第8章 に於ける美事とは意力猛るドニャ・キホーテが空間的にして終ぞ幻影足り得ず差し迫る海際の冒険に得た美事のこと、附、思い返すだに愉しき他し事ども

LA INGENVA HEMBRA DOÑA QVIXOTE DE LA SANCHA

清廉なる雌士ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャ

Compuesto por Salsa de Avendaño Sabadoveja.


POST TENEBELLAS SPERO LVCELLVM

                    A Prof. Lilavach

Los personajes y los acontecimientos representados en esta novela son ficticios.

Cualquier similitud (o semejanza) a personas reales es involuntario (o no deliberado).



第八章

に於ける美事とは意力猛るドニャ・キホーテが空間的にして終ぞ幻影足り得ず差し迫る

海際の冒険に得た美事のこと、つけたり、思い返すだに愉しきあだし事ども

Capítulo VIII.

Del buen suceso que la volitiva doña Quijote tuvo en la espacial y jamás ilusionada aventura del marino vigente,

con otros sucesos dignos de felice recordación.


短い夜が明けると、朝の早い年寄りのように朗徹な寝起き振りマドゥルガドーラ・クリスタリーナを発揮した阿僧祇花は、傍らに眠る寝坊助の熟眠を妨げぬよう巧みな忍び尻クロ・デ・ニンジャを駆使して布団より這い出るや、浴室で顔を洗ってから寝台の下に座りひとり、徐ろに柔軟体操カリステーニアを始めた。

 従者の半坐千代の方はといえば、こちらは寝返りを打つこともなく九時近くまで静かに眠りこけていた。しかし彼女を咎めるのは気の毒だろう。というのも昨晩改めて客室照明を点灯させた千代さんは――結局、薄切り揚げ芋の澄煮汁味と海老味の双方アンバス・パタータス・フリタース・コン・サボール・ア・コンソメー・イ・ア・ガンバが開封された――、当然他愛もない夜の女子会タルデ・デ・チーカスめいたお喋りを期待していたのだろうが……

「こんな時間からレッツスタディーだのレディステディスタディーだのなんてことになった日にゃ、寝不足のあたしらは明日一日中目の下にテディベアをぶら下げて過ごすことになりますですよ」従士は兎も角、騎士の方は相当に寝不足な筈だけれども。「大体テディって何だ、テオドシウス帝か?」

「惜しい、だがそちらはクマではなくてローマじゃな」慥かにテオドーレもテオドシウスも元を辿れば《神の恩寵レガーロ・デ・ディオース》を意味する。「流石はアマディスに従う者よ――熊の方はそら、趣味の熊狩りで手負いの熊を、気紛れに一頭見逃した何処ぞの大統領に肖った名ではなかったかね」[訳註:アマデウスの名は《神を愛せ》と訳出できるが、アマディスは飽くまで《愛する者》で神は関係ない。尚、人名のTheodoreは英語読みだとセオドアと表記されることが多い]

「へぇそれはいい話……なのか?」趣味で人間狩りを嗜む殺人熊マタウマーノスが怪我したひとりを哀れみ止めを刺さなかったとして、果たして人間はその熊に感謝すべきだろうか?「まァ何だ、あの現国でやったナントカ門の――カンジタみたいなもんですな」

「アレは偏頭痛か何かだろう」[訳註:アレとは小説『蜘蛛の糸』『羅生門』の著者のこと]

「はぁ、家族を殺した敵の名前を付けられたとなると最早呪いの人形に見えてきますねテディ……チャッキー的な。プーさんとかのがまだマシだったわネーミングセンス」

「あちらはあちらで余り品の良い名前じゃないからの。おしっこウィーウィー――否、ウィーニーだとかプーだとか」[訳註:英語のweenie[wíːni]には《おちんちん》、poo[púː]には《うんこ》の意があるが、『くまのプーさん』はWinnie-the-Pooh[wíni ðə púː]なので発音はほぼ同じでも綴りが異なる]

「あんまし人の名前を――熊か、バカにするもんじゃないですよ」

「心配せんでもこのまま落第すれば、おぬしも行く行くはプー太郎、いやプー子の仲間入りじゃて」《プー》とは即ち無職デセンプレアードスのことである。金も無いのに色好みとなれば状況は更に悪化の一途を辿り、プータロは晴れて女郎狂いプタニェーロとなろう。「尤もこのまま騎士見習いに居座るなら、それはそれで立派なチヨさんの天職となろうがね」

「……それはクマる」[訳註:西語版では「…Unbearble.」と訳しており、恰もたった一度の講義で従士の英語力が飛躍的に向上したかのような脚色が為されている]

――待っていたのは八王子から相模湾まで実施された擬似夏期講習の続きであった。


騎乗で行われた講義に比べてずっと効率的な室内でのそれは、机上に備え付けられていた覚書帳ブロク・デ・ノータス球書筆ボリーグラフォも用いられながら深夜二時までに渡り、不出来な中学三年生がオームの法則の基礎問題から八割方の正解を導けるようになるのには更にそれより半時足らずを要した。

 飽く迄も義務を重んじること。騎士にとってそれは、アルマに於いてもプルーマに於いても別け隔てがないのだろう。

「老婆心ながら御忠告申し上げるが」窓越しに腰掛けて長い瞑想から醒めたドニャ・キホーテは俄に立ち上がると、枕に沈む妹分の耳元にそっと唇を近付けて囁いた。

「ひやっ」千代が跳ね起きる。「――何!」

「小森の騎士から昨夜授かった、贖える空腹に苛まれし腹ペコ従士が手にするや忽ち朝餉に変じるというこの魔法の食券ボウチェルは、あと三十分でその効力を失うようだが?」

「なんですって!」腹ペコ従士は主人の手からその魔法の引換券クポーン・マーヒコを引っ手繰った。「ホテルのビュッフェ……今何時? ギャッ!」

 千代は浴室に飛び込んで小用を済ますと、しだらない装いのまま廊下に出ようとしたものだがら、普段鷹揚な花も堪らずこれを呼び咎めた。「衣は食の先に来るものだろうに!」

「勉強家の騎士様も生物は得意科目じゃないようですね。胃は食道の後なんですよ」こういった減らず口を叩きながら[訳註:花「炉の女神エースティア野獣ベースティアであれ然りとて服は着たろうにトダビーア・セ・ベスティーア!」に対し、千代「神学テオロヒーアは~/聖餅オースティアス着るベスティールものではなく食べるコメールものなんですよ」]、主人の面前にも憚ることなくいそいそと着替えを始めた従者であったが、上衣を被ってる内に食券が一枚しかないことを思い出すなり、然も申し訳なさそうな調子でこう訊ねた。「ハニャ先輩朝ごはんは?」

「それがしはもう済ませたから、千代さんは気兼ねなく舌と腹の太鼓を打ってきなさい」

「あ」気の利かぬ従者は、今になって綺麗に片付けられた卓上を見遣った。「残飯処理させてすみません……」

食べ散らかした菓子を朝食代わりとしたのだろう。


焼き立てのパンと汁物ソパの他、一階の食堂内に並べられた全ての銀盤と鉄鍋の中身を少なくとも一摘みずつは自分の角盆バンデーハ・クアドラーダに移し置いた千代は、既に配膳係モソ・デ・コシーナが料理を下げ始めた今となってもまだ、移し置いた物を改めて自身の食道と胃袋に移し替える営みを続けていた。するとこちらは気の利いた宿の給仕が、本来自給式(これは下膳デスバラサールをも客の役目に含めている場合が多い)である筈の朝食の、空いた皿たちを引き取るついでに熱い珈琲を持ってきてくれる。至れり尽くせりノ・デハ・ナダ・ケ・デセアール、魔法の食券様々である。

 そこに立ち現れたのは、昨夜ルパンの猟色を疑われた黒馬乗りの石川五右衛門だ。

「おはようチヨちゃん。底なし沼津の胃袋にホテルの御飯はあらかた沈んだところかね」

「おそようございます石の森松さん[訳註:音源まま。因みに著者は「おそよう」をBuenas días/tardes.=英Good day(morning)/afternoon.の複合語として「Buenas tardías.」と西語訳している。形容詞tardío《遅れ馳せな/後期、晩期の》]」わざと視線を合わせずに澄ました声色を装った千代は静かに黒い飲料ベビーダ・ネーグラを啜ったが、親切な職員の運んできたそれは適切な温度で彼女の舌を焦がした。「あっち」

「おやおや気を付けて。これはラングドシャを手土産にすべきだったかな」そう言って何かを差し出す烏小路。

「たしかにあれはコーヒーに合いそうですけど……どうも」その何かを受け取る千代。「お昼ごはんですか?……一応訊きますけど、私の猫舌とラングドシャに何の関係が」

「ラングドシャは猫の舌って意味だから」

「え……どの辺が?」筆者自身使用した経験はないが、慥かにいつだったか合州国エスタードス・ウニードスの友人が同じような表現――熱いのが苦手な舌を《猫の舌キャット・タン》と呼ぶような――を使うのを聴いた記憶がある。そして菓子のラングドシャレングア・デ・ガトと動物の猫の舌レングア・デ・ロス・ガートスの形状が然程似ているとは思えないのも確かだ。同じ焼き菓子ガジェータならメス猫ガタより寧ろ《淑女の指レディフィンガー》の方がまだ納得性が高いのではないか?[訳註:西語では《可愛い足裏ソレティージャ》とも呼ばれるらしい。元の形は括れのある楕円なので、指よりは舌や足裏の方が似ているようにも思えるが]「……ヘンといえば、カラスさんは白い恋人よりは面白い変人ぐらいがちょうどいい感じですよな」

「ラ・サンチャの騎士に並ぼうと思ったら、堅焼き菓子ビスコッティじゃ役不足だな。せめて子爵ヴィスコンティくらいにゃならないと」そう嘯くとサラマンドラの学士は、有名な拳闘映画ペリークラ・デ・ボクセーオの主題曲を口笛で奏で始めた。

「酢こんぶだろうがスキャンティだろが好きなだけ好きなスキモノになればいいさ」黒光りする水面に西風神セーフィロ――というのも傍らの花の精クローリスの役割は彼女の主人に取っておきたいからなのだが――宜しく突き出した口唇を向けると、白い湯気が香りを乗せてゆらゆらと棚引いた。「というかうちの先輩もモリノさんご本人も日本語が不自由すぎますよ」

「騎士殿のことは知らないが、不自由なのは日本語よりも人付き合いかもね」笑う学士。「何にせよ疑問点を口にするのはいいことだ」

「昨日と言ってること変わってますけど」相手に話を合わせることが出来れば中身を理解する必要はなかった筈だ。大食の対価として込み上げるげっぷエルートを押し留めた従者は、その無作法を隠すかのようにゆっくりと溜息を吐く。「まァ夜這いに来なかっただけマシか」

「チヨさんが取持ち婆にでもなってくれなきゃ不可能だね」[訳註:中世の欧州に於いて、高貴な身分の男女の恋を仲立ちする役割を取り持ち女アルカウエータが担ったという史実がある。所謂女衒だが、裏では怪しげな媚薬を売り捌いたり、結婚前に傷物となった令嬢の処女膜再生手術を行うなど、魔女さながらの活躍を見せたという]

「誰がババアだ」

「胃の腑が満ちるや否や、」食堂に鳴り響いた玲瓏たる大音声には従士と学士のみならず、手際よく次なる昼飯時オラーリオ・デ・アルムエルソの用意を始めていた従業員の全てが耳を蕩かされ、思わず目の前の作業を中断しその瞠目を玄関前の騎士に注いだことであろう。「太鼓腹に居場所をなくした言葉の山が、竟には肺腑の底からあぶれ出たようじゃな」

「あれ先輩それ私の荷物」そこには十全に旅支度を整えたドニャ・キホーテの姿があった。

「これはキホーテ卿、ご機嫌麗しゅう」烏小路は仰々しい身振りで見事な紳士風挨拶インクリナールセ・イ・ラスカール[訳註:英bow and scrape《低頭と(右脚での)床擦り》]を披露する。「レイトチェックアウトで宜しかったですのに。ブラトップの城主もさぞやお名残惜しゅうございましょう」

「今ブラトップって言いませんでした?」千代が耳聡く突っ込む。

「いや、充分厄介になり申した。しかしそれがしの草鞋は一刻も早く人に仇なす沼の主を成敗したいと見え、気が付けばすっぽりとこの両足をその内に収めておりましたのです」

「それはそれは、ゼウスとマイアの子にしてオリュンポス十二神の一柱ひとはしらヘルメスの逸足を包んだというあの翼付き草履サンダリアス・アラーダス顔負けの頼もしさですなあ」

「となれば水星の神ヘルメスからそのサンダリアを、そして処女神パラス・アテナーからは青銅鏡の盾を授かった英雄ペルセウス宜しく、ゴルゴン成敗と海獣ケートス退治がこのドニャ・キホーテの行く手に待ち構えているということです」

「ケートゥスとなると――捕鯨ですか」

「イポグリフォに跨る以上獲物は魔鯱オルカとお思いでしょうが、何分昨日の今日で契丹カタイの尻軽女には懲り懲りでして」[訳註:第五章参照。箱根の峠で花が模倣したオルランドの発狂は支那の美姫アンジェリカへの失恋が原因であったが、この娘はオルカへの人身御供となったところをサラセンの英雄ルッジェーロに救出されながら直後に彼が持つ魔法の指輪を持ち逃げするという厚顔振りを見せる。因みに最終的に怪物を退治したのはオルランド]

「硬い尻は大抵軽いものですがそれはそれとして――」如何にも引き締まった騎士の尻に気付いてか直ぐ様話題を戻す学士。「素晴らしい。これで貴顕も晴れて、その驕りにて海神の怒りを買った母カッシオペイアの、その美貌を更に倍蓰ばいししたともいわれる超絶美人、エチオペアのアンドウロメダ姫を娶りてその大望を果たす運びと相成りましょうや」

「ん?」千代は得も知れぬ違和感を覚えた。

「まま、待ちなされい学士殿。論より証拠と申しましょう」

「いやあ、カラスの舌にゃ紹興酒よか糖蜜酒ロンですよ?」

「――んん?」

「捕らぬ鯨の骨算用となっては騎士の名折れじゃ」

「もっとも、」千代が朧げな読書体験の記憶を紐解き、ふたりの中に割って入る。「折角骨折って捕った鯨を、帰り道で鮫に盗られて骨だけにされちゃう話もあるでしょうよ」

「チヨさん、」騎士は鋭く切り込んだ。「『白鯨モビーディック』と『老人と海』が綯交ぜになっておるようじゃが、青鮫に喰われたのはマッコウクジラではなくて大カジキの方だよ」

「マッ……コウ」いずれも粗筋だけで、実際に読んだことはなかったのかもしれない。

「では参ろうか」花は千代の車輪付きを本人に託すと、出口に向かって意気揚々、羽根も付いていなければエルメス製でもないものの、その霊験ポデールだけは折り紙付きガランティサードといえようサンダリアの太踵を鳴らし去って行く。

「それでは小生は城の主に、ラ・サンチャの名宝にして北天のアルゴルたるドニャ・キホーテその人の出立を知らせて参りますので、どうぞお先に跳ね橋をお渡りくだされ」

「名は実の賓という言葉通り、主殿の徳に応えてこその客。客寓の誉れを受けたそれがしは是非とも御挨拶すべきところだが」

「ブライダルの王は肝の小さい御仁でしてな。貴顕の尊顔を拝する機会は僥倖の至りなれど、直に対面してはその威厳と美君っぷりに肝を冷やしたり潰したりしてしまいます故」

「それでは御遠慮いたそう。呉れ呉れもドニャ・キホーテの謝意を」

「トゥーシャイシャイガイにお伝えしておきます。それでは」学士は騎士に一礼すると、まだ座席を立ってもいない従者を振り返ってこう付け加える。「従士さんの馬食は諒解済みだが、朝のコーヒーもクジラ並みに飲み干さねば満たされないかね」

千代さんは自前の猫の舌を出してそれに答えた。


駐車場の片隅に停車してあったシャルロッテの鞍に重い腰を乗せた遍歴の従士は、今更になって「出掛けにも一回シャワー浴びようと思ってたのに」とボヤいた。「あ、ちょっ……あれ? 大丈夫かなタイヤ」昨晩からママチャリの具合も芳しくないようだ。

「さて我らが黄金の雨、セリーポスの嬰児みどりごよ」黒光りする水馬カバージョ・アクアーティコ・デル・ブリージョ・ネーグロを控え目に唸らせたサラマンドラの学士が、出陣のキホーテ嬢の脇に並ぶ。「醜怪なるメドゥーサの首級を上げる支度は万全ですかな」

鍛冶の神ヘパイストスが鍛えたアダマスの曲刀ハルパーと呼ぶには些か……直刀ですなあ」花は帯刀していた日傘を引き抜いて眼前に翳すと、玉眼を細めつつそう漏らす。「とはいえ曲がりなりにも紛い物にはあらず。成程この不世出の業物も、獲物を刈り取るのは不得手かも知れませぬが……ヘルメスの加護あらば、努努哀れな蛇娘の魔眼に遅れを取ることもありますまい」

「さすればアテーナーの青銅の盾はどうでしょう。あれは入り用ではありませんか」

「鏡の……盾ですかな」

 烏小路が返答するのに幾らか間が空いた。「――仰せの、通りで」

「鏡の盾なんか相手の剣が当たればすぐ割れちゃうでしょうよ」無学な従者が口を挿む。

「そうではないのだ吾が妹よ」騎士はドゥリンダナを鞘に収めて解説を始めた。「メドゥーサが持つ宝石の目は、直に目を合わせると恐怖の余り金縛りに合うとも石化するとも伝えられる。だから鏡を張り付けた盾で彼女の位置を確認しながら、午睡シエスタの最中に油断したその首を掻っ切ろうという戦法なのだ」

「卑怯ですねえそれ。第一寝てるんだったら目もつぶってるんじゃないですか?」

「チヨちゃんだって半目を開けて眠るだろう」学士が茶々を入れる。

「適当なことを言わんでください」

「とまれ、」ドニャ・キホーテは仕切り直す。「あの報われぬ若き女王を負かすには、マケドニアの重装歩兵ファランクスじゃないが青銅で鋳込まれた防具が必要なのだ。尤も、これは軍神の用いたアイギスと同一視する向きもあるようだから、山羊皮で出来ていることもあり得るが」

「青銅だろうがヤギだろうが、正々堂々と戦わなきゃ詐欺みたいですよ」

「アイギスであるならば、」今度は千代の戯れ言を学士が遮って言う。「胸当てであっても構わんのではないですかな」

「アテネアの胸当てですか……」視線を落とす花。「胸襟を開いて申しますれば、それがしアテナやニュンパイ――つまりネーレイアスのことですが――彼女らの驕慢に付き合うてその走狗となり下がるのは気が進まぬのです」

「そういう貴女様は、ご自身の美しさを誇っておられない?」学士が切り込む。

「美しいなどと――」そう云うとドニャ・キホーテは、カラスコの顔を正中線に見据えた。

 学士はそれこそ美しき毒蛇と目を合わせてしまったネズミか何かのように、舌と唇まで凍ってしまい口が利けない。

「――騎士殿の……いえ、学士殿の鏡が曇っておられる証拠ですよ」

「……ハァ」烏小路は息を呑む。

「Yo, Sansón, bien veo que no soy hermenéuticamente fea, pero también conozco que soy bastante disforme…[訳註:著者はこの女騎士の嘯きをうっかり直前の得業士の科白に組み込んでしまい、«no soy… feo»と《醜くはない》も恰もveo《見る、心得る》と韻を踏むかのように男性形で書き取っているが、文頭は「私、サンソンは~」ではなく「私は、サンソンよ、~」、つまり言い換えではなく呼び掛けである]――無論この期に及んで好き嫌いは申しません」そう断るや、花はイポグリフォに拍車を掛けた。「アテーナーとてアレースと双璧を為す戦の女神じゃ。アイギスの胸当てがあるのなら力をお借りしようではありませんか」


そういった、或いはそれに類した有益且つ不毛なウーティル・エ・イネフィカース遣り取りを交わしてから物の十分を数えぬ内に三者は、従士にとっては不滅の兵糧庫アルマセーン・インモルタル・デ・プロビスィオーネス、騎士にとっては魅惑の武器庫アルメリーア・ファスシナンテ、そして学士にとっては礼拝中の献金箱セピージョ・エン・ミサ(それも差入口の特別大きな)であるお馴染みの《殿堂サントゥアーリオ》、その中の一画を専有する水着売り場の前に居た。

 愉快であったことをひとつ挙げるなら、店舗に辿り着くや千代さんが、今度は「朝10時から!」と叫んだ辺りだろうか。それも看板に書いてあったのだろう。

「さて、ムルキベルの脇盾なりアイギスの胸当てなり、剰えアキレスの円盾であったとて、貴顕の顔に燦と輝く天空神ホルスの両の目をもってすれば容易く見出だせましょうぞ」

「ちょっと森松」忠僕である従士が男の袖を引いた。

「略すなよ」

「どうせ偽名でしょうが」そう云って石松を主人の側からそっと引き離す。「あんた先輩に水着買わせてどうするつもりですよ」

「どうするってクジラ退治だろ」

「だろってアンタ……浜辺に鯨は出ないでしょうよ」千代が声を潜めているのは花の意気込みに配慮してのことだ。

「クジラが出なくってもゴジラくらいは出るかも知れん」学士に悪びれた様子はない。「たまにニュースで打ち上げられたりしてるし……どっちにしたってあの調子じゃ、服のまま波の中に突っ込みかねん。着衣水泳されちゃ後で大変なのは世話役の君じゃないか」

「ちょっ……それは困るが。でもホラ、先輩にエロいビキニ着せたのを盗撮したりしてネットにアップとかする気じゃないでしょうね」

「やれやれチヨちゃんの中の俺は一体どういうキャラなのかね」そう嘆いた学士はわざとらしくシエーロを、つまり天井シエーロ・ラソを仰いだ。「水着鑑賞には盗撮も警察もないんだ。あるとすればそれは考え方次第さ」

「ハァ? 盗撮があれば警察もあるでしょ」

「それはあの方の野心の大きさと比べ、君の心が狭すぎるからでは?」

「O God,」ふたりと、そして間違いなくその場に居た他の買い物客や店員たちも、さぞやその突然の朗々たる大音声に喫驚し、また注意を惹かれたことだろう。「I could be bounded in a nutshell and count myself a king of infinite space, were it not that I have bad dreams.」少し離れたところでアイギスの水着を物色していたドニャ・キホーテは、短い台詞をさも愉しそうに断ち切るや颯々とした足取りで試着室へと消えた。

「ああびっくりした」ここ数日で慣れ始めていた筈の従者も思わず肝を冷やし、そして潰した模様。「ホテルでもそうだったけど人前でもあんな感じなんですよ。たしかに新人芸人の度胸試しみたいなテンションだなあ」

「いえいえベテランの大御所並だあね」烏小路は感慨深げに騎士の吶喊した個室の方を眺めた。

「大変なんすよ……で、アレはなんだったんすか。またハムレットですか」

「え!」この千代の問い掛けは、実際花の奇行にも況して学士に新鮮な驚きを与えたようである。「何で分かったの?」

「いや別に、テキトーですけど。英語のセリフといえばハムレットかトイレットくらいしか知りませんし」せめてハムレットかジュリエットと云うべきだろう。

「てっきり従士殿にはレアティーズよかレアチーズケーキ、ホレイショーよかバレイショーの方がお似合いかと」馬鈴薯とはジャガイモの支那名だ。成る程昨晩の夜食であったには違いない。

「そりゃこんな炎天下じゃ保冷しようって方が正論でしょうよハムでもベーコンでも[訳註:ホレイショーオラーティオ(英Horatio/西Horacioで原義は《時を司る物、計時係》、恐らく時間の女神ホーラーに由来)に対し、「今みたいな夏時間オラーリオ・デ・ベラーノにハムやバレイショを放置したらベネーノに化けても文句云えませんよ」と意訳]」そして万一その肉が傷んでいた時は便所アセーオに駆け込めば良い。「――で、キングとかドリームとかってのはどういう意味なんですか?」

「まァなんというか……たとえナッツの殻の中に閉じ込められようとも、気持ち次第じゃ広大無辺の宇宙の王様になれるってさ」[訳註:ご存知の通り英nutsには気狂いの意も]

「なるほど、意味が解ると面白いですね」カチャカチャと音がする。手慰みに従者も水着を手に取り吟味しているのだろう。「それに意味がないことが判れば安心も出来ますし」

「意味が無いかね」学士は飲み込むように相槌を打った。「物事には裏と表があるぜ?」

「意味があるとすればですね」すかさず念を押す千代。「引き籠もりが海水浴場のクイーンに変身したとしても、外野に撮影許可は下りないってことです!」

「カメコの趣味はないよ(原註:Cameco, camera-kozo = chaval fotofanático)」烏小路は穏やかに鼻で笑って千代の手元を見下ろす。「従士さんも試着してみたら?」

「う」従者は自分も水着を握り締めていることに気付いた。「……オゴリ?」

「Why, nothing comes amiss, so money comes withal.」演技上手の青年は、先の主演女優の身振り口振りを器用に真似て答えた。[訳註:「何、不都合などありません、金さえあればね」シェイクスピア『じゃじゃ馬ならしテイミング・オブ・ザ・シュルー』内の台詞]

「いやだから分かりませんて……」気付かぬ内に口元を綻ばせ心中筒抜けの千代さん。「知らない人、から、水着買ってもらっちゃ、いけないって、親から言われてるし。第一私泳がないし」ガチャガチャ。ありったけ持って行くつもりだ。「でも着るだけならタダだし」

 善人の従者は主人の隣の部屋に突進すると仕切り幕を閉じた。

「気持ち次第じゃ宇宙の女王様か」烏小路参三はその様子を目で追ってから、いつになく沈鬱な声色で呟いた。「――《それが悪い夢でもなければ》ね」[訳註:お気付きとは思うが、主従ふたりから距離を置いた学士の、しかも呟き声などを集音器が拾える道理はない。つまりこの行の科白と描写は全て著者の創作である旨を註記しておく]


「たまに直穿きするバカ居るからな、気を付けてくださいよ……ハニャ・キホーテ先輩どんなんですか?」

 数分後、試着室からひょっこり顔だけ抜け出したお茶目で恥知らずな従者が、外界と内部を区切る布をそのまま引き伸ばして身体を隠したまま隣の個室に接近し、その頭を他方の帳幕の隙間へと忍び込ませた。

「うわっ、ちょ、ギラギラ!」まさか随所に鏡を散りばめたような珍奇な水着など、幾ら《何でもそろって便利なお店ユー・キャン・ゲット・エニシング・ユー・ウォント・アット~》を謳う大型格安小売店といえども置いてはおるまいから、想像するに反射性の強い材質で出来た代物ということか。[訳註:«you can get...»はアーロ・ガスリーの民謡風軽音楽『アリスの食堂の虐殺アリスィズ・レストラン・マサカー』を意識した英訳と思われる。徴兵逃れの歌と頼まれもしないのに戦闘を求めて志願するドニャ・キホーテとを対比しているのだ]

「この意匠を見てくれチヨさん」騎士は胸を張って付き出した。

「ん、何ですか?」

「一足遅かったよ、早くも《嘗ての美女エルモサンテ》の首は刎ねられた後であった。そら、ここに縫い付けられたゴルゴンが末妹の成れの果て、男の敵である髪の蛇メドゥシアナとともに燃ゆる双眸と断末魔の慟哭が、新世界の蛮族どもが殺した外夷のつむりを剥いで吊るしたという干し首ツァンツァさながら、それでいて生生しくも艶めかしくゼウスが愛娘に授けたその防具エヒダにしっかと打ち付けられ、ブセファロに跨がりペルシアを征服したアルゲアスのアレハンドロ三世が胸板を守らせしそれと寸分も違わぬではないか……これならNROの偵察衛星ですら訳なく撃ち落とすじゃろうて」[訳註:米海軍の防空体系である《イージス》はアイギスの英語読みである]

「つまりゴルゴンゾーラな女の味方との勝負は不戦勝で先輩の勝ち、これにておしまいめでたしめでたしってことでよいですか」

「それがそうでもないのだ。というのも――」

「あ」一旦花の個室から首を引っ込めた千代が、一定の距離を取って女衆の買い物が済むのを待っていた烏小路の姿を見咎めた。「エロ松が見てます。こっち見んな」

「――ペルセオに寝首を掻かれたメドゥーサは切り口より滴る血潮に交り、頭からは天馬ペガサオを、そして胴からは黄金剣を生み出したのみならず、無数の蛆虫、蝮、蠍に百足、加えてその数千倍のくちなわの揺籃となったのである」

「藪蛇ならぬ首から蛇ですな」

「あ、こっち来んな」こちらも首だけの姿になった千代さんは、銀盆に乗った洗礼者バウティスタ[訳註:ナザレのイエスに洗礼を施したヨハネのこと。ユダヤの王女サロメの送った秋波を袖にした為に首を落とされた]の風格を以て、にじり寄る男装のサロメーを威嚇した。

「万葉には《虎に乗り古屋ふるやを越えて青淵あおふち蛟龍みつち捕り来む剣太刀つるぎたちもが》という和歌があるが、吾等西方の馬乗りはまさしく騎虎の勢いに乗りながら名古屋を越えるまでもなく、この名刀クリュサオルを以てして沼津に潜み機を待つミズチを討ち取れようぞ。竜が沼の淵に潜むは天に昇らんが為と、昭烈帝も申しておったではないか」

「ミズチで思い出した」そう云って漸く素っ首を戻す千代。彼女の辞書に載っているかは定かでないが、ミズチとは水中に棲むという竜もしくは蛇の神様セニョール・ディオース・デ・ドラゴーン・オ・セルピエンテのことである。

「何だい」帳幕越しに相手をしてやる面倒見の良い烏小路。

「だから、イシマツさんみたいなのがうちらみたいな汚れなき乙女に如何わしいことをしようとしたら、我らが威張んないハナ雷帝が正義のイカヅチをその脳天に降らせるぜってことです」[訳註:第六章での意訳に則して、「石松さんみたいな毒蛇セルピエンテ・ベネノーサが」「雷神の鉄槌マルティージョ・デ・トールを其の脳天に」となっている。ミズチから北欧神話のヨルムンガンデルを連想したという体だろう]

「そうやって上手く追っ払おうとしても、そうはイカの金玉テスティクルよってね」[訳註:ここでいう金玉とは精巣ではなく咀嚼器を指す。翻訳では「そうやって悪い顔カラ・マーラをしても」となっているが、通常西語のmala caraは《顔色が悪い》という意味で使われる]

「それを謂うなら触手テンタクルじゃろう」イカカラマルよりイワシカラメルを愛すると思しき[訳註:西caramelは地中海原産の鰯の品種だが、カラメーロの古風な言い回しでもある。こちらはドゥルシネーアの《甘味ドゥルセ》からの連想か]騎士は学士の言い間違い(と騎士が判断したところの発言)を訂正しつつ以下に続けた。「尤も触手の化物については先達て、天狗の山にてそれがしの威光に気圧されまんまと懾伏しょうふくしおったがね」

 そう云って開帳した騎士は、既にほぼほぼ武装を整えていた。

「あら」落胆する学士。[訳註:ここでは敢えて英語のやや古風な間投詞«Alas»を訳語に当てているが、対して西語のalaは翼の意]

「チヨさんや、すまぬが帷子の後背を結わえてくれるかの」

「あ、そうだ忘れてた」すると従者も続いて試着室から出てくる。介助が必要とすればアベンセラーヘの拘束衣か。「よくひとりで脱げましたねこれ」

 あらアーラス、こちらも既に入室時と同じ出で立ちだ。

るにても、如何な金塗りギルドを施そうが去勢ゲルドされては天狗も鼻折れ――もとい名折れじゃろうて」[訳註:直前の英testicleを受けての、これは些か艶笑的な表現だ]

「猿田彦であれば、ここ沼津でも縁があるやもしれませんが――[訳註:廣重画の『東海道五拾三次』「沼津黄昏図」に描かれる、金毘羅詣の旅人が背負った天狗面に基づいた発言だろう]」石松はそう嘯きながら、手ぶらで退室したふたりを訝って眺めた。「あの、それでおふた方の水着、もとい海戦用装束は……お気に召さなかったですかな?」

 それを聴いた千代は、さも当然と云わんばかりの面相で襟元に指を突っ込むと、その内側から紐付きの紙切れを引っ張り出す。値札エティケータ・デル・プレーシオである。

「うわ、え?……どういうこと」

「だって向こうで着替えるとこないかもじゃないですか」服の下に着込んだのか!

「――って、夏休み中にプール登校する小学生じゃないんだから……ってあれ? 貴顕もですか?」どうやらドニャ・キホーテの項からも値札が垂れていたらしい。[訳註:花は寛衣を着ている筈なので、矢張り本人或いは従者の手に依って値札を引き出されたのだろう]

 すっかり主従の底なし財布ボルソ・スィン・フォンドと化したドン・カラスコは、店員の許しを得て何とかそのまま会計を済ませたのだった。


人鳥の館マンスィオン・デ・ピングイーノを後にした一行は、水先案内の小森の学士を先導役として一路南に舵を切った。ブラドイドの川に架かる橋を渡ってからは、閑静な住宅街を順調に滑りゆく。

「そういった経緯であるからカラスコージ殿、西果ての都市ポリスヘスペリデスの園の方面へ足労する由はなくなり申した。チヨさんなどは蓋し黄金の林檎を賞味するのを殊更愉しみにしていた節があるが、エデンの咎人に倣いて果実を盗み蒸留した林檎酒カルヴァドスを聞こし召す只それだけが為に果樹を守りし百頭持つラードーンの怒りを買うよりは、獲物を求めて浅瀬バドスに攻め参った禿頭カルバの鯨を相手取る方がまだしも、それがしの所望する武芸者の誉れに勝ると心得ますれば――尤も、この分だとケートスも仕留められた後かも知れませんがな」

「バドスと仰りますと、」ケルピエの嘶きを宥めつつ学士が訊ねる。「浜辺よりも川べりに参った方が宜しいでしょうか? 踵もとい蹄を返すことになりますが」

「それには及びませぬよ」騎士は穏やかに笑った。「怒髪天を衝くネレウスのそそのかしに乗って海神が放った怪物なら入り江より奥には入れますまい。それが別の、より当世風の勇魚いさなであろうとな。何れにしてもアンドロメダーの安否は確かめねばならぬ。川べりを懐かしむ其処許の愛馬には悪いが、学士殿にはどうか林檎の園とポリュデクテースが治めるセリポス島のあわい、波濤しぶく何処かそれらしき海岸か岩礁に隊を導いていただきたいのじゃ」

「ほう……怒り心頭の烏賊カラマルはさておき、《海へア・ラ・マル》と?」

「御名答――両性具有の大海わだつみは、其の身一つで無尽蔵に生命を続生せしめる産霊むすひの神なのだとか……お任せできますかな?」[訳註:西語のmar《海》は男性名詞el marとして扱われることが多いが、意味を保ちながら女性形la marを取ることも可能な両性名詞ススタンティーボ・アンビーグオ。他に《砂糖アスーカル》や《境界リンデ》もこれに該当するが、女性名詞の《アーグア》がla aguaでなくel aguaとなるのは語頭の発音が/a/である為なので区別が必要。一方男女で意味が異なる同音異義語オモーニモにも、例えばcapital《資本エル・カピタル首都ラ・カピタル》、corte《切傷、様式エル・コルテ宮廷、廷臣ラ・コルテ》他多数ある]

「ラ・サンチャの甲斐姫が望みとあらば合点承知の助六鮨ですよ」

 そう太鼓判セジョ・デ・カリダを押した森の石松が武勲を求めて息巻く主従を連れて向かったのは、橋を越えてから二十分ばかり進んだところに広がる地元の海水浴場であった。


「あんま人居ないですねえ。穴場なのかあるいは――」従士が水平線と波打ち際を交互に見渡す。「――単に人気にんきがないのか」

人気ひとけがないに越したことはないでしょう」烏小路はそう言うと、瀝青舗装アスファルトを削る音が砂の軋む音に変じた辺りで黒馬の背から降りた。「本日の主菜メインディッシュはドニャ・キホーテと怪物の一騎打ちです。スパルタクス団も膨れ上がった軍衆が足枷となり敗れたと謂いますし、何より少数精鋭であれば兵站の心配も無用ですから。騎士殿とて、人智を超えた破天荒の戦端を開いたが為とはいえ、堅気の庶人衆に累が及ぶことは本意ではありますまい」

「如何にも。これがアマディス閣下の許に参じた後であれば、常山の蛇勢の言葉通り――世に謂う《Unus pro omnibus, omnes pro uno》じゃ。だが此度に限ってはそれがし独りに任せてもらおう。それにトラキアの反骨漢は最期の戦いの前に己の愛馬を斬り捨てたと謂うが、後世に《人中有呂布じんちゅうにりょふあり馬中有赤兔ばちゅうにせきとあり》と同じ調子で《騎士の中にドニャ・キホーテあり、騎馬の中にイポグリフォあり》と人口に膾炙するのを念頭に置くと、矢張り彼の英雄に範を取ることは罷りならぬ。勝とうが負けようが、これに勝る馬を敵方に見付けることは叶うまいし、そもそも島鯨ファスティトカローンの腹に収まっていた軍馬など既に蕩けて使い物にならなかろうて」そう云って彼女も、砂浜の手前で愛馬を休ませる。成る程、自転車に潮風はきつかろう。塩水など以ての外である。

 化け鯨との開戦を待ち侘びて歩み出した騎士の背を見送りながら、千代が驢馬から下りて馬駐パレンケに繋いでいると、そこに石松がそっと耳打ちした。

「従士殿からしても、聴衆オーディエンスが少ないに越したことはないでしょう?」

「そりゃそうですけど」ふたりも後を追う。慥かに真夏の浜辺から連想されるような喧騒は伝わってこない。「海水ってベタベタするし、髪もパサパサになるからあんま入りたくないんですよね。どうせならリゾートホテルのでかいプールとかの方が」

「プールはプールでパサパサになるでしょうよ」

「そりゃまァ、」千代さんは何気なく答えた。「塩化石灰カルキとか入ってますし」

「化け蟹カルキノスが出現しましたと!」十数歩ほど前方から騎士の咆号が届く。

「お構いなく!」透かさず不備リオを補完する学士。「沼津の悪性新生物は貴顕がヒュドラーをとっちめた際、それと気付かず踏み潰していたのをこの目で見ましたから」[訳註:腫瘍がんの意味を持つ英cancerや独Krebsはいずれも古代ギリシャ語のκαρκίνος《カルキーノス》に由来]

「はていつの間にそれがしは、不死の首持つレルナの海蛇と干戈を交えておりましたかな」

「いやそれはほら、先ほど百の首持つラドンについてお話されていた時分、そちら究竟の乗尻のりじりが従えるヒッポグリフの鉄蹄が弾みで蹴散らした路傍のつぶて、それが騎士を守護する大天使ゲオルギウスの法力で巨大化し、クマタノオロチの九つの首の内一番大事な不死のそれを、それと気付かず押し潰していたのですよ」参考までに、ゲオルギウスホルヘ・デ・カパドーシア大天使アルカンヘルではなく守護聖人サント・パトローンである。

「なんと!」慈悲深い騎士は沈痛の面持ちでかぶりを振って、「林檎の守護者の首を守ったつもりが、知らず知らずその弟の首を潰していたとは……ラードーンにはすまないことをしたな」と嘯くやそのまま先に進んだ。「だがこれでモルガンテの魂も救われよう」

「蛇とか鯨を退治するのは結構ですけど、」従者はうんざりした声で砂浜を歩く。「ラドンだのうどんだのって、怪獣映画はそろそろ卒業するお年頃なんじゃないすかねまったく」

 ……積荷ラドゥンだの招待状アインラドゥンだのって[訳註:但し本稿では独Ladungも後者の略称として用いられている。第二章末尾の訳註も併せて参照のこと]、バンギャだってそろそろ卒業するお年頃なのでは?

「ラドンにせよキングギドラにせよ一応は神話がモチーフだろ。チヨさんにとっちゃ空想よりも食うことのが大事でしょうから、神話なんか知らんわってのが本音だろうが。そんなことより僕らは精々、アテナの水着を纏ったアフロディーテの艶姿あですがたを楽しもうじゃないか」

「自分はセクハラ松のくせに。私だってアフロディーテがアフロじゃないとか、ビーナスがナスビじゃないとかくらい知ってますからね」

「それは失礼しました。しかしなすびとは意外と年寄り臭い」

「……ナントカじゃとか云ってる女子高生よりはマシですけど」

「じゃあ関西のJKは全員ババアだな。それじゃ僕は、吉祥天の勇み肌が日焼けしないように、向こうでパラソルでも借りてきますよ」

「リアルでJKとか言うおっさん初めて見たよ。いてらーです[訳註:欧米では中学と高校を区別しない事例が殆ど。因みに著者は「いてらーです」を「行け行けベテ・ベテ」と訳出しているが、変体日本語としてはもう少し愛嬌のある言い回しだろう]」JKホタ・カーとは高等学校に通う女子学生を意味する女子高生の略称だが(つまりchicas de secundariaをCSセ・エセと呼ぶようなもの)、実際には子供か若者振った中年にしか使われない用語だそうである。

 何にせよJK従士は、打ち寄せる穏やかな荒波オレアーヘ・サルバーヘ・トランキーロに対峙したJK騎士の許へと急いだ。これから《只の冗談ジャスト・キディング》では済まされぬ椿事が出来しようなどとは夢にも思わずに。


浜辺の中央に陣取った嬉し顔の騎士カバジェーラ・デ・ラ・アレーグレ[訳註:前章で訳されたla triunfante figuraが長過ぎたので言い換えたものだろう]は、早速追い付いたばかりの千代さんに衣帯を解く介添えを求めた。つまりゴテゴテとしたゴスロリ衣裳を脱ごうというのである。

「あ、先輩私ウォータープルーフのUVローション持ってますけど、塗りますか?」存外女子力の高いアルタ・カリダ・フェミニーナ従士は、するすると手際よく主人の背中を交差する紐を解しながら具申した。

「うむ、申し出は有り難いが、戴冠前に聖油クリスマを賜るのは気が引けるよ」

「クリスマス? いや折角肌白いのにもったいないかなと。まァハラ松がパラソル借りてきてくれるみたいですけど……うぉっ、まぶしっ」眩しいのは女騎士の白磁の肌ではなく、それを覆った鏡のアイギスであろう。照り付ける陽射しに反射しているのだ。「あ」

 俄に陽光が遮られたかと思うと、乙女たちの肌身を慈愛の蔭が覆った。

「おまちどう」

 仕事の早いトラバーハ・ラーピド[訳註:手が早い?]学士が突き立てる海浜用日傘ソンブリージャ・プラージャを内部から見上げたドニャ・キホーテは、高々数エウロの賃貸し品であろうそれに嘆賞して以下の如く告げた。

「これは――、大地の恵みたる穀菽こくしゅくを炎夏の薫灼より護り給わんとした女司祭たちが、スキロポリア祭の檀尻に鎮座ましました軍神アテネアのかんばせに掲げたという精白の日唐傘ひからかさではありませぬか」

「《陽を遮るパラソル》の言葉通り、好色で名高いアポロン神の節操なしな虎視窃視よりアフロディーテをお守りし、あわよくば紅顔のアドーニスにもアナクレオンの美少年にも姿を変えて、双方の無聊を慰めてくれましょうぞ」[訳註:因みに雨傘は《水を遮るパラーグア》である。尤も現代に限っていえば、日傘を日常的に使う文化が残っているのは日本くらいなのでは?]

「やれやれ、慥かに近親姦の王子アドニスは両性具有アンドロヒニアの美丈夫で、太陽神デウス・ソリス愛美神デア・アモリスの閨中を行き来したと謂うが、それがしを比するならそれは差し詰め嫉妬に狂ったペルセポネーの陥穽に落ちて猪武者に姿を変え、気の毒なフェニキアの子を突き殺したとされる軍神アレースの方ではありますまいか。尤もアドニスだろうが味噌汁カルド・ミソだろうが、この恋狂いの騎士が唯一信奉するドゥルシネーア姫に准ずる不退転の操――それは如何なる勲しにも況して揺るぎないものだが、これを鑑みればそれがしの喉を潤すに価しないことははっきり提言させていただこう。何れにせよ掛けまくも心苦しきことですが吾が不肖の従者の懸念けんにょした通り、学士殿はデウスは神でも肉欲の悪魔アスモデウスの寵幸を欲しいままにしておるとみえる」

「先ずはご無礼をお許しください」烏小路は丁寧に頭を下げた。「ドニャ・キホーテ様の想い姫への忠順を測るような真似を致しました。されど貴顕もあの愛馬を、馬銜の外れた《荒ぶる半鷲半馬イポグリフォ・ビオレント》と名付けたからには、アポロン神とは一悶着おありでしたろう」

「頭をお上げなさい」騎士はにこやかにそう云ってから続けた。「いや何、イポグリフォの名はそれがしの命名ではありませなんだ。しかし成程な、敢えて《光輝神ファエトン》としなかったのは心中の蟠りが為せる業かもしれぬ」[訳註:ファエトンはアポロンの息子で、父の燃える馬車を借り受けたが御すること叶わず、そのまま墜落して大地を焼いた]

「はい、先輩バンザイして」金鳩目アランデーラに通った紐を緩め終えていた従者は、彼女には一寸の意味すら為さないふたりの会話の合間を逃すまいと、咄嗟に脱衣の継続を促す。「上、引っ張りまーす」子どもの着替えを手伝っているかのようだ。

「うっ……む、上首尾じゃ」残りの寛衣だか肩紐襯衣だかはひとりでも脱げよう。

それからすっくと立ち上がるや、順々に釦を外しながら以下のような鶯舌ボス・ペティローハ[訳註:本来petirrojoは胸元ペト赤いロホコマドリを指す名詞]を振るった。[以下、邦訳訳者]

   Hipogrifo violento 

   荒ぶる半鷲半馬よ   

 que corriste parejas con el viento,

 汝は疾風のともがらと成り果てた、

 ¿dónde, rayo sin llama,

 何処へ行くのか、炎なき雷鎚、

 pájaro sin matiz, pez sin escama,

 彩なき鳥、鱗なき魚、

 y bruto sin instinto

 そして自然じねんの本能なき獣と為りて、

 natural, al confuso laberinto

 に見ゆる剥き出しの岩群いわむらが象りし

 de esas desnudas peñas

 漠たる迷宮の何処いずこを目指し

 te desbocas, te arrastras y despeñas?

 汝は悶え、這い、崖下に転げて堕ちるのか?

   Quédate en este monte,

   此れが山阿に留まるならば、   

 donde tengan los brutos su Faetonte;

 獣どもの根城にかしずくファエトンにでも為るがいい

「はてさて奈落に消えたのは、馬かそれともそれがしか」上衣をひらりと投げ捨てたのを、従者が器用に捕捉する。

「視姦松こっち見んなよ」そう云いつつも、目の前にピリリと引き締まった尻があるものだから、仕方なく(花の称するところの)膝丈脚衣オー・ド・ショースも下ろしてやる。

「其が奈落だろうがラグナラクだろうが」学士は膝を突いて敬拝の所作を見せた。「小生は老いらくを賭してでもお供いたしましょう。ポローニアの沼に降り立ったラ・サンチャの天華は、雷鎚いかづちに喩えるなら雷神トールの振り下ろすミョルニル、然れども鳥であれば雷鳥ペルディスよりはスパルナ、魚であれば雷魚チャンナよりはローレライ、獣ならば雷獣らいじゅうよりハトホル、否、それらの何れも貴女様の品格品性品位と伍することなく、遍く騎兵の守護者エポナ女神の用立てた如何なる貢馬くめ戎馬じゅうばもその欄然たる御尻の前では膝を折らずにおられぬ故に騎行の用は為さぬという――」

「ちょっ、キラッキラというかギラッギラですね先輩。そして改めて細っ!」エロ松の視線妨害の任を忘れ、同性の千代さんですら暫くの間その肢体に見惚れてしまった。

「小森の騎士殿――」ドニャ・キホーテが嫋やかな物腰で呼び掛ける。

「はっ、なんなりと」

「御身の目が捉えているのはそれがしの身に付けたこの鏡、青銅鏡のアイギスに映りし御身の姿そのものじゃ。嘗てパルナッソス山の泉の水面に映った己に恋い焦がれ、その唇を求めて溺没したあの高慢な少年の二の舞いにならぬよう」

 学士はまた少しの時間、口を真一文字に結んでいたが、それから噛み締めるような口振りで、「肝に銘じておきましょう。小生が溺れても、芸術女神ムーサの湖水に咲く可憐な水仙どころか水栓に詰まった醜い土左衛門となるのが関の山ですからな」と引き取るに留めた。[訳註:西訳では「神話上の水仙ナルシーソ・ミトローヒコどころか窒素酔いの昏睡蓮ナルコースィス・デ・ニトローヘノとなるのが~」窒素中毒は圧縮空気を背負っての潜水作業時に起こりやすい症状である]


さて、アテネアの庇護とゴルゴンの瞳に守られた女ペルセウスペルセーアは人も疎らな浜辺と押しては返す穏やかなさざ波の何処かに、蛇の化け物か鯨の怪物、そうでなければペリシテの神でありユダヤにとっては悪魔でもあった魚神ディオース・ペスダゴンあたりがうっかり波間から背ビレか何かを覗かせていないかと隈なく見渡したが、救出すべき美しい人身御供同様どうしてなかなかそれらがドニャ・キホーテの、そしてメドゥーサの瞳の中に飛び込んでくることはなかった。せめて入道雲クムロニンボでも出ていれば、それを天帝に敗れた巨人アトラスと誤認するか、若しくはそれに乗って荒海の神ヤムを退治しに飛来したバアル・ゼブルを幻視するなどして一際大騒ぎしていたことだろう。

「ビキニじゃなくて残念でした」荷物の整理をしながら千代が憎まれ口を叩いた。

「それはチヨさんが勝手に云ったことだろう」学士は鼻で笑う。「それに太平洋に放射線を撒き散らした、あの単細胞の核分裂マニアどもの遊び場に僕は興味が無いからね」

「少なくとも私に対してはまともな日本語で会話してくださいよ……先輩はともかく何でアナタまでいちいちセリフが芝居くさいねん。フラレて悔しいのはお察ししますけど」そもそもラ・サンチャの騎士にはドゥルシネーアが、サラマンドラの学士にはカシルデーラという歴とした恋人が居るのだ。「さっきみたくいきなし漢文とか引用されても珍紛漢文だってば。何すか《陣中に見舞いあり》て、お中元かよ」

「《馬中に赤兎あり》ね――赤兎馬って分かる?」

「さァ……関サバなら海中にありでしょうな」

「沼津の海に関サバは居ないだろうね」

「何だよ使えねえ沼だな……」ヘレスに来てマデイラ酒を出せと騒いでも始まらぬ。「こんな泥水の中を泳がせたら先輩のキレイなお尻にニキビが出来ちまうぜ」

「布地が多かったのが不幸中の幸いか」苦笑する参三。「しかし見なさいよチヨさん。あんなバカみたいな水着でも、ラ・サンチャの花咲ける騎士殿がその身に纏えば天女の羽衣よりも神々しいじゃないか」

「月に帰っちゃうと困るからって、先輩の使用済み水着を盗んだりとかやめてくださいよ」

「月に帰るのはかぐや姫だよ」どちらも天界の乙女が地上の人間に幸を施した後、本来の自分の在るべき場所に帰っていくお伽噺である。「まァ、ワンピースはラインが出るからね。細い子しか着れないわな」

「あはは」スキロポリアの日傘の下に隠れるように体育座りしていたアブラサンド・ラス・ロディージャス従士は自嘲気味に笑った。「私のチョイスは間違ってなかったということですね!」

 烏小路が改めて少女を見下ろす。彼女もいつの間にやら着替えて(というより脱いで)いたのだった。撫子クラベルの花にも喩えられる日本女性という人種は、何と主張の少ない、奥床しい生き物なのだろう!

「ピースとは二本あってこそ成り立つセットのお値段……」消え入るような呟き。(La seña V con los dos dedos se llama simplemente «peace(paz)» en Japón.)「ワンピひとりじゃぼっち一本味の素だ」[訳註:料理する意欲も湧かない孤食者の舌をも満足させる、手軽で便利な旨味調味料の万能性を謳った標語だろうか。訳者は恐らくガレスの楽隊Stereophonicsに依る楽曲の歌詞«Only takes one match, to burn a thousand trees.»を念頭に置いたものだろう、代わりに《……なら二本の燐寸なら二千の木々を焼けるイ・ドス・セリージャス・プエデン・ケマール・ドス・ミル・アールボレス》なる諧謔を彼女に代弁させている]

 極めて慇懃な紳士たる烏小路は――彼ほどの口八丁を以てしてもアウン・コン・ス・レングア・アフィラーダ適当な言葉を見繕うのにそれから五秒ほどを要したのではあるが――、美しい従者に対して優しく声を掛ける。

「わあちよさんちょうにあってるいろっぽい」尾籠の学士バチジェール・インデセンテが空々しい追従口ガランテリーアを並べ立てた。「おもわずぼっちした」棒読みモノトニーアである。(bocchi(botchi)=soledad, bocqui=erección)

「ちょ、ぜってー嘘だし……つうかマジ引くわー。おっさんが女子中学生に言っていいセリフじゃないと思うんですけど?」[訳註:本稿と直接の関連性は薄いが、伊語でbocciボッチといえばboccio《ボッチョ》の、bocchiボッキならばトスカーナ方言でbocco《間抜けボッコ》のそれぞれ複数形]

「ボッキといえば、」ラ・サンチャの精華が振り返って容喙する。「――勿論これは御身らが今話題にしておるボローニャ生まれの人文学ウマニスタが泰斗アキッレ・ボッキのことだが、その邸宅ボッキ宮の正面ファチャーダにはこう刻まれているのだとか。REX ERIS AIUNT...《王になろうと人は謂う》SI RECTE FACIES《彼の者正しく振る舞わば――》」

「は?」

「――つまるところチヨさん、学士殿がおっしゃる真意はこうじゃ。武者修行者といえば諸諸の冒険を経て世を遍照した暁にはいずれ王や皇帝に昇るものだが、如何に武功を積んだところで徳行を怠っては領袖足り得ぬ、と」

「このおっさんのセクハラ発言とそのボローニャ生まれの馬に乗ったアキレス腱は千パー関係ないと思いますが」

「然れど妹よ、𪮷抬𪮷𪮇さむはら発言であれば寧ろ厄を払うのではないか?」

「いやはや騎士殿はアルゴスの目とミダスの耳を持ってらっしゃる」烏小路が千代を遮って花の放言を引き取った。「お察しの通り、小生が申したかったのはまさにそれ。少し付け加えるならば、ローマだろうがロシアだろうが大蒙古だろうが、それが無辺際のヌエバ・エスパーニャであろうが、いずれはイスファハーン宜しく世界の半分を治められるドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャにあっては、その家臣であっても無類の公正さを見せるものだと、そういったノリでチヨさんを賞嘆していたのですよその、アレッキ・ボッキの言葉をお借りしてね」

「ボッキ宮に彫られたホラティウスの言葉ということかな?」

「如何にもその通りです」彼は常に潔く前言を撤回する。「更に言えば小生の拙い記憶に拠ると、イスハファリンのその更に半分は慥か優しさで出来ているとヘロドトスも記しておりますから、統治者の分身たる忠臣の心根もさぞや寛大でありましょうや……ね?」

「――ということじゃチヨさん」行く行くのペルシアのシャーは唯一の家臣バサージャに向き直って云った。「おぬしも自今以後は、ボッキの心意気を肝に銘じて今以上に精進してくれ。ボッキはヘルメスとアテナの名を冠したアカデミア・ヘルマテナの設立者でもあるし、かの『象徴的探求の宇宙』なる寓意画集リブロ・ディ・エンブレミを著したのもまたこのボッキであるからな」

「女の子がボッキボッキって……」家臣は小声で口篭りながら赤面する。

「ではそれがしは四紘一宇のサファヴィー朝を打ち立てる手始めとして、かの海の魔物カーカスの椎骨をトボソの姫君への手土産にせんと、いざや新たな冒険を始めようぞ!」そう息巻いたドニャ・キホーテは、愛用の日傘を振り回しながら波打ち際に駆けて行く。「尤も、あの魔鯨がこのブラドイドの沼にも潜んでいるかは存じませぬがな」[訳註:カーカスというのは近年ペルシア湾にて目撃された巨鯨。因みにイスファハーンは十六世紀以降のイランを中心に栄えたサファヴィー朝ペルシアの首都であった]

「ご武運を。我々は貴顕の武功が恙なく達成せしめることを祈願し、念の為IWCに調査捕鯨の認可を申請しておきます故」

 浜辺にぽつねんと残された《犬と猫》のふたり(日本人であれば《犬と猿》と呼ぶところだが)は、その美しく跳ねる流線型の後ろ姿を只々見送っていた。

「行っちゃった……」千代は視線を海岸線に注ぎながら項垂れる。「で、その呆れたボ……何とかってのは誰なんですか」

「『アギーレ/神の怒り』なら分かるが」[訳註:W・ヘルツォーク監督の西独映画]

「それが……それ?」

「知らん」サラマンドラの学士はしれっと答えた。

「……ホ、ホラ吹きティウス」

 それから数分の間、従士と学士は勇ましく波間に戯れるドニャ・キホーテの英姿をぼんやりと眺めていた。

「従者殿は主の決闘に加勢しないのかね」烏小路がからかって訊ねる。「ご覧な。打ち上げられたケートスもカーカスも沼津の浜には見付けられんかったようだが、今度はご本人がまるで水を得た鯨じゃないか」

「決闘は一対一でしょ。余計な手を出したら怒られますよ」千代が突き離す。「それに月だの火星だのに興味はありませんね。私は名古屋で思う存分にダイブできますから」

「へえ、名古屋って伊勢湾か。スキューバとか出来るの?」

「ダイブはダイブでもコロダイですが」

「カルパッチョにでもするなりか」[訳註:実際にコロダイというイサキ科の魚がいる]

「しないなりよ。いやあんな危ないことしませんけど」[訳註:こちらのコロダイは、前述した《V系公演中の危険行為》のこと。第三章参照]

 結局このふたりとて意思疎通がままならないわけだが、その点においては当の千代さんも、普段変人扱いしている阿僧祇花とさして変わらない周縁の人間ウナ・デ・ラス・マルヒナーレスなのであった。

「まァ慥かに、君に海女さんの真似事は危なかろうね。銛で魚が突けるとも思えんし」

「ああ、そういや尼さんの雨がっぱまだ入ってるな……この天気じゃぜってえいらねえわ」

「徒に妖怪の名を出すと又ぞろご主人がこちらに駆けて来そうだが、」噛み合わぬ会話を切り上げた学士が切り出した。「それにしても我らがティアマトたるドニャ・キホーテ殿は、なかなか海中に入らないね」

「そりゃしょっぱくなっちゃうからでしょうや」ここ最近吐きっ放しの溜息を改めて吐き出した従者がいい加減なことを云う。「トマトを海の中になんか……入れちゃ? あれ、何か思い出しそうな」

 突如、立ち上がる動作すらも省いたような機敏さで、学士が脱兎の如く駈け出した。直前まで寝そべっていたか否かは定かでないが、兎も角砂上旗取り競争バンデーラス・デ・プラージャさながらである。

「フェッ?」面食らった千代が慌ててその行く先を目で追うと、その方向は今まで寝惚け眼で見遣っていたそれと寸分も違わなかった。


烏小路参三に抱えられて舞い戻ったドニャ・キホーテは、恰も屍蝋アディポシーラのようにぐったりとして動かない。

「えっ、えっ、えっ」駆け寄った従士は、学士の腕の中に横たわる主人を覗き見るとおろおろとその周囲を行きつ戻りつしている。「ちょっ嘘、溺れたんですか?」

「そこ、日陰に」参三はスキラの日傘の下を顎で示した。

「はい!」

「タオル敷いて」

「え、はい!」

「それと頭の下にも」

 千代はてきぱきと指示通りの仕事をしたが、手を動かしながら「あああ、そうだよそうだった。アンドーさんから言われてたんだった、言われてたのに」と涙声で呟き悔いた。電話で聴いた、海には入らないだろうという件[訳註:第六章参照]である。とはいえ事情が判らぬのだから彼女に罪はあるまい。存外泣き上戸ジョローナである。

「い、生きてますか? あ、おっぱい触らないでください」

「触らないよ」そう言って脈を取るセクハラ松。「――れより心肺の心配の方が……」

「人工呼吸した方がいいで……すか?」すっかり臆病風に吹かれたレブエルタ・ポル・エル・ビエント・デ・コバルデス――恐怖に震える情景が手に取るように分かる表現だ――従士は恐る恐る様子を窺う。「なんなら私が」

「出来ないだろうに。必要ないよ、水は飲んでなさそうだし」

 そこに「大丈夫ですか」という野太い声が割って入る。海水浴場に常駐する救命士サルバビーダスのひとりだろうか。「担架ありますから」

「大丈夫です。足を攣ったわけでもクラゲに刺されたわけでもないようですから。熱中症の十歩手前ってとこですね」

「ベッドもありますけど」

「ありがとうございます。飲み物もありますし、暫く休ませて様子を見ますよ」

「じゃあ、いつでも声を掛けてください」そう言って野太い声の主は屈んでいた上体を起こした。

「お騒がせしました」

「あ、ありがとうございました」従者も慌てて声の主の背に礼の言葉を投げる。

 過疎気味な海辺であったのが不幸中の幸いとみえてコモ・カダ・ヌベ・ティエーネ・ウン・フォロ・デ・プラータ人の囲いが出来るような事態には陥らなかったものの、流石はラ・サンチャの徒花キンタデセンシア[訳註:悪戯キンターダ精華キンタエセンシアを足した著者の造語か]、物の十分でその場を屍山カダーベレス・モンタニョーソ血河ウン・トレンテ・デ・サングレ[訳註:第二章で為された花の発言の直訳だが、《山のようなモンタニョーソ》が単数形であるのを著者の誤記ではないと見れば、或いは《各々の視線がカダ・ベール》《沢山集まったエス・モンタニョーソ》と反語的にこじつけることも出来よう。因みに西torrente de sangreは本来なら《血流》が定訳か]へと変じてしまったではないか!

「やれやれまた意地を張って」参三青年は静臥する花の顔に視線を落とすなりボソリと漏らした。「さっき人を自己陶酔者ナルシシスト呼ばわりしたばっかなのに、自分が波打ち際で溺れてちゃ世話ないよ。先生から《浅瀬に仇波》って教わらなかったかい?」

「言えてないですよ」トボけた千代八が、まだ鼻水を啜りながら素でツッコミを入れる。

「ん?」

「ナルシスト」[訳註:こちらの方が西narcissistの異綴語だと思われる反面、慥かに独語でもNarzisstと綴られる]

 思わず噴き出した森の学士は頭を掻きながら立ち上がると、傍に置かれていた買い物袋からまだ結露が付着したままの可塑性瓶を取り出すや従者に放り投げて以下に引き取った。

「首元か脇の下でも冷やしてやるといいよ。後はまァ、日射病じゃあないと思うが、頭に血が上ってるようだから膝枕でもしてあげたら? チヨちゃんの太腿なら騎士殿のお堅い御頭みぐしにも心地好いでしょうよ」そう言ってからまた鼻で笑う。

「あ、はい分かりました。ん、どういう意味だ!」そう抗弁しながらも従者は、主人の後頭部を恭しく持ち上げて自分のモッチリとした膝ムスロス・モチクローソスの上にそっと載せた。[訳註:西chicloso《噛み応えのある》]

 すると学士はスキロポリアの陰からその身を出して、主従に背を向け歩き出す。

「ちょ、どこ行くの?」

「氷でも買ってこようと思ってね」

「なんで?」

「ドニャ・キホーテ殿は頭を、そして石松は綺麗なご婦人に触れて石のようになった下の頭を冷やさないといけないから」下ネタチステ・ベルデである。[訳註:西chiste verde《緑の冗談》]

「ハァ? 全然意味解んないですけど!」

「パラッツォ・ボッキには――」騎士がうっすらと目を開いた。

「あ、気付いた!」千代は目を輝かす。

「ホラティウスの碑文と対になって、詩篇の一節が刻字されているのじゃ」

「いやもうアレそのボッキはいいですから。先輩大丈夫なんですか?」

 ひと息吐いてからドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャはこう続けた。

「Yah-weh haṣ-ṣî-lāh nap̄-šî miś-śə-p̄aṯ- še-qer; mil-lā-šō-wn rə-mî-yāh.」[訳註:残念ながら音源から聴こえる阿僧祇花本人の発音と、著者が転写したこのローマ字発音表記が完全に一致しているかどうかを判断する術もなければ、その知識もこの浅学なる訳者にはない。尤も、縦書きの日本文であれ横書きの西洋諸語であれ、ヘブル文字アレフベートの右書きをそのまま書き写すのに向いていなかったが為の苦肉の策であったことを、アベンダーニョに代わり弁解させていただこう]

 それから文字通りすやすやsss[訳註:恐らくは米国製漫画発祥と思しき鼾の擬音«zzz»は本来有声の歯茎摩擦音(濁音)で《ズー》に近い音で読まれるが、ここでは敢えて中南米風のS式発音セセーオ――cやzを無声歯摩擦音の/θ/ではなく/s/とする音読法――に倣う手間を省き端から«sss»と綴ってしまうことで、少女の清らかな眠りを再現せんと試みているようだ]という寝息を立ててこと切れてしまったドニャ・キホーテ。

「ちょ、あらら」顔に掛かった濡れた長い黒髪を掻き分けてやりながら千代が自分の顔をもたげて問う。「――何語ですか?」

「さあ。詩篇というからにはヘブライ語じゃないかしら」

「へえ……でどういう意味?」

「解るわけがない」図書館に辞書が無かったのだろう。

「まァそんなこったろうとは」今度は千代が鼻で笑う。「《能ない知ったかは詰めが甘い》とはよくぞ謂ったもんですわね。でも……ひとまず安心か」

 ――と、砂を踏む音が離れていく。

「氷はもういらないんじゃない? まァかき氷くらい買ってきてくれてもよいが」

「いやほら、見ての通り。ここで退散するよ……僕は水着じゃないからね」

「わあ濡れネズミ」

「そう笑ってられんのも今の内」駿河湾を見渡すサラマンドラ。「これでおあいこ恨みっこなしだ……とはいえ出来れば裏を見るのも忘れんでほしいところ」

「流石はよこしまな浦島津うらしまつ太郎さん、波打ち際でだけはオモテになるようで――よっ、水も滴るきもいい男!」[訳註:著者は《気持ちの良い男オンブレ・アグラダーブレ》と訳しているが、これは明らかに《きもちいい》と《きもい》を綯交ぜにした表現だろう]

「いい男は乾かせば元通りだがねえ、」学士の声も少しずつ遠ざかっていく。「ご主人の大切な愛刀デュランダルは……いや今はアダマスのハルパーだったかな、いずれにせよあの無二の業物たるや一旦沖に流れたら戻ってはこないだろうぜ」

「ハァ?……だから私には日本語でしゃべれっつって――」そう苦情を垂れながら釣られて学士の視線を追った千代さんは、何とも書き取り難い叫号を上げると反射的に膝立ちとなった。どの向きで頭を預けていたのか我々には与り知らぬところだが、何れにせよ余計なものが詰まって破裂しそうなドニャ・キホーテの重い頭部は従士の柔らかな太腿から転がり落ちたことだろう。すんでのところで差し出した掌が、主のおつむカベリェーラの砂浜への墜落をあわやのところで食い止めた。「あっぶ! ちょ、ごめんなさい!――でも先輩の傘が」

 千代は畳んだ厚地手拭いトアージャを、孫武スンツーの言葉を借りればまさしく《始めは処女の如くアル・プリンシーピオ・コモ・ウナ・ビルヘン》淑やかに、改めて花の頭の下に敷き直すと、今度は先程の石松に劣らぬ脱兎の足で水平線の彼方へと突進したのであった。


成る程猫の舌持つ従者は水着に着替えていたお陰で、見事な人命救助を成し遂げたケルピエの主人のような濡れ鼠とはならずに済んだ。(濡れ鼠ラトーン・モハードとは衣服を着たままずぶ濡れエンパパード・コン・ス・ロパ・プエスタになった様を表す日本の慣用句。学士が言った「おあいこで満足だメ・ボイ・コンテント・コン・エル・エンパーテ」というのは勿論、直後に千代が自分と同じ目に合うことを予言した言葉である)

 こちらも見事にイポグリフォの主人が佩けしエクスカリブルだかアルタキアラだか――尤もこの剣もしくは長槍の名はその時々によって変遷するのだが――を眠り姫アウローラ霊気アーウラを帯びた我等が騎士の許へとしっかり持ち帰ったわけだが、その姿はまるで波に飲まれた主の身代わりに鯨の大口に飲み込まれ、その胃の中で数日間囚われてでもいたかのように憔悴しきっていた。そもそも猫ならば泳ぎも不得手であったろう。ドニャ・キホーテの日傘がどのくらい流されていたのかは知る由もないが、バシャバシャと音を立てて水の中に沈んでから浜に上がるまで二分は掛かっていたようだから、波に揉まれた猫は存外溺れた鼠よりも惨めな風体だったかも知れぬ。

 千代さんが生還して戻った時、石松の姿は既になかった。

 話し相手もなく手持ち無沙汰となった従者は、一先ず主人の御髪をもう一度己の膝の上に掻き抱くと、その頭の下に敷かれていた手拭いで今度は自分の髪を乱雑に拭き始める。それからは傘の陰を吹く浜風で水滴の付着した肌を涼ませながら、所在ない暇日の一時を淑やかな正座セイサの姿勢のまま遣り過ごしていた。

 つとうたかたの女騎士カバジェーラ・デ・ラ・ブルブーハが跳ね起きたものだから、暫くの間コクリコクリとバランセアンドセ船を漕いでいた従士も泡沫の夢スエーニョ・ブルブヘーオから呼び覚まされてしまった。

「ハッ、余のグングニルは?」

「ハァ? ググる? 煮る? 何を?」

 そう問いながらも寝惚け眼の前でわきわきと動く騎士の白魚のような運指を確認すると、多くの有能な遍歴の従者がそうであるように主人の欲するところを如才なく察した千代は、荒波の中から救出して後は開いた状態で傍らに日光浴させてあったドニャ・キホーテの愛刀たる、例の瀟洒な日傘をその掌の上にポンと乗せてあげる。

「おお……でかしたぞチヨさん」そう云いながら胸を撫で下ろした騎士は、余程寝心地が好かったのだろうか、三度その後頭部を生身の低反発マクラアルモアーダ・エスプーマへと沈ませた。

「あらら。私がでかしたってんなら、ハニャ先輩の方は一体何をしでかしたんですかい」己の顔の下で丸まっている花を見下ろしながら、甘える幼子をあやすような形になった猫娘は早速騎士の相手をしてやる。

「よくぞ訊いてくれた吾が第一の妹よ」騎士は先般の荒事を思い返す為に目を閉じた。「ケートスを――いや最早彼の者はレビアタンと呼んで差し支えあるまい――兎も角も身の毛もよだつ大海の魔神を追って泡立つ波折りにこの身を晒したそれがしを待ち受けていたのは、遥か海平線の彼方より迫り来る、ルカ福音書に読まれた海のとどろきも斯くやというような海神わたつみのわななき、加えて怒潮のどよめきが狂瀾の姿情を得て襲い掛かってきよった。アイギスの加護を受けたそれがしも負けじと突撃するも、彼奴はそれがしの眼前僅か一クビトゥスとないところで、おお何と賢しらな、ニヴルヘイムの比類なき巨人ユミルへとその姿を変えたではないか!」

「つまりその、」千代は自分に向けて発せられている久方振りの世迷い言を懐かしいやらかったるいやら複雑な心境で聞き流しながらも、何とか会話を成立させようと無い頭で至極簡明な相槌を放った。「……鯨の代わりに波が来て、それがギリギリのとこで夢見る巨人に変身したってことですか?」

「大筋はその通りじゃ」騎士はつぶらな瞳を見開いて、布地によって支えられるご大層なふたつの中華まんボージョス・アル・バポール[訳註:直訳は《蒸し饅頭》]に阻まれたその奥できょとんとしている従者の面差しをぢっと見上げると以下に続けた。「尤もユミルの視た夢があるとすれば差し詰め邯鄲の夢といったところだろう。というのもこの原初の巨人はギンヌンガガプの亀裂で産声を上げてから、その息子にして戦争の神であるオーディンに代わって――これは恐らく今日が第五の曜日、オーディンの日であり水の日でもあったが故の奇蹟と考えるのが妥当であろう――鯨捕りの銛をユグドラシルの枝から象られし不滅の槍グングニルに持ち替えたこのブラドイドの征服者ドニャ・キホーテ・デ・ラ・サンチャが一閃袈裟斬りに……否、左右一文字に両断して元の水沫に帰せしめるまで、刹那とまでは呼ばぬまでも弾指というよりは瞬目に近い時間しか流れておらなんだからだが、よもや己が本当に北方ノルドの支配者としての生を全うしたなどとは夢にも思わぬままに故郷へと、すなわち大海原へと還っていったのだからな」

「それでか。一瞬すぎたんで私には、先輩に襲い掛かったその波が折角巨人だか神様だかになったってのに、ドニャ・キホーテに一発お見舞いされただけで簡単に夢だったと割り切って田舎に引っ込んじゃったのを見逃しちゃったってことですね。せいぜい誇張された夢だったんでしょうけど。因みに今日は月の日です。何番目の曜日かは知らん……第三?」

「うむ。おぬしの云う通り、」騎士が仰向けのままに腕組みをして唸る。「波が束の間垣間見た神になった夢なのか、将又波になった夢を視た神が寸陰の間目覚めただけなのか、これはそれがしにも判らぬ」

「まァそこはどっちだっていいですけど」恐らく海水を口に含んでしょっぱいまま乾いてしまっただろう主の唇に、微かに傾けた可塑性瓶の飲み口からちょろちょろと冷たい飲み物を流し込んでやった千代は、それで自分の渇いた喉をも潤してから当然の疑問をぶつける。「先輩が待ち望んでたその、なんだろう、南海の大決闘にはめでたく勝利したんですよねえ。じゃあどういうわけであんな浅瀬で溺れてたんです?《溺れる者はワラーをも掴む》っていうけどあの波打ち際には掴めるだけのwaterが無かったんですかね」[訳註:素直に「溺れる者は藁をも掴む」「藁がなかったんですかね」と云った可能性も否定出来ないが、ワラの独特の発音から誤用若しくは駄洒落だと判断した]

「それはそれがしを付け狙い、遊歴の道中で当然達成されるであろう数多の燦然たる功名を悉く阻止せんが為にこれまでも幾度となく忌まわしき術を用いこのラ・サンチャの精華の武勲を邪魔立てしてきた不埒な魔法使い、その名も下劣なフレストン奴の仕業であることに寸分の疑いもないのじゃ」

「フレストン……聞き覚えがあります」

「本来それがしの纏うておる剣の女王レイナ・デ・エスパーダ[訳註:西洋歌留多カルタス・デ・ラ・バラーハに描かれるアテナのこと]から借り受けしこのアイギスの盾が、目にしたものを立ち所に石化する魔力を秘めておるのは世の認めるところじゃ。しかしこの常勝無敗のドニャ・キホーテが北欧の主神の振るったグングニルを以て夢見るユミルを一刀のもとに斬り伏せるや否や、それがしの無骨な脹ら脛がまるでイダルゴの玄武岩角柱プリスマス・バサルティコスよろしく固まって動かなくなったのである。これはそれがしの推測だが、神に比肩する手柄を上げる手前であったラ・サンチャの勇者を妬んだあの罰当たりの魔術師が、咄嗟のところで卑怯な呪術を用い海面を妖かしの鏡に変じたのだろう。自然ゴルゴンの魔眼は反射してそれがしの四肢は金縛りとなり、巨人殺しの栄誉ともどもあわや海中に没するところであった」

「そういえば巨人って悪い奴なんでしたっけ?……なんか騎士のお師匠とかだった気が」

「思えばチヨさんら騎士ならぬ者たちの目に、あの見越し入道顔負けの偉丈夫が単なる大波としか映らなかったのも、これは悪しき賢人フレストンの所業と判じて相違あるまい。あれの魔力は凄まじいからな」

「ちょ、先輩病み上がりでそんなしゃべって大丈夫ですか」主の顔を覗き込む。「陸に上がったマグロ(原註:これは豚肉マーグロではなくアトゥーンのこと)みたいな顔色ですけど」[訳註:西magroは特に腰回りの赤身肉を指す。因みにこれがmaguroでなくmaduroだと果実や人間が《熟れた/熟年の》といった形容詞となる]

「ヤマ上がりといえば、巨人のみならず人類の初祖ともされるユミルは『リグ・ウェーダ』に於けるヤマ、つまりは閻魔大王と同一視もされておる」

「閻魔様なら知ってます! 地獄で舌抜く人でしょ!」

「実際に舌を抜くのは大叫喚地獄は吼吼処くくしょの獄卒どもだろうがね――」

「あの嘘八百松も閻魔様に舌抜いてもらわねえと」

「――閻魔様は浄玻璃の鏡で遍く罪を見通して裁きを下すだけさ……時に鏡の、いや森の学士カラスコージ卿はどうなされたかな」

「帰ってこないですね」

「よもやとは思うが、」騎士は半身を起こすと身を捩り、家来に顔だけで詰め寄った。「それがしがあの黒馬をケルピエなどと名付けたばかりに、主諸共昏冥の海中に引き摺り込まれたなんてことはあるまいな?」

「混迷して海中に溺れたのは先輩の方じゃないですか」真に迫ったドニャ・キホーテの動揺に気圧され仰け反りながらも、千代は何とか返答した。「カラスのサンゾーは図らずも着衣水泳しちゃったんで、着替えてくるって言ってどっかに消えましたよ」

「それは気の毒なことをした。己達せんと欲して人を達せしむとはいえど、一刻も早く課せられた密命を思い出さねばならぬ身空だったろうに思わぬ廻り道をさせてしもうたわい」

「今頃蜜豆でも喰ってんじゃないですか。私も被り水で髪パサパサですし、どっかで流してきますよ。ここシャワーあんのか知らんけど」

「チヨさんにも面倒を掛けたな。《白刃前を交われば》とも謂うし、戦時にあっては流れる矢に構う余裕もなければ淋漓りんりとして滴るシャワーを浴びる暇も又、今後はないやも知れぬ。灰被りセニシエンタ形無しの水被りアグイエンタ姫よ、芸術的な外形フォルマを保つその器用パサパサな髪を存分に清めてくるがよいぞ[訳註:西pasapasaとは手品師の技術のこと。汎ゆる道具がその手を魔法さながらに通過していくパサール様子を語源としたものか]」そう云った騎士は今一度専用の生きた枕アルモアーダ・ビビエンテに顔を埋めた。

 それを確認した従者は流石に痺れを切らし、「流石に痺れてきたので枕はこちらでお願いします。何とか今まで耐えられたのは先輩の頭が軽かったってだけですから」そう懇願してから、寝返りを打ってほつれた花の前髪を整えてやった。「……いや、顔が小さいという意味であって脳みそがちっちゃいという意味では」

 日本人に小顔カラ・ペケーニャが尊ばれる話は、往時彼等の隣国が女性の小足ピエス・ペケーニョスを《金蓮ロト・ドラード》として珍重してきた歴史を我等に想起させよう。唐末から宋代に掛けて、秦国では纏足少女の方がよく売れたのであるエン・チナ・ラス・チーカス・ベンダーダス・セ・ベンディーアン・メホール


結果を記すとパラ・コンクルイール、半坐千代が浜辺に設置されている噴出湯水ドゥチャを浴びることは叶わなかった。

 可愛い先輩を何処の馬の骨とも知れぬ鉄馬乗りから取り返したはいいが、あれだけ待ち望んだ鬱陶しい花の痴れ言がいざ自分だけのものとして帰って来たとなると矢張り鬱陶しいことに変わりはなく、正座による麻痺と主の滔々たる懸河の弁トレンテ・フルエンテ・デ・ラ・フエンテ・フエルテから漸う解放された従者は足の裏を揉みしだきながら己の持ち物を漁っていた。

「あれ、アメニティ私パクってこなかったっけ?」首を傾げる千代。

「アメン!」

「いやこんなクソ暑いのにラーメンはもういいですから……いやそれ以前に自前のお風呂グッズが入ってないっす。ホテルに忘れてきたか?」

「客舎には塵ひとつ残っておらなんだことは勇敢なるマプチェ族の英雄ラウタロの首に誓って真実であるぞ。時に箴言には《善なる物を探し求めそれに励む者は天恵を得ん》とあるけれど、一体チヨさんは何を捜しておるのじゃ」

「善なるものでは全然なくてただのシャンプーなんですけど、あれおかしいな」従者は立ち上がった。「入り切んなくてチャリのカゴに分けて置いてたかも。ちょっとシャルロット見てきますね」

 結論を記すと、この時既に半坐千代の風呂道具一式フエーゴ・デ・ドゥーチャは彼女と共にあった。買い物をした時の半透明な可塑性袋ボルサ・デ・プラースティコ・トランスルーシダに(水漏れ防止用だろう)重ね入れしていたことをすっかり失念していたが為、車輪付きの中に潜んでいるのを見過ごしていただけである。

 但し、賢明なドニャ・キホーテの言葉を借りればまさに《白刃前に交わればミエントラス・セ・クルーサン・ラス・エスパーダス・流矢を顧みずア・キエン・レ・インポルタ・ラス・フレーチャス・ボランド・エン・エル・シエーロ》、不運と恋仲の従士にとってパサパサの猫っ毛ペロ・ガトゥーノ・セキッスィモを洗ってツヤツヤベリッスィモに……どころではなくなる事態が、この後直ぐにも出来するのであった。

「ない!」

 砂浜と舗装路を分かつ境目辺り、件の馬駐まで駆けて来た千代の叫喚が、蒼天に木霊して海鳥をおののかせる。

「シャロがいない! 違法路駐で移動された? 私だけナンデ?」

「ヒネス!」追い付いた騎士が、唖然とする従者の背後から何故か嬉しそうな罵り声を上げた。「おのれ憎っくき盗っ人のヒネス・デ・パサモンテの仕業じゃ」

「盗まれた?――ないない、ないですて。だって盗むなら断然先輩のグリちゃんでしょうが? うちのはボロのママチャリですよ……」そう云ってつい先刻までは並んで各々の主人の帰りを待っていたであろう傍らの競技用自転車に目を遣るなり、その蹄鉄エラドゥーラにガッチリと嵌められた頑強な錠口セラドゥーラがほんの小一時間ほど前の記憶を呼び覚ましたのだろう、「鍵掛けた憶えがねええええ!」という奇声を発するとともにその場で崩折れる千代。そうやって落ちた視界に新たに飛び込んだ物が、彼女の瞳孔を殊更著しく反射させたのである!

「ふむ、《只より高い物はなし》とも謂うしな……蓋しおぬしの御母堂ならば、それより点ふたつ分更に値が釣り上がるのじゃろて」[訳註:ロハ+濁点=ロバ。翻訳では「ロバ――則ち驢馬ブラと聴いては盗まずにはおられなんだノ・プド・スィノ・ロバールラのじゃろて」]

 それは地面の上にぽつねんと置かれたひとつの(主従の二人分あったかもしれないが)可塑性容器あるいは大きめな紙製杯バソ・デ・パペル――そこに突き刺された、掬い匙クチャーラ代わりに先端を切断された吸取り管パヒータ、そしてその中を満たす色付きの液体であった。

「クソ松の野郎ォォォォォオオウゥ!」再度海岸に轟き渡る露出水着JKJK・エン・ビキーニの慟哭。振り上げた諸手をゆっくりと下ろし、その拳を静かに大地に押し付けながら吐き捨てる。「溶けてるじゃねえか……ブルーハワイが」

 すると片膝立てをして寄り添ったドニャ・キホーテは、萎れた妹の肩に手を置いて優しく情深い慰めの言葉を掛けた。

「案ずるなチヨさん。忘恩の徒ヒネスは陋劣な悪党なれど、おぬしの愛驢は間もなくその手の内にもとい股の間に戻ろう。寸善尺魔の徒し世とはいえ、こればかりは他ならぬチヨさんが先方さきがた奪還してくれたそれがしのこの寸頃すんころもよきクライモーレが誇る一対の四つ葉飾りクアドリロブロスに誓ってもよいほどじゃ。というのも塞翁が馬の故事を鑑みれば、《千代ちよが驢馬》と予言しても強ち過ち足り得ぬではないか」

「何云ってんですか」千代婆さんチヨ・ビエーハは鼻を啜って反論した。よく泣く日である。「ロバなのは王様じゃなくて王様の耳がロバなんでしょうよ」

「涙を拭くのだ可哀想な母なし子よ」騎士は少女の頬を伝う硝子の粒を指で掬い上げて諭した。「それから砂を噛む前に鼻をかむとよい。母シャーロット皇女とは直ぐにもまた相見えるのじゃからの。それが確かなことであることの証として、万一今この時も吾等が旋毛を灼く日輪が竺土じくどの山に沈む頃、それこそ冥府の閻魔ヤマの肌を蒼昏く照らす刻限になっても尚そなたの連れ合いが見つからなんだ暁には、道中最初に出会した馬喰ばくろうが有する馬の中で最も上等な一頭を、カルラ女王の転生と思って何でも買うて授けようではないか」

 千代が泣き止んだ。「それは何でも好きなチャリを買ってくれるってことですか?」

「然様。それこそカール女帝カルラマーニャと呼んで差し支えないような逸物をな」

「電動のでもですか」

「それが樹状ロシナンテデンドロシナンテ[訳註:操舵棒マヌーブリオが樹枝ないし鹿角のように枝分かれしていたり、若しくは木製の自転車ということかとも考え得るが真意は解らぬ]であろうと騎士に二言はない」

「それなら――」従士はもう一度鼻を啜り上げてから続ける。「チカさんも怒らないかも」

「何よりじゃ」

「海老で鯛……いやタイガーレベルの釣果か」[訳註:「カバージャと引き換えにカバージョ……どころか電動馬エレークトリコを釣る並みの釣果ペスカプトゥーラか」。《ガジョを差し出してカバージョを得る》という諺に拠る。因みに馬の女性形caballaに牝馬ジェーグアの意味はない]

「善き哉。伴随の勤めの方もその調子で、則ち騎虎の勢いで宜しく頼むぞ」

「かしこまりです」晴れやかな返答である。こういった子どもの感情の激しい移り変わりを、日本では俗に《今泣いたカラスがもう笑うクエルボ・ケ・ア・ジョラード・アオラ・エスタ・リエンド・ジャ》と謂う。現状に即して謂い換えれば、差し詰め《今カラスに泣かされていた孤児がもう笑う》といったところか。[訳註:ここで著者が千代を孤児ウエルファナと呼んでいるのは、言うまでもなく紛失したママチャリを額面通り母親に仮託しているからである]

「いずれあのロバ泥棒は捕えねばならぬ。成程こそ泥ロバペーラス[訳註:原義は《梨泥棒》]とはよくぞいったものよ」ドニャ・キホーテは無い口髭ビゴーテ・イネクスィステンテを扱きながら云った。「先を急ごうチヨさん。警吏や聖堂参事会の連中に先を越されては騎士の名折れじゃ」

「にしてもあの泥松の変態野郎、うちのママをどうやって運んだんだろう? あのバイクのお尻に積んだのか……積めるか?」ここで立ち上がろうとした千代だったが、どうしたわけか不意によろける。「あ、立ちくらんだ。炎天下にいたから……それもこれも石松のせいだ。石抱きの刑にしてやる」

「おお、そこにあるはフィエラブラの香油バルサモ・デ・フィエラブラスではないか?」騎士が千代の足元にあった容器の中身を指差した。「万能の霊薬と名高いあの?」

「いやこれは」従者がさも忌々しげに歯噛みしつつ摘み上げて答える。「かき氷ですよ。正確にはかき氷だったモノというか……第一バルサミコ酢はもっとドス黒いでしょう」

「《嘗ての氷コリアンテ》というわけだな。溶けた氷が流れ流れてやがて大洋に辿り着くように、ひとたびことが動けば目当ての物も自ずとそなたの眼前に現れるであろう」[訳註:西corrienteコリエンテには《水の流れ、海流》の意味がある]

「とりあえず荷物を持ってきます」苛ついた従士は豪快に手元の蒼きコリアンテを飲み干すと、さもそれが烏小路改め怨敵ヘローニモ・デ・パサモンテの骨片でもあるかのように底に残っていた氷の屑をシャクシャクと憎々しげに噛みしだいた。「このまま追跡したら、特に私なんかただの露出狂ってことになりますし、盗難届を出すにしたって先にこっちが逮捕されちゃいますから」

 これが本当なら思わず催したロ・プシエーラ・カリエンテという学士の弁も一概に世辞ピローポではなかったのかもしれないが、恐らくこれは千代自身の誇張だろう。恥じらいを知る彼女ともあろう人物が、仮令それが数多の痴女ビッチの跋扈する砂浜ビーチであろうと、少なくとも場所が生演奏会場の外であるならば人目を憚るような水着姿で歩き回ること自体如何せん考え難いからである。


怒りに我を忘れていた半坐千代の精神状態を恐察すれば無理からぬことではあったものの、逸る気持ちを抑え切れずに(この時点で風呂道具一式が見つかっていなかったにせよ)噴出湯水を浴びぬまま着衣を済ませてそのまま海水浴場を後にした不首尾を、彼女は後々になって悔やむことになる。その次第は次章に譲るとして、取り敢えず我々は主従の行先を見守ろう。[訳註:浜辺から引き上げる物音に耳をそばだてる限り、烏小路が借りてきたスキラの日傘を返却した様子はない。そのまま放置したのであろう]

 ともあれふたりは出発した。

 ここで寛大なる読者諸賢の気に掛かることがあるとすれば、愛車を失った従士が如何にして主人に伺候し得るかという問題であろう。何せ足がないのだ。

可能性の一つとして思い付くのは、イポグリフォの鋼管上部トゥボ・スペリオールに千代を横座りさせる方法であるが、如何にこの悍馬が頑強であったといって思春期の乙女ひとり分の荷重に耐え得るほど骨太な猪首を備えていることはあるまい。断郊用自転車ベ・エメ・イクスではないのだ。

 となれば《尻馬アル・クーロ》である。そうなると今度は、その身の重みを本人の尻が耐え切れるか否かが問われてくるのだが。[訳註:競技用なら荷台は付属してない筈。つまり乗鞍――尻というよりは背――に跨るよりない。但し踏板は当然花が漕ぐ訳で、自然千代は自分の体重を己の股間のみで支えなくてはならないということ。これはしんどい。尤も横座りになれば高い椅子に腰掛けてるようなものだが、それでは流石に走行中の均衡が保てまい]

「サドル、私が座っちゃっていいんですか?」

「それがしは猿乗りモンキークラウチの名手故、鐙と手綱さえあれば如何なる暴れ馬も思いのままなのじゃ」

「それはいいですけど、暴れ馬にはカゴ付いてないですよね。これどうしましょ?」肩に掛けられる駄袋ボルソーンはいいとしても、従者は車輪と持ち手付き鞄マレータ・コン・ルエーダス・イ・アサを携行していた筈だ。

「騎馬に荷鞍は積まぬからな……さて、」数秒思案した後、「これはこうしたらどうかな」

「おお、それならなんとか」皆目分からない。「でも二人乗りしてる上にこんなアクロバティックなことしてたらやっぱ交番の前通れませんねえ。注意しないと……よいしょ」

しかと掴まっておれよ。そら!」

「お願いしま……わ、ちょ、ちょ、ちょっ、こわいこわいこわ!」

 瞬く間に加速した《荒ぶる半鷲半馬》は、ともすれば波蘭ポローニアの崖下に転がり堕ちた時よりもけたたましいのではないかと思われる程の風切り音を以て騎士の背中に必死にしがみつく千代の耳を劈きながら、一分を待たずして無数の車輌が往還する街道へその馬身を踊り出さしめていた。

 喧騒に交じって、やけに伊達好みな旋律メロディーア・ダンディッスィマが聴こえてくる。女流男声低音歌手バリートナ[訳註:女声の低音域であれば《高声アルト》《より高い声コントラルト》と書くのが普通]も斯くやという美声だが、余りに伊達な歌声なのでこの状況でもなければ歌い手の性別を断定することは難しかったかもしれない。Night and you, and Blue Hawaii...

「チヨさんや」唐突に阿僧祇花が肩越しに声を掛けた。「英語イングレスの講釈じゃ。この歌詞は何を意味しておるかな?」

「ええ? ちょ、聴いてませんでした。もう一度歌ってください」

 東海道をホルスかハヤブサかと見紛う神速で疾駆しながら[訳註:沼津周辺図と照合する限り、実際はこの時点でイポグリフォもまだ国道1号線には入っていなかったと思われる。因みに《隼》は、halcónではなくhayabusaと表記されていることからも鳥ではなく単車のそれなのだろう]、歌姫はクロスビーにもプレスリーにも劣らぬ貫禄と官能で高唱してみせる。

「ええっと――、」車道の騒音を掻き分け懸命に耳を澄ませながら、素直な従士は半世紀以上前に流行した楽曲の解読を試みた。「泣いたんよ~、ああん、青い……ハワイ。泣いたのは赤い鬼じゃなかったでしたっけ」

 これは日本の昔話だ。村人と友好関係を結びたかった人の好い赤鬼オーグロ・ロホ・デ・ブエン・ナトゥラル[訳註:鬼の好い赤鬼?]が、より人の好い青鬼の申し出により一芝居を打つ。狂言で人里を襲った青鬼を示し合わせていた赤鬼が討伐し、感謝された赤鬼は目出度く人間と仲良くなるが、自分が残っては都合が悪かろうと言って青鬼は山を去ってしまう。それを知った赤鬼は新たな友と引き換えに失った親友のことを想って泣く、というもの。主従いずれの友人にも、こんな殊勝な親友は見当たるまい。[訳註:馬場嬢は兎も角、安藤部長に対して失礼な記述だ]

「御賢察。慥かに泣いてしかるべきは青鬼の方よな」騎士はそれまで引っ切り無しに回転させていた鐙の片側に重心を乗せ、車輪を空転させながら続けた。「成程、謀りが裏目に出るということならその読みも的を射ているかもしれぬが、それはそれとして――」

「それはそれでいいんですけどすみません、乗っけてもらって文句云うのも何ですが」申し訳なさげに主人の授業を遮った千代さんは、堪らず打ち明ける。「骨盤……恥骨が割れそう」

 矢張り、羽根ならぬ芳紀十四五の少女チカ・デ・カトルセ・オ・キンセアニェーラの命の重みを支えるのに、成長途上のその骨盤は柔弱に過ぎたのである。

「それは大事だ。《疾風しっぷう勁草けいそうを知る》とは言い得て妙だが、遍歴の従士とはいえいまだ新米な和肌にぎはだの乙女にこの比類なき悍馬の轟駆とどろがけを耐え抜けというのも酷よな」

「脛骨じゃなくて恥骨ですよ……ん、坐骨?」

「存じておる」騎士は高速で進行しながらも、鷲の目で路辺の屋舎に目を留めた。「そらチヨさん、吾等姉妹が腹拵えするにあつらえ向きな茶屋があるではないか」

 程なくしてふたりを乗せた自転車が緩やかに停車する。

「あいたたたた、ちょっと車体傾けてください」千代は足が届かないのだ。「あ~ヤバかった。今年は折角腹筋割ろうと思ってたのに先にケツが割れちまったですよ……あ、もうお昼ですか?」

「それがしのせなを通して響くおぬしの腹の虫の蠢動が五月蝿うて敵わぬのじゃ」

「それじゃ私が、お腹ん中に寄生虫かなんかを飼育してるみたいじゃないですか失礼なまったく」事実千代の腹は主人の財布に寄生しているようなものである。「ホテル戻るのかと思ったら、左折して別の橋渡ったんですねえ。まァお陰でいい感じのカフェに入れてよかったけど。ああ姉妹のカフェってそういうことか」

世界の縮図ナクシェジャハーン[訳註:前述の都市エスファハーンにある広場メイダーネの名。別名イマーム広場]も結構だけれど、泣くにせよ笑うにせよ今少し世界を覽てからにしようではないか……ということで取り敢えずはおぬし手飼いの虫どもがゴハーンと鳴くのの相手をするので目一杯の手一杯で精一杯という次第だ」

「食べ歩きの食べ――旅だものそりゃ鳴くさゴハーンと! 腹いっぱい!」

「やれやれ、チヨさんは疾うに遺忘の果てとみえるが、此度の旅は只の回歴ではないのだぞ。ひとえに文華終焉の地にて吾等を待つ、崇奉すべき失地回復の任を帯びてこそではないか」

「終焉というか尾張名古屋ですけど。何気にオワコン扱いヒドイですよね」

「酷いのはおぬしの羅針であろうて。サートゥルヌスの日までにはアマディスの許に参集せねばならんのだから、一刻の猶予もなく一路西に馬を走らせるべきなのじゃ」

「そりゃ先輩に比べたら私の裸なんか見れたもんじゃないでしょうがね。こんなとこで猥談してたら営業妨害ですし、ブルーヒワイの強制わいせつ松がまだどっかに潜んどらんとも限りません、まずは一路店内に入りましょう。あ、手作りケーキだって」

そういった、又はそれに類する無駄話を経て、主従はその小洒落た喫茶店の扉鐘ティンブレを鳴らしたのだった。遺忘の果てフィン・デル・オルビードというなら、警察に寄ることをすっかり忘れているではないか。


「で、さっきの青鬼の話は何だったんですか?」

 明るい店内の一角に向かい合った主従の一方が、早速品書きを開きながら切り出した。

「いつからラ・サンチャが産んだこの不世出の姉妹は、大江山に参じた頼光と保昌になったのじゃ。尤も黄泉比良坂よもつひらさかのヤマは青黒く描かれることも多いがな」相変わらず余計なことを付け加えずにはおれない騎士は、それでも直ぐにほんの十分前の出来事を家来に思い出させた。「学士殿が残した蒼きハワイのことよ」

「あ、あ~やっぱブルーハワイの唄だったんですね」千代は膝の代わりに卓上を打った。「どうりで、マカダミアナッツの箱に鬼が描いてあるわけだ」

「いい加減鬼から離れなさい。それにチョコの箱のあれはティキ像といってポリネシア由来の歴とした神様だよ」

「レッキとしたで思い出した」なかなか話が進まない。「さっき先輩が波と戦って溺れた時に、いやええっと、勝ってから溺れた時にまたボッキの話してたじゃないですか」嗚呼、慣れとは恐ろしいもので、今や純粋無垢な千代さんの唇からは何ら恥じらいの一片も感じ取れない。

「ボッキ宮正面の刻字のことじゃな。はてホラティウスかそれともダビデのそれか」

「ホラ吹きじゃない方。ほら、フビライ……ハン、語。エビフライ……ごはん。さすがにここ定食はないか。天丼とか。いやエビフライじゃないことは私にも分かりますが」

「エビフライ語というのも聴いてみたいものだな」

「名古屋に着いたらきっとエビフリャー語が聴けますよ。あ、これいい。すみませんケーキパフェセットふたつカフェラテとブレンドでフルーツタルトとキャラメルバナナお願いします――で何て云ってたんですか。逃亡松の野郎も翻訳できないって言ってましたけど」

「よいかチヨさん、あれはヘブライ語でこういった具合の意味合いなのじゃ――《ヤハウェよ、吾が魂を解き給へ、偽りの唇、欺きの舌から》」

「なるほど、つまり行いが正しきゃ王様になれるけど――」これにはその狂気インサーニアを補って余りある強記メモーリアで鳴らした花も舌を巻いたであろう。この薄ぼんやりした従士が耳にしてから早一時間以上にもなるホラティウスの金言まで具に記憶していたとは!「――嘘吐きじゃダメってことですね。いやいいことしてても嘘は吐いちゃうもんだぜってことかな?」

「いや畏れ入った」騎士は嘆賞した「これは兜を脱がずにはおれぬわい」

「へ、カブト?」千代は心なしか狼狽したが、これは《ドンブリーノの兜》こと厚木の拉麺屋における分捕り品を、彼女が主人に断りなく三軒茶屋の生家に預けてきてしまったことについて釈明せねばならなくなるかもという早合点に依るものではないか――そう筆者は推察している。その為もあってか、花の引用したパラッツォ・ボッキを飾る詩篇の一節について、彼女がこれ以上深く考えることはなかった。

「そこまで理解しておるならば最早何も解題することはないな」

「ハァ、恐縮です……つまりあれですよ」話題を逸らそうとする従者。「カラスのサンゾーみたいな松ボッキリはやっぱり閻魔様に舌を抜いてもらうべきってことです。一枚抜かれても二枚舌だから問題ナッシングでしょうっつって」

 女給が飲み物を運んでくる。

「あ、カフェラテです。奴は二枚目ぶってる感じが更にイラッときますよね。馬鹿女にはモテそうですけど、個人的にはああいうのは三枚におろしてやりたいです」

「今日が日はいつになく吾が賢妹との間にはだかっていた言葉の壁が、心なしか疎通して感じられるな」

「旅の恥は一時の恥ですし、掻き捨てるよりは掻き集めろってね……まァ話は通じた方が面白いですから」石松の受け売りである。「昇級試験に役立てば尚いいんですけど」

「殊勝な心懸けじゃ……ところで何処まで話したかな」

「ハワイがブルーになってるところです。アィチッ!」

「慥かに《青い血サングレ・アスル》という言葉からも知れるように、青とは元来高貴な色である。カメハメハの褐色の肌にも蓋しよく似合うたであろうよ」はて、村娘風情の従者が胸元にも?

「ツツツツ……かめはめ波って青でしたっけ。あ、そうだ」軽く火傷した舌でどうでもよいことを思い出す従者。「ラングドシャって、日本語でなんていうか知ってます先輩?」

「猫舌かな」愚問である。「因みにlangue de chatterラング・ド・シャテ若しくは英語読みでchatチャットと発音すれば、それもそのままおぬしのことぞチヨさん。お喋り舌じゃ」

「ぐぬぬ……異議を申し立てたい」千代さんはぼそっと呟いたものの後が続かない。それからまた別のことを思い出して、椅子の脚と並び床に直立させていた台車付きを引っ張り出す。連想遊戯フエーゴ・アソシアティーボさながらだ。「そいや松の奴が何か置いてったんだった朝。ちょいと待ってくださいよ」

怪盗紳士ジャントルマ・カンブリヨリョーというわけか。奇特にも手土産持参とは、学士と白波の一人二役にしてはキャラ振れしておるな」

「キャラメルというよかクッキーかなんかだと思いますけど、開けます……りゃ、なんだこれ。たまご?」

「見せてみよ」

「はい。なんだよ黒たまごって。意味不……キティ先輩はどうしたよ?」

「ふふ、御苦労なことだ」騎士はさも愉快そうに手に取った紙袋を開封すると、中から漆黒の殻に覆われた茹で卵を一玉摘み上げてその涼やかな明眸の前に翳した。「早旦大涌谷に立ち寄ってからこの沼津もといブラドイドの古城へと戻られたのだなあ」

[訳者補遺:この年の八月というと、噴火警戒水準の引き上げにより大涌谷の周辺には立ち入り規制が敷かれていた。一部の土産物店などが類似品を販売していたということなのかもしれないが、もし物語が真実二〇一五年の出来事であるならば、この商品が偽物であった可能性も大きい。というのも箱根町に拠れば、同年五月に生産中止となっていた黒たまごの販売が再開されるには翌年の四月末まで待たねばならなかった筈だからである]

「ママチャリ一台分の代金としちゃ釣り合わねえ……せめて金の卵とか寄越せよな」

「そうはイカの」腕を伸ばして紙袋を返却する。「――何とやら」

「うえっ、これ食べれるんですか?」洋菓子を期待していた、そして今現在も豪華な甘味ドゥルセ・スントゥオーソを待ち侘びている最中の偏食の従士は思わぬ伏兵エンボスケーテ[訳註:本来emboscada《茂みに潜む者》とすべきところを、下手人の小森の騎士カバジェーロ・デル・ボスケーテに免じてembosqueteと綴っている]に顔を顰めた。「それになんか異様な臭いするし」

「硫黄の匂いじゃな。一粒で七歳しちとせ寿命が延びるとは能善権現の……否、冥府の神のお墨付きだそうな」

「寿命が延びるなら後でおやつ代わりにいただきましょう」この娘は常に現世利益ベネフィーシオ・テレナル優先である。「まァ、今は袋にしまっておきますよ。どう見てもコーヒーには合わなそうだし、そうじゃなくたってホラ、あそこで店員さんがパフェ持って待ってますから」

「幽鬼を裁く神といえばオシリスハデスと数居れど、斯様なまでに完璧パルフェな形で万福授けてくれる冥土の番人など他にはおるまい」

「お尻の話はやめてください。あ、ありがとうございます」そそくさと茹で卵を荷物に収めてから、食前の食後用甘味ポストレ・デ・アペリティーボの為に卓上を空ける千代さん。「派手な尻なんてのはリオのカーニバルでサンバ踊ってるような……半分こしましょう」

「尻ならば左右半々じゃろて」

「まァ半ケツは助かりましたが……いや実質的に私が全ケツしちゃってたか。あっ先輩が満腹授かってるってんなら七三、いや八二でもかまいませんけど。今はまだ水っ腹でしょうし」悪気はないのだろうが失礼な家来だ。「――で、なんで温泉玉子がメイドなんです?」

「それはチヨさん、」大振りの吧盃二杯ドス・バーソス・グランデス・デ・メディーダ・ピンタ[訳註:これがde media pintaであれば《半吧量≒一合半の》。因みに西medida pintaは英語に直訳するとpintパイント-sizeサイズであり、こちらは逆に少量を意味する]にこんもりと盛られた氷乳菓クレーマ・エラード多層生地乗せ焼菓子タルタ・コン・パステレーラ、その双方を今にも期待ではち切れんばかりな愛妹の胸元に押し寄せながら、嬉し顔アレーグレ・フィグーラのドニャ・キホーテは添えられた一対の金物類ドス・パーレス・デ・クビエルトス、その中から掬い匙一本のみを手に持って洋盃の硝子縁をコチンと叩くと以下のように言葉を継ぐのだった。「その玉子が茹でられたのはその名も地獄谷の閻魔台だからね」


その後千代さんは「ひとりでデザートを二杯食べるのにはカロリー計算上無理がある」と宣言すると、「栄養のバランスを図るため」和牛の焼き溶き卵掛け炒飯トルティージャ・エチャ・コン・アロース・フリート・デ・レス・ハポネーサを注文してペロリと平らげた。その上で改めて、既に氷菓が溶けてSundaeサンデーというよりはMondaeマンデーとなっていた残りの完全氷焼洋菓パルフェ・デ・タルタ・エラーダを食後の口直しにするという離れ業アクロバーシアを見せたようである。成る程甘党の彼女をして、食前酒アペリティフ食後酒ディジェスティフの代用なのだろう。甘い物なら渇いた砂のように何でも吸い込む砂漠デザート同然の身体だ。

「There are no more ways of killing a cat than choking it with ice cream…」

 既に午刻を廻っていたものの、悪党に鹵獲された不幸なシャーロットを如何なる戦術で取り戻すかという作戦会議が卓上を賑わせることはなく、店を出るまでの小一時間は細胞と生殖及び糖質の代謝などについての講義に費やされた。こちらも悪気はないとはいえ、従者が冷や汗スドール・フリーオを垂らしながら溶解した凝乳クレーマの乗った匙を舐めていただろう風景は想像に難くない。摂取熱量インヘスタ・デ・カロリーアスを消費する為に垂らすべきは、冷や汗よりも労働の汗なのだが。

 そして会計を済ませた騎士の駆る暴れ馬の背に再び跨った従士は、来るその日に彼女が天に召された折でも恐らく彼だけは閻魔に咎められることがないであろう正直者の胃袋が、因果応報の言葉通り食べた物の重みをそのまま持ち主の生命の重みに転化させた故に、先刻にも勝る地球の重力なるものの脅威をその尾骨に嫌というほど思い知ることとなった。

「早くも限界が近付いてまいりました」

 音を上げるには早過ぎるが、無駄な贅肉は疎か必要な器官すらも手応えが感じられないほど幅奥行き共に心許ない主人のか細い腰にしがみついた千代は、乗鞍との尻擦れを回避しつつあわよくば負荷を分散させようと散々重心の移動を試み、万策尽きたのを確認した上で半ば堂々と泣き言を吐いた。実際これは股間だけの問題ではない。脚を不用意にぶらつかせていては後輪に巻き込まれる恐れもあるので、傍で見ているよりも余程色々な筋肉を酷使していたことだろう。但し筋肉の酷使でいえば、ドニャ・キホーテは部下スバルテルナの大荷物を抱え剰え部下自身の体重も支え、中腰の姿勢を保ち颯爽と踏板を漕ぎ続けているのである。異常だアノルマル

「今晩のホテルまではもちませんから、早々のご休憩を所望します」昨晩の宿で味を占めたと見え、また野宿の憂き目を見ようなどとは露程にも考えていない。

「今少しの辛抱じゃ。何せピリッポス二世やアレクサンドロス大王といった神速の君主バシレウスの行軍速度には敵わぬまでも、せめて日の入りまでに駿河湾の対岸までは到着したいからの」

「いや、そこは、」何故か座っているだけの従者の方が息が上がっている。じりじりと照り付ける直射日光に晒されて兎にも角にも暑いのだ。「《風が吹いたら遅刻して雨が降ったらお休み》したという、あの偉大なカメハメハ大王の器のでかさを見習うべきじゃないですかね。彼ならこんなクソ暑い日は、ワイキキリゾートのプールサイドでブルーハワイ飲みながら優雅に過ごしてることうけあいです!」[訳註:童謡の中のハメハメハは飽くまで《南の島の大王》であってハワイの王様ではないし、それ以前に遅刻したり欠席したりするのは王子たちであって大王本人ではない]

「ハハハハハ」騎士は一時拍車を掛ける足を止めて愛馬の腹をきゅっと引き締めながらにこやかに哄笑すると、「《静かなる男カ・メハメハ(原註:The Quiet Man)》であれば寧ろ、仮令千の槍がその身に降り注いだとしても左手に掲げた平和の槍ひとつで総てを打ち落とし、次の駐留先へと馬を急がせたであろうことよ!」と断言した。そう、沼津マーシュ・ポートに続く野営地ルガール・デ・アカンパーダ静岡クワイエット・ヒルという名を冠する街なのである。

 それから騎乗の麗人は思い出したように、先ほどの懐かしの旋律メロディーア・デル・レクエルドを朗々とした名調子で再開した。

 Night and you and Blue Hawaii...

 The night is heavenly and you are heaven to me...

「それにブルーハワイを聞こし召すならば、」唄を中断した花は未成年らしからぬ豆知識トリビアリダをひけらかして後輩を呆れさせる。「シェラトンには糖蜜酒ロンの善き酒場バルがあるそうだから、どちらかでいえば大王もそちらの方で納涼なさっておるかもね」

「大王様はシェラトンで、騎士様ご一行は炎天下の二人乗りサイクリングですか。これは早く先輩にも王様に……せめてホテル王くらいになってもらわんこっちゃ、家来としちゃあ青鬼じゃなくたって泣きたい気分ですよ」

「嘆くには当たらぬ」ドニャ・キホーテは悲観的な従者を優しく諌めた。「疑心暗鬼あんきを生ずと謂うが、学士の忘れ形見であるこの歌に隠された秘匿されし謎語エニグマを解き明かせば、おぬしに生じた青鬼も立ちどころに青い鳥へと変身しよう――そうは思わぬか?」

「私は今、気を抜くとお尻から頭のつむじあたりまで真っ二つに割れそうな状態ですから、その鬼退治だか熊退治だかはハニャ先輩の知恵と勇気にお任せしたい所存です。現状報告をすると、今の時点でへそのあたりまで割れてますので急いでください」

「よし」騎士は獲物プレーサを前に舌舐めずり。「先ず冒頭のnightであるが、これは明らかに騎士則ちそれがしのことだな。となれば続くyouとはU字型の馬蹄を示していると考えるのが妥当じゃ。畢竟するに吾等が身を預けているこの騎馬のことであろう」

 こうなるともう知的好奇心インキエトゥ・インテレクトゥアルの範疇外である。そう観念した千代さんは一切の否定的な口出しを差し控える決意を固めた。「――なるほど」

「すると自ずから、Blue Hawaiiも只の滄海そうかいという訳にはゆくまいことが分かる。《青のあわい》と解すればくうかいの境界則ち水平線が浮かぶけれど、これじゃあ些か味気ない。青いだけなら弘法というより蒼茫と呼ぶべきじゃて。こういった場合は十中八九が偉大なる芸術アルス・マグナの並び替え[訳註:文字の綴り替えアナグラムスのこと]と相場が決まっておろう。得心が行く文字列はといえば……そう、《i hew abulia》というのは如何だろうか。騎士とその馬、そして吾が身を以て無為徒然を断ち切る――といった意味じゃな。換言するに、それがしとイポグリフォ、そしてチヨさん、そなたのことよ」

「な、なるほど」

「詞は更にこう嘯く。《Come with me while the moon is on the sea...》云うまでもなく日輪は天高く、蓄積出来る量の数倍のブドウ糖がその出番を待っておるおぬしの脳天を容赦なく焦熱の炎獄と化せしめておるわけだから、ここで語られる月とは夜天から水面みなもに堕ちた玉蟾ぎょくせんそのものの陰ではなく、いわずもがな狂気ルナティコを表しておる。海上の騎士が狂乱にある内に、つまりユミルとの博闘の熱冷めやらぬ間にその場を発てと、歴戦の勇士に求めておるのだな。おぬしが、じゃ」

「なるほど?」

「しかしこのcomeが来いカムなのか食えコメなのか、後者であることも考慮に入れて先刻は姉妹茶屋に足を踏み入れたと、そういう次第なのである」[訳註:西comer=食べる]

「なるほど!……ということはやっぱりパスタはやめてオムライスにして正解だったってことですね!――ッタ!」この時イポグリフォが段差を越えた為、跳ねた車体に一度は浮かんだ尻が手厳しく打ち付けられたが故の従者の悲鳴である。

「或いはそうかも知れぬ」主はひとつ咳払いをして続ける。「而して唄は、蒼きハワイにて夢は叶う、という。問題はこの先じゃ。《And mine could all come true...》これまでの晦渋な暗号を念頭に置けば、このマインは我が物ミーオというよりも鉱坑ミーナのそれではないかと――」

「ツツツツゥ……そのマインはまいっちんぐの、マインで、すよ」

私の痒みマイ・イッチング?」

「《たまの失敗はスパイスだよね》と、昔のまいんちゃんも、歌ってましたけど……かなり酸っぱい、この状況にあっても、タマの心配をしなくて済むの、だけは、たまたま女に、生まれた賜物、と、云えます、か、な?」

「玉が無くとも股は痛かろうに」

「ば――バレテーラ!」

「それがしの両眼は西を向いておるが、その声を聴けばおぬしが肝脳地にまみるような抜き差しならぬ惨況にあろうことが手に取るように分かるぞ」

「そりゃ馬が西向きゃお恥ずかしいって諺通り、」虫の息のコモ・レスピーラン・ロス・ビーチョス(これは死に際のように静かという意味だ)従者が最後の軽口を叩く。「東側は相当情けない状況なんです――以上、現場よりお伝えしま、した……あっU字ってU字ロックのこと?」

「そらチヨさん、元気を出すのじゃ」騎士が前方を指差して、恐らくロクに視界もないであろう千代さんの注意を促す。「今度は吾等鉄馬が腰を休めるに打って付けな蹄鉄鍛冶があるぞい。尤も雷槌いかづち鍛えた鍛冶の神ヘパイストスとておぬしの猫又――もとい小股の骨灰までは鋳直せまいがね」

 程なくしてふたりを乗せた競技用自転車が、鋭い制動音を立てながら急停車する。

「ちょっ、ぎゃあああ」耳目を脅かす号叫とともに、千代さんの全身の緊張が解かれた。

 花がそっと自転車を傾けてくれたので、今や首の辺りまではパックリと分断されたのではないかと筆者が危惧するところの従者の四肢は、何とか五体満足のまま転がり落ちるように降車したのであった。


主従の目の前に現れたのは一軒の自転車修理店タジェール・デ・ビシクレータスだ。

「ああ無理、もう無理」股間をさすりながらしゃがみ込んだ千代さんは、徐ろに眼前の建物を見上げると、所謂いわゆる猫の目のようコモ・オーホス・デ・ガト》に変幻自在で節操のない表情を複雑に輝かせた。

「然るにそれがしは先程の鉱坑から鍛冶の神ウルカヌスを聯想れんそうしたわけじゃが――」

「まだ見つからないと決まったわけじゃないですのにヤダー」主人の口上を遮るほどまでに浮ついた手負いの千代は、一転して何やら勝手に盛り上がっている。「まだこんな明るいのに。これは私のシャーロットに対する愛が試されているのか……でもたしかにこのまま二人乗りじゃ大変ですしねえ。どんなチャリがあるかくらい覗いてみるのも、いやそれならもっとおっきいお店で、っていうか事前にネットで調べてからの方がいいような気がしますが折角の先輩のご厚意を無駄にしたくないというこの純粋な忠義心は大切にしたい」

 仮に阿僧祇花が何らかの人格障害トラストルノ・デ・ラ・ペルソナリダを抱えているとするならば、この妹分とて十二分に病気であると診断できよう。唐突に益体ない文言を捲し立てた己の怪しさに従士が漸く気付いた頃には、店先でそのように騒がれた際に耳の聞こえる大抵の店主がそうするように、初老の男性が様子を見ようとして表まで出て来ていた。

「失礼、身共は遠く泰東の江都シウダ・デステはラ・サンチャの城邑から無二無三むにむさんの冒険を求めて罷り越した遊歴の騎士ドニャ・キ――」

「あら、姉さん方じゃねえの?」

 遊歴の騎士ドニャ・キホーテの前口上はこの短時間に一度ならず二度までも寸断された。

「あ、こんちは」千代が己が主に代わって店の主に挨拶をした。「電動のってあります?」

「いらっしゃい。いや何時間かしたら可愛いお嬢さんが二人連れで通り掛かるだろうって言うでしょ、だもんで随分待ってたですよ」

「はい。はい?」

「ほああ、たしかにバカ綺麗なお嬢さんだらー。ちょっと待ってて」老人はそのまま店の奥に引っ込んでしまった。

「バカ綺麗なお嬢さんだらーって」従士がその背を見送って独りごちた。「お嬢さんたちだらーでしょうが」

 仁王立ちの騎士カバジェーラ・ケダンド・エン・ピエ・コモ・ダルマパーラを横目に、然したる品数もない店頭の商品を眺めていると、十数秒と待たずして一台の自転車を押しつつ店主が戻ってきた。

「ちょ」

 その通り。行方不明だった従士の愛驢である。

「ちょっ、な?」

「それチヨさん、瞼の母との感動の再会じゃぞ。抱き締めてやらぬか」ドニャ・キホーテは従者の肩を叩いた。

 シャーロットの支え台を立てた店主は事の経緯を――否、その前に修理内容について説明した。

「内部摩耗と両方なんだども直接の原因はこれリム打ちつって縁石とか乗り上げた時に穴空いちゃうですよ」

「穴?」

「パンク!」

「あ、はい」

「これ妹ちゃんのですね」

「はい。はい? はい」

「妹ちゃんは道路でホラ、段差とか越える時にさ、こうサドルにお尻乗っけたまま越えるでしょ」

「え、どうだろ。気にしたことないっす」

「だもんでタイヤの内側のさ、ホラこっち来てごらん――ここ」

「はぁ……」

「ここに、もうこれ取っ替えたヤツだけど、こうふたつ穴空くの。危ねえ危ねえ、あんまま飛んどったら。車道でハンドル取られたらハイサヨナラですよ。事故った後にタイヤ交換してもしょんにゃあら。そっちのお姉さんの方も、二人乗りなんかしてたら直ぐダメになっちゃうよ。折角いい自転車なのに」

「ハァ、気を付けます。なんか心なしかキレイになってますけど」

「暇だったもんでサービスで磨いちゃったですよ」

「あ、ありがとうございます……で、」シャーロットの所有者が核心に切り出す。「――これどうしてここにあるんですか」

「いや、だからですね」店主が捲った護謨管トゥボ・デ・ゴマを整えてから立ち上がる。「黒いバイクのお兄さんがパンクしてるからって置いてったですよ。一二時間したらえらいけっこい、綺麗な女の子たちが、女の子が来るから修理したの渡してくださいって」

「おい」

「はい?」

「いやなんでもないです」喉元まで出掛かった科白を飲み込む千代さん。

「チェーンなんかも結構摩耗してっからあんまし乱暴に乗ってっと……そうね、ウチ帰ったら一回近くの自転車屋さんで交換してもらうとええですわ」老人が店の前を流れる道路を見渡した。「呼ばれてから出てきたもんで、あんなんどうやってバイクに積んできたのか分かんねえですけど。ああ、お代は頂いてますんで、サインだけもらえますですかね」

「あ、はい」

「少々お待ちくださいな」店主は再度店内に引っ込んだ。

「あ、おねがいします」

窩主買けいずかいならぬ会計済みとは」これには流石のドニャ・キホーテも舌を巻いたようだった。

 暫し呆然とした後、ピカピカに生まれ変わったような愛機に跨った千代は、主人の方を振り返って云った。「わ、すっげえ乗りやすいです」

「それがしの予言した通りであろう。詰まるところ、吾が夢遍く叶うとはミーナに出で来る真実が――」

「ぶっちゃけ、」思わぬ乗り心地の好さに破顔した千代は、手綱を撫でて愛でながら以下のように呟く。「エレクトリカル・シャーロットは楽しみでしたけど、やっぱりこいつが最高です。おかえりシャロ~」

 阿僧祇花は、今日何度目かの溜息を吐いてから微笑んだ。偽りの唇と欺きの舌に塗れた日に猫舌から零れた真実の言葉である。


蛇足ではあるが、往年の名盤『ブルー・ハワイ』の歌詞は、ドニャ・キホーテ流に解釈すれば以下の如く締め括られる。[訳註:対英訳は訳者。英mineが《私の》のままなので、差し詰め《半分ドニャ・キホーテ流》と書くべきだろう]

Se hacen los sueños realidad / Dreams come true

 en Azul Hawaii... / in Blue Hawaii...

Y el mío todo se hiciera realidad, / And mine would all come true,

 de ser caballero que monta a caballo... / to be a knight who rides a horse…


[訳者補遺:以下は実際の歌詞。対訳訳者。

Dreams come true in Blue Hawaii

 夢は叶う 蒼きハワイでなら

And mine could all come true

 そう僕の夢も すべて叶うはず

This magic night of nights with you

 今宵奇跡の夜に 君と一緒なら

因みにこれは訳者の当て推量だが、

 The magic knight of all knights with U(-shaped horseshoe) could all come through the mine.

 U字の馬蹄持つ全ての騎士の中で魔法の騎士こそが彼の鉱坑を突き通ることが出来よう。

――という解釈ならば可能かもしれない。突き通るのは騎士でなく鉱夫の仕事とも思うが]

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