Act2.「死に戻り」
眩しさに瞼をくすぐられ、リリーは目を開ける。
(ここは天国? ……地獄かしら)
最初は光が目に沁みて何も見えなかった。だが目が慣れてくると、白い世界は段々と色を取り戻し始める。それが見覚えのある場所だと気付くまではすぐだった。
光り輝く池、青々と茂る木々……絵画のように美しい昼下がりの庭園。そして本当に絵みたいに、音が無かった。小鳥の囀りも、風の囁きも、何も聞こない。
リリーは池の淵に立っていた。そして、前に腕を突き出していた。
その先には――不自然に宙に浮かんだ状態の少女の体。
憎くて仕方の無かった
(これは一体なに? 走馬灯のワンシーン? それとも夢?)
リリーはこの状況を知っていた。これは過去に実際にあった出来事である。怒りに支配されたリリーが、サクラを池に突き落とした瞬間だ。
サクラは極端に水が嫌いで、酷く混乱し見苦しく溺れていた。その時の事を思い出し、リリーの中に高揚が蘇る。惨めな姿に一時心が癒され、それでも満たされることのない空虚を痛感したことを、思い出す。
(あの時はすぐに助けが来たけれど、もし誰も助けに来なくて、足でも捻って溺れたままだったら……邪魔者が居なくなったかもしれないのに)
周囲に人の気配は無い。見回してみようと思ったが、体が動かなかった。リリーの体もまた、止まった世界の一部なのだ。目の前に無防備な仇敵が居るというのに、その綺麗な顔を引っ掻いて、華奢な体を蹴り飛ばしてしまえないことに、リリーは歯痒さを覚える。
やはりここは地獄か。そう思いかけた時、僅かに空気が動き、春の風がリリーの頬を撫でた。……時間が、ゆっくりと、動き始める。
草木のざわめき、水面の煌めき、揺れる髪、少女のか細い悲鳴。
それを聞いた瞬間、リリーの体に不思議な熱が走る。リリーは夢中で、サクラの方に身を乗り出していた。
(……あれ? わたし、どうして)
それは、完全に無自覚な行動だった。
リリーの手は、こちらに向けて必死に伸ばされた小さな手をしっかり、掴み取っている。
二人の手が繋がれた瞬間、世界は元の速度を取り戻した。そして、
大きな水飛沫が上がる。
(――うっ、冷たいっ!)
季節は花の綻ぶ春だったが、池の水は雪解け水のように冷たく、全身を容赦なく突き刺した。水を吸ったドレスはぐんと重くなり、体を池底に引きずり込もうとする。リリーは泳ぎの作法など知らなかったが、がむしゃらに抵抗し、サクラを抱えながら何とか池の縁に戻った。
水にトラウマのあるサクラは、最初こそ混乱し暴れていたが、リリーの行動の意味を察すると、最後の方は震えながらも大人しく身を任せていた。
ビシャ、と池から這い上がる二人。草にしがみ付いて、肩で息をする。
(し、死ぬかと思ったわ……いや、死んでた筈なんだけれど)
息を整えながら、リリーは改めて周囲の様子を探った。
ここは神殿の裏庭で間違いない。そしてこの状況は、リリーの記憶が正しければ三年前の出来事だ。だが完全な過去とも違う。以前は溺れかけたサクラをすぐにユリウスが助けたが、今ここに彼の姿は無いからだ。
(……いや、サクラを助けたのはお父様だったかしら? 神殿の誰かだったような気もするわね)
昔の事で曖昧だが、誰かが助けたのは間違いない。その必要が無くなったことで、展開が変わったのだろうか? リリーは考えながら、隣の濡れネズミを見た。
だがそこに居たのはネズミではなく、水も滴る極上の美少女である。
濡れた黒髪は色濃く輝き、長いまつ毛の上では水滴が光り輝いていた。ドレスの張り付いた体は儚く、そして艶めかしい。サクラは冷えた体を両腕で抱き、青い唇を震わせながらリリーを見た。その小動物じみた目が、リリーは大嫌いだった。
「リリーお姉様……どうして?」
それは、リリーが自身に対して問い詰めたいくらいだった。
「どうしてって、何が? わたしがあなたを突き落としたことに対して? それとも、わたしがあなたを引き上げたことに対して?」
「え、えっと」
「……良いお天気だったから。あなたが水に慣れる練習に、付き合ってあげようと思っただけよ」
無理な言い訳を押し付け、リリーは水の滴る前髪をかき上げる。濡れて絡まった髪はゴワゴワしていて、水の入った目はゴロゴロしていた。
……今の自分は、さぞみっともない姿をしているのだろう。リリーはサクラとの差に居た堪れなくなった。
何故自分とサクラはこんなにも違うのか。
サクラはこの物語のヒロインで、自分は彼女を引き立てる脇役でしかない。それどころか嫉妬に狂わされ、彼女の物語を盛り上げるための安っぽい悪役になってしまった。
悲惨な最期を迎える、憐れな悪役に。
――そう、リリー・イーヴルは確かに死んだ。筈だった。
(わたし……生き返ったの?)
リリーは夢でも見ている気分で、青空を仰ぐ。
牢で最期を迎えたと思ったら、何故か三年前の世界に居る。これは一体どういうことなのだろうか。
*
ドレスの裾から点々と、水滴が地面に跡を付ける。
裏庭から出るには神殿を通らなくてはならない為、リリーとサクラは同じ道を歩かざるを得なかった。
道中、おずおずとリリーの様子を窺ってばかりのサクラ。機嫌を損ねないようにしているのかもしれないが、それが一番気分を害するのだ、とリリーは苛々する。サクラの全てが、リリーの神経を逆撫でした。
――サクラ・イーヴル。リリーより二歳下の、義理の妹。
サクラはまだ幼い頃、領外の森で魔物に襲われていたところをリリーの父親に救われ、連れ帰られた孤児である。発見された際、魔物に沼へ引きずり込まれそうになっていたことが、彼女の水に対するトラウマの原因となった。……恐らくは。
他に原因があるのかもしれないが、それを知る者はいない。サクラは、発見されるより前の記憶を失っていたからだ。魔物に襲われた恐怖の影響か、彼女は自分の名前すら覚えていなかった。親兄弟の姿は見つからず、近くに落ちていた荷物から察するに、行方は沼の底だろうと推測された。
保護されたサクラは、皆の注目を集めた。
それは彼女が特別愛らしい子供だったから。同情したくなる境遇にあったから。そして何より――強い力を秘めていたからだ。
サクラは、リリーの父親と並ぶほどの神力の持ち主だった。
聖なる力は所有者の血肉に宿るものであり、それを喰らった者は力を得ることができる。故に、力を求める魔物に狙われやすい。サクラは何度も危険な目に遭いながら、安全な場所を求め旅をしてきたのだろう。
サクラはその力を見込まれ、無力な一人娘しか授からなかったイーヴル家の養女として迎えられた。そして力の扱い方を覚え、皆の期待に応えた。サクラは神殿の象徴的存在である“聖女”となり、平和の為に力を尽くし、人々の希望となったのだ。
『ああっ、なんて可愛らしいのかしら。サクラ様の笑顔は、見ているだけで幸せになれるわ!』
『あの厳しい旦那様でさえ、サクラ様には甘くなってしまうんだものね』
遠い東の国の血が混じっているらしいサクラの容姿は、その独特な美しさをもって人々の目を惹きつけてやまない。滑らかな輪郭に丸みのある鼻、小さな唇が織りなす優しい顔立ちには、あどけなさと神秘性が共存している。夜の闇を思わせる髪と瞳は、どんなに色鮮やかな宝石より美しく輝き、見る者を圧倒した。
老若男女誰もが振り返り、見惚れ、愛してしまう少女。そんなサクラに対しリリーは、陰気な少女だった。
色の薄いプラチナブロンドは老婆の白髪のように生気が無く、彫りの深い顔立ちは影を目立たせ、吊り上がった目尻は冷たく刺々しい印象を与え、人々を遠ざける。
神にも人にも愛されなかったリリーと、双方の愛を一身に受けるサクラ。二人を取り巻く環境の違いが、リリーをどこまでも捻じ曲げた。
「あ、あのお姉様、」
「サクラ様! そのお姿はどうされたのです!?」
神殿の方から、女の金切り声が上がる。サクラに仕える侍女だ。何かあったのかと駆け付けた神官を含め、リリーとサクラは数人に囲まれる。皆はびしょ濡れの二人を見て、リリーがサクラに何かしたのだと決め付け(その通りなのだが)、リリーの傍からサクラを引き剥がした。
「サクラ様、ご無事ですか!? お怪我は!?」
「大丈夫よ、サクラは何ともないわ……くしゅん!」
(自分のことを名前で呼ぶの、本当に痛々しいわね。くしゃみもわざとらしい)
どうして周囲がそれを愛らしく思うのか、リリーには理解が出来ない。
「ああ大変! さあサクラ様、早く中で温まりましょう。お召し物も変えなくては」
「ええ。お姉さまも一緒に――、」
「さあさあ、早く参りましょう」
侍女は聞く耳を持たず、サクラを建物の中へと強引に連れて行く。それはサクラを思いやるが故の無視だ。優しいサクラが悪い義姉に関わって傷付かないよう、守ろうとしている。
その場に残されたリリーは、神官たちの冷たい視線に追いやられるように、静かにその場を去った。こういった対応には慣れきっており、今更傷付くことも無い。リリーは寧ろ拍子抜けしていた。
(……ひどい言葉で責め立てられるかと思ったけど、何も言われなかったわね。三年前って、こんな感じだったかしら?)
まだ新しい記憶では、自分が少しでもサクラに近付けば、侍女や神官達は過剰なほど敵意を剥き出しにしてきた。この頃は、まだそれ程でもなかっただろうか?
リリーは着替えのために屋敷に戻りながら、三年前の記憶を辿る。
リリーがサクラを池に突き落としたこの日は、リリーの母の命日だった。
リリーの父親は、妻の死の原因となったリリーを恨んでおり、娘として悼むことさえ許さない。彼自身も妻の死を受け入れられず、毎年この日は執務室に閉じこもっていた。リリーは毎年、たった一輪の花を墓前に供えることも出来ず、離れた場所から汚れていく墓を眺めているだけだった。
だがその年、父が初めて墓参りに訪れた。それも、実の娘であるリリーを差し置いて、サクラと共に。
『お母さま、ずっとご挨拶できなくて、ごめんなさい』
サクラは慈悲深い聖女の顔で、愛された娘の顔で、手入れの行き届いていなかった墓を整える。父もまた自分の手が汚れることも厭わず、サクラと共に雑草を抜き、布で墓石を拭った。
花を供え手を合わせ、穏やかな笑みを交わす二人。それは誰の目から見ても、本当の親子の姿だった。
――あの頑固な父でさえ、サクラは変えてしまえるのだ。
リリーはその時、父から完全に見放されたように感じた。母も生まれた子がサクラだったなら、幸せに暮らしていただろう。もし霊魂などという存在があるのなら、見守っているのは実の娘の自分ではなく、サクラだと思った。
サクラの存在は、どこまでもリリーを否定する。
リリーは深い悲しみに落ち、それは強い憎悪に転じた。
感情に身を任せ、サクラに痛い目を見せてやろうと、警戒心の無いサクラを裏庭に呼び出し池に突き落としたのだ。
(思えばこの日から、わたしはサクラに対して躊躇が無くなった気がするわ)
以前から言葉や態度で冷たく接してはいたが、一線を越えた行動に出たことで、リリーのタガは外れた。この日以降、サクラに執拗な嫌がらせを繰り返すようになったのだ。何かに憑りつかれたように、リリーの衝動は止まらなかった。
サクラの美貌や力に嫉妬する者を見つけては煽り立て、根も葉もない悪評を広めた。サクラの聖女としての仕事が失敗するよう、聖具に傷を付けたこともある。危険な場所に誘い込み、ごろつきに襲わせようとしたこともあった。
(あんなに色々やったのに……結局、サクラの顔に傷一つ付けることも出来なかったわね)
リリーは自分の無力さに溜息を吐く。全てが無駄だった。それどころか罪は白日の下にさらされ、自分の首を絞めるものとなってしまった。
サクラは多くの者に守られている。そして彼女自身も、そこらの魔物など一瞬で片付けてしまえるほどに強い。
今のリリーは、自分ではサクラに敵わないことを理解していた。一度死んだからか、少しは自身を俯瞰して見れるようになっている。
(このままでは、また同じことを繰り返すだけ。わたしが生き残るためには……)
リリーは苦い顔をする。取るべき道は、既に分かっていた。サクラをどうにも出来ない以上、自分が変わるしかないのだ。
サクラに対する嫉妬心を捨て、真っ当な人生を歩むほかない。
しかし頭では理解していても、簡単に気持ちを切り替えることは出来なかった。サクラへの嫉妬と執着は、リリーの殆どを構成しているといっても過言ではない。それを変えるということは、最早別人に生まれ変わることに等しいのだ。
(……そう、これは生まれ変わりなんだわ。わたしはもう、以前のリリー・イーヴルじゃない。別人に、生まれ変わってみせる)
リリーは自身に起きたこの不思議な現象を“転生”だと認識した。
単なる時間遡行とも、生き返りとも違う。
悪役リリー・イーヴルではない、新たなリリーの始まりなのだと信じた。
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