第14章 では第13章に続き、無幻湖及び湖沿いに於ける闘牛めいた冒険が綴られるが、此処に棲む稀覯なる鰭竜ハマッシーは後に少女らを猫鈴鳴りし然る料亭へと誘うだろう
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第十四章
では第十三章に続き、無幻湖及び湖沿いに於ける闘牛めいた冒険が綴られるが、
此処に棲む
Capítulo XIV.
Que sigue al de trece, y trata de la aventura torera en y a lo largo del Lago Jamás Fantástico
donde vive Jamassie, Plesiosaura de preciosura, antes que las invitaría a una cenaduría del cascabel gatuno.
「《Un niño trajo la blanca sábana a las cinco de la tarde... Una espuerta de cal ya prevenida a las cinco de la tarde...》」
「もう五時か……」言葉を介さない千代が偶然にも主人の台詞と呼応したのは、恐らく小舟乗り場の窓口の何処かに時計が設えてあったからだろう。一抹の期待を込めて受付係に問い掛ける。「――時間的にもう終わりですよね?」
「只今夏休み期間中ですので、まだまだご利用いただけますよ」
「おっといただけますかー……ぐぬぬ」当てが外れた従士が力なく振り返ると、期待に無い胸を膨らませた我らが
千代の頭の中を類推するとこうだ。主従揃って小舟――遊興用で子供が乗れるものとなると十中八九小型の手漕ぎ船だろう――に乗船する。花が湖上に怪物を幻視する。家来の制止を振り切って荒ぶった騎士は思わず狭い舟の上で立ち上がる。揺れる。転覆する……
「チヨさん!」
「ちょ、へ?」
「どちらになさいますか?」係員が控え目に声を掛ける。
「ちょっと待ってくださ――」
「悪魔の喉笛には如何なる
「悪魔が来て吹くといったら喉笛じゃなくて――」数ある魅力的な
馬と驢馬を近くに繋いだ主従は、別の係員に連れられて桟橋までやって来る。
「おおっ、あれなるは魔海の幻獣レビアタン!……おのれ、グングニルの穂先にこびり付いた貴様の血錆がアスクレピオンのテルマエに洗い流されたかと思えば、それがしの豪槍に隠れ、斯様な処で再びおめおめと顕現しておったとは!」
「そういや――」連れの狂態に不信の目を向けられる前に、空気を読んだ千代が咄嗟に口を開く。「ここ浜松湖ですよねえ? 浜松なのになんで――」
「浜名湖ですか?」今度は主に代わり、並んで歩く遊園地の担当者が訂正した。
「……浜名湖ですよね? なんでネッシーなんですか?」成る程、従者が選んだ船体は蓋し
「さあ?」
「さあ?か……ははは」自分から持ち出した話題だけに、仕方なく乾いた笑いを以て応じる千代。「そりゃそうか。まァ何とかタンとか何とかモンよりはいいけど」
「お荷物お預かりしなくて大丈夫ですか?」
「え、ああ……大丈夫です。乗りますよね?」
「三人乗りですので」車輪付き旅行小鞄のひとつふたつ携行していても問題はなさそうだ。
「ですってよ先輩――ってちょっ、先に行かんでくださいよ」
「だが吾が不滅の
「あれは駿河湾のスッシーではなくて浜松――浜名湖のネッシーですよ……いやハマッシー……ハマナッシーかな」そもそも騎士が沼津の海辺にて命懸けの一騎討ちをものした相手は、海の怪物ではなくニヴルヘイムの巨人ではなかっただろうか?「まァ、このハマナッシーがそのブラドイドの身の程知らずの生まれ変わりだとしたら、ほら、高尾山のコラーゲンみたく負けを認めてドニャ・キホーテの子分になったということでしょう。殴り合ったらダチ、みたいな……なかよくするマッシー!」[訳註:最後の科白は裏声]
「……ふむう」
「……忘れてください」千代は前言を撤回した。矢張り主人の妄想を助長するような発言は、従士の発する言葉として思わしくないと考えたからだろう。[訳註:千代が撤回したのは、前言そのものというよりもその末尾に付いた語尾のみだと思われる]
「おぬしの云う通り、」花はハマッシーを見つめながら、従士と係員が追い付くに任せている間、以下のように呟いた。「――慥かに彼処に浮かんでいるのは渦巻く
「さあさ、乗りましょう」
「お足元お気をつけください」
「――それどころか空想上の恐竜を模しただけの、稚拙美すら漂う只のチンケな
「ほら、どうぞお手を拝借」
ふたりを乗せた幻獣ハマッシーは、繋船場の係員に見送られながら徐ろに、微かな水紋を湖面に描きつつ、徐々に徐々に桟橋を離れていった。
さて、八十余年前の八月某日、ラ・マンチャ地方の一都市マンサナーレスの
「つかこっちもペダルかよ……」この海の怪物は
「チヨさんの尻は私慾にかまけるような不心得尻ではないし、何より訳知りの従士でもあるから、尻のひとつやふたつが滅裂四散したところで帳尻合わせも容易かろうて」
「尻がふたつも滅裂四散したらジリ貧ですよ! ジリー・ヒンドリクスですよ!」
「端から尻を浮かせて跨がればよいのだよ」
「ふう……」閉口する千代。「分かったからドニャ・キホーテ様も足を動かしてくださいな。まったくプロの自転車乗りだって一日にこんな距離漕ぎませんて。《人間は考える足》だなんてのは全くのデタラメですから。そもそも足に考える頭があれば、労働基準法を盾にしてストライキに突入すると思いますね」[訳註:西語では《考える葦》をjunco pensanteという。著者は千代の駄洒落――として発した言葉なのかは不明だが――をtunco pensanteと意訳していて、こちらは《考える
「今年が
「鶴なら空飛ぶわけですし百キロ二百キロは余裕でしょうが、豚じゃ頑張っても三百メートルが限界でしょうよ。テレビで自転車で日本縦断してるおっさんだって、多分一日あたり二三キロしか漕いでないはずですよアレは」
「分かった分かった。
「忘れてくださいって……どうでもいいけど湖の上にまた神様だ化け物だが出現したからってハマッシーの中で暴れんでくださいよ」身を乗り出して水中を覗き込む従士。「舟が転覆でもしたら、今度はうちら揃ってピラニアの餌食ですからな」
「ふん、舟覆りて乃ち善く
「ピラフやラザニアなら陸上で食べれますしラルク聴きたきゃDLしますわ。何度も云わせんでくださいな、折角浜松湖くんだりまで足を運んだんだからどうせなら――」
「そうじゃったそうじゃった、ラ・サンチャの従者が御所望は別の白身魚だったな!」
以上のような、そしてそれに類する他愛ない会話を交えながら、風の向くまま気の向くまま遅い午後の陽射しを受ける遊園地の巨大な各遊戯設備たちの姿を遠巻きに遊覧していた主従だったが、程なくして湖岸を歩くふたつの影を目に留めると、従者の方が暇潰しにそのふたりを会話の糸口とした。
「オトヒメロードの流れですと――」前章でも言及されていた乙姫というのは日本の
「どうかね……余り想像したくはないが」騎士は無い髭を扱きながら腕組みをして答えた。依然両足は休めたままである。「――《
「水兵リーベ僕のハマッシー号ですか……リーベってもしかしてラブって意味ですか?」
「御明察」
「なるほど」ドイツ語に慣れ親しむという遍歴の従士は、自身の出した正答に胸を撫で下ろしてから以下に続けた。「そもそも水兵リーベって何だっけ? 世界史の年号かなんか憶えるヤツ?」
「連中を水兵と仮定したとてせいぜい私掠船の武装乗員止まりであろうが、それにしたって務まるのは
「ユリユリシーズのお相手ならドル、ドゥル、ドーショーモネーヤ――と語感は似てるけどかなり非なる、どうしようもある方の素敵なお姫さんを故郷に残してるでしょうに、私の入る余地はないっすよ」千代さんは主人が発した、求婚とも取れる魅惑的な冗談を、念の為に恭しく拝辞した。女子校に通う学生だからこそ、非現実的な甘い誘惑には一定の距離を置くものと見える。「まァホモだのレズだのというのは、それこそ二次元サッポーの世界にのみ存在するファンタジーだと思いますけど――ん?……あ、やば」
「どうした」
「あれから全ッ然アンドゥーさんに電話してないわ……つって、しようにも今電池ないんだけど。――まァいっか」演劇部の部長もさぞや気を揉んでいることだろう。「アレ?……まあいいかって何だっけ?」
「それはほら、癒しの
「なんです?――ちょ、あらあらあら」主人の視線の先を追った従者が、視界に入った顔触れを視認するとやおら顔を顰めた。「――なんかつい先日も似たような光景を見たばかりなような……」
前後の会話の内容から察するに、我らが
「面倒事かしら」
「面倒事かしらじゃねえですよ。ほら!」従士は隣に座る主人の背中を押した。「弱きを助け強きを挫く世直し騎士の出番ですよ」
「相分かった。猛牛を討ち取れなんだ悲運のイグナシオに立ち代わり、それがしが此の
「近付けてくれっつっても、一休さんじゃないんですから」揺れるハマッシーを突っ張る手足で抑えながら従者が制する。「岸は近づきませんよ――っつか立たないでください危ないから」
「岸が近付かぬのなら騎士の方から近付けばよい話ではないか?」
「これ以上近付いたらうちら顔バレしちゃうじゃないですか」我々に岸頭の状況を知る手立てはないが、少なくともハマッシーの中までは何の諍いも聞こえてこない。それなりの距離があると考えてよかろう。(尤も臆病な千代は、向こうにこちらの声が届かないようずっと囁き声で喋っている)「ここは神社でひねたパサモンテを助けた時みたく――」
「然れども如何に吾が吹毛の
「そんな投げ遣りな」
「ちょっと待て」剣士は身の回りの品で適当な物がないか身体中を弄る。「トマテでも何でもよい、何か的に当てられる球はないかしらん」
「トマトを携帯する習慣はないですねえ。そいやトマトを投げるお祭りってスペインでしたっけ?」千代はいつものように頭に浮かんだことをそのまま口走った。「あと街中で猛牛を追っかける祭りとかもスペインですよね。スペイン人キチってるなあ」
「正しくは牛に追っ掛けられる祭りじゃな。今正に《牛の従士》に急き立てられているそれがしそのものだが――」今年の
「おさわり一回三百円なんてそんな安いキャバクラがあるもんですかい」キャバクラとは
「おぬしとの間に交わした不戦の誓いもあろう」
「近いも遠いも、そりゃ自分からいざこざを起こすことに関してですよ」果たしてそれだけだったか――つまりあの誓約の場で、既に起こっている問題に首を突っ込むことまでを本当に除外していたかについては怪しいが、千代は至極真っ当な反論で応じた。「レアちゃんを助けた時も先輩云ってたじゃないですか。義を見てせざるはビザールでござーるって」
「どうせ間違うならそこはせめて《義を見てせざるは
「あ」
「どうした?」
「まあいいかじゃないや、まあいいやだった」[訳註:第四章参照]
「まあよくはあるまい」腹心の家来が見せた緊張感のなさに、柄に似合わず及び腰であったドニャ・キホーテも呆れた声を上げた。「がさついローマ兵士も形無しの忌まわしき蛮神サトゥルノスと、穢れを知らぬ娘御等の周囲をよく精察してみよ」(我が子を食い殺しながら性器を勃起させていたというローマの農耕神サトゥルヌスは、ここではラティン語読みではなくイスパニア語読みのサトゥルノを複数形にした形で言及されている。言い寄られている女子が何名居たかはまだ明かされないが、
「セイサツと申されましても……この遊園地にゃ治安を守るガードマンとかいねえのかよ。ザル警備が」周辺には陸に上がった
「
「ああ!」ハマッスィーがミシミシと音を立てて湖面を揺らした。
「今度は何だ」花が天井に頭をぶつけた従者を座席に引き戻す。「其の図体に目隠しされては委細が判らぬではないか」
「おさわり三百万!」千代は潜めた声で精一杯の息を吐き出した。
「何と?」《
「こりゃ一刻の猶予も余裕もありませんぜ」主人の豪腕を急き立てる千代。「――まァあんなところで襲いかかったりはないだろうとはいえ」
「何でもいい、チヨさんの
「ひり出すて……出すならオムツにってちょ、えー」虚を衝かれた従者が、観察対象にもう一度目を見張る。「説得力あるヤツですか?」
「然様。しかし固定概念に囚われることはない」一瞬たりとも視線を逸らすことなくことの成り行きを見守りながら、騎士は賢佐として名高い従者に改めて問うた。「亀毛兎角とは謂えど
「コッケコッコーは私の専売特許なんだがなあ……えーなんだろ」弱きを助けたい義侠心と悪を討ちたい功名心、一発当てたい射幸心、同時に騎士の誓いを蔑ろにすることは避けたいという自尊心などなど、相反する感情の相克に揺れる主を前に、従順な従者は無い知恵で何とか
「あのメンズらは?」
「実はあのカワイコちゃんの――」千代は一呼吸置いて続ける。「お兄ちゃんなんですよ。シスコンの。重度のシスコンの」
「うむ。続けよ」
「はァ……えっと、で、えっとぉ――でもあの少女はぁ、ケロッグ派なのでぇ」既にネタが尽きてしまっている。「――お互い相容れぬ仲なのです」
「成程、解らぬ。互いを線対称の象限と定めたとて、ドクトル・ケロッグを
「知らんがな。ニコとかならもっとポンポン嘘八百が出てくるんだけど――」
「いつわり八百万かね?」
「そう! 触らぬ
「ふむ」
「で、思わず家を飛び出して――で、見かけによらず心優しいヤンキーの兄ちゃんふたりが心配して追いかけてきた」
「むべなるかな」
「で、おい花子、もう一度父さんとちゃんと話してみろよ……そうだよ俺らとおふくろで味方してやっから、な?……そんなこと言ったってお母さんは絶対お父さんに逆らえないし、お兄ちゃんズだって頼りにならないよ、私このまま東京のおじさんの家に行く……東京ってお前、新幹線の切符買う金とか持ってんのかよ……じ、自転車で行く!……ちょ、ばっおまっ……浜松から東京まで五千キロはあるぞ、正気か? なァ次郎?……そうだよ、それにきっと渋谷のスクランブル交差点でテロが起きるぜ? 都会は物騒なんだ、ホラ帰るぞ!……ちょっ、離して! うりゃっ!……痛っ、てめえコケにしやがって!……ちょっと太郎兄さん落ち着いて……だーってろ、ぶっ転がすぞてめえ……こ、転がされるぅ!」
「なるほど」騎士は感心して深く頷く。「
「そういうやつです」
「筋は通っているな」騎士は膝を打った。「ところでチヨさんの猫目ないし鳥目にはあのふたりと少女が、同じ麗しき
「――とは到底思えませんね」
「何か投げる物を」花は右手をそっと差し出す。
「ほいきた」千代は同乗させた手荷物をゴソゴソと漁ると、その手に投げるべき何かを、そっと握らせたのだった。
そこからは電光石火である。
二秒後。
「当たった!」叫んでから思わず口を両手で覆う従士。次いで顔を隠してもう一度身を伏せ隠しながら、即座に小声で叫び直す。「ヒットアンドファーラウェイですよ!」[訳註:hit-and-awayは和製英語に近い。戦術としての用語hit-and-runは《轢き逃げ》と同義。本文では英fire-and-escapeの意で西fuego-con-fugaと意訳されている]
「¡Viva Grande y Felicísima Armada!」騎士は勝鬨を上げると、いつになく愉快そうに呵々と大笑した。[訳註:《
「ビバノンはいいからドニャ先輩もはよ漕いで!」
「ロヘーリオ!」[訳註:西Rogelioは慥かに
「ホラ今のう――うぉっ、ちょおお?」
花の健脚が拍車代わりに踏板の
「見えなく、なりま、したね……見えないですよね、もう」結局動力は主人任せでロクに足を使わず仕舞いであった筈の千代さんの方が何故か息を切らせながら後方を確認した。湖岸であれば見晴らしも良さそうに思えるが、上手い具合に何処かの死角に潜り込んだのだろうか?「死にましたかねアレ」
「どうだろうね。豆腐の角に頭をぶつけただけでも昇天出来るようなヤワな玉であれば或いは……というところかな」花は鼻で笑って続けた。「尤も数日間は、あの空の頭を幾度洗えど、そう易易とは匂いが取れまいがね」
「異様な――硫黄の匂いでしたっけか」そう、ラ・サンチャの名投手が遠投し見事に的を射抜いたその球は……読者諸兄がご想像の通りである。千代はそれを握った己の手を今更ながらにくんくんと鼻に近付けると、犬のように音を立てて嗅いだ。「うーん微妙に」
「破落戸の心配よりも、擦り寄られていた娘御の方は無事に逃げ果せたかな」
「豆腐フィジカルが吹っ飛んだ直後に、左の方に走っていったっぽいですけど。敵も去る者は追わず、でしょうし」
「豆腐は二丁あったろう。今ひとりは追って行かなんだか?」矢張りナンパ男は二人連れだったようだ。
「あの粘っこい迫り方は納豆メンタルという感じでしたけど」納豆とは大豆の発酵食品である。糸を引く食感と独特の臭気が特徴だ。「――なんかもうひとり落ちたんじゃないかと思うんですよね」
「落ちた?」
「いや瞬間は見てないんですけど」千代はもう一度後方を顧みた。「こっちもテンパってましたし。私の想像では、何処から攻撃されたか確認しようとして岸のとこから身を乗り出して、そのまま足滑らせたかで水に落ちたんじゃないかしら。今頃は湖のもずくですな」
「納豆がモズクに転生したとて、ネバネバがヌルヌルになっただけじゃな」
「死にゃせんでしょうが、泳げるかは分からんですな」
「水上走りのバシリスクスでもなきゃ、泳ぐより外なかろう」
「そいやネバー・エスパーニャって何度か聴きましたけど。ネバーとエスパーはいいとして、最後の語尾?……ニャーってのは何ですか?」従者は緊張の糸が切れたか、早速呑気な抗弁を垂れた。「ご主人様といえど、わが猫の称号はそうやすやすと譲りませんよ」
「どうやらこのハマッシーで大西洋を渡る夢は叶わぬようじゃな」花は天を――つまり怪物の腹中の天井を仰いだ。ここから新大陸を目指すなら越えるべきは太平洋だが、その前に先ず外海へと繰り出さねばなるまい。「それがしとて称号を粉飾せんとしたが為に七代祟られ、
「あっ、今何時だろ?」
「陸に上がって決着を付けようという次第か」
「決着付けるくらいならケチャップ付けて逃げますよ」それでは観光客を喰い物にするスリの手口である。ラ・サンチャの不肖の妹は姉を道連れに、かの
「こちらのコンクラーベには白黒付いたことを教えてくれる煙も煙突もないしね」
「うちらも煙みたいに消えるわけにゃいかんですし、そろそろこそこそ出発せんと」
「ハマッシーの胎内は手狭いからな。それがしは満足に身動きが取れぬ故、復路の鞭廻しはおぬしに委ねるよ」
「手狭というか足狭なんでしょうよ、気の毒に。私の方は神のご加護かうちのカミさんの遺伝か存じませんが、幸い足のスペースにゃ余裕がありますけんどもね――生憎ここが……」千代は腿の付根を擦りながら呻いた。「――なんだっけ、Vライン?が限界です。人として」
「鼠蹊部のことかね」
「そうそれ、窮鼠蹊部猫を噛む」一周りしてまた猫に戻ったようである。[訳註:因みにイスパニア語の《鼠蹊》はingle(≈entrepierna《内腿》)と言ってネズミとは縁も所縁もない。著者は代用として、千代に以下のように発言させている。「そうそれ、
「ではそれがしは
「あはは、ハナだけに!」[訳註:底本では「あはは、キホーテ的に!(Jajaja, ¡es quijotismo!)」外国人が読んで理解し易い流れにはなっているものの、花が昨日まで忌避していた己の真名を自らネタにしている件まで割愛してしまうのは些か乱暴に響く]気紛れな一陣の浜風がゆらりと首長竜の巨躯を揺らしたのに釣られ、従者が湖面を覗いた。「ともあれ無事生還出来て御の字ですな。ドニャ・キホーテお得意の向こう見ずのお陰でお水の中に沈没でもしてたら、くしゃみどころかお悔やみな事態にでもなりかねませんでしたけど!」
「降参じゃ。チヨさんは
出帆したのと同じ桟橋が主従の視界に入るや、助手席に座する従者の方が何やら異変を感じ取ったようだ。
「如何したチヨさん。背筋が伸びているのは見目宜しいが、そのまま起立すればまるでバッキンガムで女王を守る
「……ハッ、トマス・アクィナスは――嫁に食わすな?」そこで一日振りに《牛の従士》の腹の虫が鳴いた。「あ」
「ウシガエルかしら?」
「ちょ、ちが、違いますよ」千代はまた小声になって、しかし相も変わらず姿勢を正し硬直したままで反論した。「《蛇に睨まれた胃の中の蛙大概消化されず》、これは消化不良ですよ」
「蛇? 又候ゴルゴーナ姉妹が首を獲られた長姉の意趣返しに遥遥西果ての島よりやって来たかね? 然らば今度こそこのドニャ・キホーテが甲冑のユディトとなりて、憎きアシリアが将の短剣奪うや連中の――」
「ゴルゴーナというか……あの眼光は、」そう云って
主人は従者の人差し指の先を目で追った。筆者はてっきり、先刻殲滅した二人組が悪運も逞しく息を吹き返し、一方は硫黄臭い頭、他方はずぶ濡れの恰好をしたまま、桟橋の上で待ち伏せしているものかと思ったが、現実には違ったようである。
「ははあ、船持の旦那の横にいる老人のことか。何だろう、船改めかしらん」
「今にもキレそうな顔ですよあのアルムおんじ」[訳註:底本では「
従者の制止に従ったのだろう、花が踏板を回す脚を休めると、ハマッシーは慣性力に任せた徐行運転へと移行した。進路を転じたかどうかまでは判らない。残り時間を考えれば寄り道をしている余裕もあるまい。(因みに音源の再生時間の表示を確認すると、この時点で乗船してから十八分前後経過している。どの時点から賃借り開始と見做されるのかは定かではないが)
「どうするね」
「いや、警備員には見えないけど……もしかすっと誰かが通報して――」千代は動揺を隠さなかった。「警察が来たとか。アレ、死んでたらどうしましょう」
「せいぜい傷害罪じゃないかなあ。警吏の扮装にゃ見えんがね」慥かに制服を着たアルムおんじでは様にならない。「そら、何やら手招きをしておるではないか」
「げぇ、招き猫!」
「おやおや、大切な猫の称号を見ず知らずのアルムおんじにくれてやるのかね?」
「そんなもんで勘弁してくれれば御の字ですよ」[訳註:翻訳では「~
「その栄誉をあの爺様が欲するかは又別の話だが――」
「G様だろうがゴキブリ様だろうがタダでやれるものならいくらでもくれてやりますがね……」[訳註:底本では「
「金招きだね」
「賠償金か!」頭を抱える従者。「頭部損傷の治療費と濡れた服のクリーニング代を請求してくる気なのかも」
「それは判じかねるが――」ドニャ・キホーテはひとつ溜息を付く。「このままではいずれ猫のおんじの傍らで待っておる船主の方に、チヨさんの嫌いな超過料金をせしめられるのではないかのう」
「ぐぬぬ」
進退窮まった半坐千代は、十数秒の間湖畔を逍遥した挙句、遂に観念してハマッシーを桟橋へと横付けした。
「お疲れ様っしたー」明朗な声で繋船場の係員が手を伸ばすと、
「は~い……」答えたものの千代はなかなか立ち上がらない。本来なら従者の方が先に陸に上がり、主人の手を取るべきところだ。「ドニャ・キホーテ様お先にどうぞ」
「うむ。忝ない」花は腰の重い従士を踏み越えて、係の者の介添えを受けた。
「おみゃさん方か」おんじが大地を踏み締めるドニャ・キホーテに、次いでハマッシーの中を覗き込むようにして畏まっている千代に声を掛けた。なるほどその声もアルムおんじのようだ。[訳註:『アルプスの少女ハイジ』のイスパニア語吹替え版は数種類存在するが、そのどの声優の声音に似ているかは定かでない]「ほら、あんたもきっちゃかきっせえよ」
「え、あっ、はい。どうも」
「あっ、はい、ちょうどのご利用ですね! ありがとうございましたーっ!」
「ああ、そうすか。よかったよかった……」
「
「ちょっとドニャキ先輩――」
「付いて来なさい」おんじは初対面の少女ふたりの反応を窺うこともなしに、さっさと背を向けて先導し始めてしまった。
「え? あれ? ちょっと……」
「チヨさん、荷役を」そう云うと、ドニャ・キホーテもさっさと老人の後を追っていく。
「ちょ……」ハッとした従者は、忘れ物検査をしていた従業員に車輪付きその他の荷物を手渡されると、暫くの間軋む桟橋の上に立ち尽くす。「……なんか静岡県入ってからおじいちゃん遭遇率高杉晋作じゃないすか」[訳註:西la tasa de encuentro de demasiados viejos「多過ぎる老人との遭遇率」に対し、de demoniados viejos「悪魔的な老人共(との遭遇率)」という訳文になっている]
「ありがとうござっしたーっ!」
背後より追い打ちを受けた千代さんは、来た道を戻るドニャ・キホーテに遅れまいと余りに慌てて駆け出したものだから、乗船券売り場付近に繋いでいたイポグリフォとシャルロッテをあわや置き去りにするところであった。
腰に
「自転車だったか」到着した老人が漸く振り返ると、精悍なる女学生の後方に困憊した千代さんの姿を認めてこう言った。「荷台に載せてあげよう」
「そ、それはどうも、助かりま――」
「それには及びませぬ、おんじ殿」騎士がやっとこさ辿り着いたばかりの従士の発言を阻む形で老人の申し出に答えた。「それがしのロシナンテは囲いに制縛さるるを潔しとせぬ、身魂共に
「馬?」
「更に加えて申し上げるが――」花は従僕が汗水垂らして牽いてきた路上競技用自転車の乗鞍を撫でながら以下に嘯く。「この逸物は仮令終着地が
「ほう」老人は感心しながら顎髭を擦った。これは本当に擦っているのだろう。「分かりました。じゃあ後を付いてきっせえ」
呼吸を整えるのに数十秒を要した千代は、終にふたりの遣り取りに口を挿み込む機会を逸したまま、軽貨物自動車の運転席に入って
「ふふ――《
「えっと……ええっと、」生唾をゴクリと飲み込んでから主人の動向を
「イクラ?」引き締まった尻を硬い鞍に収めた騎士が訊き返す。「浜名湖では鮭も穫れるのかね?」
「いやだからシャケのベイベーじゃなくて、慰謝料とか――」そう云ってからふと眉間に皺を寄せる千代さん。「そもそもおんじはあのチンピラの何なん? 弁護士?」
「おんじは寡黙なものと相場が決まっておる。篤学の士であっても多弁を
「え? あっ、ちょっと」不意を突かれながらも何とかシャルロッテに跨る。「いった、尻が……決裂しそうなんですけど。ケツだけに」
「ベルリヒンゲンは
「ケッツって、ひっでえ名前だ!」
「ハッハ!《Leck mich am Arsch!》」
「え、『レック・ミッヒ・イム・アルシュ』?」千代が素っ頓狂な掠れ声を出した。「先輩聴いたことあるんですか?」
「
「え~そんなバージョンが?」[訳註:花が最初に引用した《Leck mich am Arsch!》は、ゲッツを題材としたゲーテの戯曲の中で主人公が叫ぶ台詞。《Leck mich im Arsch》はモーツァルトがものした六声のカノンで、和訳は共に《俺のケツを舐めろ》である。千代が後者を聞き咎めたのは、彼女が心酔する独立系楽隊のアマデウスに同名の楽曲があったのが理由であることを訳者は後に確認した。当然本家の《俺のケツ~》を下敷きとしている筈だが、花の美しい歌唱に対する反応を聴けば、千代は原曲の存在は知らぬまま現代のアマデウスこそが本歌と思っているのだろう]
荷台付きは県道に出ると真っ直ぐ西に向けひた走った。発音や音程に多少巧拙の差があったものの、従者も暫くの間はどうしてなかなか見事な輪唱を聴かせてくれたのだが、次第に脚に掛かる負担に気を取られてか息が続かなくなっていった。
「そいやケッツ!っていう一発ギャグ、みたいのありましたよね昔……」(これは本来両手を揃えて使うべきものなのだそうだが)片手を手綱から外し、進行方向とは垂直の方角を指差した千代は、恐る恐るこう切り出す。「――このまま脇道とか入っちゃいません?」
「ふん?」一通り歌詞を謠い終えた花は反応を示した。「どうしてじゃ?」
「あのじっさまの目的が金か、うちらのうら若き肉体かは分かりませんが、どっちにしたってあの顔を見りゃ、怒られるってのは間違いないでしょうや」千代は危機意識の薄い主人に忠言する。「このタイミングでこっそりドロンすれば逃げられますよって云っとるんです」[訳註:《ドロンする》の語源は怪談噺を上演した際に笛と太鼓を用いて幽霊の登場をおどろおどろしく演出した効果音たる《ヒュードロドロ》であろうが、著者はそれを斟酌した上で「
「憶えておるかね、チヨさん――」騎士は落ち着き払った声色で応じた。
「はい?」
「《haṣ-ṣî-lāh nap̄-šî miś-śə-p̄aṯ- še-qer; ――》」
「トマス・アキナス・ボッキ!」思わず公道で発するには思わしくない単語に声を張り上げてしまった従士は、己の猫舌の軽さを呪って少しの間茫然自失した。
「舌だけでなく唇まで終わらせてもらいたかったところじゃが」[訳註:第八章で花が諳んじたボッキ宮正面に刻まれる詩篇の一節を逐語訳すると、「haṣ-ṣî-lāh 解放せよ/nap̄-šî わが魂を/miś-śə-p̄aṯ- še-qer; 嘘付きの舌から、/mil-lā-šō-wn rə-mî-yāh. 欺きの唇から」]
「なんですか、そんな卑猥な格言でしたっけ?」
「味わいある言葉じゃよ。幸いなる哉――」ドニャ・キホーテは先を走る機械仕掛けの輓獣の荷台をしっかと見つめながら続けた。「おんじ殿に約した通り、行く先がアンドラの渓谷だろうがアンドロメダ銀河の球状星団であろうが、吾がイポグリフォとおぬしのカルラマグナが彗星よりも速く彼の地に蹄跡を刻めることを証明すれば、よもやホラティウスも吾等主従が新天地にて王とその第一の家臣の座に着くことに異を唱えることはあるまい」
「うっ、ああ……」それを聴いた千代は決裂寸前の尻を少し持ち上げて摩りながら、力なく項垂れて云った。「どうなっても知りませんよ。あいっつぅ、ケッツが……ガ、ガッツだぜ」
猫のおんじが駆る荷台付き自動車は控え目な排気音を立てて丁字路を右折すると、ラ・サンチャの姉妹を北へ北へと
生憎と
「アレ? おんじン家ですかね……」千代は一先ず乗鞍から腰を下ろすと、内股姿勢を取って太腿でママチャリの背骨を挟みながら
「山小屋ではないようだが」無理もない、山どころかここは湖沿いなのだ。
荷台付き軽自動車の右側の扉が開き、老人が下りてくる。
「ああ、その、端っこにでも停めときんさい……ソラッ!」招き猫おんじは家屋の裏口を開けて首を突っ込むと何やら叫んだが、一息置くや「――まあいい。ほれ、お上がんなさい」と言ってこちらに手招きをしたかと思えば、そのまま建物の内部に入ってしまった。
「ええっと――」従者は何故かもう一度鞍上に尻を乗せると、逃げ腰を保ちながら主の指示を待つ。「お入んなさいとおっしゃられておりましたが」
「折角の
「ちょっとマッチョ[訳註:「待っ(て)ちょ(っと)」か]」無人の庭にひとり取り残される千代さん。シャルロットを急いで繋ぐや、観念してすごすごと、そして怖ず怖ずと入城しつつぶつぶつと零す。「――ああもう本当なら今頃は……」
開け放たれた
「らんごかねえ部屋で申し訳ないですが、お座んなさいな」
千代が遅れて二階の和室の敷居を跨ぐと、老人が畳の上に座布団を敷いているところである。説教をする相手へのもてなしとしては余りに礼儀が尽くされ過ぎていよう。
「お茶を出すから」
「お構いなく」騎士はもう一度会釈してからゆっくりと端座した。
「なんやら貰ったお菓子ががとうにあるだで持ってきましょう」
「あ、いただきます」千代は主人の横にちょこんと座って応じると、その耳に口を寄せて訊いた。「ガトーってケーキですよね。ハイカラですな」
「余り恥をかかせてくれるなよチヨさん」花は苦笑する。
扇風機などを回した気配はないが、室内には風が通っているようで何処となく涼しげである。というのも風鈴の音が聴こえるのだ。窓を開放しているのだろう。
「しかし餌付けしてどうする気ですかね。まさかあの、注文の多い――」従士の関心は今や
「そこまでやかましくもないようだが」
「――じゃあ少ないレストランみたいな感じで、フォアグラみたいに散々デブらせてから捕って喰おうってな腹積もりじゃないでしょか」『
「それでは山姥ならず
「やですよ、ヤマンバの対義語ならヤマンジでしょう。やまおんじ」
「どちらでもよい。しかしそう云われると――」花は右手の人差し指を唇に当てると、視線を畳の方へと下げた。「階下から裂き庖丁を研ぐ音色が聴こえてくるような」
「サキボ……なんですかその物騒な凶器――ヒヤッ!」不意に、半端に開け放してあった襖(これは和紙を張り付けた木組みの引き戸である)がガタリと音を立てたので、臆病な従者は悲鳴を上げた。
「うちのが買い物に出てるで、何もお構い出来んせんが――どうしたね?」
「いや、大丈夫です」
「下で休んでもらっても構わんのですが、店を開けるとやかましゅうなるでね。こちらの方がよいでしょう」
「ハァ、おかまいなく」卓上に菓子を入れた木碗が置かれたのを目にするや自然と片手が伸びる千代ではあったが、驚いた拍子に両手で口元を覆った時、気に障ったことを思い出すとその手を引っ込めて訊ねた。「あの、お手洗い、ってか洗面所お借りできますか?」
「そこ出た角ですよ」老人は廊下の外を指差した。「あんた方、晩飯ははあ、済ませなすったか」
「いえ」従士は姿勢を正すと凛とした調子で即答した。
「だじゃあうちで食べてこ。おうちに連絡しときな」
ヤマンジはそう言って、さっさと階段を下りていってしまった。
「おうちに連絡しときなですって」千代が口を開く。「《チヨキトク、スグカエレン》とかメール打つべきですかね。いや危篤ってのとは違うのか?」
「キトクといえばキトクではあるわな[訳註:奇特?既得?]」騎士も平生に比べ随分と寛いだ趣きだ。「まあ辞世の句だね」
「まったく物騒なご時世ですよ。その腹裂き包丁で、お腹かっさばかれる覚悟をすべきですかね……や、死ぬ覚悟があれば
「《風さそふ花よりもなほ》――か」ラ・サンチャの
「ガトーではなかったですけど」従者が徐ろに立ち上がると、傍らの主人の腕を取って起立するよう促す。「鼻よりもなお目にツンと来る感じじゃ、さすがにお茶菓子にも失礼ですからね」
「何だね」
「いや、手を洗ってきましょう。ここ数日その、《それがし》にはお腹いっぱいとはいえ、《和菓子》の方は縁遠かったわけだしここはせめてもの敬意を――」soregashiは日本人男子の
「ふうむ」
「ほら、それがし先輩の手も」主人の利き手を掴んで己の鼻先に持っていく千代さん。「れ、あんま臭くないですね。何故だ」
そこで風鈴がちりり鳴ると同時に、面映ゆき少女ふたりがしめやかに、板張りの廊下をゆっくりと踏み締めて進むたおやかな音が上階のそこかしこで響く。
西の果てに住む
「見よ、チヨさん。この破魔の名にし負う汽水湖も御多分に漏れず、
「いや、ちょっ、あっれ~」それまで手持ちの荷袋を引っ繰り返していた我らが整頓好きのラ・サンチャが誇る牛の従士だったが、次の矛先を目に留めて車輪付き旅行小鞄の
「何がない。ナインチェかね」
「ナインチェがナインは問題ナインですが――」千代は初めて入った他人の座敷の上で何ら憚りもなく
「テルマスの
「や、たしかにアポカリ、プ、何だっけ、家康のお城のお風呂出た時にちゃんと回収したはずな――いや、しただろうか。コンセント引っこ抜いた記憶がないような……」横臥したままに首を傾げる千代さん。「ぶっさしたままだったような。アポーンした可能性があります。やっべえなこれ」
「それがしでは助けにならんですまないね」
「いえ、予備バッテリ持ち歩いとけって話なんですが。おじいちゃん持ってっかなあ。それこそドンキとか行かんでもどっかコンビニ行きゃ数百円で……」従者は卓上にある冷たい麦茶の硝子盃を手に取った。「氷溶けてる」
カタリ。
「わっ」千代が背後を振り返り、思い出したように思いっ切り噎せ返った。茶の残りを飲み干そうとして気管にでも入ったのだろう。
トントントンと軽い
「大丈夫かチヨさん」騎士は咄嗟に駆け寄ると、従士の背中を擦り擦り介抱してやりながら、矢庭に険しい表情を見せたかと思えば俊敏な動きで和室の出口を見回した。「敵襲を受けたか」
「何かいた!」一通り咳払いをし終えた千代が襖(或いは障子、共に木枠と和紙で作られた
「それならハイジであろう。若しくは座敷童子か」これは子どもの姿をした家精の類であり、日本では古来より座敷童子が棲みついた家は栄えるという。「将又トムテかロビン・グッドフェローか」
「ロビンか花瓶か分かりませんが、何かこう――あれ?」牛の従士は顎を上げるやクンクンと鼻を鳴らした。「何と申しますか、鼻にグッドな……スメルが」
「花の匂いかね」
「いえ、風誘う――花よりも団子よりもなお」
千代が堪らず膝立ちになってフラフラと廊下の方に誘われていく。それに呼応して、どうやら何者かが階段を上がってくるような物音がした。あの老人だろうか。
両者は敷居のところで鉢合わせとなった。その誰かは、四つん這いのまま自分の足元の直ぐそこまで夢遊症者よろしくの有様で身を乗り出してきた少女の頭に出会すと、躓くだけでなくあわやその手に持った盆まで取り落とすところであった。
「ああびっくりした」上品な老婦人の声である。「おまちどうさま。あなた大丈夫?」
「わっ、たし大丈夫です」跪いた状態で下から見上げる千代。盆に遮られて声の主の顔は拝めていまい。「あ、いや、……お邪魔してます」
「此度は――」花は恰も
「あらあら、ご丁寧に。ちょっとごめんなさいね」老婦人は地面と一体となっている千代を避けて部屋の中央までやってくると、慣れた手付きで持ってきた物を卓上に下ろす。「こちらこそ大変お世話になったようで」
「お世話?……あ、この匂い」廊下側を向いていた千代は、畳の上を歩く
「おお、これは――不肖の従士ではないが、正しく
「美味しそうでしょう。もうお客さん来ちゃったから、うちの人は今外せないけど」
「おお、御亭主は
「あはは、そんな大層なもんじゃありませんけど。めっこですよめっこ。ほら、いつまで恥ずかしがってんの!」今度は女王の方が、千代さんが突き出した尻に向けてよく通る声を上げた。「ソラちゃん!」
「え、あっ、ごめんなさい」自分が叱られたものかと早とちりした千代はその場で正座したが、目の前――つまり襖の陰からひょこりと顔を出した少女を廊下の上に認めると、反射的に「あ、めっこい」という特に意味を持たない単語を吐息と共に漏らした。
「あの、お茶です」これは
「あっ……どうもです。あれ?」
「おや」主従は代わる代わる驚きの色を露わにした。
「お夕飯に冷たいお茶じゃ合わないと思って」老婦人は配膳を終えると、いまだ部屋の前で立ち往生している――というのも目の前に牛の従士が間抜けな姿勢を保ちながら通せんぼしていたからなのであろうが――穹ちゃんの肩に擦れ違いざまポンと手を置くと、「それではごゆっくりお召し上がりください」とだけ残して階下へと去っていった。夫の商売を手伝いに行くのだろう。微かに客の笑う声が聞こえる。
「こらチヨさん、
「ちょっ、別に這いつくばってませんけど!」
「あ、ごめんなさい。失礼します」老婦人と同じ足跡を辿って邪魔な千代さんを迂回した穹孃は、
「ありがとう
「さ、山椒大夫様ぁぁぁ」《猫の従士》《牛の従士》そして《山椒魚の従士》と幾多の異名を背負う我らがラ・サンチャの
「老い耄れのことかな?」[訳註:《
「おい!」予期せぬ漫才が始まったお陰で退出しそびれた少女に気付き、四つん這いのまま気不味そうな眼差しで見上げる従士。「ソラちゃん?だっけ、一緒に食べないの?」
「過分な御相伴に与りました上厚かましい御願いとは存じますが、宜しければ酒の肴に委曲をお聴かせ願えますまいか」言うまでもないが卓上にあるのは熱い茶であって酒ではない。[訳註:因みに著者はここで《酒の肴》をcomo pepinillos con vinoと訳出しているが、これではまるで葡萄酒酢に漬け込んだ酢漬けのようであり、葡萄酒のつまみという響きは感じ取れない]
「あ、えっと、また呼ばれてるので……また戻ってきます」少女はそう言って立ち上がると、そそくさと退散してしまった。ただ廊下に出て襖(或いは障子)の陰に隠れる間際、回れ右して足を揃えると、「さっきはありがとうございました!」と何とか声を振り絞ってからちょこんとお辞儀をしたのだった。
「あ、やっぱりなんだ」人の姿に戻った千代さんは座布団の上に正座すると穹の去った方向を顧みる。「し、しかし、これは……」
「搦め手門に招き入れられる矢先、おぬしの目にはあの店先の看板が目に入らなかったようじゃな」ドニャ・キホーテは眼前の
「う、うなゲッツ」
「……
おんじの店は
主従の夕餉が始まって数分と待たぬ間に先程の穹嬢が二階の和室を再訪したが、盆に載せた
「トゥーシャイシャイガールですね」猫舌の従士は彼女の背を見送りながら、運ばれてきたばかりの碗を手に取るや、早速昨晩の寿司屋での一場面を再現する。「あっち!」律儀な娘である。「でもうっま」
「馬も良いが、」ドニャ・キホーテは箸休めに漬物を囓ると、以下に続けた。「――海戦に於いて吾等が豪壮なるハマッシーの果たした勲功にも其れ相応の讃仰を以って報いるべきじゃな」
「ハマッシーは実家がそこの湖なんだから、それこそうなぎだってタダで食べ放題でしょうよ」お言葉ではあるが、浜名湖の天然ウナギは年々減少傾向にあるという。仮令相手が伝説の水獣であれ、湖の女神もおいそれと捕食させてはくれまい。「――おおお、まったりとしてコクが有る、それでいてしつこくない……まァ私ゃ生で食いたいた思いませんがね。思わないマッシー」
「いや、其れにつけても見事なカバーヤよな」[訳註:著者もcaballaと訳出している。牡馬caballoの語尾を女性形-aとした場合も牝馬を表すことはなく、通常は魚の鯖を指す。牝の馬は西yegua]
「その名の通りカバの口に入れても見劣りしないサイズですよ」千代さんの云うカバとは
「やれやれ、受けた饗応を値踏みするとは卑しいことよ」騎士は
「いや梅でもかまいませんけど、ホラ、うちの死んだばっさま曰く、うなぎと梅は食い合わせが悪いってことでしたので」梅とは
「それは過食贅沢への戒めじゃよ。尤もおぬしには
「何事も腹八分ってことですよ」
「然様。平成の碩学チヨさん・ハンザ風にものせば、」騎士はない顎髭を扱いた。「差し詰め《
「「《待つだけうめえ》!」」寸分違わぬ協和。最早息もピッタリの
ふたりは
「下は大繁盛みたいですねえ」重箱の隅まで平らげてしまった千代は、廊下と窓の双方に行儀良く首を突っ込んでは料理屋の概況を探った。「にしてもドニャ・キホーテの鼻は大したもんですよ。おんじのトラックから蒲焼のタレの匂いでも発してたとしか思えん」
「トラロックといや稲妻の神じゃな」
「鼻詰まりの紙……ティッシュ?」
「詰まっちゃおらんし鼻ならチヨさんの方が利くであろうよ」花は後輩を持ち上げる。「老い耄れ騎士の与太話も良く聴いてくれるしね」
「先輩が老いぼれならあのおんじはハイジになっちまうですよ。言葉の意味が反転するってことですからね」従士がこましゃくれた口を利いた。「実際あの時間帯あの期に及んでハマッシーに乗り込んだ時にゃ、うなぎどころかまともな夕ご飯も正直諦めかけてましたけども。こうやってしっかり岸に戻るや《騎士に二言はない》ことを証明してくれたわけで、段々私もドニャ・キホーテの持つ霊力みたいな物を信じ始めるにいたりましたわ。勘の良さも遍歴の騎士の必須科目なんですかのう」
「もう霊験はあらかた消え失せたよ」足を崩した騎士は、文字面からは気弱な印象を与える台詞をさも愉しそうに吐いた。「ほれ、今は土用であろう?」
「冗談云っちゃいきゃあせんぜ旦那ァ!」千代が遍歴の騎士に仕える従者らしい上品な言葉遣いで反論した。「今日が土曜なら、今頃は名古屋のシュロスでミサってますがな!」
「シュロス? 吁、シュロス・シェーンブルンだね」
「えっ、ウソ……まだですよね。今日まだ水曜とか木曜とかですよね?」反射的に携帯を弄った従者だったが、手に取ると同時に電池の切れたそれを中空に放り投げた。「つっかえねぇぇ! おんじ次はデンチウナギの蒲焼きも早く!」
「安心せよ、今宵はまだ旅人の守護神メリクリウスの聖水曜日だよ」中空の
「メリクリって……それもう冬ですやん」(《Meri-Kuri》=Merry Christmas)
「それがしの五紀の読みに誤りがなくば――」無用の携帯を卓上に置くと、代わりに湯呑みを手に取った騎士は窓外に瞬き始めた星辰の連なりに目を奪われる。「今日は土用の丑の日というやつなのだ」[訳註:土曜日はイスパニア語でsábado《サーバド》という。土用とは立秋前の半月強を示す時期であるが、著者は煩雑な説明を省く為、この日本語にユダヤ教の安息日を意味するsabbatサバトを当てている。魔女が集う悪魔崇拝の夜宴を意味するそれとはまた別物だが、《サバトと牛》の食い合わせは牛頭神バアルの儀式を想起させるので、図らずもおどろおどろしいネタに目がない阿僧祇花好みの意訳とも汲めようか]
「うっ、牛の日?」千代は目を丸くした。
「奇しくも土用の丑の日に、《山椒の従士》であり《牛の従士》でもあるおぬしを伴って浜名湖を征かば、ウナギイヌでなくても棒に当たるもとい当たり棒を引くということじゃよ。則ち寧ろそれがしの方がチヨさんのお零れに預かったという訳さ」
「へえへえ、私なんざはおぼこがいいとこでして、」
「海千山千のチヨさんがおぼこを僭称する方が烏滸がましいとも思うがね」
「差し出がましいですけど、その私のお零れの松竹梅が――」
「恩着せがましいな」
「まだお重の上半分残ってらっしゃるようですが」
「もうドニャ・キホーテの腹は九分方埋まっておるようじゃ。舌の上に賞翫するは
「これ以上私の脂肪フラグを立てんでくださいや」従士は腹を摩りながら云った。「箱根でもおっさってましたがねえ、霞ばっか食ってても騎士にゃなれませんですよ。いったい霞の主成分をご存じですかねこの人は」
「はて、殆どが水分ではないかしら」
「つまり一日に必要な栄養価がビックリするほど不足するわけですわ。カルシウムもタンパク質も食物繊維もござんせんよ」
「慥かに――」騎士は腕組みをすると真面目顔で応じた。「本邦のように軟水ばかりでは、港町でもない限り大気中に鉱物成分は期待できなそうじゃな」
「できませんね。好き嫌いせず光合成をしようっつっても見たところ、ドニャ・キホーテの肉体にはアレ、クロロフォルムが充分に備わってるとも思えませぬ」
これには
「これも慥かに――」涙を抑えつつ騎士は続ける。「ここ数日なかなか寝付けない理由が思い掛けなく解明されたわい。不食者(ブレサリアン)の道は遠いぜ」[訳註:英Breatharianは文字通り、飲食はせずに呼吸のみで生きている人間のこと。実在するという]
「別にオッパイセンくらいの発育を義務付けたりはしませんけども、もう少し栄養を摂ってもらった方が仕える身としても安心だってことを申し上げたいまでで」
「相分かった」主思いの進言を受けて、ドニャ・キホーテは今一度箸を手にした。「オッパイセンは元より、
「あっ、ごめんなさい。全部食べちゃいました」
花の靭やかな指の間を擦り抜けた一膳の塗り箸がカラカラと音を立てて卓上を転がると、そのまま太鼓の
夜の七時を過ぎた。千代は窓辺に涼を取りながら、壁に寄り掛かってうつらうつらとしていた。流石にもう満腹だろう。
卓上で瞑目していた騎士が不意に顔を上げる。
「今日も朝からいきれとりましたけ、かんだるなっておるのでしょう」
「おんじ殿」入室した老人に向き直り、居住まいを正す花。「これ、チヨさん」
「ええ、ええ。寝かせてあげんさい」
「ふふ、それがし自慢の東国随一の漕手で御座いまする」
「そのようだでな」店の亭主は笑いながら畳の上に胡座をかいた。「どうです、お腹は膨れましたかい」
「いただきました」ドニャ・キホーテは蓋をされた重箱に手を乗せる。「肉厚で風味豊かな白身にさっぱりとした味わい、御亭では天然物をお使いのようで」
「ほう!」
「春の
「こりゃ参りましたわ」おんじ殿は己の額を打った。「お若ぇのにてぁした食道楽だに。俺っちの常連でも天然養殖の区別なんざ付かんですだよ。どうせ輸入モンだろなんてこく始末で」
「恥ずかしながら吾が
「スパイス!」不肖の妹が跳ね起きる。「山椒の――あっ、大変美味しゅうございました。リキッシモ……つまり横綱級の美味さというか、あの、――ウナギッシモでした!」
「がいにがんこけっこい娘さんらに喜んで食うてもらえばあっこいらも幸せだらえ」
そこに寝間着姿の穹ちゃんが入ってきた。
「お先に」風呂上がりなのだろう。
「あ、パジャマかわいい」日本の女子学生というのは
「おめもこっち座りん」おんじがトントンと畳を叩く。
「座んな座んな」千代が座布団を出した。「座布団暑いか」
「ちゃっちゃと座りなや」
「じゃ、いただきます」こうしてラ・サンチャの主従と
それから老人は、賢明な読者諸兄が推量した通りのことの顛末を語った。
「こん子は娘夫婦んとこん子で、いつもは
「丑の日ですもんね!」千代が覚え立ての余計な相槌を挿んで説明の腰を折った。「なんで牛の日に牛肉じゃなくてうなぎを食べるんですか?」
「Pues voto a tal,」ドニャ・キホーテは呆れて声を荒げる。「doña hija del puto,――ええからかんにせんか! 話が前に進まぬではないか」[訳註:イスパニア語部分を訳出すると、前半は「さて誓って云うが」に近い文意、後半はMr. son of a bitchの男女をあべこべにした呼び掛け。因みに「ええからかん」という日本語は静岡方言と思われる。おんじ殿の語調が伝染したか]
「アレは何だっけ、平賀源内か誰かじゃんなあ」騎士の気遣いには構わず老人が応じた。
「源内? エレキを発明した人ですか?」エレキテルというのは十八世紀にオランダから伝来した
「発明した訳ではないが……まあよい」花は嘆息を漏らした。「土用は丑の日うなぎの日というのは謂わばキャッツ――
「え、金曜はカレー曜日みたいなもんですか?」
「それは知らぬが……」現在でも日本人の家庭では、週末は家族揃って
「そもそもなんで夏に脂っこいもん食わせるんですか?」千代は先輩に純粋な質問を投げ掛けた後に老人を直視した。「いやめっさウナギッシモでしたけど」
「本来はうなぎの旬は冬だけんが、夏や言うて売れんと困るけ夏に食うもんということにしたんだら」
「情報操作!」純朴な従士は脱帽した。「CIAみたいなもんすね。なーる、おまけにイベント化しちまえばアレだ、商業的?宗教のメリクリやバレンタインやハロウィーンみたく金儲けができるっつう寸法でんな」
「まァそない儲からんがね」亭主は苦笑する。
「そのカラクリが白日の下に晒されてるからかホワイトデーは大して盛り上がってませんしな」三月十四日を日本では《
「そこはほれ、おぬしも冬眠前には食い溜めするであろう」
「熊ですか私は」閉口する千代さん。「冬眠前だろうが春眠後だろうが、ご馳走の味を覚えた暁にはいつまでも食い続けますよ」
さて、老人が語った経緯を概括すると以下の通りである。
学校の友人も居ない母方の実家で暇を持て余した少女がどうやって時間を潰そうと思案した結果、ふと思い立ち開店間際で忙しい保護者代わりの祖父母の目を擦り抜けるや、当て所なくふらふらと彷徨っている内に近所の遊園地へと入り込んでしまった。花や千代にも親しみのある日本の諺のひとつ《犬も歩けば棒に当たる》の棒とは吉凶のいずれをも意味している(つまりは
ソライダに重篤なる(日本人が呼ぶところの)《
「あのロリコンどもめ」千代さんは然も見下したように吐き捨てた。「日本はもう終わりですね。ロリコニア・ニッポンに改名すべきですよ」
「いいから暫く黙っておれ」
まさかそれなりの人出がある施設内でチンピラに絡まれるとは予想だにしていなかった少女も、腕首を掴まれた時は大層怖い思いをしたという。助けを求めようにも恐怖で声が出なかったのだ。
「そんだら水の方から何か黒いのが飛んで来て――」穹ちゃんが説明する。「次の瞬間その関西弁の男の人がブッ飛んだんです」
「ブッ飛んだ……やっぱ死んだんじゃないですか?」艦砲射撃をけしかけた本人である従者が、
「……暫く黙っておれ」
「実際黒いのが頭んとこで爆発したから、脳みそが飛び散ってるか思ったです」それはそれでナンパ以上の恐怖が彼女を襲ったかもしれない。それでもその脳髄が女癖の悪い夫の物でなかった分、ジャクリーンよりはマシとも言えようが。「で湖の方見たらネッシーがいて」
「ああ、アレはね、ハマッシーだよ」
「ハマッシー?」
「ハマッシーだマッシー」
少女は隙を見て――脳味噌をぶち撒けた一方は言わずもがな、虚を衝かれたもうひとりもナンパどころではなかったろうからいちいち見るまでもなく隙だらけだったのだろう――、出口に向かって駆け出した。逃げながら携帯電話で祖父に連絡を取ったのである。おんじ殿は店の準備を放り出して、鍵も掛けずに慌てて荷台付きで駆け付けたのだが(この時祖母は買い出しに出ていたようだ)、家に連れ帰って裏口に下ろすや否や、――
「すぐにあっこ戻れっつてひなりますけ、ふんと何事かと思うたじゃんねえ」
要は、彼女を助けた「ピンクのネッシーに乗った人たち」が仕返しを受けるかもしれないから、おじいちゃんに彼女らを連れて来てくれるよう頼んだと言うのである。そういった次第で、よく成り行きを飲み込めぬまま遊園地に舞い戻った老人は、小舟乗り場の係員と並んで桟橋の上に待機していた――と、こういう訳だ。
「おんじさんめっさいかつい顔して見てるから、てっきりうちら傷害の罪で逮捕されるのかと思いましたよ」千代は胸を撫で下ろす。「何も説明なしで連行されたし」
「説明しようにも俺っちも何も知らんかっただよ。そんないかついですか」
「いかついっつかいかっちいですよね。いい意味でですよ?」
「まあ何にせえありがとうっけねえ」そう言って老人は頭を下げた。隣の孫娘もそれに釣られる。
「礼には及びませぬ。それがしと彼女は騎士道の務めに準じたまで。御亭もソラ嬢も、御顔をお上げくだされ」騎士は相手が応じるのを待って、次いで返礼のように低頭して付け加えた。「此方こそ御陰様で、忠臣の労に報いることが叶いました。厚く御礼申し上げる」
「ハハハ、他に何もないじゃんね。浜名湖の名に恥じないもんをお出しできてよろしゅうございましたわい」
「おっとこれは失礼仕った」浜名湖の名で思い出したのだろう。お決まりの名乗りをすっかり忘れていた。「申し遅れましたがそれがし――」
ここで室内の柱時計が重厚な音色でひとつ鐘を打った。
「もう遅くなりおったな」老人が柱を見上げる。「おめさんら、東京ん方ですかね」
「ああ、はい。ラ・サン――世田谷区から来ました」長口上を劈頭から遮った時計の鐘に感謝しながら、従者が後を引き取った。そして穹の顔を見て続ける。「サザエさんの住んでるとこだよ」
『
「渋谷とか近くですか?」少女が好奇心の発露を垣間見せた。
「全然歩ける距離。歩いたことないけど」千代は都会育ちを自慢する。「チャリで十分くらいかな」
「へーだらあの自転車はレンタルか何かかや」庭に駐輪した主従の
ラ・サンチャのふたりは顔を見合わせた。
「十日は掛かりませんでしたな。吾が韋駄天のイポグリフォは云わずもがな、チヨさんの跨る愛驢もどうしてなかなか骨身惜しまず駆けてくれましてな」
「跨ってる方の骨は大分折れましたがね」千代は腰を持ち上げて、座布団との間に手を挿むと己の尻を労るように撫でた。「特に尾骨とか恥骨とかが」
「ご冗談はよしとくりょーよ。子どもふたりで二百何十キロも旅してきたんかね」
「冗談では御座らぬ。いまだ遊歴の途次なのです」騎士はきっぱりと云い放つ。
「こっちでホテルとか予約してるんですか?」穹ちゃんが当然の疑問をぶつけた。
「そういうチマチマした手続きを遍歴の騎士道は好まないのよ」従士は何故か自慢げに嘯いた。「もっとも予約よりも野宿を好んでるとしか」
「バカこいちゃおえんよ」うなぎ屋の主人は呆れ返ると、ひとつ大きな溜息を吐いてから提案した。「しょんない子らだや。ほんだら今晩はうちっちに泊まってかまいか」
「え? やった!」欣喜する従士。遍歴の
「おめぁっちもほんでええだら」老人は孫娘に訊ねた。
「うん、おばあちゃんに布団出してもらう」
「俺が出してやっから、お前しいたれ」
「分かった」穹ちゃんは立ち上がった。
「やった。ありがとうございます。ドニャ様もいいですよね」
「一から十まで忝ないことです」花はもう一度深々と頭を下げた。
「よっしゃ」千代は拳骨の突き上げを決めてから、重要な事案を思い出す。「あ、ソラちゃんちょっと」
「はい」
「ソラちゃん携帯何使ってる? 充電器っつかアダプター?できたら借りたいんだけど」
「あっ、ごめんなさい。うちまだガラケーなんです」ガラケーとは
「マジか。おんじ殿は?」
「俺か? そんなこまいモン持っとらんよ」
「おばあちゃんは?」
「おばあちゃんもガラケーだったと思います」
「マジか……」一転して従士は意気消沈した。「マジ出島か……てか鎖国? あれ、近くにコンビニってありませんでしたっけ? なんか通ったような……サークル系のが」
「温泉のとこか」
「温泉?」千代が食い付く。
「あるはあるが、もうくらぼったいけ明日になさい」面倒見の好いおんじ殿は、若い女性の夜歩きには慎重である。「どうしても必要なら私が買ってくるよ」
「いやまそこまでは」
「まだ、あんバカどもがウロウロしとるかもしれんだで」おんじの懸念も尤もなことで、頭蓋を砕かれたり水責めに甘んじたりした破落戸どもが、因果応報と反省してそう易々と心を改めるとも思えぬ。「ところでさっきから聞くおんじ殿ってのは何だね?」
「ああ、オンジってのは――スペイン語で《海の男》って意味ですよ」
「へえ!」おんじは甚く感心した。「かしこいねえ」
「ふうむ、オンディーノといえば或いは……いやどうかな?」賢い従者を持った幸福な主は頭を掻いた。[訳註:女性形でOndinaといえば、慥かにこれは水の精である。但し男性名詞でも使用される単語なのかどうかは判らない。因みにondaは《波》]
こうして半坐千代の外界からの孤立も、今暫く延長されることとなった。
おんじ殿と立ち代わりにやって来た老婦人――《おんじ》の対義語として《おんば》という日本語がある筈だが、老人の妻には用いられなかった――が、風呂に入る際は汚れ物を出しておくようラ・サンチャの姉妹に命じた。娘夫婦が買ってくれたという自動洗濯機の乾燥機能は目覚ましく、明朝何時に出発しようがきちんと乾かしてみせるとのことである。
「ここ一時間はまさに濡れ手アワーですな」[訳註:底本では、《楽して得た金》を意味するdinero facilを捩って、«Es marinero facil.»「甘い船乗り」と意訳されている。西marineroは《航海の》という形容詞でもあるので、どちらかといえば《渡りに船》が近いか]
本来であれば自分たちを歓待してくれた店の
「ふぁ~、さっぱり」しだらない声を上げながら、寝間着代わりの涼しげな軽装を纏った千代が髪を拭き拭き和室に戻ってきた。「すいませんお先いただいちゃて。あ、メロン」
「おぬしの湯浴みしておる間にソラ殿が持ってまいったのだ」ラ・サンチャの騎士は従者が出て来るまで手を付けずにいたようである。「その顔を見ると、旅の余塵も閻浮(えんぶ)の塵も綺麗さっぱり濯がれたようじゃな」
「そりゃもう、パリジェンヌだって今の私ほどキレイじゃないでしょうね……いや、フランス人ってそもそも不潔なんでしたっけ?」銭湯での講義を思い出したのだろう。欧州で香水文化が発達したのは我々が風呂嫌いだったから――という話はよく耳にするが、浴槽に加えて洗い場を持つ日本の風呂は、成る程機能性に優れるものの何より場所を取る。それに日本人は毎日浴槽に湯を張るというが、何とそれを家族で使い回すそうなので、正直衛生観念についてあれこれ非難されるのは心外だ。
「フ――ケツといえば、」貴人貴婦人の面前での清潔や恋人に対する純潔は重んじるものの、血汗と塵埃に塗れることを厭わぬ巡礼者たる側面を軽んじることはない我らが高潔の士ドニャ・キホーテは、著者と読者の心を先読みしたかのように話題を転じた。「先刻より案じておったのだが、詰まるところチヨさんの尻は滅裂しておらなんだかね?」
「あっ確認し忘れました」既に幾層の布に包まれた己の尻を顧みながら、従士は口を開けて不注意を嘆く。「まァ体硬いので、鏡あっても自分じゃよく見れませんが。今度一緒に銭湯入ることあったらドニャ・キホーテ様が検査してください」
「しっかと承った」騎士は笑って応じた。「尤もそうして歩いておる限り、決裂や四散の心配もあるまいよ。第一四つに割れていれば、湖岸までの道中もシャルロットが二頭必要になっていた筈じゃからな」
「まァ主思いの従僕としては、何でしたっけ――四頭立てか、馬の沢山付いた馬車だか戦車だかをプレゼントしたいとこですが」
「おやおや、これ又豪儀なことだね」
「それはおいおい……出世払いということで」千代は座布団に座るや、風呂上がりの熱冷ましとして早速瑞々しい果実へと三叉刺しを差し入れる。「いつの日かきっと恩返しをしますけえ。その前に、先ずは世直し出直し口直しってことで、グリちゃんとシャロ一頭ずつで我慢しましょう。アマデウス・デ・ナントカの集会まで後ちょっとですから」
「チヨさんの云う通りじゃ……」花は感慨深げに呟くと、手を合わせてから従士の作法に倣い、甜瓜に手を付け始めた。「機は熟したが、まだ時間はある。その志をゆっくりと
「よく熟してます。でらうみゃーですよ」至れり尽くせりの献立にご満悦の従者。「早く食べないとあったまっちゃう」
次いで老人好みの熱い風呂で存分に身体を温めた阿僧祇花が
ラ・サンチャの妹の方は夫人の指示に従って、就寝前におんじ宅の電話から三軒茶屋の自宅へと経過連絡することにしたのだが、生憎先方は通話中だったようで、何度か繰り返したものの結局は徒労であった。ならば家の電話は諦めて母親の携帯に掛けよう。
「れ? チカさんの番号何だっけ……まあいいや」いい加減な家族である。「――いいやいいおやわるいおやっと」[訳註:第四章参照]
それから忠義深い従者は、主に代わってドニャ・キホーテの消息をラ・サンチャへと伝えるべきかと勘案したものの、携帯を使えぬ以上麗しの演劇部部長の番号を呼び出すことが出来ないことと、花の実家の連絡先については端から聞いておらなんだという現実にも思い当たると、もう諸々の義務は果たしたと自分に云い聞かせて受話器を置いてしまった。
招き猫亭の孫娘が自室に帰ってしまい手持ち無沙汰となった姉妹は、空楽団箱部屋での勉強の残りを済ませると、明朝の用意もそこそこに消灯しそれぞれの布団に入った。嘗ては畳の上で寝るのが当たり前であった日本人も、西洋化が進み寝台での就寝が一般的となった現代では、地面に寝るということに対する新鮮さを感得せずにはおれないようである。それは野宿が続いたふたりに於いても例外ではない。
「並んで畳で寝るとか、修学旅行っぽいですよね」薄手の
「ではアルコバーサのペドロとイネスに倣い、互いに足を向けて寝てみるかね」
「イネスは知りませんが、少なくともペドロの方はじいさんでしょう!」従者が見当外れの返答をした。「それに先輩の方は兎も角、私ゃドニャ・キホーテに足向けて寝るなんてバチ当たりなこたあできませんよ」
アルコバーサ修道院に眠るポルトゥガル王ペドロ一世とその愛妾イネス・デ・カストロの棺が互いに足を向ける形で設置されたのは、いつの日か目覚めたふたりが起き上がった暁に最初に目にする相手が愛する恋人となるようにという、
「そういう意味ではそれがしも未来永劫、無二の親友たるチヨさんに足を向けては寝られまいよ」
「そういう意味じゃうちら自分の足にだって足向けちゃ寝られませんよ」
「異存なしじゃ。
「座ってる奴ですね」日頃物事を考える機会に乏しい東京の女子中学生であっても、《
「座ってる奴じゃ。畢竟するに、足以上にお尻には頭が上がらぬ」
「
「ハッハッハッハ!」遍歴の勇者ドニャ・キホーテの呵々大笑は、階下の老夫婦の耳にまで届いたろう。とはいえ近所迷惑を気に掛ける程深更に及んだ刻限ではない。「
「私のケッツはシュロス行きチケッツをゲッツした時点で十二分に報われてますよ。ミサ中はずっと立ちっぱですからな。ヒップに負担は掛かりますまい」千代はうつ伏せのまま、
「ヘドバンするに此の髪は蓋し邪魔じゃろうな」
「何をおっしゃる旦那様」従士は上体を反らすと異議を申し立てた。「その腰まで届く烏の濡れ羽ストレートフラッシュを振り回すから豪快なんじゃないすか。ホラ、歌舞伎でロン毛の人がぐわんぐわんと――」
「毛振りかね」
「そうそれ、先輩のその華麗なるケブリだかジブリだかをニワカなアマデっ子どもに見せ付けるためにも、
「頼もしい限りよ」
「ライブは戦場ですからね……ガッツですよ」千代は欠伸を噛み殺してから、もう一度念を押す。「ガッツだぜドニャ・キホーテ」
「チヨサン・ハンザよ、吾等主従が本懐を遂げた暁には――」花は星明かりの差し込む部屋で徐ろに立ち上がると、常に傍らにあるあの瀟洒な日傘を手に取って以下に告げるのだった。「おぬしには晴れて騎士の叙任を執り行うこととしよう。それがしはいまだ帝位にも遠い未熟者なれど、国王の名代として貴下に《猫》の称号を附与する。ラ・サンチャに帰還した後、そなたは《
「ネコだかカバだか分かりにくいのが気になりますが、――」千代は布団の上に正座して、叙任式の予行演習に付き合った。「これで晴れて《牛》の称号をあのお方にお譲りすることが出来るってもんです」
「あの御方?」
「《牛の乳》プリンセス・ミコミコーナ」
風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせん。[訳註:西訳«Más que las flores de cerezo invitando al viento a arrancarlas, me estoy preguntando qué hacer con la primavera restante.»は概ね「風を誘い入れ自身を散らせる桜の花にも況して私は自問する、残された春をどうすべきかと」となる]
風鈴の澄んだ音色が彼女たちの健やかなる寝息に彩られるまでに、それ程の暇を要することはなかった。
「ラ・サンチャ出立の折は《Alea iacta est!》とばかりに勇み立ったものだが――」ドニャ・キホーテは天井を見つめながら静かに云った。「今は《Cochlea iacta est.》とでも云い直したい気分だよ」[訳註:《Alea iacta est.》の定訳は《賽は投げられた》である。対して羅
そこでムニャムニャと何やら寝言を零す千代さん。
「やれやれ、おぬしの云う通りだ。宵っ張りのドニャ・キホーテには
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