第32章 扱うは是を控えて閲読する者ほど善く見、又此の朗読せしを聴き過さざる者こそ聞く物也

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第三十二章

扱うは是を控えて閲読する者ほど善く見、又此の朗読せしを聴き過さざる者こそ聞く物也

Capítulo XXXII.

Que trata de lo que verá más el que lo leyere menos, o lo oirá el que no lo escuchare leer en demasía.


小半時メーディア・オラほど時間を戻そう。

「Efebo deslumbrante...」[訳註:「目映き若さよ……」]

 軽い頭カベーサ・リヘーラ――但しまだ充分に黒いアウン・アスィ・ネーグラ・バスタンテ――を揺らせつつ大地を踏み締めたラ・サンチャの精華は南北に抜ける小径を横切りながら、今まさに南中に燃えるアメン=ラーの真白き顔カラ・プラメンテ・ブランカに目を細めた。

「成程、《太陽神の騎士カバリェロ・デル・フェーボがトロイびと》とは宜なる哉」[訳註:十六世紀後半に出版されたエステバン・コルベーラに依る騎士道小説の書名から。今日は太陽の進みが鈍い――つまり時間が経つのが遅いと感じているのである。著者はel troyanoに次いで花に「牡蠣のようにコモ・ウナ・オーストラ? もう止めだヤ・ノ・マス!」と呟かせているが、今まで室内に居た騎士に気炎を上げさせることでこれ以上殻に閉じ籠っておらずに冒険へと旅立つよう促す演出意図はここからも垣間見えよう]

 木陰にて丸太トロンコのように眠りこけていたイポグリフォの馬体トロンコ[訳註:馬を模した形状という意味では《木馬カバージョ・デ・トロンコ》又は《荷馬車トロンコ・デ・カバージョス》という訳語も参照されたい]に一鞭くれて叩き起こした阿僧祇花が改めて鞍に跨ると……その行き先を一体誰が知り得ようか?

 嘗て半坐千代の仮定した合州帝国インペーリオ・エスタドウニデーンセの情報局で働く暇な変態職員アヘンテ・バゴ・イ・ペルベルティードが自由に使えるのと同等の衛星測位網を我々が有していたなら孤高にして勤労なる女帝蜂アベーハ・エンペラドーラ・ソリターリア・イ・トラバハドーラがどの山のどの花畑を回って巣へと戻ったかその経路を詳らかに辿ることが出来ただろうし、或いは共産党が中華全土に張り巡らせているという一千万を超す監視動画機ビデオビヒランシア――天網レッ・デル・シエーロと呼ばれる――の千分の一でもこの街に配備されておれば、長い髪以外何も纏わぬ馬上の女性カバジェーラ・スィン・ナダ・マス・ケ・スス・ラールゴス・カベージョス周回レコリード[訳註:ゴダイヴァ夫人については第二十八章を再度参照のこと]には謹んで目を伏せる代りにその美しい髪をバッサリと切り落とし愈々以て老騎士の面影を帯び始めた――こんなことなら切った髪を顎下にでも貼り付けてもらえば良かったのでは?――少女の花貌を、顔認証機構スィステーマ・デ・レコノシミエント・ファシアールの手など一切借りずに粗方探し当ててしまったに違いない!

 とはいえ二晩前の深更から未明に掛けてトルデシーリャスの離宮を独り抜け出したドニャ・キホーテが単身でサカモンテシーノスの峠に微睡む翼竜プテロサウリア[訳註:《羽毛持つ蛇ケツアルコアトル》の語尾に-usを付けると北米に実在した翼長の名となる。尚、Pterosauriaのギリシャ語の原義は《羽持つ蜥蜴》]の肛門までを往復した際や、昨日の午後ヘニル川の河岸にて主従がそれまで百レグアに及んだ同行を中断してから往時は城塞都市シウダッ=カスティージョヴィンドボナと呼ばれた古都の門扉を開くまでの旅路の――取り分け蜂の騎士の道程については――精確な動きを把握する術が無かったことは事実として抗い難い。道中記クアデールノ・デ・ビアーヘの序盤まで顧みる余力があれば、花が紫の山脈スィエーラ・モラーダで一夜を明かす間に千代がラ・サンチャの自宅をトンボ返りした折の車中での様子を何故筆者が割愛したかといえば、彼女らが終始押し黙っていた故に仮令現地で何か起きていたにしても仔細が分からず、書き留める出来事が無かったという現実に尽きる。[訳註:順にそれぞれ第十九・二十二章、そして第六章に詳しい]


しかしここは前章にてエル・トボソのドゥルシネーアが万葉集――《万の葉の選集コレクシオーン・デ・ラ・ミリーアダ・デ・オーハス》――より引いた歌を今一度思い返してほしい。

愛らしき白真珠よペルリータ・ブランカもし人がお前の価値を知らぬようならスィ・デ・トゥ・バロール・ラ・ヘンテ・ノ・サーベ・ナーダ・知らぬままでいいデーハテ・ケ・ノ・ロ・セーパ

 己の価値は己が知っていればそれで足りるのだ。

 ラ・サンチャの恋人が――ラ・マンチャの騎士が固執したのと同じように――己の比類なき勇気バロールを世に知らしめずには置けぬと云って如何とも承服せなんだ場合は、仏教の大聖人グラン・サント・ブディースタにして《太陽の蓮ロト・デル・ソル》の名を持つ十三世紀の僧侶日蓮の至言に助けを借りよう。

陰徳あれば陽報ありビルトゥッ・インビスィーブレ・ヘネーラ・レコンペンサス・ビスィーブレス》[訳註:直訳は《見えざる美徳が目に見える報いを齎す》]

 その報いレコンペンサ勝ち目ある競争相手コンペテンシア・ベンシーブレであれ鉄壁の処女ビールヘン・インベンシーブレであれ、お気楽極楽の精神ウモール・デ・ビバラビールヘンこそ肝要なのである……

 尤もナザレの聖別されしイエスヘスクリーストロドサリーバを以て盲の両目を開いたように、いつ何時街角の窓硝子クリスターレスが騎士の姿を映し出すとも限らぬ故――願わくばこれ以上悪意に満ちた色狂い共サリードス・コン・ドーロと係り合う煩累を神の子が彼女から取り除いてくださらんことを!――、我々が一瞬たりとも耳を塞ぐことなく聞き耳を立て続ける覚悟――《窓に耳ありベンターナス・ティエーネン・オイードス》――であるのは言うまでもない。

 それまでは今暫くの間、人鳥が寒冷地ソナ・フリーヒダで生き延びる為に蓄積した脂肪――南極大陸の多くの観測地点に於いては八月こそ最も気温が低いことに留意されたい!――に守られて涼む四人の動向へ目を向けていることにしようではないか。[訳註:寒暖に関する表現の矛盾については前章末の語源に関する記述を参照のこと。因みに形容詞frígidoには《無感情な、(性的に)無反応な》の語義もある為、訳し方に依っては一刻も早くその生息地ソナ・デ・アービタッを移動せぬ限り、南極の飛べない鳥どもも遠からず絶滅の一途を辿る羽目となろう]


半坐千代は地上階を一周りしてから自動階段で上階へと向かう。

「チョーさんのハナーハントはおしまい?」一段下に立ったミコミコーナが背後から声を掛けた。「……いやここはプーさんでもいいのか」

「たとえ留年しても退学にゃなりませんから!」もう一年中学生を務めるだけだ。但し黄色い熊の人形のように日がな蜂蜜を舐めて自堕落に過ごす訳にもいくまい。[訳註:日本語の《プー》の用法については第八章にて簡潔な説明があった]「蜜溢るるハニー姫がこの殿堂内におられる限り、ハチーの方から花の匂いに誘われて飛んでくるのが道理でしょうよ」

「あんまり禁欲的だったからこそあんな《激痩せの伝道師》になっちゃったんでは?」数分前に糖分過多エクセーソ・デ・アスーカルを詰られた享楽的嫡女エレデーラ・エドニースタがそう嘯いてにやける。[訳註:《激痩せ宣教師エバンヘリースタ・スペルフラーカ

きょうヤセだろ」[訳註:《驚異的痩せ型のアソンブロフラーカ》]

「うっせえな昔は激安だったんだよ!」プーさんならば超ニートスペルパラード[訳註:動詞pararは停止を意味するので《激しく失職中》といった訳語が当て嵌まる。《激安のスペルバラート》]である!「つかトイレ一階に無くない? メガネどうやってあんな早く戻ってきたん?」

「はて……間に合わなくて入口にあった青い水槽の中でしちゃったのでは?」

「マジカよアイツ最低だな」流石に安藤部長が付いていてそれはあるまい。青の洞窟グルータ・アスールを黒く染めるのは禁止だが水槽ペセーラを緑色に変える場合に限って容認されるなどという道理はないからだ。「――で?」

「でっていう」

「昼飯のタイミングには間に合わなそうだけど」化粧品を手に取り眺めながら御子神は一拍置いた。「――こんまま夜まで合流できんかったらどうすんの?」

「は?」眉を顰める従士。「やいい加減子供じゃないんだから、いくら色々取り込み事あっても夕方前には戻ってくるっしょ」

「ホテルに?」

「ホテルか……最悪現地っつかハコの前にでも」そういえば結局下見には行かないのだろうか?「いいハコ作ろう鎌倉幕府」

「箱物行政かよ、頼朝も最低だな」

「頼朝は兎も角、紙ラードゥンにゃ時と場所も載ってるわけだし」

「ラドンってギャオスみたいな奴か?」

「ちげーよ、ラードンってのは百の首持つクマタノオロチでしょ?」一旦振り返り背後に誰も居ないことを確かめた千代は、段差が無くなってからも依然見下したような口振りで付け加えた。「いい加減怪獣映画は卒業なさいな」

「いや百と九股じゃ十一倍違うじゃねえか……さっきのカエルよかサバ読んでんぞ」

「読んでませんて、首が百本で股が九つ――つまり脚は十本ってことでしょ?」日本神話に登場するヤマタノオロチは《八分されし神竜ドラゴーン・ディビーノ・ディビディード・エン・オチョ》であるから、八は股座エントレピエールナではなく飽くまで首と尾の数であるとの見当が付くだろう。[訳註:百首竜ラードーン九首竜ヒュドラーについては第八章で説明があるが、千代はこの両者を混同して記憶していたようだ。そもそも上記の解釈だと二股は三本足の八咫烏になってしまう]「いやそうじゃなくて、アインラードゥングてのは《招待状》って意味で要は紙チケのことす」[訳註:本稿では電子入場券も区別なく第一章よりEinladungと呼称されてきた]

「いや……ていうか招待も何もてめえで金払って予約してんだろうが」

「心付けですよ」[訳註:より宗教色の濃い《寄進コレークタ》と訳出されているが、これには礼拝の冒頭に行われる《集祷文オラシオーン・コレークタ》の意味合いもある。類語に《寄付ドナシオーン》]

「お布施だろ――[訳註:西ofrenda《供物オフレーンダ》]」ギネアの王女は喉元まで出掛かった言葉を飲み込みながら、末妹の名を呼んだ。「チヨちゃんさあ」

「えっ何すか急に」

「お姫のリアクションが意外と薄かったから気が緩んでんじゃないの?」

「あ、ああ……それはたしかに、あるかもですけど」朝食を摂った席で従士が戦々兢々としていたのに比べると、成る程今の千代さんは多少気の抜けた感が否めない。「あの温厚柔和なドゥルシネーアがもしブチ切れたら騎士叙任前で半猫前はんねこまえの私なんか、八つ裂きどころか九つザラキで一発ゲームオーバー――棺の中の変わり果てた姿を見た母親に《おおサンチョ!死んでしまうとは情けない!》と呆れられる未来を夢に見てたとこですから」

「ザラキってパーティーっつかグループ全員対象じゃなかったっけ?」規格外の記憶力をお持ちの方であれば《岡ザラキ》という謎の単語を思い出されたかも知れないが、一般的にザキという呪文には《ムエールテ》、ザラキには《多死ムルティムエールテ》なる訳語が当てられる。アフリカの未来を背負って立つ身でありながら下手な巻き添えを喰っては適わない。[訳註:第十三章の浜松篇にて従者が発した言葉。英語圏ではそれぞれ打擲の擬音である《パンワック》《パシントワック》が使われていることを考えると、イスパニア語版が最も直接的である。尚、《ザラキ》の語源には諸説あるが、魂を裁きへと導く大天使アルカーンヘルゼラキエル(猶זְכַרְאֵל《神は思い起こされたザカリエール》、七大天使のひとりサリエルと同一視され、咎人の親を持つ子供たちを守護したとも謂われる)の名に由来するというのなどにはそれなりの訴求力を覚えよう]

「ドラクエやったことないんで分かりみないっす」

「分かりみないなら使うなよ」更なる上位呪文コンフーロ・スペリオールにはザラキーマがあり、《絶滅エクステルミーニオ》の西語名が表す通りその場の全員を即死させる効力を持つ。[訳註:これだと《多死》との区別が付かないが、ザラキでは同種の敵全体が攻撃対象となる。つまり厳密に考えるなら千代の道連れになるのは馬場久仁子のみでミコは心配無用と結論付けたいところだけれど、実際には味方側が受ける場合に限り一行パルティーダ全体を一群ウン・グルーポと見做す故に、術を掛けた当人も含め全員が対象となる可能性も考え得る。尤もドゥルシネーアは神官職サセルドーテにはないので杞憂であろう]「まァバブルガム部長に裂いてもらえるなら私は満更でもないけど。ドニャキが行方不明とか口が裂けても告白できんような事態を乗り越えた訳だし」

「そういう意味じゃ八つ九つに股裂きされても存外訳ないかもですな」

「どういう意味じゃ」日本では八は多数ムルティトゥッを表す数である為、四頭の牛馬に依る四肢寸断刑デスクアルティサミエントも慣例的に《八つ裂きデスメンブラミエント・エン・オーチョ・パールテス》と呼ばれる。「訳あんだろ、お前がタカクラーケンになってどうするよ……大体自分の幼馴染つかダチの失踪の全責任をさ、知り合ったばっかの後輩になすり付けたりはせんでしょ」

「そりゃそうだが」然様に身勝手な、自制心に欠けたア・リエンダ・スエールタ――これも《八つ当たりゴルペアール・アル・オチョ》と呼ばれるが、これは八方にエン・オチョ・ディレクシオーネスという意味だろう――わがまま姫プリンセーサ・ミマーダではない筈だ。「もっと焦るかと思ったもんで……」

「やっだからそこは女優だし」寧ろ彼女の無表情カラ・デ・ポーケル徐々にポキート・ア・ポコ活躍の場を広げてきたようにさえ見える。繰り返すようだが、親友が昨晩から帰っていないことを知りながらそこまで悠長に構えていたとすればこれは大した度胸である。

「内心ヤバいですかね……ヤバトンですかね?」

「ヤバトンキホーテかもよ」ミコミコーナは面白半分に脅しを掛けたが、――

「トンキン湾だろが南京事件だろが、もう放っておくしかないでしょう……チケット持ってる限りまず帰ってこない理由がないんですから」――従士がこう零すのを聞くと、流石に良心が咎めてかこれ以上冗談を言う気にはならなかった。「適当に歩いててバッタリ鉢合わせるとも思わんけど、ホテルに籠もってるよりは確率上がるし」

「せ――やな」

「宝くじだって買わなきゃ当選確率ゼロだかんね……買っても当たんのは一億分の一でしょうが」[訳註:日本で販売されている最も代表的な物を例に上げると、特大ジャンボ宝くじの一等が当たる確率は一千万~二千万分の一とのこと]

「それよりかは高いだろ」苦笑する王女。「三百円は無理でも三千円くらいの率なんじゃねえの?」

「買わぬジャンボの当選金算用とも謂う」狩る前に熊の毛皮を売ることは出来ない。「――尚、期限内に十億円を返済しないと東京湾に沈められます」

「それはジャンボ買わずにどっか遠い国行きジャンボのチケット買うので正解だろ」[訳註:《ジャンボジェット》の愛称で知られるボーイング747機は二〇二二年に生産終了]

「いずれにしたって犬が棒に当たったり猫が棒アイス当てる確率よりは低いでしょうな」

「そもそも猫が棒アイス食ってる場面に今まで出会ったことがないが」糖分を抑えたり中毒や過敏反応アレールヒア症状を引き起こす成分を含まない猫用氷菓アイスなる商品もあるとはいえ、一般に凍結脳セレーブロ・コンヘラードと呼ばれる唐突な頭痛[訳註:日本では《脳凍結ブレインフリーズ》《乳氷菓アイスクリーム頭痛》等と呼称される]を誘発する危険がある為、与える際には充分な配慮が必要だ。愛獣が欲しがったからと無闇に食べさせては一種の動物虐待となる。「――ああ自分のことか」

「そもそもの始まりだって、猫が……夏休み中にアイスに当たった[訳註:中った?]ようなもんなんですけど」

「まァアイスっつか棒だな」ここ一週間続いた炎天の下では一分と掛からず氷菓が溶けパリートだけになっていておかしくないものの、甲冑アルマドゥーラを纏って従士の前に現れたあの朝にそれを脱がされたのが――露天ではなく――半坐宅の脱衣場だったことを知らぬ王女がこのような比喩を用いたのは極めて興味深い。[訳註:第一章および二章を参照のこと。棒というのは勿論花の痩身を揶揄した表現だが、実際に千代が《棒に当たった》のは自宅の門前ではなく学校の校庭である]「よく考えたら食いもんか飲みもん以外買うもんないな。荷物になってもアレだし……あっラベル剥がしか」

「実はこれはこれでカワイイような気の迷いがしてきました」

「おっ、浮気か?」

「いやつうかベートーベンてモーツァルトの崇拝者ってか(原註:モーツァルトが彼の)憧れの人だった訳っしょ?」

「その云い方は多少イラッときますけど……」千代がどれだけ古典音楽に通暁しているかは定かでないけれど、慥かに協奏曲コンシエールトから変奏曲バリアシオーンに至るまでモーツァルトへの敬意オメナーヘに満ちたルートヴィヒの作品は枚挙に暇がない。「ま別に上からアマデのステッカ貼り重ねてもいいしね」

「寛大か」もし男に生まれたなら成り上がりの《コルシカの鬼ローグル・ドゥ・コルス》に幻滅するよりも[訳註:そういえば第二十四章ではナポレオンと豊臣秀吉を対比させて言及する記述があった]、出来れば《オーストリアの赤字夫人マダム・デフィスィット・ロートリシェンヌ》に求婚する方の人生を選びたいものである!(揃って浪費家、揃って早死にとあればけだしお似合いの夫婦となったろうに……)

「何気にカワイイよねそれ、ドドンキ?」

「あん?……多分」蜂の騎士が独りで買い物に出たとすれば、猫の従士が牛の屋敷の留守番をしながら朝まで独り眠りこけていたあの数時間を措いて他はない。[訳註:第十九章参照。無論花が本当にその数時間を丸々費やし女王の居城から離れていたことなどは千代の知るところではない]

「邪魔だったらカバン中入れときゃいいんじゃん、入んべ?」

「それはそれで邪魔っしょ、バッグ伸びて跡付きそうだし」従士は兜鉢をパンパンと叩いた。

「集合半でもいい気がしてきたわ」ここに留まったところでドニャ・キホーテとの再会に繋がらぬことは我々も承知している。「バブ姫に連絡する?」

「バブ姫て……花王国かおうこくの王女ですかよ」ミコミコーナの提案にも一理あると考えた千代は携帯を取り出したが、ふと何かを思い出すやそれを懐に仕舞い直した。「――あっ、ちょっと待ってください」

 階数別案内で目当ての売り場を探し出してから再び機械階段を使って塔の上階を目指した彼女らが、待ち合わせの時間までに三茶女子の演劇部員と顔を突き合わせることはなかったようである。


帰りは昇降機で地上階まで降りてきた駿府の風呂姉妹の内のふたりドス・デ・ラス・エルマーナス・テルマリースタス・スンピーナスが定刻より数分早く常時開け放たれている殿堂の門扉へと戻ると[訳註:実際には御子神嬢が地上階で買い物をしてから]、そこには既にメガネザルを供人に北部方言バーブレも自在に使い熟す器用な噛飴姫プリンセーサ・チークレが控えていた。

「あ来た」

「おらよ!」

「ちょ何、投げんなし……あっキチーのネキじゃねえか」

「あってめーこらニコニコーナ!」[訳註:順に、久仁子・千代・久仁子・御子神の発言]

「わわ何すか怖いな」顔を見るや闘牛よろしく突進してきた未除角の乳牛ボビーナ・レチェーラ・スィン・デスコールネ[訳註:欧州でも安全の為に畜牛の角を前以て切断する酪農家が多いのだとか]に四つ目の内ふたつをずらして怯む馬場久仁子。その威勢を躱すかの如く、千代が投げ付け自身に当たって地面へと落ちた小さな商品を拾い上げる。「金シャチバージョンじゃんキャーワーウィーウィ~」

「結局黒タマゴは仕入れらんなかったからな……コレでチャラだ、ヘッチャラだ」箱根で入ることが出来た商店といえば駅の下にあった釜飯屋くらいのものである。「卵とニワトリ問題的にはコーチンのキチーさんあればモアベターだったんだけど」

「まあシャチも卵くらい生むだろうしセーフっしょ……キャビア?」

「キャビアはサメだろ。シャチは哺乳類だバカ」

「キャビンアテンダントが哺乳類なのは知ってる」

「厳密にはチョウザメの卵でしょうけど」

「おっとバブ姫さまお待たせしました――」ニコの首根っこを捕まえつつも貴人の前での礼節を違えることはない。「何すかじゃねえお前ドゥルシネーア様にあれだけ注意されたのに青の水槽をメローイエローでドスグリーンに汚しやがったな」[訳註:前章の終盤で安藤さんが言った《ドス黒く》は《黒ブドウ果汁色ネーグロ・モーストに》と訳出されており初めて見る表現だと訝ったが、恐らくここで《モスグリーンベールデ・ムースゴ》ならぬ《ドスグリーンベールデ・モースト》なる珍語を生み出す布石だったのだと考えられよう。但し赤葡萄酒の原料が黒ブドウウバ・ネーグラだとはいえ、これが白の場合仮令果皮が緑色でも一般的な呼称は白ぶどうウバ・ブランカだろうし、《緑ブドウ果汁色》が一体どんな色合いなのかは想像しかねる]

「ド、ドスグリーンて何色?」

「ウノドストレスと謂うように、」千代が割って入った。空艇乗船前には青い血は高貴の証だ何だと嘯いていた筈だが……「――お前の血は何色だァつって鋭利なドスで一回二回刺したら緑色だったんでお前はタコ足のエイリアンだったってオチよ」

「エイリアン死んじゃイヤン」

「ミドリチトカゲってのは居るみたいだけど」相変わらず物知りなドゥルシネーアも、そのトカゲがマリファナのヤリ過ぎだったことは敢えて伏せたようである![訳註:《緑の血サングレ・ベールデ》とは大麻の有効成分であるTHCを過剰摂取した状態を示す隠語らしい]「あと血の青いタコとかも……」[訳註:前章で千代が放った科白「ブルータコお前もか」からの連想か]

「そ、それは全身静脈なのでは?」

「酸素を運んでるのがヘモグロビンじゃなくてヘモシアニンなんだって」血青素エモシアニーナか……となればエル・トボソの姫君の高貴な血液にはきっと美人シアニンエルモスィアニーナが流れているに違いない!「そういえばチヨちゃんブルータスなんてよく知ってたね。中学の美術で石膏デッサンとかあったっけ?」

「小坊の時に『にんじん』で読みました」[訳註:原題は『人参髪ポワル・ドゥ・キャホトゥ』。前章で話題に上がった《白い頭》に続く赤頭である]

「ルナール」

「なーる……ミコさん普通に痛いんですけど」

「早速暑苦しいなおい」自分で引っ捕らえておきながらこの言い様だ!――とはいえ小猿が懐いているだけかと思いきや存外仲の宜しいご様子。王女はニコの縛を解きつつ以下に続けた。「いや下の階にトイレあったんかと思って」

「はじめチョロチョロなかパッパでした」

「何が?」

「すなわちブルー足すイエローはグリーンか」次いで従士が発した言葉は無知ブルートそのものであったものの――「――プラスレッドでホワイトなんでしたっけ?」

「色の三原色だったら黒なんじゃないの」――薔薇色の姫の叡智コノシミエントによって贖われた。

「ああそれがドスブラック」それではブルータスブルートというより骸炭コケの色に近いか。[訳註:燃料用に乾留されたコークスコケは黒灰色または暗褐色で黒ほど暗くはない。尚イスパニアでは、シェイクスピアの《ブルータスエ・トゥお前もかブルートゥ》が広まる以前にスエトニウスがカエサルの末期まつごの台詞として古代ギリシア語で書いた言葉のラティン語訳たる《お前もかトゥ・クウォクウェ息子よフィリ・ミ》の方がより耳に親しいという]

「いやな戦隊ヒーロー……」

「むしろパイプ咥えたヒゲのおっさんの顔が浮かぶけど」

「諸行無糖の響きありね、ミコミコっちほら」四つ目はギネア人を店頭まで誘導し身の潔白を示さんとした。[訳註:声を聴く限りここで御子神嬢を引っ張っているのは千代に思えるが、元々けしかけたのも彼女なので前後の矛盾を避ける為恣意的に久仁子と役割を交換した可能性がある]「青の水槽ドスブラックにもチャーミーグリーンにもなってないしょ」

「あっほんまや」歩道に面した場所に設置された大きな水槽には入店した時と変わらず色取り取りのニジメダカグッピスクマノミペーセス・パジャーソが、特に水質汚染に苦しむでもなく活発に泳ぎ回っているようだ。「まさかブルーレットを……置くだけ置いたのか?」

「いやまあ中で売ってるだろうけども!」何やら運次第の賭博遊戯フエーゴ・デ・アサール・エン・ロス・カスィーノス染みた名を持つ小青ブルーレットだがこれは芳香付き洗浄剤で、その用途も観賞魚用ではなく水洗便器用の水槽タンケ・デル・バーニョである。尤も一度使用すれば螺旋を描いて流れ落ちる青い水流に目を回すことだろう。

「アレって手ぇ洗うとこに置くんじゃなかったっけ?」

「ドボンもあるだろ」その手の擬音オノマトページャにはもうウンザリである。[訳註:《ドブンプロフ》。我々とて午前中だけで二度も人が水中に転落する音を聞かされている]「リトルベンならドボンというよりプシャーって感じだろうけど――ほい」

「何何?」

「レバニラ味は無かったのでソーダ一択」ミコミコーナは買ってきたばかりの棒付き氷菓が入った可塑性袋を差し出した。

「おお、ちゃんと青い」

「中坊ども溶かして垂らすなよ……ガリガリさん居ない間暫しの身代わりな」ガリガリという擬音には囓った時の食感タクト・クルヒエンテの他、矢張り痩せ過ぎの――次いでに補足すれば、それ故に常時空腹で他者から奪ってでも食欲や物欲グーラ・イ・アバリーシアを満たそうとする浅ましさも含めた[訳註:第二十章には《ガリガリ亡者君ガリガリグーラ=クン》なる造語があった]――意味もあるのだ。

「ありがたさ、ありがたきしあわさ……姫様も」

「ご馳走になります」ドゥルシネーアも手渡された氷菓の包装を開きつつ謝意を示した。

「姫にはもっと王室の饗膳に相応しい何か――タカノのパフェリオみたいのをご馳走したかったとこなんでござるけど」

「お昼前にそんなの食べちゃったら夜まで断食です」

「そっかもう正午とっくに過ぎてんのよね……冷たっ、もう即行で溶けるわこんなん」傍らの熱帯魚を眺め思案するミコミコーナ。「じゃあこれがサンシャインの水族館だったということで、港はもういいよな」

「イワシ・トルネ~ド!」この娘はどうあっても《回るものエレメントス・ロダンテス》に目がないようだ。渦巻トルナードだの竜巻レモリーノだのは風車の巨人ヒガンテ・モリーノ橋上の馬上試合トルネーオ・エン・エル・プエンテに任せておけばよいものを! 尤もイワシサルディーナは兎も角サンマサウリくらい尖っているなら、槍とは言わぬまでも剣の代わりくらいにはなるやも知れぬ。[訳註:《マイワシのトルネード》とは名古屋港水族館の名物出し物で、餌を与えられた鰯の群れが水槽内を高速で泳ぎ回る際に形成される巨大な渦が壮観として人気。漢字の秋刀魚については第二十章で説明があった]

「いやそんな《岩をも砕く乙女の激流》みたく言われても」

「青いですしね」自由行動の間に四つ目と連れ立っていたと思しきドゥルシネーアが水槽に向けていた視線を車道側へと投げた。「もうそこから下に降りちゃいます?」

「やだい、コレのお返しにシロイルカコスのキチーパイセンのをチヨさんにプレゼンツしてお揃いで付けるんだい」けだし携帯用吊り紐コルガンテ・デ・モービルないし鍵用輪付き鎖ジャベーロなのであろう。

「死んでも付けないから無駄遣いすんな」

「なんでサンチョすぐ死んでも付けなくなってしまうん!」

「――あっ、ちょっどうせだったら」思わず挙手する猫の従士。「さっきのキマシタワー三姉妹の……六兄弟?の長男、下から目線でだけでも観てきませんか。すぐそこですよね」

「そいやエスカレーターのとっからも突き出てんのよく見えてたな」

「駅前のヤツといい名古屋人は尖ってんのが好きな県民性?」指差しが好きなニコニコーナがよもや尖端恐怖症ベロネフォービアということはあるまいが、それでも眼鏡に指紋を付けられる潜在的な恐怖からは逃れられぬとみえる。

「隣の隣くらい?」

「そうですね――南北に縦長の公園みたくなってて、そこに立ってるんじゃないかと」

「名所ならその付近からでも地下鉄乗れるっしょ」実際に名古屋電視塔トーレ・デ・テレビスィオーン・デ・ナーゴヤはその南北を東西に走る二路線の駅に挟まれている。

「あれミコさんさっき名古屋には観光名所とかねえとかおっさっとられまへんでした?」

「いや名所ってのは名古屋の場所の略だから」(mei, na=《名前ノンブレ名立たるノンブラード》)

「名古屋にあんのに名古屋じゃねえ場所って何だよ!」

「名古屋場所もう終わってっけどな」

「それもさっき聞いた!」[訳註:第二十四章参照]

「……何それ、訳分かんない」

「おっとお叱りを受けた」

「え? あっいやこっちの話でして……じゃあこのまま渡っちゃいます?」エル・トボソが仕切り直す。「こっちも下は繋がってるのかもですけど」

「百メートルかそこら涼む為にまた上がったり降りたりってのもな」慥かにそれでは汗の滴る蒸し風呂サウナと血も凍るような湖の間を健康維持を目的にコン・エル・フィン・デ・マンテネールセ・サルダーブレ往ったり来たりするフィンランディア人が如しである。

 避暑には一家言あるだろうテンドリーア・ス・プローピオ・オピニオーン・アル・ベラネーオアフリカの王女の指摘が至極尤もに思えたことから[訳註:西veraneoは本来夏季休暇を意味する]、四人の猫は地下には潜らずに一街区東に位置する縦長の公園を目指すこととした。


大通りの北側を歩くことに依り被る陽射しを忌避し、もう一本北を通る小径を選んで進めば間もなく心地好い葉擦れの音と煩わしい蝉のざわめきがせめぎ合う緑地帯シントゥローン・ベールデへと到達するであろう。[訳註:余談だがもしこの経路が事実であった場合、地図上に於いて千代たちは昨晩花が一夜を明かした旅籠の正面を通り過ぎたことになる]

「あれ、サンチョ折角買ったの使わないの?」

「何がです?」

「何がってホラ」ミコミコーナが数歩後ろを歩くドゥルシネーアを恭しく指し示す。「直射日光、高温多湿を避け常温または冷蔵庫、冷暗所で保存させていただくべき飴姫あめひめ様がその黒蜜のような御髪と白糖が如き柔肌を灼かれておられるではないか」

「なあに?」不意に聴こえた自分の二つ名[訳註:《飴姫様プリンセーサ・ゴロスィーナ》]に反応するエル・トボソの君。

「いやちょっ――おかまいなく」首だけで振り返り会釈してから、猫の騎士は王女に耳打ちするようにして謎の釈明を物した。「こんな明るい内からあのアレ……スキモノポルノ祭りなんて開催できませんでしょうが」[訳註:第八章の《スキロポリア祭》を参照]

「何だよその祭り……バルセロナエロ映画祭ってのは聞いたことあるが」

「何ですかその禍々しい映画祭は」バルセロナならばランブラス通りの秘宝館ムゼーウ・ダ・ラローティカもお勧めである。[訳註:尚、国際エロ映画祭ファスティバル・インタルナシウナル・ダ・シネマ・アロティクは二〇一七年以降も官能展サロー・アローティクと名を変えて存続している模様]「ご自身でも出品されてるんで?」

「レッドカーペットでセレブ扱いしてくれんならジャパニーズ・ヘンタイ・スピリッツ見せてやんよ!」映画祭に変装遊戯部門カテゴリーア・デ・コスプライまであったかどうかは寡聞にして知らぬ。「まァ十八禁はやってませんけどな。バルセロナまでの直行便ってあるんだっけ?」

「さあ……マドリードまでならあるでしょうけど」[訳註:九八年に廃止されてから二〇一六年までの十八年間、日本-イスパニア間には首都同士も含めて直行便の運航がなかった]

「バルス――エローナ」

「そりゃラピュタも崩壊するわな」赤線地区バーリオ・ロホをお望みならば、観光客で溢れ返るランブラス通りよりも広場を挟んだ反対側――アシャンプラ区のランブラ・ダ・カタルーニャ――の方が巧く引っ掛かるラ・コーハス・ビエーン引っ掛けられるオ・テ・コハ)かもしれない。但し筆者は名古屋への渡航経験がないので地理が分からないし、そもそも真っ昼間の通りを闊歩する東京の女子たちにはそれこそ縁がない話である。[訳註:西la putaは英語のthe bitchに相当する為、嘗ての西語吹替版『天空の城ラピュタ』では劇中Lapuntuと言い換えられていた]「そいやラピュータって名古屋だっけ」

「ふしぎの海のナゴヤ?」[訳註:文脈とは無関係だが、映画『ラピュタ』と日本放送協会製作の慢動画『ふしぎの海のナディア』は元々同じ企画が枝分かれして作品化されたもの]

「あれ?――黒夢とかってまだ……いやだから水族館は行かんぞ?」ミコミコーナは四つ目に釘を差してから横断歩道の前で立ち止まった。「あっ、海はないけど山ちゃんあった」

「オッハー」

「なっつ、十年以上振りだわそれ聴くの。サンチョお腹は?」

「《――けばくほど味の素》とはテレサ・テンの言葉だったでしょうか」[訳註:テレサ・テンではなくテレサ・パンサ。商品名は伏せてそのまま《空腹は最高の調味料エル・アーンブレ・エス・エル・メホール・コンディメント》と訳されている]

「は?」キケロの――いやキキルキーの言葉だったやも知れぬ。

「いや待つだけうめえってね……」それはうなぎ屋の二階で主従が口を揃えて発した科白である。[訳註:第十三および十四章参照]「スケキヨでしたっけ?」

「何が?――ああ、清春のこと? いやそれじゃ黒夢どころかそれこそホワイトヘッドじゃねえかよ!」ここまで離れては《白い頭ペン・グウィン》――殿堂への人招き人鳥ピングイーノ・インビタンド・ア・ラ・ヘンテ・エン・エル・サローン――の姿も見えまい。「いやホワイトマスクか……犬神城には行かんぞ徒歩圏内っつったろ」

「犬山城も別名がたしかホワイトエンペラー城だから白繋がりですね」

「素で間違えたよ……変わった」歩き出す四人。「つかもう全然赤いんだけど。SPF50プラスは伊達か」

「スーパーパーフェクトフォルテッシモ?」

「くどいな……F一個なんだからただのフォルテだろ」強き姫君プリンセーサ・フエールテは拳で威嚇した。

「ピアノフォルテ……スーペルピャーノフォルテかもですね」

「フォルテピアノって昔のピアノでしょ?」バンギャというのもそれなりに音楽史を学んでいるものらしい。「ピアノフォルテってのもあんの?」

「普通のピアノです」

「あそっか、正式名称なんだっけ……もう猫踏んじゃったくらいしか弾けんけど」

「おいおいおいその踵で踏もうとするなよ!」王女が次に繰り出さんとした一歩の膝がいやに高く上がったのを見て、猫の従士も思わず白黒のシマウマの背エスパールダ・モノクロマーティカ・デ・セーブラから飛び退く。

「――ニャーゴヤ城くらいまでなら足を伸ばしても良いかもですね」さも時機を窺っていたかの如く、ドゥルシネーアが徐ろに呟いた。「……な、何です?」

「いや唐突に姫が猫耳しっぽメイドみたいなおっしゃりようをなさるもので」

「願わくば竜頭蛇尾にならぬよう語尾にまで気を配っていただきたかったですにゃ」ニコは調子に乗ってそう付け加えたが、本来驚くべきところは先刻名古屋城には興味を示さなかった安藤部長が何の翻意があって登城する意欲を示したかであろう。「にゃ、猫の従士殿――チヨサン?ちょ?」

「えっまァ、……ゴビ砂漠に点在するオアシスの水温については知りませんけど、入湯が淫靡にならんようにバスタオルを巻くのも一計とは存じます……」

「何の話をしてるんだ?」銭湯での入浴体験を述懐しているのだろうか?「結構高いな……二百メートルあるかないかって感じか」

「展望台でその真ん中くらいっすかね」

「じゃさっきの弱ペダの倍あるかないかって感じだな」王女の言う通り、巨人が回す車輪の最高到達点は高く見積もっても二百ピエスに満たない。「ニコニコサギーナが見たっつう天守閣はどんくらいだった?」

「天守閣て何すか……ああニャーゴヤキャソー?」馬場嬢は陽射しを遮るように眉の辺りで掌を翳すと以下のように答えた。「キャッソーも見えた時大体目線と同じ高さでしたよ」

「じゃあシンデレラ城と同レベルか」千葉に居を構える灰被り姫セニシエーンタの城はフロリダのそれと比べると多少背が低いと謂う。恐らく日本の方が離宮ビジャ・レアールで、亜細亜に於ける植民地経営の拠点として重要な役割を果たしたのだと考えられる。

「シンデレラ城て何メートルあるん?」

「いや知らんけど」

「知らんのかいな」

 以上のような、或いはそれに類する益体ない会話を交わしている内に、四匹の猫はオディーンの全容が見渡せる公園の前まで足を進めた。


短い横断歩道を渡ると、そこから直に敷地内へと進入できる。

「木陰木陰」一番乗りを果たしたニコニコーナが園内を見渡すや感嘆の声を上げるが、それは巨神ディオース・ヒガンテに向けられた讃辞ではないようだった。「池あんじゃ~ん、噴水噴水」

「お前やっぱすぐ池袋帰れよ。次の新幹線調べてやっから」御子神は手を扇子代わりにして火照った顔を扇ぎながら以下に続けた。「ちょっと座りたいわ」

「だったら北側の方が陰になっているかもですね。座るとこあるか分かりませんけど」

 塔の北側といえば昨夜ドニャ・キホーテ(とドン・ジョヴァンニ)が水禍に遭った地点である。正確な位置関係は想像の域を出ぬとはいえ、流石に夜明けから一切日の目オーホス・デル・ソルに晒されなかったということもなかろうし、仮令銀白に輝く鏖殺棚宮ヴァーラスキャルヴ[訳註:主神オーディンの居城であり、第二十三章でセビーリャの紳士が言った高座フリズスキャルヴはこの宮殿内の広間に設えられたもの]聳えし南方は疎か東西をも背の高い怪物や建築物――東には巨狼フェンリール、日の沈む西の海には海洋の館フェンサリールといった具合に――に挟撃されていたアトラパード・エントレ・アンボスにせよ、蒸し返すようなニャゴヤの地上にあらば陰日向の別なく水爆弾ボンバ・イードラに依って生まれた急拵えの小湖ラギート・インプロビサードなど疾っくの疾うに干上がってしまったに違いない。

「あ、じゃあゴミ回収します」先程から手に持っていた可塑性袋を差し出す千代さん。従者の雑用癖タレーアスが染み付いたとみえる。「誰か当たりました?」

「ハズレ」

「あれミコさんの棒に何か……ア、パズレって書いてますよ」

「ふうん。じゃあアパズレと交換してきて」軽くいなすギネアの王女。「……れ、アパズレだっけ? アバズレじゃなかった?」

「――えっ私?……お婆さんだから阿婆擦れじゃないですか?」何と!……姫が口にされて良い言葉ではありませんぞ![訳註:《ハズレブランコに対しアパズレはblancoño<coño blanco《白いブラン(白人の?剃毛された?)性器コーニョ》、アバズレはblanconcha<concha blanca《白い貝殻ブランコンチャ》と訳されている為、言葉通りではないにせよ不必要に卑猥な単語と化している]「私多分人生で初めてアバズレって口にしましたよ」(それはそうだろうノ・カベ・ドゥーダ!)

「アバズレやレズバアにはくれぐれもご注意くださいよ」横目でミコミコーナを盗み見る千代さん。「……あ、ニコが死んだ時の為に一応一本は捨てずに残しとくか」

「と、当分死なんよ俺はっ!」

「墓標がアイスの棒なのはいいんだ……」

「ささ部長姫、今度は名古屋タワーを見上げつつ英語で一句」赤帽子の人鳥ピングイーノ・コン・ソンブレーロ・ロホより高く聳える片目の巨人を仰ぎ見ながらニコニコーナが焚き付ける。

「何でよ、私別に英語得意じゃないんだけど」これが謙遜でないならば、彼女の流暢な発音は女優ならではの類稀なる模倣技術テークニカ・デ・ドゥプリカシオーンないし再現能力カパシダッ・デ・レプロドゥクシオーンの為せる技という訳か。ともあれどうやら無茶振りエクスィヘーンシア・ポコ・ラソナーブレの矛先が猫の従士からドゥルシネーアへと移ってしまったようである。「《...You see, a Parisian only goes to the tower in moments of despair to jump off.》」

「はいミコさん日本語で」

「もうめんどくせえしここで昼飯食ってく?」

「えっまたカフェ? どうせだし名古屋めしにしようよ!」意外にもこう要請したのは従士ではなく四つ目のニコであった。

「おい」[訳註:これは無視された安藤さんのツッコミである]

「さっきお前もシロノワールちょっと食ったでしょ」

「それ東京でも食えっから!」

「それ言ったら大抵の名古屋めしも東京で食えんでしょうよ」嘗て筆者は学生の時分、カナリア諸島産の蜂蜜入り糖蜜酒ロン・ミエールを求めて半島イベーリア中を探し回ったが、結果――《現地に行かぬ限り手に入らない名物》が観光産業にとって如何に肝要かを思い知らされる苦い思い出となった……電網通販が主流となった今では状況が異なるけれど、仮に名古屋でしか味わえぬ料理や酒が無かったとしても《現地でその土地の空気と共にコン・エル・アイレ・カンペーロ味わう》ことに意味があるのではないか?

「……でも何か混んでるし」

「猿って書いてるからメガネザルなら顔パスなのでは?」[訳註:二〇一五年当時、名古屋電視塔の一階北側には猿珈琲カフェの店舗が入っていた]

「ムキーッ!」若しくは在りし日の秦国人フィナードス・チーノスがしたように猿料理で饗する喫茶店であった場合、入店した小猿などは出迎えた店員に案内されるがまま、客席を素通りして調理場へと連れて行かれる危険も伴う。「チヨさんだって山ちゃんとか矢場とんの方がいいよね?」

「いやチェーン店だったらそれこそ新宿とか渋谷でも食えるだろ」

「三茶では食えないだろ!」

「ママに作ってもらえばいいじゃん」馬場夫人の台所での人望ス・コンフィアンサ・エン・ラ・コシーナについては未知数とはいえ、 秘伝のタレサルサ・セクレータ云々にこだわらぬ限り似たような代物はでっち上げられよう。

「ミコミコーナ様は矢張りこちらの物見にご興味がおありなのですか?」

「いや別に――」気ままな提案を牽制するかのようなコモ・コントロール・デ・ス・スヘレンシア・カプリチョーサドゥルシネーアの問い掛けに対し、ギネアの王女は慎重に言葉を選びつつ頭上を見上げながら以下に続けた。「馬鹿と煙がどうしたいかは知らんけど」

「ババと……ほっかむり?」

「ほっかむってはねえよ」まさかとは思うが、千代さんは天下の往来を堂々兜を被って闊歩してきたのだろうか?――もしそうならば、嘗て自宅の前に奇態な様相で現れし主人を咎め立てした従士がまさにミイラ取りカサドーラ・デ・モーミアと化してしまったことになる。[訳註:第二章冒頭を参照されたい]「せめて冠とおっしゃいな」

「だったらしっかり被りいな」

「暑いよ」……流石に頭上に戴いてはおらなんだ。尤も連れの一人が珍妙な風体をしていたら、それこそ残りの三人が同行を拒むであろう。「リカにおかんむりなのを正さずとはタカラトミーの言でしたでしょうか」

「誰がお冠なんだ?」

「……ピエールでしょうか?」ピエールとは《日本のバービーバールビ・ハポネーサ》こと香山リカの父親で、フランス人音楽家だと謂う。因みに《合州国のバービーバールビ・エスタドウニデーンセ》ことバーバラ・ロバーツの父の名はジョージホールヘ、職業は技師インヘニエーロないし活動屋シネアースタである。撮影技師カマローグラフォというならまだしも、映画産業への転職だとしたらこれは早計と言わざるを得ない。[訳註:余談だが八月八日は香山ピエール氏の誕生日でもあるとのこと]

「リカちゃん何したんだ……朝帰りとか?」

「宙返りじゃあそこまでブチ切れはせんでしょうしな」それでも我等が蜂の騎士のように如才なく着地できる[訳註:第二章で半坐宅二階に位置する千代私室の露台から転落した件を参照のこと]のでもない限り嫁入り前の愛娘に首の骨でも折られたら堪らないし、父親としても説教のひとつくらいならするだろうか。朝帰りからそのまま嫁入りされてしまうのとどちらに利があるか、思案の為所であるエン・ウン・クルーセ・デ・カミーノス。「まァでも高さトミーでいったら駅ビル?とか駅前の超高層ビルのが全然高かったっしょ」

「だども倍高ければ今度はじっくりニャゴヤ城観れるんじゃないの?」喫茶空間での昼食は忌避したニコニコーナであったものの、なけなしの観光地ポコ・ルガール・トゥリースティコを素通りするのを惜しんでか矢庭に食い下がった。「観覧車と違って制限時間もねえですし」

「じゃあまたお一人様五百円以下だったら上がってみる?」

「えっオゴってくれんの?」

「いやオゴらんけど」

「じゃあいいや」

「名古屋城なら中学生以下入場料無料みたいだけど」携帯画面を弄りながら、エル・トボソがぼそっと呟いた。

「えっマジ? マジカルミライ2015にせんじゅうご?」

「2015」

「チヨさんチヨさん!」四つ目が相棒の二本の腕にしがみついてせがんだ。「やっぱ行こうぜ! タダより高いものはないとも言うぜ?」[訳註:前章でこれとは似た表現を英文に訳していたが、ここでは《無料の何かアルゴ・グラーティスそれはより高く付くノ・デハ・デ・テネール・ウン・コステ・マス・アルト》となっている]

「引っ付くなて……ニコほんま高いの好きな」自身が低いバハからだろう。「でもババちゃんはおバカちゃんかもだけどチヨさんは別に煙とも毛虫とも共通点ないので」

「湯けむりのように消えた蜂の騎士殿の子分なのに?」[訳註:《煙人間のようにコモ・ウーモ・ウマーノ》]

「蜂の子は毛虫というよか芋虫でしょ」毛虫オルーガ・ペルーダ芋虫オルーガ・カルバ幼虫ラールバには相違ないが、英語の青虫キャータピラと西語の多毛猫ガト・ペルードが同語源[訳註:ラティン語のcatta pilōsa]であることは一応記憶に留めておこう。

「ねえ行こうよ~一生のお願い!」

「前から不思議だったんだが、お前の一生は一体何回あるんだ?」

「《一生のお願い》が《一生に一度のお願い》だと、人類は一体いつから思い込んでいたのだろう……」[訳註:「《一生の内一回のお願いテ・ロ・ルエーゴ・ウナ・ベス・エン・ミ・ビダ》が《一生に一回だけのウナ・ソラ・ベス・エン・ミ・ビダ》だと」]

「……納得できる」納得できたペルスアディーダ。「ドゥルシネーア姫直々のご足労とあらば、ニャゴヤ城主とて無下むげには出来ぬどころか却って向こうからお目通りを願い出てくることでしょうぞ。先方にとっても大層な名誉にござろうからな」

「サンチョさっきメンドーサが勝利したとか云ってなかったっけ?」[訳註:第二十九章では旅舎を発つ直前、千代が面倒がって名古屋城への観光を渋る件があった]

「誰メンドーサ?」

「メンドーサ知らんとか!」Mendozaといえばバスコ語起源オリーヘン・エウスケーラの姓であり、その意味するところは《冷たい山モンテ・フリーオ》である。となると《(イポグリフォの故郷たる)リペオスの山脈は常冬の寒国に在る》というドニャ・キホーテの薀蓄[訳註:第二十八章参照]を我々も思い起こさずには居られぬ。「こりゃご主人様に知れたら面胴小手は免れんな」

「……そいつはどうですかね」面胴小手とはそれぞれ頭部カベーサ腹部アブドーメン前腕部アンテブラーソを意味し、これに喉元ガルガンタを加えた四箇所が剣道に於ける打突部位スペルフィーシエス・デ・コンタクトとなる。但し今のドニャ・キホーテ相手ならば、腰に差した《魔術師の手》を奪われでもせぬ限り従者がむざむざ一本を取られることもないであろう。[訳註:つい先程もドンキ入店直前、御子神にすら易々と奪われたばかり]「名古屋で麺どう?つったらきしめんか味噌煮込みうどうんかも知れませぬ」

「何だうどうんて、あんかけスパか鉄板ナポだろいい加減にしろ」スパとは小紐麺エスパゲーティスの略だけれど、写真を見ると成る程温泉スパに浸かっているようにも見える。「そいやスガキヤって入ったことないんだよな……」

「誰がメスガキや」[訳註:本坂峠の破落戸や岡崎の女王の口からも聞いた単語である]

「まァラーメンって天気ではないが」ミコミコーナはオディーンの鉄骨を透かして南の空を仰ぎ見る。「日除けにすんにはスカスカ過ぎたか」

「スカートからしてスカスカって痴女ですな」電波塔は円錐型フォルマ・デ・コノではなく角錐ピラーミデであったものの、平面的に捉えれば慥かに四つ足の巨人に見えなくもない。

「それはナナちゃんだろ」否、午前中に邂逅した彼女は男装していたのだから、王女の返答も今日に限っては謂れなき中傷と言わざるを得ない。「おいメガネあんま遠く行くな」

 馬場久仁子は子供らしく尖塔の北側周辺を駆け回っていたが、それを目の当たりにした千代さんは歩き疲れとそれ以上の気疲れカンサンシオ・フィースィコ・イ・メンタール・マス・フエルテメンテも手伝ってか、却ってはしゃぐ気分にはなれなかったようだ。


硝子張りの珈琲店を遠目に覗き見るエル・トボソ。

「一応中入ってみます?」飲食店以外に小洒落た小間物屋ティエンダ・ムルティマールカ・ア・ラ・モダ等も入っているようだ。「それとももう地下鉄乗っちゃう?」

「こういう店は下手に入ると気付いたら奴に大変な物を盗んでいかれるので怖いのだ――貴女の時間です」

「あっ、ミヒャエル・エンデ」それは時間泥棒ラドローネス・デ・ティエンポである。「……膝枕から桃白白タオパイパイを経てまだ続きがあるとは」

「ネバーエンデングですよ……っと、ここまで戻ってきちゃうと北っ側まで行った方が駅近そうだな」

「めっさヌーディストに囲まれて焦った!」

「あの通りが多分さっき改札前まで行った駅と同じ路線ですよねあれが桜通なら」

「うん国際ナントカ駅の隣くらいっしょ」あの交差点から西を向いてどのくらい歩いたかといえばせいぜい二十分ばかりだ。「――あっでもシュロスニャゴヤ寄ってくんだっけ?」

「シュロス……」――シェーンブルン。

「うん、チュロス食いたい」

「だーチューチュー鳴いてる国に帰れよお前は」[訳註:《キーキー五月蝿い王国レイノ・ルイドーソ・デ・ロス・チリードス》]

城館シュロスなのか城塞ブルクなのかは存じませんが――」ドゥルシネーア姫は携帯を弄りながら以下に続けた。「私のお慕い申し上げるラ・サンチャの騎士様は武勇により三界さんがいにその名を知られるお方ですから、既に本丸御殿にて手厚い歓待を受けていらっしゃる最中かもしれませんね」

「じゃあうちらも下手に安いランチ食わんと御殿でご相伴に与りますかねえ」縦しんばニャゴヤ城主の歓待を受けたところで、麺類フィデーオのように細い我等が蜂の騎士が供された大皿を次々と平らげるのは不可能だろうし、郷里を同じくする彼女らが助勢に馳せ参じるのもそれなりに理に適っているように思えた。「別に帰ってきたらこっち来るようフロントに伝言頼んでもいいわけだしな……つか引き留めといてもらってその場で伝えりゃいいのか」

「じゃあ何時にヘアリーテイルホールの入口で待ち合わせとか言って……チヨさんドニャキ様は携帯はなくても時計は持ってんの?」[訳註:東京ディズニーランドには《シンデレラの御伽噺の広間フェアリーテイル・ホール》と銘打たれた遊戯設備がある]

「何だ毛深い尻尾ヘアリーテイルって……ニャーゴヤだからか」恐らく今や主人よりも毛の多い従士が何気なしに携帯画面を確認してから推論を述べる。「手首には何も無かった気がすっけど、古風な方ですから懐中時計くらい持ってるかも」

「ドン・キホーテの時代に時計はねえだろ」慥かに懐中に仕舞える程度にまで小型化されたのは十七世紀以降であろうが、機械式時計そのものの基礎技術ならば中世後期バハ・エダッ・メーディアには既に確立されていた筈だ。「せいぜい日時計とか」

「アッバウトだな!」時刻の正確性以前に方角を正確に把握する必要が生じる。「砂時計なら持ち運びも楽なのでは?」

「いちいち引っ繰り返すのかよ! それこそクッソ面倒さ!」

「《ナントカ発祥之地》……ミコーナこれ何て読むの?」

「何……無理やり観光スポット探さんでいいよ長居しないんだから」王女が一旦歩速を緩めながら四つ目の携帯を覗き込んだ。「――《蕉風》だろ、お前さっき自分でバショーンとか言ってたじゃんか」

「しょうふう……あ分かった、野口英世」

「何どういう意味?」

「多分北里柴三郎って言いたいんだと思います」

「ん?……ああ、もうツッコむのも面倒さ」

「――あ、花時計」不意に千代が足を止める。[訳註:第二十二章で花が時間を確認したのが、久屋大通公園内の電視塔北側に設置されたこの花時計である]

「ほらサンチョ勝手に止まんな」

「あっミコさんアレってあっから下に降りれんじゃね?」公園と公道を隔てる木々の幹の間から覗いた地下街への入口を発見するニコニコーナ。

「魔人ブウ?――おっマジンガーV」

「いやゼットだろ、――」彼なら今はタラゴナに居るぞ!「もしくはオロナミンV」

「アリナミンだろ――どうでもいいよ、サンチョ」公園内を北上し直接桜通へと出る進軍を中断した先頭のミコミコーナは、少し引き返して西側から退園する経路を選択すると、独り出遅れて立ち止まったままの千代を再度追い抜きながら言った。「何、やっぱ上りたいの?」

「大丈V?」

「……第八章――の地」いい感じの花時計レローフ・デ・フローレス・フリパンテスに落としていた視線を振り返りざま対角線上に吊り上げた従士は、背に陽の光を受けて黒ずむオディーンの立ち姿に自然と目を奪われている。

「こら縁起でもないこと言うな」

「は?……セーラーVちゃんがどうしたって?」実体化した女神を前にしてフレンテ・ア・ラ・ベーヌス・レアリサーダ、我に返った千代さんが反射的な応答を返す。[訳註:ここで千代さんにとっての女神といえば安藤部長の他にはないのだが、いずれにせよ登場人物の発言以外の記述は著者の妄想である点に注意]

「何が大発症すんだよ、鳥インフルか?」[訳註:奇しくもこの翌年、市内の東山動物園内にて飼育されていたコクチョウやマガモ等から鳥流感の病原体ビールス・デ・ラ・インフルエンサ・アビアールが検出され、ひと月の間休園する事態となった。だが文脈に従えば破傷風のことだろう]

「鳥インフル?……じゃあ豚はペスト?」[訳註:西語訳では手羽先や味噌カツの文脈を無視する代わりに隣の花時計と絡めて、花の都フィレンツェフロレンシアならぬ《インフロレンザインフロレンサ》及びプラハプラーガならぬ《ペストプラーガ》と変更されている]

「それブ――ペストな、行くぞ」[訳註:第二十五章以降度々ほじくり返されるナナちゃんへの性的嫌がらせを行灯袴姿の女性に見立てた電視塔へと置き換え、「お前が覗いてるのはパンツブラーガスな」に変更]

「はぁ……行ってみたいなブダペスト」[訳註:倒置を用いて《プラハに行ってみたかったなビスィタール・プラーガ・メ・グスタリーアいつかパンツを履いてビスティエンド・ブラーガス・アルグン・ディーア》。尤も外出時は基本的に下着を身に付けている筈である]

「でもウィーンには来れたでしょ?」腰を屈め従者の傍らに並んだドゥルシネーアが、上目遣いに電視塔を見上げながら些か悪戯っぽく笑った。「さっきのが《美しき泉シェーンブルン》だったかは分かんないけど」[訳註:さっきのとは塔南側の噴水だろう。《音楽の都》という認知度でいえば、慥かにブダペストよりプラハの方がより連名で語るに適格かもしれない]

「来週には大阪に移動しちゃうウィーンですけど」ヴィーンビエーナ来ては去り行く都ラ・シウダッ・ケ・ビエーネ・イ・バ。「……まあ川流れを目撃した後じゃしばらく水場には近寄りたくない気分でございますな」

「……た、たしかに」

「何が起きても気分はへのへのかっぱだろ!」なかなか来ないふたりに痺れを切らした床屋の娘が、再度公園内へと侵入するや堂々と言い放った。

「いやヘナヘナだったじゃんかさっきの河童は」……とここで、今し方自ら何気なく口にした《第八章》と沼津で遭った水禍が頭の中で結び付いた従士は――そもそも《水場アブレバデーロ》という単語自体が深層意識に於いてエン・ウナ・コンシエンシア・プロフンダこれらの連想を元に発せられたであろうことに疑問を挿む余地はあるまい――、少なからずバツが悪くなって以下のように続けた。「まァこんな陽気ですと、天から降ってくる水についちゃあ有り難くもありましょうがね!」

「雨乞いか。ライブも――ミサね――も屋内なんだし」

「仰せの通りで……ドゥルシネーア様を拝んでもアメ違い、アマ違いとは存じますれど」

「といっても飴玉降らせる能力もございませんけれど」それでは大玉の雹ボラ・グランデ・デ・グラニーソさながらで、殆ど天災と変わらない。「ペストは困るけどミストくらいは欲しいかも」

「東京じゃ夏場駅前とかでたまに見かけますけども」屋外に設置する冷却用噴霧器ネブリサドーレス・レフレスカンテスのことだろう。「名古屋のが需要ありそうだがや」

「ミストもシャワーもラーメンの湯気も、メガネっ娘には嫌がらせだぜ!」

「あっそ」

「あの~、偉大なるミコミコン王国の王位継承者先輩がお待ちなんですけど~」

 以上のような遣り取りが、ラ・サンチャの誇る我等が蜂の騎士に新たなる異名を付与する由縁となった歴史的な場所[訳註:勿論これは第二十三章に記された、昨夜電波塔の展望階から投下されし水風船に依る爆撃を、その直下にて偶然出逢ったばかりの騎士とセビリアの紳士の二名が被ったあの事件の現場を指している]から僅か数歩と離れておらぬ地点にて交わされたという因果エスラボーン――いや偶然カスアリダッについては、堪え性のないデ・リサ・トンタ筆者ならずとも失笑を禁じ得なかったに違いない。


再度狭い横断歩道を渡ると程なく地下世界バホ・ムンドへの入口が、海底の砂上に転がる小岩に擬態しながらまんまと自ら口中に飛び込んでくる浅はかな獲物を狙う狡猾なウツボモレーナ・モルラーカ宛らに大きく口を開け待ち構えているのだった。

「――突き進んだランスの穂先が突き刺さるような風車の帆は張ってなかったけど」階段を下りながらドゥルシネーア姫が口を開いた。

「はい?」

「ロシナンテなしで突撃はしないか」尤もドニャ・キホーテにとってあの白き日傘は馬上では風車の帆アスパ・デ・モリーノをも突き破る長柄武器アルマ・デ・アースタ、徒では名剣ドゥランダルテだったのだが。「……いや観覧車と足して二で割れば丁度ヘカトンケイルになったのにねと思って」[訳註:但し電視塔の輪郭が四角錐のそれに近いのに対し、『ドン・キホーテ』第八章で題材となったコンスエーグラの製粉用風車の塔は円柱に低い円錐形の屋根を乗せた形状である]

「まァでもサンシャインの真ん前にドンキがあって、今度は名古屋タワーの前っつか下には花ちゃん時計あったのちょっと笑ったな」

「時計の針はほぼほぼ北向いてたっぽいすけどね!」四つ目の観察眼クアルト・オーホス・オブセルバドーレスに狂いがなかったことの証明として、秒針セグンデーロを除く二本の手ドス・マネシージャスは凡そ北を向いている刻限だったし、序でに言えば尖塔アグーハ[訳註:これにも時計針の意がある]が落とす影も北欧神話の主神らしく北極星ポラーリスを指し示していた。そもそも《ノルテ》という漢字は《非常に強くフォルティッスィモ》のFを片や上下反転した形と片や今度は同じく半回転させた形とをそれぞれ背中合わせに接着したような文字であり、これには《太陽に背を向けているダンド・ラ・エスパールダ・アル・ソル》という意味があるのだと謂う。

「ハリー・ポッターの賢者タイムだったんだろ」巫女スィビーラの言う《賢者の時間オラ・フィロソファール》とは、一説に拠ると女に背中を向けた男オンブレ・ケ・ダ・ラ・エスパールダ・ア・ス・ムヘールである。

「ポッターどっから来たよ!……北だけに!」

「どっからってJ・K・ローリングの脳味噌からだろ」

「女子高生の分際で億万長者かよ!」察するにJKは《子供たらしジュニア・キラー》の頭文字か、然もなくば《日本の河童ジャパニーズ・カッパ》であろう。「チヨさんも早く作家デビューせな!――ペンネームはJCチョーリングで」

「だから私は書かんから!」福音書記者エバンヘリースタスのマタイやヨハネに比肩する名誉を過分と心得た従者は、小説『ドニャ・キホーテ』の執筆権を既に謹んで辞退している。[訳註:第九章および二十六章を参照のこと]

「考えてもみ、花の印税生活だぜおい!」親友の背中を勢い良く叩くニコニコーナ。「これで高校進学しないでも食ってけるじゃんかあ」

「おーいおいおいおい」

「この名城線と桜通線というネーミングはいいな分かり易くて」アフリカの王女が改札口の前の表示を見上げ感心の唸りを上げた。「そのふたつ以外興味のない我々にとっちゃ」

「ちなスイカ使えんの名古屋って」

「使えるようになったらしいぞ、パスモも」[訳註:全国の主要交通系集積回路埋込式運賃支払券相互利用環境の提供は二〇一三年春より開始されている]

「あっほんとだ通れた」《チャージしてくださいレカールゲ・ス・タルヘータ……》「チヨさんダッセ」

「うっざ」直ぐ側の自動券売機へと走る千代さん。従士が公共の交通機関を利用するのは実に六日振り――箱根と三軒茶屋を往復して以来――である。[訳註:第六章参照。この時の二千五百円近い往復運賃は、恐らく主人の財布から支払われている]

「名古屋のスイカは何ていうの? メロン?」

「別にメロン名産じゃねえだろ」愛知県で全国生産量第一位の果物は無花果イーゴだというが、流石にヒガカードタルヘータ・イーガでは座りが悪い。[訳註:西higo《イチジク》に対し、higaは親指を人差し指と中指の間から覗かせた握り拳を意味する。但し地中海沿岸を除く地域ではより攻撃的な《中指立て》の形を指すことが多い。これらは無花果の実を女性の下半身に見立てる古くからの慣習に依るようだ]「イコカとスゴカは何となく憶えてるけど」[訳註:それぞれJR西日本および九州が発行元]

「ナゴヤカ!」

「三文字に収めろよ」ミコミコーナは今通過したばかりの改札機の外に立つ柱を指差して以下に続けた。「そこの裏に一覧みたいの書いてあったぞ」

「ちょっ、チョーサンチョーサンチョーサンチョ、ハリーアップ!」

「うっせえぞ恥ずかしいな」千円分入金した千代さんが、旅行用前払板タルヘータ・デ・ビアーヘ・デ・プレパーゴの返却口に手を添えながら苦言を呈する。「つか声でかいよ君ら」

「こっち来る前にそこに名古屋のスイカ何て書いてるか読んで」

「いやどれか分かんねえよ……端からマナカ、トイカ、キタ――」

「マナカだマナカ、思い出した」浜名湖が齎したマナであれば蜜の滴ること熟れた西瓜にも劣らぬ筈だが、主従が口にしたのはより滋養に富んだウナギだったことを今更ながら読者諸賢も回顧せずにはおられまい。[訳註:第十四章では湖岸に到着する直前、嘗て神の降らせた超自然的食物マナについて騎士が言及する場面があった]

「ああっ、はいはい小倉トースト的な」

「マだっての。日本の真ん中って言いたいんだろ」(manaca=el centro)

「真中!……かしこまかしこま」

「外じゃないんだからボリューム落としなさいて」電子音と共に無事改札の中への進入を果たした猫の従士が、天井の低い地下道に響く少女たちの高い声に眉を顰め云った。「お里が知れるぞ」

「人待たせといてこの言い草」

「お待たせしまなか。これこんまま降りていい感じですか?」

「多分、ハリーポッターン押して」昇降機の前に立つ四つ目に指示を下すミコミコーナ。直ぐ下が南北に伸びる名城線、もう一階下がると東西を貫く桜通線が走っているのだ。

「願わくばハーマイオニーと呼んでほしかった」

「ハーマイオニー要素ゼロだろ」強いて言えばニコもエマ・ワトソンも性別は辛うじて同じである。

「ハアアアア?」

「ハアアアア!じゃねえよプリキュアかお前は」

「ゼッタイニマケナインダカラァアァアァ……キュアポッターン押します、押しました。ポッターって何だそもそも」

「ポットを作る人じゃないの? ティーポットとか……ねえ?」

「陶工というか、陶器職人ですかねポッターは」しかしドゥルシネーア、娼婦プテリーアのマリアが手に持つ香油瓶フラースコ・コン・ペルフーメもひょっとすると陶製デ・アルファレリーアだったかもしれませんよ?[訳註:聖人画に描かれるマリアが携帯している壺の多くは雪花石膏製デ・アラバーストロ

「来た……ああ、それでこいつ《針は北向いてる》とかホザいてたのかさっき」

「ホザイてたとは何だ」四匹の猫は箱の中に乗り込んだ。「名城線のホームでいいんすよね……《タンホイザー》って何だっけ、洗剤の名前?」

「スパロボだろ」因みに『金龍機ゴルドラック』の原題は『グレンダイザー』である。「ガム姫様、なんだっけ?」

「ワーグナー?」ドニャ・キホーテがこの場に居合わせなかったのは不幸中の幸いだが、出来れば想い人の帰還を待ち侘びるエル・トボソの姫君の耳にも入れずに済めば尚のこと結構な騎士の名であったことよ![訳註:騎士にして吟遊詩人のタンホイザーは恋人を放ったらかしにして故郷を離れ、異世界にてヴェヌスとの快楽の日々に溺れた。この歌劇の原題には《歌合戦ゼンガークリーク》という単語が含まれるが、これが西語では《詩の試合トルネーオ・ポエーティコ》と訳されていることに留意しよう]

「時は北と言わざるを得ない」

「いや、得る」

「うるせえ……じゃなくて、《マイ・リトル・ペンギン――》?」

「My little ceramic penguin in the study always faces due south.」

「そうセラミック・ペングイン……時計の針だって六時半くらいになれば大体南向くんだろうけど」そうなると最早ミサの開演直前ではないか……悠長に街をブラついていられるのも今の内である。「市役所・大曾根方面で合ってんのかな、ニャゴヤ城の最寄りは?」

「名城前じゃないの?」

「京王線じゃねんだから……あっでも名古屋だと名古屋大学が名大になんのか」名大・名駅・名港と、名古屋と名の付く場所や機関は大概省略されてしまうのだと謂う。但し東日本に住む者にとって《めいだい》とは明治大学を意味する。UMウーエメといえばムルシアの大学ウニベルスィダッかなと想像が付くけれど、メーヒコに行けばメーヒコ大学だろうし、ウルグアイならモンテビデオ、そしてアルヘンティーナならばかのメンドーサ大学を指すのと同じ理屈だ。[訳註:名城線は環状の路線であり、その西側中央に位置し市営地下鉄の中心たる栄駅のほぼ対岸に名古屋大学駅がある。今のところ地上地下含め名大前という駅名は存在しない模様。尚訳者個人の感覚だと、明治大学は関東に於いても《明大》より《明治》と呼ばれる頻度の方が高いのではないかと思われる]「あっ、方向は合ってるっぽいけど……間に合わねえか」

 昇降機が名城線の乗り場に到着したのと、北向きに走る列車がその前を通り過ぎ、吸い上げられたエスパゲーティスの麺のように遠く暗穴へと吸い込まれるのがほぼ同時に起こったこともあって、元より時間を持て余していた少女たちは特に悔しがるでもなく次の一本を待つことにした。


待ち時間は四五分といったところだろう。

「部長部長、さっき言ってた《ナントカの盆踊り》って何でしたっけ?」

「ナントカの?……ああ、死霊の盆踊り?」

「《死霊の久屋踊り》」四つ目が壁に掲示された駅名の英字表記アノタシオーン・エン・イングレースを示しながら言った。

「お前は思い付いたことをそのまま口に出さんと気が済まんのか」日本語で長母音を書く場合、例えば[o:]だとカナ文字では《ou》又は《oo》となり、羅甸文字アルファベート・ラティーノ――一般的にこれは《羅馬字カラークテル・ロマーノ》と呼ばれるのだが――に転写する際は日本人が読むことを前提とした訓令式エスティーロ・デ・クーンレイや外国人にとっての読み易さを優先したヘプバーン式エスティーロ・デ・エッブルンならば共に《ō/ ô》(但し旅券等の姓名では長音記号が使えない)と記される。尤も英語を話さない西洋人は獣同然という認識が浸透している為、《oh》という表記も珍しくはない。つまり《大通りグラン・ビーア》という意味を正確に伝えるには《oo-doori》若しくは《ō-dōri》――多少自棄糞で良いならエン・アルグーナ・デセスペラシオーン《ohdohri》でも通じないことはない――と表記すべきところ、英語話者の単細胞メンテ・センシージョ・デ・ロス・アングロアブランテスに倣って《odori》と表記した結果、《踊りダンサ》と区別が付かなくなったのである。[訳註:以上はどうせなら第三十章にて済ませておくべきだった説明。因みに著者は本稿全編を通し、日本語に於ける発音を読者が可能な限り忠実に再現できるよう心を砕いた結果、専ら変則的なヘボン式を用いている]「観覧車の下が栄駅なんですよね。じゃあ一駅分歩いたのか結局」

「あっ、最寄り市役所駅になってる」

「隣かよ!」ニャゴヤ塔とニャゴヤ城は予想以上に近かったようだ。「地上歩いた方が早かった可能性も微レ存……おっと死語になってから初めて使うケース」

「いやでも地上歩くのは暑いっしょ」[訳註:但し久屋大通~市役所駅間の距離は栄~久屋大通駅の約二倍である上に、市役所駅から名古屋城正門まで今度はほぼ同じ長さを徒歩で歩かねばならない]

「まァ屋根は欲しいけど……そいや雨乞いがどうとかって何だったの?」断片的な科白のみを聴き取っていたギネアの王女が従士に訊ねた。

「や別に……ちょっとぐらい雨降ってくれたら気温も下がるかねっていう」

「いやむしろ蒸すだろ」

「蒸すか」慥かに体感温度テンペラトゥーラ・アパレンテは気温よりも湿度に依って左右されると謂う。「――パロ・ウル・ラピュタ」

「そこまで高度あったら逆に寒いだろ」

「積乱雲の中ですもんね」

「さしもの豪傑ドニャ・キホーテとて入道雲相手じゃ歯が立たない――つかお尻の針が折れてしまいましょうな」入道とは仏僧モンヘ・ブディースタのことで坊主ボズと同義だが、大抵の日本人にとっては禿頭の巨人カルボ・ヒガンテ(則ち妖怪)を表す言葉なのだ。「豪傑だけに」

「壁にハナありと申し上げましたろうに!」従士は駅名の掲示や広告の他は一面敷瓦張りされた乗降場の壁面を小突いた。[訳註:前章では《花々ありティエーネン・フローレス》だったものが、ここでは両義性を保つ為か《las paredes tienen Hana》と日本語の発音のまま訳出されている]

「お前が云ったのは障子だろ」元になった日本の諺は《壁に耳ありプエールタス・ティエーネン・オイードス障子に目ありラス・ショージス・オーホス》と謂う[訳註:出典は『平家物語』だとも]。障子は木枠に和紙を貼っただけの引き戸プエールタ・デスリサンテであるから、覗き見する為の穴を開けることも容易なのだ。「そもそも耳なら聴かれるかもだけど、何言ったって匂いで嗅ぎ付けられたりはせんわけだし」

「いや、口が臭かったら――痛い」

「花アリといえばバブ姫様は『花とアリス殺人事件』って観に行った?」[訳註:二〇一五年二月公開の日本映画]

「観に行ってはないですけどアニメなんですよね」

「そうそう。ロトスコだったけど」

「実写版で高校生演った女優ふたりが十年経って今度は中学生?役の声当てるっていう」

「まァ流石に実写ではキツいだろうしな」成る程声優であれば子供が老人を演じることも、その逆とて不可能ではない。尤も特殊化粧マキジャーヘ・プロテースィコ電子計算機生成画像イマーヘネス・ヘネラーダス・ポル・コンプタドーラの技術が発達した昨今、実写と慢動画の線引きも判然としないとはいえ――「昔のヤツは観た?」

「ん~小学校入る前くらいだと思うので映画館では観てないですけど、多分ずっと後にテレビで放送されたのを視てるんじゃないかと」

「話憶えてる?」

「朧げに……でもああいう自分の変態っぽいというか、薄気味悪い感性というか妄想というか――嗜好?を仕事に活かせるって理想だなと思いますね」

「嫌な感想! だがそりゃそうだ犯罪者になるよりはな!」ルイス・キャロルも地下世界ムンド・スブテラーネオで頷いているに違いない。「ところで話変わるけど実在する方のハナちゃんて過去に好きな人が蜂に刺されて死にかけたとかそういう逸話つか経験ある?」

「何言ってんだアンタ」猫の従士が呆れた声を上げた。「うちのドンナの好きな人といえばこの方一択でしょうよ」

「とりあえずドニャキとハナ様は分けて考えろよ」

「私も別にあの子の全てを知ってる訳ではないですけど……」安藤部長は暫し首を捻った後、次に反対側へと首を傾けるや突飛な仮定スポスィシオーン・エクストラーニャに対して不確かな推論イデーア・バーガを返すことの不毛さに思い至ったとみえ、終いには吊り上げた眉を弛緩させつつも以下に続けた。「――そんな映画でしたっけ?」

「じゃあレンちゃんと好きな男を取り合ったとか?」

「……なんかゴッチャにしてます?」

「いやいやそういうんじゃなくて、単純にキッカケというか」果たして気の触れた契機だろうか? それとも学校に来なくなったことの?「海辺で大喧嘩したとか」

「海ですか?」

「――海といえば」おお千代さん、何故口を挿んでしまったのか?……ともすればドゥルシネーアが電話で話していた事柄の真相エチョ――或いは核心キッド[訳註:羅quid《何かクウィス(が/を)》]――を他ならぬご本人の口から訊き出せたかも知れぬというのに。[訳註:第六章で安藤蓮が言った「ハナは海には入らないと思う」を参照]「雨と海って語感が似てますけど、語源が一緒なんですかね」(ame=lluvia, umi=mar)

「違うだろ。雨は天の川のアマと一緒なんじゃねえの」天の川とは《天空の川リーオ・デル・シエーロ》、つまりヘラが零した乳の道ビーア・ラークテアを指す。しかし今度は本当に話題が切り替わってしまった。王女がそれに柔軟な対応を示したのは、従士の心中を慮ったが故の機転であろうか?「海はアレでしょ、全ての生命の生みの親的な」

「海のミは水のミだとも言いますね」

「海でも川でもいいけど、アマデウスだのアマテラスだのって暑苦しい連中は雨水と一緒に流し去ってほしいものよね」

「壁に耳ありだとあれほど!」パレーデスというより二人一組でポル・パレーハス耳があると云った方が、より適切に状況を描写できよう。[訳註:アマデウス信者のバンギャふたりというよりも、千代は彼女本人と久仁子以外の徒党クラスタがこの街の何処に潜んでいてもおかしくない日であることを迂闊な御子神に訴え、注意を促したのだと捉えることも可能]

「チヨさんチヨサン――」携帯にその四つ目を落としていたニコニコーナが徐ろに従士の肩を叩く。「メンドーサってあしたのジョーのラスボスだった」

「……お前ほんと自由な」一緒に液晶画面を覗き込む千代。「あしたのジョーってアレだろ、何かスネ夫ヘアーの人だろ」

「スネオヘアースネ夫ヘアーじゃないしな」

「それ言ったらワカメさんだって!」――ワカメ髪ペイナード・アルガではない。更に河童はオカッパ頭ペイナード・デ・カッパではないことになるし、こうなると我々は《基督クリースト基督教徒クリスティアーノではなく、仏陀ブダ仏徒ブディースタではなかった》というドニャ・キホーテの詭弁ソフィースマ[訳註:第十一章参照。慥かに問題の掏り替えには違いなかったが、これを牽強と断じるのも些か極言である]に思いを寄せる他なく、敷衍すれば現代日本に於けるドン・キホーテとて、ドン・キホーテでありながら同時に今やもうドン・キホーテではないのだ……(ルベン・ダリオには悪いけれど、彼は矢張り死ぬ為に生み出されたのだから)

「氣志團もスネオ夫ヘアーに入りますかね」王侯貴族の子息が――地位を追われ僧院送りにでもならぬ限り――その権威の象徴として、或いは自由市民シウダダーノス・リーブレス貧者デスポセイード奴隷エスクラーボ農奴スィエールボとの差別化に於いて長髪を蓄えていたのは事実だろうが、前髪は中央で分けられ左右に垂らすか結わえるのが作法である。ポンパドール夫人よろしくそれを盛り上げては戴帽は兎も角、騎士の誇りたる兜すらも被れぬ為体ではないか?(尤も深窓の令嬢たるドゥルシネーアの御前で帽子や兜を取らぬ諸侯アリストクラーシアがこれまでに居なかったとしても不思議はない)

「スネ夫のってリーゼントだったのか![訳註:リーゼントダックテイル]」騎士たるものアヒルの尻尾コリータ・デ・パトより馬の尻尾コーラ・デ・カバージョを気に掛けるべきであろう! 縦しんばかの御曹司レガターリオが財を、拳闘士プヒリースタが武を誇示すべくその前髪を尖らせたのを模するなら、一角鯨ナルバールリノセロンテの意匠をその兜の前立てシメーラに凝らすがいい。「あっこまで突っ張ってりゃ陽射し強くても帽子代わりになんよね」

「雨の日は傘代わりにもなんじゃないすか」

「いやそこはマジモンの傘差してても湿気でデローンてなっちゃうっしょ」

「何その、綾小路のツッパリ具合で今日の天気が分かるみたいのは」

「ツバメじゃないんですから」《深山鴉が低く飛ぶのはクアンド・エル・グラーホ・ブエーラ・バホクソ寒い時アセ・フリーオ・デル・カラーホ》……いや大抵の鳥は低く飛ぶであろう。「突っ張るって物理的な意味だったのか」[訳註:安藤さんは《反抗的な態度を取ったり虚勢を張って我を通す》ことと捉えていたのだろうが、恐らくその解釈の方が正しい。勿論その精神を具現した見栄のひとつがその髪型だったのではあろう]

「ロンドンとか雨ばっかのイメージあっけどパリの天気ってどうなの?」

「さっぱり分かりません」ドゥルシネーアは――今まさにそうしているように――エル・トボソ村を出たことはあっても国外を訪れたことはないのである。[訳註:エル・トボソはトレド県に実在する町だが、言うまでもなくここで言う国外にはイスパニアも含まれる]

「北緯的に日本と被るのってイタリアとかスペインか」

「ですね」[訳註:大まかにはイベリア半島やシチリア島の南端が東京と、イスパニア北部のバスク州ビルバオや仏マルセイユが札幌とそれぞれほぼ同緯度]

「まァ地中海性気候とかで全然条件違うんだろうけど」日本も温帯に属する面で共通しているものの、夏季は尋常でなく多湿だと聞く。「あれワイン畑とかさ、何だっけオリーブ?とかってあんま雨降ると駄目って話あるよね」

「ああ、ブドウの栽培面積はイタリア・フランスより多いって言いますねスペイン」尤も作付面積と生産量は必ずしも比例しない。「降水量多すぎだと実が水っぽくなったり、あと農作物が病気になりやすいってのはあるのかな」

「そりゃ《太陽と情熱の国》なんだから雨なんて降らねっしょ!」我等が日沈まぬ王国レイノ・スィン・オカーソに当てたニコニコーナの形容も、彼女らの住まう日出づる帝国インペーリオ・デル・ソル・ナシエンテを《忍者と侍の国》と呼ぶのと同程度には正確であろう。いや勿論、《自由の国エスタードス・デ・リベルタッ》[訳註:自由の女神像エスタトゥーア・デ・リベルタッ]の呼び名通り自由が人命の百万倍の価値を持つ国もあるにはある。「スペインのブドウは酸っぺいん」

「《The rain in Spain stays mainly in the plain.》」

「おっ?」

「――いや平地以外でも降るでしょうけど普通に」《美しき谷間を浸すベージョス・バージェス・バーニャ》とも謂うが、実際には低地ティエーラ・バハ平野部ジャヌーラよりも山岳地方テレーノ・モンタニョーソ――取り分け大西洋に面したガリシア周辺――の方が降水量はずっと多い筈だ。「文法的にもちょっと変だし」[訳註:生真面目にstaysをfalls、inをonへと代えて記憶している読者もおられよう]

「知ってる知ってる、アレだオードリー・ヘップバーンの」

「レーニンはスペインじゃなくてロシ――」

 文脈を無視した――そして前掲のトロツキーとスターリンを引き摺った――馬場嬢が的外れな反論を物したところで、四人の前に市役所駅行の電車が滑り込んでくる。


醜怪なる高速生物アルタ・ベロシダッ・エスパントーサとでも呼び得るような巨大ミミズロンブリース・ヒガンテースコたるやそれこそ英ロンバード街からロンバルディアへの密売経路ナルコトラーフィコですら訳無く掘り進めるであろうことを鑑みるに[訳註:《(倫敦ロンドレースの)金融街ロンバード・ストリートから秦国産甘橙ナラーンハ・デ・チナまで全て》とは富裕層から貧民まで皆、つまり《十中八九確かなこと》を意味する表現だが、特に伊ロンバルディア州が甘橙オレンジやマフィアの産地として有名という事実はない]、怪物がその腹中に何百の人間を飲み込んでいたにせよ五エスタディオにも満たぬ隣駅までの隧道を走り抜けるのに百秒も掛からなかったとして何ら不思議はなかった。[訳註:車中での会話が割愛されたのはその内容を精査・検閲した結果というより、単純に地下鉄の走行音が邪魔で殆ど聴き取れなかったからである]

「――ぁらぁ英語なんてなあ所詮鳥類相手にピーチクパーチクさえずり合う為の、まァいわばバーディーランゲージに過ぎないんすよ」[訳註:浜松のカラオケ店内にて花から教わった、カルロス一世の発言とされる些かブレの大きい言語論については第十三章を参照されたい]

「またB地区の話戻ったか思ったわ」ミコミコーナは下車すると同時に先を歩く猫の従士の後ろ襟を掴んで引き戻しながら以下に続けた。「ちょい待ちあれ乗れそう……そのバードにはペンギンも含まれますか?」

「そりゃペンギンもペリカンも、ペンタギンとて含まれましょうよ」

「焼き鳥は?」馬場久仁子はこれから口に運ぼうという食肉カルネに語り掛ける趣味があるのだろうか?

「A5というからには地鶏とかより対和牛の言語なんじゃないのか?」

「そこはせめてオージービーフにせえや!」無論読者の中にもご存じの方があるように、日本人が食前の祈りオラシオーン・デ・ロス・アリメントスに代えて発する短い感謝の辞コルト・アグラデシミエントエル・セニョールではなく会食の主催者アンフィトリオーン調理者チェフ、いやそれにも況して動物や植物の食材そのものに対して捧げられているのだという話を聞いたことがある。そういう意味では我々も《食事をというか食肉を有難うサンクス・フォ・ザ・ミール・オア・ラザー・フォ・ユア・ミート》くらいは言っても良いかもしれない。「でチヨさん日本語は? やっぱイエローモンキー?」

「バカだなメガネザルは……カールおじさんが神聖ローマ皇帝だった時代だぞ」日本人は猿扱いされているという自覚コンスシエンシアが少なくともこの中学生ふたりにはあるようだ。[訳註:第十三章で千代も同じ質問を花に向けた為。因みに二〇一七年より旧明治製菓のトウモロコシ菓子スナク・オハルドラード・デ・マイース『カール』が西日本限定販売になることをこの物語の登場人物たちはまだ知らない]しかし考えてみれば、生まれ変わるのが秦国でもない限り転生するなら筆者も鳥類より類人猿を所望したい。「インドとアメリカの区別も付かん野蛮人がジパングの言葉を知るはずないだろ」

「じゃあ何語がどの動物に対応してんだよ」

「はい?」自動昇降機が起動し少女たちを上階へと運ぶ。

「桃太郎だってキジとしか話通じないんじゃ鬼退治で困るだろ」

「いやそもそも桃太郎英語とかしゃべれんでしょ」

「おい、じゃあどうすんの?」

「……そりゃあれは居合わせた犬猿雉が、偶然どいつも日本語しゃべれたっていうレアケースってだけで」或いは桃太郎が動物とも交信できる精神感応者テレパティースタであったか――「まァただの奴の幻聴とか妄想だったってのが実際のとこでしょうけど」

「そ、それにつけても奴はカール……大帝?」

「それ多分シャルルマーニュじゃなくてカール五世の方だよ」チヨさんの愛驢の不在に託けて不平を言うわけではないけれど、八世紀まで時代を遡られてしまうと国土回復戦争レコンキースタも振り出しまで戻ってしまう!「ハプスブルク家といえばサンチョさんドイツ語は?」

「流石は教養あるドゥルシネーア様、ドイツ語ドイチュはたしか……馬肉?」

「なんで食用限定?」

「ドイツ人は馬食べませんか?」

「いや……大切な足を食べちゃ駄目だとは思うけど」安藤部長も返答に窮した。「――兵站へいたんが伸び切って兵糧ひょうろうが尽きたりしたら、已む無く軍馬を潰して飢えた兵士の栄養源にせざるを得ないってケースは……満足に血抜き出来なきゃかなり不味いだろうし冬でもなきゃすぐに腐っちゃうでしょうけど」

「唐突に姫が陰惨な話をしだしたんですけど」スターリングラードで食材となった数十万頭の馬匹の魂が安らかに眠りたまわんことを!「そもそも何が鳥なんだ……これどっち?」

「7番出口って書いてますね」

「名古屋城の下ダンジョン(原註:日本では一般的に地下牢マスモーラよりも地下迷宮ラベリント・スブテラーネオを指す単語として馴染み深い)になってて駅の地下通路と繋がってるとかないの?」

「なるほどそこで男女が密会を――」

「ないでしょうね」名古屋城は七十年前の空襲で大部分を焼失している――と謂うが、地下であれば或いは?「いや方角的にはもしかしたら興正寺こうしょうじの大日堂からのルート上に……」

「ルート上に?」

「いや何でも」ドゥルシネーアは己の妄想を振り払って以下に続けた。「当時はイングランドなんて小国ですし、国力的にはスペイン語の影響力が強かったんじゃないですか? ラテン語は教養人のみにしても外交なんかはフランス語主体だったでしょうし」

「こっちも歴女なのか……で鳥要素は?」

「う~ん……眼中にないというか、ヘンリー八世を籠の鳥程度にしか思ってなかったか」

「ダンジョンといえば」年長のふたりの会話に割り込む猫の従士。「――ドラゴン相手に語らう言語ともおっしゃってましたよ」

「誰がおっしゃってたんだよ」ドニャ・キホーテである……いや違う。

「ドラゴン……あっ、デ・アラゴン!」勘の良いエル・トボソが階段を上がりながら俄に得心した。「キャサリンじゃないの?」

「えっ、ハゲてる方の王子とくっついた?」それはケンブリッジ公爵夫人ドゥケーサ・デ・カンブリーヒアの方である。

「ほら世界史でやりませんでした? ヘンリーが離婚しようとして教皇に破門された――」

「あっ、ああ……ヘンリー王子って弟の方じゃなかったっけ?」

「マンフォオールシーズンズ」[訳註:ここでのmanとは英大法官ロード・チャンセラートマス・モアを指す]

「フォーシーズンズ?」

「……私の説明が拙かったですが、」無実のドゥルシネーアが頭を下げる。「とどのつまりワシントンの桜の木みたいなもので、こういうのは基本後世の捏造というか創作ですんで――別に膨らませる必要のない話題でした」

「――要約すると鳥類とか爬虫類とか、哺乳類まで進化できなかった連中の言葉ってことですから」推し量るにどうやら模試を控えた千代さんは、名城線の車中にて(恐らくミコミコーナから)英語の堪能なドゥルシネーアに教えを請うよう諭されていたのであろう。どっこい従士の方とて実際には港で独り英文を口遊む程度には《堪能にコン・フルイデース》なっていたものの[訳註:第二十三章を参照のこと]、畢竟彼女の個人講師トゥトーラは飽くまで蜂の騎士ひとりを措いて他ないというわけだ。《二君に仕えずナーディエ・プエーデ・セルビール・ア・ドス・セニョーラス》と言えば聞こえは良いが[訳註:これは『史記』ではなくマタイ書からの引用]、ここで謂うseñorasが主人アーマスではなく教師マエーストラスである以上単なる怠け心の発現と見做されても弁解できまい。「大体何ですかJポップなんてのは……中学レベル以下のクソダサい英文並べ立てて恥ずかしい。あんなのがオサレだと刷り込まれてるんだから、本当の意味での一億総中二病ですよ」

「いやそれは間違っちゃないけどお前にもダサいとか分かるのか?」

「外人が意味も知らんでアホな漢字Tシャツ着てクールジャパンとかイキってるようなもんでしょうが」[訳註:イキって≒《誇らしげに見せてモストランドラ・コン・オルグージョ》?]

「イキってんのはクソ寒い文化庁の役人どもと今のお前だろ。いきりや長介かよ」[訳註:但し《涼しい日本戦略》の実質的な戦犯は経産省とのこと]

「誰すかチョースケて。イキリス人?」

「何も無邪気に異文化を楽しんでる外人さんにまで飛び火させなくても」槍玉に挙げられた異人らに代わって肩を竦める心優しいエル・トボソ。

「それ云っちゃったらお前アマデ――でぁあっつ!」路上の噎せ返るような熱気に目眩を催したギネアの王女が、階段を最後まで上がり切る前にその両脚を躊躇させる。「アマ……甘々と稲妻、アメアメーナ様ひとつ雨乞いの方を!」

「この飴甘えな」

「幼児レベルの食レポ来たこれ」ミコミコーナを追い抜いて地上に這い出たサンチョが振り返りざまに感嘆の声を上げた。「何だこれ、奉行所駅だったのか?」[訳註:市役所駅の7番出口は高麗門を模した意匠で、瓦屋根と筆書きの駅名標が堂々たる風格を醸している]

「アメアメって……もうそれキャンディキャンディじゃないですか」しかもキャンディス・ホワイトはアメリカ娘アメリカーナであった。物語はミシガン湖付近の孤児院にて幕を開けるが、残念ながらミッシーミッチーは登場しない……(但しニャンコミチーナと呼ぶほどには可愛げのないオリビアだかスィルビアだかいう名の猫が出てきた筈だ)「あっほんと、オシャレ……」

「駄目よ姫、そこは大人の事情でキャン――オキャンティスキャンティとかに差し替えとかないと」手扇子で額を扇ぎながらアフリカの王女も顔を出す。「うおぅ、何これここ絶対名古屋城の出口つかむしろ入口っしょ!」

「オキャンティ・スキャンティ……漫才コンビかな?」殿しんがりを務めたニコニコーナ。

「スキャンティ(原註:scantiesとは丈の短い又は恥知らずなパンツパンティス・デ・シントゥーラ・バハ・オ・エスカンダローサス)はギリギリ解りますけど、オキャンティって何ですか?」

「えっ逆じゃないの? スキャンティが死語っつんなら分かっけどオキャンティて中高生が使ってる言葉じゃないのか……」[訳註:恐らく御転婆を意味する《御侠おきゃん》と洒落者を指す《オシャンティー》の混成語、或いは単なる御子神の記憶違いだろう]

「いいからどういう意味だよ」

「……酒呑みの女」慥かにイタリアでの[訳註:『キャンディ・キャンディ』の]人気は凄まじかったと聞くが……[訳註:伊Chiantiキャンティはトスカーナ州の赤葡萄酒産地として有名]

「中高生がどういう文脈で飲んだくれ女に言及するんだ!」

「それこそ《酒神バッカスなんて気にしないわ》とか歌いながら一晩中酒盛りしてそう」エル・トボソが危惧する通り、歌いながら消費される酒の量カンティダッ・デル・コンスーモ・デ・ビーノス・ミエントラス・カーンタンたるや想像するだに恐ろしい!

「ほらサンチョ見てみ、この日向と日陰の白と赤のくっきりした境界線を!」

「いや白と黒ってんなら分かるけど」尤も中南米には黒珈琲カフェッ・ネーグロを《ティント》と呼ぶ国があるが[訳註:語源と思しきラティン語のtīnctusには《有色のコロラード》という意味があるので、赤も黒もその範疇ということだろう]、我々にも余り馴染みのない使い方には違いない。

「姫の本日のお召し物はスキャンティ・ホワイトであらせられますのか?」

「……ご想像にお任せします」本人にそう返答されては、魔法マーヒアを以て突風でも起こさぬ限り自身の想像で賄う外ないノ・プエーデ・スィノ・マネハールロ・コン・ス・イマヒナシオーン。「一応何も穿いてないわけフルモンティではありませんので」

「いっそスパとかスーパー銭湯探して一汗流しつつ」静岡ならまだしも、名古屋の街中でそうそう公衆浴場バーニョス・プーブリコス[訳註:英語と同様bañoも風呂と便所双方の意味を持つ]に出会すだろうか?「――バブ姫の風呂モンティを拝みたいですわ。うち的にはそれでグランドスラム」

「ミコン姫がそんな世迷い言タンホイザーしてる間にまた猿人形モンティッティの奴が、門の前でティッティ我慢してるみたいですよ」

「なんだティッティって、ネフェルティティ愚弄する流れ?」

「いや我慢してないて」MontittiとはMoncicciつまりMonchhichi[訳註:英字表記だとchicchiやchitchiではなくchhichiと綴るようだ]のことだろう。チッチはおしっこピピッの幼児語だ。「てぃってぃと行こうぜ」

「なんだてぃってぃとって」

「てぃってい?」[訳注:《トゥッテ(伊tutte《全て》)い》<《とうと(尊)い》]

 如何なる強行軍を以てしたとて十分前[訳註:実際には殿堂を発ってから三十分以上が経過している]に摂取した氷菓がよもや口腔から膀胱までの長い旅路を既に踏破したなどと言われても俄には信じ難い。それは兎も角三人は、ニコの発汗を促す為にも勇んで白色地区バーリオ・ブランコ[訳註:語感としては《白人居住区》だが、地下鉄出口が作る陰との対比を強める表現と思われる。無論周辺が街路樹に囲われていれば、歩行者を強烈な陽射しから守ってくれる木陰が皆無ということもなかろう]へと踏み出したのだった。


大津通沿いの歩道に立った四つ目が不意に奇声を上げる。

「なっ!」

「何? 漏らした?」

「いや漏らさんすけど……」車道を挟んだ対岸を指差す小丘モンティークロ[訳註:但し単数であることから貧しい乳房ではなく《尻丘モンテ・クロ》を表している可能性も。尤も作中豪尻で名高いのは久仁子ではなく千代さんである]――可愛い乳モナテータス――否、モンティティ。「名古屋城あった」

「えっナントカ通りのこっち側つってなかった?」

「ババちゃん多分あれ市役所」

「アレが!」成る程、馬場嬢が観覧車の巨人の拳の中から遠見した天守は名古屋市の庁舎だったようである。こちらは戦禍を免れたのだろうか?[訳註:屋根の輪郭が名古屋城の天守閣により近いのは、市庁舎と同じ番地の南側に立ち、同じく城郭風の意匠を施された愛知県庁の方だ。但し金鯱および四方睨みの鯱が瓦屋根に設置されているのは市役所の頂部。それらは隣接している為、ニコが実際にどちらを指したかは不明である]

「いやニャゴヤ城の正体見たりじゃねんだから」嘆息するミコミコーナ。アメン=ラーの下を数歩歩いただけで息が上がっている。「こちとら枯れ尾花には用がねえんだが」

「じゃあ姫の彼氏のハナ先輩登場まで恋バナでもしますかね」いち早く興味を失ったメガネが一体を見回して言った。「……つってこれどっち向かって歩くのが正解なの?」

「ここ公園?ない突っ切れるんじゃないかなあ」ドゥルシネーアが東側を指差しながら携帯を覗く。

「――そしてアホな漢字Tシャツの外人」

「いやアレ外人か?」ミコミコーナが目を細める。「中韓チャイコリの人なら別にいいだろ」

「こら、人に向かって指差すの止めなさい」

「姫部長あの人達にニャゴヤ城どこか訊いてきてください。英語で」

「やだよ恥ずかしい」舞台慣れしているキエン・ビベ・エン・エル・エスセナーリオ・コモ・エン・カサ安藤蓮が人見知り故にそう言ったのではないことに疑問を挿む余地はない。ただ単に日本で日本人が異邦人に道を訊ねるなどという道化役を自ら買って出ねばならぬほどこの優秀な女優は仕事に飢えておらぬ、それだけのこと。そもそも彼女は今も地図応用程式アプリカシオーン・デ・マパで場所を確認しながら歩いているのだ。

「お前がヘイファッキンサノバビッチカムウィズミーとか言って案内してこいよ」ミコミコーナが斬新奇抜な提案ヌエーバ・エ・インノバドーラ・スヘレンシアを物した。「終わったらそんまま独りで東京帰っていいから」

「あっ!」

「何!」

「キャンドゥキャンドゥってのは如何か……?」

「何が?」

「いや姫様の……異名?」

「きゃ――てめうちのダンニャのドゥルシネーア様によくもそんな、お安くとまった女みたいな名前付けんなし!」彼女となら何が出来るというのだろうコン・エジャ・ケ・ディアーブロス・プエデ・アセール

「百円はお安くとまり過ぎだろ」

「……観光ボランティアの人とかは無料でガイドとかするんでしょうけど」

「連中の方から日本語で訊ねてきたら私が答えてしんぜますよ」さも尊大に胸を張って従士が後方を指し示す。「――アレこそ尾張徳川家が代々住まうという名古屋城だとな」

「やめろ……住んでるってもせいぜいカワムラナントカだろ」

「ルナシー?」

「違う」河村某ウン・タル・カワムーラというのは名古屋出身の政治家であったり、V系揺転楽隊の声楽家だったりする男たちの総称ノンブレ・ヘネーリコである。[訳註:市長の出生名隆之(たかし)と隆一では一字違いだが、楽隊の《月海ルナシー》は構成員全員が神奈川県出身とのこと]「川はさっき散々見たしいいだろ。海はもう行ってる余裕ないということでこちらも話は付いてる」

ルナっつか三日月もドンペンが乗ってましたしな」[訳註:第三十章にて著者が説明した《三日月ハゲ》と渾名される黒猫の名こそがそのルナなのである]

「……月に代わって、オシッコよ?」[訳註:《月の名の下にお前を罰するテ・カスティガレッ・エン・エル・ノンブレ・デ・ラ・ルナ》との語呂合わせとはいえ、排尿ではなく《お前に糞を掛けるテ・カガレッ》と意訳したのは流石に尾籠が過ぎると言わざるを得ない。せめて《お前は脱糞するテ・カガラース≒戦慄する》とすべきである]

「やっぱさっきドンキでしてこなかったんか!」道理で帰りが早かった訳だ。「こんなとこで漏らしたらそれこそカワムラに代わってお仕置きだべぇだぞ……」[訳註:公園内での大小便は当然軽犯罪法違反に問われる可能性が高いが、不慮の失禁についてまで追及されるかといえば多少は酌量の余地があるのではないかと思われる]

「大丈夫ですって!」

「セ、セーラーびっちムーン……」

「過活動膀胱には我慢する訓練が有効らしいよ」

「いやそれ以前に月はおしっこしないしな」地表から湧き水のように滲み出してくるというなら兎も角、月面に存在し得る水が凝固して氷となった状態に限られることを鑑みれば矢張りこの擬人法ペルソニフィカシオーンに妥当性は見受けられない。「――でこの月極め?駐車場のとこまっすぐ進んで大乗仏教なの?」

「別に月極めではないだろ」営業時間が夕刻までということならば、けだし登城した諸大名が馬や駕籠パランキーン――というのも日本では近代まで馬車カルアーヘという交通手段が発達しなかったからだが――を留め置く為のものなのであろう。「まァこいつが漏らしたら漏らしたで水でも被って反省させるとして……猿だけに」

「ああアミアミーナか、そしたら誤魔化せますな」

「被る水が無かったらお堀にでも飛び込めばいいよババちゃん」

「そっかさっきのカッパ橋の上流なんすよねここいら、それなら安心だ」午前中に飛び込みの見本エヘンプラールにも恵まれたことだし準備も万全といえよう。「――っておい!」

「つか出口の前にあった看板名古屋城のだろ」傍らでドゥルシネーアが経路を調べているのを察したミコミコーナ故にそちらは注視せず、敢えて素通りしたのだとみえる。「とりまこっち歩いてりゃどっか入り口着くべ……そいやオカマホリエモンだのホリエミツコだのってのが見当たらんね。アレってお城をこう、グルっと囲んでるもんじゃないの?」

「さあ……そこの柵越えたとこが一応外堀なんじゃないかな」

「えっ?」四つ目が背伸びして遠巻きに覗き見る。「……ショッボ!」

「お前も相当ショボいだろ。水入ってるか?」

 四匹の猫は歩みを緩めつつも背の低い竹製の柵セルカ・デ・バンブッの傍らに近寄るなり、城郭から彼女らを分かつ堀の深さと広さを確認した。


或いはそれは木陰を求めて道の端へと引き寄せられたのやも知れぬ。

「何だったかな、名古屋城って熱田台地って高台の、左上端っこに建ってるから西と北側は結構低くなってるんだけど」

「さあ――ってめっさ詳しいじゃないですか」呆れるミコミコーナ。

「いや昔テレビで視た記憶が……で逆の南と東側は台地の上で、水入っても低い方に流れちゃうんだって。だから元々空堀だったみたいですよ」次いでエル・トボソは西側にそそり立つ城壁を指し示すと以下に続けた。「でもあっち側ずっとお城の石垣なんじゃない?」

「ほんまや、アレっしょ熊本城と同じ武将が……清春」[訳註:大地震により熊本城の石垣が崩落する被害を受けたのは二〇一六年四月の出来事である]

「そこまで知っててどうして出てくる名前がキヨハルなんですか」

「いや加藤清彦っていたなと思って」

「キヨヒコでもないですけど」

「ハルヒコだろ」加藤晴彦は名古屋出身の芸能人の名だが、築城術アルキテクトゥーラ・デ・カスティージョスに長けるなどとは資料のどの項目(特技や趣味等)にも記されていない。「いい加減スケキヨから離れなさいよアンタ」

「バブ姫様、提案なんだけど」見事に整然と積み上げられた石累フエールテ・デ・ピエードラを愛でるような優しい眼差しで眺めながら、御子神嬢が溜息を零しつつ以下に続けた。「このメスガキふたりもここに積んで帰りませんこと」

「積めねえだろ!」五体を切り離せば或いは嵌め込めぬこともないかも知れぬ――とはいえ均衡エキリーブリオ強度ソリデースに於いて劣る点は否めない。何しろ城を守る石壁だ、脆いようでは困る。

「こいつは兎も角チヨさんは罪無き従者ですぜ? あとメスガキって言うな」

「いやむしろチヨさんは色々詰んでるから――痛い痛い痛い」万が一留年でもしたら、石垣の一部にならずとも千佳夫人から石抱責めアプラスタミエント・コン・ピエードラスくらいは宣告される覚悟が必要だ。

「それとメスガキータって世界遺産なかったっけ? アルハンブラとかの近くに」

「な、ないですね……あったとしても東京と――静岡くらいは離れてるのでは」

「メースガキーターメースガキーターってアレ日本の童謡じゃなかった?」

「何処に来たんだよ……」

「メスキータのことを申しておられるのかな?」従士は主人の声色を真似て[訳註:第二十章を参照されたい]長姉の滑稽な言い間違いを訂正した。

「ギー太がメスならむったんはオスですかねい」六弦琴ギターラは女性名詞であるし、マスタングムスタンゴ牡馬カバージョの品種である以上ニコの言う通り男性性ヘーネロ・マスクリーノとなる筈だ。[訳註:ギー太はギブソン社のレスポール仕様でこのレス・ポールは男性奏者の名前。そもそも《~太》というのは男性名だろう。むったんもフェンダー社のムスタングである以上、電気式六弦琴ギターラ・エレークトリカの機種という意味ではギー太と同性だと考えた方が納得性は高い]

「バッカおめえ悟飯をオカズにしていいのはピッコロさんだけやぞ」

「弦楽なんだか木管なんだか……」尤も非電気的アクースティカであれば小型六玄琴ギターラ・ピッコロというのを目にした記憶がある。「でも今晩観に行くアマ――デウス?もクラシックとロックの融合みたいな曲調だよね」

「げっ、バブルス姫アマデなんか聴いてんの?」

「いえこの子が――」

「おいバブルスは猿だろ……」黒猩々(チンパンセー)である。

「いわゆるバロックロックってヤツよ!」

「いわゆってんの聞いたことないけど、一応モーツァルトはバロックじゃねえから」[訳註:モーツァルトやベートーヴェンの音楽は続く古典派クラスィシースモに属する]

「この子が貸してくれたので」これは布教ミスィオーン普及活動プロモシオーンまたは福音の伝道プロパガシオーン・デル・エバンヘーリオなどとも呼ばれるが、この手の勧奨行為エステ・ティポ・デ・レコメンダシオーンは度が過ぎると煙たがられるので注意が必要だ。

「ロックとクラシックって……マリミゼみたいなもんか?」

「マリみて?」

「マリみてじゃねえよ、マリスが『マリア様』の主題歌とか歌ってたら嫌だわ」聖母マリアマードレ・マリーアで都合が悪ければ『不気味の家のマリスの冒険アベントゥーラ・デ・マリーシア・エン・ラ・マラビージャ』[訳註:『不思議の国のエン・エル・パイース・デ・ラス・マラビージャスアリスの冒険』の西maravillasがmalavilla《悪しきマラ別荘ビジャ》に変わっている]の主題歌でも歌わせたら良かろう。「……いやメガデスが何か曲作ってなかったっけ?」

「メガデスは作ってないと思うぞ」

「マリア様がメタル――つってうちも推し以外は大概解散したバンばっか聴いてんな」

「推しバンとてその内解散しますよ」

「まァルドも『歓喜ディー・フロイデ』とか『エリーゼ』そんままメタル調にしてドイツ語で歌ってる曲とかいくつかあるし」移動生活者の狂詩曲ボウヒーミアン・ラープソディのような多重録音ソブレグラバシオーネスを施すのだろうか?「ましてやそちらさんはヴォルフ閣下にガング様だし全員カツラ被って弾いてるんじゃないの?」[訳註:因みに独Gangの原義は《通り道》]

「そんな、オオカミの人たちじゃないんだから」

「オオカミの人……あれカツラか?」アヌビス神のように頭部が狼の人間のみで組まれた人気楽隊が日本には存在し、歌詞には日本語と英語が用いられている。「マナ様といいインタビュー面倒くせえのばっかな」

「ところがどっこいアマデウスの曲は全編日本語オンリーなんですよ」

「いやそれ日本語でしか歌詞書けねえってだけだろ」一度国際的な当たりを飛ばして調子に乗った非英語圏の歌手などは大概、英歌詞の新曲で世界市場を狙う際にAメロエストローファBメロプエンテの出だしやサビエストリビージョにだけ母語を取り入れて異国情緒エクソティースモを演出する――そして色気を出した挙げ句興行的には失敗する――ものだが、これが国内だけで充分需要を確保できる日本の音楽家集団の場合全くアベコベで、要所要所にだけ英語を使うらしい。その程度なら幼稚園児にだって作詞は出来る筈だ。「陰陽座とか和テイストのバンドってんならともかく」

「ザ? ジじゃなくて?」

「パチスロやらんのか貴様!」

「やらねえよ中坊だっつってんだろ!」

「そういえばさっきの観覧車のとこのドンキも下パチンコ屋さんみたいでしたね」物の本に拠ればこの公営遊戯フエーゴ・デル・プーブリコの発祥は名古屋とある。

「そうだぞてめえら、営業に協力しねえと名古屋県警様にしょっ引かれっぞ」否、中学生が入り浸っている方が補導されるであろうポネールレ・エン・プリスィオーン・プレベンティーバ

「はいっボイン先生、母音の前だとザはジになるからジ・オンミョーだと思います!」英語は冠詞に係わらず性数一致コンコルダンシア・デ・ヘーネロ・イ・ヌーメロの制限が殆ど無い点で機能的かつ簡便ではある。

「前じゃなくて後じゃこのシイン生徒めらが」陰陽とは《影と光オスクーロ・ブリジャンテ》及び五元素を意味し、それらを研究する科学者シエンティーフィコス――旧くは祈祷師チャマーンと同義である――のことを陰陽の専門家エクスペールト、則ち陰陽師と呼んだ。座とは座るセンタールセの意味だが、半坐の坐と同様に場所や地位、星座コンステラシオーン、更には接尾辞として劇団や楽団コンパニーア・アルティースティカ・イ・ムスィカール等の集団トゥルプ[訳註:西語tropaも仏troupeから派生した単語でどちらも団体を示すが、前者は比較的軍隊の意味合いが強い]を表す言葉でもある。例えばパリのオペラ・ガルニエやミラノのラ・スカラのような歌劇場テアートロ・デ・オーペラも座を付けて呼ぶのが一般的だ。「あっほらイシガキども、立派なメスガキが見えてきたじゃねえか」

「そんな《枕、さくら取ってくれ》みたいに……」

 北進を続けたミコミコーナ一座ラ・サ・デ・ミコミコーナ総延長数里エクステンスィオーン・トタール・デ・ウーナス・レーグアスに及ぶ城壁東側開口部アベルトゥーラへ漸く行き当たるなり、本来の目的も忘れて先人の残せし遺産に甚く感じ入ったのである。


東面の堀外北側は木立等の遮蔽物も少なく、少女たちの視界が開けた為により遠くまで見晴すことが出来た。

「あら~見事なガッキーではありませんこと!」

「ほう、嫌な仕事してますね~」

「攻め込む側にとっちゃな」攻城戦に於ける脅威は《それと知らずに誘い込まれることセール・インビタード・インコンスシエンテメンテ》である。「こここんまま中入っちゃっていいんですよね?」

「うん多分。正門ばっか見てたけど、」ドゥルシネーアは手元に目を落とすと、「東から入ったとこにも門があって二の丸に入れるみたい」――通路を左に折れながらその西奥を指差して以下に続けた。「ほらそこカクって、メス――石垣が枡形になってるでしょう? あの辺が東くろがね御門の虎口だったらしいよ」

「成る程……イシガキがマスガタでクロガネのゴモンがコグチならば」千代はエル・トボソの姫君の博識に舌を巻きつつも話題を合わせる手間を惜しまない。[訳註:他の三人に比べれば当然知識はあるだろうが、安藤さんが携帯を片手に案内していることにも一応触れておこう]「さしづめ葵の御紋は大口でしょうな」[訳註:尚著者は小口は《虎の口ボカ・デ・ティーグレ》、大口は《龍の口ボカ・デ・ドラゴーン》と訳出している。これは名古屋城の金鯱と虎の関連付けを保ちつつも、青龍が東――江戸城や駿府城がある方角――を司ることを踏襲した結果か]

「たしかに駿河城下のサンチョは大口だったな」[訳註:第十一章に詳しい]

「前門の虎口とらぐち、後門の大口とは申しますれど」猫の従士は頭を振り振り答える。「――小口じゃせいぜい餌にパク付く鯉止まりでしょうからの。鯱口しゃちほこぐち目指すならジョーズレベルまであんぐり開けなきゃ魔除けの用は務まりますまいて」

「主人に似て大口叩けるようになったねお前さんも」ミコミコーナはそう言ってからかったが、主人を彷彿とさせるとすれば従者の口真似も見過ごすことは出来ない。「グッチでも裕三でもエルメスでもメスガキでも構わんが開き過ぎて口裂け女にならんようにな」

「《あたしキレイ?》って訊かれたら《キレッキレっすよ!》って答えるのが正解らしいっすよアレ」

「マスクの端っこからハミ出ちゃってんのかよ」日本では冬場、そして花粉症フィエーブレ・デル・エーノの流行る春先ともなると、風邪を引いたのでもないのに街を歩く殆どの人間が医療用口覆いマスカリージャ・メーディカを着用していると聞く。慥かに異様な光景ではあるが、別段国中が白死病ペーステ・ブランカ[訳註:結核トゥベルクロースィスを指す俗名らしい]や黒死肺病ペーステ・プルモナールに汚染されているというわけではないので、今後旅行する予定のある読者諸賢は無用に恐怖せぬよう注意されたい。「こやって《キレテナーイ!》とか言われたらどうするよ」

「キレ気味に」

「ちょっと切り取りが甘いですな」外堀を渡りながらニコニコーナが嘆息する。「こんなんボルダリングの選手なら二秒で登れちゃうよ」

「何だよキリトリって……そんなモンキー基準で語られましても」

「もっとピラミッドみたいにトゥルットゥルに積んでくれないと」

「いやピラミッドのがめっさギザギザだろ。よっぽど登り易いわ」王女の言う通り、例えばクフ王の金字塔に積まれた直方体の切石ブローケス・デ・ピエードラは大きい物でも高さ三クビトゥス程度だったそうだから、よじ登るくらいなら大した労力を要さなかったに違いない。[訳註:尤も化粧石が剥離する前であれば、三角錐の表面も馬場嬢の言う通りツルッツルだったであろう]

「切取りというか……切込み接ぎが」通路を挟む南北の石垣を見渡すアンドルサ。「左右で乱積みと布積みに――谷積み?」

「右キリターとか左キリターとかってのもあったな」

「修復時期とかの問題なんですかね? それとも担当した大名が違うから?」

「いや石垣のことは知らんけど」ミコミコーナは石垣ムロ・デ・ピエードラだの屁こきのラバムロ・デ・ペドレーラ[訳註:西pedrera《採石場》/pedorrera《屁放り》。単なる書き損じであれば《石切場の騾馬》という意味になるか]だのには全く関心がないのだ。「《皆さん相変わらず外人相手にヘラヘラやってますか~》ってのを思い出した」

「会話が噛み合ってねえですな!」これではドニャ・キホーテのラティン語を聴いていた方が(ギネア王女の秦国語よりは)まだマシなくらいである。[訳註:第十五章では旧本坂トゥネルに入る前の花が羅甸語で「ギリシャ語なので意味不明」と呟く場面があった]「こちとら人外相手にベラベラくっちゃべるのにも飽き飽きなんでごぜえますだよ。こっからは日本語でおk」

「キリトといやピエロも歌詞は日本語でも曲名とかアルバム名には普通に英語とか使ってたんだよな」話が戻ってしまった。一行は外堀を越え、愈々城内へと踏み入る。「英語だとクラウンだよね、ピエロはフラ語?」

「そうですね、『気狂いピエロピエロ・ル・フ』とか」

「マリスとかディルとかもフランス語でしょ」実用を度外視すれば、日本人に限らず矢張り最も憧れの強い言語はフランス語なのである。「ディルアングレイってどういう意味?」

「うんと……英語で言う?――いやそれじゃ《ディ・ハノングレ》、か」[訳註:楽隊自体を知らないであろうドゥルシネーアが仏語縛りのせいで間違うのは無理ないことだが、恐らく独語dir《貴方》と仏語en 英語grey《灰色の?》であろう。尤も実際特別な意味はなく、語感から決められたのだとも伝えられる。御子神もいい加減に言っただけだろう]

「いやフランス語で言えよ!」殿下ス・アルテーサはフランス語で仰ったではないか!「《スピーキンイングリッシュ》……ダサ。まァV系あるあるですかな」

「そういえばグレイってLですよね、アレは何語なんですか知ってます?」

「――死神はリンゴしか食べない」

「リン語?」

「チヨさんチヨさんメスガキだけに落書きしてあったよ」

「オシッコじゃあるまいしチョロチョロすんなやもう」落ち着きのない相棒を諌める千代さん。「お前さんみたいな、教養と常識のない観光客の仕業じゃないの」

「モーツさん朝イチで来たんかな?」[訳註:第一及び二十四章ではアマデウスの打楽器奏者が嘗てワイキキの椰子の木に落書きをしたという挿話が語られたが真偽は不明のまま]

「まだ言ってるよ……わざわざ前乗りしてまでそんな参上宣言したいか?」[訳註:以上の二組の遣り取りはそれぞれ同時進行されたもの]

「その点アマデはどうなの、何語なの?」

「はい?……デウスってくらいだからラテン語でしょ」disとてdeusの活用形フォルマ・コンフガーダだ。[訳註:複数形の与格と考えれば《汝、神々を愛せよ》となる。勿論アマディスのこと]「岸辺云っとくけどアマデ厳密にはビジュアル系ではないよ」

「ラルクか! これまた懐かしいな!」《ラルク》も又フランス語である。「でも九〇年代て基本そうよね、周りが勝手にそう呼んでんだけで。今世紀入ってからだと大体が《ちーっす、うちらヴィジュアル系っすウェーイ!》って自分から名乗ってくノリだもんな」

「ゴールデンボンバーしか思い浮かばない」

「アレっしょ、ハニャ先輩や部長が周りから可愛いだの美女だの言われて本人はチッもっと中身を見てくれよってなってるとこにうちら出てきて《どもープリチーシスターズですー》とか自己紹介したらツッコミの嵐みたいな」

「誰がツッコんでくれるんだよむしろその優しさに涙するわ」己を弁えた馬場嬢の自虐に巻き込まれた形の千代さんが、忌々しそうに舌打ちしつつも以下に続けた。「何だその言ったもん負けの哀しい図式は」

「おい、サンチョが心に傷を負ってしまったじゃないかどうしてくれるんだ」些か容姿に於ける勝ち組ガナドーラス[訳註:一応複数形にはなっているが、安藤さんが自身の美貌を鼻に掛けたことはないし、ドニャ・キホーテに至っては可能な限り自分を厳めしく演出するよう心掛けている節すらあった]故の傲慢が鼻に付くとはいえ、腫れ物に触るような扱いをされるよりは幾分救いがある。千代さんとて化粧次第ではどうにかなるとのお墨付きガランティーア・オフィシアール[訳註:但し第二十六章にてそう励ましたのはニコである為信頼性も儚い]を得ている身だ。「となるとそれがしは遍歴の騎士なりなんてのも言ったもん勝ちってことになるかな」

「価値観の相違」

泣かぬ子は乳を貰えぬエル・ケ・ノ・ジョーラ・ノ・マーマ》――英語の慣用句ならば《軋む車輪ほど油を差してもらえるスクウィーキー・ウィール・ゲッツ・ザ・グリーズ》と謂うが、ドニャ・キホーテが《蜂の騎士》を騙って得た物とは一体何か?


外堀を渡った攻城部隊ウニダッ・デル・アセディアドールは先ず枡形の虎口エントラーダ・セルカーダ・クアドラーダに視界を遮られた上で直進をも阻まれる為、自然城内へと侵攻する勢いを削がれることになる。尤もラ・サンチャの猫たちの行軍は端から緩慢なので、取り分けてそれによる弊害も見られなかった。

「まァ他人に迷惑掛けない範囲なら何言われようが好きにすりゃいいんですよ。ロックとかパンクってなそういうもんでしょ」

「ロックとかパンクはそもそも周りに超迷惑掛けて成り立ったジャンルな気がするが」揺転楽ロクとは体制に反発して生じた音楽だし、無用楽プンクもやがて体制に飲み込まれたその揺転楽に抗い生まれたとされる。「つってアシはハナちゃんに何も迷惑掛けられてないしむしろ隣に居てくれるだけで癒やされたけどな……卑しいのがセットのお値段じゃなければ」

「うっせえぞイヤらしい系」尤もドニャ・キホーテなら《癒やしの騎士カバジェーラ・クラティーバ》と親しまれるよりは《血塗れの騎士カバジェーラ・クルエンタ》と恐れられる方を好むであろう。「ロックとはそもそもろっくでもないものという自己矛盾を孕んでおりますのじゃ……ちな白黒どっち付かずのグレイのLですが、ありゃ単なる《ちょい変え》ってことらしいですよたしか」

「そんな《ちょい足し》みたいな」

「ああ、Rじゃ普通だからって?」つまり《有難うグラーシアス》と言うべき場面で誤って《冷たいなグラシアール》と口走ってしまっても、日本人なら恐らく看過してくれるということだ。[訳註:西glacialは氷河を連想する単語だが、強弱の位置が違うので悪意なく間違うのは難しいだろう]

「アンノッキンノンニョンド~って歌お前ら知らんだろ」

「いやグレイ詳しくないんで」

「なるほど……」エル・トボソがV系に話を戻す。「もっとこうグラムロックの派生系みたいな勝手なイメージありましたけど、結構複雑なのね」

「ほなキロロックとか、トンロック?」

「見た目はともかくデビッド・ボウイよりはボウイ寄りなんじゃないかしら」只の少年ボイにあんなケバケバしい化粧をさせたらそれはもう単なる万聖節前夜祭ハロウィーンである。一行はお菓子姫ドゥルシネーアを奪われぬよう夜を徹して警戒せねばなるまい。「じゃあエックスやバクチクはどっから来たんだって話になるがお前らこういう話全然興味ないだろ」

「ええ全くないです」[訳註:ニコの返事]

「まァもういい加減下火なんだしそんくらい軽くないと生き残れねんじゃないすか」退屈な話題を早々に切り上げる猫の従士。「ガラガラヘビー級のパイセンだってさぞや日々お疲れでございましょうよ……」

「元からどマイナーなもんが更に完全に下火になってからわざわざ小バンギャになってる現役中坊もさ、自ら市民権捨てて河原で生活してるようなもんだろがな」イエスは兎も角仏陀などは元々王子の身分だったそうだから大層な酔狂にも思えるが、言わずもがなバンギャは余人の救済が為自ら進んで冷遇に甘んじる道を選択したわけではない。「一応言っとくがミコミコーナ姫はこの身長で五十キープしてっからな。重いとは言わせんぞ」

「そのお世辞にも軽からぬ、けしからぬパイオツが邪魔だろっつってんだよ!」

「あっそうだパイオツだ!」突然大声を上げる御身百数天秤貫リーブラスの王女。

「ミコさん、人前!」

「何言ってんだこいつ……」

「あ、すみません姫」次いでミコミコーナは隣を歩くサンチョの後頭部を叩いた。「――っててめえが云ったんだろ何がこいつだこら」

「すまみせん」注意タテ![訳註:恐らくこれは西¡Estate( atento)!《ご注目、乞うご期待》等の略がそのまま慣用表現となったものだろう]《パイオツ》もターテス、つまりオッパイテータス逆さ読みレール・アル・レベースだが[訳註:前章でタネとネタについて説明があった]、比較的低俗さブルガリダッを強調した卑語なので用いられる場面は限られている。「でもケツ全然でかくなかったすよね。やっぱ尻軽が影響しているので?」

「いや金爆きんばくって聞いてさっきから何か最近そっち系で、名古屋のご当地バカバンドみたいなの動画で視たなと思って思い出せなかったんだけどパイオツでした」

「いやそんな名前のバンドはねえよ」チレには《オッパイズロス・テータス》なる燻蒸系の楽団バンダ・フンクがある。偏見から安易に断言するのは危険だ。

「どう書くんですか」意外にもドゥルシネーアが興味を示した。「まさかカタカナじゃないですよね?」

「ほら、円周率のπにオツカレのオツ」

「オツカレのオツって何だ……カツカレーのカツじゃねえんだぞ」

「いやチヨさんカツカレーのカツもカタカナだから」

「甲乙の乙じゃないですか?」段々安藤部長が割って入らないと会話が進まないようになってきてしまった。

「それだ! 甲乙の乙に丸――句読点の○ね」田舎者はお前だウン・パヨ・トゥ!――とでも詰られているかのようではないか?「やっぱライブでもパイオツ丸出しなんかな」

「えっ女なん?」

「いやだからパイ付けて演奏とか」男が半裸で舞台に上がったところで、余程肥満体でもない限りそれを乳房ママとは呼べぬ。

「ゴルデンボンバの仲間なら楽器もエアなんじゃないすか」それを生演奏エスペクタークロ・エン・ビボと呼ぶか否かについては議論の分かれるところとはいえ、出演者が死体でない限り生きた見世物オブヘート・ビビエントには違いない。「それか偽乳にせちちに血糊とか仕込んどいてお客に向けて乳首からブシャアとか」

「……そこまでドギツい感じの面ではなかったような」狂信教団クルト・レリヒオーソさながらだ。

「音楽的には普通なんです?」仮に想像上の六玄琴ギターラ・イマヒナーリアでも無伴奏ア・カペーラ[訳註:これは伊語からの借用表現で、意味としては西al estilo de la capilla《教会音楽の様式でアル・エスティーロ・デ・ラ・カピージャ》が近い]ではない筈である。

「いや曲は知らんけど」

「バンドの動画視て歌は聴いてないんかい!」

「なんか風船で犬作ったり、コマ撮りアニメでかめはめ波撃ったりしてた気がする」楽曲に合わせて風船芸アルテ・コン・グローボスを仕上げたり、龍球ドラゴンボールの劇伴を演奏していたのだとは考えられまいか?「今思えば売れない芸人グループだったのかもしれん」

「普通にユーチューバーだろ」幻覚剤ペヨーテでもキメながら撮影した線もある。「なんか料亭の入り口みたいですけど」

「料亭の入り口に侍立ってねえだろ普通」

「料亭でもオムライスくらいは出すだろ!」

「めっさ洋食!」

 益体ない会話が四匹の牝牛の足を少なからず遅らせたにせよ、何とか少女らも名古屋城の二の丸セグンド・パラーシオへと通じる高麗門の軒下までは辿り着いたようである。[訳註:改札所となっている東門は高麗門のような独立した屋根のない格子戸付き数寄屋門。先程安藤嬢が言及した東鉄門は現在本丸東二之門に移築されており、著者はこちらと混同した可能性がある]


隻眼の巨神と相まみえてより既に半時間――百腕の巨人の口中に押し入ってからは実にその三倍の時が経過しており、今や時課オーラス・カノーニカスで言うところの六番目セクスタ九番目ノーナ――イエス磔上に死せる(若しくは失神せし)慈悲の刻限オラ・デ・ラ・ミセリコールディア――のほぼ中間の時分となっていた。

「リア中ども学生証か何か持ち歩いてる?」受付を前にしたミコミコーナが訊ねる。

「一応」

「写真は見ないでくれ」年弱のふたりが学生手帳を取り出した。

「現物よりなんぼかマシだろ」差し出された身分証には目もくれず財布を取り出すギネアの王女。券売場窓口に掲げられた料金表を凝視しながら眉を顰めた。「高校生以上は区別無いんか」

「あっ出します出します」

「いいのいいの、」猫や小猿相手と違ってこちらは一国の姫君なのだ。「さっきの太腿で二万までは出せます」

「……死んでも出します」

「うそうそ、」潔癖なドゥルシネーアに狼狽えながらも、ミコミコーナは国賓への持て成しを疎かにする一切の不名誉を受け付けなかった。「本心を言えば最低でも二兆は出したいとこですが、――」

「桃なら二じゃなくて木やろ」

「あいにく大ミコミコ王国も不景気でしてな……」ミコミコン王国に限らずアフリカ諸国の多くが世界で最も一人当たりの国内総生産が少ない国々として名を連ね、大陸最大の経済大国であるニヘーリアでさえ――否、大国だからこそ――貧困率は最悪の数値を叩き出している。西側や共産圏で如何に汚職や不正を重ねたところで、生粋の独裁国家群に拠る悪政を前にしては――悪徳の面に於いてエン・ビースタ・デ・ロス・ビーシオス――到底歯が立たないのだ。念願の王政復古レスタウラシオーンを果たした暁には[訳註:但しこの間パンダフィランドが共和制を敷いていた訳ではないだろうから、正確には王朝が変わっただけ?]、次期女王もこれを篤と肝に銘じて国政に励まねばなるまい……「恥ずかしながら財政は逼迫するやら国債も格下げになるやらで、金庫番の大石オーイシ内蔵助クラノスケ大臣とかがうるさいのです」

「家老じゃなかったでしたっけ?」

「いやアンタそれ以前にまだ王国を追われたままだろ」忌まわしき《無愛嬌のパンダフィランド》に王位を簒奪されて以来諸国転々流浪の身レコリード・ポル・パイーセス・ア・ラ・デリーバである。その怨敵をば討伐――少なくとも祖国から放逐――する頼みの綱エスカレーラ・デ・ラ・エスペランサが所在知らずとあっては、いやそうでなくとも遠からず救国の恩人サルバドーラ・デ・ラ・パートリアとなるべき相手の想い人にちょっかいを出したり現を抜かしたりなどと、悠長に放蕩していられる立場にはない筈なのだ。「貧しい国民から搾り取った血税に手ぇ付けるなよ、公金横領ですよ」

「てめ貧しいとか憶測でモノを云うなよ我が臣民に失礼だろが、どこにあんのか知んないけど」次いでエティオピーアの王女は軽く硝子窓を叩いた。「こんにちはすみません、大人二枚と……中学生って学生証の提示とか――要らないって」

「おもてなし武将隊とか、そんくらいのこと足軽とか下っ端にやらせりゃいいのに」戦国武将が日替わりで城の敷地エスフェーラ・デ・ラ・インフルエンシアその縄張ス・エストゥルクトゥーラを案内しながら周遊してくれるのだ。「さては只のコスプレしてるイケメン現代人なんじゃなかろうな」

「まァブサメンでモテない武将隊よりはいいけども」

「……せめて影武者と呼んで差し上げなさいな」慥かに《ソンブラ》――主君の身代わりドーブレ・デル・ヘフェ――であれば(殊に物語フィクシオーンの中では)尊厳ある一個人として称揚され得る役回りであろう。

「わ、我らをたばかるつもりか……これは裏がありそうですな!」

「はいありがとうございます行ってきます……っとどうぞつまらないものですが」御子神は安藤さんに入場券を握らせた。「形而上学的に考えて表がねえなら裏もねえって姫様もおっしゃってただろ」[訳註:第二十四章参照]

「刑事のジョー?」

「今日は慶次一択らしい……よかったなツーショット撮ってもらえよニコラス」

「おっ、だがそれがいい人ですね[訳註:《だがそれだ私が好むのはの方セニョール・デ・ペロエスロケプレフィエーロ》]」前田慶次といえば日本史上最も有名な傾奇者(異端児デスビアード)として人気を馳せる文人騎士カバジェーロ・デ・レートラスだ。「つってそれが何なのかもそれ以外にどんな名言を残した人物なのかも知りませんが……だがそれでいい」[訳註:「だがその方が良いペロ・ロ・プレフィエーロ」]

「折角名古屋くんだりまで来たのにノブもヤスもいねえのか……」

「犯人はヤス」……信長が叩き、秀吉が焼いた餅を盗み食いしたのは一説に家康だと謂う。

「でもお前もサイヤ人の末裔だろうしヒデの代理でここに残していってもいいな」メガネザルにそう言い捨てた王女が門閾ウンブラールに向け一歩踏み出すと――

「遠路遥々良くぞ参られた。此方で入場券を拝見仕る」と言って和装の門番ポルテーロ・ビスティエンド・キモーノ――ギョッル川の橋番ポンテーラ[訳註:第二十七章で喫茶店に進入せしドニャ・キホーテと会社員二名を持て成したモドグド嬢のこと]と違いこちらは男である――が恭しく手を差し伸べた。

「お、おう……これはかたじけない、お勤めご苦労にござる」先陣を切ったミコミコーナは今し方購ったばかりの紙片を差し出す――とそれは半券タローン・デ・レシーボとなって返却された。「あ~ここに蜂の騎士が居たら面白かったんだが!」[訳註:職業柄武士風の言葉遣いを常とする案内係の面々と自称騎士たる阿僧祇花との間に、鹿爪らしくも珍奇な如何なる遣り取りが繰り広げられたかさぞや見ものだったろうにという意味]

「お願いします」次いでドゥルシネーアが通過し、同じもぎりアコモダドールが一層畏まって応対する

「姫様、畏れ入りまする……」

「あの、ワラワも一応ここ最近は姫という設定なんだが……」

「本職の人の目にはやんごとなき姿と映らなかったみたいな」

「あし一回でいいからメイ喫とかにガチ正装で入店してさ、」ここで言うメイとは名古屋のことではなく、メイド――則ち女中クリアーダ――が取り仕切る喫茶店を指すのだろう。因みに冥土(死者の世界ムンド・デ・ロス・ムエールトス)にある喫茶店なら我々も先刻覗き見た。「クソでかい帽子を預けながら留守中万事変わりはなかったかしら?とか言ってみたいのよね」

「つまりコスプレ次第なんじゃん?」仕立て屋が男を作るサーストレ・アセ・アル・オンブレ袈裟が坊主を作るが如しだエス・ケ・エル・アービト・アセ・アル・モンヘ。[訳註:一般的には《衣装が僧を作るのではないアービト・ノ・アセ・アル・モンヘ》《メス猿が絹を着ても猿は猿アウンケ・ラ・モナ・セ・ビースタ・デ・セダ・モナ・セ・ケーダ》等と真逆の表現が知られている。尤も西hábitoには僧衣の他に(英語同様)《習慣、癖》の語義もあるので、《善い行いこそが有徳の士を作る》という正反対の文意へと改竄できなくもない]「その破廉恥なナリで姫はないでしょ、お忍び過ぎでしょ」

「いやうっさいわ」

「うちらこんまま通っていい系?」結果手持ち無沙汰であった従者ふたりが殿を務める形となった。「無精髭じゃないんですね」

「拙者武将にはござりませぬゆえ」真面目に返答する門番。「お小姓衆はそのまま通られい」

「はくしょん」

「本日のご当番の武将は前田殿だけのようですが……あれ、利家ってお兄さんだっけ?」

「叔父さん……じゃなかったでしたっけ」[訳註:慶次は利家の兄の養子に当たる]

「そうか」前田利家といえば《加賀藩と石百万個ドミーニオ・カガ・コン・ウン・ミジョーン・デ・ピエードラス》の祖として知られるが、これは決して石垣で財を成したという意味ではない。一石というのが米三袋量ファネーガス強[訳註:西fanegaは主に穀物を測る単位で約三斗と同量]を指すと共にそのまま所領の生産性を示しているのである。三百五十年に渡る江戸時代に於いて、徳川一族を差し置き実質日本最大の領地となった加賀藩――前田慶次はそれを築いた大大名グラン・ダイミョの甥ということとなろう。[訳註:利家に関しては第二十八章にて花が二度言及している]「今日は他の殿様――おやかた様?はオフの日なんですかな?」

「はっ、戦国の三英傑たる上様、太閤殿下、三河殿でしたら[訳註:この呼び方からして織田方の配下と推察できるが、何の因果で徳川の城の番兵をしているのかは不明だ]」奉公先の高位の武将たちカバジェーロス・デ・アルト・ランゴが職務怠慢だなどあらぬ風評を流布されては敵わぬと案じてか、門番は至極丁寧に説明を加えた。「――今週はミラノ万博にご出陣なされておる」

「ミラノ!」その所在すらも詳らかとしてみせたところを鑑みても、矢張り彼らは影武者なのだと断じて良さそうだ。「ミラノですと」

「ハァ、支倉常長もビックリですね……」ドン・フェリペ・フランシスコ・デ・ハセクラファチクーラ

「北海道だっけ? 遠くまで大変だな」支倉は仙台藩の武将である。「おいホタルゥ……」

「アホ、イタリアンスターリンだっつの。ミラノコレクションだろ」

「万博だっつってんだろが」各都市の服飾流行週間セマーナ・デ・ラ・モダといえば春夏季は例年七月か九月[訳註:男性向けと女性向けで]だろうから、只今開催中の展示会はないと思われる。「つかどんだけロシア革命引っ張るんだお前……種馬スタリアンだろ」

「そちらはあしたじゃない方のボクサーですけど」

「……バタリアン」気付けば中学生ふたりが有料区域アーレア・デ・パーゴスへの入り口を塞いでいる。「あっうちら超邪魔だわ、すんません」

「我等が名古屋城、存分に楽しまれよ!」

「はーい」

 オディーンの足元にて時を刻む花精の長い方の腕は、この頃既に書斎の人鳥ピングイーノ・エン・エル・エストゥーディオに倣い真南を向いていたことだろう。


鳴く猫は鼠を獲らぬガト・マウジャドール・ノ・エス・ブエン・カサドール》とは良くぞ謂ったもので、与太話の尽きぬ四匹の猫御一行は鼻を突き合わせてより早六時間、河童を川に流したり大車輪の巨人ヒガンテ・グランロダンテを足蹴にしたりといった無用の手柄スペルフルアス・アサーニャスを除けば目ぼしい功名――例えば手洗い以外での花摘みレコレクタール・フローレス・エクープト・エン・ロス・ラバーボス――もこれといって無いままであった。[訳註:客観的に考えても千代が旅舎付近の交差点で成し遂げた人助けは充分語るに値する行いと言える]

「あのビールのポスターのナントカ祭りは何時からなの?」

「ビールのポスターではない」[訳註:この期間開催中だった夏の宵祭の掲示だろう]

「あっ分かりた……ルトビってルートビアの略だったのね?」

「いや根系麦酒ルートビアはノンアルコールだけどな」開発者である米国薬剤師ハイアーズは強硬派の禁酒家アブステーミオであり、当初は《根系茶ルート・ティー》の商品名で売り出すつもりだったらしいが、市場拡大を目指した結果喉の渇いた炭鉱労働者にも訴求するように接尾辞を《麦酒ビア》へと摩り替えたというのがその名の由来らしい。まったく《絶対紅茶主義者ティートウタリターリアン》[訳註:英teetotaller《絶対的禁酒主義者》とtea+totalitarian《茶+全体主義者》を掛けた駄洒落。そもそもteetotalの«tee»とはtotalの頭文字Tであり、則ち《最初のtを重ね書きするほどに断固たる》といった強調の意味が含まれているとの説がある]が聞いて呆れる! けだしこの時の背信に依って彼の余生は茶瓶テテーラス乳房テータスといった(麦酒の小塔トレータ・デ・セルベーサを唯一の例外とする)汎ゆる容器レシピエンテからの水分供給を一切受け付けぬ、極めて難儀な体質へと変化する罰を被ったに相違ない!

「うちらは早々に退散しますけど」尤も《シェーンブルン宮殿》への招待状を持っているのは――この場では――半坐千代唯ひとりであるように思われるが……?[訳註:勿論事実ではないが、発言者である彼女は御子神が主人の入場券を手にしていることを知らぬ]「なんならこの後おひとりさまで夜まで残って飲んだくれていかれては?」

「いや昼飯食いながらバブ姫様とドニャ騎士殿肴に勝手に酔っ払うから遠慮しとく」門塀が落とす陰から這い出るや一気に視界が開けた。「入ったはいいが肝心の城が見えんな」

「ここはもう城の中なんですけど」エル・トボソが辺りを見回す。「あっミコさんあそこ、天守見えてますよ」

「おっほんまや、瓦結構水色なのな」

「ブルーレットの新色かしら」

「いや置くとこねえから……」

「瓦じゃなくて銅板葺きみたいですね」慥かに日本語では青銅ブロンセに《青い銅コーブレ・アスール》なる漢字を当てる。言葉の成り立ちに緑青ベルディグリースが関わっていることは明白だ。「明治神宮の拝殿とかもそうですけど、徐々に酸化して緑青が出るとああなるという」

「緑青って錆かよ……初詣とかしねえから明治神宮もどんなか憶えてねえな」

「ええっと――自由の女神とか」そういえばマドリードのドン・キホーテとサンチョ・パンサも青銅製だった筈だが、現在は緑茄子トマティージョをぶつけられたかのように[訳註:緑茄子は同じナス科でもホオズキに近いので、完熟していたところで赤茄子トマーテのように破裂して果肉が飛び散るかどうかは分からない]かなり変色している。

「自由の女神に屋根あったっけ?」

「チヨさんちょほらほら、金ピカのシャチ光ってる!」はしゃぐミコミコーナ。[訳註:ニコニコーナの誤記]「あれシーソーみたいに向かい合って跨って写真撮ろうぜ!」

「無茶言うなよ」取れるトマールとしてもせいぜいクロサコ止まりであろう。[訳註:顰蹙を買うということ。«¡Vete a tomar por culo/saco!»で《とっとと失せろ!》]「お前猿でも落ちるぞ」

「落ちる前に引きずり降ろされっだろ、ポリスか消防に」

「左っ側のは本丸――の櫓か何かかな」二の丸を南北に分かつ大道の西の奥を望むと、こんもりと茂った大木を挟む形で別の建築物が覗き見えた。「遠近感が……」

「つかあそこまで歩くの?」東西の外堀が囲う領域は半哩メーディア・ミジャにも及ぶ。「入ってすぐのとこに建てとけよ天守閣!」

「だったらさっきの門番の人にクレーム入れてこいよ」

「君じゃ話にならんな、店主を呼びたまえ」

「城主だろ」

「いやまあそもそも正門向こう側だから」地下鉄出口から歩いて近い方の門を選んだのは彼女たち自身である。

「こっち何もない」左右に広がるのは清閑な庭園トランキーロス・ハルディーネスばかりで、二の丸という割に屋敷レスィデンシアらしい屋敷は見当たらなかった。「めっちゃ道幅広いじゃん、こんなん大軍が押し寄せてきたら即行で落とされそう」

「何だっけお城の出口のとこが隠れるようにさあ、こうなってて――」御子神嬢が両手を縦に重ねて障壁バレーラスを形作る。「敵が攻めてきたらここから攻撃……みたいな、何出しだっけ?」

「馬出しですか?」ドゥルシネーアは東門で入手したと思しき地図に目を通しながら以下に答えた。「……あるとすれば本丸の周りですかねえ」

「旨味成分といえば日本発祥ですからな」自国の深遠な食文化を誇るキュアウマミ。[訳註:第三十章では御子神が千代を《苦味か旨味の戦士ゲレーラ・デ・アマルグーラ・オ・デ・サブロスーラ》に割り当てる件があった]「――いや、日本発祥だし」

「その出汁じゃねえよ」破廉恥な成りの売女姫プリンセーサ・プタ・エン・エル・トラーヘ・エスカンダローソが従者ふたりの尻を叩いた。「いくらうちらとお前らの間には金魚とフン程の開きがあるっつっても一国の王女はうんことかしねえからな。後ろじゃなくて前か横歩くかして日除けにでもなんなさい。家来の仕事しろ」

「ふっ、原始うんこは太陽だったんだぞ!」前章で埃及神話ミトロヒーア・エヒープシアに話題が及んだ際、フンコロガシ――黄金虫エスカラバーホ・デ・オロとも呼ばれる――が神格化されていた旨を思い出されたい。「カプリに謝れ、訂正しろ!」

「お城に馬といえば」同行者が尾籠な応酬を始めたので清楚な姫プリンセーサ・プーラが話題を転じた。「――猫の従士さんお城の駐輪場ってバイクとか駐まってた?」

「バイク?」

「おお部長姫よ、馬のことならまずうちにお訊きくださいましな」

「バイク……バイタでしたら今隣を歩いてますけど――痛い」叩かれたついでに後方を振り返るサンチョ。「バイクはどうでしたっけ? 車しか見えてませんでした」

「そっちじゃなくてドニャ・キホーテとご一緒にお泊りの方の」

「あっあっちの城の……馬小屋はそうですね、ダンニャのイポグリフォの他もみんな痩せ馬くらいしか並んでおりませなんだな」ドゥルシネーアが何か鎌を掛けようとしているのではと勘繰った従士は出来るだけ慎重に言葉を選んだ。[訳註:第二十八章に拠れば、あの厩舎内に一時繋がれていたドニャ・キホーテの悍馬を認めたのは安藤蓮のみである]「チャリ以外駐めたら縛り首とか書かれてたような」

「打首じゃなくて?」

「まあそんな広くなかったしね……」

「あでも乗ってくる泊り客とかはいるでしょうし、外の駐車場とか」千代が(独りで)夜明かしした牙城は北東の一角が吹き曝しの駐車場アパルカミエント・バリード・ポル・エル・ビエントとなっていた筈である。「――あと地下にも駐められんじゃないすかねえ、スロープみたくなってたし」

「そうか」

「なんでお城に馬でバイクなの?」

「姉さんが俳句俳句クソうっさくていらっしゃるからでしょ」

「いや違うと思うけど」元は恐らくミコミコーナが従士に課した謎掛けであろう。

「ばしょーん」ニコが懲りずにまた川に河童を飛び込ませた。「芭蕉先生といえば芭蕉扇ってなんでしたっけ?」

「ウチワだろ、牛魔王の――山火事を消すとか何かそんな話じゃなかった?」溺れたり燃えたり忙しいことこの上ない。「ん、亀仙人のだったか?」

「牛魔王の奥さんの持ち物だった気がしますけど」訂正を促すエル・トボソ。「……これじゃまた一寸法師の話に戻ってしまう。いやホラ、ハナの――ドニャ・キホーテ様のロードバイク?が細身のヒッポグリフだったら、自動二輪モーターバイクなんて重装甲馬カタクラフトみたいなものでしょう?」

「ラヴクラフト?」

「片倉のフートンでしょ」片倉とは八王子にある町名である。「小田急……京王線?」

「バッカおめえカタクラといったらジューロータだろ?――違うわトモユキか」

「それは小十郎だと思いますけど」片倉小十郎とはドン・フェリペ・フランシスコの日本に於ける主君、仙台藩初代藩主伊達政宗の軍師エストラテーガとして活躍した武将の名である。「――しかも重装備で速度も出る、言ってみれば筋斗雲に乗った牛魔王みたいなもんで」本来天駆ける筋斗雲ヌベ・キントを扱えるのは孫悟空や馬場嬢など猿人の類いに限られる筈だが、ドゥルシネーアの思考は月並みな既成概念プレコンセプト・メディオークレを柔軟に打ち破った。「クトゥルフっぽいフォルムでいや――そう、ヘドラみたいな化け物じゃないですか」

「ヘドラ……ヘドラが解る女子高生」ヘドラといえばゴジラの大敵グラン・エネミーゴだ。海藻とも触手とも付かぬゴミの塊のような巨体の隙間から赤い目の覗くおどろおどろしい化け物で、体内で核融合を起こしながら熱線を吐き、その推進力を用いることにより高速で空を飛ぶことも出来たと謂われる。俄に得心し両の手を叩き合わせるギネアの王女。「あっなるへそ、蜂の騎士と鉢合わせたらこりゃ一騎打ち不可避だわ」

 悪臭放つ怪物モンストゥルオ・デル・エドール紫陽花の騎士カバジェーラ・デ・ラ・イドランゲア[訳註:第三十章を読み返せば御子神が午前中に伝馬橋上にて河童男を《ヘドロ塗れのヘドラ》と称しているものの、川に落ちた後は兎も角花たちと相対した時点で彼が既に臭かったかどうかは分からない。尚、紫陽花が西hortensiaオルテンスィアではなく羅語のhydrangeaヒュドランゲアに置換されているのは、無論hedorと共にHedorahへと寄せる為だが、そもそも反吐泥へどろという言葉は日本語であり汚染され堆積した泥を意味する]が搗ち合えば、何れかの首が落ちるまで殺し合うも必定。ドゥルシネーアが懸念したのも頷けよう。

「理解理解、チヨさん亡き後ハニャ・キホーテ先輩は首輪の外れた狂犬同様だし」今は亡きラ・ディフンタ千代さんを前に神妙な顔で告げるニコニコーナ。「今頃はホテルの地下駐車場に駐めてあったオートバイ相手に決闘挑んで一方的にボコボコにしてることでしょうな」

「良くて傷物……下手すりゃガソリンに引火して――」ミコニコーナスは当然からかい半分に茶化しているだけだろう。しかし少なくとも猫の従士からすればそれは如何にも深刻な事態に相違ないし、道中の経験からも骨身に沁みて震撼したであろうことは想像に難くない。「人死にが出る前にもっかいあっちのお城に電話しとけば?」

「え?――はい」

「宿に戻っててもフロント行かずに周りウロついてる可能性あんべ」裏口からも直接客室へ向かえる造りとはいえ、騎士が未だ鍵を受け取っていないことを我々も彼女たちも知っている。[訳註:演劇部のふたりは花が一泊して明くる早朝から行方不明になったと捉えている筈故、受け取っていないというよりは預けたままという表現がより適切か]「いくら正義のためつっても後で修理代とか請求されたらっつか、警察沙汰にでもなりゃミサどころじゃないぜ?」

「いやもうそうなったら他人のフリするしかないな!」

「表出て帰ってきてないか見廻りでもしてくれって?」馬場を無視して当然の疑問を口にするサンチョ。

「やまァホテルの人もそんなヒマじゃないとは思うけど……」かなり迷惑な宿泊客である。

「……一応確認だけは入れとくか」

千代は携帯を手に取ると、発信履歴を表示させた。


凡そ二時間半振りに従士が寄宿先の門楼クエールポ・デ・グアルディアとの通話を試みている間も、残りの少女たちは耳をそばだてるでもなければ取り分け声を潜めることすらせずに、ただ漫然と歩を進めていた。

「あっ何度もすみません私先ほどもお電話差し上げたんですけども――」

「ったくどっかのドイツ人がショートカットとかテキトーなこと言うからぁ……[訳註:前章の観覧車中にて、橋で見た茹で玉子の痕跡を踏まえての御子神嬢の発言である]」ニコが片眉を吊り上げて以下に続けた。「……こ、これじゃディレクターズカットだよ!」[訳註:映画作品は一般的に、編集権を有する製作者プロドゥクトーレス出資者連パトロシナドーレスの意向や回転率を上げたい興行側プロモトーレスとのせめぎ合い等により出来るだけ上映時間を短くする傾向がある反面、監督ディレクトール自ら再編集を施すと劇場公開版よりも大分長尺となる例が多い]

「何だとてめえ金太マスカットナイフで切ったような顔しやがって」

「な?――マスカット切っても金太郎飴みたくはならんでしょ!」金太郎飴というのは切っても切っても同じ少年の顔が現れる飴細工アスカル・アルテサニーアのことで、甘党の読者であればバルセロナに本店を構えるPAPABUBBLEパパブブレの商品を思い出していただけたら(おっと失礼バブルガム姫!)想像の助けとなるかもしれない。慥かに、薄切りデルガーダ・レバナーダにすれば断面ポルシオーンは相似形となるだろうが、せめて――中央を刳り抜いた鳳梨ピニャや放射線状に散った種を有する西瓜サンディーアのような――何らかの幾何学模様が施されていないと全てが只の円になってしまうのみで甚だ味気ない意匠とはならぬか?「……ですよねえ有識者のアメアメーナ姫改めキットカット姫?」

「チヨちゃん電話してんだから静かにしなさいよ」

「キットカットはチョコちゃん」

「貴様姫を守ってマカオに着いた勇者金太を愚弄する気か?」(原註:この姫はドゥルシネーアやミコミコーナとは無関係の人物だと思われるが、こちらで手に入る日本の金太郎伝説に関した資料を読む限り特に何処かの王女を助けるといった逸話は見られなかった)

「マカオになんかオカマ姫くらいしか居ないっしょ。それかミコミコみたいなレストカット姫か」賭博場運営に携わる王女が必要とするのは寧ろ経費節減能力アビリダッ・デ・コストカッティングであろう。

「何だよレストカットて、リストカットだろ!」慎ましき王女は、若人に遠慮して朝食の席では(麦酒ではなく)檸檬炭酸レスカッを注文した己の自制心を忘れたようである。[訳註:そもそもコメダ珈琲に酒精飲料の提供はない]「いやリスカなんかしたことないけど……お前の方が何だこれ、ブレストカットか?」

「痛っ、ちょっと触んなし!」アフリカ仕込みの水平手刀ナイフ・エッジ・チョップ[訳註:因みに西語では麦酒用取っ手付き硝子容器のことをchopと呼ぶらしい]を後ろに飛び退いて咄嗟に避けた床屋の娘が[訳註:「痛っ」と叫んでる以上、掠るくらいはしているのではないか?]傍らのエル・トボソに質問した。「ブレストってブレインストーミングでしたっけ? 脳みそ減量中ってバカにされたんですかうちは?」

「……胸部ブレスト胸郭チェストというか、まあバストのことだよ」

「な、何だとこの……自分は胸囲バスト爆裂バーストしてるからって!」[訳註:既に聴いた科白だと思って読み返せば、第十八章で千代がパロミ女王を前に全く同じ表現で御子神を揶揄している]

「いって!――てんめサル待てこら!」ニコとは対照的でなまじ主張が強かったが為にポル・エクセーソ・デ・ス・インスィステンシア、空振りさせることが出来ず片乳ラド・デル・ブストを強か叩かれた猿真似姫ミコミコーナは、脱兎の如く前方に逃げ走る小猿ミカを猛然と追い駆ける……お陰で犬山まで足を運ばずとも猿公園パールケ・デ・モーノスを楽しむことが出来たことを我々は素直に感謝しよう。[訳註:第二十五章では、名古屋の北に位置する犬山市内にサル専門の動物園が隣接せし遊園地についての言及があった]

「バスカッーシュ!」[訳註:余談だが《バナナスカッシュ》というと、檸檬搾汁水レモンスカッシュのような飲料ではなく細長い形状をした南瓜スクワッシュの品種を指す]

「――はいっ、はい……いえいえお手数お掛けしますう失礼しますぅ……」喧しいふたりから距離を取って電話していた猫が通話を切った。「胸抱えながら走ってんの何か笑える」

「え、あっほんとだ」

「ミコ殿下もお年の割にお元気ですよね」

「こらこら」目前に迫りつつあった櫓の方角を眺めながら苦笑するドゥルシネーア。「まだ騎士様帰ってきてないって?」

「はぁまァ……でも何かフロントスタッフのほとんど全員がご主人のお姿を認識してらっしゃるとのことなので」実際に正面受付で接客した係の者以外もということだろうか?「地味な家来と違って悪目立ちするビジュアル――と態度が今回ばかりは功を奏したと申しますか、フロント寄らなくても見かけた時点で引き留めてくれるそうです」

「そう……チヨちゃんの方こそお手間お掛けしてごめんなさい」

「えっ?――いえいえ」

「贅沢を言えば駐車場とかも点検してくれると嬉しんだけどね」流石にそこまでの暇はないだろう。そろそろ今晩の宿泊客が到着し始める刻限でもある――と、エル・トボソの携帯が震えた。「早く会いたいのに、片想いは辛いものよねえ……ん?」

「片想いとな!」反射的に自分の端末の液晶画面に触れる千代さん。「あっ、うっそ……もう電池が」

「――もう! 今入ったばっかなのに!」

「あっすいません、調子に乗って使い過ぎて」これまた反射的に謝罪する従士。

「えっ、いえいえこちらの話で」

「どったのわさわさ」捕獲された四つ目の小猿が襟首を掴まれたまま戻ってきた。

「なんでもなー……いや午後一の時点で既に赤くなってて」

「ドンキで充電してくりゃよかったのに」息を切らせたギネアの王女が口を挿む。

「なんそれ? そんなんありました?」

「無料で出来るヤツあったよねえ一階に……使ったことないけど」携帯の電池が切れてしまった来店客への気遣いオスピタリダッであろう。「あっこに放置したまま買い物する勇気があれば」

「帰るまで保つかな……」

「パーセント表示にすればいいのに」

「やり方が分からん」

「貸してみそ」携帯を受け取るニコニコーナ。「アレ、指紋認証がない[訳註:リンゴ社の製品が接触タッチID機能を導入したのは二〇一三年]……チヨさんパスワードとかは?]

「いや、めんどいから設定してないんだなこれが」携帯端末の施錠解除には通常四桁の暗証番号を入力する必要があるが、これは自己責任で無効にすることも出来る。

「ぶ、不用心な……」

 四匹の猫の一行は本丸を取り囲む内堀の側へと差し掛かっていた。ドゥルシネーアは今一度自身の携帯電話を傾けると、その画面に見入るのだった。


さて嘗て獅子の騎士は――といっても四百年程度しか経っていないが――囚人を護送する警護長コミサーリオに対し終いにはア・カボ・デ・ラト猫の三本足を探して歩くなノ・アンデ・ブスカンド・トレス・ピエス・アル・ガト》と諭したけれども[訳註:これは著者の記憶違いか書き間違えで、正篇第二十二章に拠ると実際には哀れな囚人たちを解放せよと無茶な要求をしてきたドン・キホーテを窘める為に警護長の方が使った言葉である。それに対する騎士の返答は「お前らこそ猫じゃボス・ソイス・エル・ガト鼠じゃイ・エル・ラト悪党じゃイ・エル・ベリャーコ!」]、これが三本脚の猫ガト・デ・トレス・ピエールナスなのか猫の五本目の足キンタ・パタ・デル・ガトのことなのかは兎も角[訳註:何らかの障害により三本脚になった猫の捜索は充分可能なことで、これは《猫の五本目の足を探すブスカールレ・ラ・キンタ・パタ・アル・ガト》という元々あった諺をセルバンテスが冗談交じりで捩った表現と考えられる]、この名古屋に於いて五匹目の牝猫キンタ・ガタを見つけ出すことは空気殿ドン・アイレ[訳註:《冗談ドナイレ》を分解した駄洒落]や空気嬢ドニャ・アイレを探し当てるのと同じく、ある意味六脚羚羊アンティーロペ・デ・セイス・パータス[訳註:第二十六章でも一度文中にて言及されたシベリアに伝わる幻獣の一種、頗る俊敏である為に人が捕まえるのは不可能とされる]を捕らえるよりも難題であるとすら思われた。

「出来ましたわー」設定変更を終えた馬場嬢が従士に携帯を返す。

「おお……ダンダンダンダンケ、ダンケホーテ」画面を確認すると電池残量の表示が数値化されている。「十五とかもうね……やっぱ下見の前に一回お城戻んないと」

「パスロックくらい掛けときなよ。落とした時チヨさんの恥ずかしい自撮り写真とかネット上に晒されたらお嫁にしてあげないよ」

「恥ずかしい写真も自撮り写真もないすから」そもそも彼女はラ・サンチャからの道中一枚も携帯写真機能を使用していない。「お前の嫁にされるくらいなら今からでも撮るけど――つっても個人情報は危険か」

「それもやったげんよ。もっかい貸して味噌煮込みうどん」

「スラムダンケ――」千代は一旦差し出した携帯を引っ込める。「……いやお前にだけパス知られてるとかそっちのが何かやだわ。後で自分でやりますわー」

「つか早く屋根の下入りたいんだけど……城消えちゃったじゃん」天守閣トレオーンである。「すぐ木の後ろとかに隠れちゃう感じからしてさっきのキマシタワーより低いんかな」

「いやさっきの名古屋タワーだって近くに行くほど低い建物に隠れて見えなくなってたっしょ角度的に」街の只中に建っているのだから仕方がない。尤もお喋りに夢中の若者たちからしたら――縦しんばその中のひとりが甲冑の下にかの《アビンダラエスの帷子》を着込んでいたとしても[訳註:但し千代もまだこの時点ではミサ参列用の胴締着コルセッには着替えていない筈]――、ブルジュ・ハリファがドバイではなくバオバブ樹の一本も生えぬサバナの地平線にぽつんと建っていたところで目には入らなかったであろう。

「その点ニコニコーナは幾ら側に寄ってもウザいだけで誰の視界の邪魔もしないから素晴らしいな」

「ふむ……醜く汚れし物に溢れたこの世界でも時には目を閉じることが許されぬことがありますからな」四つ目が何か達観したような物言いアルゴ・アル・デスペルタール・エスピリトゥアールをした。「そんな時、ニコはそっとこの眼鏡を取るのです」

「お前の目ン玉は貰ったァ!」原始的微笑ソンリーサ・アルカーイカを浮かべつつ外側の両目ドス・オーホス・エクステリオーレスを外した馬場嬢の手からそれを奪い取った王女が、内堀に沿って真西――或いは真北――へと走り去る!

「だってめこらこの泥棒ミコーッ!」攻守交代しての追い掛けっこピラ・ピラが再開された。

「元気ねえ」

「犬の代わりに猿が喜び庭駆け回っている感じですな……」

「真夏だからでしょう」雪がこんこんと降る日クアンド・エル・ニエーベ・カーエ・デンサメンテ犬は喜んで庭を駆け回るのだロス・ペーロス・コーレン・コン・アレグリーア・ポル・エル・パーティオ。「温室代わりのバブルも弾けてドゥルシネアはちょっと疲れましたわ[(訳註:英語でも同様の表現があるが、《泡の中で生きるビビール・エン・ウナ・ブルブーハ》は日本語の《深窓》《温室育ち》に対応する]

「……そいやさっきタワーで――」

「キマシタワー?」キマシが人名なのか地名なのかすら安藤嬢は聞かされていなかったが、パリが燃えているのならスィ・アールデ・パリース・エスタラ当然塔も炎の中だろうッ・エン・ケーマス・ラ・トーレ

「《パージャンがタワーにゴーしてジャンプして――》っていう」電視塔の下で聴き取ったままを答える従士。

「パーシャンじゃペルシャ人になっちゃうな――私の発音が拙かっただけか」エル・トボソは眉尻を下げてはにかんでから以下に続けた。「あれはねえ、《パリジャンが塔に上るのは絶望して飛び降りる時だけ》っていう」

「……ああ」どうしても視界に入れたくなくばもう自分がその中に入り展望台まで上ってしまうより他に手がないという例の鉄塔トーレ・デ・セロスィーアである。

「まあ東京住んでたらタワーもツリーも上ろうと思わないってのと同じだね」自殺志願者が展望台まで登ったところで、強化硝子の堅固さに重ねて絶望することだろう!「イランの人なら何処に上るんだろ……ジグラット?」

 古代メソポタミアの角錐型寺院テンプロ・ピラミダールからであれば、飛び降りるダール・エル・サルトより転がり落ちたバハール・ロダンド方が賢い。この些か暗示的にも思える映画の台詞を反芻した蜂の騎士の想い人とその従者も、本丸御殿の東南を守る隅櫓トレータ・エン・エスキーナを見上げながらよもや誰かが城壁や石垣を転げ落ちてきまいかと神経を張り詰め見守っているより――じゃれ合う巨小猿ミコーナ[訳註:語末-ón/onaは西語の拡大辞]と極小猿ミキータが戻ってくるまで――今この時ばかりは身の置き場がなかったのであるエスターバン・スィンティエンドセ・ペルディーダス


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