ドニャ・キホーテ
第12章 千代が思慮深きことどもを語る主とともに持った議論すべき心根について、及び屍者の眠る大寝所にて出会した他愛無くも疲羸しかなき冒険について記されるが、此は本書に記される冒険の内で最たるものである
第12章 千代が思慮深きことどもを語る主とともに持った議論すべき心根について、及び屍者の眠る大寝所にて出会した他愛無くも疲羸しかなき冒険について記されるが、此は本書に記される冒険の内で最たるものである
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第十二章
千代が思慮深きことどもを語る主とともに持った議論すべき心根について、
及び屍者の眠る大寝所にて出会した他愛無くも
此は本書に記される冒険の内で最たるものである
Capítulo XII.
De los discutidos corazones que Chiyo tenía con su ama quien hablaba de las cosas bien consideradas,
y de la aventura del temeplado espanto fatuo y fatigoso en un gran dormitorio de muertos,
que es una de las aventuras más famosas deste libro.
実に三個もの
「花も
「たしかに先輩が摘んだら共喰いになっちゃいますかね」千代は尻に付いた砂を払う。「いや、あれ……相討ち、かな?」
「早うせい。トイレであれ
「用足し行ってきます」そそくさと店の中に入っていく。
誰も居なくなった駐車場で独り地面を感じながら、花は「行っといれ」と呟いて微かに笑うと、ゆっくりと星空を仰いだ。ひと息吐く。「――あと、四日か」
三分と待たずに千代が出てくると、早速主従は再出発する。
「何だ、手ぶらではないか」
「花も恥じらう太めとしては、野糞に咲く花を刈り取るなんて無残な真似は到底できまへんでしたんですの」《
「太め太めとおぬしは云うが、一体全体その基準は何であろうね」
「グラドルみたいのが五センチ十センチ単位でサバを読むから、バカな男どもがウエスト六十以上は女じゃないみたいなクソみたいな戯れ言を吐くことになるんですよ」さも小馬鹿にしたような口振りで従士が答えた。「内臓も入らねっつうの」
「内臓がないぞう、というところかな」[訳註:西語訳では「
千代は不意を突く主の戯れ言に、文字通り
「目出度くも内臓を内蔵する然しものチヨさんも、竟には冷え腹を下したかと懸念したが、どうやら杞憂であったようで何よりじゃ」
「あ、ああ――」従者は我に返って応答する。「小さい方だけですよ。めったにお腹は壊しません。代謝が良いんでしょうね」
「
「メタボ……」千代が反応した。
「――元は折り返し地点を示す円錐状の標柱を意味した、メタを語源とすると謂う。吾等の長旅も先刻テルマスを出立した時点で、丁度半ばを過ぎた辺りといえような」
「まだ半分ですか!……間に合うのかこれ。円錐といえばあそこのファミマはピノ置いてなかったっすねえ。まァこれ以上アイス食ったらさすがにお腹がクーパーになってるかもですが」[訳註:ゲイリー・クーパー=下痢という連想だと思われる。これ以外の例を見ても、家族の影響かどうも半坐千代の語彙には花同様ある種の古めかしさがあるが、世代的にはせいぜいオールドマンくらいでなければ中学の同級生には通じまい]
「豊艷なるミコミコーナの円錐型を支えるは紛れもなくクーパー殿であろうが、氏が下垂気味なおぬしの腹の方にも一枚噛んでいたとは寡聞にして知らなんだ」騎士は従士の胸と腹部を交互に見据えながら以下に続けた。「時に円錐台の体積の求め方は憶えているかね」
「ええと、底面半径の自乗と上面半径の自乗と両方の半径を掛けたのを足して――」従士がここ小一時間の成果を示した。「πと高さを掛けて3で割る……合ってます?」
「宜しい。では表面積はどうかな?」
「ピノの表面積にはさほど興味ありませんね。チョコよりもアイスに重きを置いているので」別に騎士も甘味の
「
「オッパイセンのおかげか今日はほんとパイのよく出てくる日ですこと!」すると矢庭に大声を上げた千代が、今度は突然声を潜めた。夜の散歩であろうか、甘えた声で鳴く飼い犬を連れた、近隣の住人が歩いているその隣を車道の主従が追い抜いたようだ。そういえばここ数時間、犬には吠えられていない。続いて自動車と擦れ違う。「まァ私は姫殿下のわがままボディより、ドニャ・キホーテの品のある乳の方に憧れますがね。それはそれとして、次のコンビニではとんがりとパイの実を買いましょう。非常食として」
「姫のセリフではないが、慥かにチヨさんの胃袋ははくちょう座X―1も顔負けの吸引力かも知れぬ。尤もその容積を鑑みるなら、白鳥よりも駝鳥か或いは鵞鳥の方が相応しいともいえようがね」
「ガチョウじゃあフォアグラじゃないですか!」従者は憤慨したが、無理矢理に太らされている分ガチョウの方が気の毒である。「私はトリュフの方が好きですね。ガナッシュの方ですが」
「そちらは牝豚じゃの」先達の騎士たちの例に漏れず
「そりゃうがい手洗いは大事だと思いますがね、そのためにも今晩は早く泊まるとこ見つけないと。今は色気より食い気より眠気ですよ」
「おぬしの苦労にはそれがしも痛痒を禁じ得ぬ。だが馬上で船を漕いで、うっかりシャルロットから落ちぬよう頼むぞ」電車の通過音が響く。またぞろ東海道線の沿線に戻って来たようだ。
「さっきラムレーズンのハゲ食ったから若干酔っ払ってるのかもしれませんわ」護謨輪の刻む音が覚束ない。
「それを聞いたらネルソン提督も浮かばれまい!」花は笑った。[訳註:トラファルガーの戦いで戦死したネルソンの遺体は、腐敗防止の為に
「いやいや、前にテレビでそのドライなロンドン人が、ミルクティーにラムを入れてるのを見たことがあるだけだっちゃ、ですよ」試験で出題されない雑学に限っては存外明るい半坐千代である。「先輩だって未成年なんだから、せいぜいラムレーズンかウィスキーボンボンくらいしか食べちゃダメでしょう。ドニャ・キホーテにとっては百薬の長よりも百獣の王の方がお好みでしょうしね」
「百薬で思い出したが、」余計なことを云った従者に対し、彼女お得意の《連想遊戯》を真似た騎士が仕掛けた。「――あの
「またメタですか。何です?」
「そら、《立てば爆薬》とか何とか」
「お、おふぅ……あっ、ああ――」途端に肩を竦める千代。「さ、さすが閻魔様を倒しただけのことはあって地獄耳ですことで……」
「地獄も煉獄も、真隣におったであろうが」花が意地悪く追撃する。「で、どう続くのだったかな?……《座ればドカン》とか」
「ボカンです」これは
「いや、此処は原典に敬意を表して《ボカン》としよう」騎士は急制動を掛けて、道路脇にイポグリフォを寄せた。
「ちょ、何やってんですか」
「いや帳面に書き留めておこうと思うてな。で、続きをどうぞ」
「勘弁してください……取り敢えず邪魔だから乗りましょう」
「《歩く姿は――》?」再びゆったりと馬を進めるふたり。花は家来のように、徐行しても馬体がぶれない。
「歩く姿は、姿は……百合の――れ、百合であってるっけ? 瓜の……栗の、花?」
「《歩く姿は栗の花》か。なるほどそれも雄雄しい響きではあるな」
「え、そうですか? まァたしかに桃の花じゃ女々しい感じしますけど」
「
「あ、分かる、それ学祭でパッチテストみたいのやりました。たしかアルコールの――」
「それはアセトアルデヒドじゃ」代謝の達者なチヨさんであれば、或いは酒精にも強かろう。但しくどいようだが、日本で酒が飲めるのは二十歳からである。「しかし栗や鬼百合もよいがチヨさん、こういうのはどうかな?――《立てば爆薬座ればボカン、歩く姿はユリウス・カエサル》というのは」
「いいと思います……なんでも」
「数学が一段落付いたところだし、」花の声色が教師のそれに変じた。「――この流れであれば次は世界史か……化学かな?」
「ぎゃ」従者が悲鳴を上げる。「化学は……そんな授業はうちのクラスではなかったような」
千代さんの出任せも虚しく、これから十粁余りの道中は、花の懇切丁寧な原子説の解説から始まるのであった。[訳註:中学の教育課程であれば、千代の云う通り
従士が
「ああ、ダメだ。このままだとまた野宿になってしまう」恰も今目が覚めたような調子で、千代が約一時間振りに口を開いた。「もう石けんの香りもラムレーズンの味もしやしねえ。イソフラボン臭消えたのだけがせめてもの救いだが、汗臭いことに変わりはねえ」
「吁、チヨさんや」従者の悪態に気分を害することもなく、騎士が鷹揚に答える。「寝息のひとつも聴こえぬものだから、てっきりハビエカを駆りしエル・シッド宜しく、馬上で事切れたまま敵軍に突進しているものかと早合点したわい」
「突進するなら今からでも焼け野原のお城がよろしかったですわ。あの時の私がどうして、どういう精神状態であの親切な姫さんの申し出を断ったのか、そのヤリイカだかタピオカだかを買ったブル・シット様に訊けば教えてくれるでしょうか」
「これはこれは、」寸分の疲労も見せない花が大仰に畏まった。「三日振りに大後悔時代が到来したと見える。差し詰めエンリケ後悔王女の台頭よなあ」
「ああ何か聞き覚えあるわそのエンリケ……あとアレ、バルトロメウ・ディアスっていませんでしたっけ?」
「彼の航海長も
「そんな高級品はありませんが、安モンの香水と制汗スプレーならここに入ってます」千代はママチャリの前カゴに乗った車輪付き旅行鞄を叩いた。「問題は、私の辞書には後悔はあっても反省がないってことですわ」[訳註:因みに仏eau de Cologneは《コロンの
「耳が痛いね」ドニャ・キホーテも苦笑する。「しかしじゃチヨさん、道化を伴い徒で荒野を彷徨したリア王とは違い、おぬしもそれがしも尻を預ける相棒がいるだけ幾分幸運じゃて。それがリチャード三世でなくとも、馬の大切さは身を持って心得ておろうからな」
「その点じゃルパンも賛成でしょう」従士にとっては国王も泥棒も
「なるほど
「しかり」千代が不遜にも主人の口真似をして応じた。「何ならリアス式海岸をオプションで付けてもいいくらいです」[訳註:千代は聞き覚えのある単語をいい加減に使っているだけなのだろうが、東京名古屋間にあるリアス式海岸といえばせいぜい伊豆半島の東岸部くらいなのではないだろうか]
「ビーゴには一度は足を運びたいと思っておる。尤も今正に吾等主従が渡河しておるこの橋がヴァレンサとトゥイを繋ぐ
「先が見えないっすね」ふたりが渡っている長い鉄橋はポルトゥガルとガリシアの国境に架かるそれと同様に長く、河口から吹き上がる潮風が花の長く黒い後ろ髪をはたはたとはためかせた。[訳註:この橋が島田市を東西で二分する大井川に架橋された大井川橋であれば、実際には西葡間の国際橋の二倍以上の長さがあったと考えられる]
「幾ら長いといっても、エリヤのアリアを聴き終わるまでには充分渡り切ることが出来る筈だ。実際ミコミコーナ姫にはオラトリオのアリアがよく似合うであろうよ」それから花は、心なしか寂しげに呟いた。「愁思に沈む、吾が永遠の想い姫ドニャ・ドゥルシネーア・デル・トボソにもな」
「まァリア充といやあ」特に雰囲気を察するでもなく、従者が続ける。「私なんかと違って、先輩は本来勝ち組街道一直線だったはずなのに、それとは真反対の方面に突っ走ってますよね。グリちゃんに乗って」
「おぬしはこのドニャ・キホーテを敗軍の将と申すか?」騎士は前方不注意を恐れずに従士を見据えると、僅かに語気を荒げた。「となるとチヨさんも文字通り負け馬に乗っている道理となるが」
「別に負けちゃいないとは思いますが……ほら、リアルの逆ベクトルだったら」主人の気勢に気圧された千代は弁解する。「バーチャルが充実してるというか、夢に生きてる感がありますよね。なんだろ、バチャ充?」
「
「男が優秀とは……石松やあのエロガッパを見た後ではとても信じられませんね。特にあのうそ松くんとくりゃ、松竹梅の中で実は松が一番低レベルなんじゃないかってくらい、私の中での松ランクを下げてしまいましたよ」
「おぬしはチヨキという言葉を知っておるかな」[訳註:千代木は松の別名である]
「なんでしょう。代々木と千駄木の間の駅とか」
「云わぬが花……いや、知らぬが仏というものじゃ」
「じゃあ知らないでおきましょう。云わぬがハナなら訊かぬがチヨってことで。これまでの経験から考えても、余計なことに首を突っ込まないのが猫の処世術ですしおすし……ああ、仏といえば、」千代は欠伸をひとつ。「パンケーキのパンってフライパンのパンだそうですね」
「仏とパンケーキにどういう関係があるのやら!」花は天を仰ぐ。
「男と優秀ってのに比べりゃ十二分に因縁があると思いますけどね。因縁はあんねん……やっぱ騎士ってのはマッチョに憧れるきらいがあんのかしら。女は黙ってろ的な」
「ラ・サンチャの騎士は男尊女卑と思うかね」拍車を掛ける足を休め、馬を徐行させながら花が問う。
「いやあ――男装女子ではあると思いますが」千代はそう云ってトボけた。
「男になったつもりはないよ」いつになく柔和な声で騎士は続ける。「尤も少年に女装させちゃ行く行くは
「たしかに先輩は、世が世ならノーベル戦争賞を受賞してもおかしくない荒くれ者でらっしゃいますわ……ああやっと抜けたよ」漸く対岸に着いたようだ。
「揶揄ともお為ごかしとも取れるが、」律儀に
「はっぱろくじゅうしくらいなら掛けられますよ。葉っぱに
「お寿司はもうよいって」主はこれ以上の脱線を避けた。「第一それは数学ではなく算数じゃ。数でいえばviはローマ数字の六だが、六道を持ち出すまでもなく生そのものを表すともいえる――vie vita vidaというように」
「リヴィラヴィーダーローカー」
「ふむ。と同時に二面性を示すこともある。美徳悪徳の双方を内包してこそ人徳の本来の姿だといってよかろう」[訳註:
「つまりですよ――」千代が仕切り直しに掛かった。「セラヴィーのヴィーがヴィヴィッドな単語だってことは承知しましたが、ヴァーチャルとヴィーチャルは同じものなんでしょうねえ?」[訳註:英virtualの綴りを知らなかったからこその混同だろうか?]
「ヴァーチャルをリアルの対義語と見なすようになったのはVR則ち
「あるとすればその逆ですね」名誉を重んじる
「宜しい。では実際にニコさんの宿題を完遂したのをチヨさんだとする。しかし氏名記入欄には馬場久仁子とあるだろう。その署名は実質的効力を持つ。これがヴァーチャル」
「はい」
「しかし現実の貢献者はおぬしじゃ。これがリアルである」
「おお、正しい」何やら分からないが従士は納得した。「ということはですよ……バチャ充ってのはある意味、本当の意味でのリア充といっても過言ではないってことでしょうか」
「理解が早いな」騎士は従者を手放しで褒め称えるなり続けた。「仮想現実というのは本来リアルの裏側で、実質的にリアルと同等の効力を、生命を、生活を、そして仁徳其れ其れの役割を果たすということである。そもそもに虚構、還元すれば嘘という
「つまりどっちがいいかって意味では、いわゆるカレー味のうん……やめておこう」難解な言葉遊びに耳を研ぎ澄ませた筆者自身が他ならぬ東国の騎士を含む誰よりも瞠目したことに、千代さんは続いてこのような核心を突く指摘をしたのである。「――理想主義ってのとはまた違うんですかね」
「理想も現実の対義語として市民権を得た言葉だが」だが並走する百戦錬磨のドニャ・キホーテは動じぬ。「――これも認識の問題に過ぎぬ。時にチヨさんは、理想と聞いて何が思い浮かぶものかね」
「え、何だろ……武士道とか? ああ、アレも変ですよね」
「何がだね?」
「だってほら、日本人てサムライサムライ言うの好きじゃないですか。でも実際江戸時代って平和だったから、武士階級の連中って大して武芸の稽古もしないし偉そうにして町民いじめまくってたクズだったんでしょ。気ままに無礼討ちとかして」日本史の成績の為体を棚に上げて評価すると、
「長いものから食い始め、か。まあ知行合一、大塩平八郎のようなのは例外だわな」
「越後屋そちも悪よのう……お代官様こそ――でお馴染みのクズっぷりですね」
「のみならず、日本人の大半のご先祖様はお百姓な訳で、そうすると己の祖霊を生前虐げてきた、器だけで中身の無い
「ほんと《サムライジャパン》とかちゃんちゃらファニーですわ!」明治期の史料を紐解く限り、――城下町に限れば話は別だが――江戸時代末期に武士階級が占めた割合は一割にも満たなかったと謂う。「そっちは嘘っぱちの方のバーチャルですかね。まァ騎士道精神を理想とするご主人様の前でこんなん云うのもなんですか……あ、リアルは武士だけど実質的にはクズってのが、バーチャル? いや逆なのか。人道的ってのも、人間は本来クズなのかもだけど理想としてはこうあれってことですよね結局」
「理想は真実とも置換できよう。ミコミコーナの仰有る通り、世人は真実を称揚するが、追従するのは常に現実である。但し念頭に置くべきは、このふたつの単語は事実とは異なり確固たる形質を持たぬということである。形質などというと然も擬生物的な物云いとなるがね」
「でもでも」千代は三軒茶屋にある学校の教室さながら、シャルロッテの上で挙手すると発言の機会を求める。「バチャ充のドニャ・キホーテが重んじるのは史実なんですよね!」
「然様。今宵の従士は物分かりが善くて助かるぞよ」騎士は再び従者を褒めそやしてから、ボソリと呟いた。「元より夢と現の裏表に、一体何の意味があるというのか」
「夢にうつつを抜かしている中恐縮ですが――」主人に劣らぬ
赤信号の交差点を前に従者が驢馬の手綱を締めると、騎士も「
「何ぼのもんじゃい! ええと、暗いな……浜、松」街灯が発する光の反射で却って見難くなっている頭上の標示板を仰ぎ見た従者は、手を額に翳すことで網膜に入る光量を調節し何とかそこに書かれた文字と数字を読み取る。「43。浜松ってなんでしたっけ?」
「魔を破る松とは何とも霊妙不可思議なる御神木よ。無論、《
「カバ!カバ!ビバカバ!」浜松の特産物を思い出した従士が不意に奇声を上げた。「寿司に引き続き明日のディナーはうなぎで決まりじゃないですか! そういうことなら浜松滞在中に限って《山椒の従士》を名乗るのもやぶさかじゃないですよ!」[訳註:著者は千代の云うところの《カバ》を、仏シャンパーニュと同じ製法で作られるカタルーニャ原産の発泡葡萄酒と捉えてcava《蔵酒》と書き出している。白焼きと葡萄酒の相性なら合わないでもないかとも思えるが、これは十中八九蒲焼きのカバであろう。尚、一般に《
「慥かに
「浜松湖[訳註:正しくは浜名湖]デラックスといえば養殖ウナギ日本一ですからね。あ、くそっ、ここ浜松にカマ松がいれば特上うな重をおごらせていたものを……」[訳註:全国的に有名なのは確かだが、水揚げ量が全国一という訳ではない]
「食い気が眠気を追い越したというのなら、」一旦下馬していた騎士がもう一度鞍に跨って云う。「――丑三つ時には浜松城下に入れると思うが?」
「それは無理です」千代は毅然とした態度を見せる。「今日はもう百キロ以上シャロを漕いでるんですから、この子の脚も私の尻も限界値を超えてます。大体今何時だ?……げろ、牛どころか牛魔王だって眠ってるべき時間ですがな。ここは大人しくこの……どこだここ? あ、キンタニ高等……カネタニ周辺でホテルを探してベッドインからの朝風呂コンボを決めるべきですね。ルームサービスでマッサージのひとつも頼めりゃ御の字ですけど、そこは節約して自分でモミモミすることにしますから」
「それならせめて次の宿場町を目指そうではないか。そら、浜松の下にも何とか書いてあるであろう」
「ふぇ? ああ、掛川16キロ……ムリムリムリムリカタツムリですって。十六キロっつったら、うちから渋谷くらいはありますよ?」[訳註:三軒茶屋からという意味であれば、渋谷どころか池袋、いや上野よりも更に遠くまで行けよう]
「おぬしの好きなKackeの川じゃぞ?」常日頃、
「カッケ? 沖田総司ですか?」物忘れの激しい鳥頭の千代は、夕方に風呂屋の脱衣場で自分が発した
「さあさ起きた起きた。此処な
「《座ればボカン》はドニャ・キホーテ様の専売特許でしょうや」千代は必死に抗う。「遍歴の従士としちゃあ、《座れば牡丹餅》が出てくるような気の利いたお茶屋さんで一休みでもできない限り、このガードレールからお尻を上げることはできませんね」
「お尻の下に敷かれているのがあの
「ほら見てごらんましな」千代は掛川方面に続く道路を指差して主張する。「こっから見てもアレすごい坂道っぽいですよ」
「いやはや箱根八里で大分懲りたと見えるな。これこそ正しく《羹に懲りて――》、」
「それこそ穿いた
「――否、エスパーニャにはもっとチヨさん向けの俚諺がある」騎士は云い直した。「《El gato escaldado del agua fría huye.》……この意味が分かるな?」[訳註:《熱湯で火傷した猫は冷水を見ても逃げる》という意味。用心深くなるという文意は《羹に~》と同じだ]
「ガトーショコラに懲りて、今度はグルテンフリーのケーキを食べる」
「それでは何も懲りてないではないか」
「どう見積もったってあかんヤツですよアレ」
「掛川の川に懸けてもあかんかね」
「川に架けるのはさっきのクソ長い橋だけで充分です。色仕掛けだろうがよだれ掛けだろうが、はっぱを掛けようがギターとベースを掛け算しようがあかんもんはあかんですね」
「一杯のかけそば的なアレでも駄目かね」
「かけそばだろうが賭け麻雀だろうがダメなもんはダメです」千代はこれ以上の進軍を固辞すると徐ろに携帯を取り出して云った。「――で結局、《一杯のかけそば》ってのは何だったんですかねっと」
果たして従者の感じた
信号を渡ってものの数分でシャルロットの馬足――つまりこれは乗り手自身の両脚のことだけれど――が限界を迎えたかと思うと、千代は満足な道路照明もない中を問答無用で先に行く主人が、前照灯の
自動車の行き交う夜道を徒歩で行軍するのは寧ろ危険だと一度は説得した騎士であったが、心身ともに消耗した従者の痛ましい窶れ顔を見て流石に心を傷めたのだろう、車に轢かれぬよう隊伍を直列に組み直した主従は、それから三十分以上掛けてくねくねと曲がった県道を歩いたのであった。
「健全なる肉体にしか……健全なる精神が宿らんと、いうのなら……私は心身ともに、不健全な人生を……貫き通す決意を新たにせざるを、得ませんな」
「それは違うぞチヨさん。後世
「なる……ほど結局は神頼み、か。つまり願うだけならタダだと」
「然様。もとより元から健全な者なら敢えて願う必要はないわけだし、半面おぬしのような輩だからこそ実に願い甲斐もあるというものじゃて」
中腹に差し掛かった辺りで一度、千代さんがふと足を止め、「ドニャ先輩、男装女子の沽券に掛けて、いっちょ特攻しかけてみますか?」と云って主人に即断を促したのだが、これは恐らく道沿いに先述したような
「弾倉といえど弾はなし、掛ける孤剣も鞘の中、然ればとて徳行の為とあらば此のドニャ・キホーテ、髪冠を落とし女伊達を気取るのに何等憚ることもない」騎士はそう云い放ってからこう付け加えた。「だが果たして男に見えるかな」
「閣下もアルトも同じくらい長髪だし、男に見えないこたないと思いますけど……」従士は腕組みをして暫し唸った。それから
そういう経緯で、
それでも何とか峠の天辺まで辿り着いたはいいが、今度は宿泊施設は疎か便利店の一軒も見当たらぬ始末で、すっかり気落ちした千代さんが力なく滑走して山道を下る様を見ていると、然しもの鬼教師も今宵これ以上の試験勉強を強いるような浅陋な真似など到底出来よう筈がなかった。
とはいえ《誰かにとっての床は他の誰かの天井》という格言にも似て、いずれはカッケ川――いや従来のドニャ・キホーテであれば《
「せ、先輩、見て!」
「
「私は見てますって!」朦朧とした意識の中で千代が云い返した。「ついに来た来た来ましたよ。掛け替えのない物を犠牲にしましたが、少なくとも我々はまだ生きています」
「成程、屍骸にはなっておらぬな」新しい標示板には《
「そりゃ死骸だの紫外線だのペド野郎だのにゃ反吐が出ますがね」今宵の終着点を前に、従士の掛ける拍車にも力が入る。「未開の地をあんだけ駆け抜けた後ですし、こっから先がクーラーとシャワーとベッドの保証された約束の地だってんなら大歓迎ですよ」
「それがしも心強い従者を持ったものじゃ。そのまま
「問題は……今更ですが、流石にこの時間にこんなとこまでまたミコ姉さんを呼び出すなんてことは人として到底できんだろうってことですけど。保護者の振りして電話で予約してもらうとか、そういうことが可能ならいいんだけど」高架橋を潜るといよいよもって住宅街である。「だったらうちらのどっちかが声変えて親の真似すりゃ済むわけだしなあ。頼むべきか頼まないべきか、それが問題だもん」
「わたくしはチヨのハ、ハネのチカと申しますです」
「う、ちょ、うわあ何だそれ!」花の恐るべき
「電解質とはどういう物質か分かるかね」
「え、そりゃ……電気を分解する物質でしょう。そう、あれ……イオンとか、マイナスイオンとか」知ってる単語を使って何とか誤魔化す千代さん。「水とかお茶とかジュースとか、何故かコーヒーとかは買ってあるんですが、何故かスポドリ的なもんが入ってないんですよここに。まァホテルに入ればいくらでも売ってるでしょうけど、まだ一二キロは走るかもですから」
従士の目論見は見事に外れ、
そして三時間超前と同じような光景が其処にはあった。つまり薄暗い駐車場と明るい水晶張りの店を仕切る縁石にドッカリと座って疲れを癒やす従者と、その傍らで夜風に吹かれ体躯の火照りを冷ます騎士の姿である。
「まったく今日は三百キロは進んだんじゃないですか」電解質を含む良質の清涼飲料水をグビグビと煽りながら千代が嘯く。「気付いたら名古屋を通り過ぎて、京都とか大阪にご到着なんてのはご勘弁ですよ。大阪のアインラドゥンは取ってないんですからね」
「駿府のテルマスからの懸軍は多く見積もってもせいぜい十レグア程度であろう。
「笑止千万。そりゃ運動神経抜群のドニャ・キホーテにとっちゃせいぜいでしょうが、軟弱中坊の現代っ子的にはぜいぜい息が切れるばかりですわい。晴れて《夜伽》にミサる時にゃ真っ白に燃え尽きてんじゃないかと今から心配ですよまったく」
「そういうことなら、そら」騎士は僅かに後退ると、視線を宙に泳がせたまま千代に向かって手招きする。「チヨさんもここに立って見てみい」
「何です?」従士は面倒臭そうな声を出すと、両膝に両手を突っ張って立ち上がった。
「
「え? ど……おおっ!」千代が歓声を上げる。「すごい! 本物の城だ! 超光ってる、ってかテカってる……」(掛川城の
「光るは親父の何とやらと謂うが、此度はハゲも用無しかね」
「梨じゃなくて栗ですね。ハゲの代わりに髪の毛を……髪の毛だと思ってみるとマズそうですけども」千代は飲み物と共に買い求めた
小匙を口に挿んだまま、黙々と携帯画面を操作する従者。うんうんと唸っている。
「焼津に
「いや、とりま付近のホテルを調べてみたんですけど……ごちそうさま」千代の大口をもってすれば
「あの城に泊まるのではないのかね」騎士は民家の屋根越しに輝く掛川城を指差しながら、さも意外そうに訊ねる。
「白くまに掛かっている練乳シロップに掛けて誓ってもよござんすが、」従士は設置されたゴミ箱に
この理路整然とした千代の返答には、その武勲と栄光を鑑みれば東海道切っての要衝を治める城主から手厚い歓待を受けて当然だと考えていた世紀の英雄ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャをしても、従者の跨る驢馬に黙って付いて行くより他なかった。
名城を仰いでより二百米程西に進んだ辺りで、先導する従士が主人を顧みて云った。
「これ以上行っちゃうと掛川駅から離れ過ぎちゃうので、一応この道入って、二三個先の角をもっかい左に曲がりましょう。そしたらもう駅前だから、うろうろしてれば泊まれるとこがあると思いますが……」携帯が復活するや、
「
「運転終わって酔っ払ってたり、彼氏じゃない人を無理矢理襲ってエロいことにでもなってたりしなければ、焼け野原から遥々ご加勢に来てくださらんとも限りませんが……」千代はひとつ舌打ちをして続ける。「セーフティレバーないって言ってたしどうかな。できれば迷惑掛けたくないので、嘘電話で解決するのならうちらだけで何とかしたいところ」
「よい心掛けじゃ」騎士は従者が見せた
「そんな身の毛もよだつ権利を委ねるくらいなら、やっぱり姫君にゃ今晩は《焼津のナスヴィー》のままでいてもらいますですじゃ」
「茄子か……ふふ、図らずも
「何ですか、また悪魔関連ですか?」
「ほれ、胡瓜の馬に茄子の牛というアレじゃ」
「何でいきなりそんな卑猥な話になるんですか」千代は何か誤解しているようだ。しかし本稿とは直接関連しない事柄なので、これについてはこれ以上紙幅を割かずに、あの命名がダメ・ヤメーテ自身による品の無い悪巫山戯であった可能性を慎ましく示唆しておくに留めよう。「つかいくらキュウリ大好きビチビチビッチったって、流石に呼び付けたくらいじゃミコさんもそこまで恩着せてはこないんじゃ」
「《Quien se fue de Sevilla, perdió su silla.》の金言から学ぶならば、止事無き大ギネアの御世継に斯様な刻限の斯様な辺地まで御足労いただくことは只只無粋であるのみならず、御両人の水入らずに水を差す向こう見ずな振る舞いと呼ばざるを得まい」[訳註:《セビーリャを去った者は椅子を失った》というのは、
「男女の友情的なヤツですかいね」信号が青に変わる。「まァ、パイセンの私生活に興味はないが……渡りますよ」
「《破れ鍋に綴じ蓋》というのは何も色恋に限った話ではない」はて《
「私ならイベリコ豚とか入っててほしいですね。猫鍋的な」猫鍋とは、文字通り
「それが仔猫であれ仔豚であれ、猫又顔負けの大口を持った猫千代の前で大人しく鍋の中に収まったのであれば、其奴は大した勇者であろうな」花は愉快そうに笑いながら、進路の先を見遣ると不意にこう云った。「
「ぶらぶーらですか。これがミコミコーナパイセンの発言だったら何ともヒワ――」千代は主に釣られてその視線を追うと、己が双眼に映った景色を目にして言葉を失う。
「見よ、チヨさん!」騎士はイポグリフォの脚を制すると、片手を掲げて従者の行進をも押し留めた。「一糸乱れぬ此の隊列は、さながら帝陵に連なる兵馬俑ではないか!」
「あ、ああそれ秦の始皇帝ですよね。ラストエンペラーの」
主従が石垣越しに目にしているのは、そう、四方に一定間隔で行儀よく立ち並ぶ墓石、その無数の四角い頭である。寺院墓地の横を通り掛かっていたのだ。
「牛が一匹牛が二匹、牛が三匹柵越えちゃう前に、」牛が三頭出揃ったらば、それはもう古式床しき
手綱を引かれたイポグリフォがキキーッという嘶きを上げて急停止した。その乗り手は暫く凹凸のない兵士達の首から上をじっと眺めていたが、何か思い立ったかのように不意に愛馬を反転させると、既に通り過ぎていた墓所の入り口に向かって再度進み出す。
「ちょっとちょっと」こちらも大回りに百八十度、ぐるりと自転車を方向転換させた従士が、仕方なく主人の後を追う。「別にアソーギ家のお墓はないでしょうが。ハナ様が花を手向ける義理はのうございますぜよ」
「此処にミコミコーナをお連れしておれば、口寄せのひとつも或いは請け負ってくだすったかも知れぬが……」[訳註:『東海道中膝栗毛』には掛川宿の一歩手前の宿場にて、偶然遭遇した巫女に弥次さんが冗談半分で自分の死んだ女房を呼び出してもらう挿話がある]
「口寄せも口利きも、もうあの方には頼めませんよ」
「半坐家の御宗旨は?」門柱に鋼の愛馬を立て掛けて休ませるると、ドニャ・キホーテは掛川の
「宗旨? ああ、何教とか何宗かってことですか?」不平を垂れつつも素直に付き従う千代は遍歴の従士の鑑である。「何とか宗だとは思いますけど……いやこれ勝手に入ったら普通にマズいと思いますよ」
「宗派も知らずに毎朝御仏壇に手を合わせておるのかね」
「毎朝手を合わせちゃいませんよ。私は小二の時に初めてレット・イット・ビーを聴いて以来、断然偶然崇拝ですから……あとアレ、ケセランパセランもそうか」
「ケセラセラ?」
「噛みました――つまりは流れに身を任せて生きてるんです。偶像を拝むとしたら英世か諭吉くらいのもんでして」存外早熟である。どうせなら
「御尤もだな。しかし勝手に入ったら普通にマズいのであれば、もちっと声を潜めるが無難じゃぞ」
「おっと」千代は拳を唇に当ててから主の忠告に従い、なるべく音を立てずにシャルロットの支え台を立てると、囁き声で続けた。「こんな時間じゃ鍵はいらんですよね。うわあ怖ぇぇ……クワバラクワバラ」
「
「いやまァいくら信心がないつったって、自分のじいちゃんばあちゃんのより先に他人の墓参りするのは気が引けますよ」日本人にとって夏は、祖先の霊が――
堪らず花は噴き出したが、ひとつ小さな咳払いをすると何とか覇気を取り戻し、背筋をピンと伸ばした物言わぬ近衛兵たちの間をのたりのたり巡検して廻り始めた。
程なく石壁にぶち当たると、今度は隣の列に折り返して閲兵を続行する。
「とはいえ墓標のことまで考えが回らなんだ、一本くらい残しておくべきだったかね」
「ああ、アイスのゴミは全部コンビニで捨ててきちゃいましたけど……いやつか別に私もまだ当分死ぬ気ないっつかむしろドラえもん生まれるくらいまで生きるつもりですので」
「¡Guíela Viejo Par, os ruego, o Lebrato!」[訳註:「彼女を導き給え
棺の中に横たえられて埋葬される我々西洋人と違い、この国では遺体の火葬が義務付けられており、遺骨は
「こういう時は、自分が佐藤とか鈴木だったらと思いますね」千代は及び腰で騎士の背中にへばり付きながら、その足取りに何とか歩調を合わせて話し掛けた。集音器は虫たちの共鳴りを僅かに拾っているが、それでも黙って歩き続けるのは心許ないのだろう。しかも数時間走り続けた挙句の
「秦は魏・韓そして趙を手始めに滅ぼした後、楚・燕・斉を奪い、少年王は皇帝を名乗った。此方から端までの将軍が函谷関にて合従軍を打ち破り――、」騎士は大軍を指揮する武将の如く、勢い良く腕を水平に払って続けた。「彼方の精兵等が
「ラ・サンチャの少女王が皇帝を名乗るのにも、そんなに戦争が必要ですかね」
「三皇五帝に倣うにしても現状それがしは王位にないからの」騎士は謙遜した。「そもそもドニャ・キホーテが望む戦とは奪うものではない」
「――の割には戦利品とか首級とかを所望されてたような」首級については千代さんも、人のことを兎や角云う筋合いではあるまい。[訳註:第一章参照]
「それが桃一果であれ立派な戦果と呼べようし、
「一日一ドゥカードって何ですか?……一日でカード破産的な?」
「本邦現行の通貨でいえば、一日十万円で暮らしている人間が明日から予算を十一万円に上乗せしたいので、戦争を起こして一日千円で何とか生き延びている貧者を十人殺し略奪するようなものである、ということじゃ」
「なるほど、計算が合いますね。つって一日千円もらえてりゃ、今頃私は長者番付に乗ってるでしょうけど」慥かに新幹線の切符も買えたであろう。「昔うちの父親に何でアメリカはとっとと北朝鮮をぶっ潰さないの?って訊いたら、儲からないからって言われたっけか……まァ、戦争は経済行為だとかってのは如何にもな中二発言という印象があります」
「ひとつの側面ではあるがな。如何に不合理なものであっても軍産複合体は殺戮を望み、事実十年に一度大規模な戦争を起こさねば潰れてしまう大国もある。テロ撲滅を口実とした軍拡に掛かる費用の十分の一もあれば、テロリスモの根因と呼ぶべき飢餓や貧困は撲滅出来る程だ。然れどもこのドニャ・キホーテは――」それまで牛の――つまり
「いやまァたしかにドニャ・キホーテ様もそのスピロ……スピ、スピロヘータ将軍みたいになってくださることを期待しておりますがね」日本の中学生は、
「どうした?」
「いやなんか水溜りに片足突っ込みました。浅い感じだから大丈夫ですけど」
「狐の嫁入りでもあったかな」《
「なんすかそれ、狸寝入りの親戚です?」
「器用なチヨさんなら起きながらに鼻提灯も膨らませられようが、」苦笑するドニャ・キホーテ。「――こちらは狐狸妖怪が繰り出す提灯行列のことだ」
「いやこんな時にこんなとこでそんな怪談ぽいトークやめてくださギャッ!」千代さんがその場に固まった。
「どうした?」
「あ、や、ちょ……ライトか?」行く手に突然青白く発光する物体が現れたのである。「いや、でも……なんであんな……きもわる」
「成る程、雨が降ると死体から漏れ出たリンが反応して人魂になると謂うが――」
「ちょっちょっ、マジでやめてください」
「科学的裏付けに乏しいとはいえ、鬼火を
「さっき
「臆するなチヨさん。先程も申したであろう――」主は優しくチヨの手に自分の手を重ねて続ける。「おぬしがあると信じる限り、その怪異はヴァーチャルとして十二分に効力を持つ。それは好もしいことでもあるが、現実に存在するのは只光る物に過ぎぬ」
「いやあ理屈じゃありませんて。つかただでさえこの列暗いじゃないですか。あっちの灯りもお寺の電灯もあんま届いてないし」
「慥かに、伝統の基層[訳註:奇想か?]に
「け、敬老の日は二三ヶ月先だと思いますけど……」[訳註:念の為整理すると、物語の時間軸としては今は八月四日と五日の境目になる。敬老の日は九月なので、千代は十一月の勤労感謝の日と混同しているのだろう。既に故人であるという彼女のご祖父母もさぞや天国で苦笑いしているに違いない]
「何事にも作法があるのじゃ」
「ちょ、なんです?」従士は怯んで後退る。
「じっとしておれ」騎士はやおら立ち上がると、携行していた手巾だ手拭いだかを取り出し、ふわり従者の頭に乗っけた。
「ちょっとそんな汗臭い物を……アレ、何で?」主の奇行に対し苦情で応じた千代が、一転恍惚たる声で鳴く。「いいにほい……」
しかし目を閉じた従士が暫くの間別世界を彷徨っている内に、ドニャ・キホーテは再びしゃがみ込むと何やら突拍子もないことを始めていた。
「あて!……なっ?」脳天に響いた衝撃に思わず目を見開くと、千代は暗がりの中でも花の目線が平時に比べて随分近くになっているのを感じ取った。それはどういうことかといえば、今騎士は裸足で墓地の土の上に立っているからであり、つい寸秒も前に彼女を支えていた太踵の継接靴は他ならぬ従士にとって己の頭上、正確には頭の上の手巾上に乗せられていたからであった。意味不明である。「ど、どどどゆことー?」
「よし」従士の
「いや……よしでもいくぞうでもないですけど……」
「動くでない。何なら落ちぬようその手で抑えておれ」
「いやその前に普通に重たいんですけど。状況説明を求む」
「
「マジ……ないわー」そう云って不平を垂れつつも、主人の言葉に従って一揃いの履物を手で抑える千代。「というか先輩今裸足ですか。汚れますやん」
「険害はないと思うが、化かされぬとも又限らぬ。点睛を欠かさぬ為にも妖かしは退治ておこう」
「え、ここってもう静岡じゃないんですか?」止む無く珍奇な姿勢を取らされながら、山椒の辛さを備えた従者が小言を述べた。「たしか《静かな岡》を出るまでは剣を抜かないのでは?」
「狐火退治とは大袈裟だったか。坊主のとばっちりで袈裟斬りにされては天然自然の
「まァ《坊主肉食や今朝まで焼き肉》ってか。うらやまですね」胸焼けのする諺だ。
「生臭も其処まで極めれば大悟なのやもしれぬな」花は背中に両手を回してごそごそと弄りながら、従者が発した訳の分からない戯れ言に付き合いつつ続けた。「尤も本院の御坊に挨拶もせず勝手なことを申すのも極めて大語といえようが」
「そうだよ、ここのお坊さんに見つかる前に早く退散しましょう――って、」千代が主の怪しい挙動を認めて訝った。「今度は何してるんです?」
「いや何、天狗の
「先輩ほんと天狗好きっすね……」
「――生憎それがしにはアポロンのように敵の皮を剥いで勝利を祝う趣味がないからね。革製品といえばこの帷子くらいしか思い付かんので……ううむ」矢張り自分では上手に紐が抜けないようだ。「脱ぐのを手伝ってくれるかな」[訳註:アポロンは半人半獣のサトゥロスであるマルシアスとの奏楽勝負に勝ち、その報賞として相手を皮剥ぎの刑に処した]
「待て待て待て、他所様のお墓の前でストリップなんぞ始めたら、それこそドニャ・キホーテのお墓なんてアイスの棒どころかうまい棒ですよ将来。地面に上手く立てられないし立ったところで粉々です。あれはかつて私、チカさんに室内で食すのを禁じられましたから……それは惨めなものですよ」うまい棒のお墓が惨めなのか、それとも半坐家の躾に敗北した己こそが惨めだったのか、さっぱり分からない。「第一、アビエのコルセットはサテン生地じゃないすかね。いや、エナメルとかはあったか」
「何と、
「かぶらって何だっけ、いやそれ野菜じゃないですか。野菜の皮でガーメントが作れますかい」カブーラというのは
「
「一体こんなとこで何に向かってヘドバンすりゃいいんですか……つか私、先輩にヘドバンなんて単語教えました――っけ?」出立日の道中での講義が、今や随分と昔のことに思える。[訳註:第三章参照]
しかし
薄闇にひとり佇む若き従士を、境内に潜む夥しい夏の虫の
暫く無言で立ち尽くしていた千代さんであったが、十秒もしない内に我に返ったかのような声で「あっ、消えた」と呟いた。昏迷の向こう側で、
果たして青白き
「せんぱ~~い……ドニャ・キホーテ~~……」今や従者の目の拠り所は、左右遠くで壁の向こうの往来を照らす淡い街灯と、それよりは力強いとはいえ背後に位置する為直接その恩恵には肖れない仏閣の灯りそれのみである。何が起こったのかは皆目分からないが、用事が済んだのならば一刻も早く騎士のご帰還を願う千代ではあったものの、安眠を妨げられた住職がいつ寺院から出てくるか気が気でなかったこともあり、何とも情けない囁き声で必死に主人を呼ぶのが聞こえてくる。「ないわ~、こんな真っ暗な中でひとり置き去りはないわ~。決着付いたんならはよ戻って来てくださ~い。いい加減サンダル重いんで」
この時、不意にマツムシたちの
「え、何?」
しんと静まり返った墓所。千代は生唾を飲み込む。
「ちょっと……待ってくださいよ」
その時、
「わっ! ちょっ、えぇっ?」
小心者の千代は俄に倉皇を来した。見知らぬ土地の、会ったこともない人物たちの亡骸が無数に埋まったその場所の只中で深夜、何の前触れもなく、文字通り《
「ちょっと、マジか……何も見えないんですけど」月明かりは無いのだろうか。せめて街路灯がこちらを向いていてくれれば助けにもなったろうが、今のままではシャルロッテンを停めた境内の入り口まで引き返すことすら儘ならぬ。足元が見えないのであれば、従士は一歩足りともそこから動くことが出来なかった。「マジですか。ないわ。これはないわマジで……先輩、ハナ先輩!」
「あああくそ、ミコミコんとこに泊まってれば……ああやだ、こわい。ちきしょうちきしょうちきしょうちき――あっ」礼拝堂に跪き熱心に祈りを捧げる信徒のように恨みがましく神を呪っていたラ・サンチャの従士が、ふと何か見落としていたことに気付いた。「あたしバカだ、バカ過ぎる……何のためのだよ」[訳註:恐怖を紛らわす為に発していた己の独り言の「ちきしょう」から、携帯の《えきしょう》を連想したか?]
両手で抑えていた頭上の履物を何とか片手で鷲掴み保持すると、手探りで手荷物の中を弄り始めた千代さんであったが、二秒と掛からず浅い位置に置かれていた何かを手に取って――取り出そうとしたその刹那。
背後に何か足音が聞こえる。少なくとも、半坐千代の耳にはそれが聞こえていた。
「――え?……先輩?」涙声である。徐々に近付いて来るその足音の代わりに、我々の耳には激しく鼓動する彼女の心音が聴こえてくる。次いで鼻水を啜る音。「やだやだやだやだこわいこわいこわいこわい」
しかし振り向いて、その足音の主に携帯の光を翳す勇気を彼女は持ち得なかった。ここは死者の眠る
心臓が口に向かって飛び上がってくるのを何とか押さえ込みながら、千代は恐る恐る不審な音のしない方向、則ち前方に向かって携帯の液晶を翳した――
「ふひやっ!」
――顔。
足元に目を向けた従士の顔から僅か一グラドゥス[訳註:約七十五糎]程のところに、強い照明により
今まさに絞殺されようとしている被害者が声にならぬ声を絞り出す――否、吸い上げているかのような、不気味な悲鳴を上げた千代が余りにも取り乱れて一歩後退ったものだから、丁度泥濘んでいた地面に勢い良く着地したその足がこれまた勢い良く縦方向に空を蹴ったかと思うと、あわやそのまま後方宙返りを繰り出しながら転倒するかとさえ思われた。
しかし疾風のように一歩進み出たのっぺら坊は、スピノラ将軍も顔負けの
再び我に返った従士は、地面に取り落とした携帯の液晶画面が夜空に向けて発した光によって仄かに照らされた王子様の相貌に見入った。
「せんぱ……アレ?」そう云って
「
ここまで大騒ぎしたら、寺の住人のみならず近隣の住家の窓のひとつふたつには灯りが点ったかも知れない。
「いや違くて……今あっちの方でぺたぺたって足音がしたもんだから」
「鬼火もぺとぺとさんも、既に他所にお引越し願ったよって安心せい」べとべとさんとは夜道で背後に感じる気配を具象化した妖精のようなもので、《見えない足音》を意味する所謂妖怪であるが、人に害を及ぼすことはないらしい。語感としては《
「ぺとぺとって……頭に余計なもん乗っけてなきゃペトバン食らわせて迎え撃ってやりましたのに」先程まで震えていた従士が、
「これ、化生の者の凡てが
「真っ暗闇の中に人のこと置き去りにしといて今度はチキン呼ばわりとは!」思わず声を荒げた千代だったが、騎士に
「やれやれ此処な猫娘が金輪際わんころの
「あっ、マジない!」千代は知らぬ間に頭の上の履物一足を取り落としていたことに、ここで漸く気が付いた。手巾については分からない。「すいません、サンダル落としちゃいました。つか携帯……下ろしてもらっていいすか。かたじけないす」
「ふむ、存外軽いね」
「そういうのいいすから……軽いのは口と脳みそで充分です。いや普通にありがとうございました。完全コケてました――っとちょっ、アレ?」いざ大地に着陸してみると足の高さが合わない。「やべ、ラバソ片方どっか行った」
「どっかとは?」
「や、さっき滑った時に片方スッポ抜けたっぽいです。やべえこんな暗いと見つからないかも――っとちょっと、え?」足元の発光源を拾い上げた千代がまた何かに気付いた。「ハニャ先輩、ニーソ片方消えてるんですけど」
「何と?」
「いや生足なんですけど。この状況だと脚線美怖いんですけど……やっぱり先輩もスッポ抜けたんですか?」千代は親愛の情を示す為に、剥き出しの主の脹脛をピシャリと叩いてから、「なわけあるかい」と
「
「リーソ―というか、これ剃ってないですよね……さっきワキとかもすべすべっつかつるつるだったけど、これ抜いてるんですか?――いや、泣く子も号泣させるドニャ・キホーテがそんな女々しい真似するとは思えんし……元からか。くそう」花のイスパニア語がどういう訳か千代にも通じている。人類史における様々な異国感交流の場でも、これまで往々としてこのような偶然の以心伝心が起こってきたのであろう。「つかまだ夕方まで履いてたヤツも洗濯できてないんですよ。今度は即行足裏汚しちゃうし、ってそれどころか片っぽ無くしてるし。もう替えありませんから、暫く先輩片足だけ生足ですからね」
「とはいえ
「いや別にそれも脱いじゃえばおかしかないですけど……いやダメだ」従士は大切なことを思い出した。「それ私の小遣いで買ったヤツだし。探しましょう!」
「絹の靴下奪回作戦であるな」
「まァ靴も探さなきゃですけど。あ、そこ水溜まってるから気を付け――ってあて!」片足だけ厚底では歩き難い。千代は残った
主従はせいぜい十米程の短い道のりを、発光する携帯の液晶画面だけを頼りにじりじりと行軍した。
「……この、両脇からピシッて整列して迫ってくるこの感じはアレだ――《か~ってうれしい――》」
「花ならばもう売るほどあると先刻も申した記憶があるのだがね」
「《――ハナ一位だもんね!》ってな!」これは彼我に別れ対面する形で(
「
「いやま女装したパパが学校乗り込んでくるよか多少はマシだけども!」
「尤も斯様な
「こちらも先ほどマッサージュは自前で我慢するからせめて屋根と壁と柔らかいおベッドだけは手配してくださいよとそう申し上げた気がしますけどね!」
「肩揉みのしたい時分に親はなしだ」生きている内に孝行が叶わず未練が残ることもあろう。然りながら今になって幾ら手持ち無沙汰だからとて、墓石を揉み解すほどの握力を持ち合わせた人間などそうはお目に掛かれまい。「《たはむれに母を背負いて》とは云い条、
「敬老の火はドニャ・キホーテ様がやっつけたとして、さっきいきなりお寺の方の明かりが消えてビビったんですけどアレ何だったんですか……停電?」従士は携帯を左右に振って周囲を確認する。「――っつって周りの道とかは電気ついてるっぽいですけど。人んちは最初っから消えてたし……あ、壁」
「上を照らしてみよチヨさん」
「はい……ん? なんか――」壁際に刺し立てられた
「さて
「誰がチキンですかって。戦利品つかそもそもアレ私んですし」
「おすしかね?」
「いや私の心はもううなぎに向いています」従者は片手を翳して主を押し留め、己の強靭な意志を示した。「第一、ニワトリはブーメランの音楽隊でもトップだったでしょうけど、猫はその下だったでしょう。私に肩車されるのが不本意でしたら、ご自慢の脚力でドニャキジャンプを見せればあのくらいの高さ余裕で手が届くんじゃないですかね」
「あれが頑丈な脛当ならばそれも考えるがね」物怖じしないドニャ・キホーテも、跳躍からの鷲掴みで絹の靴下を裂いてしまわない自信は持ち合わせていなかったようだ。「よかろう。面倒を掛けるがチヨさんや、暫しその肩を貸してくれまいかな」
「お安い御用で……あちょっと待ってくださいヒール脱ぎますから」従士はその場に膝を付くと、真綿のような重量の主人をその双肩に担いで立ち上がり、その上でしみじみとこう云った。「軽い」
ここ数日で勤勉となった千代が
「まぶしっ!」従士は思わず両の目蓋を強く閉じる。
「そら、おぬしのニーソが
「あ、どうも……いやバランス崩れるんで、一回下ろします」千代は再び膝を折ると、主人を大地に下ろす。「あ、どうも……いやウェットティッシュあるんで、足の裏拭いてもっかい履いてください」
「忝ない」花は千代が荷物の中を漁るのを暫し待った。
「どうぞ」
「《幽霊の正体見たり》かね?」足裏に付いた泥を落としながら花が笑う。《
「いやまァ、ハナ先輩は全然枯れちゃいませんが――」千代は呆れて溜息を漏らした。「このままじゃいつ私の精神力が枯れ果てるか心配ですね」
つまりはこういうことである。ドニャ・キホーテ主従が目撃した怪火は、寺院を囲む石壁上部に備え付けられた防犯用の感応式電灯だったのだ。現在ふたりが通って来た列には夜間充分に光が当たらない為、ある位置まで何かが近付くとそれを察知した装置が自動的に照明を点灯させるという仕組みなのであろう。騎士は己の長靴下を片方脱ぎ去るや、思い切り高く跳ね上がった弾みでそれを照明に巻き付けたのに違いない。[訳註:靴下を直接発光部に巻き付けたとなると、照明が透けてしまうだろうから真っ暗にはなるまい。思うに花は、感知器に該当する部分を覆い隠したのではあるまいか。しかし何よりも注目に値するのは、この《老人火の冒険》に於いて、これが摩訶不思議なる怪異ではなく単なる物理現象に過ぎないことを、狂人阿僧祇花が余りにも素直に認めてしまったことであろう]
「化けの皮が剥がれれば――」
「枯れお化けの皮?」
「枯れお化けの皮が剥がれれば、バーチャルの効力は失われてしまう。だがその瞬間までに限れば、確かにこの灯火は化物であったという訳じゃな」
「何だかスライディンガーの話に通じるような気もしますね」千代は銭湯に入る入らないの問答を思い出した。「狐につままれたというか……猫だましな気もしますが」
「チヨさんが飛ばした気高きラバン・ガマリエルの履物捜索も、これで格段に容易くなろうて」慥かに一帯は明るくなっただろう。尤も防犯照明が灯っているということは、境内に不審者が侵入しているという合図にもなっている訳だが。「見付かるまではその黄金靴を足に嵌めておるがよい」
「んじゃお言葉に甘えて……」千代は元々自分の所有であるごつい踵の履物――出発の日、剣道着に身を包んで彼女の前に現れたラ・サンチャの騎士がよもや足先だけは十指の露出したが如き婦人靴を履いていたなどということは全く以て考え難いからであるが――を拝借すると、またグンと背丈を水増しして主と並んだ。「流石にこうなると身長おんなじくらいですね」
「おぬしが世界を鳥瞰する目が視点の高さによって斯くも容易に齎されるものであれば、女神が好色な牧神パンを打擲した後の使い途としてサンダリア御自身も本望じゃろうよ」花は控え目に一笑する。「それにしてもだ、先刻までは王子様を待つ白雪姫の筈だったというに、選りに選って
「丁度夜の十二時くらいでしょうしね……って死体マニアも勘弁ですけど、靴フェチ王子も御免ですよ私は」千代は苦笑した。「う~ん、ラバソも方向的にはこっちに飛んだはずですけど……そいやひとつ疑問なんですが」
「申してみい」
「私さっき、このライトが消えるまでずっとじっと見てたと思うんですけど。先輩が靴下巻いて消したんであれば、消える直前ジャンプする先輩の身体が照らされて見えたはずですよね」
「そうなる……かな?」
「なるでしょうよ下から垂直跳びすれば」道理である。「ライトの中に入らないで、どうやってニーソ巻き付けたんですか?」
「どうした……かな」
「まさか、まさかとは思いますけど……」千代が恐る恐る口を開く。「そこのお墓を踏み台にして三角飛びしたとか」
「おやおや」
「――そんなバチ当たりなことはさすがにないか」
「チヨさんが瞬く間に仕事を終えたとは考えられんかのう」
「そういうことにしときましょう」従士はもう一度周囲の地面に携帯を翳し、まるで金属探知機を使っているかのような仕草で護謨底靴の片方を探した。「つかそのライト真下しか照らしてないし、あんま防犯の意味ないんじゃ」
「そのつぶらな瞳が猫目石であるなら、闇夜の狩りにもさぞや重宝したであろうにな」
「残念、先輩に乗せられてチキン野郎になったばかりですから、今は鳥目なんですの」
「鳥目でも節穴でない限り、隈なく探せば失せ物は見付かるものじゃ」手持ち無沙汰の花は、一列に林立する墓石の裏手に廻った。「尤も光る眼という以前に、目を光らせている者があらんとせばそれは墓守の類であろうがな」
「怒られる前に出てかなきゃ」千代は一層腰を屈めると、地面の上を舐めるように照らし見る。「地雷除去とか、落ちたコンタクト探すのとかに比べりゃ朝飯前だと思いますしね」
「僧侶の朝飯前というと境内の掃除に坐禅や朝課と盛り沢山じゃし、今から数えれば優に四半日は余裕があるぞ。禅寺であれば五観の
咄嗟に千代が照明を向けると、その光の円の中には護謨底の片割れを摘み上げた主人の姿があった。
「さすがはドニャ・キホーテ様……頼りになりすぎる。今度トリュフが食べたくなったら、迷いなくハナ先輩の鼻を頼りにすることにしますよ」千代は自分と主人の間を分かっている
「それがしの豚鼻はトリュフよりも、輝かしき
「いくら私だって朝っぱらからフレンチとか重いもん食べたかないですよ」己に対する無礼に対しても
「おぬしが今気に留めるべきは朝飯よりも、――」花は墓の裏側に佇んだまま、やおら横目に墓石を顧みた。「恨めしやの方やもしれんがね」
「え、何ですか?」中腰になって護謨底の中に踵を押し込んでいた従士は反射的に携帯で騎士の顔を仰ぎ照らすと、その視線に釣られて光の向きを水平に移動させた。「ぎゃおす」
涼やかな美相に次いで照らし出されたのは、余所の
《
「シンドウさんごめんなさいシンドウさんごめんなさいシンドウさんごめんなさい」[訳註:シンドウさんは仮名]
「吾等主従を煙に巻く天狗の御坊が御手前にその猫舌を巻いたばかりのチヨさんが、お次に巻くのは旗か尻尾か――
「《立つ鳥跡を汚さず》と謂うでしょう」千代は合掌した両手に潰された唇の端から、柄にも合わず殊勝なセリフを吐いた。「――いや、《足跡を残さず》だったっけ……まさに今の状態だが」
「チキンと呼ぶにはどうしてなかなかキチンとした心掛けではないか」からかい半分ながらも、ドニャ・キホーテは家来の成長振りを見て嬉しんでいるようだ。
「決しておじい様おばあ様を足蹴にするつもりはなかったんです。ほら、ラバー・ソウルってくらいだから、」従士はひそひそ声で心の籠った謝罪を続ける。「――情熱とか誠意とか、私のそういうのが伝わっておればよいのですが」
「虚礼を虚礼と認めてしまうところがチヨさんの正直さでもある」[訳註:千代は恐らく英rubber soleとlover soulを掛けているのだが、元の発音通りのrubber soulとなるとこれはplastic soulにも況してヤワな《紛い物のソウル》ということになってしまう]
「《裏・
「真面目に御身拭いするのであれば、御本堂の垂木の下に柄杓と手桶があったな……」この寺院に足を踏み入れてからこれまでの間に、暗がりの中でそれに気付いていたとは大した観察眼である。日本にも《
「か、かたじけない」千代が主人の口振りに倣って礼を云った。照明を持った従者よりも夜道に強いとは不思議なものである。今からでも《獅子の騎士》を名乗ってよいのではないだろうか?[訳註:百獣の王は夜行性である]
水場から水道水と
中でもドニャ・キホーテは「
だがそうはならなかった。
「さて、それがしが仏法を目指しておったとしても、住持ではなく雲水行脚となっていただろうて。というのも此の怪傑ドニャ・キホーテの
「ヘラクレスだってクレクレタコラだって、死んでダビに付されたら――」千代が珍しく難しい日本語を使って呟く。「同じところに留まらざるを得ないでしょうけど」
「そうとも限らぬ。事実エラクレスは、テッサリアはオイテの山上にて火葬されると魂は天上へ、その灰は蒼空を泳いで逝ったと謂うしな」花は真面目に反論した。「――尤もクレクレタコラの最期については寡聞にして存ぜぬが」
「私も存じませんが……見知らぬ釣りのおじさんにうまそうに食べられたんじゃないでしょうか[訳註:それでは『およげ!たこやきくん』である]。まァ生態系の一部として循環できれば、こんな土の中にじっと引きこもってるよりは有意義な気もしますけど」
「しかしおぬしの好きなリア充も以下の様な科白を吐いて
...Why, thou wert better in thy grave than to answer with thy uncover'd body this extremity of the skies. Is man no more than this? Consider her well. Thou ow'st the worm no silk, the beast no hide, the sheep no wool, the cat no perfume. Ha! here's two on's are sophisticated! Thou art the thing itself: unaccommodated man is no more but such a poor, bare, forked animal as thou art. Off, off, you lendings! come, unbutton here.
――何ともはや、汝とて墓中におったがましだろう、生身の儘で天の苛虐に耐え忍ぶのに比ぶれば。人とは此れだけのものか? この娘を見よ。汝は蚕に絹を、獣に皮を、羊に毛を、猫に麝香をも借りぬというに。ハッ! 此処な吾等ふたりの何とも飾り立てたることか! 汝は有りの儘であるというに。人も着飾らねば汝の如き貧しく、裸足で、二股の動物に過ぎぬ。剥げ剥げ、借り物は剥いで仕舞え! そら、此の
「ご主人様のお申し付けであっても、」千代は一段低い
主は《アベンセラーヘの帷子》を脱ぐ代わりに、
「それに《ボタンヒヤー》と云われたところで、これにはボタンのひとつも付いてやしませんし――」入れ違いに柄杓を手にした従士は、掃除の仕上げとしてもう一度墓石に水を掛けると、反省の念を込めつつもまた両手を合わせながら云う。「先輩はボタンじゃなくてボカンなんですから。まァ座ればの話ですけど」
「その様子だと、もう
「気兼ねというかホラ、神様だと知らないけど」従士は他人の墓参りを切り上げつつもその場で弁解を続けた。「仏様ってのは二度までは失敗を許してくれるもんじゃないですか。そもそもこっちには悪意もないし単なる事故ですから、悟りを開いてる人格者ならいいからそんなんほっとけと言って笑ってスルーしてくれると思いますの」
「成る程、仏者は
「まァ祟りは怖いですが……お参りに来た子孫というか、ご家族の方が単なる事故じゃなくてイタズラだと考えたら怒るだろうし、」進藤家のご家族も、よもや深夜に侵入した東京の女子中学生が泥濘みに足を滑らせて泥に汚れた靴を飛ばしたものが運悪く墓石に衝突したなどとは想像付くまい。「――イタズラにしちゃあ中途半端だから、信心深い人だったらこれが何かの不吉なお告げだとか妄想しないとも限りません。実際には純真無垢なドジっ娘の所業でも見る人が、成仏できないおじいちゃんが何かを伝えようとしてる……と信じたらそれがホラ、アレ、バーチャルとして成り立つわけで。そんなことになっちゃ私なんかにゃ責任持てませんしね。枯れ尾花だって、正体見えなきゃ幽霊のままでしょ」
「おぬしが纏うた
「そりゃ地べたを這ってるんだからせいぜいニワトリくらいの知性でしょうがね」鳥というのは愚智の双方を象徴する生き物なのだからどうにもややこしい。「うちらだってライトだと分かるまでは、もしかしたら人魂かもって思ってたわけですし。そういう意味じゃ反対側のお寺の方の明かりがいきなり消えたのだって、現状じゃ何か妖怪の仕業だと言われりゃそれはそれで真実味を感じちゃうってもんですよ」
「その時刻を覚えておるかね」
「えっ、どうだろ……ここ入ったのが日付変わるくらいだったから」千代はそれから既に三十分ほど経過したであろうことを携帯の画面で確認する。「――やっぱ午前零時くらいじゃないですか?」
「左様然らば時限式――というオチじゃあるまいかな」軒灯は自動的に定刻で消灯する設定が為されていたということか。
「爆発するのはドニャ・キホーテだけで充分ですよ!」ドニャ・キホーテは
「説教泥棒とはこのことかいね」騎士が自分の乱行を棚に上げて笑った。千代の制止を聞かずに境内に踏み入った御本人の口振りである。「釈迦に説法孔子に悟道も結構だがね、居残り佐平次宜しく此の儘居座り泥棒を決め込むとなると、朝になれば坊主にお経と説教のふたつを請う羽目になりかねんぞい」
「睡眠学習には悪くないでしょうけど。説教の方は回避したいですね――馬鹿にロバ」
「それがしも烏骨鶏の鳴き真似は不得手じゃが、それでも
「その滑稽な方を是非聴いてみたいですが」
「一番鶏が聴きたいならば、このドニャ・キホーテが下手な鳥真似を披露せずとも朝を待てば足りることじゃ」
「しかしそうなれば坊主の説教もセットのお値段でしょう」
「然もありなん」騎士は手桶の柄を握ると、従者の前に付き出した。「となればおぬしの予てよりの望み通り、
主従の立ち位置が入れ替わってしまった。花も疲れていたのだ。
「風呂と布団とフルコースです」《
「不自然ならどうする」
「最低でも……向こう三軒両隣はキレイになってないと悪目立ちしそう」これは自宅を三方で取り囲む五軒の家とは仲好くせねばならないという教えに基づく。日本では隣家との間隔も狭ければ、こちらと向かいの
「多情仏心も此に極まれり!」ドニャ・キホーテは愉快そうに云った。「小胆とばかり侮っていたが、吾がガンダリンは大した豪胆従士ではないか。チキンなどとはとんでもない、《獅子》を名乗るのはおぬしの方じゃて」
「結構結構コケコッコーです。主を差し置いてそんな源氏名名乗れませんや」そう云うと、千代は今度は騎士の方を向いて手を合わせた。「じゃあそのままそれ持って水汲み直して来ていただけます?」
「やれやれ、闇夜に聴く
以上のような経緯で、ふたりの
そしていつのまにやら再開していた夏虫の斉唱が
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