打ち上げ花火
「あー! 桐生じゃん!」
あれだけうるさかった心臓が一瞬で止まった気がした。
大袈裟なくらい肩を跳ねさせて固まった僕の背後から誰かが近付いてくる気配がする。これが誰かなんて考えなくてもわかる。
「お前行かないって言ってたのに結局いるじゃん」
「田中と行かないって言っただけで祭りに行かないとは言ってないよ、俺」
「うわ出た屁理屈。あーそうそう、こいつが桐生。メチャクチャイケメンだろー」
桐生と同じ、いわゆるカースト上位にいる田中という男が僕は苦手だ。お手本のような陽キャで声も態度も大きくて、それなのに憎めないバカっぽさのおかげで教師からも何故だか一目置かれているやつだ。謎のカリスマ性まで持ち合わせていて、田中の周りにはいつだって男女関係なく人がいる。
その田中の意識が一緒に来ている人達に向いたところで桐生が僕を背中に隠してくれた。たったそれだけの事なのに僕は無意識に止めていた息を吐き出して少しだけ体から力を抜く。
「あーーーー‼︎」
貫くような大きな声に僕がまた体を跳ねさせるのと桐生が低い声で「うるさい」と呟くのは一緒だった。
「お前、お前…⁉︎」
田中がずかずかと近づいて来ている気がする。太陽が迫ってくるみたいな、そんなあり得ない危機感に冷や汗が止まらない。そんな僕を知ってか知らずか桐生が僕の手を握り直した。
「いつ彼女出来たんだよ⁉︎ なんで教えてくれねえの! ちょいちょい彼女さんだいぶ可愛い気配察知してるよ俺。てかなんでお面してんの? てか猫じゃんめちゃ可愛いね。桐生が買ってくれたん? ねえねえちょっと顔見せ」
「たーなーかー」
僕は情けないくらい完全に陽キャの圧にビビっていた。僕はそもそも人付き合いが苦手だ。田中みたいな太陽の塊みたいなやつは一番苦手だ。太陽光に焼き殺されそうになる。
「人見知りなんだよ、グイグイ来んな」
「ヒトミシリ…?」
「何お前人見知りって言葉も忘れたの?」
「違うわ! 俺が驚いてんのはお前がヒトミシリの子と付き合ってる事だよ! へー…お前でもそんな距離の詰め方出来たんだな」
「田中は俺をなんだと思ってんだよ」
「顔だけいいポンコツ」
ポンコツ、桐生を形容するのに全く当て嵌まらない言葉に僕はお面をしたまま思わず顔を上げる。するとその気配に目敏く気付いた田中が「お」とどこか嬉しそうな声を上げた。
「見ないで、減る」
少し上げた視線の先、もう少しで田中の顔が見えるという所で僕の背中に手が添えられて、そのまま引き寄せられる。気が付いたらすごく近くで桐生の匂いがして、体温だって感じられる距離にいて、抱き締められているのを悟った。
「はぁ〜〜〜〜〜〜⁉︎ キャラ違くねえ〜〜〜〜⁉︎ 桐生クンは〜〜そういう事しないタイプだと思ってました〜〜〜〜‼︎」
「じゃあ今日からそういうタイプ。田中いたらこの子逃げかねないからさっさとどっか行って」
呆れ半分、本音半分、そんな声色で紡がれた気のする言葉に確かにそうだなと思うのに面白いくらいに体が固まってしまって動けない。心臓があまりにうるさくてこのままだと聞こえてしまうと思うのに、まるで自分の物じゃないみたいに指先一つも自由にならない。
「へいへい、邪魔者は退散しましょうかね〜。悪い待たせた、行こうや」
田中が今どんな顔してるのかはわからないけれど声からして面白がってるのはわかる。でもようやくこの場から離れてくれるらしく早く行けと念じる。
「彼女ちゃん、コイツポンコツだけど良い奴だから仲良くしてあげてね」
「余計なお世話だよ」
全開に呆れを含んだ声で桐生が突き放すみたいに言って田中達の気配が去って行く。賑やかな彼らの声は少しの間聞こえていたけど徐々に祭囃子と雑踏と混ざり合って完全に聞こえなくなる。
そうなって僕の背中に回っている腕が離れて、自然と半歩だけ距離が出来た。
「ごめん、暑かったよね」
「や、だい、じょぶ、です」
「片言になってるよ雪穂。あ、もしかして照れ、いったあ!」
桐生が不愉快な言葉を言い終える前に下駄で足を踏ん付けてやった。
「かき氷、奢れ。むしろ今日の屋台全部奢れ」
「え、最初からそのつもりだけど?」
「むかつく」
「理不尽!」
もう一回踏ん付けてやろうとしたけど桐生も学習したのかさっと足を引いてしまった。それに舌打ちをすると僕はようやくお面から手を離して少しだけ位置をずらした。夏の夜とはいえ空気は蒸し暑いのに、解放された途端の空気は驚くくらい涼しくて思わず息を吐く。
「…ねえ雪穂」
「なに」
「ぜーんぶ奢るからさ、かき氷最後に買おうよ。先にたこ焼きとか買ってさ、最後にかき氷買ってちょっと離れた場所に行こ」
「…いいけど、なんで?」
「田中みたいなのがまた来たら面倒臭い」
「なるほど、賛成。じゃあとりあえずたこ焼きと焼きそばときゅうり」
「はーい」
田中と話していた時の桐生の空気感が僕はそんなに得意じゃない。こうして一対一で話している時は居心地の悪さなんて感じないのに、田中や他の陽キャ達と一緒にいるときの桐生はどこか温度が感じられなくて、何を考えているのかわからなくて嫌だ。
今も何を考えているかなんてわからないけれど、僕の手を握ったまま歩き出した桐生の横顔はどう見たって楽しそうで、それにこんな女装した男と手を繋いで嬉しそうにするなんて変態だなって思いもするけど、でも今の桐生の方が僕は親しみ易い。
カラコロと下駄を鳴らしながら一つ一つ屋台を回って食料を調達する。重ねられる物は袋に入れて貰って、きゅうりは途中で見つけた牛串に変わった。
荷物のほとんどは桐生が持ってくれて、今僕の手にあるのはメロンに練乳の掛かったかき氷だ。桐生の腕には食料が入ったビニール袋が掛けられ手にはいちごに練乳が掛けられたかき氷がある。
手を引かれるまま歩いていると僕達はどんどん雑踏から外れて行き、神社の本殿へと向かう長い階段から少し外れた場所にある、ただ土を掘って階段状にした場所をゆっくりと進んでいく。
「く、暗くて見えないんですけど…!」
「ゆっくり行ってるから大丈夫だよ。ていうかやっぱり浴衣だと階段とか登りにくいっぽいね」
「お前が手を離してくれたら浴衣の裾上げれるんだけどな」
「でもそうしたら暗い中一人で歩く事になるよ?」
暗闇か多少の不便かを天秤に掛けそのまま、という選択をして桐生に手を引かれるままに階段を上がって行く。本殿に続く階段には提灯や幟があったのもあって人が大勢いたが少しそれたこの道には人どころか灯り一つも付いていない。
背後からほのかに照らす祭りの明るさと、木々に多少邪魔されてはいるものの微かな月明かりの降る道を一歩一歩進んで行くとやがて開けた場所に出た。
「…なにここ」
「小さい神社みたいなのがある場所。結構穴場なんだよね」
生憎暗がりで全体はわからないけど桐生が慣れた様子で歩くから僕の足も勝手にそっちに向かう。言葉通り何を祀ってるのかわからない小さな神社の少し逸れた場所には丁度人が並んで座れるくらいの岩があった。
そこに並んで座ってようやく一息つけると息を吐く。
「あっつー…」
「浴衣にウィッグだもんね、髪貼り付いてる」
「…お前は涼しげな感じでむかつく」
当然の様に桐生の細くて長い、それでも僕より随分男っぽい指が慣れた手つきで髪を払う。もうこんな触れ合いにも慣れたものだと言いたいが、そんな訳はない。変な音が出そうになるのを必死で抑えて平静を装って、少しでも暑さを誤魔化そうとかき氷を食べた。
「え、飯食う前にかき氷?」
「暑いし、僕食べる順番とか気にしない。桐生は……なんか気にしそうだよね、そういうお行儀的なやつみっちり叩き込まれてそう」
「そんな事ないと思うけどな」
そう言って桐生は岩の空いている場所にかき氷を置いて袋の中からたこ焼きを取り出した。きちんとお手拭きで手を拭いて、割り箸をきちんと真ん中で綺麗に割って、両手を合わせて口の中でいただきますと言ってから綺麗な所作でたこ焼きを一つ摘む。
少し時間が経ったおかげかそこまで熱くなかったみたいだった。
「ん、美味い」
「よかったね」
「うん、ほら雪穂もあーん」
「自分で食べる」
「でも今かき氷で両手塞がってるよ」
ああ言えばこう言う桐生に僕はもう勝てっこないのだ。
渋々口を開くとそれなりの大きさのたこ焼きを一口で口内に納める。それに驚いた気配がしたけれど特に気にはしない。
「…そんな口開けれたんだ」
「お前何を思ってるのか知らないけど僕普通に男だから。これくらい一口で食べるし、ラーメンだってすするし」
「……ギャップじゃん⁉︎」
「本当ブレないよね桐生って」
ソースとマヨネーズの濃い味をかき氷で中和する。僕的には全然違和感はないけれどその様子を見ている桐生の目は驚いていた。いつも連んでいる陽キャ連中もきっと僕と似たような物なのではと思ったのだが、もしかしたら違うのかもしれない。
たこ焼きを食べ、焼きそばを食べて、牛串も食べた。いつもならぺろりといけそうな量も帯で胃の辺りを圧迫しているから全然食べられなくて、大半は桐生の腹に収まってしまう。けれど夏祭りという雰囲気がそこまで空腹を感じさせないし、なんだか非日常感があって楽しいとまで思っていた。
どうせこの浴衣とメイクと髪型のおかげできっと誰にもバレないし、今に至っては僕達しか居ない。遠くから祭りの気配はするけれど、どちらかと言えば夏虫の声の方が良く耳に届く。
「上見てて」
スマホで時間を見ていた桐生の言葉になんの疑いも無く顔を上げる。
満月ではないけれどちょっとふくよかな月が出ていて、金星が綺麗に輝いているのがわかる。普段意識的に夜空なんて見ないからそれだけでも新鮮だったのだが、不意に訪れた腹の底に響く衝撃音に目を見開いた。
ドン、と大砲の様な音がした僅かコンマ数秒後、夜空に大輪の花が咲く。
「ほら、穴場だって言ったでしょ」
呆然としている僕に桐生が得意げに語り掛ける。
確かに、そう、確かにここは穴場だった。
始めの花火の余韻が消えそうになった瞬間、甲高い打ち上げの音が聞こえる。また大砲の様な音がして、今度は小さな花火が一気に横這いに広がって空を埋める。
「…きれい」
こんな景色、一体いつぶりだろう。
夏の夜空を彩る花火に魅入っていた僕は気が付かなかった。
「うん、綺麗だ」
そう囁いた桐生の声が近かった事に。
僕の視界を遮るみたいに顔が寄せられた違和感に。
「──ぇ…」
ドン、と鮮やかな色彩の花火が上がった。
「きれいだね」
練乳みたいな声の余韻が消える前に、僕の視界は桐生で埋め尽くされた。
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