続く小説 完 ぬかるみ 

阿賀沢 周子

第1話

 パンを踏んだ娘の娘、花菜が俺を踏んでいる。健一の両膝をつかんで腹の上で向こうを向いて立っている。ぴょんぴょんと跳ねたりするので腹筋に力を入れておかなければならない。胸の上には息子の賢人がうつぶせで眠っている。

 つまり、結論から言うと健一は美也に「やられた」ということだ。年子の子二人の親になっているのに被害者づらをするわけではないが、”基本の薬膳カレー”で研一と飲んで帰宅した2年前のあの日、やはり美也は待ち伏せていたということだ。



 ビールでほろ酔い状態の健一が、用心を忘れ去ってアパートの階段を上がっていくと、部屋の前に美也がいた。あの日見た夢のように座り込んで眠ってはいなかったけれど、ドアに寄りかかって立っていた。

「お帰りなさい。どこへ行ってたの? 疲れたでしょ」

 どこかで聞いたことがあるようなセリフに聞こえた。

「いつからここにいるんだ」

「一度家へ帰ったけれど、小林さんに住所を教えてもらったから、また出てきたの」

 確かに、軽そうなダウンジャケットに変わっている。それでも寒いのだろう、階段照明はちっぽけで暗いけれど、鼻が赤くなっているのはわかるし両手をポケットに入れている。6月といっても夜半はそれなりに気温が下がる。健一はすでにリュックの中からジャケットを出して身に着けていた。

「なんでそこまでして付きまとう。今日一回会ったきりなのに」

「付きまとうって、ストーカーっていってるわけ? ちょっと自信過剰。借り返してもらおうと思ってるだけ。半端なの嫌なの」

「帰ってくれ。うんざりだ。もう顔も見たくない」

 効果てきめんの言葉だったようだ。健一は、もしかしたら言い過ぎたのかもしれないが相手は美也なんだ半端はいけない、などと自分の胸の奥に向かって説明していた。美也は一瞬健一をにらんでから、黙って健一の前を通り過ぎ、階段を降りて行った。

 思いがけずさっさとあきらめてしまった美也を見て、すぐ疚しさが沸きあがってくる。健一は言い過ぎたと感じることがお人よしとイコールだとわかっている。美也の足音が遠ざかるのを黙って聞いていたが、夜中に女一人帰すことの罪悪感は大きくのしかかってくる。

 仕方なく階段を降りて美也を追った。北24条へ出る北向きの通りを歩いているのを見つけた。研一が「この人ははどうやって育ったんだろう。どんな家庭環境で育ったのか、怖くて直接聞けない」とか言ってたが、犯罪者というわけではない。まじめに(たぶん)研究室に勤めている普通(?)の若い女性だ。

 健一が追いついて「送るよ」と声をかけたが、美也は返事をしない。顔を見ると声を出さずに泣いている。しばらく黙って並んで歩いた。顔を見たくないとまで言ったのだ、感謝されるとは思っていない。美也の家までこのまま黙って歩いていけばよいのだと自分に言い聞かせる。

 健一の眼には、泣くような人ではないはずだったのに泣いている美也が見える。心がひるんでしまいそうになるが、送ることにしてよかったと言い聞かせ付いていく。

 深夜過ぎでもコンビニや飲み屋がある角は明かるい。人通りはないが立ったり座ったりしている酔っ払いは結構いた。美也に「姉ちゃん、一緒に飲もうよ」と大きな声で呼びかけるやつもいたが、健一に気が付くと静かになる。美也はすでに泣き止んでいるが一言も発せず、生きの良さが失われていた。

 静かな美也が心配になる。傷つけてしまったのを詫びたいとも思う。自分の方も「うんざりだ」と啖呵を切ったのにその強気はもうなかった。

 ”基本の薬膳カレー”がある四つ角の飲食店は、どの店も閉店していた。そこを過ぎて官庁の多い通りに入ると明りは外灯だけだ。人の気配は全くない。間もなく美也の住まいだ。先刻、健一は気付かなかったが、公務員住宅らしき二階建ての建物が6棟並んでいた。1棟は3軒分でどの窓も真っ暗だった。美也の家の玄関にだけ小さな灯りがついていた。

 玄関前に立ち、美也はポケットから鍵を出す。ドアを開けると夕食前と同じようにギィーと音が響き渡る。

「じゃあ、これで」と健一は帰ろうとしたが、美也は何も言わずに、健一の手を引く。争って近所の人に気づかれたくないと思ったのは健一の方だった。惹かれるがまま部屋へ入りドアを静かに閉めた。


 夢と同じようになっただけだ。正夢だった。美也の体は想像通り、いや夢の中の通り、引き締まって華奢だった。2人は結ばれる前に、一言も話さなかった。心を語ることも約束事もなく、ただ当たり前のように二階の寝室に上がり、向かい合って裸になり、冷えた体を温めあった。

 寝室も下と同じように、しゃれっ気がなくシンプルだ。シングルのベッドは清潔で寝心地が良い上に健一は疲れていた。体を離してすぐ寝落ちのように枕に頭を乗せ眠りこんだ。


 目を開けると、カーテンの隙間から朝焼けの空が見える。そばでもぞもぞと動いた美也が毛布から顔を出す。

「お腹空いた」

 美也は、健一のアパートから今までで初めて言葉を声にした。

「俺も」

「コンビニに行ってくる」

 起き上がった美也は、傍にあった健一のシャツを身に着けた。初対面の時に、おおいにけなされた服装だったが、本心ではなかったのか、汗臭いのも気にならないようだった。

「ご飯はないの?」

「冷凍のならあるよ」

「研一に薬膳カレーもらったのがジャケットのポケットにあるけど」

「そっか。あの後店へ戻ったんだね。だから遅かったのね。じゃあ、二人で朝カレー食べよう」

 美也はシャツを脱いで健一に返し、昨夜の格好に戻りポケットからカレーを取り出して下へ降りた。

 健一も身づくろいをして階下へ降りると、すでにテーブルの上に皿が並んでいる。電子レンジが鳴る。

「顔洗うならそっちが洗面所」

 美也はキッチンの奥を指さしながら、鍋に薬膳カレーを移し入れている。

 洗面台も清潔だった。健一のためだろう白いタオルとホテルにあるような袋に入った歯ブラシが置かれていた。短時間でよく気が回ると感心しながら顔を洗い鏡に映る自分の顔をよく見る。無精ひげを撫でる。

 居間に戻ると皿には湯気がたちのぼる白い飯が入り、コップとスプーンが置かれていた。

 鍋で暖められたカレーを皿へ移し、二人で向かい合ってすわった。

「いただきます」

 一瞬顔を見合わせたが、二人ともすぐに目をそらせる。ベッドと違って、まだなじまない空間だった。

 食べ終わると健一が皿を片付けた。ゆっくりと丁寧に二人分の食器を洗う。何をか言うべきか。考える時間が欲しかった。

「元気が出たらまたやろう」

「えっ、何」

 健一は持っている皿を落としそうになって慌てた。

「もう1回。1回も2回も同じ。楽しみましょう」

 これもどこかで聞いたようなセリフだ。


 2度目に寝室に上がって体を合わせた後、美也が問わず語りに話しはじめた。

「私をパンをふんだ娘、と思っていたでしょう。大通り公園へ向かって歩いている時、健一は主題歌を口ずさんでいた。アンデルセンのこのお話が、子供のころテレビの人形劇になって、歌われていたよね。靴を濡らしたくなくてお土産のパンを水たまりに沈めてその上を歩く高慢な女の子の話」

 聞かれていたのか、と健一は驚いた。あの時美也は何も言わなかったし、聞こえたような顔もしていなかった。

「でも私だったらパンの上は歩かない。泥水で濡れたパンは食べられないけど、濡れた靴は乾くと考えるから」

 健一は内心、それはそうだと思って聞いている。それでは物語として残らないだろう。

「私の話し方や態度に問題があるのはわかっているの。たまに研究室でも素が出て、問題視されることもあるから」

小さい頃はこんな口ぶりではなかったという。話し方でいろんなことが見えてくると気付いて口調も性格も変化していったのは高校生になった時だと笑う。

「私の話し方だと相手の心がが丸見えになることがあるの。人にもよるけれど本心がわかりやすい。練習した成果よ。面白くて板に付いちゃった」

 健一は思わず頷いた。そうか、美也は心の中をそのまま声にしている、口と気持ちが直通状態だと最初に思ったが、こっちの性格が丸見えだったのか。嘘はつけなさそうだとも思ったが、嘘を見抜くということだったのか。

「じゃあ、研一のあの呼び捨ての件はどういうこと? 迫ったって聞いたけど。もしか研一が断らなかったら俺たちみたいになってた?」

「そうかも。あの人には一目惚れだったの。店に通うようになったのも、薬膳カレーのせいばかりじゃない。逢いたくて行っていた。あの変なお兄さんのことがなくても、いつか打ち明けたと思う。耳元であの声で囁いて欲しかった。残念ながら妻帯者だったというわけ」

 健一は、じゃあ俺にもひとめぼれしたのか、と聞きたいのを我慢した。自分は美也に惚れてこうなったわけではない。感情の山坂に疲れ果てて、抵抗する気が無くなったのか、あの夢を見た時からこうしたかったのか。自分でもよくわかっていない。

 打ち明けてもらっても、どう返してよいかわからない。既成事実だけがあるのだ。これからのことなんてこれっぽちも考えられなかった。

「わたしどうだった?」

「何が? 言葉遣いの内訳について?」

「違うわよ。交合について」

 健一は頭を無理やり働かせる。交合ってセックスの日本語。どうだったって良かったに決まっている。夕方大通公園へ向かって歩いている時、肘に触れたふくらみが目の前にあるのは奇跡のようにうれしい事実だ。美也は、俎板の鯉みたいに健一の目の前にどんと置かれたようで、性癖のせいで遥かかなたのように遠くもあった。

 しかし研一のことは引っ掛かる。惚れていたというのは悔しい。

それにあの言葉違いが作為だったというのか。ただ人の真実を曝け出すための。健一の思考は堂々巡りになっていた。一言「よかったよ」と残してこの場を去りたかった。


 美也が午後研究室へ行かなければならない、と話したのがきっかけで、昼前に帰れることになった。取り組んでいる研究は24時間交代制で成果を確認しており、今週は日曜日の午後から深夜までは美也が当番だという。

 今後のことには二人とも全く触れなかった。新たな約束も何もない。美也の部屋から自宅へ帰る道すがら、このまま、惚れられたわけでもない自分は、美也の記憶から消えたいと思い始めていた。

 彼女は感情のままを生きているのは分かった。欲しいから手に入れた。ただそれだけのことだ。

 含みも伏線もない推理小説を読んだ後のような、ありったけの感情を言葉を尽くして歌い上げる歌詞のような、あからさまに哀楽を奏でる映画音楽のような。わかりすぎてつまらない、いやむしろ閉口してしまう駄作のような関係だった。


 が、あれで美也が妊娠したことが事態を変えた。その後の成り行きは、まるで美也の話し方のような、べらんめえの展開だった。健一が美也の住まいに越して、新生活が始まったのは次の年の3月だ。間もなく花菜を出産して、落ち着いたかと思う頃次の妊娠がわかった。賢人を出産。

 健一と美也は互いに取れるだけの産休を取って対応してきたが、健一の両親の世話になることも多かった。美也の両親は道外なので頻繁に世話を任せることができない。


 共同生活はもうすぐ3年目にはいる。入籍はしたが別姓のまま、美也の狭い部屋で4人暮らし。今週末、美也は当番で研究室へ出ている。健一は子育てしている。

 美也が3人目を出産後は、産休の合間を縫って書き上げた論文のお陰で、マサチューセッツへ行こうとしている。単身というわけにはいくまい。もはやこのぬかるみから抜け出す術はない。







 

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