綺麗にして下さい先生!

@seirokyuu

綺麗にして下さい先生!

「先生! お客さんですよー!」


 少年の声が室内に木霊した。だが奥から反応はなく、彼はもう一度大きく叫んだ。


「ほら先生! はやくはやくー!!」


 やがてのしのしと足音を立て、一人の女性が歩いて来た。

 『先生』と呼ばれたその女性は不快そうに頭を掻くと、髪からフケがぼろぼろと落ちていく。その風貌に気圧されたのか女性は一歩引いてしまったが、意を決したように『先生』に大きな声で頼み込んだ。


「お願いがあるんです! 私を美しくして下さい!」


「……私が、君を? 美しく?」


 『先生』は分厚い丸眼鏡の奥、深い隈を携えた濁った眼をぎょろぎょろと動かし客人の女性をくまなく眺める。十秒程度忙しなく動いた瞳が静止すると、目元に皴を寄せ静かに口を開いた。


「帰れ」


「ちょいちょーい、先生! そりゃないでしょー!」

 少年は引っ込もうとする『先生』を慌てて引き留める。

「せっかく来てくれたんですし、ほら、お話くらい聞いてあげましょうよ!」


「何故私がそんな事をしなければならない。私は暇じゃないんだぞ」


「せ、先生! お願いします! 私、美しくならなきゃいけないんです!」

 客人の女性は深々と頭を下げる。

「子供の頃から綺麗になりたくて死ぬ気で努力したんですけど、どれもダメでした。先生の力が必要なんです。先生じゃなきゃダメなんです! 何でもします! お願いします!!」


 目に涙を滲ませ、震えた声を辺りに響かせた。

 だがその姿を見た『先生』は少しも心を動かされた素振りはなく、冷ややかな視線を女性に向ける。


「そう。私には君にして欲しい事なんてないし何かしてやる義理もない。だいたい君を美しく? 何故私なんだ。美容整形でもしたらどうだね」


 ばっさりと切り捨てられ、女性は言葉を詰まらせる。


「ちょっと先生、かわいそうですよー」


「知るか。私はもう寝る」


 そう吐き捨て背中を向ける『先生』に、女性は叫んだ。


「私、知ってるんです! 向かいの家の山口さん、凄く綺麗になってました。……先生がやったんですよね!?」


 その言葉が響いた時、『先生』の足が止まった。

 『先生』はゆっくりと振り返り、濁った眼を彼女に突き刺す。


「……それを、誰から聞いた?」


「山口さん本人です。……すみません、本人は言わないでって言ってたんです。私が無理に聞いちゃったんです」


 渋い顔をする『先生』を少年が肘で小突いた。

「いつの間にそんな事してたんですかー? 先生って意外にお人好しなんですねー」


「お願いします。誰にも言いません。ですからどうか、どうか……」


「ほら先生、いいじゃないですかー。やってあげましょうよー!」


 『先生』は大きく溜息をつき、渋々といった表情で中に入るよう指示した。




「いらっしゃいませー、まずこちらにお名前を。飲み物はコーヒー紅茶ドクペルートビア、どれがいいです?」


「あ、水で……」


「水!?」


 親しげに話す二人の反対側、テーブル越しに座る『先生』は女性に話しかけた。


「じゃ、手を見せてくれ」


「……手、ですか?」


 おずおずと差し出された手を無遠慮に掴み、『先生』はじろじろと眺める。掌、指、爪、そして手の甲。じっと、じっと、穴が開くほど眺め続ける。


「お、手相占いですか?」

 少年が戻り、水をテーブルに置いた。


「静かに。……口の中を」


「口?」


「口、開けて」


「は、はい!」


 大きく開かれた口を覗き込む。ペンライトを当て、時には鏡を用い、じっくりと口の中を観察した。


「はい、結構」


 『先生』はそう言い頬から手を離した。何かを考えているようで苛立たしげにこめかみを指で叩いている。


「あの、先生……?」


 彼女の問いを聞く事もなく、『先生』は奥の部屋へ入って行った。


「不愛想ですよねー。でも気にしなくていいですよ。誰に対してもああなんです、あの人」


「そうなんですね。いきなり来て失礼しちゃったから、怒らせちゃったのかと……」


「怒ってたらここに入れてませんよ! この間来た新聞勧誘なんか、自分の本ぶつけて追い返してましたよ」


「それは……ふふっ」


 やがて戻って来た『先生』は薄い紙に包まれた錠剤をテーブルの上に置いた。


「じゃ、これ飲んでくれ」


「えと……何の薬ですか?」


「……綺麗になる為に、不可欠な物だ」


 若干『先生』の目が泳いだのが彼女に見えた。不信感が彼女の頭に過る。


「どうする。綺麗になりたいんだろう。その為にここに来たんじゃないのか?」


 その不信感を感じ取ったのか、『先生』の視線が鋭くなる。とはいえ『先生』の言う通り、これを飲む以外に彼女の選択肢はない。

 じっと、じっと自身の指を刺す視線を感じながら、彼女はその錠剤を飲み込んだ。


「……よし」

 静かに頷くその視線が、少しだけ柔らかになった。

「後は、そうだな……おい、彼女に連絡先を教えておけ」


「僕ですか?」


「ああ。いざという時のアフターケアの為だ。私だっていつでもここに居るわけじゃないし、暇してるわけじゃないからな」


「僕もそうなんですけど……まあいっか」


 少年は携帯を取り、彼女に差し出した。だが女性は自分の連絡先を教えるのに躊躇しているようだった。


「この人のは聞かなくていいんですか?」


「別にいいよ。こっちからかける事もないだろう」


 その言葉に安堵し女性は携帯を取り出す。ロックを解除してアドレス帳を開き、言われるまま少年の番号を登録した。


「……それで、これでどうなるんですか?あの薬だけで綺麗になれるんですか?」


「いや、もう少しやる事がある。少し横になってくれ」


「横に……分かりました」


 錠剤を飲んで心理的なハードルが下がった事もあり、彼女は素直にソファに寝そべった。


「じゃあ、ゆっくりと呼吸してくれ。さっきの薬の成分を全身に行き渡らせる為にはこの状態の腹式呼吸が最適だ」

 穏やかな声で、語りかける。

「ゆっくりと、落ち着いて。血液が全身に巡っている。全身がカロリーを消費しているのを感じろ。今一秒毎に君は美しくなっている」

 優しい声で、語りかける。

「さあ、君は痩せている。どんどん、どんどん痩せていっている。君は美しくなる。君は、美しい」

 静かに、静かに、語りかける。


 女性の全身から力が抜けていく。鼓動は落ち着いた一定のリズムを刻む。やがて『先生』に指示された腹式呼吸は、小さな寝息へと変わっていった。

 『先生』は眠りに落ちた女性を眺め、ゆっくりと顔を近付ける。その眠りが嘘偽りでない事、小さな物音で覚醒する浅いものでない事を十分に確認して、『先生』……彼女は。


「はぁ~~~っ……」


 大きく、大きく安堵の溜息をついた。


「あら、寝ちゃったんですか?」


「私が飲んでいる睡眠薬を飲んだんだ。普段薬に慣れていない人ならすぐに落ちるさ」


「え? 綺麗になる薬じゃないんですか?」


 首を傾げる少年に『先生』は白い眼を向ける。


「……君、私を何だと思っているんだ」


「嫌だなあ、先生ですよね?」


 少年は、笑って答えた。


「小説家の」


 彼女はゆっくりと頷いた。


「そうだ」


「もっと言うなら頭に『売れない』が付く」


「もっと言わなくていい、付けなくていい」


「更に言うなら全部自費出版の、家の太さだけで生活してるような高等遊民」


「更に言わなくていいよ、バカモノめ」

 苛立たしげに頭を掻く。

「そんな私が人を綺麗になど、出来るわけがないだろう」


「えー!? でもさっきこの人言ってたじゃないですか! 向かいの山口さんを先生が綺麗にしたって!」


 それを聞くと彼女は舌打ちして新聞を取り出した。


「新聞くらい読みたまえ」


 その記事の見出しには、一人の中年女性が孤独死した事が書かれていた。遺体は酷く腐敗が進み白骨化していたという。

 現場はここのすぐ近所。女性の名前は、山口。


「へえー」

 少年は興味なさげに呟いた。

「あの人が見たのはこの死体って事ですか? 何で白骨死体を綺麗なんて言ったんでしょうね」


「君は、彼女を見てどう思った?」


「え? いや会った事ないんで知りませんよ。この記事見て初めて名前……」


「山口さんじゃない。ここに眠るこの女性を見てどう思ったのか聞いているんだ」


「……んー、別に。女の人だなーって感じですね」


 彼女は眉間に皴を寄せ、小さく息を吐いた。


「頬はこけ全身が骨ばんでいる。明らかに異常な痩せ方だろう」

 首を傾げる少年を無視して彼女は続ける。

「見ろ、手の甲がひどく赤くなっているだろう。食べた物を無理に吐こうと口に指を突っ込む事を続けるとこうなる。

歯も少し溶けてしまっていた。重度の拒食症だよ、この人は」


「へー、面白いですね」

 彼女はぱかんと少年の頭を殴った。

「あいた」

 頭を押さえながら少年は尋ねる。

「つまりこういう事ですか? 彼女は痩せれば痩せる程綺麗になると思い込んだ。それで白骨死体を見て理想の姿だと思ってしまった」


「そうだ。本人から私の事を聞いたと言うのも幻聴の類だろうな。この辺りでは私の悪い噂が広まっている。

『劇的なまでに美しくなった女性』と『不自然な程気味悪がられている先生と呼ばれる人間』が、彼女の中で繋がってしまったんだろう」


「はー。美しいとか美しくないとか、肉がどうとか骨がどうとか。オシャレさんは大変ですね」


 他人事と割り切ったように笑う少年を見て、彼女は僅かに表情を歪めた。


「……そもそもだ。新聞など読まずともこの程度の情報は入って来るだろう。こんな近所の事なんだぞ。君は人に対して興味がなさすぎる」


「ありますよ?」


「君のは人に対する興味とは違う。『人の言動』や『人が自分にもたらす物事』にしか興味がないんだろう。個人に対しての興味じゃない」

 少年の目をじっと見つめ、彼女は言った。

「極論、君はこの女性が明日死んでてもどうでもいいんだろう?」


「みんなそうじゃないんですか? 結局他人は他人でしょう?」


 淀みなくそう返す少年の目を見て、彼女は溜息をつき小さく頭を振った。


「それはそうと先生、この人どうするんです?」


 『先生』は眠る女性の懐をまさぐり、携帯電話を取り出して少年に手渡した。


「ロック、解除してくれ」


「アイアイサー」


 少年は迷うことなく暗証番号を入力し、ホーム画面が表示された。


「毎度思うが凄いな。後ろでじっと見つめてたわけでもあるまいに」


「前から軽く見てたら出来ますよ。人間の顔よりも指の動きとかの方が好きなもんで、僕」


 少年から携帯を受け取ると、画面を弄って電話をかける。

 コール音が一秒鳴るまでに電話が繋がった。


「もしもし、田原のぞみさんの御母堂でお間違いないでしょうか、わたくし……」


 少年は通話する『先生』を眺め、「そういう流れか。つまんないなー」と呟く。

 やがて電話が終わり、『先生』は携帯電話を元通り彼女の懐に戻した。


「しばらくしたら迎えに来てくれるそうだ」


「親御さんに任せるんですか? 冷たいなー」

 彼女は少年の頭にチョップをした。

「あでっ」


「いいか? 私はこの人間と何の関わりもない。むしろ巻き込まれた被害者だ。下手すれば乱暴されてもおかしくない状況だったんだぞ」


「死体から話が何とか言ってましたしね。まー、マトモじゃないですね」


「……それに、この手の病人に必要なものは最低限の価値観の修正、四六時中面倒を見てくれる存在、そして十分な栄養の補給だ。私にはどうしようもないし彼女の両親に任せるのが最適なんだよ」


「……ひょっとして、冷たいって言われて怒りました?」


「一応、私も血の通った人間なわけでね。関わった人間に死なれると目覚めが悪いんだよ、君と違ってね」


「大変ですねー。僕に輸血したらどうです?」


「こんの、君の珈琲が旨くなかったらとっくに追い出してるぞ」


 二人が言い争っているうちに時間は経過していく。

 やがて彼女の両親が到着し、事情を説明した後丁重に引き渡した。





 『先生』達が女性を引き渡してから、数週間が経過した日の事だった。

 少年は廊下を駆け回り、勢い良く『先生』の書斎の扉を開いた。


「うるさいよ。静かにしたまえ」


「ごめんなさい! それより先生覚えてます!? 例の、あの、拒食症の人!」


 珈琲を飲みながら原稿に向かっていた彼女はその言葉に素早く反応した。


「ん! ……ん、あったな、そんな事も」


「あの人、もう大丈夫みたいですよ! さっき知ったんですけどね!」


「ん……そうか」

 彼女はそれを聞き、静かに珈琲に口を付けた。

「そうか、そうか……そうか」

 香りと味を楽しむように、噛み締めるように、ゆっくりと繰り返した。そして少しだけ、頬を綻ばせた。


「あ、先生笑ってる! 珍しい!」


「ふふ……茶化すんじゃない。それよりもよく情報が入ったな? ああそうか、電話番号を教えていたな。彼女から電話が入ったんだろ?」


「え? いえ、そうじゃなくて」


「違うのか?」


「違いますよー。僕、先生に言われた通り新聞を読む事にしたんです!」


「……ん?」


 合点がいかず首を傾げる彼女に、少年は新聞を差し出した。

 『先生』はそれを受け取り眺めていたが、ある記事が視界に入った瞬間左手のマグカップを落としてしまった。


「ね? 刑務所にしろ病院にしろ、規則正しい生活と面倒見てくれる人が揃ってますもんね! めでたしめでたしですね!」


 記事には、とある女性が母親を刺殺した事件が記載されていた。

 被害者の名前は、田原恵子。そして容疑者の名前は、田原のぞみ。


「あぁぁ……ああ、あぁ、ああぁあ…………」


 撒き散らされた珈琲の、ひどく酸っぱい臭いが辺りに充満する。

 彼女の手で零された珈琲が、純白のカーペットを汚染していく。

 彼女は何もせず、何も出来ず、ただ、頭を抱えて呻き声を上げるだけだった。

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