第12章 千代が思慮深きことどもを語る主とともに持った議論すべき心根について、及び屍者の眠る大寝所にて出会した他愛無くも疲羸しかなき冒険について記されるが、此は本書に記される冒険の内で最たるものである

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第十二章

千代が思慮深きことどもを語る主とともに持った議論すべき心根について、

及び屍者の眠る大寝所にて出会した他愛無くも疲羸ひるいしかなき冒険について記されるが、

此は本書に記される冒険の内で最たるものである

Capítulo XII.

De los discutidos corazones que Chiyo tenía con su ama quien hablaba de las cosas bien consideradas,

y de la aventura del temeplado espanto fatuo y fatigoso en un gran dormitorio de muertos,

que es una de las aventuras más famosas deste libro.


実に三個もの紙椀入氷菓エラード・エン・タサを平らげたラ・サンチャの従士は、流石に腹が冷えたと見えてそれまで腰掛けていた便利店と駐車場を仕切る縁石からやおら立ち上がると、「ちょっトイレに……お花摘みまくりに行きますが、ハナ先輩もご一緒しますか?」と云って主も同行するように誘った。

「花も大麻フアナも足りておる故、」入れ替わりにドニャ・キホーテが腰を下ろす。「それがしは此処にて菊一文字の花束を待つとしようか」

「たしかに先輩が摘んだら共喰いになっちゃいますかね」千代は尻に付いた砂を払う。「いや、あれ……相討ち、かな?」

「早うせい。トイレであれ金羊毛騎士団トイソン・デ・オーロであれ、機を逸して用を為さぬのであれば用無しとなろう」

「用足し行ってきます」そそくさと店の中に入っていく。

 誰も居なくなった駐車場で独り地面を感じながら、花は「行っといれ」と呟いて微かに笑うと、ゆっくりと星空を仰いだ。ひと息吐く。「――あと、四日か」


三分と待たずに千代が出てくると、早速主従は再出発する。

「何だ、手ぶらではないか」

「花も恥じらう太めとしては、野糞に咲く花を刈り取るなんて無残な真似は到底できまへんでしたんですの」《野糞に咲く花フローレス・エン・ウン・ポポ・デ・カンポ》とはどうしてなかなか詩的且つ力強い表現だ。

「太め太めとおぬしは云うが、一体全体その基準は何であろうね」

「グラドルみたいのが五センチ十センチ単位でサバを読むから、バカな男どもがウエスト六十以上は女じゃないみたいなクソみたいな戯れ言を吐くことになるんですよ」さも小馬鹿にしたような口振りで従士が答えた。「内臓も入らねっつうの」

「内臓がないぞう、というところかな」[訳註:西語訳では「(私は)臓器が得られないノ・ガノ・オールガノ」]

 千代は不意を突く主の戯れ言に、文字通り開いた口ボキアビエルタを塞ぐことが出来なかった。

「目出度くも内臓を内蔵する然しものチヨさんも、竟には冷え腹を下したかと懸念したが、どうやら杞憂であったようで何よりじゃ」

「あ、ああ――」従者は我に返って応答する。「小さい方だけですよ。めったにお腹は壊しません。代謝が良いんでしょうね」

代謝メタボリコにせよ変容メタモルフィコにせよ――」

「メタボ……」千代が反応した。

「――元は折り返し地点を示す円錐状の標柱を意味した、メタを語源とすると謂う。吾等の長旅も先刻テルマスを出立した時点で、丁度半ばを過ぎた辺りといえような」

「まだ半分ですか!……間に合うのかこれ。円錐といえばあそこのファミマはピノ置いてなかったっすねえ。まァこれ以上アイス食ったらさすがにお腹がクーパーになってるかもですが」[訳註:ゲイリー・クーパー=下痢という連想だと思われる。これ以外の例を見ても、家族の影響かどうも半坐千代の語彙には花同様ある種の古めかしさがあるが、世代的にはせいぜいオールドマンくらいでなければ中学の同級生には通じまい]

「豊艷なるミコミコーナの円錐型を支えるは紛れもなくクーパー殿であろうが、氏が下垂気味なおぬしの腹の方にも一枚噛んでいたとは寡聞にして知らなんだ」騎士は従士の胸と腹部を交互に見据えながら以下に続けた。「時に円錐台の体積の求め方は憶えているかね」

「ええと、底面半径の自乗と上面半径の自乗と両方の半径を掛けたのを足して――」従士がここ小一時間の成果を示した。「πと高さを掛けて3で割る……合ってます?」

「宜しい。では表面積はどうかな?」

「ピノの表面積にはさほど興味ありませんね。チョコよりもアイスに重きを置いているので」別に騎士も甘味の熱量計算カルクロ・デ・ラス・カロリーアスの為に数学の講義をした訳ではなかろうに。「なんか円錐の話してたらとんがりコーン食いたくなってきましたよ。あれ、あの折り返し地点のヤツの正式名称ってとんがりコーンで合ってましたっけ? 工事現場とか校庭にあるヤツ」

円錐塔ピロン、或いはパイロンじゃな」

「オッパイセンのおかげか今日はほんとパイのよく出てくる日ですこと!」すると矢庭に大声を上げた千代が、今度は突然声を潜めた。夜の散歩であろうか、甘えた声で鳴く飼い犬を連れた、近隣の住人が歩いているその隣を車道の主従が追い抜いたようだ。そういえばここ数時間、犬には吠えられていない。続いて自動車と擦れ違う。「まァ私は姫殿下のわがままボディより、ドニャ・キホーテの品のある乳の方に憧れますがね。それはそれとして、次のコンビニではとんがりとパイの実を買いましょう。非常食として」

「姫のセリフではないが、慥かにチヨさんの胃袋ははくちょう座X―1も顔負けの吸引力かも知れぬ。尤もその容積を鑑みるなら、白鳥よりも駝鳥か或いは鵞鳥の方が相応しいともいえようがね」

「ガチョウじゃあフォアグラじゃないですか!」従者は憤慨したが、無理矢理に太らされている分ガチョウの方が気の毒である。「私はトリュフの方が好きですね。ガナッシュの方ですが」

「そちらは牝豚じゃの」先達の騎士たちの例に漏れず精神的愛情アモール・プラトーニコを励行する阿僧祇花は、一度眉を顰めてから俄に苦笑した。そもそも貯古松露トゥルーファ・チョコラーテであれば、わざわざ豚の鼻を借りる必要もあるまいが。「花より団子じゃないけれど、おぬしにとっては色欲よりも鵜飼よろしく食欲を借用された方が余程残酷かな」[訳註:西洋松露トリュフを掘り当てる際に使われるメス豚は別にキノコが食べたい訳ではなく、オスの発する臭気に似たトリュフの匂いに釣られてついついそれを探してしまう、ということなのだそうだ]

「そりゃうがい手洗いは大事だと思いますがね、そのためにも今晩は早く泊まるとこ見つけないと。今は色気より食い気より眠気ですよ」

「おぬしの苦労にはそれがしも痛痒を禁じ得ぬ。だが馬上で船を漕いで、うっかりシャルロットから落ちぬよう頼むぞ」電車の通過音が響く。またぞろ東海道線の沿線に戻って来たようだ。

「さっきラムレーズンのハゲ食ったから若干酔っ払ってるのかもしれませんわ」護謨輪の刻む音が覚束ない。蛇行運転シグサゲアンド――騎士の言葉を借りれば《千代鳥足カバージョ・デ・チヨルリート》なのだろう。「イギリス人ってのは飯は不味いくせに、何だってラム酒だのウィスキーだのが好きなんでしょうねえ。紅茶だけ飲んでりゃいいのに」

「それを聞いたらネルソン提督も浮かばれまい!」花は笑った。[訳註:トラファルガーの戦いで戦死したネルソンの遺体は、腐敗防止の為に糖酒樽バリル・デ・ロンに漬けられて祖国に運ばれたという逸話がある。実際には糖蜜酒ラムではなく仏白蘭地酒コニャークであったという説が有力]「尤もブリテン人は、美食を卑俗な嗜好であると言って軽蔑していたからというのが建前だそうだが。しかしロンドンドライジンというなら兎も角、チヨさんが王立海軍とラムの繋がりに言及するとは驚きだね。ラムロンより泥酔ソコといえばそれまでだが」[訳註:論より証拠?]

「いやいや、前にテレビでそのドライなロンドン人が、ミルクティーにラムを入れてるのを見たことがあるだけだっちゃ、ですよ」試験で出題されない雑学に限っては存外明るい半坐千代である。「先輩だって未成年なんだから、せいぜいラムレーズンかウィスキーボンボンくらいしか食べちゃダメでしょう。ドニャ・キホーテにとっては百薬の長よりも百獣の王の方がお好みでしょうしね」

「百薬で思い出したが、」余計なことを云った従者に対し、彼女お得意の《連想遊戯》を真似た騎士が仕掛けた。「――あの隠喩メタフォラ快哉かいさいであったことよな」

「またメタですか。何です?」

「そら、《立てば爆薬》とか何とか」

「お、おふぅ……あっ、ああ――」途端に肩を竦める千代。「さ、さすが閻魔様を倒しただけのことはあって地獄耳ですことで……」

「地獄も煉獄も、真隣におったであろうが」花が意地悪く追撃する。「で、どう続くのだったかな?……《座ればドカン》とか」

「ボカンです」これは言葉遊びレトゥルエーカノの関係で、牡丹ペオニーアの和名と爆発の擬音オノマトページャをもじっているのである。「――いや、ドカンでも素敵だと思いますが……」

「いや、此処は原典に敬意を表して《ボカン》としよう」騎士は急制動を掛けて、道路脇にイポグリフォを寄せた。

「ちょ、何やってんですか」

「いや帳面に書き留めておこうと思うてな。で、続きをどうぞ」

「勘弁してください……取り敢えず邪魔だから乗りましょう」

「《歩く姿は――》?」再びゆったりと馬を進めるふたり。花は家来のように、徐行しても馬体がぶれない。

「歩く姿は、姿は……百合の――れ、百合であってるっけ? 瓜の……栗の、花?」

「《歩く姿は栗の花》か。なるほどそれも雄雄しい響きではあるな」

「え、そうですか? まァたしかに桃の花じゃ女々しい感じしますけど」

不飽和アルデヒドアルデヒード・インサトゥラードじゃ」[訳註:栗の花のあの匂いの主成分ということだと思われる]

「あ、分かる、それ学祭でパッチテストみたいのやりました。たしかアルコールの――」

「それはアセトアルデヒドじゃ」代謝の達者なチヨさんであれば、或いは酒精にも強かろう。但しくどいようだが、日本で酒が飲めるのは二十歳からである。「しかし栗や鬼百合もよいがチヨさん、こういうのはどうかな?――《立てば爆薬座ればボカン、歩く姿はユリウス・カエサル》というのは」

「いいと思います……なんでも」

「数学が一段落付いたところだし、」花の声色が教師のそれに変じた。「――この流れであれば次は世界史か……化学かな?」

「ぎゃ」従者が悲鳴を上げる。「化学は……そんな授業はうちのクラスではなかったような」

 千代さんの出任せも虚しく、これから十粁余りの道中は、花の懇切丁寧な原子説の解説から始まるのであった。[訳註:中学の教育課程であれば、千代の云う通り物理フィースィカ化学キーミカ生物ビオロヒーアなど全てを総じて理科シエンシアとして扱っている可能性がある]


従士が生命反応レアクシオン・ビタルに乏しくなってからは只ひたすら黙々と、線路に付かず外れずの経路を守って西へ西へと馬を進めていくふたり。そうこうする内に時計の針は夜の十時近くへと差し掛かっていた。

「ああ、ダメだ。このままだとまた野宿になってしまう」恰も今目が覚めたような調子で、千代が約一時間振りに口を開いた。「もう石けんの香りもラムレーズンの味もしやしねえ。イソフラボン臭消えたのだけがせめてもの救いだが、汗臭いことに変わりはねえ」

「吁、チヨさんや」従者の悪態に気分を害することもなく、騎士が鷹揚に答える。「寝息のひとつも聴こえぬものだから、てっきりハビエカを駆りしエル・シッド宜しく、馬上で事切れたまま敵軍に突進しているものかと早合点したわい」

「突進するなら今からでも焼け野原のお城がよろしかったですわ。あの時の私がどうして、どういう精神状態であの親切な姫さんの申し出を断ったのか、そのヤリイカだかタピオカだかを買ったブル・シット様に訊けば教えてくれるでしょうか」

「これはこれは、」寸分の疲労も見せない花が大仰に畏まった。「三日振りに大後悔時代が到来したと見える。差し詰めエンリケ後悔王女の台頭よなあ」

「ああ何か聞き覚えあるわそのエンリケ……あとアレ、バルトロメウ・ディアスっていませんでしたっけ?」

「彼の航海長も喜望峰ボア・エスペランサを目にした折はユリイカ!もといエウレカ!と叫んだやも知れんね。残りはコロンとマガリャンイスさえ記憶しておれば、昇級については何とかなろう」

「そんな高級品はありませんが、安モンの香水と制汗スプレーならここに入ってます」千代はママチャリの前カゴに乗った車輪付き旅行鞄を叩いた。「問題は、私の辞書には後悔はあっても反省がないってことですわ」[訳註:因みに仏eau de Cologneは《コロンのオー》ではなく《ケルン(独Köln)の水》]

「耳が痛いね」ドニャ・キホーテも苦笑する。「しかしじゃチヨさん、道化を伴い徒で荒野を彷徨したリア王とは違い、おぬしもそれがしも尻を預ける相棒がいるだけ幾分幸運じゃて。それがリチャード三世でなくとも、馬の大切さは身を持って心得ておろうからな」

「その点じゃルパンも賛成でしょう」従士にとっては国王も泥棒も十把一絡げアル・コンフントだ。「そういう意味では、ギアナの王女様は充分リア充だったってことを今身に沁みて感じてますよ。馬より車に乗ってる方が豪華であることは間違いないですし」

「なるほど後部座席リアシートも付いておるしな」

「しかり」千代が不遜にも主人の口真似をして応じた。「何ならリアス式海岸をオプションで付けてもいいくらいです」[訳註:千代は聞き覚えのある単語をいい加減に使っているだけなのだろうが、東京名古屋間にあるリアス式海岸といえばせいぜい伊豆半島の東岸部くらいなのではないだろうか]

「ビーゴには一度は足を運びたいと思っておる。尤も今正に吾等主従が渡河しておるこの橋がヴァレンサとトゥイを繋ぐミーニョ川リオ・ミーニョであれば、或いはビーゴ湾リア・デ・ビーゴも然程遠くはないかも知れぬ」

「先が見えないっすね」ふたりが渡っている長い鉄橋はポルトゥガルとガリシアの国境に架かるそれと同様に長く、河口から吹き上がる潮風が花の長く黒い後ろ髪をはたはたとはためかせた。[訳註:この橋が島田市を東西で二分する大井川に架橋された大井川橋であれば、実際には西葡間の国際橋の二倍以上の長さがあったと考えられる]

「幾ら長いといっても、エリヤのアリアを聴き終わるまでには充分渡り切ることが出来る筈だ。実際ミコミコーナ姫にはオラトリオのアリアがよく似合うであろうよ」それから花は、心なしか寂しげに呟いた。「愁思に沈む、吾が永遠の想い姫ドニャ・ドゥルシネーア・デル・トボソにもな」

「まァリア充といやあ」特に雰囲気を察するでもなく、従者が続ける。「私なんかと違って、先輩は本来勝ち組街道一直線だったはずなのに、それとは真反対の方面に突っ走ってますよね。グリちゃんに乗って」

「おぬしはこのドニャ・キホーテを敗軍の将と申すか?」騎士は前方不注意を恐れずに従士を見据えると、僅かに語気を荒げた。「となるとチヨさんも文字通り負け馬に乗っている道理となるが」

「別に負けちゃいないとは思いますが……ほら、リアルの逆ベクトルだったら」主人の気勢に気圧された千代は弁解する。「バーチャルが充実してるというか、夢に生きてる感がありますよね。なんだろ、バチャ充?」

virtualビルトゥアルという言葉は――これはvirtudビルトゥ即ち美徳にしても然りであるが」花は吶々と解説を始めた。「男性性や力といった、人の性質を表すvirtus若しくはvirtualisという羅甸語に遡る。仁徳だの勇気だの優秀性だのという意味もあるがね」

「男が優秀とは……石松やあのエロガッパを見た後ではとても信じられませんね。特にあのうそ松くんとくりゃ、松竹梅の中で実は松が一番低レベルなんじゃないかってくらい、私の中での松ランクを下げてしまいましたよ」

「おぬしはチヨキという言葉を知っておるかな」[訳註:千代木は松の別名である]

「なんでしょう。代々木と千駄木の間の駅とか」

「云わぬが花……いや、知らぬが仏というものじゃ」

「じゃあ知らないでおきましょう。云わぬがハナなら訊かぬがチヨってことで。これまでの経験から考えても、余計なことに首を突っ込まないのが猫の処世術ですしおすし……ああ、仏といえば、」千代は欠伸をひとつ。「パンケーキのパンってフライパンのパンだそうですね」

「仏とパンケーキにどういう関係があるのやら!」花は天を仰ぐ。

「男と優秀ってのに比べりゃ十二分に因縁があると思いますけどね。因縁はあんねん……やっぱ騎士ってのはマッチョに憧れるきらいがあんのかしら。女は黙ってろ的な」

「ラ・サンチャの騎士は男尊女卑と思うかね」拍車を掛ける足を休め、馬を徐行させながら花が問う。

「いやあ――男装女子ではあると思いますが」千代はそう云ってトボけた。

「男になったつもりはないよ」いつになく柔和な声で騎士は続ける。「尤も少年に女装させちゃ行く行くは英国野郎ジョン・ブルに育つのが関の山だけれど、まあ本邦にも似通った文化があるからなどと知った口を利いたら利いたで梨の園からお叱りを受けるかな[訳註:シェイクスピアが活躍した時代を含む俗に謂うエリザベス朝演劇では、変声期前の少年俳優に女性の役を演じさせていたことが知られている。女性が舞台に立つことが禁じられていたイギリスに対し、フランスやイスパニアでは既に十六世紀中頃から女優が登場、英国とは逆に《女の男装》が数多くの演目で人気を博した]――しかしこのviという単語自体がそもそも力を意味している。《vi et armis》といえばこれはもう武力暴力だからね。鉄血宰相の企てを剔抉てっけつするも結構だが、それがしとて好戦的であることに間違いはない。それもこの《静かなる岡》から足の先数ディジトゥスでも越境したらの話じゃがな」

「たしかに先輩は、世が世ならノーベル戦争賞を受賞してもおかしくない荒くれ者でらっしゃいますわ……ああやっと抜けたよ」漸く対岸に着いたようだ。

「揶揄ともお為ごかしとも取れるが、」律儀に不抜の剣エスパーダ・エン・ラ・バイナを守り続けるラ・サンチャの精華は、「――ここはストックホルムの発明家に因み、敢えて《発破を掛けられた》と捉えておこう」と云って従者の体裁を保った。

「はっぱろくじゅうしくらいなら掛けられますよ。葉っぱに六四むしは付き物ですしおすし」

「お寿司はもうよいって」主はこれ以上の脱線を避けた。「第一それは数学ではなく算数じゃ。数でいえばviはローマ数字の六だが、六道を持ち出すまでもなく生そのものを表すともいえる――vie vita vidaというように」

「リヴィラヴィーダーローカー」

「ふむ。と同時に二面性を示すこともある。美徳悪徳の双方を内包してこそ人徳の本来の姿だといってよかろう」[訳註:代替ヴィシス美徳ヴィルトゥス悪徳ヴィティウムなど]

「つまりですよ――」千代が仕切り直しに掛かった。「セラヴィーのヴィーがヴィヴィッドな単語だってことは承知しましたが、ヴァーチャルとヴィーチャルは同じものなんでしょうねえ?」[訳註:英virtualの綴りを知らなかったからこその混同だろうか?]

「ヴァーチャルをリアルの対義語と見なすようになったのはVR則ち仮想現実ヴァーチャル・リアリティという言葉が人口に膾炙してから、つまりここ数十年ばかりの流行語にすぎぬ。日本語で《名実ともに》などという場合、実とはリアルと捉えるのが自然と思うだろうが、実際的な効力を持つという意味ではヴァーチャルも同じことなのだ。例えばチヨさんが四つ目のニコさんに、夏休みの宿題の肩代わりをさせたとする」

「あるとすればその逆ですね」名誉を重んじる騎士見習いパヘの端くれとして、千代は主に訂正を求めた。「私は八月三十一日派に属しますが、奴は九月一日派に属す俗物さんです」[訳註:八月三十一日派は夏季休暇最終日に悪あがきをする者、対して九月一日派とは始業日の教室にて友人の宿題を丸写しする一派ということだと推測される]

「宜しい。では実際にニコさんの宿題を完遂したのをチヨさんだとする。しかし氏名記入欄には馬場久仁子とあるだろう。その署名は実質的効力を持つ。これがヴァーチャル」

「はい」

「しかし現実の貢献者はおぬしじゃ。これがリアルである」

「おお、正しい」何やら分からないが従士は納得した。「ということはですよ……バチャ充ってのはある意味、本当の意味でのリア充といっても過言ではないってことでしょうか」

「理解が早いな」騎士は従者を手放しで褒め称えるなり続けた。「仮想現実というのは本来リアルの裏側で、実質的にリアルと同等の効力を、生命を、生活を、そして仁徳其れ其れの役割を果たすということである。そもそもに虚構、還元すれば嘘という意味合いニュアンスはないのじゃよ」

「つまりどっちがいいかって意味では、いわゆるカレー味のうん……やめておこう」難解な言葉遊びに耳を研ぎ澄ませた筆者自身が他ならぬ東国の騎士を含む誰よりも瞠目したことに、千代さんは続いてこのような核心を突く指摘をしたのである。「――理想主義ってのとはまた違うんですかね」

「理想も現実の対義語として市民権を得た言葉だが」だが並走する百戦錬磨のドニャ・キホーテは動じぬ。「――これも認識の問題に過ぎぬ。時にチヨさんは、理想と聞いて何が思い浮かぶものかね」

「え、何だろ……武士道とか? ああ、アレも変ですよね」

「何がだね?」

「だってほら、日本人てサムライサムライ言うの好きじゃないですか。でも実際江戸時代って平和だったから、武士階級の連中って大して武芸の稽古もしないし偉そうにして町民いじめまくってたクズだったんでしょ。気ままに無礼討ちとかして」日本史の成績の為体を棚に上げて評価すると、世代を越えてやっかみ根性に満ちた認識コノシミエント・ジェノ・デ・レセンティミエント・マス・アジャ・デ・ラス・ヘネラシオネースに関しては彼女の中途半端な知識サビドゥリーアだけを以てしても充分な説得力があるようだ。

「長いものから食い始め、か。まあ知行合一、大塩平八郎のようなのは例外だわな」

「越後屋そちも悪よのう……お代官様こそ――でお馴染みのクズっぷりですね」

「のみならず、日本人の大半のご先祖様はお百姓な訳で、そうすると己の祖霊を生前虐げてきた、器だけで中身の無い虚像バーチャルを恰も自分がその末裔であるかのように崇めるというのも些か滑稽ではある」このセリフを吐いたばかりの仮初の騎士の心持ちは如何ばかりか。

「ほんと《サムライジャパン》とかちゃんちゃらファニーですわ!」明治期の史料を紐解く限り、――城下町に限れば話は別だが――江戸時代末期に武士階級が占めた割合は一割にも満たなかったと謂う。「そっちは嘘っぱちの方のバーチャルですかね。まァ騎士道精神を理想とするご主人様の前でこんなん云うのもなんですか……あ、リアルは武士だけど実質的にはクズってのが、バーチャル? いや逆なのか。人道的ってのも、人間は本来クズなのかもだけど理想としてはこうあれってことですよね結局」

「理想は真実とも置換できよう。ミコミコーナの仰有る通り、世人は真実を称揚するが、追従するのは常に現実である。但し念頭に置くべきは、このふたつの単語は事実とは異なり確固たる形質を持たぬということである。形質などというと然も擬生物的な物云いとなるがね」

「でもでも」千代は三軒茶屋にある学校の教室さながら、シャルロッテの上で挙手すると発言の機会を求める。「バチャ充のドニャ・キホーテが重んじるのは史実なんですよね!」

「然様。今宵の従士は物分かりが善くて助かるぞよ」騎士は再び従者を褒めそやしてから、ボソリと呟いた。「元より夢と現の裏表に、一体何の意味があるというのか」


「夢にうつつを抜かしている中恐縮ですが――」主人に劣らぬ地獄耳オイードス・デ・インフィエルノを持った半坐千代が、ドニャ・キホーテの高邁なる夢の世界を躊躇なく打ち破る。「うちらに突き付けられているその現実ってヤツが一体全体何ぼのもんか、あそこの数字を読んで確認してみましょうか」

 赤信号の交差点を前に従者が驢馬の手綱を締めると、騎士も「どうどうソーソー!」などと叫んで逸る駿馬の足を制した。

「何ぼのもんじゃい! ええと、暗いな……浜、松」街灯が発する光の反射で却って見難くなっている頭上の標示板を仰ぎ見た従者は、手を額に翳すことで網膜に入る光量を調節し何とかそこに書かれた文字と数字を読み取る。「43。浜松ってなんでしたっけ?」

「魔を破る松とは何とも霊妙不可思議なる御神木よ。無論、《二度と御免ハマス・マス》から転じたとあれば《待つが浜》の諺通り、《松の騎士カバリェロ・デル・ピノ》でもない限り早早に退散しようものだが」[訳註:西jamás másという表現は一般的ではない。ある程度聞き慣れている言い方はnunca más=英never moreか。因みに《待つ間が浜》も正しくは《待つ間が花》である]

「カバ!カバ!ビバカバ!」浜松の特産物を思い出した従士が不意に奇声を上げた。「寿司に引き続き明日のディナーはうなぎで決まりじゃないですか! そういうことなら浜松滞在中に限って《山椒の従士》を名乗るのもやぶさかじゃないですよ!」[訳註:著者は千代の云うところの《カバ》を、仏シャンパーニュと同じ製法で作られるカタルーニャ原産の発泡葡萄酒と捉えてcava《蔵酒》と書き出している。白焼きと葡萄酒の相性なら合わないでもないかとも思えるが、これは十中八九蒲焼きのカバであろう。尚、一般に《日本胡椒ピミエンタ・ハポネーサ》等の呼び名を持つ香辛料の山椒も、ここでは《山椒魚胡椒ピミエンタ・サラマンドラ》と意訳されている]

「慥かに案内のひとりウナ・ギーアでもおれば、道中も安泰ではあろうな」[訳註:《案内人》という意味のguíaは男女同形の名詞なので、冠詞unaが女性形である以上、《案内書》としての女性名詞guíaである可能性もある。但し、そうであれば「~でもおれば」ではなく「~でもあれば」となるべきだろう]

「浜松湖[訳註:正しくは浜名湖]デラックスといえば養殖ウナギ日本一ですからね。あ、くそっ、ここ浜松にカマ松がいれば特上うな重をおごらせていたものを……」[訳註:全国的に有名なのは確かだが、水揚げ量が全国一という訳ではない]

「食い気が眠気を追い越したというのなら、」一旦下馬していた騎士がもう一度鞍に跨って云う。「――丑三つ時には浜松城下に入れると思うが?」

「それは無理です」千代は毅然とした態度を見せる。「今日はもう百キロ以上シャロを漕いでるんですから、この子の脚も私の尻も限界値を超えてます。大体今何時だ?……げろ、牛どころか牛魔王だって眠ってるべき時間ですがな。ここは大人しくこの……どこだここ? あ、キンタニ高等……カネタニ周辺でホテルを探してベッドインからの朝風呂コンボを決めるべきですね。ルームサービスでマッサージのひとつも頼めりゃ御の字ですけど、そこは節約して自分でモミモミすることにしますから」

「それならせめて次の宿場町を目指そうではないか。そら、浜松の下にも何とか書いてあるであろう」

「ふぇ? ああ、掛川16キロ……ムリムリムリムリカタツムリですって。十六キロっつったら、うちから渋谷くらいはありますよ?」[訳註:三軒茶屋からという意味であれば、渋谷どころか池袋、いや上野よりも更に遠くまで行けよう]

「おぬしの好きなKackeの川じゃぞ?」常日頃、品性スティレーサ品位フィヌーラ品格ディグニダの三拍子揃った人品骨柄卑しからぬラ・サンチャの精華が、珍しく下品な卑語を用いて従者をからかう。

「カッケ? 沖田総司ですか?」物忘れの激しい鳥頭の千代は、夕方に風呂屋の脱衣場で自分が発した付け焼き刃ソロ・デ・ファチャーダのドイツ語を失念しているのだ。[訳註:ここでの千代の反応を鑑みるに、前章で彼女が発した「カッケ」は「かっけえ≒かっこいい」が基根となっていたのではないかと考えられる。そもそも沖田総司の持病は脚気ではなくて結核だ]

「さあさ起きた起きた。此処な爆轟ばくごうの勇者は、一旦座ればどうなるか知っておろうな?」

「《座ればボカン》はドニャ・キホーテ様の専売特許でしょうや」千代は必死に抗う。「遍歴の従士としちゃあ、《座れば牡丹餅》が出てくるような気の利いたお茶屋さんで一休みでもできない限り、このガードレールからお尻を上げることはできませんね」

「お尻の下に敷かれているのがあの哀れパテティカ精神病者シコパタガートルードであったなら、おぬしも明けの明星が陸離として輝く頃には暗い地下の拷問部屋で散散な目に遭うていることだろうて!」

「ほら見てごらんましな」千代は掛川方面に続く道路を指差して主張する。「こっから見てもアレすごい坂道っぽいですよ」

「いやはや箱根八里で大分懲りたと見えるな。これこそ正しく《羹に懲りて――》、」

「それこそ穿いた補正下穿きガードルもはち切れんばかりの太もも殺しな……」

「――否、エスパーニャにはもっとチヨさん向けの俚諺がある」騎士は云い直した。「《El gato escaldado del agua fría huye.》……この意味が分かるな?」[訳註:《熱湯で火傷した猫は冷水を見ても逃げる》という意味。用心深くなるという文意は《羹に~》と同じだ]

「ガトーショコラに懲りて、今度はグルテンフリーのケーキを食べる」

「それでは何も懲りてないではないか」

「どう見積もったってあかんヤツですよアレ」

「掛川の川に懸けてもあかんかね」

「川に架けるのはさっきのクソ長い橋だけで充分です。色仕掛けだろうがよだれ掛けだろうが、はっぱを掛けようがギターとベースを掛け算しようがあかんもんはあかんですね」

「一杯のかけそば的なアレでも駄目かね」

「かけそばだろうが賭け麻雀だろうがダメなもんはダメです」千代はこれ以上の進軍を固辞すると徐ろに携帯を取り出して云った。「――で結局、《一杯のかけそば》ってのは何だったんですかねっと」


果たして従者の感じた悪寒的予感イントゥイシオン・デル・フリーオも強ち間違いではなかった。

 信号を渡ってものの数分でシャルロットの馬足――つまりこれは乗り手自身の両脚のことだけれど――が限界を迎えたかと思うと、千代は満足な道路照明もない中を問答無用で先に行く主人が、前照灯のかたどる円からはみ出てしまうすんでのところで呼び止めるや、懇願に懇願を重ねて何とか馬から下り一緒に歩いてくれるよう頼み込んだ。箱根の峠とまでは行かぬまでも、この山の傾斜も自転車で登るには些か険しい道のりだったのである。

 自動車の行き交う夜道を徒歩で行軍するのは寧ろ危険だと一度は説得した騎士であったが、心身ともに消耗した従者の痛ましい窶れ顔を見て流石に心を傷めたのだろう、車に轢かれぬよう隊伍を直列に組み直した主従は、それから三十分以上掛けてくねくねと曲がった県道を歩いたのであった。

「健全なる肉体にしか……健全なる精神が宿らんと、いうのなら……私は心身ともに、不健全な人生を……貫き通す決意を新たにせざるを、得ませんな」

「それは違うぞチヨさん。後世舞文曲筆ぶぶんきょくひつの餌食となったユウェナリスが言わんとしたのは概ね以下の通りじゃ――《人の欲望は留まるところを知らぬけれど、本来神に願うべきは健やかな身体と健やかな魂を措いて他はない》とな」

「なる……ほど結局は神頼み、か。つまり願うだけならタダだと」

「然様。もとより元から健全な者なら敢えて願う必要はないわけだし、半面おぬしのような輩だからこそ実に願い甲斐もあるというものじゃて」

 中腹に差し掛かった辺りで一度、千代さんがふと足を止め、「ドニャ先輩、男装女子の沽券に掛けて、いっちょ特攻しかけてみますか?」と云って主人に即断を促したのだが、これは恐らく道沿いに先述したような愛の宿屋オテル・デル・アモールを発見したからだったのだろう。

「弾倉といえど弾はなし、掛ける孤剣も鞘の中、然ればとて徳行の為とあらば此のドニャ・キホーテ、髪冠を落とし女伊達を気取るのに何等憚ることもない」騎士はそう云い放ってからこう付け加えた。「だが果たして男に見えるかな」

「閣下もアルトも同じくらい長髪だし、男に見えないこたないと思いますけど……」従士は腕組みをして暫し唸った。それから念仏オラシオンのようにブツブツと呟く。「いかんせん顔が綺麗過ぎる。そして小さい。折角ぺったんこなのに惜しいなあ……一応パンツは何本か入れてるけど、私のじゃ寸詰まりやむなしだし……そもそも着替えるところがねえ」

 そういう経緯で、擬似番いセウド・パレーハをでっち上げて車庫付き宿モテルに一泊する算段はものの一二分を待たずして破綻したのである。

 それでも何とか峠の天辺まで辿り着いたはいいが、今度は宿泊施設は疎か便利店の一軒も見当たらぬ始末で、すっかり気落ちした千代さんが力なく滑走して山道を下る様を見ていると、然しもの鬼教師も今宵これ以上の試験勉強を強いるような浅陋な真似など到底出来よう筈がなかった。

 とはいえ《誰かにとっての床は他の誰かの天井》という格言にも似て、いずれはカッケ川――いや従来のドニャ・キホーテであれば《首長の川リオ・デ・カシーケ》とでも呼んで敬仰したに違いないのだが――に至る下り坂ときたら、擦れ違う者にとっては汗と溜息しか齎さないだろうものを、このラ・サンチャの主従には暑気を払う爽風のみならず寝床ドルミトーリオ、則ち心地好い寝台カマ・コーモダをも確実に引き寄せてくれたのである。どうだろうケ・テ・パレーセ、「心地好い」は言い過ぎか?

「せ、先輩、見て!」

見ているミロ

「私は見てますって!」朦朧とした意識の中で千代が云い返した。「ついに来た来た来ましたよ。掛け替えのない物を犠牲にしましたが、少なくとも我々はまだ生きています」

「成程、屍骸にはなっておらぬな」新しい標示板には《掛川市街シウダ・デ・カケガーワ》とでも書いてあったのであろう、花は従者の云わんとするところを忖度して相槌を打った。「尤も虚無ヴァニタスに魅入られたこの老骨ならいざ知らず、快楽原則エピクレイスモの担い手たる享楽主義者ヘドニスタのチヨさんをして、屍体愛好症ネクロフィリア根暗愛好症ネクラフィリアなどと相容れる謂れはなかろうからね。これはそうそう長居も出来まいて」[訳註:西語のhedonista本来の発音は《エドニースタ》であるが、ここは敢えて《ヘド》と読ませているのだろう]

「そりゃ死骸だの紫外線だのペド野郎だのにゃ反吐が出ますがね」今宵の終着点を前に、従士の掛ける拍車にも力が入る。「未開の地をあんだけ駆け抜けた後ですし、こっから先がクーラーとシャワーとベッドの保証された約束の地だってんなら大歓迎ですよ」

「それがしも心強い従者を持ったものじゃ。そのまま恬然てんぜんとしておれ、今宵暗中飛躍の御役目も、残り僅少の辛抱だぞ」

「問題は……今更ですが、流石にこの時間にこんなとこまでまたミコ姉さんを呼び出すなんてことは人として到底できんだろうってことですけど。保護者の振りして電話で予約してもらうとか、そういうことが可能ならいいんだけど」高架橋を潜るといよいよもって住宅街である。「だったらうちらのどっちかが声変えて親の真似すりゃ済むわけだしなあ。頼むべきか頼まないべきか、それが問題だもん」

「わたくしはチヨのハ、ハネのチカと申しますです」

「う、ちょ、うわあ何だそれ!」花の恐るべき声帯模写イミタシオン・デ・ボスに、当人の実の娘が悲鳴を上げた。音質の問題もあろうが、少なくとも出発日に録音された千佳夫人の声と聴き比べても全く区別が付かない。「いや本人知らないんだから似てる必要もないんですが……とりあえず、ああ脚痛え、水分というより電解質が足りないので――」

「電解質とはどういう物質か分かるかね」

「え、そりゃ……電気を分解する物質でしょう。そう、あれ……イオンとか、マイナスイオンとか」知ってる単語を使って何とか誤魔化す千代さん。「水とかお茶とかジュースとか、何故かコーヒーとかは買ってあるんですが、何故かスポドリ的なもんが入ってないんですよここに。まァホテルに入ればいくらでも売ってるでしょうけど、まだ一二キロは走るかもですから」

 従士の目論見は見事に外れ、真夜中メディアノーチェの東海道を西進する主従が道沿いに建つ最初の鎖状便利店と巡り合うまでには、それから更に三十分を要したのだった。


そして三時間超前と同じような光景が其処にはあった。つまり薄暗い駐車場と明るい水晶張りの店を仕切る縁石にドッカリと座って疲れを癒やす従者と、その傍らで夜風に吹かれ体躯の火照りを冷ます騎士の姿である。

「まったく今日は三百キロは進んだんじゃないですか」電解質を含む良質の清涼飲料水をグビグビと煽りながら千代が嘯く。「気付いたら名古屋を通り過ぎて、京都とか大阪にご到着なんてのはご勘弁ですよ。大阪のアインラドゥンは取ってないんですからね」

「駿府のテルマスからの懸軍は多く見積もってもせいぜい十レグア程度であろう。通宵つうしょう掛けて挺進する筈が、正子しょうしを前に足止めと相成ったのじゃから」

「笑止千万。そりゃ運動神経抜群のドニャ・キホーテにとっちゃせいぜいでしょうが、軟弱中坊の現代っ子的にはぜいぜい息が切れるばかりですわい。晴れて《夜伽》にミサる時にゃ真っ白に燃え尽きてんじゃないかと今から心配ですよまったく」

「そういうことなら、そら」騎士は僅かに後退ると、視線を宙に泳がせたまま千代に向かって手招きする。「チヨさんもここに立って見てみい」

「何です?」従士は面倒臭そうな声を出すと、両膝に両手を突っ張って立ち上がった。

かがりの焚かれた真白の城が、煌煌と燃え盛っておるではないか」

「え? ど……おおっ!」千代が歓声を上げる。「すごい! 本物の城だ! 超光ってる、ってかテカってる……」(掛川城の天守トレオン――天の塔トーレ・セレスティアル――は近年再建されたものだそうだが、夜間照明を浴びたその麗容に目を瞠る中学生の感動にわざわざ水を差す必要もあるまい)

「光るは親父の何とやらと謂うが、此度はハゲも用無しかね」

「梨じゃなくて栗ですね。ハゲの代わりに髪の毛を……髪の毛だと思ってみるとマズそうですけども」千代は飲み物と共に買い求めた小碗焼菓子カブケイクの蓋を開けた。成る程白山モン・ブランを覆う乳脂ナタであれば髪の毛に見えぬこともない。「う~んコンビニスイーツあなどれねえ……そういやサンチョがハゲてないか確かめなきゃ――いやその前に」

 小匙を口に挿んだまま、黙々と携帯画面を操作する従者。うんうんと唸っている。

「焼津に宿入しゅくいりなされた姫殿下に、改めて拝芝はいしの栄をお願い申しておるのかな」

「いや、とりま付近のホテルを調べてみたんですけど……ごちそうさま」千代の大口をもってすれば大山脈ロス・アールペス最高峰ピコ・クルミナンテも一呑みなのである。「やっぱ駅周辺に固まってるみたいなんすよね。どうしよっかな一回戻ってもいいけど……いいや、ここの先を左折したらまた線路近くに出るので、大回りに∪ターンして掛川駅付近を探しましょうか」

「あの城に泊まるのではないのかね」騎士は民家の屋根越しに輝く掛川城を指差しながら、さも意外そうに訊ねる。

「白くまに掛かっている練乳シロップに掛けて誓ってもよござんすが、」従士は設置されたゴミ箱に不要物デスーソを投げ入れながら答えた。「掛川のお城に泊まるのは難しいと云わざるを得ませんね。だってあんなにやたらめったら照らされてちゃ、お殿様がどんだけ豪勢なベッドを用意してくれてたって、眩しくてとても寝てられやしませんですから」

 この理路整然とした千代の返答には、その武勲と栄光を鑑みれば東海道切っての要衝を治める城主から手厚い歓待を受けて当然だと考えていた世紀の英雄ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャをしても、従者の跨る驢馬に黙って付いて行くより他なかった。


名城を仰いでより二百米程西に進んだ辺りで、先導する従士が主人を顧みて云った。

「これ以上行っちゃうと掛川駅から離れ過ぎちゃうので、一応この道入って、二三個先の角をもっかい左に曲がりましょう。そしたらもう駅前だから、うろうろしてれば泊まれるとこがあると思いますが……」携帯が復活するや、文明の利器コモディダ・モデルナに頼り切りである。

うろの周りをうろついておればキジムナーの片割れにお出でいただけよう目星か」

「運転終わって酔っ払ってたり、彼氏じゃない人を無理矢理襲ってエロいことにでもなってたりしなければ、焼け野原から遥々ご加勢に来てくださらんとも限りませんが……」千代はひとつ舌打ちをして続ける。「セーフティレバーないって言ってたしどうかな。できれば迷惑掛けたくないので、嘘電話で解決するのならうちらだけで何とかしたいところ」

「よい心掛けじゃ」騎士は従者が見せた自助の精神エスピーリトゥ・インデペンディエンテを讃える。「姫君を御呼び立てすれば其れまさしく《掛川の美女神ヴィーノス》、吾等は揃って彼女の手に己等の生殺与奪の権利を委ねることとなろうさ」[訳註:これはマゾッホ著の被虐嗜好マゾ小説『毛皮のヴィーノス』を下敷きにした発言。年若の後輩が知らないのをいいことに、花はちょくちょくこの手の成人向けなネタを仕込んでくる。原題は独Venus im Pelz、邦題『毛皮を着たヴィーナスヴィーノス・イム・ペルツ』]

「そんな身の毛もよだつ権利を委ねるくらいなら、やっぱり姫君にゃ今晩は《焼津のナスヴィー》のままでいてもらいますですじゃ」

「茄子か……ふふ、図らずも精霊馬しょうりょううまの季節だものな」

「何ですか、また悪魔関連ですか?」

「ほれ、胡瓜の馬に茄子の牛というアレじゃ」

 解読したエウレーカ! ベネンヘーリが茄子ベレンヘーナ喃語バルブセーオであるならば、胡瓜が転訛したものパラーブラ・コン・メターテスィス・ケ・デリーバ・ペピーノこそがそう、あの《ペニンポーリ》に違いない!――よもや日本の遺習にかのモーロ人の(いや、そう考えるとあれは果たして本当にアラベ系の名前だっただろうか?)手掛かりが潜んでいるとは誰に想像できたろう?[訳註:第三章参照。我々が少女ふたりの旅路における一挙手一投足を盗み聴きし始めるお膳立てをした男――または女――の名である。因みに、benengeliがberenjenaの幼児語なのではなく、benengeliのサンチョによる聴き間違いがberenjenaだったというのが本家『ドン・キホーテ』での説明。まあそれでも《とうもころし》に通ずる風情があるのはたしか]

「何でいきなりそんな卑猥な話になるんですか」千代は何か誤解しているようだ。しかし本稿とは直接関連しない事柄なので、これについてはこれ以上紙幅を割かずに、あの命名がダメ・ヤメーテ自身による品の無い悪巫山戯であった可能性を慎ましく示唆しておくに留めよう。「つかいくらキュウリ大好きビチビチビッチったって、流石に呼び付けたくらいじゃミコさんもそこまで恩着せてはこないんじゃ」

「《Quien se fue de Sevilla, perdió su silla.》の金言から学ぶならば、止事無き大ギネアの御世継に斯様な刻限の斯様な辺地まで御足労いただくことは只只無粋であるのみならず、御両人の水入らずに水を差す向こう見ずな振る舞いと呼ばざるを得まい」[訳註:《セビーリャを去った者は椅子を失った》というのは、不能王エル・インポテンテとして悪名高いエンリケ四世の時代、サンティアゴ大司教に任命された甥の頼みで彼の代わりにガリシアの騒乱を鎮圧しに赴いたセビーリャ大司教が、仕事を終えてセビーリャに戻ってくると暫定的に教区を交換していた他ならぬ甥っ子にその地位を奪われていたという身も蓋もない故事に由来する諺。これに倣うと、《友の元を去って友を失う》というよりは《止宿先を発って止宿先の占有権を失う》というような意味合いになりそうだが……因みにチレではSevillaの代わりにMelipillaメリピージャが入るらしく、こちらは同国首都州内西側に位置する県名だ。別の同意表現としてSevillaをLeónに、sillaをsillón《肘掛け椅子》に言い換える例も。著者は花が«se fue de»と云った部分を«fue a»つまり《~に戻ってみると》と書き出していたが意味は同じである]

「男女の友情的なヤツですかいね」信号が青に変わる。「まァ、パイセンの私生活に興味はないが……渡りますよ」

「《破れ鍋に綴じ蓋》というのは何も色恋に限った話ではない」はて《解れた布でも似合いの壊れ物には事欠かぬノ・ファルタ・ウン・ラト・パラ・ウン・デスコスィード》とも謂うが、生煮えの鍋物コシード・デスコシードはご勘弁願いたいものだ。[訳註:《破れ鍋~》は《ひとつの深鍋には常にひとつの蓋があるスィエンプレ・アイ・ウナ・タパ・パラ・ウン・ポテ》。西descosido《縫い目のほつれた》、descocido《煮えていない》]

「私ならイベリコ豚とか入っててほしいですね。猫鍋的な」猫鍋とは、文字通りカスエーラの中に猫を入れてその様を愛でるという日本の奇習である。「可愛いし食べれるし二度美味しい」

「それが仔猫であれ仔豚であれ、猫又顔負けの大口を持った猫千代の前で大人しく鍋の中に収まったのであれば、其奴は大した勇者であろうな」花は愉快そうに笑いながら、進路の先を見遣ると不意にこう云った。「勇敢さブラブーラを示す為、暫くこの界隈をぶらぶらするのも或いは一興かも知れぬ」[訳註:元を辿れば古希βάρβαροςバールバロス《異郷の、野蛮な》及び羅pravusプラーウス《歪んだ/悪徳の》の掛け合わせた単語とも目される西bravoの派生形bravuraには残忍さや憤怒の意味も]

「ぶらぶーらですか。これがミコミコーナパイセンの発言だったら何ともヒワ――」千代は主に釣られてその視線を追うと、己が双眼に映った景色を目にして言葉を失う。

「見よ、チヨさん!」騎士はイポグリフォの脚を制すると、片手を掲げて従者の行進をも押し留めた。「一糸乱れぬ此の隊列は、さながら帝陵に連なる兵馬俑ではないか!」

「あ、ああそれ秦の始皇帝ですよね。ラストエンペラーの」あべこべアル・レベースである。「でもどうだろ、資料集の写真的にはこんなにこじんまりとしたスケールじゃなかった気がしますよ。もっとこう、ピラミッドクラスというか……前方後円墳級というか?」

 主従が石垣越しに目にしているのは、そう、四方に一定間隔で行儀よく立ち並ぶ墓石、その無数の四角い頭である。寺院墓地の横を通り掛かっていたのだ。

「牛が一匹牛が二匹、牛が三匹柵越えちゃう前に、」牛が三頭出揃ったらば、それはもう古式床しき幽霊ファンタースマスの時間だ。「我々はとっととベッドに入って羊の数でも数えましょう――ってちょ!」

 手綱を引かれたイポグリフォがキキーッという嘶きを上げて急停止した。その乗り手は暫く凹凸のない兵士達の首から上をじっと眺めていたが、何か思い立ったかのように不意に愛馬を反転させると、既に通り過ぎていた墓所の入り口に向かって再度進み出す。

「ちょっとちょっと」こちらも大回りに百八十度、ぐるりと自転車を方向転換させた従士が、仕方なく主人の後を追う。「別にアソーギ家のお墓はないでしょうが。ハナ様が花を手向ける義理はのうございますぜよ」

「此処にミコミコーナをお連れしておれば、口寄せのひとつも或いは請け負ってくだすったかも知れぬが……」[訳註:『東海道中膝栗毛』には掛川宿の一歩手前の宿場にて、偶然遭遇した巫女に弥次さんが冗談半分で自分の死んだ女房を呼び出してもらう挿話がある]

「口寄せも口利きも、もうあの方には頼めませんよ」

「半坐家の御宗旨は?」門柱に鋼の愛馬を立て掛けて休ませるると、ドニャ・キホーテは掛川の焼け石製兵馬俑ゲレーロス・デ・ロカコータ[訳註:西安にあるそれらは言うまでもなく素焼き粘土製デ・テラコータ。因みに然程一般的とも思えないが、敢えて粗い石肌に仕上げるため墓石表面を火炎放射器ソプレーテで炙る加工法もあるにはあるらしい]を見渡しながら従者に問い掛けた。燦然と照り返る掛川城に比べれば、幾ら街灯や仏閣の軒灯があるとはいえど視界が明るいなどということはあるまい。

「宗旨? ああ、何教とか何宗かってことですか?」不平を垂れつつも素直に付き従う千代は遍歴の従士の鑑である。「何とか宗だとは思いますけど……いやこれ勝手に入ったら普通にマズいと思いますよ」

「宗派も知らずに毎朝御仏壇に手を合わせておるのかね」

「毎朝手を合わせちゃいませんよ。私は小二の時に初めてレット・イット・ビーを聴いて以来、断然偶然崇拝ですから……あとアレ、ケセランパセランもそうか」

「ケセラセラ?」

「噛みました――つまりは流れに身を任せて生きてるんです。偶像を拝むとしたら英世か諭吉くらいのもんでして」存外早熟である。どうせなら拍子甲虫ビートルズと共にそのまま英昆虫語イングレセクトス[訳註:西inglesectos=inglés+insectos]にも興味を湧かせておれば、七年の後こうして夏期講習の悪夢にうなされることもなかったであろうに。「それこそ夕方に先輩が云ってたみたいに――ほら、キリスト教もイスラム教も神様は一緒みたいな、だったら仏様だって大概一緒なんでしょうから、別に真言宗だろうが浄土真宗だろうが写真集だろうが日蓮宗だろうが、信心深い人以外にとっちゃ構わないんじゃないですかね」

「御尤もだな。しかし勝手に入ったら普通にマズいのであれば、もちっと声を潜めるが無難じゃぞ」

「おっと」千代は拳を唇に当ててから主の忠告に従い、なるべく音を立てずにシャルロットの支え台を立てると、囁き声で続けた。「こんな時間じゃ鍵はいらんですよね。うわあ怖ぇぇ……クワバラクワバラ」

救い給うオサンナ!……これも天神様のお導きじゃよ」《桑原カンポ・デ・モラ》というのは本来ならば雷除けのまじないマントラである。学問の神として崇められる菅原道真は死後に天神となり、セウスやトール同様雷を操る力を持つに至ったが、己の領地であった桑原には雷を落とさなかったという言い伝えがあるのだそうだ。尤も、深夜の不法侵入のかどで寺の住職にでも捕まれば、千代さんの頭上には警察やら母親やら各方面から雷が落ちるだろうことも想像に難くない。

「いやまァいくら信心がないつったって、自分のじいちゃんばあちゃんのより先に他人の墓参りするのは気が引けますよ」日本人にとって夏は、祖先の霊が――生き存えよ死者たちの日よビバ・エル・ディーア・デ・ロス・ムエルトス!――屍者の国ムンド・デ・ロス・ムエルトスからこちらの世界へと一時帰国する季節なのだ。一般的に三日四日は滞在すると謂う。「とんだバチ当たりだわ。私が死んでもお墓はアイスの棒ですね」

 堪らず花は噴き出したが、ひとつ小さな咳払いをすると何とか覇気を取り戻し、背筋をピンと伸ばした物言わぬ近衛兵たちの間をのたりのたり巡検して廻り始めた。


程なく石壁にぶち当たると、今度は隣の列に折り返して閲兵を続行する。

「とはいえ墓標のことまで考えが回らなんだ、一本くらい残しておくべきだったかね」

「ああ、アイスのゴミは全部コンビニで捨ててきちゃいましたけど……いやつか別に私もまだ当分死ぬ気ないっつかむしろドラえもん生まれるくらいまで生きるつもりですので」

「¡Guíela Viejo Par, os ruego, o Lebrato!」[訳註:「彼女を導き給え老いた二人組よビエーホ・パル、後生だ、仔ウサギよ!」ここでの二人組はドン・キホーテとサンチョを指すものと思われるが、通例viejo parは《一足の古い靴ウン・ビエーホ・パル・デ・サパートス》《一本の古着の洋袴ウン・ビエーホ・パル・デ・パンタローネス》のような形で使われることが多い。英語のparrパーには《鮭の幼魚》の語義に加えて《若い野兎》の意があるとのことだから恐らく綴り違いであろう。尤もウサギは多産の象徴ではあっても長命の印象はないわけで、年寄ビエーホにせよ子供クリーアにせよ何故唐突にこの動物の名が選ばれたのかは不明]

 棺の中に横たえられて埋葬される我々西洋人と違い、この国では遺体の火葬が義務付けられており、遺骨は古代埃及王ファラオーネスの臓器よろしく小さなウルナに収められて一族が同じ墓の下に埋蔵される場合が多い。そうなると狭い区画に大量の墓石が林立し、その数倍の霊魂が眠っていることになる訳だが、イスパニアと比べても人口密度が四倍に上ることを考えればこれはやむを得まい。[訳註:厳密には荼毘に付さずに埋葬することも可能であるが、現実的には慣習と衛生面の双方が影響してか火葬の割合が圧倒的に多いとのことである]

「こういう時は、自分が佐藤とか鈴木だったらと思いますね」千代は及び腰で騎士の背中にへばり付きながら、その足取りに何とか歩調を合わせて話し掛けた。集音器は虫たちの共鳴りを僅かに拾っているが、それでも黙って歩き続けるのは心許ないのだろう。しかも数時間走り続けた挙句の予告なき肝試しプルエーバ・デ・コラーヘ・スィン・アビーソだ、心身とも疲労困憊に違いない。「自分ちと同じ苗字のお墓がありゃ少しは親近感も湧くんだけど」

「秦は魏・韓そして趙を手始めに滅ぼした後、楚・燕・斉を奪い、少年王は皇帝を名乗った。此方から端までの将軍が函谷関にて合従軍を打ち破り――、」騎士は大軍を指揮する武将の如く、勢い良く腕を水平に払って続けた。「彼方の精兵等がさいにて趙の縦横家龐煖ほうえん率いる四箇国軍を退け咸陽を死守したのであろうな」

「ラ・サンチャの少女王が皇帝を名乗るのにも、そんなに戦争が必要ですかね」

「三皇五帝に倣うにしても現状それがしは王位にないからの」騎士は謙遜した。「そもそもドニャ・キホーテが望む戦とは奪うものではない」

「――の割には戦利品とか首級とかを所望されてたような」首級については千代さんも、人のことを兎や角云う筋合いではあるまい。[訳註:第一章参照]

「それが桃一果であれ立派な戦果と呼べようし、頸木くびきを争いくびられた敵の首と思えば、その実を噯気おくびも欠伸も出来ぬ亡骸として首桶の中に収めよう。だが――」主人は三度折り返すと、更に墓石の間を練り歩く。「概して戦争という人為は、一日一ドゥカードで生活しておる者が明日から一日一ドゥカードと一レアルで生活する為に、一日一マラベディで生きる者を三十四人殺すことじゃ」

「一日一ドゥカードって何ですか?……一日でカード破産的な?」

「本邦現行の通貨でいえば、一日十万円で暮らしている人間が明日から予算を十一万円に上乗せしたいので、戦争を起こして一日千円で何とか生き延びている貧者を十人殺し略奪するようなものである、ということじゃ」

「なるほど、計算が合いますね。つって一日千円もらえてりゃ、今頃私は長者番付に乗ってるでしょうけど」慥かに新幹線の切符も買えたであろう。「昔うちの父親に何でアメリカはとっとと北朝鮮をぶっ潰さないの?って訊いたら、儲からないからって言われたっけか……まァ、戦争は経済行為だとかってのは如何にもな中二発言という印象があります」

「ひとつの側面ではあるがな。如何に不合理なものであっても軍産複合体は殺戮を望み、事実十年に一度大規模な戦争を起こさねば潰れてしまう大国もある。テロ撲滅を口実とした軍拡に掛かる費用の十分の一もあれば、テロリスモの根因と呼ぶべき飢餓や貧困は撲滅出来る程だ。然れどもこのドニャ・キホーテは――」それまで牛の――つまり亀の歩みでア・パソ・デ・トルトゥーガ前進してきた騎士はここで何故か一呼吸置くと、大股で何かを踏み越えて立ち止まった。「殺す為奪う為というよりは活かす為与える為に戦うことを信条としておる。負ければ潔く、勝てどもそう、ブレダを陥落せしめた名将ロス・バルバセス侯スピノラ将軍が、敗れながらこちらも天晴な軍神であった下つ国のオラニエ公ナッサウに差し伸べた手こそ、遍く騎士の垂範たるべきなのじゃ」[訳註:オランダ語のNederlandenもイスパニア語のPaíses Bajosも直訳すると《低い国々》である。これは文字通りの意味で、実際国の表面積の半分が海抜一米以下なのだそうだが、《下つ国》というと地下の国、転じて黄泉の国を意味するので少なからず穿ち過ぎたきらいのある物云いである。因みに訳者は、イスパニア人が嘗て支配下にあった蘭国を見下してPaíses Bajosと呼んでいたのだと思っていました]

「いやまァたしかにドニャ・キホーテ様もそのスピロ……スピ、スピロヘータ将軍みたいになってくださることを期待しておりますがね」日本の中学生は、保健体育フィースィカ・イ・サルーの授業で梅毒スピロヘータについても教わっているのだろうか!「――今はその騎士道精神を、天晴な軍神よりも願わくばこの雨降りな従臣に注いでほしいところ」

「どうした?」

「いやなんか水溜りに片足突っ込みました。浅い感じだから大丈夫ですけど」

「狐の嫁入りでもあったかな」《狐の嫁入りボダ・デ・ソラ》などというとグリム童話のようだが、これは日照り雨ジュービア・コン・ソルを指す(黒澤明の乗合自動車映画ペリークラ・オームニブス[訳註:ここでの西ómnibusはantología《短編集》とも言い換えられよう]『スエーニョス』の中にもこれについての一篇が収録されている)。その可能性も否定出来ないとはいえ、恐らく坊主か参拝客の誰かが、日暮れ時に灌水棒イソーポで撒水した為、水溜りが乾かず地面にも吸われずに残ってしまったというのが最もありそうな真因だろう。[訳註:意訳すれば「柄杓で打ち水した」か]

「なんすかそれ、狸寝入りの親戚です?」

「器用なチヨさんなら起きながらに鼻提灯も膨らませられようが、」苦笑するドニャ・キホーテ。「――こちらは狐狸妖怪が繰り出す提灯行列のことだ」

「いやこんな時にこんなとこでそんな怪談ぽいトークやめてくださギャッ!」千代さんがその場に固まった。

「どうした?」

「あ、や、ちょ……ライトか?」行く手に突然青白く発光する物体が現れたのである。「いや、でも……なんであんな……きもわる」

「成る程、雨が降ると死体から漏れ出たリンが反応して人魂になると謂うが――」

「ちょっちょっ、マジでやめてください」

「科学的裏付けに乏しいとはいえ、鬼火を荷電した気体プラズマなどと呼ぶよりは遥かにロマンがあるね」

「さっきマロン食ったのでもうロマンはいらないっす」下らないセリフを吐きつつも、怯えた従者は閲兵を中断している騎士の袖口を掴んで離さない。

「臆するなチヨさん。先程も申したであろう――」主は優しくチヨの手に自分の手を重ねて続ける。「おぬしがあると信じる限り、その怪異はヴァーチャルとして十二分に効力を持つ。それは好もしいことでもあるが、現実に存在するのは只光る物に過ぎぬ」

「いやあ理屈じゃありませんて。つかただでさえこの列暗いじゃないですか。あっちの灯りもお寺の電灯もあんま届いてないし」

「慥かに、伝統の基層[訳註:奇想か?]に諮詢しじゅんするのであれば、」暗闇の中で花は小首を傾げて問い掛ける。「――吾等主従は峠よりとんだ禍津日神まがつひをお連れしたのやもしれぬ。ここが遠州であることを鑑みれば、差し詰め老人火ろうじんびの仕業かな」

「け、敬老の日は二三ヶ月先だと思いますけど……」[訳註:念の為整理すると、物語の時間軸としては今は八月四日と五日の境目になる。敬老の日は九月なので、千代は十一月の勤労感謝の日と混同しているのだろう。既に故人であるという彼女のご祖父母もさぞや天国で苦笑いしているに違いない]

「何事にも作法があるのじゃ」横紙破りコントラペーロのドニャ・キホーテが、我が身を棚に上げて家来にその作法を示そうと、千代の足元近くに片膝を付いた。「おぬしの履物は泥砂に塗れておるな」

「ちょ、なんです?」従士は怯んで後退る。

「じっとしておれ」騎士はやおら立ち上がると、携行していた手巾だ手拭いだかを取り出し、ふわり従者の頭に乗っけた。

「ちょっとそんな汗臭い物を……アレ、何で?」主の奇行に対し苦情で応じた千代が、一転恍惚たる声で鳴く。「いいにほい……」

 しかし目を閉じた従士が暫くの間別世界を彷徨っている内に、ドニャ・キホーテは再びしゃがみ込むと何やら突拍子もないことを始めていた。

「あて!……なっ?」脳天に響いた衝撃に思わず目を見開くと、千代は暗がりの中でも花の目線が平時に比べて随分近くになっているのを感じ取った。それはどういうことかといえば、今騎士は裸足で墓地の土の上に立っているからであり、つい寸秒も前に彼女を支えていた太踵の継接靴は他ならぬ従士にとって己の頭上、正確には頭の上の手巾上に乗せられていたからであった。意味不明である。「ど、どどどゆことー?」

「よし」従士の旋毛レモリーノの上で均衡を保つことに成功したドニャ・キホーテは、満足そうに呟くと自分の履物から手を離して頷いた。

「いや……よしでもいくぞうでもないですけど……」

「動くでない。何なら落ちぬようその手で抑えておれ」

「いやその前に普通に重たいんですけど。状況説明を求む」

まじないのようなものじゃ」

「マジ……ないわー」そう云って不平を垂れつつも、主人の言葉に従って一揃いの履物を手で抑える千代。「というか先輩今裸足ですか。汚れますやん」

「険害はないと思うが、化かされぬとも又限らぬ。点睛を欠かさぬ為にも妖かしは退治ておこう」

「え、ここってもう静岡じゃないんですか?」止む無く珍奇な姿勢を取らされながら、山椒の辛さを備えた従者が小言を述べた。「たしか《静かな岡》を出るまでは剣を抜かないのでは?」

「狐火退治とは大袈裟だったか。坊主のとばっちりで袈裟斬りにされては天然自然の眩暈火イグニス・ファトゥウスとて浮かばれまいな」

「まァ《坊主肉食や今朝まで焼き肉》ってか。うらやまですね」胸焼けのする諺だ。

「生臭も其処まで極めれば大悟なのやもしれぬな」花は背中に両手を回してごそごそと弄りながら、従者が発した訳の分からない戯れ言に付き合いつつ続けた。「尤も本院の御坊に挨拶もせず勝手なことを申すのも極めて大語といえようが」

「そうだよ、ここのお坊さんに見つかる前に早く退散しましょう――って、」千代が主の怪しい挙動を認めて訝った。「今度は何してるんです?」

「いや何、天狗の御燈みあかしを退散させるには獣の皮ではたくべしと謂うが――」

「先輩ほんと天狗好きっすね……」

「――生憎それがしにはアポロンのように敵の皮を剥いで勝利を祝う趣味がないからね。革製品といえばこの帷子くらいしか思い付かんので……ううむ」矢張り自分では上手に紐が抜けないようだ。「脱ぐのを手伝ってくれるかな」[訳註:アポロンは半人半獣のサトゥロスであるマルシアスとの奏楽勝負に勝ち、その報賞として相手を皮剥ぎの刑に処した]

「待て待て待て、他所様のお墓の前でストリップなんぞ始めたら、それこそドニャ・キホーテのお墓なんてアイスの棒どころかうまい棒ですよ将来。地面に上手く立てられないし立ったところで粉々です。あれはかつて私、チカさんに室内で食すのを禁じられましたから……それは惨めなものですよ」うまい棒のお墓が惨めなのか、それとも半坐家の躾に敗北した己こそが惨めだったのか、さっぱり分からない。「第一、アビエのコルセットはサテン生地じゃないすかね。いや、エナメルとかはあったか」

「何と、山羊カブラの皮と鯨の骨ではないのかね」[訳註:ここでいうホネウエーソスとはヒゲバルバスのこと]

「かぶらって何だっけ、いやそれ野菜じゃないですか。野菜の皮でガーメントが作れますかい」カブーラというのはノボの和名であるが、日本でも些か古風な呼び方だ。通常はカブと呼ばれる。[訳註:因みに西cabraの抑揚は頭高型、《かぶら》の場合は平板型となる]

知ったり……ええい儘よ、何とかなろう」そう云って裸足の騎士は踵を返した。「ではそれがしは其処な物の怪を如才無く雲散霧消させて参るよって、チヨさんはうっかりヘドバン等をして、呉れ呉れも其の灼然いやちこなるアフロディータが黄金靴をおつむの上から落とさぬように」

「一体こんなとこで何に向かってヘドバンすりゃいいんですか……つか私、先輩にヘドバンなんて単語教えました――っけ?」出立日の道中での講義が、今や随分と昔のことに思える。[訳註:第三章参照]

 しかし鼻先すらも覚束ないノ・プド・ベル・マス・アジャ・デ・ス・ナリス闇の中で遍歴の従士が視線を上げると、今の今まで直ぐ目の前に帆柱立ちしてデ・ピエ・コモ・マスティルいた筈の《蜂の騎士》ドニャ・キホーテの姿は最早、そこにはなかった。


薄闇にひとり佇む若き従士を、境内に潜む夥しい夏の虫の合唱コロが包む。日本に棲息するコオロギグリージョにはマツムシビチョ・デ・ピノという種があり、浜松ビーチ・パインの名を冠するこの地にも数多く棲んでいるに相違ない。部屋の中で、或いは誰かと夜道を歩きながら耳にする分にはさぞや心地好いであろうその歌声も、彼女の今の境遇を思えばまさに漢軍の陣から響く《四面楚歌ラス・カンシオーネス・チュ》の如くで、大層心細いことだったろう。[訳註:訳者も余り詳しくはないが、音源から漏れ聴こえてくる虫の音は恐らくヒグラシとエンマコオロギではないかと思われる。尤もヒグラシがこんな真夜中にも鳴くものなのかは存じませんが。それにしても西洋人の大半にとっては夏場や秋口に聴かれる《虫の鳴き声》など煩わしい単なる騒音にしか感じられぬものと高を括っていたけれども、この物語の書き手はどうしてなかなか風流を解する質のようだ]

 暫く無言で立ち尽くしていた千代さんであったが、十秒もしない内に我に返ったかのような声で「あっ、消えた」と呟いた。昏迷の向こう側で、快刀乱麻ヌード・ゴルディアーノを断つ主が此度も容易に勝利を収めたと見える。

 果たして青白き怪炎フエーゴ・ロクエーロは、ドニャ・キホーテの怪気炎ロクアシダの前に敢え無く敗れ去った。[訳註:羅ignis fatuusのイスパニア語訳はfuego fatuo《お化け火、馬鹿げた火》である。一方でfuego locueloは直訳すると《狂った火》]

「せんぱ~~い……ドニャ・キホーテ~~……」今や従者の目の拠り所は、左右遠くで壁の向こうの往来を照らす淡い街灯と、それよりは力強いとはいえ背後に位置する為直接その恩恵には肖れない仏閣の灯りそれのみである。何が起こったのかは皆目分からないが、用事が済んだのならば一刻も早く騎士のご帰還を願う千代ではあったものの、安眠を妨げられた住職がいつ寺院から出てくるか気が気でなかったこともあり、何とも情けない囁き声で必死に主人を呼ぶのが聞こえてくる。「ないわ~、こんな真っ暗な中でひとり置き去りはないわ~。決着付いたんならはよ戻って来てくださ~い。いい加減サンダル重いんで」

 この時、不意にマツムシたちの楽隊バンダがその演奏を止めた。

「え、何?」

 しんと静まり返った墓所。千代は生唾を飲み込む。

「ちょっと……待ってくださいよ」

 その時、バンプラフ!という大きな破裂音とともに、目の前が真っ暗となった。というのも頭に踵の高い厚底靴を乗せた従者自身のその珍妙な影を、前方方向へと微かに落としていた後方十数米の複数の光源が突然全て消灯したのである。

「わっ! ちょっ、えぇっ?」

 小心者の千代は俄に倉皇を来した。見知らぬ土地の、会ったこともない人物たちの亡骸が無数に埋まったその場所の只中で深夜、何の前触れもなく、文字通り《狼の口の中の闇ネーグロ・コモ・ボカ・デ・ロボ》に落ち込んだのであれば、誰をしても彼女の臆病風を責めることは出来まい。何せまだ十四五の少女なのだ。

「ちょっと、マジか……何も見えないんですけど」月明かりは無いのだろうか。せめて街路灯がこちらを向いていてくれれば助けにもなったろうが、今のままではシャルロッテンを停めた境内の入り口まで引き返すことすら儘ならぬ。足元が見えないのであれば、従士は一歩足りともそこから動くことが出来なかった。「マジですか。ないわ。これはないわマジで……先輩、ハナ先輩!」

 無害な老人火フエーゴ・ビエーホ・イノフェンスィーボを退治したドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャは煙のように消えてしまい、ついさっきまで手の届く距離に居たこと自体がまるで嘘だったかのようだ。気配センサシオンすら残っていない。

「あああくそ、ミコミコんとこに泊まってれば……ああやだ、こわい。ちきしょうちきしょうちきしょうちき――あっ」礼拝堂に跪き熱心に祈りを捧げる信徒のように恨みがましく神を呪っていたラ・サンチャの従士が、ふと何か見落としていたことに気付いた。「あたしバカだ、バカ過ぎる……何のためのだよ」[訳註:恐怖を紛らわす為に発していた己の独り言の「ちきしょう」から、携帯の《えきしょう》を連想したか?]

 両手で抑えていた頭上の履物を何とか片手で鷲掴み保持すると、手探りで手荷物の中を弄り始めた千代さんであったが、二秒と掛からず浅い位置に置かれていた何かを手に取って――取り出そうとしたその刹那。

 ペチャチョフペチャチョフペチャチョフ……

 背後に何か足音が聞こえる。少なくとも、半坐千代の耳にはそれが聞こえていた。

「――え?……先輩?」涙声である。徐々に近付いて来るその足音の代わりに、我々の耳には激しく鼓動する彼女の心音が聴こえてくる。次いで鼻水を啜る音。「やだやだやだやだこわいこわいこわいこわい」

 しかし振り向いて、その足音の主に携帯の光を翳す勇気を彼女は持ち得なかった。ここは死者の眠る野外型の大寝室グラン・ドルミトーリオ・アル・アイレ・リーブレなのだ。

 心臓が口に向かって飛び上がってくるのを何とか押さえ込みながら、千代は恐る恐る不審な音のしない方向、則ち前方に向かって携帯の液晶を翳した――

「ふひやっ!」

 ――顔。

 足元に目を向けた従士の顔から僅か一グラドゥス[訳註:約七十五糎]程のところに、強い照明により白とびケマーダしてのっぺら坊ドゥエンデ・シン・カラとなった小さな顔が突如として出現し、下から彼女をぬぅっと見上げたのである。

 今まさに絞殺されようとしている被害者が声にならぬ声を絞り出す――否、吸い上げているかのような、不気味な悲鳴を上げた千代が余りにも取り乱れて一歩後退ったものだから、丁度泥濘んでいた地面に勢い良く着地したその足がこれまた勢い良く縦方向に空を蹴ったかと思うと、あわやそのまま後方宙返りを繰り出しながら転倒するかとさえ思われた。

 しかし疾風のように一歩進み出たのっぺら坊は、スピノラ将軍も顔負けの紳士的な神業アサーニャ・カバジェローサで軽々と千代さんの両肩と両ひかがみを抱え上げると、恰も王子が姫を初夜の寝屋にお運びするかのような恭しい所作で立ち上がって何故か「お先にどうぞ」と呟いた。そうした気の利いた立ち回りのお陰で、ミコミコーナ姫にも況して急拵えであった千代姫君は、尻餅を泥で味付けする羽目に陥らずに済んだのである。

 再び我に返った従士は、地面に取り落とした携帯の液晶画面が夜空に向けて発した光によって仄かに照らされた王子様の相貌に見入った。

「せんぱ……アレ?」そう云ってお姫様抱っこプリンセーサ・カルガのまま後ろを振り返る。「――誰もいない」

卦体けたいな奇声を上げるでないわ。おぬしの叫喚を耳にしたら、人の子に下腹したばらを突かれて一万の軍勢が轟かせる鬨の声に勝るとも劣らぬ悲鳴を上げたという蛮神アレースとて、吃驚の余り瞬息の間で泣き止んだじゃろうて」

 ここまで大騒ぎしたら、寺の住人のみならず近隣の住家の窓のひとつふたつには灯りが点ったかも知れない。

「いや違くて……今あっちの方でぺたぺたって足音がしたもんだから」

「鬼火もぺとぺとさんも、既に他所にお引越し願ったよって安心せい」べとべとさんとは夜道で背後に感じる気配を具象化した妖精のようなもので、《見えない足音》を意味する所謂妖怪であるが、人に害を及ぼすことはないらしい。語感としては《アシオトさんセニョール・パソ・パソ》が近いだろうか。[訳註:花は直前に千代が述べた擬音語に則して「ぺとぺとさん」若しくは「ぺたぺたさん」と発音している。ここで俎上に載せられた日本の妖怪に関して、不思議な点がもうひとつある。著者の言う通り、千代が聞いた背後の足音を集音器は拾っていない。結局誰も居なかったのであるから、それだけであれば暗闇の中で緊張した故に彼女の耳に聞こえてきた幻聴と捉えればよい。但し、従者を転倒から救った花が、千代が足音について言及する前に「お先にどうぞ」と云ってべとべとさんを先に通している点に留意すると、従士だけでなく騎士もその足音を聞いていた可能性があるのだ。それが本物の妖怪だったのか、只の集団幻聴だったのか、或いは彼女らの他にも誰か不審者が入り込んでいたのかを判断する為の情報をこの音源から得ることは、残念ながら出来なかった]

「ぺとぺとって……頭に余計なもん乗っけてなきゃペトバン食らわせて迎え撃ってやりましたのに」先程まで震えていた従士が、水を得た魚のようにコモ・ウン・ペス・エン・エル・アーグア元気になるや随分と不遜なことを云った。

「これ、化生の者の凡てが黒犬パッドドッグや、それこそ猫足プッシーフットの千代さんみたいに音もなく忍び寄られると思うたら大間違いじゃ」従者の心無い一言を聴いて騎士が苦言を呈する。彼女を抱えたままの姿で。「跫音を立てるなと申すなら、魔女から授かったその花を四肢に巻き付けたことで断然鶏群を狩り易くなったという狐に倣って、ジキタリスを見付けて差し上げねばならなかろうて。尤もチヨさんと違うて、ぺとぺとさんは鶏の肉など口にせんだろうがね」

「真っ暗闇の中に人のこと置き去りにしといて今度はチキン呼ばわりとは!」思わず声を荒げた千代だったが、騎士にしっと注意されると急に声を潜めた。それでも尚、囁き声で虚勢を張り続ける。先輩の腕の中で。大したじゃれ合いである。「《孫にも衣装、ひ孫には化粧》ってくらいですからね、名古屋で私のハンザ家直伝ドレスメイクを目にしたら、化粧マニアだろうかホットドッグだろうがひれ伏せさせてみせまさあ」[訳註:V系の生演奏会場では、バンギャは正装することによって異形の者へと変化するのが常なのである]

「やれやれ此処な猫娘が金輪際わんころの爪牙そうがに怯えることはあるまいて!」ドニャ・キホーテは脱力した。「しかしその勝ち猫の遠吠えも、それがしが施したまじないあってこその拾い物だと肝に銘じておけよ」

「あっ、マジない!」千代は知らぬ間に頭の上の履物一足を取り落としていたことに、ここで漸く気が付いた。手巾については分からない。「すいません、サンダル落としちゃいました。つか携帯……下ろしてもらっていいすか。かたじけないす」

「ふむ、存外軽いね」

「そういうのいいすから……軽いのは口と脳みそで充分です。いや普通にありがとうございました。完全コケてました――っとちょっ、アレ?」いざ大地に着陸してみると足の高さが合わない。「やべ、ラバソ片方どっか行った」

「どっかとは?」

「や、さっき滑った時に片方スッポ抜けたっぽいです。やべえこんな暗いと見つからないかも――っとちょっと、え?」足元の発光源を拾い上げた千代がまた何かに気付いた。「ハニャ先輩、ニーソ片方消えてるんですけど」

「何と?」

「いや生足なんですけど。この状況だと脚線美怖いんですけど……やっぱり先輩もスッポ抜けたんですか?」千代は親愛の情を示す為に、剥き出しの主の脹脛をピシャリと叩いてから、「なわけあるかい」とおどけた。慥かにどれだけ足を振り回そうが、膝上まで足を覆っている靴下が靴と同じように飛んで行くことはあるまい。

滑らかリーソなニーソであればスッポ抜けることも或いは――」クニーソとは膝靴下ニーソックス、つまり3/4靴下メーディアス・トレス・クアルトスの略称である。[訳註:日本語では膝超えオーバーニー腿丈高靴下サイハイソックスも含めてニーソックスと呼ばれるが、西medias tres cuartosは脛の四分の三まで覆う靴下という意味なので、これでは結局overkneeなのかunderkneeなのか不明である。因みに英knee socksを直訳したmedias/calcetines hasta la rodillaなどの表現であればどちらにも通用する]

「リーソ―というか、これ剃ってないですよね……さっきワキとかもすべすべっつかつるつるだったけど、これ抜いてるんですか?――いや、泣く子も号泣させるドニャ・キホーテがそんな女々しい真似するとは思えんし……元からか。くそう」花のイスパニア語がどういう訳か千代にも通じている。人類史における様々な異国感交流の場でも、これまで往々としてこのような偶然の以心伝心が起こってきたのであろう。「つかまだ夕方まで履いてたヤツも洗濯できてないんですよ。今度は即行足裏汚しちゃうし、ってそれどころか片っぽ無くしてるし。もう替えありませんから、暫く先輩片足だけ生足ですからね」

「とはいえ脛当グレバスが片方のみでは様にならんな。脚下の防御も不首尾となろう」

「いや別にそれも脱いじゃえばおかしかないですけど……いやダメだ」従士は大切なことを思い出した。「それ私の小遣いで買ったヤツだし。探しましょう!」

「絹の靴下奪回作戦であるな」

「まァ靴も探さなきゃですけど。あ、そこ水溜まってるから気を付け――ってあて!」片足だけ厚底では歩き難い。千代は残った護謨底運動靴スエーラス・デ・カウチョを脱ぎ去ると、不幸中の幸いか水溜りを外れて落ちていた太踵靴タコーネス・グルエーソスを立て直してそれを代わりに履いた。こちらもそもそもは従士の持ち物だったからである。


主従はせいぜい十米程の短い道のりを、発光する携帯の液晶画面だけを頼りにじりじりと行軍した。

「……この、両脇からピシッて整列して迫ってくるこの感じはアレだ――《か~ってうれしい――》」

「花ならばもう売るほどあると先刻も申した記憶があるのだがね」

「《――ハナ一位だもんね!》ってな!」これは彼我に別れ対面する形で(直線舞ダンサ・エン・リーネアよろしく)横一列に並んだ子供たちが左右の仲間と手を繋ぎ歌を歌いながら互いの構成員を奪い合う遊戯であり、北米の伝統的な遊戯たる《赤き彷徨い人レッド・ローヴァー》との類似点が多く見受けられるが、米国白人グリンゴランディアのそれが米足球に於ける突進カレーラ体当たりタクレーオの攻防さながらの暴力的な手段に訴えるのとは対照的に、日本の児童は平和的なジャンケンPPTの勝敗により相手の選手を引き抜く権利を獲得する。「まァかつての栄光[訳註:往時の花の成績に関しては第二章に詳しい]はともかく、授業も期末もフル欠席じゃ名前の書き忘れにも勝る不戦敗中の不戦敗だし、今や首席どころか末席……」静寂が増殖させる恐怖心を掻き消したいのか、従者の口数はいつになく量産体制の様相を呈していた。「尻尾の席ならやはり穴席けっせき?……だいたい《モンメ》って何だ? モンペの親戚か……スエットというか、アレはジョガーパンツみてえなヤツでしたっけ?」

我が父モン・ペでも我が母マ・メでもないとなれば、それこそ男装した母御かの」[訳註:仏語の所有形容詞は続く名詞の男女によりmon père/ma mèreのように形が変化する為。尚、《男装した母御》は――喜怒哀楽や驚きを表す際に用いる西語の慣用表現たる《我が母マードレ・ミーア≒聖母!》に因んだものだろう――、ここでは《男としての母親マードレ・ミーオ》と意訳されている]

「いやま女装したパパが学校乗り込んでくるよか多少はマシだけども!」

「尤も斯様なめくら探しに頼るようじゃ、」騎士は暗天を仰ぐ。「ハナの一匁というよりも差し詰め《カツシンで売れ、按摩イチ揉め!》あたりが座頭――いや妥当であろうが」

「こちらも先ほどマッサージュは自前で我慢するからせめて屋根と壁と柔らかいおベッドだけは手配してくださいよとそう申し上げた気がしますけどね!」

「肩揉みのしたい時分に親はなしだ」生きている内に孝行が叶わず未練が残ることもあろう。然りながら今になって幾ら手持ち無沙汰だからとて、墓石を揉み解すほどの握力を持ち合わせた人間などそうはお目に掛かれまい。「《たはむれに母を背負いて》とは云い条、いしぶみとなってからではそのあまりの重きにたった三歩歩むことも儘なるまいて」

「敬老の火はドニャ・キホーテ様がやっつけたとして、さっきいきなりお寺の方の明かりが消えてビビったんですけどアレ何だったんですか……停電?」従士は携帯を左右に振って周囲を確認する。「――っつって周りの道とかは電気ついてるっぽいですけど。人んちは最初っから消えてたし……あ、壁」

「上を照らしてみよチヨさん」

「はい……ん? なんか――」壁際に刺し立てられた旗竿アスタ・デ・バンデーラのような鉄棒の上に何かが垂れ下がっている。「ちょ、何であんなところに」

「さて三畜評樹さんちくひょうじゅの教えを実践する為にも、」騎士は提案する。「――猫舌持てし鳥肌を自称するおぬしがそれがしの怒り肩に跨がり、宇内うだいを見渡しつつ広き卓見を求め自ら戦利品をその手に収めてはどうかと思うのじゃが」[訳註:《三畜評樹》とは仏法説話のひとつで、鳥・猿・象の内で一番弱く小さい鳥こそが大樹の一番上に止まり、世の中をよく見ているというもの]

「誰がチキンですかって。戦利品つかそもそもアレ私んですし」

「おすしかね?」

「いや私の心はもううなぎに向いています」従者は片手を翳して主を押し留め、己の強靭な意志を示した。「第一、ニワトリはブーメランの音楽隊でもトップだったでしょうけど、猫はその下だったでしょう。私に肩車されるのが不本意でしたら、ご自慢の脚力でドニャキジャンプを見せればあのくらいの高さ余裕で手が届くんじゃないですかね」

「あれが頑丈な脛当ならばそれも考えるがね」物怖じしないドニャ・キホーテも、跳躍からの鷲掴みで絹の靴下を裂いてしまわない自信は持ち合わせていなかったようだ。「よかろう。面倒を掛けるがチヨさんや、暫しその肩を貸してくれまいかな」

「お安い御用で……あちょっと待ってくださいヒール脱ぎますから」従士はその場に膝を付くと、真綿のような重量の主人をその双肩に担いで立ち上がり、その上でしみじみとこう云った。「軽い」

 ここ数日で勤勉となった千代が質量と重さマサ・イ・ペソに思いを馳せたその刹那、前触れもなく目の前の石壁が真っ青に輝いた。

「まぶしっ!」従士は思わず両の目蓋を強く閉じる。

「そら、おぬしのニーソが幽霊狩猟カセリーア・サルバヘに於けるその役目を果たすことなく、ジョン・ロックの靴下のような別物に成り果てぬ内にさあ、受け取りなさい」

「あ、どうも……いやバランス崩れるんで、一回下ろします」千代は再び膝を折ると、主人を大地に下ろす。「あ、どうも……いやウェットティッシュあるんで、足の裏拭いてもっかい履いてください」

「忝ない」花は千代が荷物の中を漁るのを暫し待った。

「どうぞ」濡れ手拭きトアジータ・ウーメダを一枚手渡した従者は改めて青い炎を見上げると、感心したように唸って云った。「なーる、こういうカラクリか」

「《幽霊の正体見たり》かね?」足裏に付いた泥を落としながら花が笑う。《恐怖が狼を実物より大きく変えるミエード・アセ・アル・ロボ・マス・グランデ・ケ・エル》とは独逸の諺だっただろうか、こちらはそもそも存在すらしない化け物をも目に映してしまう人の臆病を突いた日本の金言である。因みに幽霊の正体イデンティダ・デ・ウン・ファンタスマは一般に背の高い枯れた草セスペ・アルト・イ・ムスティオだと謂う。

「いやまァ、ハナ先輩は全然枯れちゃいませんが――」千代は呆れて溜息を漏らした。「このままじゃいつ私の精神力が枯れ果てるか心配ですね」

 つまりはこういうことである。ドニャ・キホーテ主従が目撃した怪火は、寺院を囲む石壁上部に備え付けられた防犯用の感応式電灯だったのだ。現在ふたりが通って来た列には夜間充分に光が当たらない為、ある位置まで何かが近付くとそれを察知した装置が自動的に照明を点灯させるという仕組みなのであろう。騎士は己の長靴下を片方脱ぎ去るや、思い切り高く跳ね上がった弾みでそれを照明に巻き付けたのに違いない。[訳註:靴下を直接発光部に巻き付けたとなると、照明が透けてしまうだろうから真っ暗にはなるまい。思うに花は、感知器に該当する部分を覆い隠したのではあるまいか。しかし何よりも注目に値するのは、この《老人火の冒険》に於いて、これが摩訶不思議なる怪異ではなく単なる物理現象に過ぎないことを、狂人阿僧祇花が余りにも素直に認めてしまったことであろう]

「化けの皮が剥がれれば――」

「枯れお化けの皮?」

「枯れお化けの皮が剥がれれば、バーチャルの効力は失われてしまう。だがその瞬間までに限れば、確かにこの灯火は化物であったという訳じゃな」

「何だかスライディンガーの話に通じるような気もしますね」千代は銭湯に入る入らないの問答を思い出した。「狐につままれたというか……猫だましな気もしますが」

「チヨさんが飛ばした気高きラバン・ガマリエルの履物捜索も、これで格段に容易くなろうて」慥かに一帯は明るくなっただろう。尤も防犯照明が灯っているということは、境内に不審者が侵入しているという合図にもなっている訳だが。「見付かるまではその黄金靴を足に嵌めておるがよい」

「んじゃお言葉に甘えて……」千代は元々自分の所有であるごつい踵の履物――出発の日、剣道着に身を包んで彼女の前に現れたラ・サンチャの騎士がよもや足先だけは十指の露出したが如き婦人靴を履いていたなどということは全く以て考え難いからであるが――を拝借すると、またグンと背丈を水増しして主と並んだ。「流石にこうなると身長おんなじくらいですね」

「おぬしが世界を鳥瞰する目が視点の高さによって斯くも容易に齎されるものであれば、女神が好色な牧神パンを打擲した後の使い途としてサンダリア御自身も本望じゃろうよ」花は控え目に一笑する。「それにしてもだ、先刻までは王子様を待つ白雪姫の筈だったというに、選りに選って灰被り姫セニシエンタが残した硝子の靴を捜し回る王子御自身の役廻りが巡って来ようとは」

「丁度夜の十二時くらいでしょうしね……って死体マニアも勘弁ですけど、靴フェチ王子も御免ですよ私は」千代は苦笑した。「う~ん、ラバソも方向的にはこっちに飛んだはずですけど……そいやひとつ疑問なんですが」

「申してみい」

「私さっき、このライトが消えるまでずっとじっと見てたと思うんですけど。先輩が靴下巻いて消したんであれば、消える直前ジャンプする先輩の身体が照らされて見えたはずですよね」

「そうなる……かな?」

「なるでしょうよ下から垂直跳びすれば」道理である。「ライトの中に入らないで、どうやってニーソ巻き付けたんですか?」

「どうした……かな」

「まさか、まさかとは思いますけど……」千代が恐る恐る口を開く。「そこのお墓を踏み台にして三角飛びしたとか」斜円錐コノ・オブリークオ状の配光範囲を避け、その背面に回り込むような形で跳躍したということだろう。差し詰め守備を巧みに交わしながら釘打ち得点クラバーダ[訳註:下から投げ入れる代わりに高く跳び上がり、そのまま鉄輪の上から直接球を叩き込む、いわゆる英dunk shot/slam dunk《浸点》のことで、より簡明直截に《殺点マテ》とも呼ばれる]を決める籠球選手といったところ。

「おやおや」

「――そんなバチ当たりなことはさすがにないか」

「チヨさんが瞬く間に仕事を終えたとは考えられんかのう」

「そういうことにしときましょう」従士はもう一度周囲の地面に携帯を翳し、まるで金属探知機を使っているかのような仕草で護謨底靴の片方を探した。「つかそのライト真下しか照らしてないし、あんま防犯の意味ないんじゃ」

「そのつぶらな瞳が猫目石であるなら、闇夜の狩りにもさぞや重宝したであろうにな」

「残念、先輩に乗せられてチキン野郎になったばかりですから、今は鳥目なんですの」

「鳥目でも節穴でない限り、隈なく探せば失せ物は見付かるものじゃ」手持ち無沙汰の花は、一列に林立する墓石の裏手に廻った。「尤も光る眼という以前に、目を光らせている者があらんとせばそれは墓守の類であろうがな」

「怒られる前に出てかなきゃ」千代は一層腰を屈めると、地面の上を舐めるように照らし見る。「地雷除去とか、落ちたコンタクト探すのとかに比べりゃ朝飯前だと思いますしね」

「僧侶の朝飯前というと境内の掃除に坐禅や朝課と盛り沢山じゃし、今から数えれば優に四半日は余裕があるぞ。禅寺であれば五観のなんてのも唱えるから更に遅くなるだろうが――」ドニャ・キホーテの絹の靴下の爪先が何かを蹴り上げた。「どうやら小坊主さんが暁鐘を鳴らす迄には方が付きそうじゃな」

 咄嗟に千代が照明を向けると、その光の円の中には護謨底の片割れを摘み上げた主人の姿があった。

「さすがはドニャ・キホーテ様……頼りになりすぎる。今度トリュフが食べたくなったら、迷いなくハナ先輩の鼻を頼りにすることにしますよ」千代は自分と主人の間を分かっている外柵バジャに囲われた、一基の墓標ラーピダの前でぞんざいに一礼すると、何処ぞの御霊エスピリトゥが祀られた中央の墓石を迂回する形でドニャ・キホーテから拾得物を受け取ろうとした。

「それがしの豚鼻はトリュフよりも、輝かしき勝利トリウンフォを嗅ぎ付ける為にこそ役立ててもらいたいものよ」

「いくら私だって朝っぱらからフレンチとか重いもん食べたかないですよ」己に対する無礼に対しても機知エスプリで応じる寛容な騎士ではあったが、そんなものを微塵も気に掛けるような遍歴の従士ではなかった。その場で太踵を脱ぎ捨てると、片手に持っていた靴と受け取った靴を拝石ロサに置いて今まさに履き替えるところだ。「いずれにしたって朝飯を気持ちよくいただくためにも、とっとと寝るとこを探しましょう」

「おぬしが今気に留めるべきは朝飯よりも、――」花は墓の裏側に佇んだまま、やおら横目に墓石を顧みた。「恨めしやの方やもしれんがね」

「え、何ですか?」中腰になって護謨底の中に踵を押し込んでいた従士は反射的に携帯で騎士の顔を仰ぎ照らすと、その視線に釣られて光の向きを水平に移動させた。「ぎゃおす」

 涼やかな美相に次いで照らし出されたのは、余所のご先祖様代々ムーチョス・アンテパサードスがお眠り遊ばす下つ国のその直上に飾られた墓石が、千代さんの曾祖母直伝の泥化粧バロ・マキジャーヘを施された見るも無残な姿だったのである。[訳註:換言すると、千代の蹴上げた泥付き靴は他人の墓を掠め、汚れをお裾分けしてから落下したということだろう。これは見事なバチ当たり]


山椒魚の従士エスクデーラ・デ・ラス・サラマンドラス》は持ち前の辛辣さを失ってスィン・ス・ピミエンタ・インナータ、他人の祖霊を前に必死に手を合わせていた。

「シンドウさんごめんなさいシンドウさんごめんなさいシンドウさんごめんなさい」[訳註:シンドウさんは仮名]

「吾等主従を煙に巻く天狗の御坊が御手前にその猫舌を巻いたばかりのチヨさんが、お次に巻くのは旗か尻尾か――とぐろを巻いて御手並拝見と参ろうかいな」墓石の向こうで主が意地悪く北叟笑む。

「《立つ鳥跡を汚さず》と謂うでしょう」千代は合掌した両手に潰された唇の端から、柄にも合わず殊勝なセリフを吐いた。「――いや、《足跡を残さず》だったっけ……まさに今の状態だが」

「チキンと呼ぶにはどうしてなかなかキチンとした心掛けではないか」からかい半分ながらも、ドニャ・キホーテは家来の成長振りを見て嬉しんでいるようだ。

「決しておじい様おばあ様を足蹴にするつもりはなかったんです。ほら、ラバー・ソウルってくらいだから、」従士はひそひそ声で心の籠った謝罪を続ける。「――情熱とか誠意とか、私のそういうのが伝わっておればよいのですが」

「虚礼を虚礼と認めてしまうところがチヨさんの正直さでもある」[訳註:千代は恐らく英rubber soleとlover soulを掛けているのだが、元の発音通りのrubber soulとなるとこれはplastic soulにも況してヤワな《紛い物のソウル》ということになってしまう]

「《裏・救世主メシア》とかって、闇堕ちぽくて何気に中二好きするワードよね……」束の間の現実逃避で心の均衡を取り戻す少女。「このウラ――ウェットティッシュできれいきれいしますので……アルコール消毒もされてご先祖様もさぞやすっきりなさることと――」

「真面目に御身拭いするのであれば、御本堂の垂木の下に柄杓と手桶があったな……」この寺院に足を踏み入れてからこれまでの間に、暗がりの中でそれに気付いていたとは大した観察眼である。日本にも《鵜の目鷹の目オーホス・デ・コルモラーン・イ・デ・アルコーン》という表現があるが、その通りの鋭さであろう。[訳註:日本語の《鵜の目鷹の目》は大抵悪い意味で使われる]「水掛けして差し上げた方が先様も定めし心地好かろうて。今のおぬしは夜目が利かぬようだから――よい、それがしが拝借してこよう」

「か、かたじけない」千代が主人の口振りに倣って礼を云った。照明を持った従者よりも夜道に強いとは不思議なものである。今からでも《獅子の騎士》を名乗ってよいのではないだろうか?[訳註:百獣の王は夜行性である]

 水場から水道水と海綿エスポンハ[訳註:墓石を擦る音からするにタワシエストロパーヘだった可能性もある]を勝手に借り受けた主従は、それから二十分ばかり費やして進藤家代々之墓を洗浄・清掃した。

 中でもドニャ・キホーテは「聖別されたパンオスティア・コンサグラーダ! ストゥーパにもオクロイが跳ねておるではないか」と嘆くと、墓石の片隅に立つ仏舎利塔エストゥーパを濡らしたハンカチで丹念に磨いたものだから、早朝掃除に起きてきた小坊主のひとりが、その一画だけが陽光を浴びて光り輝いているのを目にしていたら、ヘスースブダオーグロ死者たちフィナードスのいずれかが真夜中に実際その場へと降臨して掃除をしていったものと信じて疑わなかっただろう。[訳註:花が磨いたのは仏塔ではなく、墓石の裏に立てる木製の卒塔婆だと思われる。尚、《オクロイ》というのは泥で出来た白粉おしろい、つまりは黒粉おくろいという意味なのだろう]

 だがそうはならなかった。

「さて、それがしが仏法を目指しておったとしても、住持ではなく雲水行脚となっていただろうて。というのも此の怪傑ドニャ・キホーテの躯籠むくろごめを流る血潮も、ヘラクレイトスの川筋同様決して同じ処に留まることを知らぬからじゃが――」ひと仕事終えた騎士は、従者にそれとなく出発を促した。

「ヘラクレスだってクレクレタコラだって、死んでダビに付されたら――」千代が珍しく難しい日本語を使って呟く。「同じところに留まらざるを得ないでしょうけど」

「そうとも限らぬ。事実エラクレスは、テッサリアはオイテの山上にて火葬されると魂は天上へ、その灰は蒼空を泳いで逝ったと謂うしな」花は真面目に反論した。「――尤もクレクレタコラの最期については寡聞にして存ぜぬが」

「私も存じませんが……見知らぬ釣りのおじさんにうまそうに食べられたんじゃないでしょうか[訳註:それでは『およげ!たこやきくん』である]。まァ生態系の一部として循環できれば、こんな土の中にじっと引きこもってるよりは有意義な気もしますけど」

「しかしおぬしの好きなリア充も以下の様な科白を吐いて戦慄わなないておるぞ。文字通り活字の飾りセリフを震わせてな」詩人ドニャ・キホーテは外柵の上をトコトコと歩いて進藤家の墓石の前に躍り出ると、用を終えて手桶の中に放られていた柄杓を手に取るや、それを王笏のように夜天へと翳しながら、千代には見えぬ乞食を相手取って控え目な独り芝居を始めた。


...Why, thou wert better in thy grave than to answer with thy uncover'd body this extremity of the skies. Is man no more than this? Consider her well. Thou ow'st the worm no silk, the beast no hide, the sheep no wool, the cat no perfume. Ha! here's two on's are sophisticated! Thou art the thing itself: unaccommodated man is no more but such a poor, bare, forked animal as thou art. Off, off, you lendings! come, unbutton here.

 ――何ともはや、汝とて墓中におったがましだろう、生身の儘で天の苛虐に耐え忍ぶのに比ぶれば。人とは此れだけのものか? この娘を見よ。汝は蚕に絹を、獣に皮を、羊に毛を、猫に麝香をも借りぬというに。ハッ! 此処な吾等ふたりの何とも飾り立てたることか! 汝は有りの儘であるというに。人も着飾らねば汝の如き貧しく、裸足で、二股の動物に過ぎぬ。剥げ剥げ、借り物は剥いで仕舞え! そら、此のぼたんを外して呉れ。[邦訳訳者:尚、現物の戯曲『リア王』の中で放浪する狂王は男ばかりの三人所帯で、出会った乞食もどきのエドガーも男である。人数の違いから花の暗誦は多少原本と異なっているが、人類一般を示すmanがそのままであるのに対し、汝則ち乞食に相当する部分がherとなっていることからも、《華々しく着飾らない女性》というドニャ・キホーテの理想像が窺える。尚、《天の苛虐》とは吹き荒れる嵐のこと]


「ご主人様のお申し付けであっても、」千代は一段低い平土間アレーナから役者の演技を鑑賞していたが、いざ騎士が自分に背中を付き出して掻き毟るような仕草とともに何かを要求すると――勿論、花の発した古臭い英語で聴き取れたのは最初のwhyくらいであったのにもかかわらず――我に返って冷静に返答した。「他所様の墓前でその《アビエタージュのだんびら》を脱がすお手伝いはできかねますね」

 主は《アベンセラーヘの帷子》を脱ぐ代わりに、柄杓クチャロンにも似た段平サーブレを手桶に戻すことで何とか溜飲を下げた。

「それに《ボタンヒヤー》と云われたところで、これにはボタンのひとつも付いてやしませんし――」入れ違いに柄杓を手にした従士は、掃除の仕上げとしてもう一度墓石に水を掛けると、反省の念を込めつつもまた両手を合わせながら云う。「先輩はボタンじゃなくてボカンなんですから。まァ座ればの話ですけど」

「その様子だと、もう英語イングレスの心配は要らぬようじゃな」花は負け惜しみを云いながら、少ない階段を降りると千代と同じ通路の地面に立った。「――さてと、これで先様の菩提も明るくなった。然すれば千鳥も、気兼ねなく飛び立つことが出来るというもの」

「気兼ねというかホラ、神様だと知らないけど」従士は他人の墓参りを切り上げつつもその場で弁解を続けた。「仏様ってのは二度までは失敗を許してくれるもんじゃないですか。そもそもこっちには悪意もないし単なる事故ですから、悟りを開いてる人格者ならいいからそんなんほっとけと言って笑ってスルーしてくれると思いますの」

「成る程、仏者は瞋恚しんにを三毒の一として戒めておるからな。寂滅した仏御自身が煩悩に囚われておることなどはよもや考え難い」騎士も一旦は得心したが、同時に新たな疑問が湧いて出る。「とすると、おぬしは祟りを恐れて泥を濯いだ訳ではないということじゃ」

「まァ祟りは怖いですが……お参りに来た子孫というか、ご家族の方が単なる事故じゃなくてイタズラだと考えたら怒るだろうし、」進藤家のご家族も、よもや深夜に侵入した東京の女子中学生が泥濘みに足を滑らせて泥に汚れた靴を飛ばしたものが運悪く墓石に衝突したなどとは想像付くまい。「――イタズラにしちゃあ中途半端だから、信心深い人だったらこれが何かの不吉なお告げだとか妄想しないとも限りません。実際には純真無垢なドジっ娘の所業でも見る人が、成仏できないおじいちゃんが何かを伝えようとしてる……と信じたらそれがホラ、アレ、バーチャルとして成り立つわけで。そんなことになっちゃ私なんかにゃ責任持てませんしね。枯れ尾花だって、正体見えなきゃ幽霊のままでしょ」

「おぬしが纏うた麝香猫ガト・シベタの郁郁たる薫りからは、鷲や梟、少なくとも海猫に勝る程度の知性が芳しく匂ってくるようになったものじゃ。地下の住人に恨み言を垂れる主の料簡の狭さが露呈してしまったわい」

「そりゃ地べたを這ってるんだからせいぜいニワトリくらいの知性でしょうがね」鳥というのは愚智の双方を象徴する生き物なのだからどうにもややこしい。「うちらだってライトだと分かるまでは、もしかしたら人魂かもって思ってたわけですし。そういう意味じゃ反対側のお寺の方の明かりがいきなり消えたのだって、現状じゃ何か妖怪の仕業だと言われりゃそれはそれで真実味を感じちゃうってもんですよ」

「その時刻を覚えておるかね」

「えっ、どうだろ……ここ入ったのが日付変わるくらいだったから」千代はそれから既に三十分ほど経過したであろうことを携帯の画面で確認する。「――やっぱ午前零時くらいじゃないですか?」

「左様然らば時限式――というオチじゃあるまいかな」軒灯は自動的に定刻で消灯する設定が為されていたということか。

「爆発するのはドニャ・キホーテだけで充分ですよ!」ドニャ・キホーテは時限爆弾ボンバ・デ・ティエンポではない。座って起爆するのなら恐らく圧力式ラ・デ・プレスィオンだろう。「このご時世だから節電は大事でしょうけどね……不用心だわ」

「説教泥棒とはこのことかいね」騎士が自分の乱行を棚に上げて笑った。千代の制止を聞かずに境内に踏み入った御本人の口振りである。「釈迦に説法孔子に悟道も結構だがね、居残り佐平次宜しく此の儘居座り泥棒を決め込むとなると、朝になれば坊主にお経と説教のふたつを請う羽目になりかねんぞい」

「睡眠学習には悪くないでしょうけど。説教の方は回避したいですね――馬鹿にロバ」

「それがしも烏骨鶏の鳴き真似は不得手じゃが、それでも鸚鵡の聖歌隊コーロ・デ・ローロであれば門前の小僧程度には心得ておる」千佳さんの名を騙っての宿泊予約の案がまだ生きていたようだ。

「その滑稽な方を是非聴いてみたいですが」

「一番鶏が聴きたいならば、このドニャ・キホーテが下手な鳥真似を披露せずとも朝を待てば足りることじゃ」

「しかしそうなれば坊主の説教もセットのお値段でしょう」

「然もありなん」騎士は手桶の柄を握ると、従者の前に付き出した。「となればおぬしの予てよりの望み通り、宗廟そうびょうに別れを告げ、布団と行水を求めて出立するが賢明じゃて」

 主従の立ち位置が入れ替わってしまった。花も疲れていたのだ。

「風呂と布団とフルコースです」《一杯の夜食ウナ・コパ・テンテンピエ・デ・メディアノーチェ》がここ数時間で随分と出世したものだ。[訳註:残念ながら日本語の《一杯》には《ギリギリまでアル・リーミテ》の意味があるのだ]「でもこうやって眺めると、進藤家だけピカピカに磨かれてこれはこれで不自然なような」

「不自然ならどうする」

「最低でも……向こう三軒両隣はキレイになってないと悪目立ちしそう」これは自宅を三方で取り囲む五軒の家とは仲好くせねばならないという教えに基づく。日本では隣家との間隔も狭ければ、こちらと向かいの区画マンサーナを隔てる道路も狭いので、こうした配慮は欠かせないのだ。

「多情仏心も此に極まれり!」ドニャ・キホーテは愉快そうに云った。「小胆とばかり侮っていたが、吾がガンダリンは大した豪胆従士ではないか。チキンなどとはとんでもない、《獅子》を名乗るのはおぬしの方じゃて」

「結構結構コケコッコーです。主を差し置いてそんな源氏名名乗れませんや」そう云うと、千代は今度は騎士の方を向いて手を合わせた。「じゃあそのままそれ持って水汲み直して来ていただけます?」

「やれやれ、闇夜に聴く東天紅とうてんこうの何とも晴れやかなこと。しかし此れも《烏骨鶏の一念》やも知れぬ。《女三界に家なし》と謂うが、老いて従臣に従うのも又世の習いだろう――のう、王リアレアル・レアル?」[訳註:西el Real Learの語頭のrは巻き舌]


以上のような経緯で、ふたりの幽霊ファンタースマスにより人知れず行われた慈善清掃活動リンピエーサ・ボルンターリアは、主を巻き込んだ千代さんの根気が――その携帯の充電池と同じ頃合いを見計らって――すっかり切れてしまうまでの一二時間、暗中粛々と遂行されることになった。

 そしていつのまにやら再開していた夏虫の斉唱が応援歌から子守唄にデスデ・ラ・デ・インチャーダス・ア・ラ・デ・クーナス変わる頃には、石壁に肩を並べ背中を預けたラ・サンチャの主従も、仲好く夢境の住人となっていたのである。

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