第2話 規制

「ただいま」


 相変わらず、実家のドアの鍵は開いていた。昔からそうだったが、この家には鍵を掛ける習慣がないのだ。常に誰かが在宅しているからという理由らしいが、不用心にも程がある。不在だろうと在宅だろうと、強盗は関係なく押し入ってくるというのに。どれだけ私が注意しても「うちには取られて困るようなものは何もないから」と意にも介さない。お金の代わりに命を奪われても知らないよと言ったけれど、親は笑うだけだった。


 三和土たたきを上がった先に、スリッパが一足置かれていた。私のために用意してくれたものだろうか。私は靴を脱いで右足をスリッパの中に入れた。


「ギャッ!」


 何かがずるりとつま先から甲の上を這った。慌てて私はスリッパから足を引き抜く。もぞりと出てきたのは黒光りする太ったムカデだった。


 しまった、久しぶり過ぎて油断していた。

 これだから山は嫌いなんだ。

 

 陰のある場所、狭いところ、湿った空間には、もれなく虫たちが潜んでいる。そのどれもが都会ではまず見掛けない程大きいのだ。


 気持ち悪い。気持ち悪い。

 二回言ってもまだ足りない。

 気持ちが悪い。


 私はスリッパの先を足で軽く踏み、まだ他に潜んでいないかを確認してから、そろりと履いた。

 家の中は昼間なのに薄暗い。むしろ昼間だから薄暗いのか。必要最低限の電気しか付けないこの家では、廊下は必要最低限の場所に入らないらしい。私は虫除けの意味を込めてパタンパタンとわざとスリッパで音を鳴らしながら、リビングに続く引き戸を開けた。


「ただいま」


 静かだ。反応がない。

 キッチン。

 テレビの前。

 庭。

 誰もいない。


 買い物にでも出掛けているのだろうか。

 あらかじめ到着予定時刻は伝えていたはずだが、もしかすると私と顔を合わせるのが気まずくて、時間を潰しているのかもしれない。そんなの、私も同じなのに。別に好きで帰ってきた訳じゃないし。


 洗面所で手洗いとうがいを済ませてから、改めて家の中を見て回る。

 十年も帰って来ていないのだ。どこか、何かしらの変化があって当然だと思っていたけれど、驚く程変わっていない。テーブルも、時計も、座布団のカバーも、何もかも当時の記憶のままだ。変化を好まない人々ではあったけれど、ここまでとは。


 静かだ。

 この家は時間が止まっている。

 

 今まで自分が街でどれだけ音に囲まれて過ごしていたのか、嫌という程気付かされる。停滞したままの空気がわずらわしくて、私はテレビのスイッチを付けた。


『S県で起きた集団食中毒事件ですが、保健所は被害者への調査を継続していて、現在原因の特定を急いでいます』


『いやほんまね、君のそういうところが僕はどうかと思うんやわ。餅の食べ方は醤油でもきな粉でもない、海苔の一択や!』


『私……知っているのよ。あの人はもう死んでいるんだって。私のためにこれ以上嘘を重ねないで』


 ピッ。

 私はテレビの電源を切る。

 ニュース、お笑い、ドラマの再放送。年末にありがちなラインナップだ。見たくもない。


「あれ、帰ってたの」


 ガサガサとビニール袋の音と共に母の声が聞こえた。やはり買い物に出掛けていたのか。「おかえり」と言いながら振り向くと、顔のあちこちにべっとりと血を付けた母親が両手にスーパーの袋を抱えていた。


「血! 血が付いてる! 何したの!?」


 慌てて近寄ると母は「あんたが帰って来るって言うから、鶏を絞めてきたのよ」と平然とした顔で言った。


「あぁ、そう……」


 そういえば、母の友人のひとりに食肉用の養鶏を営んでいる人がいた。


「お母さんがやったの?」

「そうよ。あなたのためと思って見様見真似でやってみたけど、手こずっちゃったわ」


 母は幼い頃、友人の養鶏場で鶏の首を落としているシーンを目撃して以来鶏肉が食べられなくなったが、料理の材料として使うのは平気なのだ。食べられないのに触ることは出来るという、その辺りの神経が私にはよく分からない。


「首を落としてもしばらく動き回ってるんだから、鮮度は凄いわよ。これであなたも元気が出るでしょ」


 母は母なりに私のことを心配していたのだろう。それもそうか。次にここへ戻って来る時は凱旋パレードのひとつでも開催してもらいたいぐらい売れてからと思っていたのに、あんな事件に巻き込まれての帰宅なのだから。

 さっき消したばかりのテレビのスイッチを、母が入れる。


『事件が起きたのは今月十日。あるテレビ番組の年始特別番組収録中の出来事でした』


 私はすかさずテレビを消す。


「……身体はもういいの?」


 母が溜息をひとついてから尋ねる。恐らく頭の中では「言わんこっちゃない。だから私は反対だったのよ」と思っているのだろう。私はさっと笑顔を作り「うん。心配掛けてごめんね」と答えた。


 インディーズでリリースしたシングルがショート動画などでバズり、メジャーデビューしたのが今年の夏のことだった。私はもう二十五歳になっていたが、十年アイドルグループに所属を続けて、やっと光を手に入れたような気分だった。深夜の音楽番組に呼ばれた際、アイドルなのにやたら達観した、初々しさの欠片もない私のトークが何故かウケた。


 自己肯定が出来ない自虐アイドル。


 どんなことを振られてもネガティブな発言で打ち返し、それを芸人が拾って更にトークを膨らませるというのが定番となり、私は様々なバラエティ番組にピンで呼ばれるようになった。


 グループの中でひとりだけ売れるということは、摩擦を起こすのに十分な種となった。年始の特別番組の収録にグループとして呼ばれ、餅を食べるコーナーで私に出されたのは青海苔ではなくカビが混ぜられた餅だった。気付かずに食べた私は食中毒を発症することになり、年内の仕事は全てキャンセルせざるを得なくなった。


 特別番組の放送は中止となり、他のメンバーたちは貴重な地上波の出番を失った。恐らく今頃はライブで私の話をしながら涙を流すなり何なりして、ファンの同情を買うことで、関心を向けさせようとしているのだろう。ねたみかそねみか知らないが、全く馬鹿な話だ。私が売れればグループの名前が世に知られるきっかけになり、長期的な目で見てそれが得になるとは考えないのだろうか。所詮は自分が一番可愛いと考えている人間の集まりだなと思ったが、そういう人間だからこそアイドルをしているのかとも納得した。


「なんだ、もう帰ってたのか」

「お姉ちゃん、おかえりー!」


 父と妹が揃って帰って来た。


「ねぇねぇ、サイン書いて」

「いきなりじゃん」

「だって学校の子に頼まれたんだもん」


 年の離れた妹は、今十三歳だ。私が家を出た時のことなど何も覚えていないし、姉らしいことをされた記憶もないはずだ。ほぼ初対面の癖にベタベタとくっついてくるのは、画面の向こうで一方的に私の姿を見て距離感がバグっているからか。


 夕食は母が締めた鶏の肉を使った鍋だった。食指の伸びない様子を心配した家族からやたら気を遣われ、それがまた更に居心地の悪さに拍車を掛けた。

 そんなもの、食べたくない。

 私は「まだ食欲がないから」と断り、二階の自分の部屋に入る。この部屋も私が出て行った当時のままだ。倒れ込むようにベッドに潜り込む。


「お腹、空いたな」


 何も入っていない胃がきゅうきゅうと絞られるようで、私は空腹を追いやるように目を閉じた。

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