第32章 扱うは是を控えて閲読する者ほど善く見、又此の朗読せしを聴き過さざる者こそ聞く物也
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第三十二章
扱うは是を控えて閲読する者ほど善く見、又此の朗読せしを聴き過さざる者こそ聞く物也
Capítulo XXXII.
Que trata de lo que verá más el que lo leyere menos, o lo oirá el que no lo escuchare leer en demasía.
「Efebo deslumbrante...」[訳註:「目映き若さよ……」]
「成程、《
木陰にて
嘗て半坐千代の仮定した
とはいえ二晩前の深更から未明に掛けてトルデシーリャスの離宮を独り抜け出したドニャ・キホーテが単身でサカモンテシーノスの峠に微睡む
しかしここは前章にてエル・トボソのドゥルシネーアが万葉集――《
《
己の価値は己が知っていればそれで足りるのだ。
ラ・サンチャの恋人が――ラ・マンチャの騎士が固執したのと同じように――己の比類なき
《
その
尤もナザレの聖別されし
それまでは今暫くの間、人鳥が
半坐千代は地上階を一周りしてから自動階段で上階へと向かう。
「チョーさんのハナーハントはおしまい?」一段下に立ったミコミコーナが背後から声を掛けた。「……いやここはプーさんでもいいのか」
「たとえ留年しても退学にゃなりませんから!」もう一年中学生を務めるだけだ。但し黄色い熊の人形のように日がな蜂蜜を舐めて自堕落に過ごす訳にもいくまい。[訳註:日本語の《プー》の用法については第八章にて簡潔な説明があった]「蜜溢るるハニー姫がこの殿堂内におられる限り、ハチーの方から花の匂いに誘われて飛んでくるのが道理でしょうよ」
「あんまり禁欲的だったからこそあんな《激痩せの伝道師》になっちゃったんでは?」数分前に
「
「うっせえな昔は激安だったんだよ!」プーさんならば
「はて……間に合わなくて入口にあった青い水槽の中でしちゃったのでは?」
「マジカよアイツ最低だな」流石に安藤部長が付いていてそれはあるまい。
「でっていう」
「昼飯のタイミングには間に合わなそうだけど」化粧品を手に取り眺めながら御子神は一拍置いた。「――こんまま夜まで合流できんかったらどうすんの?」
「は?」眉を顰める従士。「やいい加減子供じゃないんだから、いくら色々取り込み事あっても夕方前には戻ってくるっしょ」
「ホテルに?」
「ホテルか……最悪現地っつかハコの前にでも」そういえば結局下見には行かないのだろうか?「いいハコ作ろう鎌倉幕府」
「箱物行政かよ、頼朝も最低だな」
「頼朝は兎も角、紙ラードゥンにゃ時と場所も載ってるわけだし」
「ラドンってギャオスみたいな奴か?」
「ちげーよ、ラードンってのは百の首持つクマタノオロチでしょ?」一旦振り返り背後に誰も居ないことを確かめた千代は、段差が無くなってからも依然見下したような口振りで付け加えた。「いい加減怪獣映画は卒業なさいな」
「いや百と九股じゃ十一倍違うじゃねえか……さっきのカエルよかサバ読んでんぞ」
「読んでませんて、首が百本で股が九つ――つまり脚は十本ってことでしょ?」日本神話に登場するヤマタノオロチは《
「いや……ていうか招待も何もてめえで金払って予約してんだろうが」
「心付けですよ」[訳註:より宗教色の濃い《
「お布施だろ――[訳註:西ofrenda《
「えっ何すか急に」
「お姫のリアクションが意外と薄かったから気が緩んでんじゃないの?」
「あ、ああ……それはたしかに、あるかもですけど」朝食を摂った席で従士が戦々兢々としていたのに比べると、成る程今の千代さんは多少気の抜けた感が否めない。「あの温厚柔和なドゥルシネーアがもしブチ切れたら騎士叙任前で
「ザラキってパーティーっつかグループ全員対象じゃなかったっけ?」規格外の記憶力をお持ちの方であれば《岡ザラキ》という謎の単語を思い出されたかも知れないが、一般的にザキという呪文には《
「ドラクエやったことないんで分かりみないっす」
「分かりみないなら使うなよ」更なる
「そういう意味じゃ八つ九つに股裂きされても存外訳ないかもですな」
「どういう意味じゃ」日本では八は
「そりゃそうだが」然様に身勝手な、
「やっだからそこは女優だし」寧ろ彼女の
「内心ヤバいですかね……ヤバトンですかね?」
「ヤバトンキホーテかもよ」ミコミコーナは面白半分に脅しを掛けたが、――
「トンキン湾だろが南京事件だろが、もう放っておくしかないでしょう……チケット持ってる限りまず帰ってこない理由がないんですから」――従士がこう零すのを聞くと、流石に良心が咎めてかこれ以上冗談を言う気にはならなかった。「適当に歩いててバッタリ鉢合わせるとも思わんけど、ホテルに籠もってるよりは確率上がるし」
「せ――やな」
「宝くじだって買わなきゃ当選確率ゼロだかんね……買っても当たんのは一億分の一でしょうが」[訳註:日本で販売されている最も代表的な物を例に上げると、
「それよりかは高いだろ」苦笑する王女。「三百円は無理でも三千円くらいの率なんじゃねえの?」
「買わぬジャンボの当選金算用とも謂う」狩る前に熊の毛皮を売ることは出来ない。「――尚、期限内に十億円を返済しないと東京湾に沈められます」
「それはジャンボ買わずにどっか遠い国行きジャンボのチケット買うので正解だろ」[訳註:《ジャンボジェット》の愛称で知られるボーイング747機は二〇二二年に生産終了]
「いずれにしたって犬が棒に当たったり猫が棒アイス当てる確率よりは低いでしょうな」
「そもそも猫が棒アイス食ってる場面に今まで出会ったことがないが」糖分を抑えたり中毒や
「そもそもの始まりだって、猫が……夏休み中にアイスに当たった[訳註:中った?]ようなもんなんですけど」
「まァアイスっつか棒だな」ここ一週間続いた炎天の下では一分と掛からず氷菓が溶け
「実はこれはこれでカワイイような気の迷いがしてきました」
「おっ、浮気か?」
「いやつうかベートーベンてモーツァルトの崇拝者ってか(原註:モーツァルトが彼の)憧れの人だった訳っしょ?」
「その云い方は多少イラッときますけど……」千代がどれだけ古典音楽に通暁しているかは定かでないけれど、慥かに
「寛大か」もし男に生まれたなら成り上がりの《
「何気にカワイイよねそれ、ドドンキ?」
「あん?……多分」蜂の騎士が独りで買い物に出たとすれば、猫の従士が牛の屋敷の留守番をしながら朝まで独り眠りこけていたあの数時間を措いて他はない。[訳註:第十九章参照。無論花が本当にその数時間を丸々費やし女王の居城から離れていたことなどは千代の知るところではない]
「邪魔だったらカバン中入れときゃいいんじゃん、入んべ?」
「それはそれで邪魔っしょ、バッグ伸びて跡付きそうだし」従士は兜鉢をパンパンと叩いた。
「集合半でもいい気がしてきたわ」ここに留まったところでドニャ・キホーテとの再会に繋がらぬことは我々も承知している。「バブ姫に連絡する?」
「バブ姫て……
階数別案内で目当ての売り場を探し出してから再び機械階段を使って塔の上階を目指した彼女らが、待ち合わせの時間までに三茶女子の演劇部員と顔を突き合わせることはなかったようである。
帰りは昇降機で地上階まで降りてきた
「あ来た」
「おらよ!」
「ちょ何、投げんなし……あっキチーのネキじゃねえか」
「あってめーこらニコニコーナ!」[訳註:順に、久仁子・千代・久仁子・御子神の発言]
「わわ何すか怖いな」顔を見るや闘牛よろしく突進してきた
「結局黒タマゴは仕入れらんなかったからな……コレでチャラだ、ヘッチャラだ」箱根で入ることが出来た商店といえば駅の下にあった釜飯屋くらいのものである。「卵とニワトリ問題的にはコーチンのキチーさんあればモアベターだったんだけど」
「まあシャチも卵くらい生むだろうしセーフっしょ……キャビア?」
「キャビアはサメだろ。シャチは哺乳類だバカ」
「キャビンアテンダントが哺乳類なのは知ってる」
「厳密にはチョウザメの卵でしょうけど」
「おっとバブ姫さまお待たせしました――」ニコの首根っこを捕まえつつも貴人の前での礼節を違えることはない。「何すかじゃねえお前ドゥルシネーア様にあれだけ注意されたのに青の水槽をメローイエローでドスグリーンに汚しやがったな」[訳註:前章の終盤で安藤さんが言った《ドス黒く》は《
「ド、ドスグリーンて何色?」
「ウノドストレスと謂うように、」千代が割って入った。空艇乗船前には青い血は高貴の証だ何だと嘯いていた筈だが……「――お前の血は何色だァつって鋭利なドスで一回二回刺したら緑色だったんでお前はタコ足のエイリアンだったってオチよ」
「エイリアン死んじゃイヤン」
「ミドリチトカゲってのは居るみたいだけど」相変わらず物知りなドゥルシネーアも、そのトカゲがマリファナのヤリ過ぎだったことは敢えて伏せたようである![訳註:《
「そ、それは全身静脈なのでは?」
「酸素を運んでるのがヘモグロビンじゃなくてヘモシアニンなんだって」
「小坊の時に『にんじん』で読みました」[訳註:原題は『
「ルナール」
「なーる……ミコさん普通に痛いんですけど」
「早速暑苦しいなおい」自分で引っ捕らえておきながらこの言い様だ!――とはいえ小猿が懐いているだけかと思いきや存外仲の宜しいご様子。王女はニコの縛を解きつつ以下に続けた。「いや下の階にトイレあったんかと思って」
「はじめチョロチョロなかパッパでした」
「何が?」
「すなわちブルー足すイエローはグリーンか」次いで従士が発した言葉は
「色の三原色だったら黒なんじゃないの」――薔薇色の姫の
「ああそれがドスブラック」それでは
「いやな戦隊ヒーロー……」
「むしろパイプ咥えたヒゲのおっさんの顔が浮かぶけど」
「諸行無糖の響きありね、ミコミコっちほら」四つ目はギネア人を店頭まで誘導し身の潔白を示さんとした。[訳註:声を聴く限りここで御子神嬢を引っ張っているのは千代に思えるが、元々けしかけたのも彼女なので前後の矛盾を避ける為恣意的に久仁子と役割を交換した可能性がある]「青の水槽ドスブラックにもチャーミーグリーンにもなってないしょ」
「あっほんまや」歩道に面した場所に設置された大きな水槽には入店した時と変わらず色取り取りの
「いやまあ中で売ってるだろうけども!」何やら
「アレって手ぇ洗うとこに置くんじゃなかったっけ?」
「ドボンもあるだろ」その手の
「何何?」
「レバニラ味は無かったのでソーダ一択」ミコミコーナは買ってきたばかりの棒付き氷菓が入った可塑性袋を差し出した。
「おお、ちゃんと青い」
「中坊ども溶かして垂らすなよ……ガリガリさん居ない間暫しの身代わりな」ガリガリという擬音には
「ありがたさ、ありがたきしあわさ……姫様も」
「ご馳走になります」ドゥルシネーアも手渡された氷菓の包装を開きつつ謝意を示した。
「姫にはもっと王室の饗膳に相応しい何か――タカノのパフェリオみたいのをご馳走したかったとこなんでござるけど」
「お昼前にそんなの食べちゃったら夜まで断食です」
「そっかもう正午とっくに過ぎてんのよね……冷たっ、もう即行で溶けるわこんなん」傍らの熱帯魚を眺め思案するミコミコーナ。「じゃあこれがサンシャインの水族館だったということで、港はもういいよな」
「イワシ・トルネ~ド!」この娘はどうあっても《
「いやそんな《岩をも砕く乙女の激流》みたく言われても」
「青いですしね」自由行動の間に四つ目と連れ立っていたと思しきドゥルシネーアが水槽に向けていた視線を車道側へと投げた。「もうそこから下に降りちゃいます?」
「やだい、コレのお返しにシロイルカコスのキチーパイセンのをチヨさんにプレゼンツしてお揃いで付けるんだい」けだし
「死んでも付けないから無駄遣いすんな」
「なんでサンチョすぐ死んでも付けなくなってしまうん!」
「――あっ、ちょっどうせだったら」思わず挙手する猫の従士。「さっきのキマシタワー三姉妹の……六兄弟?の長男、下から目線でだけでも観てきませんか。すぐそこですよね」
「そいやエスカレーターのとっからも突き出てんのよく見えてたな」
「駅前のヤツといい名古屋人は尖ってんのが好きな県民性?」指差しが好きなニコニコーナがよもや
「隣の隣くらい?」
「そうですね――南北に縦長の公園みたくなってて、そこに立ってるんじゃないかと」
「名所ならその付近からでも地下鉄乗れるっしょ」実際に
「あれミコさんさっき名古屋には観光名所とかねえとかおっさっとられまへんでした?」
「いや名所ってのは名古屋の場所の略だから」(mei, na=《
「名古屋にあんのに名古屋じゃねえ場所って何だよ!」
「名古屋場所もう終わってっけどな」
「それもさっき聞いた!」[訳註:第二十四章参照]
「……何それ、訳分かんない」
「おっとお叱りを受けた」
「え? あっいやこっちの話でして……じゃあこのまま渡っちゃいます?」エル・トボソが仕切り直す。「こっちも下は繋がってるのかもですけど」
「百メートルかそこら涼む為にまた上がったり降りたりってのもな」慥かにそれでは汗の滴る
大通りの北側を歩くことに依り被る陽射しを忌避し、もう一本北を通る小径を選んで進めば間もなく心地好い葉擦れの音と煩わしい蝉のざわめきがせめぎ合う
「あれ、サンチョ折角買ったの使わないの?」
「何がです?」
「何がってホラ」ミコミコーナが数歩後ろを歩くドゥルシネーアを恭しく指し示す。「直射日光、高温多湿を避け常温または冷蔵庫、冷暗所で保存させていただくべき
「なあに?」不意に聴こえた自分の二つ名[訳註:《
「いやちょっ――おかまいなく」首だけで振り返り会釈してから、猫の騎士は王女に耳打ちするようにして謎の釈明を物した。「こんな明るい内からあのアレ……スキモノポルノ祭りなんて開催できませんでしょうが」[訳註:第八章の《スキロポリア祭》を参照]
「何だよその祭り……バルセロナエロ映画祭ってのは聞いたことあるが」
「何ですかその禍々しい映画祭は」バルセロナならばランブラス通りの
「レッドカーペットでセレブ扱いしてくれんならジャパニーズ・ヘンタイ・スピリッツ見せてやんよ!」映画祭に
「さあ……マドリードまでならあるでしょうけど」[訳註:九八年に廃止されてから二〇一六年までの十八年間、日本-イスパニア間には首都同士も含めて直行便の運航がなかった]
「バルス――エローナ」
「そりゃラピュタも崩壊するわな」
「ふしぎの海のナゴヤ?」[訳註:文脈とは無関係だが、映画『ラピュタ』と日本放送協会製作の慢動画『ふしぎの海のナディア』は元々同じ企画が枝分かれして作品化されたもの]
「あれ?――黒夢とかってまだ……いやだから水族館は行かんぞ?」ミコミコーナは四つ目に釘を差してから横断歩道の前で立ち止まった。「あっ、海はないけど山ちゃんあった」
「オッハー」
「なっつ、十年以上振りだわそれ聴くの。サンチョお腹は?」
「《――
「は?」キケロの――いやキキルキーの言葉だったやも知れぬ。
「いや待つだけうめえってね……」それはうなぎ屋の二階で主従が口を揃えて発した科白である。[訳註:第十三および十四章参照]「スケキヨでしたっけ?」
「何が?――ああ、清春のこと? いやそれじゃ黒夢どころかそれこそホワイトヘッドじゃねえかよ!」ここまで離れては《
「犬山城も別名がたしかホワイトエンペラー城だから白繋がりですね」
「素で間違えたよ……変わった」歩き出す四人。「つかもう全然赤いんだけど。SPF50
「スーパーパーフェクトフォルテッシモ?」
「くどいな……F一個なんだからただのフォルテだろ」
「ピアノフォルテ……スーペルピャーノフォルテかもですね」
「フォルテピアノって昔のピアノでしょ?」バンギャというのもそれなりに音楽史を学んでいるものらしい。「ピアノフォルテってのもあんの?」
「普通のピアノです」
「あそっか、正式名称なんだっけ……もう猫踏んじゃったくらいしか弾けんけど」
「おいおいおいその踵で踏もうとするなよ!」王女が次に繰り出さんとした一歩の膝がいやに高く上がったのを見て、猫の従士も思わず
「――ニャーゴヤ城くらいまでなら足を伸ばしても良いかもですね」さも時機を窺っていたかの如く、ドゥルシネーアが徐ろに呟いた。「……な、何です?」
「いや唐突に姫が猫耳しっぽメイドみたいなおっしゃりようをなさるもので」
「願わくば竜頭蛇尾にならぬよう語尾にまで気を配っていただきたかったですにゃ」ニコは調子に乗ってそう付け加えたが、本来驚くべきところは先刻名古屋城には興味を示さなかった安藤部長が何の翻意があって登城する意欲を示したかであろう。「にゃ、猫の従士殿――チヨサン?ちょ?」
「えっまァ、……ゴビ砂漠に点在するオアシスの水温については知りませんけど、入湯が淫靡にならんようにバスタオルを巻くのも一計とは存じます……」
「何の話をしてるんだ?」銭湯での入浴体験を述懐しているのだろうか?「結構高いな……二百メートルあるかないかって感じか」
「展望台でその真ん中くらいっすかね」
「じゃさっきの弱ペダの倍あるかないかって感じだな」王女の言う通り、巨人が回す車輪の最高到達点は高く見積もっても二百ピエスに満たない。「ニコニコサギーナが見たっつう天守閣はどんくらいだった?」
「天守閣て何すか……ああニャーゴヤキャソー?」馬場嬢は陽射しを遮るように眉の辺りで掌を翳すと以下のように答えた。「キャッソーも見えた時大体目線と同じ高さでしたよ」
「じゃあシンデレラ城と同レベルか」千葉に居を構える
「シンデレラ城て何メートルあるん?」
「いや知らんけど」
「知らんのかいな」
以上のような、或いはそれに類する益体ない会話を交わしている内に、四匹の猫はオディーンの全容が見渡せる公園の前まで足を進めた。
短い横断歩道を渡ると、そこから直に敷地内へと進入できる。
「木陰木陰」一番乗りを果たしたニコニコーナが園内を見渡すや感嘆の声を上げるが、それは
「お前やっぱすぐ池袋帰れよ。次の新幹線調べてやっから」御子神は手を扇子代わりにして火照った顔を扇ぎながら以下に続けた。「ちょっと座りたいわ」
「だったら北側の方が陰になっているかもですね。座るとこあるか分かりませんけど」
塔の北側といえば昨夜ドニャ・キホーテ(とドン・ジョヴァンニ)が水禍に遭った地点である。正確な位置関係は想像の域を出ぬとはいえ、流石に夜明けから一切
「あ、じゃあゴミ回収します」先程から手に持っていた可塑性袋を差し出す千代さん。従者の
「ハズレ」
「あれミコさんの棒に何か……ア、パズレって書いてますよ」
「ふうん。じゃあアパズレと交換してきて」軽くいなすギネアの王女。「……れ、アパズレだっけ? アバズレじゃなかった?」
「――えっ私?……お婆さんだから阿婆擦れじゃないですか?」何と!……姫が口にされて良い言葉ではありませんぞ![訳註:《
「アバズレやレズバアにはくれぐれもご注意くださいよ」横目でミコミコーナを盗み見る千代さん。「……あ、ニコが死んだ時の為に一応一本は捨てずに残しとくか」
「と、当分死なんよ俺はっ!」
「墓標がアイスの棒なのはいいんだ……」
「ささ部長姫、今度は名古屋タワーを見上げつつ英語で一句」
「何でよ、私別に英語得意じゃないんだけど」これが謙遜でないならば、彼女の流暢な発音は女優ならではの類稀なる
「はいミコさん日本語で」
「もうめんどくせえしここで昼飯食ってく?」
「えっまたカフェ? どうせだし名古屋めしにしようよ!」意外にもこう要請したのは従士ではなく四つ目のニコであった。
「おい」[訳註:これは無視された安藤さんのツッコミである]
「さっきお前もシロノワールちょっと食ったでしょ」
「それ東京でも食えっから!」
「それ言ったら大抵の名古屋めしも東京で食えんでしょうよ」嘗て筆者は学生の時分、カナリア諸島産の
「……でも何か混んでるし」
「猿って書いてるからメガネザルなら顔パスなのでは?」[訳註:二〇一五年当時、名古屋電視塔の一階北側には猿
「ムキーッ!」若しくは在りし日の
「いやチェーン店だったらそれこそ新宿とか渋谷でも食えるだろ」
「三茶では食えないだろ!」
「ママに作ってもらえばいいじゃん」馬場夫人の
「ミコミコーナ様は矢張りこちらの物見にご興味がおありなのですか?」
「いや別に――」
「ババと……ほっかむり?」
「ほっかむってはねえよ」まさかとは思うが、千代さんは天下の往来を堂々兜を被って闊歩してきたのだろうか?――もしそうならば、嘗て自宅の前に奇態な様相で現れし主人を咎め立てした従士がまさに
「だったらしっかり被りいな」
「暑いよ」……流石に頭上に戴いてはおらなんだ。尤も連れの一人が珍妙な風体をしていたら、それこそ残りの三人が同行を拒むであろう。「リカにおかんむりなのを正さずとはタカラトミーの言でしたでしょうか」
「誰がお冠なんだ?」
「……ピエールでしょうか?」ピエールとは《
「リカちゃん何したんだ……朝帰りとか?」
「宙返りじゃあそこまでブチ切れはせんでしょうしな」それでも我等が蜂の騎士のように如才なく着地できる[訳註:第二章で半坐宅二階に位置する千代私室の露台から転落した件を参照のこと]のでもない限り嫁入り前の愛娘に首の骨でも折られたら堪らないし、父親としても説教のひとつくらいならするだろうか。朝帰りからそのまま嫁入りされてしまうのとどちらに利があるか、
「だども倍高ければ今度はじっくりニャゴヤ城観れるんじゃないの?」喫茶空間での昼食は忌避したニコニコーナであったものの、
「じゃあまたお一人様五百円以下だったら上がってみる?」
「えっオゴってくれんの?」
「いやオゴらんけど」
「じゃあいいや」
「名古屋城なら中学生以下入場料無料みたいだけど」携帯画面を弄りながら、エル・トボソがぼそっと呟いた。
「えっマジ? マジカルミライ
「2015」
「チヨさんチヨさん!」四つ目が相棒の二本の腕にしがみついてせがんだ。「やっぱ行こうぜ! タダより高いものはないとも言うぜ?」[訳註:前章でこれとは似た表現を英文に訳していたが、ここでは《
「引っ付くなて……ニコほんま高いの好きな」自身が
「湯けむりのように消えた蜂の騎士殿の子分なのに?」[訳註:《
「蜂の子は毛虫というよか芋虫でしょ」
「ねえ行こうよ~一生のお願い!」
「前から不思議だったんだが、お前の一生は一体何回あるんだ?」
「《一生のお願い》が《一生に一度のお願い》だと、人類は一体いつから思い込んでいたのだろう……」[訳註:「《
「……納得できる」
「サンチョさっきメンドーサが勝利したとか云ってなかったっけ?」[訳註:第二十九章では旅舎を発つ直前、千代が面倒がって名古屋城への観光を渋る件があった]
「誰メンドーサ?」
「メンドーサ知らんとか!」Mendozaといえば
「……そいつはどうですかね」面胴小手とはそれぞれ
「何だうどうんて、あんかけスパか鉄板ナポだろいい加減にしろ」スパとは
「誰がメスガキや」[訳註:本坂峠の破落戸や岡崎の女王の口からも聞いた単語である]
「まァラーメンって天気ではないが」ミコミコーナはオディーンの鉄骨を透かして南の空を仰ぎ見る。「日除けにすんにはスカスカ過ぎたか」
「スカートからしてスカスカって痴女ですな」電波塔は
「それはナナちゃんだろ」否、午前中に邂逅した彼女は男装していたのだから、王女の返答も今日に限っては謂れなき中傷と言わざるを得ない。「おいメガネあんま遠く行くな」
馬場久仁子は子供らしく尖塔の北側周辺を駆け回っていたが、それを目の当たりにした千代さんは
硝子張りの珈琲店を遠目に覗き見るエル・トボソ。
「一応中入ってみます?」飲食店以外に
「こういう店は下手に入ると気付いたら奴に大変な物を盗んでいかれるので怖いのだ――貴女の時間です」
「あっ、ミヒャエル・エンデ」それは
「ネバーエンデングですよ……っと、ここまで戻ってきちゃうと北っ側まで行った方が駅近そうだな」
「めっさヌーディストに囲まれて焦った!」
「あの通りが多分さっき改札前まで行った駅と同じ路線ですよねあれが桜通なら」
「うん国際ナントカ駅の隣くらいっしょ」あの交差点から西を向いてどのくらい歩いたかといえばせいぜい二十分ばかりだ。「――あっでもシュロスニャゴヤ寄ってくんだっけ?」
「シュロス……」――シェーンブルン。
「うん、チュロス食いたい」
「だーチューチュー鳴いてる国に帰れよお前は」[訳註:《
「
「じゃあうちらも下手に安いランチ食わんと御殿でご相伴に与りますかねえ」縦しんばニャゴヤ城主の歓待を受けたところで、
「じゃあ何時にヘアリーテイルホールの入口で待ち合わせとか言って……チヨさんドニャキ様は携帯はなくても時計は持ってんの?」[訳註:東京ディズニーランドには《シンデレラの
「何だ
「ドン・キホーテの時代に時計はねえだろ」慥かに懐中に仕舞える程度にまで小型化されたのは十七世紀以降であろうが、機械式時計そのものの基礎技術ならば
「アッバウトだな!」時刻の正確性以前に方角を正確に把握する必要が生じる。「砂時計なら持ち運びも楽なのでは?」
「いちいち引っ繰り返すのかよ! それこそクッソ面倒さ!」
「《ナントカ発祥之地》……ミコーナこれ何て読むの?」
「何……無理やり観光スポット探さんでいいよ長居しないんだから」王女が一旦歩速を緩めながら四つ目の携帯を覗き込んだ。「――《蕉風》だろ、お前さっき自分でバショーンとか言ってたじゃんか」
「しょうふう……あ分かった、野口英世」
「何どういう意味?」
「多分北里柴三郎って言いたいんだと思います」
「ん?……ああ、もうツッコむのも面倒さ」
「――あ、花時計」不意に千代が足を止める。[訳註:第二十二章で花が時間を確認したのが、久屋大通公園内の電視塔北側に設置されたこの花時計である]
「ほらサンチョ勝手に止まんな」
「あっミコさんアレってあっから下に降りれんじゃね?」公園と公道を隔てる木々の幹の間から覗いた地下街への入口を発見するニコニコーナ。
「魔人ブウ?――おっマジンガーV」
「いやゼットだろ、――」彼なら今はタラゴナに居るぞ!「もしくはオロナミンV」
「アリナミンだろ――どうでもいいよ、サンチョ」公園内を北上し直接桜通へと出る進軍を中断した先頭のミコミコーナは、少し引き返して西側から退園する経路を選択すると、独り出遅れて立ち止まったままの千代を再度追い抜きながら言った。「何、やっぱ上りたいの?」
「大丈V?」
「……第八章――の地」
「こら縁起でもないこと言うな」
「は?……セーラーVちゃんがどうしたって?」
「何が大発症すんだよ、鳥インフルか?」[訳註:奇しくもこの翌年、市内の東山動物園内にて飼育されていたコクチョウやマガモ等から
「鳥インフル?……じゃあ豚はペスト?」[訳註:西語訳では手羽先や味噌カツの文脈を無視する代わりに隣の花時計と絡めて、花の都
「それブダ――ペストな、行くぞ」[訳註:第二十五章以降度々ほじくり返されるナナちゃんへの性的嫌がらせを行灯袴姿の女性に見立てた電視塔へと置き換え、「お前が覗いてるのは
「はぁ……行ってみたいなブダペスト」[訳註:倒置を用いて《
「でもウィーンには来れたでしょ?」腰を屈め従者の傍らに並んだドゥルシネーアが、上目遣いに電視塔を見上げながら些か悪戯っぽく笑った。「さっきのが《
「来週には大阪に移動しちゃうウィーンですけど」
「……た、たしかに」
「何が起きても気分はへのへのかっぱだろ!」なかなか来ないふたりに痺れを切らした床屋の娘が、再度公園内へと侵入するや堂々と言い放った。
「いやヘナヘナだったじゃんかさっきの河童は」……とここで、今し方自ら何気なく口にした《第八章》と沼津で遭った水禍が頭の中で結び付いた従士は――そもそも《
「雨乞いか。ライブも――ミサね――も屋内なんだし」
「仰せの通りで……ドゥルシネーア様を拝んでもアメ違い、アマ違いとは存じますれど」
「といっても飴玉降らせる能力もございませんけれど」それでは
「東京じゃ夏場駅前とかでたまに見かけますけども」屋外に設置する
「ミストもシャワーもラーメンの湯気も、メガネっ娘には嫌がらせだぜ!」
「あっそ」
「あの~、偉大なるミコミコン王国の王位継承者先輩がお待ちなんですけど~」
以上のような遣り取りが、ラ・サンチャの誇る我等が蜂の騎士に新たなる異名を付与する由縁となった歴史的な場所[訳註:勿論これは第二十三章に記された、昨夜電波塔の展望階から投下されし水風船に依る爆撃を、その直下にて偶然出逢ったばかりの騎士とセビリアの紳士の二名が被ったあの事件の現場を指している]から僅か数歩と離れておらぬ地点にて交わされたという
再度狭い横断歩道を渡ると程なく
「――突き進んだランスの穂先が突き刺さるような風車の帆は張ってなかったけど」階段を下りながらドゥルシネーア姫が口を開いた。
「はい?」
「ロシナンテなしで突撃はしないか」尤もドニャ・キホーテにとってあの白き日傘は馬上では
「まァでもサンシャインの真ん前にドンキがあって、今度は名古屋タワーの前っつか下には花ちゃん時計あったのちょっと笑ったな」
「時計の針はほぼほぼ北向いてたっぽいすけどね!」
「ハリー・ポッターの賢者タイムだったんだろ」
「ポッターどっから来たよ!……北だけに!」
「どっからってJ・K・ローリングの脳味噌からだろ」
「女子高生の分際で億万長者かよ!」察するにJKは《
「だから私は書かんから!」
「考えてもみ、花の印税生活だぜおい!」親友の背中を勢い良く叩くニコニコーナ。「これで高校進学しないでも食ってけるじゃんかあ」
「おーいおいおいおい」
「この名城線と桜通線というネーミングはいいな分かり易くて」アフリカの王女が改札口の前の表示を見上げ感心の唸りを上げた。「そのふたつ以外興味のない我々にとっちゃ」
「ちなスイカ使えんの名古屋って」
「使えるようになったらしいぞ、パスモも」[訳註:全国の主要交通系集積回路埋込式運賃支払券相互利用環境の提供は二〇一三年春より開始されている]
「あっほんとだ通れた」《
「うっざ」直ぐ側の自動券売機へと走る千代さん。従士が公共の交通機関を利用するのは実に六日振り――箱根と三軒茶屋を往復して以来――である。[訳註:第六章参照。この時の二千五百円近い往復運賃は、恐らく主人の財布から支払われている]
「名古屋のスイカは何ていうの? メロン?」
「別にメロン名産じゃねえだろ」愛知県で全国生産量第一位の果物は
「ナゴヤカ!」
「三文字に収めろよ」ミコミコーナは今通過したばかりの改札機の外に立つ柱を指差して以下に続けた。「そこの裏に一覧みたいの書いてあったぞ」
「ちょっ、チョーサンチョーサンチョーサンチョ、ハリーアップ!」
「うっせえぞ恥ずかしいな」千円分入金した千代さんが、
「こっち来る前にそこに名古屋のスイカ何て書いてるか読んで」
「いやどれか分かんねえよ……端からマナカ、トイカ、キタ――」
「マナカだマナカ、思い出した」浜名湖が齎したマナであれば蜜の滴ること熟れた西瓜にも劣らぬ筈だが、主従が口にしたのはより滋養に富んだウナギだったことを今更ながら読者諸賢も回顧せずにはおられまい。[訳註:第十四章では湖岸に到着する直前、嘗て神の降らせた超自然的食物マナについて騎士が言及する場面があった]
「ああっ、はいはい小倉トースト的な」
「マだっての。日本の真ん中って言いたいんだろ」(manaca=el centro)
「真中!……かしこまかしこま」
「外じゃないんだからボリューム落としなさいて」電子音と共に無事改札の中への進入を果たした猫の従士が、天井の低い地下道に響く少女たちの高い声に眉を顰め云った。「お里が知れるぞ」
「人待たせといてこの言い草」
「お待たせしまなか。これこんまま降りていい感じですか?」
「多分、ハリーポッターン押して」昇降機の前に立つ四つ目に指示を下すミコミコーナ。直ぐ下が南北に伸びる名城線、もう一階下がると東西を貫く桜通線が走っているのだ。
「願わくばハーマイオニーと呼んでほしかった」
「ハーマイオニー要素ゼロだろ」強いて言えばニコもエマ・ワトソンも性別は辛うじて同じである。
「ハアアアア?」
「ハアアアア!じゃねえよプリキュアかお前は」
「ゼッタイニマケナインダカラァアァアァ……キュアポッターン押します、押しました。ポッターって何だそもそも」
「ポットを作る人じゃないの? ティーポットとか……ねえ?」
「陶工というか、陶器職人ですかねポッターは」しかしドゥルシネーア、
「来た……ああ、それでこいつ《針は北向いてる》とかホザいてたのかさっき」
「ホザイてたとは何だ」四匹の猫は箱の中に乗り込んだ。「名城線のホームでいいんすよね……《タンホイザー》って何だっけ、洗剤の名前?」
「スパロボだろ」因みに『
「ワーグナー?」ドニャ・キホーテがこの場に居合わせなかったのは不幸中の幸いだが、出来れば想い人の帰還を待ち侘びるエル・トボソの姫君の耳にも入れずに済めば尚のこと結構な騎士の名であったことよ![訳註:騎士にして吟遊詩人のタンホイザーは恋人を放ったらかしにして故郷を離れ、異世界にてヴェヌスとの快楽の日々に溺れた。この歌劇の原題には《
「時は北と言わざるを得ない」
「いや、得る」
「うるせえ……じゃなくて、《マイ・リトル・ペンギン――》?」
「My little ceramic penguin in the study always faces due south.」
「そうセラミック・ペングイン……時計の針だって六時半くらいになれば大体南向くんだろうけど」そうなると最早ミサの開演直前ではないか……悠長に街をブラついていられるのも今の内である。「市役所・大曾根方面で合ってんのかな、ニャゴヤ城の最寄りは?」
「名城前じゃないの?」
「京王線じゃねんだから……あっでも名古屋だと名古屋大学が名大になんのか」名大・名駅・名港と、名古屋と名の付く場所や機関は大概省略されてしまうのだと謂う。但し東日本に住む者にとって《めいだい》とは明治大学を意味する。
昇降機が名城線の乗り場に到着したのと、北向きに走る列車がその前を通り過ぎ、吸い上げられたエスパゲーティスの麺のように遠く暗穴へと吸い込まれるのがほぼ同時に起こったこともあって、元より時間を持て余していた少女たちは特に悔しがるでもなく次の一本を待つことにした。
待ち時間は四五分といったところだろう。
「部長部長、さっき言ってた《ナントカの盆踊り》って何でしたっけ?」
「ナントカの?……ああ、死霊の盆踊り?」
「《死霊の久屋踊り》」四つ目が壁に掲示された駅名の
「お前は思い付いたことをそのまま口に出さんと気が済まんのか」日本語で長母音を書く場合、例えば[o:]だとカナ文字では《ou》又は《oo》となり、
「あっ、最寄り市役所駅になってる」
「隣かよ!」ニャゴヤ塔とニャゴヤ城は予想以上に近かったようだ。「地上歩いた方が早かった可能性も微レ存……おっと死語になってから初めて使うケース」
「いやでも地上歩くのは暑いっしょ」[訳註:但し久屋大通~市役所駅間の距離は栄~久屋大通駅の約二倍である上に、市役所駅から名古屋城正門まで今度はほぼ同じ長さを徒歩で歩かねばならない]
「まァ屋根は欲しいけど……そいや雨乞いがどうとかって何だったの?」断片的な科白のみを聴き取っていたギネアの王女が従士に訊ねた。
「や別に……ちょっとぐらい雨降ってくれたら気温も下がるかねっていう」
「いやむしろ蒸すだろ」
「蒸すか」慥かに
「そこまで高度あったら逆に寒いだろ」
「積乱雲の中ですもんね」
「さしもの豪傑ドニャ・キホーテとて入道雲相手じゃ歯が立たない――つかお尻の針が折れてしまいましょうな」入道とは
「壁にハナありと申し上げましたろうに!」従士は駅名の掲示や広告の他は一面敷瓦張りされた乗降場の壁面を小突いた。[訳註:前章では《
「お前が云ったのは障子だろ」元になった日本の諺は《
「いや、口が臭かったら――痛い」
「花アリといえばバブ姫様は『花とアリス殺人事件』って観に行った?」[訳註:二〇一五年二月公開の日本映画]
「観に行ってはないですけどアニメなんですよね」
「そうそう。ロトスコだったけど」
「実写版で高校生演った女優ふたりが十年経って今度は中学生?役の声当てるっていう」
「まァ流石に実写ではキツいだろうしな」成る程声優であれば子供が老人を演じることも、その逆とて不可能ではない。尤も
「ん~小学校入る前くらいだと思うので映画館では観てないですけど、多分ずっと後にテレビで放送されたのを視てるんじゃないかと」
「話憶えてる?」
「朧げに……でもああいう自分の変態っぽいというか、薄気味悪い感性というか妄想というか――嗜好?を仕事に活かせるって理想だなと思いますね」
「嫌な感想! だがそりゃそうだ犯罪者になるよりはな!」ルイス・キャロルも
「何言ってんだアンタ」猫の従士が呆れた声を上げた。「うちのドンナの好きな人といえばこの方一択でしょうよ」
「とりあえずドニャキとハナ様は分けて考えろよ」
「私も別にあの子の全てを知ってる訳ではないですけど……」安藤部長は暫し首を捻った後、次に反対側へと首を傾けるや
「じゃあレンちゃんと好きな男を取り合ったとか?」
「……なんかゴッチャにしてます?」
「いやいやそういうんじゃなくて、単純にキッカケというか」果たして気の触れた契機だろうか? それとも学校に来なくなったことの?「海辺で大喧嘩したとか」
「海ですか?」
「――海といえば」おお千代さん、何故口を挿んでしまったのか?……ともすればドゥルシネーアが電話で話していた事柄の
「違うだろ。雨は天の川のアマと一緒なんじゃねえの」天の川とは《
「海のミは水のミだとも言いますね」
「海でも川でもいいけど、アマデウスだのアマテラスだのって暑苦しい連中は雨水と一緒に流し去ってほしいものよね」
「壁に耳ありだとあれほど!」
「チヨさんチヨサン――」携帯にその四つ目を落としていたニコニコーナが徐ろに従士の肩を叩く。「メンドーサってあしたのジョーのラスボスだった」
「……お前ほんと自由な」一緒に液晶画面を覗き込む千代。「あしたのジョーってアレだろ、何かスネ夫ヘアーの人だろ」
「スネオヘアースネ夫ヘアーじゃないしな」
「それ言ったらワカメさんだって!」――
「氣志團もスネオ夫ヘアーに入りますかね」王侯貴族の子息が――地位を追われ僧院送りにでもならぬ限り――その権威の象徴として、或いは
「スネ夫のってリーゼントだったのか![訳註:
「雨の日は傘代わりにもなんじゃないすか」
「いやそこはマジモンの傘差してても湿気でデローンてなっちゃうっしょ」
「何その、綾小路のツッパリ具合で今日の天気が分かるみたいのは」
「ツバメじゃないんですから」《
「ロンドンとか雨ばっかのイメージあっけどパリの天気ってどうなの?」
「さっぱり分かりません」ドゥルシネーアは――今まさにそうしているように――エル・トボソ村を出たことはあっても国外を訪れたことはないのである。[訳註:エル・トボソはトレド県に実在する町だが、言うまでもなくここで言う国外にはイスパニアも含まれる]
「北緯的に日本と被るのってイタリアとかスペインか」
「ですね」[訳註:大まかにはイベリア半島やシチリア島の南端が東京と、イスパニア北部のバスク州ビルバオや仏マルセイユが札幌とそれぞれほぼ同緯度]
「まァ地中海性気候とかで全然条件違うんだろうけど」日本も温帯に属する面で共通しているものの、夏季は尋常でなく多湿だと聞く。「あれワイン畑とかさ、何だっけオリーブ?とかってあんま雨降ると駄目って話あるよね」
「ああ、ブドウの栽培面積はイタリア・フランスより多いって言いますねスペイン」尤も作付面積と生産量は必ずしも比例しない。「降水量多すぎだと実が水っぽくなったり、あと農作物が病気になりやすいってのはあるのかな」
「そりゃ《太陽と情熱の国》なんだから雨なんて降らねっしょ!」我等が
「《The rain in Spain stays mainly in the plain.》」
「おっ?」
「――いや平地以外でも降るでしょうけど普通に」《
「知ってる知ってる、アレだオードリー・ヘップバーンの」
「レーニンはスペインじゃなくてロシ――」
文脈を無視した――そして前掲のトロツキーとスターリンを引き摺った――馬場嬢が的外れな反論を物したところで、四人の前に市役所駅行の電車が滑り込んでくる。
「――ぁらぁ英語なんてなあ所詮鳥類相手にピーチクパーチクさえずり合う為の、まァいわばバーディーランゲージに過ぎないんすよ」[訳註:浜松のカラオケ店内にて花から教わった、カルロス一世の発言とされる些かブレの大きい言語論については第十三章を参照されたい]
「またB地区の話戻ったか思ったわ」ミコミコーナは下車すると同時に先を歩く猫の従士の後ろ襟を掴んで引き戻しながら以下に続けた。「ちょい待ちあれ乗れそう……そのバードにはペンギンも含まれますか?」
「そりゃペンギンもペリカンも、ペンタギンとて含まれましょうよ」
「焼き鳥は?」馬場久仁子はこれから口に運ぼうという
「A5というからには地鶏とかより対和牛の言語なんじゃないのか?」
「そこはせめてオージービーフにせえや!」無論読者の中にもご存じの方があるように、日本人が
「バカだなメガネザルは……カールおじさんが神聖ローマ皇帝だった時代だぞ」日本人は猿扱いされているという
「じゃあ何語がどの動物に対応してんだよ」
「はい?」自動昇降機が起動し少女たちを上階へと運ぶ。
「桃太郎だってキジとしか話通じないんじゃ鬼退治で困るだろ」
「いやそもそも桃太郎英語とかしゃべれんでしょ」
「おい、じゃあどうすんの?」
「……そりゃあれは居合わせた犬猿雉が、偶然どいつも日本語しゃべれたっていうレアケースってだけで」或いは桃太郎が動物とも交信できる
「そ、それにつけても奴はカール……大帝?」
「それ多分シャルルマーニュじゃなくてカール五世の方だよ」チヨさんの愛驢の不在に託けて不平を言うわけではないけれど、八世紀まで時代を遡られてしまうと
「流石は教養あるドゥルシネーア様、
「なんで食用限定?」
「ドイツ人は馬食べませんか?」
「いや……大切な足を食べちゃ駄目だとは思うけど」安藤部長も返答に窮した。「――
「唐突に姫が陰惨な話をしだしたんですけど」スターリングラードで食材となった数十万頭の馬匹の魂が安らかに眠りたまわんことを!「そもそも何が鳥なんだ……これどっち?」
「7番出口って書いてますね」
「名古屋城の下ダンジョン(原註:日本では一般的に
「なるほどそこで男女が密会を――」
「ないでしょうね」名古屋城は七十年前の空襲で大部分を焼失している――と謂うが、地下であれば或いは?「いや方角的にはもしかしたら
「ルート上に?」
「いや何でも」ドゥルシネーアは己の妄想を振り払って以下に続けた。「当時はイングランドなんて小国ですし、国力的にはスペイン語の影響力が強かったんじゃないですか? ラテン語は教養人のみにしても外交なんかはフランス語主体だったでしょうし」
「こっちも歴女なのか……で鳥要素は?」
「う~ん……眼中にないというか、ヘンリー八世を籠の鳥程度にしか思ってなかったか」
「ダンジョンといえば」年長のふたりの会話に割り込む猫の従士。「――ドラゴン相手に語らう言語ともおっしゃってましたよ」
「誰がおっしゃってたんだよ」ドニャ・キホーテである……いや違う。
「ドラゴン……あっ、デ・アラゴン!」勘の良いエル・トボソが階段を上がりながら俄に得心した。「キャサリンじゃないの?」
「えっ、ハゲてる方の王子とくっついた?」それは
「ほら世界史でやりませんでした? ヘンリーが離婚しようとして教皇に破門された――」
「あっ、ああ……ヘンリー王子って弟の方じゃなかったっけ?」
「マンフォオールシーズンズ」[訳註:ここでのmanとは
「フォーシーズンズ?」
「……私の説明が拙かったですが、」無実のドゥルシネーアが頭を下げる。「とどのつまりワシントンの桜の木みたいなもので、こういうのは基本後世の捏造というか創作ですんで――別に膨らませる必要のない話題でした」
「――要約すると鳥類とか爬虫類とか、哺乳類まで進化できなかった連中の言葉ってことですから」推し量るにどうやら模試を控えた千代さんは、名城線の車中にて(恐らくミコミコーナから)英語の堪能なドゥルシネーアに教えを請うよう諭されていたのであろう。どっこい従士の方とて実際には港で独り英文を口遊む程度には《
「いやそれは間違っちゃないけどお前にもダサいとか分かるのか?」
「外人が意味も知らんでアホな漢字Tシャツ着てクールジャパンとかイキってるようなもんでしょうが」[訳註:イキって≒《
「イキってんのはクソ寒い文化庁の役人どもと今のお前だろ。いきりや長介かよ」[訳註:但し《涼しい日本戦略》の実質的な戦犯は経産省とのこと]
「誰すかチョースケて。イキリス人?」
「何も無邪気に異文化を楽しんでる外人さんにまで飛び火させなくても」槍玉に挙げられた異人らに代わって肩を竦める心優しいエル・トボソ。
「それ云っちゃったらお前アマデ――でぁあっつ!」路上の噎せ返るような熱気に目眩を催したギネアの王女が、階段を最後まで上がり切る前にその両脚を躊躇させる。「アマ……甘々と稲妻、アメアメーナ様ひとつ雨乞いの方を!」
「この飴甘えな」
「幼児レベルの食レポ来たこれ」ミコミコーナを追い抜いて地上に這い出たサンチョが振り返りざまに感嘆の声を上げた。「何だこれ、奉行所駅だったのか?」[訳註:市役所駅の7番出口は高麗門を模した意匠で、瓦屋根と筆書きの駅名標が堂々たる風格を醸している]
「アメアメって……もうそれキャンディキャンディじゃないですか」しかもキャンディス・ホワイトは
「駄目よ姫、そこは大人の事情でキャン――オキャンティスキャンティとかに差し替えとかないと」手扇子で額を扇ぎながらアフリカの王女も顔を出す。「うおぅ、何これここ絶対名古屋城の出口つかむしろ入口っしょ!」
「オキャンティ・スキャンティ……漫才コンビかな?」
「スキャンティ(原註:scantiesとは
「えっ逆じゃないの? スキャンティが死語っつんなら分かっけどオキャンティて中高生が使ってる言葉じゃないのか……」[訳註:恐らく御転婆を意味する《
「いいからどういう意味だよ」
「……酒呑みの女」慥かにイタリアでの[訳註:『キャンディ・キャンディ』の]人気は凄まじかったと聞くが……[訳註:伊
「中高生がどういう文脈で飲んだくれ女に言及するんだ!」
「それこそ《
「ほらサンチョ見てみ、この日向と日陰の白と赤のくっきりした境界線を!」
「いや白と黒ってんなら分かるけど」尤も中南米には
「姫の本日のお召し物はスキャンティ・ホワイトであらせられますのか?」
「……ご想像にお任せします」本人にそう返答されては、
「いっそスパとかスーパー銭湯探して一汗流しつつ」静岡ならまだしも、名古屋の街中でそうそう
「ミコン姫がそんな世迷い言タンホイザーしてる間にまた
「なんだティッティって、ネフェルティティ愚弄する流れ?」
「いや我慢してないて」MontittiとはMoncicciつまりMonchhichi[訳註:英字表記だとchicchiやchitchiではなくchhichiと綴るようだ]のことだろう。チッチは
「なんだてぃってぃとって」
「てぃってい?」[訳注:《トゥッテ(伊tutte《全て》)い》<《とうと(尊)い》]
如何なる強行軍を以てしたとて十分前[訳註:実際には殿堂を発ってから三十分以上が経過している]に摂取した氷菓がよもや口腔から膀胱までの長い旅路を既に踏破したなどと言われても俄には信じ難い。それは兎も角三人は、ニコの発汗を促す為にも勇んで
大津通沿いの歩道に立った四つ目が不意に奇声を上げる。
「なっ!」
「何? 漏らした?」
「いや漏らさんすけど……」車道を挟んだ対岸を指差す
「えっナントカ通りのこっち側つってなかった?」
「ババちゃん多分あれ市役所」
「アレが!」成る程、馬場嬢が観覧車の巨人の拳の中から遠見した天守は名古屋市の庁舎だったようである。こちらは戦禍を免れたのだろうか?[訳註:屋根の輪郭が名古屋城の天守閣により近いのは、市庁舎と同じ番地の南側に立ち、同じく城郭風の意匠を施された愛知県庁の方だ。但し金鯱および四方睨みの鯱が瓦屋根に設置されているのは市役所の頂部。それらは隣接している為、ニコが実際にどちらを指したかは不明である]
「いやニャゴヤ城の正体見たりじゃねんだから」嘆息するミコミコーナ。アメン=ラーの下を数歩歩いただけで息が上がっている。「こちとら枯れ尾花には用がねえんだが」
「じゃあ姫の彼氏のハナ先輩登場まで恋バナでもしますかね」いち早く興味を失ったメガネが一体を見回して言った。「……つってこれどっち向かって歩くのが正解なの?」
「ここ公園?
「――そしてアホな漢字Tシャツの外人」
「いやアレ外人か?」ミコミコーナが目を細める。「
「こら、人に向かって指差すの止めなさい」
「姫部長あの人達にニャゴヤ城どこか訊いてきてください。英語で」
「やだよ恥ずかしい」
「お前がヘイファッキンサノバビッチカムウィズミーとか言って案内してこいよ」ミコミコーナが
「あっ!」
「何!」
「キャンドゥキャンドゥってのは如何か……?」
「何が?」
「いや姫様の……異名?」
「きゃ――てめうちのダンニャのドゥルシネーア様によくもそんな、お安くとまった女みたいな名前付けんなし!」
「百円はお安くとまり過ぎだろ」
「……観光ボランティアの人とかは無料でガイドとかするんでしょうけど」
「連中の方から日本語で訊ねてきたら私が答えてしんぜますよ」さも尊大に胸を張って従士が後方を指し示す。「――アレこそ尾張徳川家が代々住まうという名古屋城だとな」
「やめろ……住んでるってもせいぜいカワムラナントカだろ」
「ルナシー?」
「違う」
「
「……月に代わって、オシッコよ?」[訳註:《
「やっぱさっきドンキでしてこなかったんか!」道理で帰りが早かった訳だ。「こんなとこで漏らしたらそれこそカワムラに代わってお仕置きだべぇだぞ……」[訳註:公園内での大小便は当然軽犯罪法違反に問われる可能性が高いが、不慮の失禁についてまで追及されるかといえば多少は酌量の余地があるのではないかと思われる]
「大丈夫ですって!」
「セ、セーラーびっちムーン……」
「過活動膀胱には我慢する訓練が有効らしいよ」
「いやそれ以前に月はおしっこしないしな」地表から湧き水のように滲み出してくるというなら兎も角、月面に存在し得る水が凝固して氷となった状態に限られることを鑑みれば矢張りこの
「別に月極めではないだろ」営業時間が夕刻までということならば、けだし登城した諸大名が馬や
「ああアミアミーナか、そしたら誤魔化せますな」
「被る水が無かったらお堀にでも飛び込めばいいよババちゃん」
「そっかさっきのカッパ橋の上流なんすよねここいら、それなら安心だ」午前中に飛び込みの
「つか出口の前にあった看板名古屋城のだろ」傍らでドゥルシネーアが経路を調べているのを察したミコミコーナ故にそちらは注視せず、敢えて素通りしたのだとみえる。「とりまこっち歩いてりゃどっか入り口着くべ……そいやオカマホリエモンだのホリエミツコだのってのが見当たらんね。アレってお城をこう、グルっと囲んでるもんじゃないの?」
「さあ……そこの柵越えたとこが一応外堀なんじゃないかな」
「えっ?」四つ目が背伸びして遠巻きに覗き見る。「……ショッボ!」
「お前も相当ショボいだろ。水入ってるか?」
四匹の猫は歩みを緩めつつも背の低い
或いはそれは木陰を求めて道の端へと引き寄せられたのやも知れぬ。
「何だったかな、名古屋城って熱田台地って高台の、左上端っこに建ってるから西と北側は結構低くなってるんだけど」
「さあ――ってめっさ詳しいじゃないですか」呆れるミコミコーナ。
「いや昔テレビで視た記憶が……で逆の南と東側は台地の上で、水入っても低い方に流れちゃうんだって。だから元々空堀だったみたいですよ」次いでエル・トボソは西側にそそり立つ城壁を指し示すと以下に続けた。「でもあっち側ずっとお城の石垣なんじゃない?」
「ほんまや、アレっしょ熊本城と同じ武将が……清春」[訳註:大地震により熊本城の石垣が崩落する被害を受けたのは二〇一六年四月の出来事である]
「そこまで知っててどうして出てくる名前がキヨハルなんですか」
「いや加藤清彦っていたなと思って」
「キヨヒコでもないですけど」
「ハルヒコだろ」加藤晴彦は名古屋出身の芸能人の名だが、
「バブ姫様、提案なんだけど」見事に整然と積み上げられた
「積めねえだろ!」五体を切り離せば或いは嵌め込めぬこともないかも知れぬ――とはいえ
「こいつは兎も角チヨさんは罪無き従者ですぜ? あとメスガキって言うな」
「いやむしろチヨさんは色々詰んでるから――痛い痛い痛い」万が一留年でもしたら、石垣の一部にならずとも千佳夫人から
「それとメスガキータって世界遺産なかったっけ? アルハンブラとかの近くに」
「な、ないですね……あったとしても東京と――静岡くらいは離れてるのでは」
「メースガキーターメースガキーターってアレ日本の童謡じゃなかった?」
「何処に来たんだよ……」
「メスキータのことを申しておられるのかな?」従士は主人の声色を真似て[訳註:第二十章を参照されたい]長姉の滑稽な言い間違いを訂正した。
「ギー太がメスならむったんはオスですかねい」
「バッカおめえ悟飯をオカズにしていいのはピッコロさんだけやぞ」
「弦楽なんだか木管なんだか……」尤も
「げっ、バブルス姫アマデなんか聴いてんの?」
「いえこの子が――」
「おいバブルスは猿だろ……」黒猩々(チンパンセー)である。
「いわゆるバロックロックってヤツよ!」
「いわゆってんの聞いたことないけど、一応モーツァルトはバロックじゃねえから」[訳註:モーツァルトやベートーヴェンの音楽は続く
「この子が貸してくれたので」これは
「ロックとクラシックって……マリミゼみたいなもんか?」
「マリみて?」
「マリみてじゃねえよ、マリスが『マリア様』の主題歌とか歌ってたら嫌だわ」
「メガデスは作ってないと思うぞ」
「マリア様がメタル――つってうちも推し以外は大概解散したバンばっか聴いてんな」
「推しバンとてその内解散しますよ」
「まァルドも『
「そんな、オオカミの人たちじゃないんだから」
「オオカミの人……あれカツラか?」アヌビス神のように頭部が狼の人間のみで組まれた人気楽隊が日本には存在し、歌詞には日本語と英語が用いられている。「マナ様といいインタビュー面倒くせえのばっかな」
「ところがどっこいアマデウスの曲は全編日本語オンリーなんですよ」
「いやそれ日本語でしか歌詞書けねえってだけだろ」一度国際的な当たりを飛ばして調子に乗った非英語圏の歌手などは大概、英歌詞の新曲で世界市場を狙う際に
「ザ? ジじゃなくて?」
「パチスロやらんのか貴様!」
「やらねえよ中坊だっつってんだろ!」
「そういえばさっきの観覧車のとこのドンキも下パチンコ屋さんみたいでしたね」物の本に拠ればこの
「そうだぞてめえら、営業に協力しねえと名古屋県警様にしょっ引かれっぞ」否、中学生が入り浸っている方が
「はいっボイン先生、母音の前だとザはジになるからジ・オンミョーだと思います!」英語は冠詞に係わらず
「前じゃなくて後じゃこのシイン生徒めらが」陰陽とは《
「そんな《枕、さくら取ってくれ》みたいに……」
北進を続けた
東面の堀外北側は木立等の遮蔽物も少なく、少女たちの視界が開けた為により遠くまで見晴すことが出来た。
「あら~見事なガッキーではありませんこと!」
「ほう、嫌な仕事してますね~」
「攻め込む側にとっちゃな」攻城戦に於ける脅威は《
「うん多分。正門ばっか見てたけど、」ドゥルシネーアは手元に目を落とすと、「東から入ったとこにも門があって二の丸に入れるみたい」――通路を左に折れながらその西奥を指差して以下に続けた。「ほらそこカクって、メス――石垣が枡形になってるでしょう? あの辺が東
「成る程……イシガキがマスガタでクロガネのゴモンがコグチならば」千代はエル・トボソの姫君の博識に舌を巻きつつも話題を合わせる手間を惜しまない。[訳註:他の三人に比べれば当然知識はあるだろうが、安藤さんが携帯を片手に案内していることにも一応触れておこう]「さしづめ葵の御紋は大口でしょうな」[訳註:尚著者は小口は《
「たしかに駿河城下のサンチョは大口だったな」[訳註:第十一章に詳しい]
「前門の
「主人に似て大口叩けるようになったねお前さんも」ミコミコーナはそう言ってからかったが、主人を彷彿とさせるとすれば従者の口真似も見過ごすことは出来ない。「グッチでも裕三でもエルメスでもメスガキでも構わんが開き過ぎて口裂け女にならんようにな」
「《あたしキレイ?》って訊かれたら《キレッキレっすよ!》って答えるのが正解らしいっすよアレ」
「マスクの端っこからハミ出ちゃってんのかよ」日本では冬場、そして
「キレ気味に」
「ちょっと切り取りが甘いですな」外堀を渡りながらニコニコーナが嘆息する。「こんなんボルダリングの選手なら二秒で登れちゃうよ」
「何だよキリトリって……そんなモンキー基準で語られましても」
「もっとピラミッドみたいにトゥルットゥルに積んでくれないと」
「いやピラミッドのがめっさギザギザだろ。よっぽど登り易いわ」王女の言う通り、例えばクフ王の金字塔に積まれた
「切取りというか……切込み接ぎが」通路を挟む南北の石垣を見渡すアンドルサ。「左右で乱積みと布積みに――谷積み?」
「右キリターとか左キリターとかってのもあったな」
「修復時期とかの問題なんですかね? それとも担当した大名が違うから?」
「いや石垣のことは知らんけど」ミコミコーナは
「会話が噛み合ってねえですな!」これではドニャ・キホーテのラティン語を聴いていた方が(ギネア王女の秦国語よりは)まだマシなくらいである。[訳註:第十五章では旧本坂トゥネルに入る前の花が羅甸語で「ギリシャ語なので意味不明」と呟く場面があった]「こちとら人外相手にベラベラくっちゃべるのにも飽き飽きなんでごぜえますだよ。こっからは日本語でおk」
「キリトといやピエロも歌詞は日本語でも曲名とかアルバム名には普通に英語とか使ってたんだよな」話が戻ってしまった。一行は外堀を越え、愈々城内へと踏み入る。「英語だとクラウンだよね、ピエロはフラ語?」
「そうですね、『
「マリスとかディルとかもフランス語でしょ」実用を度外視すれば、日本人に限らず矢張り最も憧れの強い言語はフランス語なのである。「ディルアングレイってどういう意味?」
「うんと……英語で言う?――いやそれじゃ《ディ・ハノングレ》、か」[訳註:楽隊自体を知らないであろうドゥルシネーアが仏語縛りのせいで間違うのは無理ないことだが、恐らく独語dir《貴方》と仏語en 英語grey《灰色の?》であろう。尤も実際特別な意味はなく、語感から決められたのだとも伝えられる。御子神もいい加減に言っただけだろう]
「いやフランス語で言えよ!」
「そういえばグレイってLですよね、アレは何語なんですか知ってます?」
「――死神はリンゴしか食べない」
「リン語?」
「チヨさんチヨさんメスガキだけに落書きしてあったよ」
「オシッコじゃあるまいしチョロチョロすんなやもう」落ち着きのない相棒を諌める千代さん。「お前さんみたいな、教養と常識のない観光客の仕業じゃないの」
「モーツさん朝イチで来たんかな?」[訳註:第一及び二十四章ではアマデウスの打楽器奏者が嘗てワイキキの椰子の木に落書きをしたという挿話が語られたが真偽は不明のまま]
「まだ言ってるよ……わざわざ前乗りしてまでそんな参上宣言したいか?」[訳註:以上の二組の遣り取りはそれぞれ同時進行されたもの]
「その点アマデはどうなの、何語なの?」
「はい?……デウスってくらいだからラテン語でしょ」disとてdeusの
「ラルクか! これまた懐かしいな!」《
「ゴールデンボンバーしか思い浮かばない」
「アレっしょ、ハニャ先輩や部長が周りから可愛いだの美女だの言われて本人はチッもっと中身を見てくれよってなってるとこにうちら出てきて《どもープリチーシスターズですー》とか自己紹介したらツッコミの嵐みたいな」
「誰がツッコんでくれるんだよむしろその優しさに涙するわ」己を弁えた馬場嬢の自虐に巻き込まれた形の千代さんが、忌々しそうに舌打ちしつつも以下に続けた。「何だその言ったもん負けの哀しい図式は」
「おい、サンチョが心に傷を負ってしまったじゃないかどうしてくれるんだ」些か容姿に於ける
「価値観の相違」
《
外堀を渡った
「まァ他人に迷惑掛けない範囲なら何言われようが好きにすりゃいいんですよ。ロックとかパンクってなそういうもんでしょ」
「ロックとかパンクはそもそも周りに超迷惑掛けて成り立ったジャンルな気がするが」
「うっせえぞイヤらしい系」尤もドニャ・キホーテなら《
「そんな《ちょい足し》みたいな」
「ああ、Rじゃ普通だからって?」つまり《
「アンノッキンノンニョンド~って歌お前ら知らんだろ」
「いやグレイ詳しくないんで」
「なるほど……」エル・トボソがV系に話を戻す。「もっとこうグラムロックの派生系みたいな勝手なイメージありましたけど、結構複雑なのね」
「ほなキロロックとか、トンロック?」
「見た目はともかくデビッド・ボウイよりはボウイ寄りなんじゃないかしら」只の
「ええ全くないです」[訳註:ニコの返事]
「まァもういい加減下火なんだしそんくらい軽くないと生き残れねんじゃないすか」退屈な話題を早々に切り上げる猫の従士。「ガラガラヘビー級のパイセンだってさぞや日々お疲れでございましょうよ……」
「元からどマイナーなもんが更に完全に下火になってからわざわざ小バンギャになってる現役中坊もさ、自ら市民権捨てて河原で生活してるようなもんだろがな」イエスは兎も角仏陀などは元々王子の身分だったそうだから大層な酔狂にも思えるが、言わずもがなバンギャは余人の救済が為自ら進んで冷遇に甘んじる道を選択したわけではない。「一応言っとくがミコミコーナ姫はこの身長で五十キープしてっからな。重いとは言わせんぞ」
「そのお世辞にも軽からぬ、けしからぬパイオツが邪魔だろっつってんだよ!」
「あっそうだパイオツだ!」突然大声を上げる御身百数
「ミコさん、人前!」
「何言ってんだこいつ……」
「あ、すみません姫」次いでミコミコーナは隣を歩くサンチョの後頭部を叩いた。「――っててめえが云ったんだろ何がこいつだこら」
「すまみせん」
「いや
「いやそんな名前のバンドはねえよ」チレには《
「どう書くんですか」意外にもドゥルシネーアが興味を示した。「まさかカタカナじゃないですよね?」
「ほら、円周率のπにオツカレのオツ」
「オツカレのオツって何だ……カツカレーのカツじゃねえんだぞ」
「いやチヨさんカツカレーのカツもカタカナだから」
「甲乙の乙じゃないですか?」段々安藤部長が割って入らないと会話が進まないようになってきてしまった。
「それだ! 甲乙の乙に丸――句読点の○ね」
「えっ女なん?」
「いやだから
「ゴルデンボンバの仲間なら楽器もエアなんじゃないすか」それを
「……そこまでドギツい感じの面ではなかったような」
「音楽的には普通なんです?」仮に
「いや曲は知らんけど」
「バンドの動画視て歌は聴いてないんかい!」
「なんか風船で犬作ったり、コマ撮りアニメでかめはめ波撃ったりしてた気がする」楽曲に合わせて
「普通にユーチューバーだろ」
「料亭の入り口に侍立ってねえだろ普通」
「料亭でもオムライスくらいは出すだろ!」
「めっさ洋食!」
益体ない会話が四匹の牝牛の足を少なからず遅らせたにせよ、何とか少女らも名古屋城の
隻眼の巨神と相まみえてより既に半時間――百腕の巨人の口中に押し入ってからは実にその三倍の時が経過しており、今や
「リア中ども学生証か何か持ち歩いてる?」受付を前にしたミコミコーナが訊ねる。
「一応」
「写真は見ないでくれ」年弱のふたりが学生手帳を取り出した。
「現物よりなんぼかマシだろ」差し出された身分証には目もくれず財布を取り出すギネアの王女。券売場窓口に掲げられた料金表を凝視しながら眉を顰めた。「高校生以上は区別無いんか」
「あっ出します出します」
「いいのいいの、」猫や小猿相手と違ってこちらは一国の姫君なのだ。「さっきの太腿で二万までは出せます」
「……死んでも出します」
「うそうそ、」潔癖なドゥルシネーアに狼狽えながらも、ミコミコーナは国賓への持て成しを疎かにする一切の不名誉を受け付けなかった。「本心を言えば最低でも二兆は出したいとこですが、――」
「桃なら二じゃなくて木やろ」
「あいにく大ミコミコ王国も不景気でしてな……」ミコミコン王国に限らずアフリカ諸国の多くが世界で最も一人当たりの国内総生産が少ない国々として名を連ね、大陸最大の経済大国であるニヘーリアでさえ――否、大国だからこそ――貧困率は最悪の数値を叩き出している。西側や共産圏で如何に汚職や不正を重ねたところで、生粋の独裁国家群に拠る悪政を前にしては――
「家老じゃなかったでしたっけ?」
「いやアンタそれ以前にまだ王国を追われたままだろ」忌まわしき《無愛嬌のパンダフィランド》に王位を簒奪されて以来
「てめ貧しいとか憶測でモノを云うなよ我が臣民に失礼だろが、どこにあんのか知んないけど」次いでエティオピーアの王女は軽く硝子窓を叩いた。「こんにちはすみません、大人二枚と……中学生って学生証の提示とか――要らないって」
「おもてなし武将隊とか、そんくらいのこと足軽とか下っ端にやらせりゃいいのに」戦国武将が日替わりで
「まァブサメンでモテない武将隊よりはいいけども」
「……せめて影武者と呼んで差し上げなさいな」慥かに《
「わ、我らをたばかるつもりか……これは裏がありそうですな!」
「はいありがとうございます行ってきます……っとどうぞつまらないものですが」御子神は安藤さんに入場券を握らせた。「形而上学的に考えて表がねえなら裏もねえって姫様もおっしゃってただろ」[訳註:第二十四章参照]
「刑事のジョー?」
「今日は慶次一択らしい……よかったなツーショット撮ってもらえよニコラス」
「おっ、だがそれがいい人ですね[訳註:《
「折角名古屋くんだりまで来たのにノブもヤスもいねえのか……」
「犯人はヤス」……信長が叩き、秀吉が焼いた餅を盗み食いしたのは一説に家康だと謂う。
「でもお前もサイヤ人の末裔だろうしヒデの代理でここに残していってもいいな」メガネザルにそう言い捨てた王女が
「遠路遥々良くぞ参られた。此方で入場券を拝見仕る」と言って
「お、おう……これはかたじけない、お勤めご苦労にござる」先陣を切ったミコミコーナは今し方購ったばかりの紙片を差し出す――とそれは
「お願いします」次いでドゥルシネーアが通過し、同じ
「姫様、畏れ入りまする……」
「あの、ワラワも一応ここ最近は姫という設定なんだが……」
「本職の人の目にはやんごとなき姿と映らなかったみたいな」
「あし一回でいいからメイ喫とかにガチ正装で入店してさ、」ここで言うメイとは名古屋のことではなく、メイド――則ち
「つまりコスプレ次第なんじゃん?」
「いやうっさいわ」
「うちらこんまま通っていい系?」結果手持ち無沙汰であった従者ふたりが殿を務める形となった。「無精髭じゃないんですね」
「拙者武将にはござりませぬゆえ」真面目に返答する門番。「お小姓衆はそのまま通られい」
「はくしょん」
「本日のご当番の武将は前田殿だけのようですが……あれ、利家ってお兄さんだっけ?」
「叔父さん……じゃなかったでしたっけ」[訳註:慶次は利家の兄の養子に当たる]
「そうか」前田利家といえば《
「はっ、戦国の三英傑たる上様、太閤殿下、三河殿でしたら[訳註:この呼び方からして織田方の配下と推察できるが、何の因果で徳川の城の番兵をしているのかは不明だ]」奉公先の
「ミラノ!」その所在すらも詳らかとしてみせたところを鑑みても、矢張り彼らは影武者なのだと断じて良さそうだ。「ミラノですと」
「ハァ、支倉常長もビックリですね……」ドン・フェリペ・フランシスコ・デ・
「北海道だっけ? 遠くまで大変だな」支倉は仙台藩の武将である。「おいホタルゥ……」
「アホ、イタリアンスターリンだっつの。ミラノコレクションだろ」
「万博だっつってんだろが」各都市の
「そちらはあしたじゃない方のボクサーですけど」
「……バタリアン」気付けば中学生ふたりが
「我等が名古屋城、存分に楽しまれよ!」
「はーい」
オディーンの足元にて時を刻む花精の長い方の腕は、この頃既に
《
「あのビールのポスターのナントカ祭りは何時からなの?」
「ビールのポスターではない」[訳註:この期間開催中だった夏の宵祭の掲示だろう]
「あっ分かりた……ルトビってルートビアの略だったのね?」
「いや
「うちらは早々に退散しますけど」尤も《シェーンブルン宮殿》への招待状を持っているのは――この場では――半坐千代唯ひとりであるように思われるが……?[訳註:勿論事実ではないが、発言者である彼女は御子神が主人の入場券を手にしていることを知らぬ]「なんならこの後おひとりさまで夜まで残って飲んだくれていかれては?」
「いや昼飯食いながらバブ姫様とドニャ騎士殿肴に勝手に酔っ払うから遠慮しとく」門塀が落とす陰から這い出るや一気に視界が開けた。「入ったはいいが肝心の城が見えんな」
「ここはもう城の中なんですけど」エル・トボソが辺りを見回す。「あっミコさんあそこ、天守見えてますよ」
「おっほんまや、瓦結構水色なのな」
「ブルーレットの新色かしら」
「いや置くとこねえから……」
「瓦じゃなくて銅板葺きみたいですね」慥かに日本語では
「緑青って錆かよ……初詣とかしねえから明治神宮もどんなか憶えてねえな」
「ええっと――自由の女神とか」そういえばマドリードのドン・キホーテとサンチョ・パンサも青銅製だった筈だが、現在は
「自由の女神に屋根あったっけ?」
「チヨさんちょほらほら、金ピカのシャチ光ってる!」はしゃぐミコミコーナ。[訳註:ニコニコーナの誤記]「あれシーソーみたいに向かい合って跨って写真撮ろうぜ!」
「無茶言うなよ」
「落ちる前に引きずり降ろされっだろ、ポリスか消防に」
「左っ側のは本丸――の櫓か何かかな」二の丸を南北に分かつ大道の西の奥を望むと、こんもりと茂った大木を挟む形で別の建築物が覗き見えた。「遠近感が……」
「つかあそこまで歩くの?」東西の外堀が囲う領域は
「だったらさっきの門番の人にクレーム入れてこいよ」
「君じゃ話にならんな、店主を呼びたまえ」
「城主だろ」
「いやまあそもそも正門向こう側だから」地下鉄出口から歩いて近い方の門を選んだのは彼女たち自身である。
「こっち何もない」左右に広がるのは
「何だっけお城の出口のとこが隠れるようにさあ、こうなってて――」御子神嬢が両手を縦に重ねて
「馬出しですか?」ドゥルシネーアは東門で入手したと思しき地図に目を通しながら以下に答えた。「……あるとすれば本丸の周りですかねえ」
「旨味成分といえば日本発祥ですからな」自国の深遠な食文化を誇るキュアウマミ。[訳註:第三十章では御子神が千代を《
「その出汁じゃねえよ」
「ふっ、原始うんこは太陽だったんだぞ!」前章で
「お城に馬といえば」同行者が尾籠な応酬を始めたので
「バイク?」
「おお部長姫よ、馬のことならまずうちにお訊きくださいましな」
「バイク……バイタでしたら今隣を歩いてますけど――痛い」叩かれたついでに後方を振り返るサンチョ。「バイクはどうでしたっけ? 車しか見えてませんでした」
「そっちじゃなくてドニャ・キホーテとご一緒にお泊りの方の」
「あっあっちの城の……馬小屋はそうですね、ダンニャのイポグリフォの他もみんな痩せ馬くらいしか並んでおりませなんだな」ドゥルシネーアが何か鎌を掛けようとしているのではと勘繰った従士は出来るだけ慎重に言葉を選んだ。[訳註:第二十八章に拠れば、あの厩舎内に一時繋がれていたドニャ・キホーテの悍馬を認めたのは安藤蓮のみである]「チャリ以外駐めたら縛り首とか書かれてたような」
「打首じゃなくて?」
「まあそんな広くなかったしね……」
「あでも乗ってくる泊り客とかはいるでしょうし、外の駐車場とか」千代が(独りで)夜明かしした牙城は北東の一角が
「そうか」
「なんでお城に馬でバイクなの?」
「姉さんが俳句俳句クソうっさくていらっしゃるからでしょ」
「いや違うと思うけど」元は恐らくミコミコーナが従士に課した謎掛けであろう。
「ばしょーん」ニコが懲りずにまた川に河童を飛び込ませた。「芭蕉先生といえば芭蕉扇ってなんでしたっけ?」
「ウチワだろ、牛魔王の――山火事を消すとか何かそんな話じゃなかった?」溺れたり燃えたり忙しいことこの上ない。「ん、亀仙人のだったか?」
「牛魔王の奥さんの持ち物だった気がしますけど」訂正を促すエル・トボソ。「……これじゃまた一寸法師の話に戻ってしまう。いやホラ、ハナの――ドニャ・キホーテ様のロードバイク?が細身のヒッポグリフだったら、
「ラヴクラフト?」
「片倉のフートンでしょ」片倉とは八王子にある町名である。「小田急……京王線?」
「バッカおめえカタクラといったらジューロータだろ?――違うわトモユキか」
「それは小十郎だと思いますけど」片倉小十郎とはドン・フェリペ・フランシスコの日本に於ける主君、仙台藩初代藩主伊達政宗の
「ヘドラ……ヘドラが解る女子高生」ヘドラといえばゴジラの
「理解理解、チヨさん亡き後ハニャ・キホーテ先輩は首輪の外れた狂犬同様だし」
「良くて傷物……下手すりゃガソリンに引火して――」ミコニコーナスは当然からかい半分に茶化しているだけだろう。しかし少なくとも猫の従士からすればそれは如何にも深刻な事態に相違ないし、道中の経験からも骨身に沁みて震撼したであろうことは想像に難くない。「人死にが出る前にもっかいあっちのお城に電話しとけば?」
「え?――はい」
「宿に戻っててもフロント行かずに周りウロついてる可能性あんべ」裏口からも直接客室へ向かえる造りとはいえ、騎士が未だ鍵を受け取っていないことを我々も彼女たちも知っている。[訳註:演劇部のふたりは花が一泊して明くる早朝から行方不明になったと捉えている筈故、受け取っていないというよりは預けたままという表現がより適切か]「いくら正義のためつっても後で修理代とか請求されたらっつか、警察沙汰にでもなりゃミサどころじゃないぜ?」
「いやもうそうなったら他人のフリするしかないな!」
「表出て帰ってきてないか見廻りでもしてくれって?」馬場を無視して当然の疑問を口にするサンチョ。
「やまァホテルの人もそんなヒマじゃないとは思うけど……」かなり迷惑な宿泊客である。
「……一応確認だけは入れとくか」
千代は携帯を手に取ると、発信履歴を表示させた。
凡そ二時間半振りに従士が寄宿先の
「あっ何度もすみません私先ほどもお電話差し上げたんですけども――」
「ったくどっかのドイツ人がショートカットとかテキトーなこと言うからぁ……[訳註:前章の観覧車中にて、橋で見た茹で玉子の痕跡を踏まえての御子神嬢の発言である]」ニコが片眉を吊り上げて以下に続けた。「……こ、これじゃディレクターズカットだよ!」[訳註:映画作品は一般的に、編集権を有する
「何だとてめえ金太マスカットナイフで切ったような顔しやがって」
「な?――マスカット切っても金太郎飴みたくはならんでしょ!」金太郎飴というのは切っても切っても同じ少年の顔が現れる
「チヨちゃん電話してんだから静かにしなさいよ」
「キットカットはチョコちゃん」
「貴様姫を守ってマカオに着いた勇者金太を愚弄する気か?」(原註:この姫はドゥルシネーアやミコミコーナとは無関係の人物だと思われるが、こちらで手に入る日本の金太郎伝説に関した資料を読む限り特に何処かの王女を助けるといった逸話は見られなかった)
「マカオになんかオカマ姫くらいしか居ないっしょ。それかミコミコみたいなレストカット姫か」賭博場運営に携わる王女が必要とするのは寧ろ
「何だよレストカットて、リストカットだろ!」慎ましき王女は、若人に遠慮して朝食の席では(麦酒ではなく)
「痛っ、ちょっと触んなし!」アフリカ仕込みの
「……
「な、何だとこの……自分は
「いって!――てんめサル待てこら!」ニコとは対照的で
「バスカッーシュ!」[訳註:余談だが《バナナスカッシュ》というと、
「――はいっ、はい……いえいえお手数お掛けしますう失礼しますぅ……」喧しいふたりから距離を取って電話していた猫が通話を切った。「胸抱えながら走ってんの何か笑える」
「え、あっほんとだ」
「ミコ殿下もお年の割にお元気ですよね」
「こらこら」目前に迫りつつあった櫓の方角を眺めながら苦笑するドゥルシネーア。「まだ騎士様帰ってきてないって?」
「はぁまァ……でも何かフロントスタッフのほとんど全員がご主人のお姿を認識してらっしゃるとのことなので」実際に正面受付で接客した係の者以外もということだろうか?「地味な家来と違って悪目立ちするビジュアル――と態度が今回ばかりは功を奏したと申しますか、フロント寄らなくても見かけた時点で引き留めてくれるそうです」
「そう……チヨちゃんの方こそお手間お掛けしてごめんなさい」
「えっ?――いえいえ」
「贅沢を言えば駐車場とかも点検してくれると嬉しんだけどね」流石にそこまでの暇はないだろう。そろそろ今晩の宿泊客が到着し始める刻限でもある――と、エル・トボソの携帯が震えた。「早く会いたいのに、片想いは辛いものよねえ……ん?」
「片想いとな!」反射的に自分の端末の液晶画面に触れる千代さん。「あっ、うっそ……もう電池が」
「――もう! 今入ったばっかなのに!」
「あっすいません、調子に乗って使い過ぎて」これまた反射的に謝罪する従士。
「えっ、いえいえこちらの話で」
「どったのわさわさ」捕獲された四つ目の小猿が襟首を掴まれたまま戻ってきた。
「なんでもなー……いや午後一の時点で既に赤くなってて」
「ドンキで充電してくりゃよかったのに」息を切らせたギネアの王女が口を挿む。
「なんそれ? そんなんありました?」
「無料で出来るヤツあったよねえ一階に……使ったことないけど」携帯の電池が切れてしまった来店客への
「帰るまで保つかな……」
「パーセント表示にすればいいのに」
「やり方が分からん」
「貸してみそ」携帯を受け取るニコニコーナ。「アレ、指紋認証がない[訳註:リンゴ社の製品が
「いや、めんどいから設定してないんだなこれが」携帯端末の施錠解除には通常四桁の暗証番号を入力する必要があるが、これは自己責任で無効にすることも出来る。
「ぶ、不用心な……」
四匹の猫の一行は本丸を取り囲む内堀の側へと差し掛かっていた。ドゥルシネーアは今一度自身の携帯電話を傾けると、その画面に見入るのだった。
さて嘗て獅子の騎士は――といっても四百年程度しか経っていないが――囚人を護送する
「出来ましたわー」設定変更を終えた馬場嬢が従士に携帯を返す。
「おお……ダンダンダンダンケ、ダンケホーテ」画面を確認すると電池残量の表示が数値化されている。「十五とかもうね……やっぱ下見の前に一回お城戻んないと」
「パスロックくらい掛けときなよ。落とした時チヨさんの恥ずかしい自撮り写真とかネット上に晒されたらお嫁にしてあげないよ」
「恥ずかしい写真も自撮り写真もないすから」そもそも彼女はラ・サンチャからの道中一枚も携帯写真機能を使用していない。「お前の嫁にされるくらいなら今からでも撮るけど――つっても個人情報は危険か」
「それもやったげんよ。もっかい貸して味噌煮込みうどん」
「スラムダンケ――」千代は一旦差し出した携帯を引っ込める。「……いやお前にだけパス知られてるとかそっちのが何かやだわ。後で自分でやりますわー」
「つか早く屋根の下入りたいんだけど……城消えちゃったじゃん」
「いやさっきの名古屋タワーだって近くに行くほど低い建物に隠れて見えなくなってたっしょ角度的に」街の只中に建っているのだから仕方がない。尤もお喋りに夢中の若者たちからしたら――縦しんばその中のひとりが甲冑の下にかの《アビンダラエスの帷子》を着込んでいたとしても[訳註:但し千代もまだこの時点ではミサ参列用の
「その点ニコニコーナは幾ら側に寄ってもウザいだけで誰の視界の邪魔もしないから素晴らしいな」
「ふむ……醜く汚れし物に溢れたこの世界でも時には目を閉じることが許されぬことがありますからな」四つ目が
「お前の目ン玉は貰ったァ!」
「だってめこらこの泥棒ミコーッ!」攻守交代しての
「元気ねえ」
「犬の代わりに猿が喜び庭駆け回っている感じですな……」
「真夏だからでしょう」
「……そいやさっきタワーで――」
「キマシタワー?」キマシが人名なのか地名なのかすら安藤嬢は聞かされていなかったが、
「《パージャンがタワーにゴーしてジャンプして――》っていう」電視塔の下で聴き取ったままを答える従士。
「パーシャンじゃペルシャ人になっちゃうな――私の発音が拙かっただけか」エル・トボソは眉尻を下げてはにかんでから以下に続けた。「あれはねえ、《パリジャンが塔に上るのは絶望して飛び降りる時だけ》っていう」
「……ああ」どうしても視界に入れたくなくばもう自分がその中に入り展望台まで上ってしまうより他に手がないという例の
「まあ東京住んでたらタワーもツリーも上ろうと思わないってのと同じだね」自殺志願者が展望台まで登ったところで、強化硝子の堅固さに重ねて絶望することだろう!「イランの人なら何処に上るんだろ……ジグラット?」
古代メソポタミアの
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