弁、《
「¿¡Porqué no te callas!?[訳註:《何故黙らない?》は著者が第二十六章でも引用したフアン・カルロス一世の科白である。尚、ギリシャ系米国人歌手のマリア・カラスの羅/希字表記はMaria Callas / Μαρία Κάλλαςだが、出生名はSophie Cecilia Kalos / Σοφία Καικιλία Κάλοςで、この«καλός»には《美しい》の意がある]」堪らず天を仰ぐドニャ・キホーテ!「これ以上の
「ついでにタマーゴも」対して烏小路は靴裏を敷石に二度三度擦り付けながら、「まあ《灰色狼》の称号はチヨさんがご執心のその……ヴォルフガング?様にお譲りするとしてだ、如何がなさいます?」
「如何とは?」
「とはって貴女……得物を落としたのは両者同時とお見受けいたすが、どうだろうね? 馬を下りたのは小生が先だしカラス公の敗けかしら?」
「はっ、突かれて落ちたのでなければ無効であろうよ」兜を落とされたラ・サンチャの騎士はそう嘯いて体裁を保たんとする。
「そいつは過分なご厚情賜りまして」何処が住み処か定かでないが、《
そうでもない限り説明が付かぬではないか……幾ら白星を上げれば《
立て続けに二台の四頭立てがふたりの間を走り抜け、不穏に漂う沈黙の隙間を埋めた。
「そうじゃな……」ラ・サンチャの蜂は無い顎鬚を扱きながら暫く思案していたが、やがてカルピエに歩み寄るとその鼻先を撫でた。「跨川橋の上でこの
「これまたどうして?」
「此れ又如何して! サラマンドラの
「はて――」学士は仰々しく手を翳すと亀尾城の立つ上流を見渡して、「遠目にゃ見えませんが鉄砲水か水鉄砲でも飛んできますかな?」[訳註:「
「向こうから来ずとも手前で飛び込む落ちが付きましょうよ」飽くまで呑気に構えて憚らぬこの
「――山椒の学士ならば?」
「いや、」嘗ての山椒の従士の姿が頭を過ぎったか?「――ならば、湖沼の水怪たる此奴の本分を忘れたわけではあるまい」[訳註:「
「ああ、胡椒と山椒か……違う、何でしたっけ?」[訳註:「
「¡Ay, pobre escocés escocedor!」花は
「胡麻と山椒だったのね。仰せの通り河馬と呼ばれるのに比べたら川駒の方が可愛げもあるというもの……成る程そういう、」遅蒔きながらここに来て漸く
「然り。九死に一生槍ヶ峰、
「心肝に徹するご忠言――一度臥して従いましたからにはこのサラマンドラ、二度三度と違える気など更々ございません」ではふたり共、次は四本脚から二本足へと乗り換えて、箒片手に丁々発止を演じるつもりなのだろうか?「嘆かわしいといえば小生の川駒が水恋しいのと同じく、ドニャ殿の
「月にとな……はて?」蜂の騎士は首を傾げた。「何だろう、アポロ
「
「それはどうかな? アストルフォならヨハネの山の頂で、彼の使徒自ら用立てた紅焔の四頭立てに乗り換えた筈」宮騎士が天馬を解放するのは地上へと帰還してから尚も先、仲間たちとアグラマンテが治める北アフリカを攻略し、プロヴァンスまで戻った時のことである。そこから如何にして花の祖父の手に渡ったか、その来歴については本書でも語られることがない。「尤もそれがしとて直に目にしたわけでなし、仮令その場に居っても
「はあ然様で……小生が
「
「では当面ドニャ・キホーテも月面を訪れるご予定はない?」
「何の為に?」
「……さあ」理性を取り戻す為以外に動機があるものだろうか?
「餅を搗くならこの地上でも過不足のないことは今し方カラスコ卿が身を以てお示しになられたばかり」《
「じゃあ裏ルートを採れば少しは近道できましょうかね」
「背に乗せた主人の都合も弁えず気紛れで里帰りされたとして、それがしと貴兄じゃ罹るのがせいぜい高山病か潜水病かの差」
「潜水病?」カラスコは眉間に皺を寄せると、何が気になるのか手摺から身を乗り出し眼下の川面を覗き込んだ。
「薄くとも空気があるだけ山の方が幾分救いがあるとはいえ……まあ学士殿は自前の酸素を担いどるようなもんだし、」日本語では
「減圧症を患うほどの深度があるようには見えんが」サンソ・カラスコは何やら妙な暗示に掛かってしまったようだ。「東京まで又何本も長い橋渡らにゃならんのに……はてさてどうしたものか」
「鏡よ鏡――カガミさん?」
「はい……ハイ?」
「そんな
「そこまで像が歪むほど不行状を重ねた憶えもないけれど」強いて挙げるなら、箱根峠で出会って以降――途中何度か見失いながらも決して悟られることなく――このような遠隔の地まで遥々主従を尾けてきた
「今何と?」
「いやね、弁慶の……それは俺か、じゃあアキレスの――もといアキッレ・ボッキの泣き所にアポロン放ちたる矢傷のひとつでもお受けになられたのかと!」
「
「たしかにハートの女王は赤が好きとは申しますけど、間違えて白バラの木を植えた庭師は勿論のこと、誤魔化そうと白い花を赤く染めたにしても結局は首を刎ねられちまうんじゃありませんでしたかね?」成る程白ウサギも他人事ではないという口振り。「まあ日も暮れぬ内からそんなお手数掛けませんでも、夕焼け小焼けに照らされりゃ白いカラスも自然と赤く――あっ」
一旦名駅の方角へと視線を投げた学士が再び
――《
「ちょちょっとおやめなさいって、そんな踵の靴で……」
擦れ違い際に一瞬接触するのみの一騎討ちならいざ知らず、まだ明るい時分に橋の欄干を歩いている姿が近隣住民の目にでも留まれば如何なる事態を招くだろう? 子供が巫山戯ているのなら優しく説教するなり叱り飛ばすなりで落着する一件だ。しかしこの狼藉の張本人が大人――ある程度背丈があれば遠目にはそう映るに違いない――となると酔漢かも知れぬし、迂闊に怒鳴り散らせば弾みで橋から転げ落ちぬとも限らない……そうなれば小言を素っ飛ばして直接
「ホラこここんなに湾曲してますし、こんなの平均台の名手コマネチだって
「
「そりゃ大した
「敢えてクロウ[訳註:英crow]と名乗るからにゃ烏天狗の免許皆伝ってのも頷ける話だ」
「ああソッチ……」義経とは
「その尻白き
「シリアスに[訳註:《
「落ちたら落ちただ」ドニャ・キホーテが支柱の突端に乗った
「そんなパッパラッ――パラッパーな!」
「それがしとて伊達や酔狂で陸揚げされたクラーケンを調伏し、鎌倉天狗の
「おあっ!」
「……ふう」流石に片足で平衡を保つのは些か無理があるようだった。「そら、ククリヒメこと吾が懐中の匕首が口縄よろしく鎌首もたげるその前に、貴兄も早早腹を括りなさるが肝心じゃ。鳥刺しに餅付けらるるが憚られる武蔵殿なら、鬼に金棒弁慶に薙刀、遠慮は不要ゆえ自慢の
「立ち往生やら棒立ちに限っちゃ頼まれずともこの通り、
「山椒魚なら五体投地もお手の物でしょうな」
「でしたら
「カメリアだからと万年も生かされちゃ堪らぬわい」ドニャ・キホーテは《二世》の石突きで擬宝珠の頭を打った。「而してウェールズのマーリンは《騎士自らの手で勝ち取った冠でなくば何ぞ兜に代えて戴く甲斐もあらむや》と得意気に嘯いておったのに、青きフクロウ谷のベルガラスはその羽根を
「誰かさんのお陰でこの目を白黒させてる内にはそれも叶いますまい。十五ラウンド闘い終えて赤青コーナー共に白髪が生えるまで燃え尽きられたら御の字、このままじゃ耳齧られたドラえもん顔負け、ガミラス星人も真っ青なレベルで顔面蒼白歌合戦でさあ」
「ガミラスとな?――神の
「なあに与太も烏も飛ばしてナンボ、侮っちゃいけません。何たって
「言うに事欠いて燃ゆる
「やめやめやめっ! 風見千鳥が屋根上で白鳥の湖踊るというでもあるまいに、フラメンコの長い足は
「ドン・グリコが
嗚呼、ドニャ・
――《
――
上流から吹き下ろされた川風が北側の欄干に空く支柱と支柱の隙間を貫き、手摺に凭れその身を休めるイポグリフォの細い馬体を(又も!)横薙ぎに転倒させた。
サラマンドラは背後で響く騒音に抗う術なく振り向かざるを得なかったが、その横っ面は
いや、玉葱の突端を挟み込むように両膝を引き寄せれば両足で立つことも或いは出来たやも知れぬ。しかし想像していただこう、先ず風を受けて最初に後方――つまり流れている水面上――へと突き倒されそうになったのは彼女の上半身に相違ない。転落を免れる為には腰を折って臍より上を橋の上へと突き出さねばならなかったであろう。となると今度は逆に顔面から石畳に向かって飛び込む方向へと重心が傾く。そのまま落ちるという選択もあるにはあった筈だ。とはいえラ・サンチャの騎士も所詮は人の子、その四肢は反射的に落下を回避する為の手段を講じたと考えられる――一方の足を支柱に残して全身を支え、他方の足は後方にピンと伸ばし、腰を支点として前方に傾斜した上半身との平衡を保つのだ……そう、
否、これは寧ろ
それは扠置きこの状況を理解する為に読者諸賢が公園の
ひとつ問題があったとすれば、彼女の足元に蹴り飛ばすのに手頃な
さて天秤棒の両端が共に時計回り――東側から観測していた場合は反時計回り――に回転したとすると、支点となっている騎士の股関節の可動域が軟体動物並みか或いは骨盤と大腿骨が取り外し可能であるといった特殊な条件でも満たさぬ限り[訳註:腰部と大腿部を繋ぐ各種筋肉の存在も無視は出来まい]、擬宝珠の上で全身を支えていた方の片脚――
換言するとまさにこの瞬間――
立っていたのと同じ位置に背中から落下するとなれば垂直に突き立った玉葱の
しかしながら名古屋城の外堀から川の流れに沿って飛来した気流は依然として伊勢湾を目指していたので、文字通り蝶の羽のように宙を舞い鳥の羽根の如き重さしか持たぬ花の身体は僅かながら風下へと押し流されていた。
尚以て未だ希望は潰えていない……そう八日前の、あの鹿島立ちの朝[訳註:第二章参照]を思い出してみようではないか? 扇風機の風に飛ばされた
……否、遺憾ながらその望みは極めて薄い。解さぬ者は過日の狂態で阿僧祇花が如何様に柵を乗り越えたかを追懐してみよ――軒下を過ぎて舞い上がる紙切れを何とか掴まんと身を乗り出した騎士は、前のめりで手摺に腹を乗せ――バンギャの謂う《布団》である――窓の向こうの寝室に、次いで家屋の外壁に相対する状態で地球の重力にその髪の毛を引っ張られたのだ。だからこそ直立した姿勢では顔と同じ方向を向くのが常である爪先を柵の支柱と支柱の隙間から覗く
だが今回彼女が川面に向けていたのは背中ではなかったか? これがもし前傾していたのだとしたら前面、則ち橋板を覆う敷石の上に落ちるのが道理なのである。
嗚呼さらばラ・サンチャの蜂よ、今やその翅しとどに濡れて再び自由に天穹を翔け巡ることなけれども、河口にて馴染みのネクロカブリーオと落ち合えば、後は
――
落ちた、遂に落ちてしまった……どうだろう? 如何に蜂の翅や蜂鳥の羽が一枚の羽根のように軽いとは言い条、余りに水面との衝突音が控え目過ぎやしないだろうか?
「……ナちゃん! ハナッ!」
さて
「ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ!」
阿僧祇花が
「アタマッ! 頭打ってない?」
今や過剰に行き渡っているだろう脳内の血液へと、遅ればせながら必要な分だけの酸素が十全に運び込まれ漸く最低限の認知機能を取り戻した騎士は、更に一拍置いてから肺の中に溜まった気体を時間を掛けてゆっくりと全て吐き出し、最後に少しばかり噎せた。それから幾度か深呼吸を繰り返す内に、
「……あなあな、
「な、何て? 意識あんなら返事して!」
「いひき?……《いくひあいき》あら――んんッ」ドニャ・キホーテは二三喉を鳴らしてからエヘムとやや大仰に咳払いすると、顎を上げて
「どした? もしもーしッ!」
「いや、橋の
「ちょっとあんまり……動かんでください、幾ら羽根より軽いっても片手じゃ――」
「ハネでございます」
「何だって?」
「何でもない」
「待って、両手で……よいっしょ。これで、何とか」
「うむ……慥かに貴兄が迅速と拙速を履き違え、それがしの腰の辺りにしがみ付いておくれであれば」騎士は兜を失って間もない己の後頭部を擦った。「――この石頭も石柱と望まぬ逢い引きを強いられ、帽子を脱いだ
……そうか読めたぞ! この石橋の側面部は恐らく、
「申し上げにくき、儀ではあるか、小生とて桃尻と呼ぶにゃ未だ熟すことを知らぬ――その気配さえ匂わせることなき
「兄の掴んだそちらのアキレス――もといアキッレの腱は恰も好し、偶さか挫いておらぬ方の泣き所であった」
「それはそれは……余程の
「土左衛門とな?」
「いやですから……場所柄地鶏を吊るす分にゃ何ら、憚ることもないのでしょうが」成る程、名古屋コーチンは日本三大地鶏の一角にして《
「そうじゃな……川波は、」騎士は薄汚れた鏡面が如き流れを改めて見上げた。舐めた人差し指を突き立てたかまでは判らぬ。「――凪いでおるようだけれども」
「今そんな、言葉遊びにかまけてる余裕は……川が凪いでいようが我が
「それは難儀な……天狗の軍手に持ち合わせは?」[訳註:《
「グロ――
「よしどれ……よっ」思うように起き上がれぬ様子。「腹に力が入らぬ。午餐を抜いたからかしら」
「そいつは大誤算、だ。俺なら腹熟しに逆立ちさせられるより空きっ腹を選ぶけどね」こちらも手摺で胃を圧迫され続けているだろう学士にしたってこの時もし満腹であったなら、ボルランドが飛ばした
「試す価値はありそうですな」
「そう云っていただけるとこちらも……でなきゃ遠からず共倒れ――ならぬ共流れ」烏小路は勢いを付けて、片手を引っ張ると同時に他方の手を騎士の膝裏へと引っ掛けた。「――よし。アレは何と言いましたっけ……素っ裸の、イカれたオルランドと一緒に橋から、落ちたアルジェの王は?」
「サラセーノのロドモンテ」[訳註:第二十八および三十五章でも言及があった]
「そうそうロドモンテ……そんな感じ、擦り剥かないようゆっくり」どうやら逆さまドニャ・キホーテの脚部は着々と固定されつつあるようだ。「――あ、逆にそっちの膝引っ掛けてこっちは足付いて踏ん張った方がいいかも……うんそう。アレって王様そのまま溺れちゃったんでしたっけ? 流石に……はいここ、表題役をしてこの最期はないだろうが」
「共に岸から這い上がっている筈です。尤も大口叩きの山転がし[訳註:《
「お手をどうぞ……はいもう一息」
「巻尾にて御両人の華燭の典へと乱入した挙げ句、」午前中にドニャ・キホーテが再会した方の
「ふむ、人間引き際が肝要という良い見本ですな……よし掴んだ、せぇーの!」
「¡Puf!」烏小路が反動を付け思い切り仰け反ると、手摺の裏に押し当てた自身の膝頭を支点として花の上半身がくるりと引き上げられる。
「……ふう、おかえり」
「《一年と一月と一日》」[訳註:«...finché non sarà un anno, un mese e un giorno.»――アリオストの『狂へるオルランド』内で、思い掛けず女騎士の後塵を拝せし己に大層恥じ入ったロドモンテが戒めとして自らに科したのが隠者の
「何です?」
「――でしたろうか?」
「……ああはいはい、一年と
「
「しめしめ……では自慢の羽を伸ばし――開いてくださいまし」[訳註:「
学士は父親がしばしば幼い娘にそうするように、日本人が《
サラマンドラのカラスコが実際ナジル人の
膝より下が
「――ンがッ!」
気の毒なことに
一方のラ・サンチャのパトリシア・モレーノは如才なき着地で
「ぉあっ」
――いや、
とはいえ斯くの如く耳から得た情報のみを頼りに想像するより他に関わりようのない本書の著者にとっては
とどのつまり我等がドニャ・キホーテは、夕暮れの差し迫る晴天の空を眺める体で倒れていた学士の無防備な腹部目掛けて尻餅を搗いたのだ。烏小路参三は
それにつけてもどうだろうか、読者の皆さん? ラ・サンチャの騎士ときたら、空翔ける四頭立て御するヘリオスが一路名古屋の天穹を脇目も振らず東から西へと突っ切るその短い間に、一度ならず二度までも大の男を
「ん……あ、あっ」やっとのことで何事かを語らんとしたサラマンドラだったものの、込み上げる咳気を堪えること能わず、激しく噎せ返ったら返ったで肺の中の空気を粗方追放してしまったらしく更に暫くの間口を利くことが出来なかった。そして漸く絞り出された言葉が、「……ちょっと見ない間に縦にばっかスクスクと育ってからに、そのくせ高校生にもなって弾力の欠片もない、こうも骨張って、極めて軽いのに鋭く突き立つが如き――」
多少は弾力のある
「……こんなんじゃ桃尻どころか、……
そう言い残すとカラスコは息絶えた。道理で、こちらのサンソンにとっての
片や学士の腹に横乗りしたまま呆けていたドニャ・キホーテはといえば一転して――彼の放った
「――ぐはッ!」
彼女の横隔膜の振動は直接直下の尻へと伝わり、然程緩衝効果の見込めぬ臀部がカラスコの肺を激しくそして小刻みに収縮させたお陰で、彼は(
平素の騎士らしからぬ少女の無邪気な高笑いが止む前に、青年は両眼に涙を浮かべつつも何とか深刻な喘息を押し止めることが出来た。但し
「……橋で、転んでも」防護帽の奥で汗ばんだ顔を隠しながら、カラカラに乾いた口唇から力なき呟きが溢れる。「……おかしい、お年頃?」
すると漸く歓笑から立ち直った阿僧祇花は、暫く呼吸を整えてから高々二クビトゥスにも満たぬ眼下で不甲斐なく横たわるサラマンドラの兜へと手を翳すなり、徐ろにその暗い
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