宝石箱の霧

凩 光夫

第1話

     1


「いやはや。惨憺たるものだ!」

 こちらに背を向けた小柄な紳士が拳に力をこめ、握りしめたステッキの先で地面をトントンと二度、神経質に叩いた。

「皇帝陛下も何を考えておられるのか。もっと毅然と拒否されるべきだったのだ」

「真に」

背の高い方の紳士が我が意を得たとばかり、即座に連れに同意した。

「落選展なんて、全く馬鹿げてるよ。サロンに入選しなかった作品は、入選しなかっただけの理由があるのだ。選に漏れた中にもこれはと思う作品があるかと期待して来た自分が浅はかだった」

「左様左様。愚劣と悪意の集まりだ。人を侮辱するにも程がある」

「絵画は須く理想美を表現したものでなくてはならないよ。こう自然を描くにもだね――」

小柄な紳士は眼前の大作にステッキの先を振り上げた。

「もっと要素を整理して、完璧な美を表現しなければならない。神の御心は無論自然の随所に宿ってはいるが、一つ一つ完全に造られたわけではない。それを完全なものにして見せるのが人間の、それも画家の使命だ。しかるに……」

彼は大げさにかぶりを振った。

「全くだ。こんな原色ばかりの色使い、均整を欠いた無秩序な構成……。いや、もう言うまい。言えば言うほど腹がたつ」

「点数だけは無闇に多いな! 未開の地のジャングルとやらに迷い込んだようだ」

「どうだ、口直しにA……館にでも行かないか? あそこの娼婦達は体の線が不完全だとしても、ちゃんと神が我々のために造り給うたものだからね」

「はっはっは、確かに! とにかくこんな所に長居は無用だ」

 二人の紳士は歩み去った。


 彼らが去るのを待っていたように、近くに佇んでいた二人の男のうち一人が連れを見遣って話しかけた。

「不思議な絵だな」

 上背のある堂々とした体躯、えらの張ったどっしりした顔、鋭くはないが強い光彩を放つ眸、半白な髮、立派なカイザー髭の偉丈夫だ。年季ものの鳶色の上衣に、グレーの草臥れたツィードのスラックスを穿いていた。

彼が話題にした絵は、先ほど二人の紳士が罵倒した絵だ。

「そうだね」

 答えた男は同年輩だ。小柄で華奢な体つきだった。ダークグリーンのバックスキンのジャケットにネルのシャツ、厚い生地の黒っぽいスラックスを穿いている。ジャケットは丸襟で、草臥れてはいるが、よくブラシがかけられていた。

「この庭園の明るい色使いは今のものだね。まあ、当然だが。しかるに、どっしりした建物の表現なんかは伝統的だ。描いたのはこちら在住のイタリア人か、もしくは修行時代をイタリアで過ごした画家……」

「またはスペインか」

「うん」

 それから二人は黙って絵をみつめた。

 構図的にも不思議な絵だった。

 画面はどこかの貴族の屋敷の、舘と広大な庭園風景だ。それらが中景を作り、その向こうには青く霞む山々と少量の白い雲を浮かべた青空がある。

 この絵の奇妙さは、画面の三分の一ほども占める、手前の群像のシルエットだ。これが近景だ。群像は黒く塗り潰されて見える。しかしよく見ると几帳面に描き分けられていた。暗い階調を巧みに使い分けて細部まで描写し、かつ滑らかな表情に仕立てあげた技量はなかなかのものだ。

「明らかに我等がアカデミーの技法だよね。三人いるね。対話しているようだ。何を話していると思う、突進侯?」

 訊かれたカイザー髭は、「さあ」と無愛想に言った。

上から声が降って来た。

「少なくとも乗馬の話やサロンで出会った令嬢たちの話しなんかじゃないね」

 声の主はひょろりとした男だった。茶系の着古した格子柄の三つボタンのツィードに、海老茶のフラノのスラックス、柄違いの格子のハンチングを被り、チョビ髭を生やしていた。

「深刻そうでやだね、こういう絵は。深刻なのは現実だけにしてもらいたいよ」

「どうでもいいさ……」

 突進侯と渾名された男はくるりと背を向けた。

「飽きた。帰るよ」

 そして本当に行ってしまった。

 二人の男も彼を引き止めなかった。それでも人波に紛れるまでその背を見送っていたが、どちらからともなくまた眼前の絵に視線を戻した。

「庭に面した柱廊にも人がいるね?」

背の低い方の男が指差した。

「ああ。貴族のカップルだね。関係はわからないが、親密そうだ」

「浮ついた感じはないね」

「うん。でも表情がわからない」

 のっぽの男が言うように、二人の人物はこちらに背を向けていた。立ち話をしているというより、寄り添って歩み去ろうとしている感じだった。

 背の低い男はそのカップルをしばらく黙って見つめていた。柱廊の先は次第に紫の色を深めていき、遠近法の消失点あたりでは真っ暗になっていた。

「明るい部分はむやみに明るい。こんなところは新しい傾向が顕著だね」

 のっぽはそう言って相棒に目を遣り、急に相手が黙りこんだことに気付いた。

「どうした、カリフ? 昔を懐かしんでいるのかね?」

「いや……」

「考えるなとは言わないが、詮ないことだ」のっぽは溜め息をついた。

「そうじゃないが、オキュサイ。一寸感傷的になってしまったよ。……下手じゃないが、統一感のない絵だ。でもそこに引かれるね」

 オキュサイと呼ばれた男は黙って一つ頷いてから言った。

「さて。僕は突進侯ほどタフじゃないから草臥れたな。一杯ろうか?」

「いや……手元不如意なんだ」

「いいさ。昨日どぶ浚いの手間賃が入った。たまには飲ろうじゃないか。それこそオキュサイ(北斎)の話しでもしようよ」

 オキュサイというのは日本の画家北斎のことだ。それが現地読みでオキュサイになる。このところ日本から浮世絵なる木版画が盛んに入ってきて、アカデミズムに飽きたらない若い芸術家達を魅了し始めていた。

 こののっぽの男もその熱に冒された一人だった。一時オキュサイ、オキュサイとお経のように唱えていたので、この渾名がついた。本人も下手な絵を描くが、自分が下手くそなことは本人が一番よく知っていて、職業は画家だなどと人が茶化して紹介しようものなら、本気でむくれるのだった。

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宝石箱の霧 凩 光夫 @7800303

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