事故みたいな気持ち悪い奇跡
結果から言うと人生で一番疲れた日になった。
「お客様何かお探しですかー?」
普段は意識して聞くことのない女性店員の高い声のトーン。それが自分に向いているとわかってあからさまに肩を跳ねさせると桐生が庇うように僕の前に出た。
「この子にメイク道具をプレゼントしたいんですけど、何をどう選んだらいいかわからなくて」
「わあ! 素敵な彼氏さんですね」
僕はほとんど喋れなかった。いくら見た目がどうのこうの言っても声はどうしたって女子とは違う。喋れば一発アウトだと信じて疑ってない僕を察したのか受け答えは桐生がしてくれた。
見た目も派手な桐生の横にいるのが僕で店員も少し訝しんでいた様に思うが生憎店員の顔色を伺う余裕なんて僕にはカケラも無かった。
それから肌に合う色だとか何が似合うだとかこれが良いだとか僕には到底理解出来ない言葉が飛び交い、桐生は人当たりのいい笑顔で受け答えしながら勧められるままにメイク道具を買っていた。
店内でメイクをして貰えるサービスもある様だがそれは断固拒否(桐生に断って貰った)してなんとか目的である買い物も済ませるとその頃には僕はもう虫の域だった。
もう1秒たりとも人目に触れたくない僕は買い物が終わるや否や店から飛び出して足早に進み出す。
「雪穂待って、もうちょっとゆっくり歩かないと汗だくになるよ」
「僕はもう1秒だってこの服で出歩きたくないんだよ…! 知り合いに見つかったら社会的に死ぬのは僕なんだぞこの馬鹿」
僕がどれだけ早歩きしても足の長い桐生はさらっと着いてくる。足が長い事に理不尽な怒りを覚えつつ潜めた声で訴えてまた一歩前に踏み出すと、手が後ろに引かれた。
「わかった。でもこの速度で歩いてたら人にぶつかる、危ないよ」
桐生の手は僕よりも大きい。身長差が結構あるから当然なんだけれど、同じ男なのにすっぽりと僕の手は収まってしまう。すぐに離せば良いのに桐生はそのまま手を繋いだまま僕の隣に来て歩幅を合わせる。その頃にはもう早歩きしようなんて気はなくて、でもすぐに止まってやるのもなんだか癪で、ほんの数歩大股で歩いてから徐々にスピードを落とした。
「……手、もう良いよ。ゆっくり歩くから」
「良いじゃん別に。周りから見たらこの方が自然だよ」
「……お前の知り合いに会ったらどうするんだよ。僕嫌なんだけど」
「その時はうまいこと誤魔化す」
振り解こうとした手はなんでか知らないけど握り込まれた。
ああ、また心臓がうるさくなる。でも桐生にとってこれはなんの意味も持たない行為だっていうのを僕はわかっているから、それだけは確かだからなんとか平静を保っていられる。
「桐生の家行ったら風呂貸して。汗やばいから着替える」
「え」
「メイクはこの服じゃなくても出来るじゃん文句言うな」
「俺のモチベがさあ」
「この服を着てない僕には興味がないですか、そうですか」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「じゃあ風呂な」
17歳の男二人が手を繋いで歩いている。片方は女装しているし、背格好的にもきっと異性同士に見えているだろうけど、これは決して普通じゃない。
僕は男で、どうしてだか同性愛者だ。そして悲しい事に桐生の一挙一動に心が掻き乱されている。今だって本当は手を繋いでいる状況が事故だとしても嬉しいと思っている。心臓だってずっと早く動いているし、顔も少し熱い。
でも今は夏だから顔が赤くても不思議では無いし、繋いでいる手に汗が滲んでも違和感は無い。僕は女装なんてしたくないし、夏も大嫌いだ。
でも今だけは、今のこの事故みたいな奇跡は、少し嬉しいと思ってしまった。
時間は進み、一緒に出掛けたあの日以降も最低でも週に一回は撮影会が行われる。それ以外でも呼ばれる日があって、その時は大体夏休みの課題を一緒にやっている。
本当に普通の過ごし方に僕は面食らって「お前なんか変なもん食った?」なんて聞いたが「たまには良いでしょ」と丸め込まれて何度か一緒に課題をした。僕と桐生の得意分野はいい感じに違っていて、互いの不足分を補える時間は正直言ってとても有意義だった。
「意外」
「何が?」
桐生の部屋にあるローテーブルに参考書を広げひと段落ついた所で向かいに座る桐生を見た。
「人選が」
「つまり?」
「課題やるのにわざわざ僕を呼んでるのが意外。お前友達いっぱいいるじゃん、僕じゃなくても良いでしょ」
今やっているのは数学の課題。単純な計算問題なら割と熟せるのに文章問題になった途端脳が理解を放棄するから数学はあまり得意では無い。でも桐生のおかげか少しコツが掴めて今まで躓いていたところが少し楽に感じる。
「雪穂ってさ、俺の友達誰かわかる?」
桐生はあの日からずっと僕のことを名前で呼ぶ。
「カースト上位の派手組陽キャ」
「勉強出来そうに見える?」
「桐生は出来るじゃん」
「俺だけね」
締め切った窓の外から蝉の鳴き声が聞こえる。クーラーの機械的な音の方が大きくて、でもその音も僕達の話し声に負ける。
「あいつらは勉強に興味無いんだよ、遊ぶには楽しいけどさ。だから勉強する時は雪穂が良い、静かだし」
「まあ桐生が話し掛けて来なかったらほとんど会話無いもんな」
「本当にそれだよ、雪穂はもうちょっと俺に興味持って」
「あ、ここってどうやって解くの?」
桐生はこうやって、たまに僕を特別扱いする。否、僕が勝手に特別扱いって思ってるだけで桐生にとってはそうじゃないのかもしれないけど、僕にとっては間違いなく特別。
でも桐生にとっての普通を「あれ、おかしいな」という感覚に変えたくなくて、僕はいつだって細心の注意を払って接している。でも別に苦痛じゃない。普通に紛れて生きていくのは僕にとって当たり前で、これからもずっと続いていくもの。
今もいつも通り話題を逸らせば桐生は何でも無かったみたいに接してくれる。
これでいい。この距離感が丁度いい。
僕と桐生はおよそ人前では言えない趣味を分かち合った仲間、ほんの少し歪な関係。でも桐生は器用だから、高校生という枷が外れたらきっと僕との関係も終わる。もしかしたらもっと早いかもしれない。
「雪穂、古典のここなんだけどさ」
「ん、それはね」
ほんの少し体を前に乗り出して参考書を見る。ふわりと届くのは桐生の香りで、香水の様に強いものじゃない。僕達はきっと少し距離が近い。
でもこれはおかしな趣味を共有しているから。
「そういえばさ」
元の位置に戻る手前で桐生の視線が間近で僕を捉える。
真っ直ぐな迷いのない視線はなんだか流れ星の様にも思えた。
「8月って暇?」
「日によるけど大体暇、どうしたの」
「夏祭り行こ」
花が咲くみたいな笑顔で向けられた言葉に僕はゆっくりと瞬きをした。
夏祭り、夏祭り、夏祭り。何度も頭の中で反芻して意味とイメージを合致させ、まず一つ目の疑問が浮かぶがその選択をしなかった目の前の男を見て僕は眉間にこれでもかと皺を寄せて溜息を吐いた。
「…また外に連れ出すつもり…?」
「え、あー…」
一瞬目を丸くした桐生は次には笑っていた。悪戯っ子のような無邪気な顔で、何も悪びれる様子もなく。
「バレた?」
可愛らしい効果音でも付きそうな表情に僕はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「ほんっっと、桐生って浅はか」
「浅はかって言いつつも雪穂は俺のお願い聞いてくれるよね」
「お前の押しが強いからだろ」
「だって可愛い服着た雪穂見たいし」
「桐生が見たいのは可愛い服を着たそれっぽい男でしょ」
「違うよ」
桐生の静かな目が僕をじっと見ている。桐生の目は綺麗だ。真っ直ぐで、自信に溢れていて、迷った事なんて一度もないみたいな、でもそれでいて何を考えているのかわからない夜の海みたいな怖さもある目が僕を見ている。
「俺は雪穂のだから見たいって思うんだよ。誰でも良い訳じゃない」
ここで「それってどういう意味」と聞ける勇気があったなら、僕はきっとこんな人間じゃなかったんだと思う。
喉に糊が張り付いたみたいに声が出なくて、でもこの言葉を真剣に受け取るなんて事も出来なくて、結局僕はいつもみたいなしかめ面を作った。
「気持ち悪いな」
出た声に温度はなかったように思う。桐生は口元に笑みを乗せて少し肩を竦ませていた。
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