まさかのぶっつけ本番

「あら出掛けるの?」

「うん、ちょっと行ってくる。夜には帰るから」

「そう、行ってらっしゃい」


 翌日の昼前に僕は家を出た。夏らしい日差しの強さとまとわりつく様な湿気と蝉の声が煩わしくて無意識の内に眉間に皺がよる。空は青く、太陽はこれでもかと言わんばかりに輝いて、僕の影を濃く道路に映し出していた。

 僕は夏が嫌いだ。家に長時間居て親と世間話をするのも苦手だ。でも夏の気温と家での快適な時間を天秤に掛けたらどう考えたって後者に傾く。それに親も僕が夏が嫌いな事を知っているからこんな日の高い内に出掛ける僕を珍しそうに見ていた。

 肌を灼くような暑さにうんざりしながら足を進める。

 この時ばかりは目に掛かる前髪も、鼻頭に汗をかいた事でズレる眼鏡も鬱陶しい。


「夏なんてなくなれば良いのに…」


 年々悪化する地球環境に言っても仕方の無い悪態を吐きながら桐生の家を目指す。

 桐生と僕の家はそれなりに距離がある。正直に言えば反対方向だ。徒歩40分くらい離れていて、冬ならまだしも夏にこの距離を歩くのは自殺行為だ。

 だから早々にバスに乗り込み運良く空いていた座席に座ってスマホを取り出す。そこに新着メッセージを伝える通知は無く初期設定のまま変えていない待受が映る。ロック画面を顔認証で解除してアプリを開き、桐生のアイコンをタップする。

 メッセージは朝に来ていた『昼前に集合』以降何も無い。そこに「今バス乗った。あと15分くらい」と送信した途端既読が着いて目を瞠る。暇なのかと思った直後に送られてきたスタンプはまたよくわからないキャラクターの物。


「こいつ暇なのか…?」


 怪訝な顔でスタンプを凝視していると追加で送られたメッセージには『昼飯どっちがいい?』の文字とカップ麺と冷凍食品の写真。迷わず冷凍食品のパスタの方を選ぶとまたよくわからないスタンプが送られて来た。


『楽しみ。待ってるね』


 昨夜も送られた同じメッセージに喉の奥が少し狭くなった。


『とりあえず唇ぷるぷるにしたい』

「キモいんだよハゲ」


 一瞬感じた苦しさは見事に散って行った。

 それからバスに揺られる事10分、桐生の家の最寄りに到着しバスを降りると途端に灼熱が襲って来る。折角引いた汗がまたじわりと滲み出すのを感じながら閑静な街を出来るだけ影を選びながら進んで行く。


 桐生の住む地域はいわゆる金持ちが住む土地でどこの家も大きくて立派だ。初めて来た雨の日は周りを見る余裕なんて無かったから二度目の撮影会の時に改めて桐生のボンボン具合に苛ついた。


「神様はあいつに何個も与え過ぎだろ、不公平…でもないか。趣味がど変態だし、まあバランスは取れてるか」


 バス停から歩く事5分、立派な門構えの屋敷の前に着くとインターフォンに手を伸ばす。僕はこのカメラ機能が苦手だ、どんな顔でその場にいたら良いのか分からなくて無駄にそわそわしてしまうから。


「はーい。今行くから待ってて」


 機械越しに聞く桐生の声はいつもと違ってノイズが掛かっている。それから少しして扉が開く音と一緒に桐生が出て来ると手招きされるままに僕も家へと入る。


「お邪魔します」

「いらっしゃい、暑い中ありがとう。とりあえず先に水分補給と飯だな、腹減っただろ丁度昼だし」


 来客用のスリッパを借りて桐生の後ろをついて行くと普段ならそのまま桐生の部屋に向かうところを今日はリビングに通された。少し身構えたけれどどうやら桐生の両親は仕事のようで家には桐生一人しか居ないらしい。

 やはりどこもかしこも高級そうな内装に気後れしながらソファに座るとキッチンへと向かった桐生が声を掛けて来た。


「カルボナーラとナポリタンどっちが良いー?」

「カルボ」

「じゃあ俺ナポリターン」


 袋を開ける音、それからレンジの扉を開けて、閉めて、ブーンという電子音。桐生は口元に緩い笑みを浮かべたまま棚から二つチタン製のマグを取って半分くらいにまで氷を入れて冷蔵庫から出した麦茶を注いだ。


「あ、普通にお茶入れちゃった。オレンジジュースもあるけどどうする?」

「お茶で良い、ありがと」

「いいえー」


 口を付けたお茶は当然だけど冷たくて、桐生の家の効果かただの麦茶の筈なのに何だか高級そうな味がした。

 出来上がるまで学校の話とかテストの話とかをして時間を潰し、パスタが出来ると二人で並んで食べる。

 あの桐生と日曜日に桐生の家で冷食のパスタを食べている。

 現実の筈なのにどこか夢なんじゃ無いかと思える不思議な時間を過ごしたが、口に入れたパスタがあまりに熱くて口の中を火傷したからこれは間違う筈もない現実。

 だからパスタを食べ終わって、片付けも済んだらする事なんて決まってる。むしろこれの為に呼び出されたのだから、今食べた物は戦う前の腹ごなし、僕的には。


「じゃあ行こっか」


 マグに麦茶を注ぎ足して桐生の後に続いて部屋に向かう。

 もう何度も足を運んだ桐生の部屋に驚く様な事は今更無いが、それでも毎回ドアを開けた途端の桐生の匂いには未だに心臓がざわつく”


「…今日は何着るの」

「お、積極的になって来たね斉藤」

「茶化すなら帰るよ」

「はいはい怒らないの。今日は普通の服でーす」

「僕はお前の普通を一切信用してないからな」

「いや今日は本当に普通だって! テーマはデートなんだから!」

「…デート…?」


 頭の中では男女が手を繋いで歩いている様子が映し出される。だが僕に想像が出来るのはそこまでで女子がどんな服を着ているのかは皆目見当もつかないし、そもそも興味が無い。ただデートといえばオシャレをするくらいの知識や認識はさすがに僕も持っているから、ああだからかと納得した。


「だからメイクとか言ってたんだ」

「そうそう。やっぱり女装を愛する者として服の次はメイクだよなって思ってさ。ちなみに俺は夏っぽいメイクより断然春っぽいピンクな感じが好き。今日はそれを斉藤にやります」


 俄然とやる気を出して目を輝かせている桐生に僕はもうほとんど魂が抜けたみたいな顔をして「ああそうですか」と答える他無かった。


「で、服は?」

「本日はこちらになります」


 クローゼットから出されたのは先程の桐生の発言通り、春らしい色彩のワンピースだった。丈は多分膝より少し上くらいで、花のプリントがしてある女子の服に興味がない僕からしてもぱっと見で可愛らしいと思える服。それに白いカーディガンと靴とバッグまで用意してある。

 本当にフルで女装させる気満々らしい桐生に僕の顔は一層険しくなった。


「……じゃあ着替える」

「はーい」


 もう何度もしているやり取りだからか違和感も無い。否、感じないように勤めていると言った方が正しい。

 深く考えたら負けなのだと悟りながら服を脱ぎ始める。

 始めはさっぱり分からなかった女子の服の着方も最近慣れたのか手こずらなくなって来たのは悲しい進化だと僕は思っている。


「…斉藤さ、今度ブラも」

「ふざけた事言ってると顔面潰すよ」

「殺意高くない?」


 どれだけワンピースの丈が短くてもタイツを履かせないのは桐生の趣味らしい。何が楽しくて男の生足なんかと思うが、桐生曰く女装の良さは骨に出るとの事なのでしょうがない。

 何度着てもスカートに心許なさを覚えつつカーディガンに袖を通す。靴やバッグは撮影が終わってからで良いだろうと桐生の方に意識を向けるとやつは既にスマホを構えていた。


「おい」

「完璧が過ぎるんだよなぁ。斉藤ってさ、細いじゃん。それに男の中では身長低い方だし、肌も白いし、何より顔がエロい。眼鏡がミステリアス感を底上げしてるし普段は前髪のせいで表情が良くわかんないのもポイント高い。斉藤が女装で裏垢とかしてなくてよかったって俺ほぼ毎日思ってるんだよね。お前の存在はこの界隈では本当他の追随を許さないくらいに圧倒的だからさとりあえず一回ポーズ取ってもらって良い?」

「うるせえぞど変態。メイクはどうした」

「ビフォーアフターって大事」

「顔は撮らせないから意味無い。スマホ向けんなボケ」


 溜息混じりにスマホのカメラ部分に手を被せるとようやく桐生はスマホを下ろす。

 こいつの目に僕のことがどう写っているのかは定かでは無いが、とりあえず僕は桐生に取って良い素材なんだろうなとは思う。僕は自分の顔も体型も特に嫌いでもなければ好きでも無い。だけど、桐生にとってはそうではなくむしろ好ましい部類に入るのはもう認めざるを得ない。

 ちなみに女装した状態を鏡で何度か見たがまあそこら辺にいそうだな、という印象だった。漫画やアニメでよく見掛ける没個性のモブ。服装がどう変わろうが僕という個性は変わらないのだからそんな評価が妥当だろう。


「よし、じゃあこっちおいで。今から斉藤を大変身させるからさ」

「もう好きにしてくれ」


 たった数歩の距離なのに桐生は僕の手を握っていつも座っているだろう椅子に案内した。座り心地はいいが足が若干浮いてしまうのが悔しい。


「眼鏡外しまーす。ついでに前髪もあげまーす」


 それくらい自分でやると言おうにももう桐生の手が僕の眼鏡を外してしまった。途端に世界の輪郭が曖昧になってはっきり見ようとして両目を細めて眉間に皺が寄る。


「顔が凶悪犯みたいになってるよ斉藤」

「目が良いやつには今の僕の視界不良具合はわからないよ。雨の日裸眼で外出たら周りイルミネーションみたいなんだぞ。あと月がめちゃくちゃデカく見える」

「これ何本だ?」

「……2?」

「残念1でした」

「うっざ」


 桐生は思いの外丁寧な手つきで僕に触る。きっと慣れているんだろうなと思いながら指示に従って僕は目を閉じた。

 僕はメイクについてはからっきしだ、ほとんど何の知識も無い。だが昨日送られて来た動画は何度か見たし、その人の上げている他の動画もチェックした。一体全体どうやったらあんなにも変身できるのか一欠片すら理解出来ないが、全く知らない世界を知れた事が楽しかったのは事実だ。

 自分もこれからああなるのだろうかと期待に胸を膨らませた僕は何も悪く無い。


 だけど事前に確認を怠った事は悪いと思っている。確認不足は僕のミスだ。

 だがしかし、誰が想像しただろうか。昨夜あれだけ自信満々に「可愛くする」など宣った男がメイクの基礎も一切知らずぶっつけ本番で挑もうとしていたなんて。僕ですら何度も見た動画を当の本人は一度しか見ておらずメイクに対しての認識が「塗ればどうにか」だったなんて。


「お前は馬鹿なの⁉︎」


 メイク開始から10分後、僕は声を荒げていた。理由は簡単だ、端的に言えば僕の顔がめちゃくちゃだから。


「だ、だって女子がさささーってやってるから俺にも出来るかなって」

「あんな技術が一朝一夕で身につく訳ないだろうが馬鹿! 馬鹿桐生! ああもう皮膚呼吸できなくて死ぬ、顔洗うから場所教えて」


 どこか食えない印象もある桐生も僕の顔を見るとさすがに悪いと思ったのか見るからに肩を落としている。「こっち」と覇気のない様子で洗面台まで案内して貰ってメイクが落とせる液体の入ったボトルの裏面をじっと読む。

 使用方法を理解してから鏡を見ると若干ぼやけて見えるがそこにはハロウィンかピエロかというような装飾を施された僕がいた。大きな溜息を吐いて用法通りにメイクを落とすと丁度良いタイミングでタオルが渡される。


「…ごめん」


 水滴を拭いて顔を上げるとそこには多分申し訳無さそうな顔をした桐生が居た。なんだそんな顔出来たんだなんて少し場違いな事を思いながらまた溜息を吐く。


「…動画でさ、あるんじゃないの。初心者用のやつ」

「え」

「だから、初心者用のメイク動画あるんじゃないの? それ見ながらやって行こうよ。いきなりあんな芸術みたいなの出来る訳無いんだからさ」

「…怒ってないの?」


 捨てられた子犬みたいな弱々しい声で問いかけてくるからおかしくて少し笑ってしまった。


「今更でしょ。お前やりたいって言い出したら聞かないんだからさ、また失敗されるくらいなら最初から練習台になった方がいい」


 ああ何を言ってるんだろうなって思う。きっとこのまま僕が怒ってもうしないって言えばこんなふざけた関係も終わらせられる。こんな心を乱されるような非日常から解放される。わかってるのに、僕はまたあの時みたいに口が勝手に動くのを感じた。


「今日まだ時間あるでしょ。動画探そ。…その代わり撮影会は無しな。僕撮られる事自体がそんな得意じゃ無いんだから」


 眼鏡が無いせいで視界は相変わらずぼやけている。曖昧な輪郭しか捉えられない状態でも僕には桐生が笑うのがわかった。


「うん、ありがとう斉藤」

「おう」

「ていうかこのシチュエーションって彼女がメイク落としてるみたいで興奮するね」

「くたばれクソ野郎」

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