第8章 に於ける美事とは意力猛るドニャ・キホーテが空間的にして終ぞ幻影足り得ず差し迫る海際の冒険に得た美事のこと、附、思い返すだに愉しき他し事ども
LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA
清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ
Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.
POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM
A Prof. Lilavach
Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.
Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).
第八章
に於ける美事とは意力猛るドニャ・キホーテが空間的にして終ぞ幻影足り得ず差し迫る
海際の冒険に得た美事のこと、
Capítulo VIII.
Del buen suceso que la volitiva doña Quijote tuvo en la espacial y jamás ilusionada aventura del marino vigente,
con otros sucesos dignos de felice recordación.
短い夜が明けると、朝の早い年寄りのように
従者の半坐千代の方はといえば、こちらは寝返りを打つこともなく九時近くまで静かに眠りこけていた。しかし彼女を咎めるのは気の毒だろう。というのも昨晩改めて客室照明を点灯させた千代さんは――結局、
「こんな時間からレッツスタディーだのレディステディスタディーだのなんてことになった日にゃ、寝不足のあたしらは明日一日中目の下にテディベアをぶら下げて過ごすことになりますですよ」従士は兎も角、騎士の方は相当に寝不足な筈だけれども。「大体テディって何だ、テオドシウス帝か?」
「惜しい、だがそちらはクマではなくてローマじゃな」慥かにテオドーレもテオドシウスも元を辿れば《
「へぇそれはいい話……なのか?」趣味で人間狩りを嗜む
「アレは偏頭痛か何かだろう」[訳註:アレとは小説『蜘蛛の糸』『羅生門』の著者のこと]
「はぁ、家族を殺した敵の名前を付けられたとなると最早呪いの人形に見えてきますねテディ……チャッキー的な。プーさんとかのがまだマシだったわネーミングセンス」
「あちらはあちらで余り品の良い名前じゃないからの。
「あんまし人の名前を――熊か、バカにするもんじゃないですよ」
「心配せんでもこのまま落第すれば、おぬしも行く行くはプー太郎、いやプー子の仲間入りじゃて」《プー》とは即ち
「……それはクマる」[訳註:西語版では「…Unbearble.」と訳しており、恰もたった一度の講義で従士の英語力が飛躍的に向上したかのような脚色が為されている]
――待っていたのは八王子から相模湾まで実施された擬似夏期講習の続きであった。
騎乗で行われた講義に比べてずっと効率的な室内でのそれは、机上に備え付けられていた
飽く迄も義務を重んじること。騎士にとってそれは、
「老婆心ながら御忠告申し上げるが」窓越しに腰掛けて長い瞑想から醒めたドニャ・キホーテは俄に立ち上がると、枕に沈む妹分の耳元にそっと唇を近付けて囁いた。
「ひやっ」千代が跳ね起きる。「――何!」
「小森の騎士から昨夜授かった、贖える空腹に苛まれし腹ペコ従士が手にするや忽ち朝餉に変じるというこの魔法の
「なんですって!」腹ペコ従士は主人の手からその
千代は浴室に飛び込んで小用を済ますと、しだらない装いのまま廊下に出ようとしたものだがら、普段鷹揚な花も堪らずこれを呼び咎めた。「衣は食の先に来るものだろうに!」
「勉強家の騎士様も生物は得意科目じゃないようですね。胃は食道の後なんですよ」こういった減らず口を叩きながら[訳註:花「
「それがしはもう済ませたから、千代さんは気兼ねなく舌と腹の太鼓を打ってきなさい」
「あ」気の利かぬ従者は、今になって綺麗に片付けられた卓上を見遣った。「残飯処理させてすみません……」
食べ散らかした菓子を朝食代わりとしたのだろう。
焼き立てのパンと
そこに立ち現れたのは、昨夜ルパンの猟色を疑われた黒馬乗りの石川五右衛門だ。
「おはようチヨちゃん。底なし沼津の胃袋にホテルの御飯はあらかた沈んだところかね」
「おそようございます石の森松さん[訳註:音源まま。因みに著者は「おそよう」をBuenas días/tardes.=英Good day(morning)/afternoon.の複合語として「Buenas tardías.」と西語訳している。形容詞tardío《遅れ馳せな/後期、晩期の》]」わざと視線を合わせずに澄ました声色を装った千代は静かに
「おやおや気を付けて。これはラングドシャを手土産にすべきだったかな」そう言って何かを差し出す烏小路。
「たしかにあれはコーヒーに合いそうですけど……どうも」その何かを受け取る千代。「お昼ごはんですか?……一応訊きますけど、私の猫舌とラングドシャに何の関係が」
「ラングドシャは猫の舌って意味だから」
「え……どの辺が?」筆者自身使用した経験はないが、慥かにいつだったか
「ラ・サンチャの騎士に並ぼうと思ったら、
「酢こんぶだろうがスキャンティだろが好きなだけ好きなスキモノになればいいさ」黒光りする水面に
「騎士殿のことは知らないが、不自由なのは日本語よりも人付き合いかもね」笑う学士。「何にせよ疑問点を口にするのはいいことだ」
「昨日と言ってること変わってますけど」相手に話を合わせることが出来れば中身を理解する必要はなかった筈だ。大食の対価として込み上げる
「チヨさんが取持ち婆にでもなってくれなきゃ不可能だね」[訳註:中世の欧州に於いて、高貴な身分の男女の恋を仲立ちする役割を
「誰がババアだ」
「胃の腑が満ちるや否や、」食堂に鳴り響いた玲瓏たる大音声には従士と学士のみならず、手際よく次なる
「あれ先輩それ私の荷物」そこには十全に旅支度を整えたドニャ・キホーテの姿があった。
「これはキホーテ卿、ご機嫌麗しゅう」烏小路は仰々しい身振りで見事な
「今ブラトップって言いませんでした?」千代が耳聡く突っ込む。
「いや、充分厄介になり申した。しかしそれがしの草鞋は一刻も早く人に仇なす沼の主を成敗したいと見え、気が付けばすっぽりとこの両足をその内に収めておりましたのです」
「それはそれは、ゼウスとマイアの子にしてオリュンポス十二神の
「となれば水星の神ヘルメスからそのサンダリアを、そして処女神パラス・アテナーからは青銅鏡の盾を授かった英雄ペルセウス宜しく、ゴルゴン成敗と海獣ケートス退治がこのドニャ・キホーテの行く手に待ち構えているということです」
「ケートゥスとなると――捕鯨ですか」
「イポグリフォに跨る以上獲物は
「硬い尻は大抵軽いものですがそれはそれとして――」如何にも引き締まった騎士の尻に気付いてか直ぐ様話題を戻す学士。「素晴らしい。これで貴顕も晴れて、その驕りにて海神の怒りを買った母カッシオペイアの、その美貌を更に
「ん?」千代は得も知れぬ違和感を覚えた。
「まま、待ちなされい学士殿。論より証拠と申しましょう」
「いやあ、カラスの舌にゃ紹興酒よか
「――んん?」
「捕らぬ鯨の骨算用となっては騎士の名折れじゃ」
「もっとも、」千代が朧げな読書体験の記憶を紐解き、ふたりの中に割って入る。「折角骨折って捕った鯨を、帰り道で鮫に盗られて骨だけにされちゃう話もあるでしょうよ」
「チヨさん、」騎士は鋭く切り込んだ。「『
「マッ……コウ」いずれも粗筋だけで、実際に読んだことはなかったのかもしれない。
「では参ろうか」花は千代の車輪付きを本人に託すと、出口に向かって意気揚々、羽根も付いていなければエルメス製でもないものの、その
「それでは小生は城の主に、ラ・サンチャの名宝にして北天のアルゴルたるドニャ・キホーテその人の出立を知らせて参りますので、どうぞお先に跳ね橋をお渡りくだされ」
「名は実の賓という言葉通り、主殿の徳に応えてこその客。客寓の誉れを受けたそれがしは是非とも御挨拶すべきところだが」
「ブライダルの王は肝の小さい御仁でしてな。貴顕の尊顔を拝する機会は僥倖の至りなれど、直に対面してはその威厳と美君っぷりに肝を冷やしたり潰したりしてしまいます故」
「それでは御遠慮いたそう。呉れ呉れもドニャ・キホーテの謝意を」
「トゥーシャイシャイガイにお伝えしておきます。それでは」学士は騎士に一礼すると、まだ座席を立ってもいない従者を振り返ってこう付け加える。「従士さんの馬食は諒解済みだが、朝のコーヒーもクジラ並みに飲み干さねば満たされないかね」
千代さんは自前の猫の舌を出してそれに答えた。
駐車場の片隅に停車してあったシャルロッテの鞍に重い腰を乗せた遍歴の従士は、今更になって「出掛けにも一回シャワー浴びようと思ってたのに」とボヤいた。「あ、ちょっ……あれ? 大丈夫かなタイヤ」昨晩からママチャリの具合も芳しくないようだ。
「さて我らが黄金の雨、セリーポスの
「
「さすればアテーナーの青銅の盾はどうでしょう。あれは入り用ではありませんか」
「鏡の……盾ですかな」
烏小路が返答するのに幾らか間が空いた。「――仰せの、通りで」
「鏡の盾なんか相手の剣が当たればすぐ割れちゃうでしょうよ」無学な従者が口を挿む。
「そうではないのだ吾が妹よ」騎士はドゥリンダナを鞘に収めて解説を始めた。「メドゥーサが持つ宝石の目は、直に目を合わせると恐怖の余り金縛りに合うとも石化するとも伝えられる。だから鏡を張り付けた盾で彼女の位置を確認しながら、
「卑怯ですねえそれ。第一寝てるんだったら目もつぶってるんじゃないですか?」
「チヨちゃんだって半目を開けて眠るだろう」学士が茶々を入れる。
「適当なことを言わんでください」
「とまれ、」ドニャ・キホーテは仕切り直す。「あの報われぬ若き女王を負かすには、マケドニアの
「青銅だろうがヤギだろうが、正々堂々と戦わなきゃ詐欺みたいですよ」
「アイギスであるならば、」今度は千代の戯れ言を学士が遮って言う。「胸当てであっても構わんのではないですかな」
「アテネアの胸当てですか……」視線を落とす花。「胸襟を開いて申しますれば、それがしアテナやニュンパイ――つまりネーレイアスのことですが――彼女らの驕慢に付き合うてその走狗となり下がるのは気が進まぬのです」
「そういう貴女様は、ご自身の美しさを誇っておられない?」学士が切り込む。
「美しいなどと――」そう云うとドニャ・キホーテは、カラスコの顔を正中線に見据えた。
学士はそれこそ美しき毒蛇と目を合わせてしまったネズミか何かのように、舌と唇まで凍ってしまい口が利けない。
「――騎士殿の……いえ、学士殿の鏡が曇っておられる証拠ですよ」
「……ハァ」烏小路は息を呑む。
「Yo, Sansón, bien veo que no soy hermenéuticamente fea, pero también conozco que soy bastante disforme…[訳註:著者はこの女騎士の嘯きをうっかり直前の得業士の科白に組み込んでしまい、«no soy… feo»と《醜くはない》も恰もveo《見る、心得る》と韻を踏むかのように男性形で書き取っているが、文頭は「私、サンソンは~」ではなく「私は、サンソンよ、~」、つまり言い換えではなく呼び掛けである]――無論この期に及んで好き嫌いは申しません」そう断るや、花はイポグリフォに拍車を掛けた。「アテーナーとてアレースと双璧を為す戦の女神じゃ。アイギスの胸当てがあるのなら力をお借りしようではありませんか」
そういった、或いはそれに類した
愉快であったことをひとつ挙げるなら、店舗に辿り着くや千代さんが、今度は「朝10時から!」と叫んだ辺りだろうか。それも看板に書いてあったのだろう。
「さて、ムルキベルの脇盾なりアイギスの胸当てなり、剰えアキレスの円盾であったとて、貴顕の顔に燦と輝く天空神ホルスの両の目をもってすれば容易く見出だせましょうぞ」
「ちょっと森松」忠僕である従士が男の袖を引いた。
「略すなよ」
「どうせ偽名でしょうが」そう云って石松を主人の側からそっと引き離す。「あんた先輩に水着買わせてどうするつもりですよ」
「どうするってクジラ退治だろ」
「だろってアンタ……浜辺に鯨は出ないでしょうよ」千代が声を潜めているのは花の意気込みに配慮してのことだ。
「クジラが出なくってもゴジラくらいは出るかも知れん」学士に悪びれた様子はない。「たまにニュースで打ち上げられたりしてるし……どっちにしたってあの調子じゃ、服のまま波の中に突っ込みかねん。着衣水泳されちゃ後で大変なのは世話役の君じゃないか」
「ちょっ……それは困るが。でもホラ、先輩にエロいビキニ着せたのを盗撮したりしてネットにアップとかする気じゃないでしょうね」
「やれやれチヨちゃんの中の俺は一体どういうキャラなのかね」そう嘆いた学士はわざとらしく
「ハァ? 盗撮があれば警察もあるでしょ」
「それはあの方の野心の大きさと比べ、君の心が狭すぎるからでは?」
「O God,」ふたりと、そして間違いなくその場に居た他の買い物客や店員たちも、さぞやその突然の朗々たる大音声に喫驚し、また注意を惹かれたことだろう。「I could be bounded in a nutshell and count myself a king of infinite space, were it not that I have bad dreams.」少し離れたところでアイギスの水着を物色していたドニャ・キホーテは、短い台詞をさも愉しそうに断ち切るや颯々とした足取りで試着室へと消えた。
「ああびっくりした」ここ数日で慣れ始めていた筈の従者も思わず肝を冷やし、そして潰した模様。「ホテルでもそうだったけど人前でもあんな感じなんですよ。たしかに新人芸人の度胸試しみたいなテンションだなあ」
「いえいえベテランの大御所並だあね」烏小路は感慨深げに騎士の吶喊した個室の方を眺めた。
「大変なんすよ……で、アレはなんだったんすか。またハムレットですか」
「え!」この千代の問い掛けは、実際花の奇行にも況して学士に新鮮な驚きを与えたようである。「何で分かったの?」
「いや別に、テキトーですけど。英語のセリフといえばハムレットかトイレットくらいしか知りませんし」せめてハムレットかジュリエットと云うべきだろう。
「てっきり従士殿にはレアティーズよかレアチーズケーキ、ホレイショーよかバレイショーの方がお似合いかと」馬鈴薯とはジャガイモの支那名だ。成る程昨晩の夜食であったには違いない。
「そりゃこんな炎天下じゃ保冷しようって方が正論でしょうよハムでもベーコンでも[訳註:
「まァなんというか……たとえナッツの殻の中に閉じ込められようとも、気持ち次第じゃ広大無辺の宇宙の王様になれるってさ」[訳註:ご存知の通り英nutsには気狂いの意も]
「なるほど、意味が解ると面白いですね」カチャカチャと音がする。手慰みに従者も水着を手に取り吟味しているのだろう。「それに意味がないことが判れば安心も出来ますし」
「意味が無いかね」学士は飲み込むように相槌を打った。「物事には裏と表があるぜ?」
「意味があるとすればですね」すかさず念を押す千代。「引き籠もりが海水浴場のクイーンに変身したとしても、外野に撮影許可は下りないってことです!」
「カメコの趣味はないよ(原註:Cameco, camera-kozo = chaval fotofanático)」烏小路は穏やかに鼻で笑って千代の手元を見下ろす。「従士さんも試着してみたら?」
「う」従者は自分も水着を握り締めていることに気付いた。「……オゴリ?」
「Why, nothing comes amiss, so money comes withal.」演技上手の青年は、先の主演女優の身振り口振りを器用に真似て答えた。[訳註:「何、不都合などありません、金さえあればね」シェイクスピア『
「いやだから分かりませんて……」気付かぬ内に口元を綻ばせ心中筒抜けの千代さん。「知らない人、から、水着買ってもらっちゃ、いけないって、親から言われてるし。第一私泳がないし」ガチャガチャ。ありったけ持って行くつもりだ。「でも着るだけならタダだし」
善人の従者は主人の隣の部屋に突進すると仕切り幕を閉じた。
「気持ち次第じゃ宇宙の女王様か」烏小路参三はその様子を目で追ってから、いつになく沈鬱な声色で呟いた。「――《それが悪い夢でもなければ》ね」[訳註:お気付きとは思うが、主従ふたりから距離を置いた学士の、しかも呟き声などを集音器が拾える道理はない。つまりこの行の科白と描写は全て著者の創作である旨を註記しておく]
「たまに直穿きするバカ居るからな、気を付けてくださいよ……ハニャ・キホーテ先輩どんなんですか?」
数分後、試着室からひょっこり顔だけ抜け出したお茶目で恥知らずな従者が、外界と内部を区切る布をそのまま引き伸ばして身体を隠したまま隣の個室に接近し、その頭を他方の帳幕の隙間へと忍び込ませた。
「うわっ、ちょ、ギラギラ!」まさか随所に鏡を散りばめたような珍奇な水着など、幾ら《
「この意匠を見てくれチヨさん」騎士は胸を張って付き出した。
「ん、何ですか?」
「一足遅かったよ、早くも《
「つまりゴルゴンゾーラな女の味方との勝負は不戦勝で先輩の勝ち、これにておしまいめでたしめでたしってことでよいですか」
「それがそうでもないのだ。というのも――」
「あ」一旦花の個室から首を引っ込めた千代が、一定の距離を取って女衆の買い物が済むのを待っていた烏小路の姿を見咎めた。「エロ松が見てます。こっち見んな」
「――ペルセオに寝首を掻かれたメドゥーサは切り口より滴る血潮に交り、頭からは
「藪蛇ならぬ首から蛇ですな」
「あ、こっち来んな」こちらも首だけの姿になった千代さんは、銀盆に乗った
「万葉には《虎に乗り
「ミズチで思い出した」そう云って漸く素っ首を戻す千代。彼女の辞書に載っているかは定かでないが、ミズチとは水中に棲むという竜もしくは
「何だい」帳幕越しに相手をしてやる面倒見の良い烏小路。
「だから、イシマツさんみたいなのがうちらみたいな汚れなき乙女に如何わしいことをしようとしたら、我らが威張んないハナ雷帝が正義のイカヅチをその脳天に降らせるぜってことです」[訳註:第六章での意訳に則して、「石松さんみたいな
「そうやって上手く追っ払おうとしても、そうはイカの
「それを謂うなら
そう云って開帳した騎士は、既にほぼほぼ武装を整えていた。
「あら」落胆する学士。[訳註:ここでは敢えて英語のやや古風な間投詞«Alas»を訳語に当てているが、対して西語のalaは翼の意]
「チヨさんや、すまぬが帷子の後背を結わえてくれるかの」
「あ、そうだ忘れてた」すると従者も続いて試着室から出てくる。介助が必要とすればアベンセラーヘの拘束衣か。「よくひとりで脱げましたねこれ」
「
「猿田彦であれば、ここ沼津でも縁があるやもしれませんが――[訳註:廣重画の『東海道五拾三次』「沼津黄昏図」に描かれる、金毘羅詣の旅人が背負った天狗面に基づいた発言だろう]」石松はそう嘯きながら、手ぶらで退室したふたりを訝って眺めた。「あの、それでおふた方の水着、もとい海戦用装束は……お気に召さなかったですかな?」
それを聴いた千代は、さも当然と云わんばかりの面相で襟元に指を突っ込むと、その内側から紐付きの紙切れを引っ張り出す。
「うわ、え?……どういうこと」
「だって向こうで着替えるとこないかもじゃないですか」服の下に着込んだのか!
「――って、夏休み中にプール登校する小学生じゃないんだから……ってあれ? 貴顕もですか?」どうやらドニャ・キホーテの項からも値札が垂れていたらしい。[訳註:花は寛衣を着ている筈なので、矢張り本人或いは従者の手に依って値札を引き出されたのだろう]
すっかり主従の
「そういった経緯であるからカラスコージ殿、西果ての
「バドスと仰りますと、」ケルピエの嘶きを宥めつつ学士が訊ねる。「浜辺よりも川べりに参った方が宜しいでしょうか? 踵もとい蹄を返すことになりますが」
「それには及びませぬよ」騎士は穏やかに笑った。「怒髪天を衝くネレウスの
「ほう……怒り心頭の
「御名答――両性具有の
「ラ・サンチャの甲斐姫が望みとあらば合点承知の助六鮨ですよ」
そう
「あんま人居ないですねえ。穴場なのかあるいは――」従士が水平線と波打ち際を交互に見渡す。「――単に
「
「如何にも。これがアマディス閣下の許に参じた後であれば、常山の蛇勢の言葉通り――世に謂う《Unus pro omnibus, omnes pro uno》じゃ。だが此度に限ってはそれがし独りに任せてもらおう。それにトラキアの反骨漢は最期の戦いの前に己の愛馬を斬り捨てたと謂うが、後世に《
化け鯨との開戦を待ち侘びて歩み出した騎士の背を見送りながら、千代が驢馬から下りて
「従士殿からしても、
「そりゃそうですけど」ふたりも後を追う。慥かに真夏の浜辺から連想されるような喧騒は伝わってこない。「海水ってベタベタするし、髪もパサパサになるからあんま入りたくないんですよね。どうせならリゾートホテルのでかいプールとかの方が」
「プールはプールでパサパサになるでしょうよ」
「そりゃまァ、」千代さんは何気なく答えた。「
「化け蟹カルキノスが出現しましたと!」十数歩ほど前方から騎士の咆号が届く。
「お構いなく!」透かさず
「はていつの間にそれがしは、不死の首持つレルナの海蛇と干戈を交えておりましたかな」
「いやそれはほら、先ほど百の首持つラドンについてお話されていた時分、そちら究竟の
「なんと!」慈悲深い騎士は沈痛の面持ちで
「蛇とか鯨を退治するのは結構ですけど、」従者はうんざりした声で砂浜を歩く。「ラドンだのうどんだのって、怪獣映画はそろそろ卒業するお年頃なんじゃないすかねまったく」
……
「ラドンにせよキングギドラにせよ一応は神話がモチーフだろ。チヨさんにとっちゃ空想よりも食うことのが大事でしょうから、神話なんか知らんわってのが本音だろうが。そんなことより僕らは精々、アテナの水着を纏ったアフロディーテの
「自分はセクハラ松のくせに。私だってアフロディーテがアフロじゃないとか、ビーナスがナスビじゃないとかくらい知ってますからね」
「それは失礼しました。しかしなすびとは意外と年寄り臭い」
「……ナントカじゃとか云ってる女子高生よりはマシですけど」
「じゃあ関西のJKは全員ババアだな。それじゃ僕は、吉祥天の勇み肌が日焼けしないように、向こうでパラソルでも借りてきますよ」
「リアルでJKとか言うおっさん初めて見たよ。いてらーです[訳註:欧米では中学と高校を区別しない事例が殆ど。因みに著者は「いてらーです」を「
何にせよJK従士は、打ち寄せる
浜辺の中央に陣取った
「あ、先輩私ウォータープルーフのUVローション持ってますけど、塗りますか?」存外
「うむ、申し出は有り難いが、戴冠前に
「クリスマス? いや折角肌白いのにもったいないかなと。まァハラ松がパラソル借りてきてくれるみたいですけど……うぉっ、まぶしっ」眩しいのは女騎士の白磁の肌ではなく、それを覆った鏡のアイギスであろう。照り付ける陽射しに反射しているのだ。「あ」
俄に陽光が遮られたかと思うと、乙女たちの肌身を慈愛の蔭が覆った。
「おまちどう」
「これは――、大地の恵みたる
「《
「やれやれ、慥かに近親姦の王子アドニスは
「先ずはご無礼をお許しください」烏小路は丁寧に頭を下げた。「ドニャ・キホーテ様の想い姫への忠順を測るような真似を致しました。されど貴顕もあの愛馬を、馬銜の外れた《
「頭をお上げなさい」騎士はにこやかにそう云ってから続けた。「いや何、イポグリフォの名はそれがしの命名ではありませなんだ。しかし成程な、敢えて《
「はい、先輩バンザイして」
「うっ……む、上首尾じゃ」残りの寛衣だか肩紐襯衣だかはひとりでも脱げよう。
それからすっくと立ち上がるや、順々に釦を外しながら以下のような
Hipogrifo violento
荒ぶる半鷲半馬よ
que corriste parejas con el viento,
汝は疾風の
¿dónde, rayo sin llama,
何処へ行くのか、炎なき雷鎚、
pájaro sin matiz, pez sin escama,
彩なき鳥、鱗なき魚、
y bruto sin instinto
そして
natural, al confuso laberinto
de esas desnudas peñas
漠たる迷宮の
te desbocas, te arrastras y despeñas?
汝は悶え、這い、崖下に転げて堕ちるのか?
Quédate en este monte,
此れが山阿に留まるならば、
donde tengan los brutos su Faetonte;
獣どもの根城に
「はてさて奈落に消えたのは、馬かそれともそれがしか」上衣をひらりと投げ捨てたのを、従者が器用に捕捉する。
「視姦松こっち見んなよ」そう云いつつも、目の前にピリリと引き締まった尻があるものだから、仕方なく(花の称するところの)
「其が奈落だろうがラグナラクだろうが」学士は膝を突いて敬拝の所作を見せた。「小生は老いらくを賭してでもお供いたしましょう。ポローニアの沼に降り立ったラ・サンチャの天華は、
「ちょっ、キラッキラというかギラッギラですね先輩。そして改めて細っ!」エロ松の視線妨害の任を忘れ、同性の千代さんですら暫くの間その肢体に見惚れてしまった。
「小森の騎士殿――」ドニャ・キホーテが嫋やかな物腰で呼び掛ける。
「はっ、なんなりと」
「御身の目が捉えているのはそれがしの身に付けたこの鏡、青銅鏡のアイギスに映りし御身の姿そのものじゃ。嘗てパルナッソス山の泉の水面に映った己に恋い焦がれ、その唇を求めて溺没したあの高慢な少年の二の舞いにならぬよう」
学士はまた少しの時間、口を真一文字に結んでいたが、それから噛み締めるような口振りで、「肝に銘じておきましょう。小生が溺れても、
さて、アテネアの庇護とゴルゴンの瞳に守られた
「ビキニじゃなくて残念でした」荷物の整理をしながら千代が憎まれ口を叩いた。
「それはチヨさんが勝手に云ったことだろう」学士は鼻で笑う。「それに太平洋に放射線を撒き散らした、あの単細胞の核分裂マニアどもの遊び場に僕は興味が無いからね」
「少なくとも私に対してはまともな日本語で会話してくださいよ……先輩はともかく何でアナタまでいちいちセリフが芝居くさいねん。フラレて悔しいのはお察ししますけど」そもそもラ・サンチャの騎士にはドゥルシネーアが、サラマンドラの学士にはカシルデーラという歴とした恋人が居るのだ。「さっきみたくいきなし漢文とか引用されても珍紛漢文だってば。何すか《陣中に見舞いあり》て、お中元かよ」
「《馬中に赤兎あり》ね――赤兎馬って分かる?」
「さァ……関サバなら海中にありでしょうな」
「沼津の海に関サバは居ないだろうね」
「何だよ使えねえ沼だな……」ヘレスに来てマデイラ酒を出せと騒いでも始まらぬ。「こんな泥水の中を泳がせたら先輩のキレイなお尻にニキビが出来ちまうぜ」
「布地が多かったのが不幸中の幸いか」苦笑する参三。「しかし見なさいよチヨさん。あんなバカみたいな水着でも、ラ・サンチャの花咲ける騎士殿がその身に纏えば天女の羽衣よりも神々しいじゃないか」
「月に帰っちゃうと困るからって、先輩の使用済み水着を盗んだりとかやめてくださいよ」
「月に帰るのはかぐや姫だよ」どちらも天界の乙女が地上の人間に幸を施した後、本来の自分の在るべき場所に帰っていくお伽噺である。「まァ、ワンピースはラインが出るからね。細い子しか着れないわな」
「あはは」スキロポリアの日傘の下に隠れるように
烏小路が改めて少女を見下ろす。彼女もいつの間にやら着替えて(というより脱いで)いたのだった。
「ピースとは二本あってこそ成り立つセットのお値段……」消え入るような呟き。(La seña V con los dos dedos se llama simplemente «peace(paz)» en Japón.)「ワンピひとりじゃぼっち一本味の素だ」[訳註:料理する意欲も湧かない孤食者の舌をも満足させる、手軽で便利な旨味調味料の万能性を謳った標語だろうか。訳者は恐らくガレスの楽隊Stereophonicsに依る楽曲の歌詞«Only takes one match, to burn a thousand trees.»を念頭に置いたものだろう、代わりに《……
極めて慇懃な紳士たる烏小路は――
「わあちよさんちょうにあってるいろっぽい」
「ちょ、ぜってー嘘だし……つうかマジ引くわー。おっさんが女子中学生に言っていいセリフじゃないと思うんですけど?」[訳註:本稿と直接の関連性は薄いが、伊語で
「ボッキといえば、」ラ・サンチャの精華が振り返って容喙する。「――勿論これは御身らが今話題にしておるボローニャ生まれの
「は?」
「――つまるところチヨさん、学士殿がおっしゃる真意はこうじゃ。武者修行者といえば諸諸の冒険を経て世を遍照した暁にはいずれ王や皇帝に昇るものだが、如何に武功を積んだところで徳行を怠っては領袖足り得ぬ、と」
「このおっさんのセクハラ発言とそのボローニャ生まれの馬に乗ったアキレス腱は千パー関係ないと思いますが」
「然れど妹よ、
「いやはや騎士殿はアルゴスの目とミダスの耳を持ってらっしゃる」烏小路が千代を遮って花の放言を引き取った。「お察しの通り、小生が申したかったのはまさにそれ。少し付け加えるならば、ローマだろうがロシアだろうが大蒙古だろうが、それが無辺際のヌエバ・エスパーニャであろうが、いずれはイスファハーン宜しく世界の半分を治められるドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャにあっては、その家臣であっても無類の公正さを見せるものだと、そういったノリでチヨさんを賞嘆していたのですよその、アレッキ・ボッキの言葉をお借りしてね」
「ボッキ宮に彫られたホラティウスの言葉ということかな?」
「如何にもその通りです」彼は常に潔く前言を撤回する。「更に言えば小生の拙い記憶に拠ると、イスハファリンのその更に半分は慥か優しさで出来ているとヘロドトスも記しておりますから、統治者の分身たる忠臣の心根もさぞや寛大でありましょうや……ね?」
「――ということじゃチヨさん」行く行くのペルシアの
「女の子がボッキボッキって……」家臣は小声で口篭りながら赤面する。
「ではそれがしは四紘一宇のサファヴィー朝を打ち立てる手始めとして、かの海の魔物カーカスの椎骨をトボソの姫君への手土産にせんと、いざや新たな冒険を始めようぞ!」そう息巻いたドニャ・キホーテは、愛用の日傘を振り回しながら波打ち際に駆けて行く。「尤も、あの魔鯨がこのブラドイドの沼にも潜んでいるかは存じませぬがな」[訳註:カーカスというのは近年ペルシア湾にて目撃された巨鯨。因みにイスファハーンは十六世紀以降のイランを中心に栄えたサファヴィー朝ペルシアの首都であった]
「ご武運を。我々は貴顕の武功が恙なく達成せしめることを祈願し、念の為IWCに調査捕鯨の認可を申請しておきます故」
浜辺にぽつねんと残された《犬と猫》のふたり(日本人であれば《犬と猿》と呼ぶところだが)は、その美しく跳ねる流線型の後ろ姿を只々見送っていた。
「行っちゃった……」千代は視線を海岸線に注ぎながら項垂れる。「で、その呆れたボ……何とかってのは誰なんですか」
「『アギーレ/神の怒り』なら分かるが」[訳註:W・ヘルツォーク監督の西独映画]
「それが……それ?」
「知らん」サラマンドラの学士はしれっと答えた。
「……ホ、ホラ吹きティウス」
それから数分の間、従士と学士は勇ましく波間に戯れるドニャ・キホーテの英姿をぼんやりと眺めていた。
「従者殿は主の決闘に加勢しないのかね」烏小路がからかって訊ねる。「ご覧な。打ち上げられたケートスもカーカスも沼津の浜には見付けられんかったようだが、今度はご本人がまるで水を得た鯨じゃないか」
「決闘は一対一でしょ。余計な手を出したら怒られますよ」千代が突き離す。「それに月だの火星だのに興味はありませんね。私は名古屋で思う存分にダイブできますから」
「へえ、名古屋って伊勢湾か。スキューバとか出来るの?」
「ダイブはダイブでもコロダイですが」
「カルパッチョにでもするなりか」[訳註:実際にコロダイというイサキ科の魚がいる]
「しないなりよ。いやあんな危ないことしませんけど」[訳註:こちらのコロダイは、前述した《V系公演中の危険行為》のこと。第三章参照]
結局このふたりとて意思疎通がままならないわけだが、その点においては当の千代さんも、普段変人扱いしている阿僧祇花とさして変わらない
「まァ慥かに、君に海女さんの真似事は危なかろうね。銛で魚が突けるとも思えんし」
「ああ、そういや尼さんの雨がっぱまだ入ってるな……この天気じゃぜってえいらねえわ」
「徒に妖怪の名を出すと又ぞろご主人がこちらに駆けて来そうだが、」噛み合わぬ会話を切り上げた学士が切り出した。「それにしても我らがティアマトたるドニャ・キホーテ殿は、なかなか海中に入らないね」
「そりゃしょっぱくなっちゃうからでしょうや」ここ最近吐きっ放しの溜息を改めて吐き出した従者がいい加減なことを云う。「トマトを海の中になんか……入れちゃ? あれ、何か思い出しそうな」
突如、立ち上がる動作すらも省いたような機敏さで、学士が脱兎の如く駈け出した。直前まで寝そべっていたか否かは定かでないが、兎も角
「フェッ?」面食らった千代が慌ててその行く先を目で追うと、その方向は今まで寝惚け眼で見遣っていたそれと寸分も違わなかった。
烏小路参三に抱えられて舞い戻ったドニャ・キホーテは、恰も
「えっ、えっ、えっ」駆け寄った従士は、学士の腕の中に横たわる主人を覗き見るとおろおろとその周囲を行きつ戻りつしている。「ちょっ嘘、溺れたんですか?」
「そこ、日陰に」参三はスキラの日傘の下を顎で示した。
「はい!」
「タオル敷いて」
「え、はい!」
「それと頭の下にも」
千代はてきぱきと指示通りの仕事をしたが、手を動かしながら「あああ、そうだよそうだった。アンドーさんから言われてたんだった、言われてたのに」と涙声で呟き悔いた。電話で聴いた、海には入らないだろうという件[訳註:第六章参照]である。とはいえ事情が判らぬのだから彼女に罪はあるまい。存外
「い、生きてますか? あ、おっぱい触らないでください」
「触らないよ」そう言って脈を取るセクハラ松。「――れより心肺の心配の方が……」
「人工呼吸した方がいいで……すか?」すっかり
「出来ないだろうに。必要ないよ、水は飲んでなさそうだし」
そこに「大丈夫ですか」という野太い声が割って入る。海水浴場に常駐する
「大丈夫です。足を攣ったわけでもクラゲに刺されたわけでもないようですから。熱中症の十歩手前ってとこですね」
「ベッドもありますけど」
「ありがとうございます。飲み物もありますし、暫く休ませて様子を見ますよ」
「じゃあ、いつでも声を掛けてください」そう言って野太い声の主は屈んでいた上体を起こした。
「お騒がせしました」
「あ、ありがとうございました」従者も慌てて声の主の背に礼の言葉を投げる。
過疎気味な海辺であったのが
「やれやれまた意地を張って」参三青年は静臥する花の顔に視線を落とすなりボソリと漏らした。「さっき人を
「言えてないですよ」トボけた千代八が、まだ鼻水を啜りながら素でツッコミを入れる。
「ん?」
「ナルシスト」[訳註:こちらの方が西narcissistの異綴語だと思われる反面、慥かに独語でもNarzisstと綴られる]
思わず噴き出した森の学士は頭を掻きながら立ち上がると、傍に置かれていた買い物袋からまだ結露が付着したままの可塑性瓶を取り出すや従者に放り投げて以下に引き取った。
「首元か脇の下でも冷やしてやるといいよ。後はまァ、日射病じゃあないと思うが、頭に血が上ってるようだから膝枕でもしてあげたら? チヨちゃんの太腿なら騎士殿のお堅い
「あ、はい分かりました。ん、どういう意味だ!」そう抗弁しながらも従者は、主人の後頭部を恭しく持ち上げて自分の
すると学士はスキロポリアの陰からその身を出して、主従に背を向け歩き出す。
「ちょ、どこ行くの?」
「氷でも買ってこようと思ってね」
「なんで?」
「ドニャ・キホーテ殿は頭を、そして石松は綺麗なご婦人に触れて石のようになった下の頭を冷やさないといけないから」
「ハァ? 全然意味解んないですけど!」
「パラッツォ・ボッキには――」騎士がうっすらと目を開いた。
「あ、気付いた!」千代は目を輝かす。
「ホラティウスの碑文と対になって、詩篇の一節が刻字されているのじゃ」
「いやもうアレそのボッキはいいですから。先輩大丈夫なんですか?」
ひと息吐いてからドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャはこう続けた。
「Yah-weh haṣ-ṣî-lāh nap̄-šî miś-śə-p̄aṯ- še-qer; mil-lā-šō-wn rə-mî-yāh.」[訳註:残念ながら音源から聴こえる阿僧祇花本人の発音と、著者が転写したこのローマ字発音表記が完全に一致しているかどうかを判断する術もなければ、その知識もこの浅学なる訳者にはない。尤も、縦書きの日本文であれ横書きの西洋諸語であれ、
それから文字通り
「ちょ、あらら」顔に掛かった濡れた長い黒髪を掻き分けてやりながら千代が自分の顔をもたげて問う。「――何語ですか?」
「さあ。詩篇というからにはヘブライ語じゃないかしら」
「へえ……でどういう意味?」
「解るわけがない」図書館に辞書が無かったのだろう。
「まァそんなこったろうとは」今度は千代が鼻で笑う。「《能ない知ったかは詰めが甘い》とはよくぞ謂ったもんですわね。でも……ひとまず安心か」
――と、砂を踏む音が離れていく。
「氷はもういらないんじゃない? まァかき氷くらい買ってきてくれてもよいが」
「いやほら、見ての通り。ここで退散するよ……僕は水着じゃないからね」
「わあ濡れネズミ」
「そう笑ってられんのも今の内」駿河湾を見渡すサラマンドラ。「これでおあいこ恨みっこなしだ……とはいえ出来れば裏を見るのも忘れんでほしいところ」
「流石は
「いい男は乾かせば元通りだがねえ、」学士の声も少しずつ遠ざかっていく。「ご主人の大切な愛刀デュランダルは……いや今はアダマスのハルパーだったかな、いずれにせよあの無二の業物たるや一旦沖に流れたら戻ってはこないだろうぜ」
「ハァ?……だから私には日本語でしゃべれっつって――」そう苦情を垂れながら釣られて学士の視線を追った千代さんは、何とも書き取り難い叫号を上げると反射的に膝立ちとなった。どの向きで頭を預けていたのか我々には与り知らぬところだが、何れにせよ余計なものが詰まって破裂しそうなドニャ・キホーテの重い頭部は従士の柔らかな太腿から転がり落ちたことだろう。すんでのところで差し出した掌が、主の
千代は畳んだ
成る程猫の舌持つ従者は水着に着替えていたお陰で、見事な人命救助を成し遂げたケルピエの主人のような濡れ鼠とはならずに済んだ。(
こちらも見事にイポグリフォの主人が佩けしエクスカリブルだかアルタキアラだか――尤もこの剣もしくは長槍の名はその時々によって変遷するのだが――を
千代さんが生還して戻った時、石松の姿は既になかった。
話し相手もなく手持ち無沙汰となった従者は、一先ず主人の御髪をもう一度己の膝の上に掻き抱くと、その頭の下に敷かれていた手拭いで今度は自分の髪を乱雑に拭き始める。それからは傘の陰を吹く浜風で水滴の付着した肌を涼ませながら、所在ない暇日の一時を淑やかな
つと
「ハッ、余のグングニルは?」
「ハァ? ググる? 煮る? 何を?」
そう問いながらも寝惚け眼の前でわきわきと動く騎士の白魚のような運指を確認すると、多くの有能な遍歴の従者がそうであるように主人の欲するところを如才なく察した千代は、荒波の中から救出して後は開いた状態で傍らに日光浴させてあったドニャ・キホーテの愛刀たる、例の瀟洒な日傘をその掌の上にポンと乗せてあげる。
「おお……でかしたぞチヨさん」そう云いながら胸を撫で下ろした騎士は、余程寝心地が好かったのだろうか、三度その後頭部を生身の
「あらら。私がでかしたってんなら、ハニャ先輩の方は一体何をしでかしたんですかい」己の顔の下で丸まっている花を見下ろしながら、甘える幼子をあやすような形になった猫娘は早速騎士の相手をしてやる。
「よくぞ訊いてくれた吾が第一の妹よ」騎士は先般の荒事を思い返す為に目を閉じた。「ケートスを――いや最早彼の者はレビアタンと呼んで差し支えあるまい――兎も角も身の毛もよだつ大海の魔神を追って泡立つ波折りにこの身を晒したそれがしを待ち受けていたのは、遥か海平線の彼方より迫り来る、ルカ福音書に読まれた海のとどろきも斯くやというような
「つまりその、」千代は自分に向けて発せられている久方振りの世迷い言を懐かしいやらかったるいやら複雑な心境で聞き流しながらも、何とか会話を成立させようと無い頭で至極簡明な相槌を放った。「……鯨の代わりに波が来て、それがギリギリのとこで夢見る巨人に変身したってことですか?」
「大筋はその通りじゃ」騎士はつぶらな瞳を見開いて、布地によって支えられるご大層なふたつの
「それでか。一瞬すぎたんで私には、先輩に襲い掛かったその波が折角巨人だか神様だかになったってのに、ドニャ・キホーテに一発お見舞いされただけで簡単に夢だったと割り切って田舎に引っ込んじゃったのを見逃しちゃったってことですね。せいぜい誇張された夢だったんでしょうけど。因みに今日は月の日です。何番目の曜日かは知らん……第三?」
「うむ。おぬしの云う通り、」騎士が仰向けのままに腕組みをして唸る。「波が束の間垣間見た神になった夢なのか、将又波になった夢を視た神が寸陰の間目覚めただけなのか、これはそれがしにも判らぬ」
「まァそこはどっちだっていいですけど」恐らく海水を口に含んでしょっぱいまま乾いてしまっただろう主の唇に、微かに傾けた可塑性瓶の飲み口からちょろちょろと冷たい飲み物を流し込んでやった千代は、それで自分の渇いた喉をも潤してから当然の疑問をぶつける。「先輩が待ち望んでたその、なんだろう、南海の大決闘にはめでたく勝利したんですよねえ。じゃあどういうわけであんな浅瀬で溺れてたんです?《溺れる者は
「それはそれがしを付け狙い、遊歴の道中で当然達成されるであろう数多の燦然たる功名を悉く阻止せんが為にこれまでも幾度となく忌まわしき術を用いこのラ・サンチャの精華の武勲を邪魔立てしてきた不埒な魔法使い、その名も下劣なフレストン奴の仕業であることに寸分の疑いもないのじゃ」
「フレストン……聞き覚えがあります」
「本来それがしの纏うておる
「そういえば巨人って悪い奴なんでしたっけ?……なんか騎士のお師匠とかだった気が」
「思えばチヨさんら騎士ならぬ者たちの目に、あの見越し入道顔負けの偉丈夫が単なる大波としか映らなかったのも、これは悪しき賢人フレストンの所業と判じて相違あるまい。あれの魔力は凄まじいからな」
「ちょ、先輩病み上がりでそんなしゃべって大丈夫ですか」主の顔を覗き込む。「陸に上がったマグロ(原註:これは
「ヤマ上がりといえば、巨人のみならず人類の初祖ともされるユミルは『リグ・ウェーダ』に於けるヤマ、つまりは閻魔大王と同一視もされておる」
「閻魔様なら知ってます! 地獄で舌抜く人でしょ!」
「実際に舌を抜くのは大叫喚地獄は
「あの嘘八百松も閻魔様に舌抜いてもらわねえと」
「――閻魔様は浄玻璃の鏡で遍く罪を見通して裁きを下すだけさ……時に鏡の、いや森の学士カラスコージ卿はどうなされたかな」
「帰ってこないですね」
「よもやとは思うが、」騎士は半身を起こすと身を捩り、家来に顔だけで詰め寄った。「それがしがあの黒馬をケルピエなどと名付けたばかりに、主諸共昏冥の海中に引き摺り込まれたなんてことはあるまいな?」
「混迷して海中に溺れたのは先輩の方じゃないですか」真に迫ったドニャ・キホーテの動揺に気圧され仰け反りながらも、千代は何とか返答した。「カラスのサンゾーは図らずも着衣水泳しちゃったんで、着替えてくるって言ってどっかに消えましたよ」
「それは気の毒なことをした。己達せんと欲して人を達せしむとはいえど、一刻も早く課せられた密命を思い出さねばならぬ身空だったろうに思わぬ廻り道をさせてしもうたわい」
「今頃蜜豆でも喰ってんじゃないですか。私も被り水で髪パサパサですし、どっかで流してきますよ。ここシャワーあんのか知らんけど」
「チヨさんにも面倒を掛けたな。《白刃前を交われば》とも謂うし、戦時にあっては流れる矢に構う余裕もなければ
それを確認した従者は流石に痺れを切らし、「流石に痺れてきたので枕はこちらでお願いします。何とか今まで耐えられたのは先輩の頭が軽かったってだけですから」そう懇願してから、寝返りを打って
日本人に
可愛い先輩を何処の馬の骨とも知れぬ鉄馬乗りから取り返したはいいが、あれだけ待ち望んだ鬱陶しい花の痴れ言がいざ自分だけのものとして帰って来たとなると矢張り鬱陶しいことに変わりはなく、正座による麻痺と主の
「あれ、アメニティ私パクってこなかったっけ?」首を傾げる千代。
「アメン!」
「いやこんなクソ暑いのにラーメンはもういいですから……いやそれ以前に自前のお風呂グッズが入ってないっす。ホテルに忘れてきたか?」
「客舎には塵ひとつ残っておらなんだことは勇敢なるマプチェ族の英雄ラウタロの首に誓って真実であるぞ。時に箴言には《善なる物を探し求めそれに励む者は天恵を得ん》とあるけれど、一体チヨさんは何を捜しておるのじゃ」
「善なるものでは全然なくてただのシャンプーなんですけど、あれおかしいな」従者は立ち上がった。「入り切んなくてチャリのカゴに分けて置いてたかも。ちょっとシャルロット見てきますね」
結論を記すと、この時既に半坐千代の
但し、賢明なドニャ・キホーテの言葉を借りればまさに《
「ない!」
砂浜と舗装路を分かつ境目辺り、件の馬駐まで駆けて来た千代の叫喚が、蒼天に木霊して海鳥を
「シャロがいない! 違法路駐で移動された? 私だけナンデ?」
「ヒネス!」追い付いた騎士が、唖然とする従者の背後から何故か嬉しそうな罵り声を上げた。「おのれ憎っくき盗っ人のヒネス・デ・パサモンテの仕業じゃ」
「盗まれた?――ないない、ないですて。だって盗むなら断然先輩のグリちゃんでしょうが? うちのはボロのママチャリですよ……」そう云ってつい先刻までは並んで各々の主人の帰りを待っていたであろう傍らの競技用自転車に目を遣るなり、その
「ふむ、《只より高い物はなし》とも謂うしな……蓋しおぬしの御母堂ならば、それより点ふたつ分更に値が釣り上がるのじゃろて」[訳註:ロハ+濁点=ロバ。翻訳では「ロバ――則ち
それは地面の上にぽつねんと置かれたひとつの(主従の二人分あったかもしれないが)可塑性容器あるいは大きめな
「クソ松の野郎ォォォォォオオウゥ!」再度海岸に轟き渡る
すると片膝立てをして寄り添ったドニャ・キホーテは、萎れた妹の肩に手を置いて優しく情深い慰めの言葉を掛けた。
「案ずるなチヨさん。忘恩の徒ヒネスは陋劣な悪党なれど、おぬしの愛驢は間もなくその手の内にもとい股の間に戻ろう。寸善尺魔の徒し世とはいえ、こればかりは他ならぬチヨさんが
「何云ってんですか」
「涙を拭くのだ可哀想な母なし子よ」騎士は少女の頬を伝う硝子の粒を指で掬い上げて諭した。「それから砂を噛む前に鼻をかむとよい。母シャーロット皇女とは直ぐにもまた相見えるのじゃからの。それが確かなことであることの証として、万一今この時も吾等が旋毛を灼く日輪が
千代が泣き止んだ。「それは何でも好きなチャリを買ってくれるってことですか?」
「然様。それこそ
「電動のでもですか」
「それが
「それなら――」従士はもう一度鼻を啜り上げてから続ける。「チカさんも怒らないかも」
「何よりじゃ」
「海老で鯛……いやタイガーレベルの釣果か」[訳註:「
「善き哉。伴随の勤めの方もその調子で、則ち騎虎の勢いで宜しく頼むぞ」
「かしこまりです」晴れやかな返答である。こういった子どもの感情の激しい移り変わりを、日本では俗に《
「いずれあのロバ泥棒は捕えねばならぬ。成程
「にしてもあの泥松の変態野郎、うちのママをどうやって運んだんだろう? あのバイクのお尻に積んだのか……積めるか?」ここで立ち上がろうとした千代だったが、どうしたわけか不意によろける。「あ、立ちくらんだ。炎天下にいたから……それもこれも石松のせいだ。石抱きの刑にしてやる」
「おお、そこにあるは
「いやこれは」従者がさも忌々しげに歯噛みしつつ摘み上げて答える。「かき氷ですよ。正確にはかき氷だったモノというか……第一バルサミコ酢はもっとドス黒いでしょう」
「《
「とりあえず荷物を持ってきます」苛ついた従士は豪快に手元の蒼きコリアンテを飲み干すと、さもそれが烏小路改め怨敵ヘローニモ・デ・パサモンテの骨片でもあるかのように底に残っていた氷の屑をシャクシャクと憎々しげに噛みしだいた。「このまま追跡したら、特に私なんかただの露出狂ってことになりますし、盗難届を出すにしたって先にこっちが逮捕されちゃいますから」
これが本当なら思わず
怒りに我を忘れていた半坐千代の精神状態を恐察すれば無理からぬことではあったものの、逸る気持ちを抑え切れずに(この時点で風呂道具一式が見つかっていなかったにせよ)噴出湯水を浴びぬまま着衣を済ませてそのまま海水浴場を後にした不首尾を、彼女は後々になって悔やむことになる。その次第は次章に譲るとして、取り敢えず我々は主従の行先を見守ろう。[訳註:浜辺から引き上げる物音に耳をそばだてる限り、烏小路が借りてきたスキラの日傘を返却した様子はない。そのまま放置したのであろう]
ともあれふたりは出発した。
ここで寛大なる読者諸賢の気に掛かることがあるとすれば、愛車を失った従士が如何にして主人に伺候し得るかという問題であろう。何せ足がないのだ。
可能性の一つとして思い付くのは、イポグリフォの
となれば《
「サドル、私が座っちゃっていいんですか?」
「それがしは
「それはいいですけど、暴れ馬にはカゴ付いてないですよね。これどうしましょ?」肩に掛けられる
「騎馬に荷鞍は積まぬからな……さて、」数秒思案した後、「これはこうしたらどうかな」
「おお、それならなんとか」皆目分からない。「でも二人乗りしてる上にこんなアクロバティックなことしてたらやっぱ交番の前通れませんねえ。注意しないと……よいしょ」
「
「お願いしま……わ、ちょ、ちょ、ちょっ、こわいこわいこわ!」
瞬く間に加速した《荒ぶる半鷲半馬》は、ともすれば
喧騒に交じって、やけに
「チヨさんや」唐突に阿僧祇花が肩越しに声を掛けた。「
「ええ? ちょ、聴いてませんでした。もう一度歌ってください」
東海道をホルスか
「ええっと――、」車道の騒音を掻き分け懸命に耳を澄ませながら、素直な従士は半世紀以上前に流行した楽曲の解読を試みた。「泣いたんよ~、ああん、青い……ハワイ。泣いたのは赤い鬼じゃなかったでしたっけ」
これは日本の昔話だ。村人と友好関係を結びたかった
「御賢察。慥かに泣いてしかるべきは青鬼の方よな」騎士はそれまで引っ切り無しに回転させていた鐙の片側に重心を乗せ、車輪を空転させながら続けた。「成程、謀りが裏目に出るということならその読みも的を射ているかもしれぬが、それはそれとして――」
「それはそれでいいんですけどすみません、乗っけてもらって文句云うのも何ですが」申し訳なさげに主人の授業を遮った千代さんは、堪らず打ち明ける。「骨盤……恥骨が割れそう」
矢張り、羽根ならぬ
「それは大事だ。《
「脛骨じゃなくて恥骨ですよ……ん、坐骨?」
「存じておる」騎士は高速で進行しながらも、鷲の目で路辺の屋舎に目を留めた。「そらチヨさん、吾等姉妹が腹拵えするに
程なくしてふたりを乗せた自転車が緩やかに停車する。
「あいたたたた、ちょっと車体傾けてください」千代は足が届かないのだ。「あ~ヤバかった。今年は折角腹筋割ろうと思ってたのに先にケツが割れちまったですよ……あ、もうお昼ですか?」
「それがしの
「それじゃ私が、お腹ん中に寄生虫かなんかを飼育してるみたいじゃないですか失礼なまったく」事実千代の腹は主人の財布に寄生しているようなものである。「ホテル戻るのかと思ったら、左折して別の橋渡ったんですねえ。まァお陰でいい感じのカフェに入れてよかったけど。ああ姉妹のカフェってそういうことか」
「
「食べ歩きの食べ――旅だものそりゃ鳴くさゴハーンと! 腹いっぱい!」
「やれやれ、チヨさんは疾うに遺忘の果てとみえるが、此度の旅は只の回歴ではないのだぞ。
「終焉というか尾張名古屋ですけど。何気にオワコン扱いヒドイですよね」
「酷いのはおぬしの羅針であろうて。サートゥルヌスの日までにはアマディスの許に参集せねばならんのだから、一刻の猶予もなく一路西に馬を走らせるべきなのじゃ」
「そりゃ先輩に比べたら私の裸なんか見れたもんじゃないでしょうがね。こんなとこで猥談してたら営業妨害ですし、ブルーヒワイの強制わいせつ松がまだどっかに潜んどらんとも限りません、まずは一路店内に入りましょう。あ、手作りケーキだって」
そういった、又はそれに類する無駄話を経て、主従はその小洒落た喫茶店の
「で、さっきの青鬼の話は何だったんですか?」
明るい店内の一角に向かい合った主従の一方が、早速品書きを開きながら切り出した。
「いつからラ・サンチャが産んだこの不世出の姉妹は、大江山に参じた頼光と保昌になったのじゃ。尤も
「あ、あ~やっぱブルーハワイの唄だったんですね」千代は膝の代わりに卓上を打った。「どうりで、マカダミアナッツの箱に鬼が描いてあるわけだ」
「いい加減鬼から離れなさい。それにチョコの箱のあれはティキ像といってポリネシア由来の歴とした神様だよ」
「レッキとしたで思い出した」なかなか話が進まない。「さっき先輩が波と戦って溺れた時に、いやええっと、勝ってから溺れた時にまたボッキの話してたじゃないですか」嗚呼、慣れとは恐ろしいもので、今や純粋無垢な千代さんの唇からは何ら恥じらいの一片も感じ取れない。
「ボッキ宮正面の刻字のことじゃな。はてホラティウスかそれともダビデのそれか」
「ホラ吹きじゃない方。ほら、フビライ……ハン、語。エビフライ……ごはん。さすがにここ定食はないか。天丼とか。いやエビフライじゃないことは私にも分かりますが」
「エビフライ語というのも聴いてみたいものだな」
「名古屋に着いたらきっとエビフリャー語が聴けますよ。あ、これいい。すみませんケーキパフェセットふたつカフェラテとブレンドでフルーツタルトとキャラメルバナナお願いします――で何て云ってたんですか。逃亡松の野郎も翻訳できないって言ってましたけど」
「よいかチヨさん、あれはヘブライ語でこういった具合の意味合いなのじゃ――《ヤハウェよ、吾が魂を解き給へ、偽りの唇、欺きの舌から》」
「なるほど、つまり行いが正しきゃ王様になれるけど――」これにはその
「いや畏れ入った」騎士は嘆賞した「これは兜を脱がずにはおれぬわい」
「へ、カブト?」千代は心なしか狼狽したが、これは《ドンブリーノの兜》こと厚木の拉麺屋における分捕り品を、彼女が主人に断りなく三軒茶屋の生家に預けてきてしまったことについて釈明せねばならなくなるかもという早合点に依るものではないか――そう筆者は推察している。その為もあってか、花の引用したパラッツォ・ボッキを飾る詩篇の一節について、彼女がこれ以上深く考えることはなかった。
「そこまで理解しておるならば最早何も解題することはないな」
「ハァ、恐縮です……つまりあれですよ」話題を逸らそうとする従者。「カラスのサンゾーみたいな松ボッキリはやっぱり閻魔様に舌を抜いてもらうべきってことです。一枚抜かれても二枚舌だから問題ナッシングでしょうっつって」
女給が飲み物を運んでくる。
「あ、カフェラテです。奴は二枚目ぶってる感じが更にイラッときますよね。馬鹿女にはモテそうですけど、個人的にはああいうのは三枚におろしてやりたいです」
「今日が日はいつになく吾が賢妹との間にはだかっていた言葉の壁が、心なしか疎通して感じられるな」
「旅の恥は一時の恥ですし、掻き捨てるよりは掻き集めろってね……まァ話は通じた方が面白いですから」石松の受け売りである。「昇級試験に役立てば尚いいんですけど」
「殊勝な心懸けじゃ……ところで何処まで話したかな」
「ハワイがブルーになってるところです。アィチッ!」
「慥かに《
「ツツツツ……かめはめ波って青でしたっけ。あ、そうだ」軽く火傷した舌でどうでもよいことを思い出す従者。「ラングドシャって、日本語でなんていうか知ってます先輩?」
「猫舌かな」愚問である。「因みに
「ぐぬぬ……異議を申し立てたい」千代さんはぼそっと呟いたものの後が続かない。それからまた別のことを思い出して、椅子の脚と並び床に直立させていた台車付きを引っ張り出す。
「
「キャラメルというよかクッキーかなんかだと思いますけど、開けます……りゃ、なんだこれ。たまご?」
「見せてみよ」
「はい。なんだよ黒たまごって。意味不……キティ先輩はどうしたよ?」
「ふふ、御苦労なことだ」騎士はさも愉快そうに手に取った紙袋を開封すると、中から漆黒の殻に覆われた茹で卵を一玉摘み上げてその涼やかな明眸の前に翳した。「早旦大涌谷に立ち寄ってからこの沼津もといブラドイドの古城へと戻られたのだなあ」
[訳者補遺:この年の八月というと、噴火警戒水準の引き上げにより大涌谷の周辺には立ち入り規制が敷かれていた。一部の土産物店などが類似品を販売していたということなのかもしれないが、もし物語が真実二〇一五年の出来事であるならば、この商品が偽物であった可能性も大きい。というのも箱根町に拠れば、同年五月に生産中止となっていた黒たまごの販売が再開されるには翌年の四月末まで待たねばならなかった筈だからである]
「ママチャリ一台分の代金としちゃ釣り合わねえ……せめて金の卵とか寄越せよな」
「そうはイカの」腕を伸ばして紙袋を返却する。「――何とやら」
「うえっ、これ食べれるんですか?」洋菓子を期待していた、そして今現在も
「硫黄の匂いじゃな。一粒で
「寿命が延びるなら後でおやつ代わりにいただきましょう」この娘は常に
「幽鬼を裁く神といえばオシリスハデスと数居れど、斯様なまでに
「お尻の話はやめてください。あ、ありがとうございます」そそくさと茹で卵を荷物に収めてから、
「尻ならば左右半々じゃろて」
「まァ半ケツは助かりましたが……いや実質的に私が全ケツしちゃってたか。あっ先輩が満腹授かってるってんなら七三、いや八二でもかまいませんけど。今はまだ水っ腹でしょうし」悪気はないのだろうが失礼な家来だ。「――で、なんで温泉玉子がメイドなんです?」
「それはチヨさん、」
その後千代さんは「ひとりでデザートを二杯食べるのにはカロリー計算上無理がある」と宣言すると、「栄養のバランスを図るため」
「There are no more ways of killing a cat than choking it with ice cream…」
既に午刻を廻っていたものの、悪党に鹵獲された不幸なシャーロットを如何なる戦術で取り戻すかという作戦会議が卓上を賑わせることはなく、店を出るまでの小一時間は細胞と生殖及び糖質の代謝などについての講義に費やされた。こちらも悪気はないとはいえ、従者が
そして会計を済ませた騎士の駆る暴れ馬の背に再び跨った従士は、来るその日に彼女が天に召された折でも恐らく彼だけは閻魔に咎められることがないであろう正直者の胃袋が、因果応報の言葉通り食べた物の重みをそのまま持ち主の生命の重みに転化させた故に、先刻にも勝る地球の重力なるものの脅威をその尾骨に嫌というほど思い知ることとなった。
「早くも限界が近付いてまいりました」
音を上げるには早過ぎるが、無駄な贅肉は疎か必要な器官すらも手応えが感じられないほど幅奥行き共に心許ない主人のか細い腰にしがみついた千代は、乗鞍との尻擦れを回避しつつあわよくば負荷を分散させようと散々重心の移動を試み、万策尽きたのを確認した上で半ば堂々と泣き言を吐いた。実際これは股間だけの問題ではない。脚を不用意にぶらつかせていては後輪に巻き込まれる恐れもあるので、傍で見ているよりも余程色々な筋肉を酷使していたことだろう。但し筋肉の酷使でいえば、ドニャ・キホーテは
「今晩のホテルまではもちませんから、早々のご休憩を所望します」昨晩の宿で味を占めたと見え、また野宿の憂き目を見ようなどとは露程にも考えていない。
「今少しの辛抱じゃ。何せピリッポス二世やアレクサンドロス大王といった神速の
「いや、そこは、」何故か座っているだけの従者の方が息が上がっている。じりじりと照り付ける直射日光に晒されて兎にも角にも暑いのだ。「《風が吹いたら遅刻して雨が降ったらお休み》したという、あの偉大なカメハメハ大王の器のでかさを見習うべきじゃないですかね。彼ならこんなクソ暑い日は、ワイキキリゾートのプールサイドでブルーハワイ飲みながら優雅に過ごしてることうけあいです!」[訳註:童謡の中のハメハメハは飽くまで《南の島の大王》であってハワイの王様ではないし、それ以前に遅刻したり欠席したりするのは王子たちであって大王本人ではない]
「ハハハハハ」騎士は一時拍車を掛ける足を止めて愛馬の腹をきゅっと引き締めながらにこやかに哄笑すると、「《
それから騎乗の麗人は思い出したように、先ほどの
Night and you and Blue Hawaii...
The night is heavenly and you are heaven to me...
「それにブルーハワイを聞こし召すならば、」唄を中断した花は未成年らしからぬ
「大王様はシェラトンで、騎士様ご一行は炎天下の二人乗りサイクリングですか。これは早く先輩にも王様に……せめてホテル王くらいになってもらわんこっちゃ、家来としちゃあ青鬼じゃなくたって泣きたい気分ですよ」
「嘆くには当たらぬ」ドニャ・キホーテは悲観的な従者を優しく諌めた。「疑心
「私は今、気を抜くとお尻から頭のつむじあたりまで真っ二つに割れそうな状態ですから、その鬼退治だか熊退治だかはハニャ先輩の知恵と勇気にお任せしたい所存です。現状報告をすると、今の時点でへそのあたりまで割れてますので急いでください」
「よし」騎士は
こうなるともう
「すると自ずから、Blue Hawaiiも只の
「な、なるほど」
「詞は更にこう嘯く。《Come with me while the moon is on the sea...》云うまでもなく日輪は天高く、蓄積出来る量の数倍のブドウ糖がその出番を待っておるおぬしの脳天を容赦なく焦熱の炎獄と化せしめておるわけだから、ここで語られる月とは夜天から
「なるほど?」
「しかしこのcomeが
「なるほど!……ということはやっぱりパスタはやめてオムライスにして正解だったってことですね!――ッタ!」この時イポグリフォが段差を越えた為、跳ねた車体に一度は浮かんだ尻が手厳しく打ち付けられたが故の従者の悲鳴である。
「或いはそうかも知れぬ」主はひとつ咳払いをして続ける。「而して唄は、蒼きハワイにて夢は叶う、という。問題はこの先じゃ。《And mine could all come true...》これまでの晦渋な暗号を念頭に置けば、このマインは
「ツツツツゥ……そのマインはまいっちんぐの、マインで、すよ」
「
「《たまの失敗はスパイスだよね》と、昔のまいんちゃんも、歌ってましたけど……かなり酸っぱい、この状況にあっても、タマの心配をしなくて済むの、だけは、たまたま女に、生まれた賜物、と、云えます、か、な?」
「玉が無くとも股は痛かろうに」
「ば――バレテーラ!」
「それがしの両眼は西を向いておるが、その声を聴けばおぬしが肝脳地に
「そりゃ馬が西向きゃお恥ずかしいって諺通り、」
「そらチヨさん、元気を出すのじゃ」騎士が前方を指差して、恐らくロクに視界もないであろう千代さんの注意を促す。「今度は吾等鉄馬が腰を休めるに打って付けな蹄鉄鍛冶があるぞい。尤も
程なくしてふたりを乗せた競技用自転車が、鋭い制動音を立てながら急停車する。
「ちょっ、ぎゃあああ」耳目を脅かす号叫とともに、千代さんの全身の緊張が解かれた。
花がそっと自転車を傾けてくれたので、今や首の辺りまではパックリと分断されたのではないかと筆者が危惧するところの従者の四肢は、何とか五体満足のまま転がり落ちるように降車したのであった。
主従の目の前に現れたのは一軒の
「ああ無理、もう無理」股間をさすりながらしゃがみ込んだ千代さんは、徐ろに眼前の建物を見上げると、
「然るにそれがしは先程の鉱坑から鍛冶の神ウルカヌスを
「まだ見つからないと決まったわけじゃないですのにヤダー」主人の口上を遮るほどまでに浮ついた手負いの千代は、一転して何やら勝手に盛り上がっている。「まだこんな明るいのに。これは私のシャーロットに対する愛が試されているのか……でもたしかにこのまま二人乗りじゃ大変ですしねえ。どんなチャリがあるかくらい覗いてみるのも、いやそれならもっとおっきいお店で、っていうか事前にネットで調べてからの方がいいような気がしますが折角の先輩のご厚意を無駄にしたくないというこの純粋な忠義心は大切にしたい」
仮に阿僧祇花が何らかの
「失礼、身共は遠く泰東の江都シウダ・デステはラ・サンチャの城邑から
「あら、姉さん方じゃねえの?」
遊歴の騎士ドニャ・キホーテの前口上はこの短時間に一度ならず二度までも寸断された。
「あ、こんちは」千代が己が主に代わって店の主に挨拶をした。「電動のってあります?」
「いらっしゃい。いや何時間かしたら可愛いお嬢さんが二人連れで通り掛かるだろうって言うでしょ、だもんで随分待ってたですよ」
「はい。はい?」
「ほああ、たしかにバカ綺麗なお嬢さんだらー。ちょっと待ってて」老人はそのまま店の奥に引っ込んでしまった。
「バカ綺麗なお嬢さんだらーって」従士がその背を見送って独りごちた。「お嬢さんたちだらーでしょうが」
「ちょ」
その通り。行方不明だった従士の愛驢である。
「ちょっ、な?」
「それチヨさん、瞼の母との感動の再会じゃぞ。抱き締めてやらぬか」ドニャ・キホーテは従者の肩を叩いた。
シャーロットの支え台を立てた店主は事の経緯を――否、その前に修理内容について説明した。
「内部摩耗と両方なんだども直接の原因はこれリム打ちつって縁石とか乗り上げた時に穴空いちゃうですよ」
「穴?」
「パンク!」
「あ、はい」
「これ妹ちゃんのですね」
「はい。はい? はい」
「妹ちゃんは道路でホラ、段差とか越える時にさ、こうサドルにお尻乗っけたまま越えるでしょ」
「え、どうだろ。気にしたことないっす」
「だもんでタイヤの内側のさ、ホラこっち来てごらん――ここ」
「はぁ……」
「ここに、もうこれ取っ替えたヤツだけど、こうふたつ穴空くの。危ねえ危ねえ、あんまま飛んどったら。車道でハンドル取られたらハイサヨナラですよ。事故った後にタイヤ交換してもしょんにゃあら。そっちのお姉さんの方も、二人乗りなんかしてたら直ぐダメになっちゃうよ。折角いい自転車なのに」
「ハァ、気を付けます。なんか心なしかキレイになってますけど」
「暇だったもんでサービスで磨いちゃったですよ」
「あ、ありがとうございます……で、」シャーロットの所有者が核心に切り出す。「――これどうしてここにあるんですか」
「いや、だからですね」店主が捲った
「おい」
「はい?」
「いやなんでもないです」喉元まで出掛かった科白を飲み込む千代さん。
「チェーンなんかも結構摩耗してっからあんまし乱暴に乗ってっと……そうね、ウチ帰ったら一回近くの自転車屋さんで交換してもらうとええですわ」老人が店の前を流れる道路を見渡した。「呼ばれてから出てきたもんで、あんなんどうやってバイクに積んできたのか分かんねえですけど。ああ、お代は頂いてますんで、サインだけもらえますですかね」
「あ、はい」
「少々お待ちくださいな」店主は再度店内に引っ込んだ。
「あ、おねがいします」
「
暫し呆然とした後、ピカピカに生まれ変わったような愛機に跨った千代は、主人の方を振り返って云った。「わ、すっげえ乗りやすいです」
「それがしの予言した通りであろう。詰まるところ、吾が夢遍く叶うとはミーナに出で来る真実が――」
「ぶっちゃけ、」思わぬ乗り心地の好さに破顔した千代は、手綱を撫でて愛でながら以下のように呟く。「エレクトリカル・シャーロットは楽しみでしたけど、やっぱりこいつが最高です。おかえりシャロ~」
阿僧祇花は、今日何度目かの溜息を吐いてから微笑んだ。偽りの唇と欺きの舌に塗れた日に猫舌から零れた真実の言葉である。
蛇足ではあるが、往年の名盤『ブルー・ハワイ』の歌詞は、ドニャ・キホーテ流に解釈すれば以下の如く締め括られる。[訳註:対英訳は訳者。英mineが《私の》のままなので、差し詰め《半分ドニャ・キホーテ流》と書くべきだろう]
Se hacen los sueños realidad / Dreams come true
en Azul Hawaii... / in Blue Hawaii...
Y el mío todo se hiciera realidad, / And mine would all come true,
de ser caballero que monta a caballo... / to be a knight who rides a horse…
[訳者補遺:以下は実際の歌詞。対訳訳者。
Dreams come true in Blue Hawaii
夢は叶う 蒼きハワイでなら
And mine could all come true
そう僕の夢も すべて叶うはず
This magic night of nights with you
今宵奇跡の夜に 君と一緒なら
因みにこれは訳者の当て推量だが、
The magic knight of all knights with U(-shaped horseshoe) could all come through the mine.
U字の馬蹄持つ全ての騎士の中で魔法の騎士こそが彼の鉱坑を突き通ることが出来よう。
――という解釈ならば可能かもしれない。突き通るのは騎士でなく鉱夫の仕事とも思うが]
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