第9章 自ずから望んで還るべき場所へと連れられ行く果報者たちによって齎された蜂の騎士の従士が軽挙、並びにいみじくも果たされしシベ―レスとガルムの冒険のこと

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第九章

自ずから望んで還るべき場所へと連れられ行く果報者たちによって齎された

蜂の騎士の従士が軽挙、並びにいみじくも果たされしシベ―レスとガルムの冒険のこと

Capítulo IX.

De la liviandad que dieron a la escudera de la caballera de las abejas los muchos dichosos que, de buen grado,

los llevaban donde debieran volver, con la felicemente acabada aventura de Cibeles y Garm.


トゥールマレーの難所を越え、ビスカヤ湾に泥足を濯いだドニャ・キホーテ一行は仲好く轡を並べながら、一勝負ウン・ドゥエーロ一悶着ウン・ドロールに費やされた狂へる月の日ディーア・ルナーティコの午後を、モーロ殺し眠る西果ての聖地目掛けて一路粛々と駆け抜けていた。街道筋に立ち並ぶ民家の狭間を縫って進む彼女たちの前額を、日輪神ディオース・アトーンがその身より差し向けた無数の赤手が遠慮なく照り付ける。成る程、千代の云う《陸に上がったマグロアトゥーン・フエーラ・デル・アーグア》は今の主従にこそ相応しい表現だろう。[訳註:住宅地を通過しているのであれば、恐らく東海道ではなくより海岸線に近い県道を走行しているのではないかと思われる。因みに上半身は兎も角脚だけは忙しなく動いている筈のふたりを喩えるのに、マグロという単語が適当とは言えまい]

「ハニャ先輩」

 頬を伝う汗が唇から口内に侵入するすんでのところ、これまた汗ばんだ手首で拭い取った千代が徐ろにその口を開いた。「さっきからうちら超犬に吠えられてるんですが」

「¿Si bien no le ladró al ladrón?」[訳註:「盗人ラドローンには吠えなんだのにかね?」]

「ら――どろ?」

吠えられるラドラン、チヨさん、是即ち吾等が前進の印セニャル・ケ・カバルガーモス」常に先んじて血路を開いてきた我らが豪爽なる騎士は、今日この時も従者より四半竿尺クアルト・デ・ロッド[訳註:英1 rod ≈5metres]ほど前を走りながら涼やかな声音で答えた。「それに吠える犬は噛みつかぬと謂うではないか」

「いや飼い犬は敷地から出られないんだから、噛みつこうにも表に出てこれませんよ。うちだってちゃんと繋いでますし」ペロは毎朝ちゃんと散歩に連れて行ってもらえているだろうか。「それにここ一時間くらい、めっちゃハエがたかってくるんですけど」[訳註:集音器が拾っている羽音から察するに、少女たちに付き纏っているのは夏の風物詩たるモスコであってモスカではあるまい。いくらなんでもハエに集られている女子中学生は嫌です]

「それを云うなら《映えある》若しくは《誉れ高い》じゃろて」

「動きは早えけどマレに低空飛行してくる方のハエですが!」

「ほほう」花はわざとらしく唸るとこう続けた。「巨神との大立ち回りの末に閻羅王の加護を得たかと思えば、取り持ち学士殿の舌の根も乾かぬ内に今度は地獄の番犬セルベロ蝿の王ベルセブに憑かれるとは。敢死の冒険を求めてラ・サンチャを後にしたとはいえ、向こう見ずが長じたか愈々以て冥きに彷徨い込んでしまったとみえる」

「奴はとんだ嘘八百松でしたよ、なんか勘ちGUYガイだし。大体うちらがあのおじいちゃんの店に寄らなけりゃ窃盗罪と変わらないじゃないすか。まさに嘘吐きは泥棒の始まりだし恥の上塗りでもあるわけですよ」発言の中身は事実だが、別段何を盗まれたということもない。それどころか金蔓ミナ・デ・オロにしていたではないか。「まァ、泥棒にも三分さんぷんのノリっつうくらいだし、キャラに似合わずノリでちょっとカッコいいとこを見せちゃったから、時間切れで化けの皮が剥がれる前に退散したってところでしょうね」古来より和製の英雄エーロエス・レアリサードス・エン・ハポーンは三分が活動限界時間ティエンポ・リミタード・パラ・ラ・アクティビダなのだ。「もう会わない奴のことはいいんです」

「いつになく手厳しいね……千代の小言の向こうを張るにゃ八百に加え新たに三百代言だいげんの加勢を喚ばねばなるまいて」と呆れるドニャ・キホーテ。「成程お陰でチヨさんは、三千三百の尻叩きに代わって三千三百秒の木馬責めの憂き目にあったわけだが、とはいえ烏小路卿の機転がなければ――¡Ay, Madre Nuestra!」[訳註:「吁、吾等が母よ!」]

「マドレーヌ?ですと?な?」

「マドレーヌもジャン・バルジャンもないわ! あの男は此処沼沢パンターノが猫娘の霊廟パンテオンとならぬよう死力を尽くしてくれたのじゃ……焼き立てのパン一本を掠める代わりにな」

「我々の脱ぎたてパンツの一枚くらいは掠めんと目論んでたやもしれませぬ」

戯れをパントミーマ……よいか、濡れ衣学士の機転なくば母御前ファンティ――シャーロットは唐突な裂蹄により転倒事故を起こしたかも知れぬ。そうなればおぬしもおぬしの驢馬も予後不良となり、八百比丘尼宜しく長寿を儚む間もなしに日が暮れれば遍歴の従士座として星辰の仲間入りを果たしておったやも知れぬのじゃぞ。結句で命の恩人ではないか」

「だから八百長松の話はもういいんですってば」何処か近くで不意に上がる、外敵を威嚇するような畜犬の咆哮。唸り声とともに後ろに流れて聞こえなくなる。「ほらまた!」

「«So will der Spitz aus unserm Stall…»――やれやれオンブレ、胃袋の大きさに比べ肝の小さいことじゃ」騎士は従者の臆病風を嘆く。「犬は繋がれておるし、ハエは追い払えばよい。何をそう息巻いておる」

「だーかーらー」千代は隙あらば二の腕への軟着陸アテリサーヘ・スアーベを試みる羽虫の群れを、苛立たしく払い除けながら叫んだ。「うちら臭うんですって!」


老鍛工ビエーホ・フォルハドールの手によって如才なく装蹄し直された愛驢シャルロッテの鞍に改めて収まった従者の尻は、その座り心地の好さとフリシア産の青毛に勝るとも劣らぬ快速ぶりのお陰もあって、暫くの間はフリヒア帽を被った自由の女神マリアンヌよろしくその意気組みたるや主人のそれと比しても決して引けを取ることはなかった。[訳註:北海沿岸のFrisiaも小亜細亜アナトーリア半島に位置するFrigia(Phrygia)も英語発音を介した日本語読みでは等しく《フリジア》である]

 そうは言っても腹が膨れれば眠くなるのが人の理ラソーン・ウマーナであり、おまけにまたぞろ騎士先生が自前の夏期講習を再開したものだから、放っておいても千代さんの瞼が重力に引かれたとして何ら不思議はないのであった。それでいて乗り手が寝ていても勝手に走ってくれるほど、再会したての母馬ジェーグア・マードレ[訳註:《母驢馬マードレ・ブラ》の誤記]は賢くなかったし、何より暑い。母娘の感動の熱き対面は早々と冷や水を浴びせられた格好であったけれども、実際に冷や水を浴びせてくれる者がいればどれほど気持ちが良いだろうと、従者もそう思ったに違いない。

 自転車店を出発してから早三十分。

「すっげーベタベタして超キモチ悪いんですけども」千代は片手で襟刳りエスコーテをパタパタと揺らせて、熱のこもった衣服の下に何とか爽風を送り込もうと試みていた。「髪もごっつパッサパサですし。磯くせーったら……ああもううぜーあっちいけってば!」またハエだ。

「是あるかな、《臭い者見知らず》とな。然程の悪臭を放つとなると、ブラドイドの沼と目されていたそれは過般来、フェンリルの潜むという悪名高き狼の沼に変じていたのだろう。それならばオーディンの仮現かげんとなったこのドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャを、波頭なみがしらひとつで生呑せしめようとした由も頷けるというもの」

「頷く前にうなじの心配をした方がいいですよ先輩は」並んで走っていた従士は、徐々に後退して今や主の背中に何とか食らいついている体である。「そんな直射日光に晒してたら、日が暮れる頃には真っ赤に焼けて痛い目見ますから」(うなじが見えているということは、花はその長い黒髪を括っているのだろうか?)[訳註:阿僧祇花の駆る乗り物が競技用自転車であるのなら自然姿勢は前傾になるであろうし、後ろ髪を左右に分けて肩の前に垂らしていたのであれば括らなくとも襟首が露出していて不思議はない。但し、劇中の時刻から鑑みるに照り付ける太陽は西陽であろう。となると進行方向とは真逆、つまり東側に露なうなじが直射日光に晒されているという千代の発言とは矛盾が生じてしまう。無論道中常に真西を向いて直進していた訳ではないのだろうが]

「日除けというなら被るのに誂え向きの代物があるではないか、ほれ――」

「いや!」千代は慌てて遮った。《兜》の話になれば面倒だ。「――何も被らないでいいでしょう。ほら太陽光を浴びるとセルトリ、セロトニンが分泌されて何だか色々ステキなはずですから」午前中だけで一日に必要な光量ルクスは浴びているだろうに。「叶うことなら光合成と洒落込みたかったとこですが、こればっかりはあの……アレ、ほら、クロロフォルムを持たぬおのが肉体を我は恨む」

「逆に眠りこけてどうする」

「え?」

「おお、見よミラチヨさん」騎士は三時の方向を示した。「トロルの山岳より申を向いて認めた霊峰が、今やみずのえにあるではないか。おぬしの進言に従うてか、何も被らぬ芙蓉峰ふようほうが」

「え、……でかっ」右手に首を捻るや低い声でたまげる半坐千代。「全然気付かなかった。何山ですか?」

「慥かに。《白扇さかしまに懸か》ってこその偉容かも知れぬ。だが騎士が搏戦に任せず飽く迄馬と槍を用いるのと同じで、時には裸富士も乙なものではないか」

「ああ? あれ富士山か」彼女にとっては冠雪していない富士など、只の途方もない巨山に過ぎぬ。「うちらだって砂浜で白癬菌でももらってなきゃいいですけど。にしたって高尾山のてっぺんからじゃあんだけ小さく見えてたのに、これまた随分と馬鹿でかいですね。そんだけうちらが遠くに来たってことか」厳密にはアス湖の湖岸に到着した時点で富士の全姿は大分大きくなっていた筈であるが、大方夜目には映らなかったのであろう。ユミルの海岸では更に近付いていた訳だけれど、主従ともに気が付かなかったとなれば矢張り、騎士は武勲に、従士は享楽に目を奪われていたからとも考えられる。[訳註:沼津市から北西を望んだ場合、手前に位置する愛鷹山が邪魔となって俗にいう《消え富士》となっていた可能性がある。いずれにせよ壬すなわち北微西に富士山が見えるということは、花の方向感覚が正しければの話ではあるが、この時点でふたりは東海道本線の原駅付近を走行しているのではないかと推測できるだろう。因みに、第五章冒頭にて著者は、子どもたちが高尾山頂より富士山の白頭を目にしてはしゃぐ様を記しているが、実際には真夏のこの時期の富士に雪がないことがここで明らかになった。いい加減なものだ]

「遠来といえど、それでも騎士道の本有たるアマディス・デ・ガウラの謦咳に接するまではいまだ道半ばといった具合なのじゃ」理想の騎士を語る時、花の語気には更に熱が籠る。

「アマデまでまだ道半ばか……」果たして千代さんの脚と尻は名古屋まで保つのだろうか。

「古今東西斯界に存在した、そして存在している騎士にとってのアマディスは謂わば富士信仰における浅間大神あさまのおおかみが如しで、大神は大神でも大喰らいのフェンリルとは訳が違うからのう」

「狼で思い出しましたけど、」従者は己のほっぺたをピシャリと打ち、更には舌もひと打ちしてから続ける。虫を仕留め損ねたのだろう。「先輩が箱根で逆立ちしてた時に云ってた狼ロボ……狼型ロボット?の本、うちにもあったみたいですよ。昔じいちゃんかばあちゃんに買ってもらったらしいですが全然読んだ記憶ないんですよね」

「御祖父母が?」

「もう両方とも亡くなってますけど。折角だから読書感想文の指定じゃない方――学校指定のと合わせて二冊読まにゃならんのですが――そっちので読んでみようかと。本棚にはないと思うから押入れか物置きかから発掘せなならんですが」夏休みの宿題であろう。日本の学生の夏季休暇には、兎角大量の課題を出されるのが常なのである。

「勤勉なことだ」花は感心した。

「高校の方も読書感想文とかあるんですか。流石にないか」

「はて」

 千代はハッとした。これはとんだ失言ラプススではなかったかと、そう思い至ったのである。但し、不登校の生徒だから宿題が免除されるということもあるまい。「ハニャ先輩だったら……大抵の本は読んじゃってるでしょうから、むしろ自分で何か書いた方が楽かも、ですね」


「書く、といえば」ドニャ・キホーテは部下の気遣いを知ってか知らでか、唐突に話題を転じた。「どう思うねチヨさん? 現代のシデ・ハメーテが、ラ・サンチャの豪傑にして恋煩いの無法者ドニャ・キホーテの、この比類なき冒険譚を擱筆せしめた折に、先方さきがた水際みぎわの冒険は一体全体第何章に語られると思うね?」

「なんしょう? なんしょうってなんでしょう」

「何番目の章かということじゃ」

「ああ、何章か……どうでしょう」千代は真面目に考察する。「三茶を出発したのが……いつだっけ、金曜で。今日が一二三、四日目だから、第四章じゃないですか」

「おぬしとの旅立ちは実は二度目の門出なのじゃ。初めのから数えれば今少し増えまいかな」騎士は暗に章数カピートゥロスの水増しを求めた。

「《二度あることは仏の顔も三度目の正直》とは謂いますが、その一度目の門出が正直かどうか、ここではほっとかせてもらいましょう。先輩が朝っぱらからうちの前に剣道のカッコで出現して私にトラウマを植え付けてからのことしかコメントできませんね残念ながら。それ以前のことは存じ上げませんです」それ以前にも学校の校庭及び帰り道で言葉を交わしてはいた筈であるが、従者にとっては余程あの朝の出来事が衝撃的であったのだろう。

「思うに、」ドニャ・キホーテは神妙な面持ちで語りかける。「斯くも胸躍る英雄詩を筆海に認める栄誉に与った幸運なる書き手は、あの北方の巨神との闘いを物語の第八章に配するのではなかろうか?」

「第八章? そんな後ですか?」

「或いはガスコーニュの禅智内供ぜんちないぐに敬意を払って第十三章とするやも知れぬ。彼の者が鍾愛せしロクサーヌに捧げた秘する恋をば解さぬドニャ・キホーテではないからな――«me découvre au nom de cet hurluberlu...»――尤も、衣を返そうにもこの窮屈な《アビンダラエスの帷子》はいっかな裏返しに着られるものではあるまいし、枕かた去ろうとも毎夜のねぐらはそなたと半分こじゃ」恋患いの騎士カバジェーラ・エンフェラモラーダは苦笑する。「それでも一向に構わぬが、矢張りそれがしとしては第八章こそが相応しいと考えておる」[訳註:セルバンテスが四百年前に著した、本作の本歌ともいえる散文小説ノベーラ・エン・プローサ『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』の第八章では、老騎士が巨人と見誤って風車に突進する有名な挿話が登場する。阿僧祇花は自らの《水際の冒険》を先代の《風車の冒険》に準えていると考えられよう。因みにロスタンが十九世期末にものした戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の中では、実在した剣豪詩人スィラノが『ドン・キホーテ』の《風車の冒険》について問われた際、咄嗟に「第十三章シャピートル・トレーズ」と答える場面があり、同じく老騎士に己を重ね合わせた長鼻の詩人への共感が、続く花の科白に感得できる。彼女が発したフランス語は「彼の奇人ぶりに我が身を見る思いがする」といった意味合いの劇中スィラノの台詞]

「ちょいと待ってください」従士が主の妄想を制止する。「現時点で十三章もあったら、いや八章でも大概多いですけど、名古屋でエビフリャーを食べてる頃には二十章で、アマデの宴を堪能しておうちに帰る頃には三十章になってますよ」

「なるかね」

「なりかねません。大体全三十章もある小説を誰が読むんですか」千代は主人の壮大な野望を冷静に正す。「漫画ってんならまだしも、文字だけで三十章もある本なんか私なら読みませんね」

「読まぬかね」

「読みません。あとがきだけ読んであらすじを推測するか、ああ、だったらネットであらすじを検索して感想文を書くことにしますよ。いや、そもそも三十一日までに出版される確率はゼロなわけだから、読書課題とは関係ないじゃん(原註:日本の普通教育における夏期休暇は、毎年八月末日に終了するのが通例である)……ん?」夏風を受けながら従者が首を傾げる。「誰が読むんだって話以前に、そもそも誰が書くんですか?」

「それはチヨさん、」家来の人間離れした活字離れアナルファベスティアリースモ[訳註:原義は西analfabetismo《文盲》+bestialismo《獣性/獣欲》。識字能力翻っては知的好奇心の低さを指した合成語と思われる]を嘆くでもなく、騎士は何の疑いもない語調で以下に答えた。「吾等主従の動向を具に見守っておる魔法遣い本人が筆を取るか、その魔法遣いによりいずれ名のある物書きの頭にこの一部始終が神来しんらいとも御夢想ごむそうとも呼び得る形で鼓吹されるのであろう。尤も魔法遣いといってもフレストンのような卑劣漢ではなく、例えばそれがしとも昵懇な仲であり、その正体知る者なき女魔導士且つ魔艇まてい《大蛇号》の主ウルガンダが夫君にしてシーミョス島の大賢人たるアルキーフェ殿などに限るがね」[訳註:第二章冒頭で語られたアルキーフェと同一人物であれば、騎士と仲が好いのは妻ウルガンダの方か。若しくは彼が操る無数の巨人共との戦闘後に晴れて和解したということなのかもしれない]

「そんなストーカーみたいな魔法遣いはいくら先輩と昵懇だろうがゾッコンだろうが御免被りたいですね。第一そんな四六時中見守られてちゃ安心してお風呂にも入れないじゃないですか」これと同期する形でまた何処か近隣の飼い犬が吠えた。「まァ今は、多少覗かれててもシャワーを浴びたい気分ですけども……くそう汗が目に入る」

「やれやれ、ここまでまめに容喙しおる従者を持った主人など、開闢以来口伝ないし上梓された何れの騎士道物語にも見出だせまい」古来稀なる騎士道小説の主人は頭を振りながら、それでも「とはいうもののおぬしの直截なる物云いには目から鱗、耳からは介殻かいかくが落ちることも少なからずであるし、チヨさんは云いたいことを云いたい時に云いたいだけ云えばよいがの」と云って家来を立てた。

「それじゃあお言葉に甘えて」千代は乗鞍の上で居住まいを正す。「これが室内であれば隠しカメラで盗撮されてるなんてこともあり得ますが、自転車の旅でそれをやるのは不可能でしょう。可能性でいえば、そうですね、宇宙から衛星とかで監視されてることは考えられますけどホラあれCIAとかペンタ、ペッ、ペッタンコが――」

「ペンドラゴンが」[訳註:騎士の悪巫山戯で《米国防省ペンタゴン》がブリタニア王の家系に擬えられているが、もしかしたら仮想敵として強大な怪物を望む彼女の深層心理が《竜の頭領ペン・ドラゴーン》若しくは《竜を罰すペナール・ウン・ドラゴーン》の語感に引き摺られた可能性も又無きにしもあらずだ]

「――が、うちらみたいな可愛いだけで罪もない女子ふたりを観察してるほどヒマだとは思えませんでしょう。まァ何をしでかすか分からんって点ではテロリストのリストに入れられてても、それはそれで驚きませんけど」

「¡Terrorista!」

「テロリスター誕生ですよ。後はそのCIAの担当者がジャパンの女子高生好きな変態というケースですが、だったらだったでつむじしか見えない日本の美少女より……美少女たちよりも、ちゃんと地上から撮影されたJKエロ動画とかを検索して楽しんでればいいんです。大体、宇宙からの監視映像じゃうちらの会話内容は聴き取れませんでしょうに。それじゃ本になりませんよ」

「ならんだろうね」

「ならんです」従士は念を押した。「となるとですよ、旅が始まってから何が起きたか知ってるのは、レアちゃんとかクソ松を除けば私と先輩だけです。私は当然書けませんし、書きませんから、そうなれば自然とハナ先輩が自分で書くしかないんです」

「自叙伝になってしまうな」

「なってしまいますね。ほとんど夏休みの日記です」

あに図らんやドニャ・キホーテ稗史はいし!」孤高の騎士は天を仰いだ。「獣蹄鳥跡の乱世において達成された、それに加えこれより達成されんとしている輝かしき武功の数知らずを世に広めることが斯くも難件であったとは……ものは相談じゃが、ここは矢張り彼のガンダリンと並べ称される優れた賢佐武備の従士であり、同時にそれがしの無二の妹にして莫逆の友、そして何より口八丁な触れ役たる他ならぬ才女チヨさんにこそ、その健筆を振るってもらうのが最善とは思わぬか。というのも主人公自らの吹き語りは芳しくなかろうから」

「やです」

Jaヤーです?」[訳註:独ja=英yes]

「やーです」

「中等部の夏休みであれば、宿題に自由研究が含まれよう」天下に威名を轟かせたい通俗ライカ騎士も容易には引き下がらぬ。「ここぞとばかりに奇想天外且つ浩瀚こうかんなる長篇大作を脱稿して、教授連の度肝を抜いては如何かな?」

「やーでーすー。文芸部じゃあるまいし、そんなイタいことは出来ません。それに、ただでさえかったるい休み明けにそんな超変な駄作を読ませるなんて、いくら仕事だっつっても先生方がかわいそうですよ」

川獺かわうそでもいたちでも職分は果たさねばならぬ。第一遠き故郷に想い姫を残して参った遍歴の騎士は《其の巧天地造化の如し》じゃ済まんのだ」

「そりゃハナ先輩は生身なんですから生花でしょ。アンドーさんだって造花贈られるよりご自身に来てもらった方が喜ぶに決まってますわね」

 ドニャ・キホーテも我執は避けて、それ以上は無理強いしなかった。

 それからそういった、そしてそれに類する他愛ない、ふたりを除いては誰ひとりとして覗き盗み聴きしている筈のない会話を筆者と読者諸兄の耳元目元に垂れ流していた主従の行く手を、突如として賑やかな長蛇の列が塞いだのだった。


未就学児童プレエスコラーレスの一群が数名の引率者の指示の下、横断歩道を渡るところである。

「はあいわたってわたって。ほらおしゃべりしない」

 近隣の託児所グアルデリーアの送り迎えだろうか。

「あーかわいい」数メトロス先の朗らかな風景を前にした千代が無感動に呟いた。「ペンギンみてえ――あれ? 幼稚園って夏休みなかったでしたっけ……私ん時どうだったろ」

「あの者たちは、如何なる仕儀であのように追い立てられておるのかな」ドニャ・キホーテは無い髭を扱きながら、従者に意見を求めた。

「あの者って、園児たちのことですか?」車通りが少ないとはいえ、子どもたちの統率が不充分であるが故になかなか道が開かない。「さあ……普通に先生がそれぞれみんなのおうちまで送ってるんでしょうけど。私の時はチカさんのママチャリの後ろに乗っかって送り迎えしてもらってましたねたしか」

炭鉱ミナのおうちとな。では白雪姫シュネーヴィトヒェンに登場する七人の小人さながらではないか。となると彼等は、漕役刑を課せられて港湾に連れ行かれる櫂船ガレー囚徒という訳ではないのだな」

「加齢臭とかを気にするならむしろうちらの方ですね。あいつらに比べたら花の女子中高生だってシワシワのババアですから。いや今気にするべきはカレイとかヒラメの臭いでしょうけど」余程磯の臭いが気になるのだろう。

「この辺りで何が採れるのかは存ぜぬが、それがしも富士金山というのは聞き覚えがある。なるほどこの者たちが左様な悪所へと護送されるのにもそれなりの由あってのことであろう。然りとてあのようなあどけなき幼童を、採掘などという峻酷極まる裁きを以て使役せんとは、余りに倫常から懸け離れていると、そうは思わぬかチヨさん?」そう云うとイポグリフォの腹を一蹴りした騎士は、漸う横断歩道を渡り終えた一団を率いる警護役グアルディアーナ、つまり幼稚園教諭のひとりと思せし女性の傍らに並んだ。「其処な御婦人、やや暫く」

「ちょっ」思いがけぬ主人の勇み足に、僅かに出遅れた千代が遅まきながら制止を試みた。

「あ、はい」女性が振り向いて応答する。声の調子から鑑みて、年の頃なら二十四五といった具合か。

各方おのおのがたの御役目恐察いたします」花は馬上にて恭しく一礼すると以下に続けた。「少しばかりお時間を頂いて、こちらの小稚児こちごの銘銘が斯くも若き身空で見えぬ腰縄に繋がるる酷遇に甘んじ、況してや金鉱掘りなどという俗塵に満ちた懲らしめを受けたその拠ん所なき仔細をお伺いしたいのだが?」

「は?」経験則ロ・ラソナーブレにない事態に、年若の先生はたじろぐ。「あの……それはどういう」

「これは失礼仕った!」己の迂闊を恥じた遍歴の騎士が、汗に濡れる額を打って非礼を詫びた。子どもたちの歩幅に合わせられ極めて緩やかなその歩調に、抜群の騎乗技術を以てして巧みに平衡を保持し随兵よろしく併行しながら、「身共は遠く東方オリエンテ采邑さいゆう出立サリエンテすること早四日、その熱き霊力アリエント・カリエンテが成し遂げた武勲たるやさながら大波コリエンテの勢いだと世情の口にも姦しい、天下御免のひとり武者ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャその人です」と、口走った本人以外には歯軋りクルヒエンテ程の意味しか持たぬであろう自己紹介を、その骨太な内容とはそぐわない玉のような声で並べ立てた。

「え? あの……」当然の反応である。

「ちょっと、」従者が割って入った。「そういうなんというか……グループ名なんです」

「グループ?」

「はい。こちらハナ先輩と私がチヨで、ハニャ・キホーテと……チヨさんという」

「あ、そうなんですか」先生は何とか持ち直して答えた。「私たちは――」

「トオネ先生!」列の後方から男性の一喝が響き渡り、その足音が徐々に近付いてくる。

「あっはい!」先輩教諭なのだろう。相手への畏怖を感じさせる反応だ。

「怪しい者ではありません!」機転の効く自慢の従士が、迫り来る強面の男性教諭登場を前にして咄嗟の先手を打った!「――いや、怪しい者ではありますが、少なくとも危ない者ではありませんです、ハイ」

 出鼻を挫かれた先輩らしき先生が、幾分か語気を和らげて詰問する。「何か御用ですか」

「あ、私は……近所、の、幼稚園に勤めておりますトオネです」挨拶を返す時機を測りかねた遠嶺先生が、些か場違いな頃合いで自己紹介した。新米らしい状況判断の未熟さではあるものの、その朴訥ぶりと礼儀正しさからは生真面目な人柄が窺える。職務上園名を伏せたのだけは、最低限賢明な対処であったと認めてよいだろう。

どうぞご随意にパラ・セルビールレ奥方様セニョーラ

「――特に御用がってわけじゃないんですが、」従者が不躾ながら主の決め台詞クリチェーを遮って男性教諭の問いに答える。「だから御用になるのもご勘弁願いたいんですが。ちょっとふたりで自転車の旅をしてまして。ホラ、夏休みだしということで」

「旅というと遠くからいらっしゃってるんですか?」遠嶺先生が呼応した。

「ええっと……」多少云いあぐねてから、「三軒茶屋って分かりますか」

 三軒茶屋って何処でしたっけと振り返った後輩に、東京の方でしょうと先輩が教えてから、今度はふたり口を揃えて「――東京?」と訊き返す。これも当然の反応だろう。百数十粁もの距離を踏板漕いでやって来たのだから、これは大した酔狂である。

御役人殿セニョール・オフィシアル、そしてトネレーテ様セニョーラ・トネレーテ」[訳註:西toneleteには、《小樽》の意味に加えて甲冑の大腿部を覆う円錐台に似た形状の樽袴トンレット――日本の鎧でいうところの《草摺》――の意があった。遠嶺先生がそのような服装だったのか、単に小太りだったのか、若しくは何ら関係がないのかは憶測するより術がない]ドニャ・キホーテは改まって申し出た。「二言三言、こちらの児等こらにも話を聴き、彼等が斯様な苦役に身を窶すことと相成った経緯を身共直直に検見けみする許可を頂きたいのです」

「はぁ」遠嶺先生は一旦足を止め、視線を送ることによって先輩教諭の指示を求める。

「まぁ」男性の方は歩みを止めぬまま、「少しでしたら」と騎士の頼みに応じた。「はいみんな、このおねえさんたちがみんなにおはなしがあるそうです」

 ワーッという黄色い歓声グリートス・チジョーネス

「ちょ、え、別に私には無いですよ?」

 空気リーネアスを読まぬ従士は泡を食ってヘルテル=スケルテール、折角与えられた質疑応答の機会をこうも躊躇いなく辞退したのだった。


「――御厚意痛み入る」

 ラ・サンチャの精華は借問インテントの手始めとして、先頭を歩く遠嶺先生の尻の直ぐ後ろにくっついていた女児の鼻先に馬上から語り掛けた。「愛らしい少女ニーニャ、廓大なる苦衷をその小さき胸に秘めし手児てこよ。この放浪の老騎士の問いに答えておくれ」

「ん~」恥ずかしいのか単に怖いのか、少女は先生の陰に隠れてしまった。

「ちょっと……」見兼ねた従士が具申する。「ただでさえ背ェ高いのに、自転車乗ったままじゃ体高差ハンパないですよ」

 花は黙って首肯すると、静かにイポグリフォの鞍を降りた。それから飽くまで行進の道捗みちはかを妨げぬよう、握りプーニョスを押し進めながら腰を屈めて穏やかに訊ね直す。「汝はどういった理由でこの列伍に加わっておるのだろうか?」

「いまさんじー!」すわ一行の後方から子どもの叫び声が上がった。

「こら」遠嶺先生が軽く声を荒げる。「サモンくんとけいもってないでしょ」

 年端のゆかぬ幼児相手でもブレぬ主人の口説に驚きと呆れを新たにした千代さんは、不要ないざこざディストゥルビオを予見したか憚りながら主の疑義を引き取って、「幼稚園って今は夏休みじゃないんですか?」という質問を比較的物腰の柔らかそうな新米教師の顔先に投げた。

「夏期保育なんですよ」遠嶺は答える。「夏休み中もお忙しいお父さんお母さんの為に、ご希望があったお子さんたちをお預かりしているんです」模範的な回答レスプエスタ・モデーロ

「ああそうか。共働きの親御さんとかいらっしゃいますもんね」

「お昼までだとか夕方までとか、大抵は保護者の方が園まで迎えに来るんですけど。何人かは中途半端な時間だったり、こうやって私達が各家庭までお送りしてまして」

「へえ大変ですね」千代は普通に感心した。教育機関といえど要するに奉仕業インドゥストゥリア・デ・セルビーシオスなのだ。「そもそもちびっ子の面倒とかうちには絶対無理だわ。ひとりだけでも相手できる自信ないです」

「えー私も三年目だけど今でも全然ですよ。チヨ……さん? 弟とか妹さんは?」

「ああオスの方はいますけど」姉を呼び捨てトゥテアールにする運動部所属の少年である。[訳註:余程厳格な家庭でもない限り子が親に対して親称呼びトゥテーオするのは欧州圏でも一般的だろうから、姉を敬称呼びウステーオする弟の方が却って薄気味悪いのではなかろうか?]「生まれた時からクソガキなので特に世話をした憶えがないな」

 男性教諭が咳払いをした。

「あらごめんあそばせ、です。オホホホホ」初対面の、しかも年長者(但し、石松を除く)に対しては常識的な態度を取る印象があった猫被りの半坐千代にしては意外な受け答えである。疲れているのだろう。[訳註:ここで著者は《猫被り》を――第二章で同様の表現を用いたのに続き――《爪を隠した猫ガト・コン・ラス・ウーニャス・エスコンディーダス》と記している。英語に似た諺があるが、意味は《能ある鷹は爪を隠す》なのでこれはちょっとした皮肉か。因みに《猫の舌》という菓子同様、《猫の爪》という名の植物がある]

 ふたりの問答により粗方疑念が氷解してしまったドニャ・キホーテは、傍らの遣り取りを耳にしてすっかり落胆してしまった。実際のところ、彼女は園児たちひとりひとりを事情聴取インテロガトーリオして、道すがら幼い彼らが富士金山に抑留されることになった次第を解き明かしたかったのである。従者の読み通り単なる小人の送り迎えでは何の冒険も期待できない。

「ねえ!」

 背後から、先刻の小心な女児とは別の児童の声がする。また女の子だ。

「それがしに何ぞ御用ですかな」手持ち無沙汰の騎士がここぞとばかりに振り返った。

「なんでかさこしにさしてんの?」

「あ、ほんとだ」これは先生だ。

 花は哄笑した。「女童めのわらわの目にはこれが傘と見えるか。成程、慥かに傘が古来よりファラオンの権威を表象していたのは、古代埃及アイギュプトス神聖文字ヘログリフィコス日傘パラソルに神の精神を模していたことからしても明らかではあるが、生憎それがしの佩けしこの業物はカサはカサでも妖魔や怪物どもを獲物とした狩りカサくらいにしか用立ちませんのじゃ」誇らしげに気炎を吐く。

「マリせんせいはどうおもう」女児はこれをすんなりと躱した。逐一騎士の空疎な長口上に付き合っていたら日が暮れないまでもカサに着いてしまう。名調子の腰を折らないだけ大人の対応といえよう。千代は昨今の幼稚園児の老成ぶりに舌を巻いた。

「う~ん、おしゃれなんじゃないかな」適当な言葉が見当たらなかった遠嶺茉莉先生は適当にお茶を濁した。「じてんしゃのりながらはあぶないとおもうけど」

「かっこいい」先頭の幼女がはにかんで口を挿んだ。怖がっていた訳ではなかったようだ。

「無論、一騎討ちフスタ・コン・ランサであれば端から抜いておりますがな。丁度こんな具合に」馬上槍試合で宿昔の好敵手と対峙した己を想像した騎士は、腰の物を颯爽と抜刀するや腋を絞って右手に構えた。再び園児たちの歓声。

「びじょじゃないほう!」また唐突に大声が上がる。先程いい加減な時刻を告げた男児の声である。

「あ?」反射的に低い息衝きを漏らした従者が、振り向きざま数十センティーメトロスは低いであろう声の主の目線に向けてメンチを切ったミロ・アセシナメンテ。大人の対応ではない。

「サモンくんちゃんとまえみてあるく!」茉莉先生が注意する。「そんなしつれいないいかたしないの。こっちのおねえちゃんだってきれいでしょ」

「え」そのような追撃アターケ・ペルセギドールは期待していなかった千代が我に返る。

「ごめんなさいねチヨちゃん。ほら、チヨさんあの……なんてグループでしたっけ、地方版の方の。アレの、最近選抜メンバーに漏れた子に似てません?」

「あああの物騒なヤツですよね。KGBとかそんなでしたっけたしか」千代はわざと間違えて話題を逸らした。昨晩出会ったばかりの石松にも同じようなからかいを受けたことを考えると、本当に似た思春期偶像対象女性イードロ・フェメニーナ・アドレスセンテが在るのかもしれない。いずれ王道の美少女グアピータ・クラースィカではないのだろう。「いや別に大丈夫です。私も無邪気なちびっ子の心ないひと言にいちいちキレるほど若くないですので」四五歳の幼児に比べれば自分たちなど老いぼれチョチャ・ビエーハだと自嘲したばかりである。「――で?」

「はい?」反応したのは先生だが、従士がにこやかに切り返した矛先はずっと下方を向いている。

「美女の方じゃなくて美少女の方のおねえちゃんに何か質問かな?」図太い。

「なんでさかなくさいの?」遠嶺教諭マエーストラ呼ぶところの左門くんが答えた。「あと、ブスとまではいわねえけどびしょうじょはもりすぎだろ」(«Busu(o bus)»es el insulto japonés más popular a una chica fea.)

「あ?」反射的に漏れる低い息衝き。

「こらサモンくん!」

「マリせんせいはどうおもう?」二番目を歩く女児が同じ問いを繰り返す。

「え、えっと……」茉莉先生は口籠った。「ふつ、ふつうにかわいいじゃない。めとかおっきいし。どう思います?」短い行列の最後部から子どもたちを警護する男性教諭に助けを求めた。

 晒し者であるレ・トラータン・コン・デスデーン

「さあ、若い子のことは私には分かりませんから」冷淡な対応。

「あの」従士は降参した。「もういいですから。マジで」

「いやほんとほんと、チヨちゃん学校でモテるでしょう」追い打ちオートロ・アターケ。それから遠嶺茉莉は、教育者として見逃せなかったのか園児に正しい日本語を教える。「それにこういうにおいはさかなくさいじゃなくて、いそくさいっていうのよ」三度打ちテルセール・アターケ

「吾が従者が放つ汚臭については、」主人が助け舟を出す。「それがしの跨下に控える軍馬スレイプニルが誇る八つの蹄ひとつひとつに免じて御容赦願いたい」

「ちょ、臭いのはいっしょでしょ」

「――というのも、この者が狼の沼に陥溺したのは偏にそれがしが佩する、そして先刻其処な澄んだ目の孩童がいどうが憧憬の眼差しを投げ掛けたばかりである神鎗グングニルが、悪しき魔法遣いフレストンの奸計によって潮合しおあいに攫われたのを――」

「まほうつかい!」

「――主人に成り代わって首尾よく恢復せしめた折に負った名誉の悪臭エドール・ドノールなのですから」

「くせーぞびじょじゃないほう」

「あー?」

「こら」

「かっこいい」女の子の目には実際のランサよりも、それどころか人類史に燦と輝く尼羅河ニロ沿いの金字塔にも況して魅力的に映ったであろうオシャレな日傘に、茉莉先生の腰の辺りから顔を出した童女が再び、そして前よりも幾分大きな声で花を賛美したものだから、この物語の顔でありながら殆ど進行の蚊帳の外に置かれていた我らがドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャは矢庭に活気付いた。


「よしよし、」小さな信奉者を得て気を良くした騎士は傘を持ち替えると、傍らの童女に手を伸ばしその頭を優しく撫でた。それからひらりスレイプニルの、則ち《嘗ての半鷲半馬イポグリファンテ》の背に跨ったかと思えば、手綱を引き絞るや出し抜けに美しい棹立ちクールベット[訳註:馬の後ろ脚立ち。《アルプス超えのナポレオン》を想起すれば分かり易い。自転車ならば後輪走行ウィーリーか。但し仏語courbetteは動詞courber《曲げる/曲がる、弓形にする、服従する》からの派生語で、馬術用語以外では反対に《平身低頭》の語義にも転ずる点に注意]を披露したものだから、これには幼い子どもたちよりも却って古参の従者の方が肝を冷やしたし、初顔の教職員ふたりに至っては度肝を抜かれてしまった。それどころか、意外にもそれまで大上段に構えていた男の方が、面食らったのと同時に足を滑らせでもしたのだろう、弾みで惨めに尻餅をつくという為体であった。

「わっ」「きゃっ」「すげー」「かっけー」「あーマカタせんせーだせー」園児たちは思い思いに黄色い声を上げてはしゃいでいる。

「ちょ、せんぱ、あぶな」暴れ馬に足蹴にされては敵わないものだから、咄嗟に己の身を護ってしまった従者は主人を制止する時宜を逸してしまった。いやそうしていたところで焼け石に水チョコラーテ・デル・ローロ[訳註:直訳は《鸚鵡の猪口令糖》で費用対効果の薄い経済政策を揶揄する言葉だと謂う。一説には上流階級の然る貴婦人が奢侈な生活で財産を蕩尽してしまい、飼っていたオウムの餌代にすら事欠く苦境にまで堕してしまった為、鳥の好物であった当時贅沢品のチョコを買い与えるのを控えることにしたものの、当然その程度の節約で財政が回復する筈もなかったという都市伝説に由来するとかしないとか]だったろう。というのも跳ね上がっていた前輪が再び地に着いた次の瞬間、「¡Viva la Sancha, viva España!」の鬨の声グリート・デ・アルマスを発するや、既に騎士は一行の向かう道行きの更に向こう目掛けて遮二無二突貫を仕掛けていたからである。

 恰も噴進原動機モトール・コエーテでも積んでいるかのような恐るべき加速。日傘を水平に構えるや瞬く間に遥か前方まで駆け抜けたかと思うと、微かな衝撃をその肩に感じて緩やかに減速。くるりと後輪を横滑りソブレビラーヘさせてから、槍を天高く突き上げることでこれを勝ち名乗りとした。フレストンの悪しき妖術により余人には不可視であるところの対戦相手は、ドニャ・キホーテ果断の一撃によって哀れ落馬したのである。

「だ……いじょうぶですか?」我に返った従士は、先ず呆気に取られている先生たち、取り分け瀝青舗装路カジェ・アスファルターダにへたり込んだままの間方先生の安全を確かめた。

「はええ、ちょーはええ」「やべーかっけー」「マッハだ。マッハでてた」園児たちが跳び上がって持て囃した。幼少期の方が非現実的な光景への抵抗感が少ないとみえる。というのも彼等は未だ偏狭なる常識に侵されておらぬし、何より漫動画などの中ではこうした非常識な描写の大名行列プロセスィオン・デ・ラ・ビルヘンが日々横行しているに違いないのだ。

 間方教諭は漸く立ち上がると園児たちを追い立てた。「はいすすんですすんで。子どもたちの前でああいう危ない乗り方をされると困りますね」早速お叱りを受ける千代さん。主人の勇み足によって割を食うのは常に従者である。

「よく云って聞かせます」千代は頭を掻いた。

「おい、びじょじゃないほう」

「私が幼稚園通ってた頃はもっとこう、天使のようなちびっ子だったと記憶してますがね」

「えー、この子たちも天使みたいですよ」左門くんを無視した千代に答える遠嶺教諭。

「いやいや他の子はともかく、この子は――」側まで寄ってきていた彼に一瞥を呉れてから、もう一度先生に向き直る。「堕天使というかだめんずというか、だめっ子どうぶつという名称がぴったりなくらいヤンチャというかやんなっちゃうお子様ですね」

「おいびじょでもびしょうじょでもないほう! きけよ!」

「きいてるようるせえな」結局相手をする羽目になる。

「むしすんな」

「はあ? むしのことばはわかりませーん」同水準同士間の熾烈な口論フェロース・ディスクスィオン・エントレ・ロス・ドス・デル・ミスモ・ニベルである。

「こら!」

「あ、すみません」従者は我に返った。

「いや、こっちの方で……こら、サモンくん!」

 こういった、そしてこれに類するような微笑ましい世代間交流を続けていると、数十米先で大人しく行列が追いつくのを待っていたかに思われたラ・サンチャの精華が、先程の突撃のまさにその姿勢で、今度はこちらに向かい猛然と突っ込んでくるではないか。強面の男性教諭から注意を受けたばかりの従士は、これはいけないと思って慌てて叫んだ。

「先輩スピード落と――!」

 電光石火コモ・エル・ラジョ! 疾駆して接近していたドニャ・キホーテが「已むを得ぬ!」という叫号と呼応するかのように、構えていた日傘を投槍ハバリーナよろしく勢い余って投擲したものだから、放たれたグングニルは自転車の加速と相まって水平に地を這う雷撃さながら光の速さで宙を走ると、道路の壁沿いに聳える街灯ファローラのひとつに突き刺さり稲光の閃きと共に甲高い金属音を響かせた。これら全てがほんの一秒足らずの内に行われたことからして、馬上槍試合の作法からすれば禁じ手であるところの槍の投擲が、従士か教師か頑是ない乳飲み子たちラクタンテスのいずれかの頬桁を掠めていたとしても、そしてその為に頬当てを飛ばされていたとしても誰一人気が付かなかったことであろう。[訳註:現実には街灯ではなく電柱と思われる]

 千代を含む年長者三人は狂戦士ベルセルケーラの急撃に硬直してしまっていた。いや、間方先生はまたその硬い尻を大地と接吻させていたことだろう。

 役立たずの警護役とは対照的に、騒動の一部始終を固唾を呑んで見守っていた勇敢なる四五人の園児たちは、疾風のように擦れ違った騎士が急制動を掛け停止してから緩やかに踵を返して彼等の許へと舞い戻り、息を切らせつつ「大事はないか」と労りの言葉を発するや、勇ましい彼女への労いの言葉に代えるかのようなこの日一番の大歓声を上げた。


遍歴の新米従士は定めし身の危険を感じたことだろう。

「あ、ちょ、あ……が」

 一連の騒ぎが誰か第三者の目に入れば……否、それ以前にここで茫然自失している男女の目には現に、この光景が《徒歩の集団通園を狙って幼稚園児の一群を襲撃する気の触れた女子高生》と映っている筈だ。となれば、数秒先に彼女たちを待ち受けるのは通報であり、数分先には身柄の拘束、数時間後には投獄されてこのままではアマデウスの巡業ヒラどころではない。ほんの数分前まで呑気に犬が五月蝿い蝿がうざいだのと、他愛ない文句を垂れていた平和な日常がこうも容易く綻んでしまった現状を、そして巻き込んだ阿僧祇花と巻き込まれた己の不運を千代は呪った。

 夢から醒めた先生たちが、吃音混じりに何か言っているような気もするが、いずれにせよはしゃぐ子どもたちの狂騒に掻き消されて皆目聴き取れない。

 足りぬ頭を最大限回転させた利口な従者は、教師陣が未だ足元の覚束ないのを九死一生の好機と見てか、穴を穿った街灯からは既に抜け落ち地面に転がっていた騎士の神鎗を素早く拾い上げると、さっきまで日傘を担いでいた主の利き腕を他方の手で掴んだのだった。

「先輩、早く!」

「如何した」

「あああもう」初陣で突撃した更にその先を指差した千代は、「巨人が! あそこに!」と一か八かトド・オ・ナダの賭けに出る。

「巨人?」花は首を傾げた。「ユミルは先刻討ち果たした筈じゃが?」

「うおおお……」謎の唸り声を上げた従士はもう一声加える。「巨人阪神が!」[訳註:著者はこの従者のセリフを《巨人の半身ミタ・デル・ヒガンテ》と訳出している。単なる誤訳なのか、煩雑な解説を避ける為の意図的な改変なのかは不明]

「よし、巨人ハンザハンセアティコとは奇異なる響きじゃ。終ぞ聴いた例がないが、ハンザ家の係累とあらば放ってはおけまい」まんまと乗せられた歴戦の勇者は忽ちイポグリフォの腹へ拍車を当てると急発進、腕に組み付いていた従者を十米ばかり引き摺った。千代はされるがままにその身と自転車を運ばれながら、「しっつれいしましたぁぁぁ」と叫んで遠ざかっていく。去り際の礼儀は肝要である。

 しかし後方から男性教師が声を振り絞って呼び止めるのを聞き付けるや、騎士は何に後ろ髪を引かれたかそのまま妹を前方へと十柱戯ボーロスよろしく放り上げたかと思えば(彼女を載せたシャルロッテは慣性の法則に従って、乗り手の意志を余所にそのまま弾丸の如く飛んでいった)、その勢いで三度後輪の蹄鉄を磨り減らして横滑りソブレビラール、送り迎えの隊列に引き返したものだから、難詰するつもりで声を掛けた筈の間方先生の方が恐れをなして逃げ腰となり、そのままよろめいて近くの外塀に張り付いてしまった。イカれた女子高生に理不尽な暴力を振るわれるとでも考えたか。

猖獗しょうけつの掃除人たるそれがしは、西に争論あれば時の氏神となりて仲裁し、東に騒乱あれば機械仕掛けの神を演じて丸く収める義務を負っているものですから、愚妹の申す巨人が味方アミーゴであれ敵方エネミーゴであれ即座にその場へと向かわねばならぬのです。そういった訳で中座する御無礼、真っ平御免くださいまし」そして鞍に尻を預けたまま、車体を傾け右足を地に着けてその車体を支えたかと思えば大きく身を乗り出し、先頭の女児のパン生地のような可愛い手を取ってそっと口付けをするやその目をぢっと見つめ、「私は貴女にお仕えする騎士です、お嬢様」と珍しく日本語で口説き文句を吐いた。三軒茶屋に待つドニャ・ドゥルシネーアも、この時ばかりは目を瞑ってくれよう。

 それからドニャ・キホーテは颯爽と立ち去るとそのまま千代の後を追ったのであるが、その場に残された、そして手の甲の純潔ビルヘン・ドルサル・デ・ラ・マノを奪われたばかりで頬を紅潮させた幼気盛りの乙女はきっともう一度あの「かっこいいヘニアル」を復唱し、雄々しくも麗しき掃除婦バレンデーラ紳士ぶりカバジェロスィダにもさぞや惚れ直したことであったろう。


いくつもの岐路や四ツ辻をくねくねと曲がって、恐らく追手――であるという被害妄想を従士に抱かせていた近郊の幼稚園児の一行――を撒けたであろうと判断したところで、すっかり消耗していた半坐千代は踏板を回す足を緩め、自動的に車輪が止まるまでそれらを空転するがままにしていた。シャルロットが停車する頃には息せき切っていた彼女の喘ぎも、深呼吸の代わりに漏らされた大きな溜息を最後にしんと収まった。まだ心臓が高鳴っている。だが何とか逃げ切ったのだ。

 そこへ、実際には直ぐ様追い付いてはいたものの、家来が先導するがままにしていた遍歴の騎士が、傍らに到着するや否や呼吸一つ乱さずに語り掛ける。

「してチヨさん、学都ルーヴェンに学んだというヤンセンハンセンの巨人というのは――」

「ちょっ!」趣味に関わる物事を除けば何事にも覇気のない千代からすれば、いつになく迫力のある怒号である。「なんなんすか! どういうことですかあれは!」

「これこれ」騎士は激昂する従者を宥めて続けた。「喃喃と呼ぶには随分と我鳴り立てるではないか。そら、地上の蛙鳴蝉噪あめいせんそうに負けんとばかり、又候ミンミンゼミが鳴き出しおったぞ」

「み、みんみん――」

「それにそれがしがなんなんとするものといえば、おぬしも御存知の通り皇帝セサル帝王エンペラドールと相場も決まっておろう」

「蕎麦もうどんも決まっちゃいません!……お夕飯にはまだ早いですし」気勢を削がれたが何とか持ち直す。「下手すりゃ殺人未遂ですよ! こんな傘だってあんな勢いで投げつけたら、」現場から持ち去ったまま、そしてその手に握ったままであった花のデュランダルを持ち上げた従士は、その石突きコンテーラ部分を目の前に掲げた。「先っぽが人体にぶっ刺さって大惨事のおやつに……あれ? 汚っ」

「如何した」

「うげえ触っちった、なんですかこれ。ティッシュティッシュ……や、ウェットティッシュが入ってるはず」千代はカゴの中の荷物をまさぐる。

「ふむ……願わくば」従士から愛刀を受け取ると、ドニャ・キホーテはまるで血刀を振り清めるような体で大きく風を切った。突端に付着していたという汚い何かも四散ディスペルソしたことだろう。「シベーレスのご機嫌を損ねておらねばよいがね」

「ご機嫌どころか逆鱗に触れてますがな。あんなちびっ子の、目とかにでも当たって失明とか……ギャー、こっちが加害者じゃなくたって耐え切れませんわ。傷害罪どころか人ひとりの一生を台無しにするわけですからねえ。まァ今回は運良く誰も怪我してなかったとは思い――」手指の汚れを丁寧に拭き終えた従士が、次いで指先に臭いが残っていないか嗅いで確かめる。「――あのおっさんの先生、尾てい骨骨折とかしてないでしょうね」

「あの者の無骨な骨身からして、尾骨だけやわということもあるまいて。安心して巨人の許へと案内あないするがよいぞ」

「巨人寛大という四字熟語があるじゃないですか[訳註:虚心坦懐?]。この先これから現れる巨人に関しては、くれぐれも海のような広い心で華麗なるスルースキルを見せてほしいというのがチヨさんからのお願いですよ。将来セザールになるのであれば、よっぽどの相手でもない限り見ざーる聞かざーるを決め込めるくらいの度量が必要じゃないかという、そういう……アレです」

「なるほど、巨人寛大か。留意しよう」

 騎士は素直に納得したので、午前中に討滅したヤマの眷属に引き続き新たにハンセンなる巨人を手に掛けることで、一日にふたりの巨人を腰の差し前エスパーダ・デ・シントゥーラの血錆とする――という、如何にも荒武者の好みそうな冒険を早々に引き下げたのだった。

「まったくもう、また余計な汗かいたよ……」犬が吠える。余程飼い犬の多い地域なのだろう。これしきの事に今更動じない従者ではあるものの、連れ合いが犯罪者予備軍クリミナル・エン・ポテンシアでは道中気が気でない。花は本当に狂っているのだろうか?

 騎士の云った通り、蝉の音が復活している。緑が近いのだ。かと思えば電車の通過音まで聞こえてきた。矢張り線路沿いなのだろう。

「ああ、せめて着替えたい。そんで体拭きたい。あの若い方の先生に事情話せば、もしかしたらシャワーとか貸してくれてたかもしれないのに……つか場合によっては幼稚園か、先生の家に泊めてくれたりとか」そうなれば慥かに願ったり叶ったりだ。

「浅間神社じゃな」路辺に立った騎士が、街中に佇む細やかな境内を見上げた。

「いやこれは別に浅ましいんじゃなくてですね」千代は水分補給をしながら、己の厚かましさを弁解した。「女子として最低限の――って先輩、何処行くんですか!」

 ドニャ・キホーテは下馬すると、一礼を済ませてから手綱を引き引きすたすたと社の敷地内に入って行ってしまった。渋々後を追う千代さん。何を云ったところで《釈迦に説法プレディカンド・アル・コロ》か、或いは《馬の耳に念仏アル・オイードス・デル・カバージョ》か、だ。

 賽銭を投げて柏手を打った騎士は、馬を休ませた傍らに腰掛けると、「浅間様に庇と大床おおゆかをお借りして一休みと致そう。それがしも些か疲れた故」と云って瞑目した。

「じゃあ私もどっかで着替えて……流石にこん中お邪魔したらバチ当たるかなあ」結局千代は御宮を囲む茂みの中に荷物を抱えて分け入ってはみたものの、流石に屋外で水着を脱ぐ度胸は芽生えず、軽く身体を拭き制汗剤を振り撒くのみで遣り過ごすことにした。

「これ臭い取れてんのかなあ……ああもう慣れちゃったから全然分かんねえや」

 それから主従はベタつく肌を寄せ合いながら、人が来ないのをいいことに日が暮れるまで眠りこけた。けたたましい蝉時雨を子守唄に出来るほど、ふたりとも暑気にやられていたのである。


目が覚めると蝉の合唱は、烏の哄笑へとその舞台を譲っていた。

 しかし遍歴の従士千代さんの午睡を実際に破ったのは、樹上の喧騒ではなく地上の、そしてここ数時間に限っていえば彼女の神経をより逆立てているであろう伴奏――恰もヴェルディの鎮魂曲における大太鼓ボンボのようにその満ちた胃の腑を振動させた重低音ソニード・グラーベである。

 騎士が呼ぶところの地獄の番犬カンセルベーロ――尤も首に載っている三つの頭の内、唸り吠える御役目を怠けていなかったのは只のひとつだけであったようだが――により目の前の何かに向けて発せられていた咆哮は、驚いた烏どもを飛び去らせるだけでなく、図太い割に小心者の千代が覚醒ともども反射的な起立を見せるのに充分な程の出し抜けな迫力があった。

「ちょっ、何? また犬?」跳ね起きた従士は、お互い寄り掛かり合いながら昼寝していた故に支え棒を失って床に倒れ込んでしまった主人を背後に感じることもなく、警戒しながらうろうろと騒動の起こっている現場を探し廻った。「やっ……やっぱまだ臭い取れてなかったか……誰かく……来る、かく、隠れなきゃ」まだ寝惚けている。

 ところが声の主が威嚇しているのは、残念ながらいまだしつこく磯の臭気を残していた主従ではなく、社の死角に生えた老木の根本に追い詰められながらも気丈に抵抗を試みる小さな子どもであった。

「あ」

「あ」

 千代とその子どもが同時に声を上げる。目が合ったのだ。それに釣られた魔犬も太い首を捻ってこちらを見る。

「わ、こっち来んな」すっかり眠気も冷めたようだ。声の太さからしてそれなりの大型犬だろう。ペロのような甲高い声色とは全く異なるそのおぞましさ、おどろおどろしさに思わずたじろぐ彼女だったが、かといって無視する訳にもいかないものだから、余り刺激を与えぬよう配慮しつつ荒ぶる動物を飛び越えるような形でその子どもに声を掛けた。

「ちょ、こんなとこで何やってんだお前。こんな時間に」

「うるせえ」

 獣は今一度後ろを振り返るが、臭くてそれ以上近寄りたくないからか直ぐにより若くて美味そうな太腿を持った仔羊の方へと向き直った。その一瞬に目に映った、浅ましい唸り声を発する犬牙の合間から絶えず滴り落ちる汚らしい流涎に、従士は思わず身震いする。おお、狂犬病感染防御抗原バクーナ・コントラ・ラ・ラービアは接種済みであろうか?[訳註:西vacuna《種痘》は《牛の痘瘡ビルエーラ・デ・ラ・バカ》から派生した用語]

 口の悪いその子どもは、小枝か何かを振るって応戦しているようだが、徐々に間合いを詰められて万事休すカスィ・フリート。[訳註:西casi frito《ほぼ油揚げされた状態》]

 観念した勇敢な従者は、犬との距離を保ちながら弧を描くように子どもの許へと移動し、何とかその前に立った。善意ベネボレンシアだとか義務感デベールだとか、それこそ庇護欲デセーオ・デ・プロテヘールといった上品なるお題目とは別種の、ある意味本能的な集団的自衛権アウトデフェンサ・コレクティーバの発動である。

「やだこわい」

「こわいならくんなよ」

「うるせえな後悔してるよ」

 すわ、一際大きな音で喉を震わせたかと思うと、獰猛な冥王アーデスの忠犬は今にも飛び掛からんとばかり土を蹴る四肢に力を込めた。従士は微かな悲鳴を上げ、強がっていた子どもも肩を強張らせて視界を遮る行灯袴の裾にしがみつく!――その刹那。

 唐突な一陣の風切り音に続き猛獣が短く甲高い悲鳴を上げた。石礫が彼の横っ面を、或いはこめかみを砕いたのである。

 千代が目を見開くと、老木から十米程離れた社の陰に、投石した姿勢のまま神妙に構える阿僧祇花の姿があった。

 数秒の間壌土の上に昏倒して伸びていた犬だったが、その身に何が起きたか理解できぬままよろよろと立ち上がると、仕切り直しとばかりに改めて唸り声を絞り出すや従士および幼児に向かって精一杯凄んでみせた。

 対してある程度状況を把握しながら我に返ったアマデウス教の熱心な信徒は反射的に、まるで相手の咆号に呼応するかのような調子で、差し詰め冥府に煮え滾る岩漿マグマの奥底から湧き出たような不気味極まる濁声で威嚇し返したのである。成る程、これが不肖の千代さんがさんざっぱら練習に励んだというヴォルフ閣下直伝の《死の声ボス・デ・ムエルテ》――則ち喉潰しの怒号グルニィード・グトゥラルか。[訳註:第七章参照]

 横槍ならぬ横からの礫ピエードラ・デスデ・エル・コスタードによって既に鼻っ柱を圧し折られていた哀れな猟犬は、女子中学生風情の細やかな抵抗の追撃だけでその牙に残ったなけなしの野性すらも削がれてしまった。後は踵を返して敗走するのみである。

 それを見届けてから一気に力が抜けた気弱な従者は、そのままへなへなと座り込んでしまった。

「……あ、おもいおもい」

「あ、ごめん」千代さんは思い出したように数度空咳を吐くと己の喉を擦った。

「Ninguna hijadalgo temía un galgo...」[訳註:猟犬一匹に恐れを為した女郷士など居らぬニングーナ・イハダルゴ・テミーア・ウン・ガルゴ」……因みに件のラ・マンチャの男は《猟犬を一匹飼っていた郷士イダルゴ・ケ・テニーア・ウン・ガルゴ》]

 そこに押っ取り傘でコン・ス・パラソル・デスヌード駆け付けた弱齢の騎士ドニャ・キホーテ。

「幻嗅忌まわしきオーディンの仇敵め、終の棲家たる泥沼でいしょうを這い出るや己が丸呑みにしたグングニルの主が応身おうじんであるそれがしを追って神聖な天つ社をその浮足で汚そうとは――或いはその名に乗じてのききしる歴歴の大神の一柱に成り上がろうとでも?」

「……先輩」

「ふたりとも大事あるまいか……と、其処に匿われるは悪童ヒネス・デ・パサモンテではないか」

「ぱさもん?」これは主従と運命の再会を果たした鼻持ちならぬ園児の応答である。

「ぱさもん、て……」従士が仲介した。「何でもモンを付ければいいってもんじゃないですよ。まァ助かりました。今度怪獣に出くわした時は、頼りになるハニャ・キホーテを起こしてから立ち向かうことにしますわ」

「サモンだ」審美眼に長けた左門くんが、自分の呼び名の訂正を求めた。

「怪我がなくて何よりじゃ」騎士は安堵の吐息を漏らした。

「何ですか今投げたの。石っころ? さっきは人間相手にその傘で攻撃したくせに……あべこべですがな」危険が去って気が大きくなった千代さんは、早速命の恩人サルバビーダスに向かって文句を連ねる。

「ラグナロクの仇といえど――」花が弁解する。「頑是ない子どもの面前で神木の肌合いに畜生の脳漿をぶち撒けたとあっては、徳育を尊ぶ騎士道に準ずる者としても些か寝覚めが悪かろう。あれがフェンリルであれ、果ては昏き国ニフレイムの洞窟から解き放たれたガルムであれ、な」

「それはたしかに――」従士が尻の砂埃をはたきながら漸く立ち上がった。弾みで寄り掛かられた背後の左門が呻いてその重みを訴える。「……あ、ごめん。たしかに首輪、っていうかリード引き摺ってたし。きっと散歩中に逃げてきたバカ犬でしょう。正当防衛とはいえうっかり串刺しにでもしちゃったら、器物損壊でバカ飼い主に告訴されかねませんな」千代は己も愛玩動物を持つ飼い主らしからぬ無慈悲でいい加減なセリフを吐いた。「生類憐れみの令もある」[訳註:抑揚と文脈から判断するに「生類憐れみの例」か?]

「地獄巡りもこれまでとしよう。ここで打ち止めとせねばいずれ幽冥に引き込まれ、犬は犬でもアヌビス神の世話になることとなろうぞ」[訳註:アヌビスは埃及神話における犬頭の神で、木乃伊作りの監督の役目を負った]

「同感です。また余計な汗をかきました」

「にしてもチヨさん、魔犬を怯ませた先刻の喝破は見事であったぞ」

「カッパ?……ああ、デスヴォですね。まァなんつうか、《三つ子の雀の魂百まで踊り忘れぬ》というヤツで。いや《下手の横好きこそものの上手なれ》かな。本来屋外でやるようなもんじゃないんですが、お聞き苦しいもんをお聴かせしました」

「何、セイレーンの歌声とまでは云わぬが、マンドラゴラの断末魔くらいの聴き応えがあったわい。尤もあれを一本引き抜く度に、愛犬を一匹失う羽目になると謂うがな」

「よく分からんですが、とにかく愛犬じゃなくてよかったですよ」これは故郷に待つ忠犬の安否が気懸りである。「駄犬が消えれば一石二鳥ですから。何ならサラマンドラゴラの学士?の頭髪の二三千本でも引っこ抜いとくんだったか」

 従士がいつもながらの軽口を口にしたその時、遠くの方から「ジョリ~~」という中年女性の声が聴こえてきた。[訳註:念の為補足するが、箱根の山中にて花が耳にした中年女性の声とは別物である。呼ばれる名前が同じなのは全くの偶然で、当然犬も違う犬であろう。無論、ここでのジョリーが犬の名前であると断言することこそが早計やも知れぬが]

「わっ!」千代が小さく叫んだ。「ちょ、やばい飼い主だ」

「望むところだな」騎士は頭の中で《マンブリーノの兜》の緒を締め直した。

「バカをお云いでないですよ。三十六計逃げるしかないでしょ。逃げるが勝ちという諺があるでしょうよ」

南斉書なんせいしょかね。相分かった」ドニャ・キホーテは傍らで休んでいたイポグリフォの巨躯を起こすや、颯爽と跨った。「チヨさん[訳註:《逃散ちょうさん》]だけに逃げ口上もお手の物、か」

「ええっと、お前何だっけ?……サモン! 後ろ乗れ!」

「よびすてにすんな」

「うっさいなあ。サモンくん、乗らないと査問委員会に掛けっぞ」

「おれこっちのがいい」少年チコは千代の驢馬ではなく、隣の悍馬を指差した。それはママチャリよりも競技用自転車の方が好いだろう。子供の目でなくても憧れの乗り物である。

「《Los niños y los locos dicen las verdades.》」花がボソリと呟いた。[訳註:《幼児と狂人の言葉は真実》といった意味合い]

「バッカ、先輩のは座るとこないでしょ! いいからホラ」従者は園児を無理矢理引っ張り上げると、そのままシャーロットの尻に座らせた。「危ないからつかまって!」

 最初は千代の指示を無視していた左門少年だったが、主従が浅間神社の境内を脱出する際に越えた段差で尻を強か打ち付けたのであろう、それからは彼女の身体に必死にしがみついて何とか振り落とされぬよう努めたのである。


珍しく小隊を先導する形となった我等が遍歴の従士千代さんは、取り敢えずジョリーを呼ぶ声が聴こえた方角と真逆にシャルロットの鼻先を向けると、黄昏に染まり始めた霊峰を望む住宅街を当て所なく闇雲に走り廻った。[訳註:浅間様の軒先を拝借した主従の居眠りは、実に四時間を超えていたのである]

「ハァ、ハァ……」勢い良く飛び出したは好いが、早くも息切れする千代。「どうしよう、さっきの幼稚園の近所のとこに連れてけばいいんかな」

「となると勝ち抜き戦トルネオの第二試合にも間に合おうな」後に続く、こちらは呼吸に寸分の乱れもない騎士は、改めて長槍を握り直すと天高く掲げ、意味もなく鼻息を荒くした。

「やめておきましょう。おいサモン!……くん」

「あん」驢馬の尻に跨る幼児が無愛想に答える。声のくぐもりから察するに、乗り手の背中に顔をくっ付けているのであろう。[訳註:半坐家のママチャリの後部は椅子付きの子供乗せ用ではなく、荷台ポルタエキパーヘスの取り付けられた形態と思われる]

「お前ん家どっち?」

「しらん」

「住所も言えんのか」

「いえるけどいわん」

「まったく……《言わんのはバカ》という日本のことわざを知らんのか。ねえ先輩?」

 ドニャ・キホーテは苦笑しながら家来の問いを引き取った。「この坊主が馬鹿のイワンなら、それがしは戦狂いのセミョーン、おぬしは布袋腹のタラースとなろうて[訳註:第二章の半坐家脱衣場での遣り取りを参照]」それから軽く拍車を当ててシャルロットに並ぶと、「失礼」と断って左門の胸元に留めらた名札を捲り、そこに記されし林檎の番号ヌーメロ・デ・ラ・マンサーナ(原註:日本では一般に、通りカジェの名ではなく街区バーリオに割り振られた区画ブローケ――家々から成るひとつの島ウナ・イースラ・デ・カーサス――の番号に建物の番号を足すことで住所を表す)を大食らいの部下に伝える。[訳註:四方を道路で囲まれた番地を西manzana《リンゴ》と呼ぶのは、十九世紀カタルーニャの都市計画家イルデフォンス・セルダが《飼い馴らした封地マンソ・フェウダル》――封建領主が屋敷の周囲の土地に奉公人を住まわせたことを指す――という用語から想を得たことに由来するのだと謂う]

「なるほど。制服のままってことは、一旦家帰ってから着替えずに遊びに出ちゃったのかなこいつ」千代は携帯を取り出して地図を調べ、現在位置と照応すると自らを誘導した。「あ、ハルカちゃん[訳註:第四および五章参照]からメール入ってた。つか充電しなきゃ……えっ嘘、いいなァ――あ、まァ近所ですね」

「ばれたか」園児は年相応とはいえぬ雰囲気で大きく溜息を吐いた。

「魚臭くてごめんね。もうちょっとの辛抱ですからー」

「べつにいってねえけど」

「は?」運転中の千代は前方を注意しつつ、首を捻って子どもの発言を聴き取ろうとした。

「べつにさかなきらいとかいってねえけど」

「……。」

「むねはびじょのほうよりおっきいな」

「一応云っとくけど、お前が触ってんの胸じゃないからな」

「しってるし」

 そういった、或いはそれに類した心温まる問答を傍らにて聴いていた花は、急に手綱を引き絞って制動を掛けるなり従者を呼び止めた。

「どうしたんです?……重っ」振り向いて停車した千代。後ろに幼児ひとりが乗っかっているので重心を保つのが難しいのである。

「マリトルネス女史の声が」

「マリ……マリ先生? さっきの?」

 無言で手綱を返した騎士の尻を追ってひとつ前の交差点を曲がると、果たして周囲を見回しながら歩いて来る遠嶺教諭の姿があった。

「あ、さっきの」日の沈み始めた往来で立ち止まった先生が、こちらに気付いて目を見開く。「すいません、ちょっとお訊きしたいんですけど」

「あ、さっきの先生」追いついたシャルロットをイポグリフォに並べると、従者の背中からひょっこり左門少年が顔を覗かせる。

「あ」

 遠嶺先生は行方不明だった幼児に声を掛けたが、いっかなシャルロットの尻から降りようとしないので、一先ず自分の携帯を取り出すや少年の家と間方教諭に電話を掛けて彼の無事を知らせた。

「この子何処に居ました?」

「あ、そこの、近所の浅間……あさま山荘、です?」真面目に聴いていなかったのでうろ覚えとはいえ、そこが神社であったことくらいは憶えていただろうに。相も変わらぬ従者のおとぼけイネプタである。

「はい?」

気高き御婦人アルタ・セニョーラ、」騎士が割って入った。「童子をお叱りなさいますな。この者はアスガルドの軛を逃れた獰悪どうあくなる魔狼相手に八面六臂の大活躍。軍神テュールの食い千切られた片腕に掛けて敢然と立ち向こうた天晴あっぱれな戦士ですじゃ。イヴァンはイヴァンでも、雷帝グローズヌイの二つ名を冠するに相応しい豪傑に育ちましょうぞ」

 アスガルドより先は何ひとつ聴き取れなかった茉莉先生は、隣で少年を下車させようと腐心していた従士に視線を送る。つまり助けを求めたのだが、抵抗する左門くんに業を煮やしていた彼女はそれに気付かなかった。懐かれてしまったのだ。

「えっと、チヨさん?」

「ちょ、あ、はい?」

「今晩は何処に泊まるの?」

「何処に?……何処かには泊まりたいんですが。未成年のか弱い女の子としては」

「まだホテルとか決まってないなら――」先生が有意義な提案を切り出した。「幼稚園は流石に無理だけど、狭くて良ければうちに泊まってく? この子送ってからになりますけど。早くシャワーとか浴びたいでしょ」

 千代はそれを耳にするや、自転車に跨ったまま静かに拳骨の突き上げプニョ・ボンバをした。

 しかし、嗚呼、雷神ペルンよりも黒き神チェルノボーグ[訳註:チェルノボーグはスラブ神話の死神。尚、グローズヌイとペルンの邦訳にそれぞれ《雷》の漢字が当てられているのは偶然である]に魅入られたこの哀れなる娘御にいつの日か安息の日が訪れんことを!

「甘いお言葉に甘えさせていただこうかと」

「ほんと狭いですけど。それと、えぇっと……」茉莉先生は騎士を馬上に仰ぎ見た。「先輩……さん? さきほどは有難うございました。ほんと助かりました」

「はい?」今度は千代が妙な声を出す。一無差別破壊活動家ウナ・テロリースタ・インディスクリミナーダとして通報されることを恐れ逃亡した張本人だからであるが、狂気めいた乱暴狼藉を咎められるどころか逆に礼謝されたのだから無理もない。

「お顔を上げなされ、御婦人。礼には及びませぬ」

「何がありがたかったんですか? 男の先生キレ気味に見えましたけど」

「あ、これ……」教諭は肩に掛けていた鞄から、小さな透明の可塑性包装を取り出して主従の前に提示した。

「え、なになに……うげ」そこにはまるで、何かの事件現場において鑑識係が袋に入れて収集する証拠品のような要領で、胸部を潰された昆虫の死骸が封入されていた。「何すかこれ。スズメバチ?」(スズメバチベスピーノスのことを日本語では《雀の蜂アビースパ・デ・ゴリオーン》と呼ぶ)[訳註:西vespinoの語源は印欧祖語のwebʰ-《縫うように飛ぶ》]

「フタモンアシナガバチであろう。成程あの距離からは判断できなんだが、危ういところであったな」(同じくアシナガバチポリスティーノスは《脚長の蜂アビースパ・コン・ピエルナス・ラルガス》)[訳註:同じく西polistinoの語源は古希語のπολιστήςポリステース《街作りの祖》]

「いやほんとビックリしました。持って帰ることもなかったんですけど、あのままにしといて後で子どもが触っても危ないですし」

「いや回収するなら別にティッシュとかでいいんじゃ……グロー」ここに来て、頭の回転の緩い従者は漸くこの虫の出自に思い当たった。数時間前に濡れチリ紙テヒード・ウーメドで拭い浄めた自分の手の指を、顔の前に掲げ改めて見返す。「うぇーっ!」

「園児が散らかしたビーズとか片付けるのにこういうの持ち歩いてるんですよー」千代の不幸について事情を知らぬ遠嶺茉莉は、事の核心とは関係のない情報を披露することでその大らかな性格を明らかにした。尤も、沼津の冥府に魅入られ続けた遍歴の従士の本当の不幸とは、今はすっかり拭われた彼女の手指のことではない。

「ああまた変な汗出てきたよ」なけなしの精気を振り絞って何とか気を取り直した千代は、いまだ己の腰にしがみついて離れようとせぬ背後の悪童を振り返って告げた。「サモンくんも気持ち悪いだろうよ。美女じゃない上に汗だくのお姉ちゃんなんかにいつまでもくっ付いてたらさ。とっとと降りれ」

「びじょじゃないほうはなまえなんていうの?」

「え、……チヨだが。お前、先生が私のこと呼ぶの聴いてなかったん」

「チヨか……」左門は従者の腹に回していた両腕を離すと、偉そうに腕組みをした。

「分かったら早く降りれ。暑苦しい」

ここからが半坐千代嬢の不幸の真骨頂である。

「あーーーっっ!」

 突如前方から発せられた素っ頓狂にして野太い声に、園児を含む一行は目を見張り、遠嶺教諭も腰を捻って振りさけみた。

「やっぱりお前らか!」千代さんに神の恵みあれ! 間方教諭である。

「うわ、うわ! うわわわわわ……」倉皇を来した百戦錬磨の従士は、急いで左門くんの両脇を抱え大地に下ろし立たせると、傍らの主に向かって叫んだ。「先輩! 行きましょう!」

「どうした常に賢明なるチヨさん?」

「どうしたんですか?」こちらに視線を戻した茉莉先生も訝る。恐怖は伝染するというが、相手に依ってはそうはならないようだ。

「ちょっ、いやっ、だから……」千代の脳裡には、男性教師と左門の両親と――最も剣呑なことには――交番から駆け付けた巡査数名に囲繞いにょうされ、近隣の警察署の電話から三軒茶屋の実家に連絡されている光景がまざまざと映写されている。一刻の猶予もない。「きょ」

「きょ?」

「また巨人が!」平時ですら鈍っている頭のネジが、緊急時に上手く働こう筈がない。

「巨人がどうしたね。巨人には寛大であれ、であろう?」

「巨人が――」千代の双眸が宙を泳ぐ。「――困ってます」

「そらきた!」

 主従は揃って愛機の後輪を上げると百八十度転身した。それから、狂える追跡者として誘拐犯に迫り来る間方は勿論、唖然としながらふたりの動向を見守る茉莉先生すらをも顧みることなく、いま来たばかりの道を急加速で発進する。

「しつれいしましたぁぁぁっ!」

「え? あ、はい。お気をつけてー」心穏やかなマリトルネスが、訳も分からず別れの挨拶をする。

「トオネ先生、捕まえて!」息を切らしながら走ってくる男性教師。

「チヨーーッ、またなーー!」

悪童マレドゥカードこと小パサモンテパサモンテ・エル・メノールは、大きく手を振って遍歴の一行を見送った。


さて、ドニャ・キホーテ主従は先刻の神社よりも更に西へと馬を進めたところで、先ずは千代さんの方が急制動を掛けた。

「いや、実際うちら悪いことしてないし――ていうかそれどころかパサモン助けてるわけだし、何で逃げてるんだ?」冷静になって考えれば当然そうなろう。「少なくとも女の先生の方は事情を知ってるわけだから……今からでも戻れないかな」

「チヨさんや、」騎士が背後から声を掛けた。「今更巨人に引き合わせろとは云わんがね、如何せん主を引き回し過ぎてはおらんかね」

「だってあのおっさん先生、絶対うちらのこと誘拐犯だと思ってたじゃないですか……富嶽三十六計逃げるしかなかったんですよ」[訳註:慥かにここも富士山のお膝元ではある]

「慥かに」今の今まで突撃の姿勢で構えていた日傘を遂に左腰に収めた阿僧祇花が、柄頭をその掌に弄びながら答えた。「青人草あおひとくさの為ならば犬馬の労を厭わぬとはいえ、二度迄も救ったその下民かみんの手で冤枉えんおうが故に蚊虻ぶんぼうの如く追い払われようとは業腹この上ない。しかし《郷原ごうはらは徳の賊》[訳註:自ら有徳の士を装う者を指す《郷原きょうげん》を人名風に読み改めたもの。或いは素直に(虚飾ならぬ)憤怒の罪を戒める言葉と解釈すべきか]とも謂うし、《虻蜂取らず》の言もある。蜂だろうが犬だろうがこの鬼武者からすれば正に鬼一口、大した骨折りでもないのだから、ここは道中の武勲よりも一路西下さいかへと急ぐべきではあるまいかのう」

「アブハチじゃなくてアシナガバチでしょう」この期に及んでいまだに無用な修辞を弄する主人に改めて呆れ返った千代は、蜂を仕留めた武勲とそれについての自負を従者である己にすら韜晦していた、その一貫性に乏しい虚栄心を責めた。「あの時点で逃げてなきゃ、そもそもあのおっさんに目を付けられることもなかったんですよもう」

「そうは仰有るがね。この老い耄れも到頭気が触れたのだと、そう早合点したのはチヨさん、おぬしの方ではないか」

 それはそうである。

「そりゃそうですけど……だってあんないきなり傘投げたら誰だってやべえこの人と思うでしょうよ。まァあの時は――」一刻を争う非常事態だったのだから他に考えが及ばなかったのであろう。「でも逃げた後にでも蜂のこと、すぐに教えてくれてれば」

「シベーレスが臍を曲げたやもと、そう申したであろう」

「シベ、え? シベリアの……超特急? 違う、理髪師か」

「それをいうならセビリアの理髪師じゃ。尤もこれが色事師ならばフアン、つまりこれまたイヴァンと相成る訳だが――それはそうと、恥ずかしながら鄙懐を具陳させてもらえば、それがしは此度の歴戦にて《獅子の騎士》の号を得ることは矢張り難しいとは感じていたものの、それでもあわよくばと願っておったのじゃ」

「しし? ライオンですか?」

「然様」

「私はシシより回転ドネル派ですが。ライオン見たけりゃ……動物園にでも行きます?」

「無用。加特力両王レイェス・カトリコスへの献上品でもない限りな」騎士は夕焼けの落とす街角の陰に目を細めた。「しかし蜂といえば、獅子を統べる地母神シベーレスはそら、蜂の女神でもあろうよ」

「シベリアは寒いところでしょうが。蜂なんかいませんて」

「シベリアだろうが悪天使ベリアルだろうが構わぬから今は一先ず忘れるのじゃ吾が御転婆なる妹よ。とどのつまりは斯く斯く然然しかじかな訳だから、それがしは今日この時より明日の曙までの間カバリェラ・デ・ラ・アベハ即ち《蜂の騎士》と名乗ることにしようと思う。第一、《獅子の騎士カバリェラ・デル・レオン》ではラ・マンチャの先達に肖ったのか、それとも円卓の騎士ユーヴェイン則ちイーヴァンの異名を拝借したのか区別も付かなかろうから」[訳註:尚、西語では一般に花粉や蜜を集める花蜂をabeja/他の昆虫を獲物とする肉食の狩蜂をavispaと呼んで区別するが、それぞれ前者は羅甸語/後者は印欧祖語起源の単語である]

「たしかに、」従士が主の決意表明を引き取って云った。「イーワンの異名は拝借しない方がいいですね。先ほども申し上げました通り、アレはバカですから」

「まあよかろう」騎士もこれ以上の由無し言の応酬は避けた。最早ラ・サンチャに帰還したところで、この老骨と弁舌の面において互角に遣り合えるのは半坐千代くらいであろう。

「サモンにベッタリくっ付かれてたから、背中がベタベタしてキモいったらないですよ。奴といい石松といい、老いも若きも男はアカンですね。エロガッパで」

「そうはいっても見殺しには出来まい」

「《犬も歩けば坊主に当たる》ってことはつまりですよ、逆に坊主が歩けば犬に当たられるわけで、後は猫踏んじゃおうが地雷踏んじゃおうがおかしくないんです。あんなチビがひとりで出歩いてんだから、まァ自業自得というかね……つって私だって、三茶から一歩出歩けばこの有り様ですから人のこと云えませんけど」千代はこれまでに被った災難の数々を反芻した。「自縄自縛というか、常時自縛してるようなもんです」(訳註:自爆?)

「道中隣すがらでの誘爆は御遠慮願いたいね。それに小ラサロも斯くやというあの悪童ピカリーリョからは随分と懐かれておったではないか。チヨさんも隅に置けぬわい」騎士が朗らかに笑う。

「冗談じゃない」従者は憤慨した。「私ゃショタコンじゃないっすから。あんなジャリガキのせいで犯罪者にされちゃたまんないですよ。ハンザ・ザ・ハンザイシャかっつの」

「やれやれ」堂々巡りである。

「東京の女子中生が静岡の……ここ静岡ですよね? 子どもさらったって何の得もありゃしませんし。ほら、アレ、笛吹いてネズミを連れてくお話あるじゃないですか……ブレーメンの」

「ハーメルンの笛吹き男かね」

「それです。それじゃあるまいし」

「成程の、おぬしは猫舌だそうだし、ネズミも易易と付いてはゆくまいな」

「うん、まァ……そうかな? せいぜいがブレーメンのホラ吹き女ってとこでしょう」

「ホラ吹き女とはそれがしのことかな?」

「いやいや……」ホラだ嘘だという話題は禁句である。「先輩は、ほら、嘘吐いたら皇帝になれなくなるわけですし――となるとホラ吹きは皇帝にならなくてもいいこの私でしょう」

「皇帝にならずば何となる? 無礼な宮廷道化師かね?」

「いやもっとアレ、帝国の参謀ブレイン的存在というか」

「然もなきゃ下品な頭脳ゲヒルンかしら」

「ほらほら、ブレーメンの……昔話。何でしたっけ?」

「音楽隊かな」

「それです。アレはたしか、ロバの上に猫が乗るやつでしょう。まさにシャーロットに乗ってる私じゃないですか」

「成程ブレーメンは自由ハンザ都市の一角。時にロバと猫の間には犬がおった筈じゃが?」

「もう犬はけっこうです。先輩はその、蜂を退治して園児たちを守った《シベリアの騎士》として鼻高々でいてくれりゃいいんですよ」

「天狗のようにかね」

「そうそう。あの、天狗とか……ピノキオのように」

「Dir, Seele des Freiherrn von Münchhausen!」《花の騎士カバジェーロ・デ・ラス・フローレス》[訳註:騎士が男性形を取っているが著者の書き損じか]は意地悪く応じた。「――矢張りホラ吹き女とはそれがしのことのようだなあ」

「え、なんで?」ピノッキオとは嘘を吐くと鼻が伸びる木偶人形のことである。

「まあよい」ドニャ・キホーテは再びイポグリフォに前進を促した。「おぬしが吹くのはたかだか口笛止まりであろう。それに――」

「ちょっと」千代が慌てて主人の後に続く。

「――シラノの鼻が伸びたのも、或いは想い姫ロクサーヌへの恋心を終生胸にひた隠していた故なのかも知れぬなあ」騎士は踏板を回しながらそう呟いた。

 ラ・サンチャの一行は駿河湾の畔、東海道線が行き交う線路沿いを一路、《静かなる岡コリーナ・トランキーラ》に向けひた走る。


食後に取った長時間の午睡が功を奏したか、沼津の対岸へと繋がる十レグア[訳註:実際には四~五十粁程と思われる]に及ぶ騎行を、惰弱で知られる遍歴の従士は見事耐え抜いた。騎士先生による日本史の授業にも最初の二時間前後は何とか付いて行ったが、九時を過ぎて道路照明灯と愛驢シャルロッテの光る双眼なしでは前進が儘ならぬ夜更けが彼女たちを包むようになると、千代さんの関心は夕餉と淋浴ドゥチャ、そして冷房の効いた快適な転宿先の閨房へと注がれることになり、花の方も売れっ子の塾講師顔負けの魅力的な講義を今少し待てば文明開花シビリサシオン・エン・フロールというところで早々に切り上げた。

 しかしそんな少女の想いとは裏腹に、未成年ふたりの来泊を受け入れてくれそうな旅宿にはなかなか巡り合わない。無論、朝までに己を《蜂の騎士》として自己紹介する相手も、遂には現れなかったのである。

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