作家志望の方々に捧げる犯罪 ── あるいは、私に捧げるトリビュート
ココアの丘
第1話 発表、そして否定 (1)
もう何年か前、ぼくがT京大学の本郷キャンパスに通っていたころの話だ。
「松戸さん、先に行っててください」
玉木陽太がジュースの自販機に寄ったので、ぼく松戸道広は一人で先に進んだ。夏休み中とあって、生徒用の食堂は閉まっていた。降りたシャッターの前を素通りし、建物脇の外階段を上る。二階のドアを開けると、中からむわっとした熱気があふれ出てきた。
眉をしかめながら廊下に入り、二部屋目の『文芸部』のプレートが掛かったドアの前で足を止めた。ここの二階は文化系の、比較的伝統ある部の部室が集まっている。ドアは半分開いていたが、念のためノックをしてから部屋に入ると、そこには既に四人の女性が集まっていた。
真っ先に目に入ったのは、パイプ椅子に座る長身の女性だった。左手に紙の束を持ち、デニムをはいた足を前に投げ出していた。それなりに整った容姿だが、鋭く尖った目付きは少々取っ付きにくそうな印象を与える。彼女はちらっとぼくに目を向けたものの、何も言わずに視線を戻して、手にした紙をめくった。
テーブルをはさんだ向かいには、二人の女性が座っていた。どちらも紺のブレザー姿で、一人はたて肘をついた両手にあごを乗せて長身の女性をを見つめ、もう一人は横座りでスマホをいじっている。少し離れてもう一人、本棚の前に立って、手にした本のページを一心に見つめている女性がいた。彼女もまた、二人と同じ紺の制服を身につけていた。
そう、ここは大学ではなく、K県のとある高校の部室棟だ。だから、先ほど「生徒」と書いたのは間違いではない。生徒は中学生、あるいは高校生に使う言葉だからだ。ちなみに、小学生は「児童」、大学生には「学生」が正しい。
ぼくは、本棚の前の女生徒に声をかけた。
「小野寺さん」
反応がないので、改めて呼びかけてみる。
「なに読んでるの? 小野寺さん」
「あ、はい。あ、松戸さん。こんにちは」
小野寺由貴はびっくりした表情で顔を上げると、軽く会釈をした。ぱっちりした二重の瞳にすっと通った鼻筋、やや丸みを帯びた愛くるしい顔立ちの、かわいい子だ。手にした本のタイトルを見ると、最近名前を聞くようになった作家の新作だった。
「どこかの新人賞をとった人だっけ? 受賞後第一作、ってやつかな」
「部長にお願いして、買ってもらいました。今年もなんとか部として認められたので、活動費がでたんです」
「まあ、賞をとったからと言って、面白いとは限らないけどね。それよりもおすすめは古典だよ。古典というものは、今の人でも読んでおいて損はない」
「でも、そういう本なら図書室にありますから」
「まあね。でも文芸部なら、部室にそろえておくのもいいと思うけど」
小野寺は曖昧に笑って、再び本に目を落とした。「それはともかく」と、ぼくは言葉を続けた。
「最近、何か書いてる?」
「えーと、最近ですか?」
「うん。ここのところ、新作を読ませてもらってないからさ」
「えーと、そうですねえ」
「松戸さん、あんまりうちの部員、いじめないでもらえます?」
口ごもる小野寺に代わって、スマホを覗いていた子が口をはさんできた。
「一人でも辞められると、うち、同好会に格下げになっちゃうんですよね。人数が足りなくなって。今だって、幽霊部員を入れてやっと、部になってるんですから」
この岩瀬明日香は文芸部ただ一人の三年生で、ここの部長を務めている。態度はいかにもやる気なさそうにも見えるが、こうして休みの日にも顔を出しているのを見ると、部に対する愛着は持っているのだろう。ぼくは苦笑を浮かべて、
「別にいじめてるわけじゃない。ちゃんと書き続けているのかな、と気になっただけだよ」
「読書だって、立派な活動ですよ。うち、文芸部なんですから」
「でも、ここは伝統的に創作活動が盛んなんだろ? いい作品を書くには、名作を読むのももちろんだけど、書き続けることも重要なんだ。たくさん読み、たくさん書くこと。その代わりになるものはないし、近道もない」
「それって、どっかで聞いたような台詞ですね」
混ぜ返すような調子だったが、ぼくは真面目にうなずいて、
「だけど、的は得ていると思うよ。ここに一つ付け加えるなら、第三者の目、かな。一人で書いたまま完結するのと、他人に読んでもらって批評してもらうのとでは、やっぱり成長の度合いが違うと思う。だから、新作があるなら、久しぶりに読ませてもらえないかと思ったんだ。それでまた──」
大きな咳払いの音がして、ぼくは思わず口を閉ざした。音の方を見ると、ジーンズの女性が少し顔をしかめて、紙束の最後のページを見つめていた。
「江波先輩、どうでした?」
たて肘の子が口を開いた。問われた相手はしかめ面のまま、
「どうって言われてもねえ。これ、ほんとに部誌に載せるつもり?」
「だめですか?」
「部誌はね、学園祭で一般販売もするんだよ。TPOってものを考えなよ」
「えー。けどですね。『だけど、あなたたちもやっぱり信じてくれないかもしれない。けれども、あなたたちの中に一人でも私と同じ人種がいたなら、その人だけはきっと、私を信じてくれるだろう』。これに続く展開なんて、禁断っぽい内容に決まってるじゃないですか」
「あー、木葉の頭だとそうなっちゃうのか……課題の選択をミスったかな」
「あんた、もしかしてまた、BL書いてきたの?」
岩瀬がアハハと笑い声をあげた。木葉
「岩瀬は? 笑ってるけど、あんたは書き上がったの」
「あ、あたしは今年もパスで。その代わり、表紙の方はまかせといてください。部長の責任として、きっちり仕上げて見せますよ」
「部長なら、文章をきっちり仕上げなさいよ。あー、今年の部誌、だいじょうぶかなあ。ちゃんとした原稿を出してる人、小野寺だけなんだけど」
江波はこう言った後、ふいにぼくの方に顔を向けた。
「松戸さんも、どうもご苦労さま。夏休みとはいえ、こんなところに毎回来てくれるなんて、時間があるんですね」
なんだか言葉に刺を感るのは、鋭い目つきのせいだろうか? それとも、OBの前部長として、高校のOBでもないぼくが何度も部に顔を出すのを面白く思っていないのか。だけど、ぼくが反応するより先に、テーブルの女生徒たちが騒ぎ出した。
「余裕ありますよねえ。今って、就活でたいへんなんじゃないんですか?」
「T大なら余裕っしょ? いいなあT大生って。私もT大行きたい」
「だよねえ。T大なら楽に大企業に入れて、どんどん出世しそうだし。あでも、あたしは公務員の方がいいかな」
「松戸さんに公務員なんて、力不足っしょ?」
木葉の言葉に、ぼくは思わずため息が出てしまった。『力不足』か……日本語の正しい使い方を説明すべきかどうか迷っているうちに、話がさらに進んでしまう。
「今は出世なんかより、安定が一番。適当に稼いで、定時に帰って家のことやってもらって。休みには、のんびり旅行に連れてってくれるのがいい。そういう男の方がモテるんすよ。あでも、T大生なら何にもしなくてもモテるのかあ」
「いやいや、そんなこともないと思うよ」
最後にそう返したのは、部屋に入ってきたばかりの玉木だった。ぼくよりこぶし一つほど背が高く、長めの髪には軽くウェーブがかかっている。一見、ちょっとチャラそうな風貌だが、これでも現役で理Ⅰに合格したT大生なのだ。
「T大生ってさ、結婚相手にはいいけど恋人としては退屈、って思われてるみたいで。全然モテないんだよね──」
今春、玉木や江波たちが卒業すると、この文芸部の部員は岩瀬ただ一人になってしまった。新入生の小野寺と木葉が入部し、なんとか部としての存続はなったものの、部長となった岩瀬には小説の類を書いた経験がない(これまでは部誌の表紙や挿絵を描いてお茶を濁していたそうだ。文芸部には、こういう部員もいるらしい)。このままでは創作活動の手本となる上級生がいなくなってしまうため、江波たちOBがときどき部室を訪問して、現役生を指導することになったのだ。ぼくからしたら、卒業生がそこまで面倒を見るのかなと思ってしまうが、それだけ創作というものにこだわりがある部なんだろう。
だが、バリバリの理系人間である玉木は、部員時代もショートショートっぽいものを書いたくらいで、創作指導なんてまったく自信がなかった。そのOB訪問が決まったちょうど頃に、ぼくは彼と知り合った。ぼくが文学部の学生と知った玉木は、文芸部どころか高校のOBでもないぼくに、指導の協力を頼んできたのである。ちなみに、そんな彼がなぜ文芸部にいたのかというと……「T大生はモテない」と繰り返し江波に説明する姿を見ていると、なんとなく想像がついたりする。
ぼくとしては、お礼に飯をおごってくれるというし、まあ一度くらいなら……と引き受けたんだけど、それ以来、月に二回ほどのペースでこの部室を訪れるようになっていた。
「そういえば、岩瀬は進学希望になったの? 前は就職って言ってなかったっけ」
江波の反応が芳しくないとみたか、玉木はやや強引に話題を変えた。
「ううん、就職のつもりですよ。けど、そっちも自信ないんですよね。取引先の挨拶とか、職場の人とのつきあいとか。あれでしょ、食事は上司や先輩より安いものを頼むようにして、飲み会は上の人にお酒ついで回ったりするんでしょ。そんなのあたしにできるのかね?」
「それはまあ……就職したら、できるようになるんじゃないかな。それが嫌なら、今からでも進学に変えるとか」
「でも、それって進学しても同じですよね? 大学卒業したら、結局は就職するんですから」
木葉の指摘に、岩瀬もうなずく。
「そうなんだよねー。どっかに転がってないかな。若くて金持ちであたしを愛してくれて、専業主婦やってくれ、って言ってくれる男が」
「顔はどうでもいいんですか?」
「そこは譲歩しよう。ある程度なら」
と言いながら、岩瀬はテーブルに腕を組んで、そこに顔を埋めた。すぐにがばと身を起こして、
「そうだ。いっそのこと、小説家にでもなればいいんじゃね? それなら、本の売り上げで食っていけるし」
「あー、いいですよねえ。夢の印税生活、ってやつですか」
「そうそれ。そうなればさ、別に会社になんか行かなくたって、腕一本で生きていけるし。うまくすれば、ネットで自分のチャンネル作って、適当なことしゃべってお金もらえるかもしれないし」
「何バカなこと言ってんの」
江波が厳しい口調で口をはさんだ。
「一つの作品を世に出すというのは、そんなに簡単なことじゃない。それで食べていきたいなら、なおさらだよ。小説でも演劇でもそうだけど、その道を志す人は山ほどいる。どんなに才能がある人でも、簡単には認めてもらえない世界なんだ。そしてたくさんの天才が、見通しの立たない暮らしに耐えきれなくなって、この道を諦めることを余儀なくされる。印税生活だとか、不労所得だとか、そんなに甘いもんじゃないんだよ。
だいたい、部誌の原稿も出せないやつが、プロになれるわけがないじゃない」
「いやー先輩、今のは男の話と同じで、ただの現実逃避ですから」
江波の剣幕に、岩瀬は愛想笑いで言い訳をしたが、江波の説教は止まらなかった。部長の窮状を察したのか、ここで木葉が床に置いたリュックの中から、もう一つの紙束を取り出した。
「じゃーん」
「ん? 何これ」
「また別の原稿です」
江波はうろんな目つきで紙束を受け取った。ちなみに、パソコンやタブレットの画面ではなく、わざわざ紙に印字しているのは、画面と紙では同じ文章でも読んだ時の印象が違ってくることがあるから、だそうだ。小野寺などは、なんとノートに鉛筆で書いているという。まあこのあたりのこだわりは、個人的にはわからないでもない。
江波は印刷された文字に目を走らせていたが、
「……こっちは、ちゃんとした小説みたいね」
「さすがに、部誌にBLはまずいかも、くらいのTPOはわきまえてますからー。でもですね先輩。さっきのセリフ、ちょっとまずいと思いますよ。BLがちゃんとした小説じゃないってのは、それはそれで差別ですから」
そんな木葉の言葉には耳を貸そうとせず、江波は原稿を読み進めていった。お説教の矛先から逃れる形になった岩瀬は、これ幸いと横を向き、再びスマホをいじり出した。そしてしばらくは画面をタップしたりスワイプをしたりしていたが、ガクンと首を前に突き出すと、急に大きな声を上げた。
「あーー!」
岩瀬以外の全員が体を硬くした。一瞬の沈黙の後、申し合わせたようにほっと息をつく。木葉が笑顔で文句を言った。
「もー、やめてくださいよ部長。びっくりするじゃないですか」
「これ! これ見てよ。この文章、うちらのテーマとまったく同じだよね!」
続けざまの大声と共に、岩瀬は左手を前に突き出す。その動きに吊られ、ぼくたちはそろって身を乗り出して、彼女のスマホをのぞき込んだ。その画面には、次のような文句が踊っていた。
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第57回
小屋敷 莉音「電気配給所の、無毒な一日」
「だけど、あなたたちもやっぱり信じてくれないかもしれない。けれどももし、もしあなたたちの中に一人でも私と同じ人種がいたなら、その人だけはきっと私を信じてくれるだろう……」
謎の言葉を残し、悠生の前から姿を消した怜。検査と投薬が繰り返される病床の中で、悠生は恋人の追想にふける日々を送っていた。そして迎えた手術の日、麻酔に落ちる直前の混濁した意識の中、彼の頭に結ばれたある真実とは──。
現代を生きる若者の一面を鮮烈な目線で切り出してみせた、第57回合歓木新人賞受賞作!
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