或る慈善家
有馬千年
或る慈善家
墓地がある寺は無縁仏の供養も執り行っており、檀家や宗派といった垣根に囚われず、訳あって通常の弔いを享受できなかった人──例えば親族がいなかったり、いても関わりを拒絶されていたり、生活保護を受けていたりなどという人々も、等しく丁寧に祀っている。
吉仁が向かっているのは、そこで眠る、今年二月に生命を絶ったとある母子に手を合わせるためである。
当初、吉仁はこの親子がなんとか普通の寺で普通に供養してもらえるよう尽力して掛け合ったのだが、檀家制度や法律上どうしても立ち行かず、こうして郊外地にある無縁仏を扱う寺に納骨されることとなった。かろうじて戒名と俗名の書かれた粗末な墓碑を建ててもらうことだけはできた。費用は全て吉仁が負担した。
吉仁は現在、フードデリバリーサービスの事業を経営している。福祉や障害者雇用にも力を入れ、二十名ほどの社員たちからも尊敬されている。三年ほど前から、慈善活動の一環として「子ども無料食堂」も始めることができた。
「みんなで幸せになろう」、それが吉仁のモットーだった。この信念は幼い時から変わらない。
幼少の頃より、吉仁は弱いものいじめが大嫌いだった。いじめられている子に手を差し伸べる優しさと、いじめっ子に物申す強さの両方を兼ね備えていた。加えて頭も良くて勉強ができた吉仁に、いじめっ子も渋々引き下がる他はなかったのである。
それでも、罪を憎んで人を憎まずと考えていた吉仁は、誰とでも分け隔てなく仲良くしていた。いじめっ子たちからは一目置かれ、弱い者たちからは慕われる。現在の吉仁にも通じるそれは、彼が誰からも目に見える敵意を抱かれない人格者であることを証明するのに十分だろう。
吉仁の事業の年商が億を超えた今となっても、その志というか気質は少しもブレていない。過度な贅沢よりも、みんなの幸せのために資金の使い道を考える。第一、儲けるため、数字のため、といった経営理念自体に吉仁はさほど興味がないのだ。
「日本一優しい実業家」。そう世間は二つ名をつけ、大いに持て囃した。売名やイメージアップのためではなく、本心から社会のため、人々のために貢献しようとする彼を、優しすぎると心配する者もあるほどだ。
そんな吉仁がかの親子と出会ったのは昨年の中頃のことである。
初めて子ども食堂に姿を見せた二人は、今までここを訪れたどんな子どもやその家族よりも困窮しているように見えた。
居合わせた吉仁から見るに、母親は二十代後半、男の子は十歳に満たないくらいだった。どちらもかなり痩せて憔悴しており、目が落ち窪んでいる。死活レベルの貧困に喘いでいることが服装からも一見して明らかだった。
子ども食堂は元々、十分な食費が賄えない家庭やネグレクトなどのせいで最低限の食事すら摂れない子どものために始めたサービスだった。大人からは一食あたり三百円貰うことになっているが例外は多々あり、完全に採算度外視の、あくまで貧困者を手助けするためのボランティアである。
ゆえに糊口を凌ぐにも苦労していそうな子どもやその親の来訪は一人二人ではなかったが、この親子は輪をかけて窮しているように見える。
「こちらで…子どもの食事が無料だと聞いたのですが…」
我が子と手を繋いで現れた母親は今にも泣きそうな表情のまま、消え入りそうな声で尋ねた。
「もちろんです。好きなだけ、たくさん食べていってください。お母さまも。お代はいりませんから」
あまりに不憫に思った吉仁は優しく告げ、二人を丁寧に席に案内した。注文や配膳はスタッフたちに任せ、本人らが気にならないように物陰からそっと見守った。
この二人は、ちょっと異様だ。というより憐れすぎる。何日間まともに食べていなかったら、あそこまで痩せ窄んだ風貌になってしまうのだろう。吉仁は心が痛んだ。それでも、和やかに笑い合いながらメニューを決め、たらふく食事を済ませた二人の幸せそうな顔を見ると、いくらか寂寥感は和らいだ。
事情があるに違いない。普段、あえて立ち入ったことは聞かないことにしている吉仁だが、なんとか今後も力になれないかと二人に声をかけた。
母親の
「家にはまだ住まわせてもらえてますが、今月からは、家賃も含めて、自力で生活しなきゃならないんです。医療機関に『心的外傷完治』という無理やりな診断を受けたことも大きくて…自治体としても煩わしくなったのでしょう。だけど貯金もないし、わたしも現状はこんな状態のままだから…働こうにも働けなくて…」
奈々美は声を詰まらせる。
「親族とか、誰か頼れる人はいないのですか?」
「はい、全く…。両親とは死別していますし、親戚とも何年も顔を合わせていません。第一、両親とも孤立しがちな人だったから…わたしたちは疎まれてて…。本当に、どこにも助けを求められないんです。国からの援助はもう打ち切られてしまったし…」
吉仁は沈痛な面持ちになった。これでは、餓死するのも時間の問題ではないか。
「子どもは給食だけは食べられているので一日一食ですが…その給食費さえ払えません。学校のない日は二人して水しか口にできないことも多くて。今後、ちゃんと教育を受けさせてあげられるかもわからない…わたし…
母親は亮の頭を抱きしめながら嗚咽を漏らす。満腹になった亮がことの重大さに気付かずきょとんとしているのがせめてもの救いだ。
「そうですか…大変な事情を話してくれてありがとうございます。僕にできることがそうあるかはわかりませんが、ここでしたらいつでも食べに来てください。亮くんもお母さまも、ずっと無料で利用できるようにしておきます。それから…差し出がましいかもしれませんが、現実的に必要なお金は個人的に僕が負担します。困ったらいつでもおっしゃってください」
そう言うと吉仁は、財布から五万円抜き取ると母親に手渡した。
母親は驚き受け取るのを拒否したが、吉仁は柔らかく手で包んで握らせた。
帰り際、母親は可哀想になるほどに仕切りに頭を下げ、すっかり上機嫌の亮と連れ立った。
「社長のいつもの癖」スタッフの中年女性、
「まあいつものことですけど。あんまり優しすぎたらお金がいくらあっても足りないですよ」
「なんですかぁ上川さん、目の前の人をまず助けるのがみんなが幸せになる第一歩じゃないですか」
吉仁が口を尖らせながらも笑って返す。
「はいはい。そうですね。でも社長、今回みたいなこと、一度や二度じゃないでしょう。とにかく目の前の人を放っておけないのね。尽くし過ぎなんですよ。旦那さんにするには完璧な男性だと思うけど」
「また変な冗談。困ってる人に手を差し伸べちゃいけないとでも?」
「いいえ。社長のそういうところ、これでも素晴らしいと思ってるんですよ。他のスタッフもみんなそう。だからこそ、自己犠牲になっていかないか心配なんです」
「僕は大丈夫です。それに、万が一こっちに余裕がなくなったとしても、自己犠牲、万歳じゃないですか。それでみんなが豊かになれるなら」
「出た出た。社長の信念は見上げたものです」
憎まれ口を叩きながらも、上川も嬉しそうだ。人を手助けすることができた時特有の和やかな雰囲気がそこにはあった。
それ以降、親子は度々食堂を利用するようになった。二人とも来るたびに目の窪みが消えて肌つやも良くなり、毎回笑顔で感謝して帰って行った。本業の合間に顔を出した吉仁と会った際には、吉仁は必ず何万か握らせた上でさらに必要な生活費を訊いた。母親はいつも受け取りを拒み、それでも握らされて遠慮がちに受け取った。必要な金額を言うことはなかった。
吉仁のこれらの行動は、この親子に限ったことではない。仕事の場でもプライベートでも、本当に困っている人がいたら助けになりたいと援助を申し出た。そうして過去には幾度も金を貸してあげたり、家を用意してあげたりまでした。
貸した金は返ってこないものとしていたし、そこまでしたのに不義理を働かれても吉仁は一向に気にしなかった。彼には、相手の困窮が本物かどうか直感的に見分けることができる。恩を仇で返されたとて、人の命が助かったのならそれでいいという考えだった。
奈々美の無理心中によって二人の命が喪われたことを聞いたのは、それから半年ほどのことである。
吉仁は衝撃を受け、深く絶望した。
徐々に回復を見せ、会うたびごとに元気になっていた彼らが、なぜ。
だが、どれだけ手を貸していたとはいえ、所詮は外野の他人であった。彼らの本当の窮状や心の内なんて、全く理解できていなかったのかもしれない。
吉仁は深く反省した。
結局自分は、救ったつもりでいて彼らを救えていなかった。所詮は自己満足の世界だったのかもしれない。
己の無力感に苛まれた。
本当は火葬にも立ち会いたかったし、すぐにでも線香を上げに行きたかった。それなのに経営の多忙さゆえにどちらも叶わなかったのが、二人に対する罪悪感を増長させた。
それでもなんとか時間を作り、こうして二時間以上もかけて彼らが眠る墓地に向かっている。
彼らの墓前でなんと声をかけよう。どうして助けを求めてくれなかった?救いきれず申し訳なかった?どちらも合っているようで合っていない気がする。
墓地に着き、立派な墓石とは程遠い小ぢんまりした碑を前に、目を閉じて手を合わせる。
まずは哀悼と慰霊。それが道すがら出した吉仁なりの最適解だった。
びりびりと空気が震えている気がする。瞼裏の暗い視界の外で、烈しい色の波が碑から発せられているのを感じる。
気のせいではない。確かに、乱れたエネルギーの揺れが存在しているのだ。
目を開ける。
エネルギーは、二つの影だった。
親子が、碑の前に浮遊している。
赤い波を旗めかせながら。
彼らの感情を脳裏で直接感じ取る。
これは………怒りだ。
怒り、呪い、憎しみ。それは彼らを見殺しにした社会に対してのものではない。
一直線に、吉仁へと向けられていた。
助けきれなかったことへの逆恨み?
いや、そんなはずはない。あれほど、手を差し伸べようとしたのだ。拒否したのは向こうで、だから感謝される筋合いはあれど、よもや…
親子が呼んだかのような絶妙なタイミングで、いつの間にか隣にいた住職から不意に声をかけられる。
はっと我に帰るが、飛び上がりそうになるのは堪えた。
「
一度、墓碑を建てるに際してお電話でお話ししたことはございましたが。
いやね、実は民生委員の方が二人の遺体を発見した際に、この母親が残した遺書がありまして、わたくしが預かっておったもんで。お渡ししなければ、と思っておった次第でありました。後見人のあなたに向けてのものです。
少々、躊躇う節もあったにはあったんですが…いやなにぶん、内容が内容だもんですから」
何かを言いずらそうにはっきりしない様子の住職は、それでも遺書とされる紙を押し付けるように吉仁に手渡し、足早に去って行った。
住職が気付く様子はなかったが、その間にも親子はずっと吉仁を睨み続けていた。無論、彼が去った今も、である。
憎しみの眼差しを一身に受けながら、吉仁は勇気を振り絞りながら震える手で遺書を開いた。
それは、吉仁が想定していた範囲を遥かに外れた親子の思いが綴られていたのだった。
※
遺書
私は今日を以て、亮とともにこの世を去ります。
先立つ相手もいないから、これは誰にも読まれずに捨てられるかもしれない。
いや、彼にだけはどうしても届けたい。
何がなんでも、絶対に。
私たち親子の生活は地獄以外の何物でもありませんでした。
恐怖と苦しみ、それだけが日々感じる感情の全てでした。
お金がない、味方がいない、世間に見捨てられ、生きていくこともままならない。このまま行くと飢え死にしかない。
それでも、辛い中でひたすら生きていくしかなかった。
そんな時に現れたのが、
成澤は、私達と出会うや否や、生活を気遣って援助を申し出ました。
そして実際に、私達がこれ以上苦しまないように、お金を寄越してきました。
本当に屈辱だった。
金持ちの貧乏人に対する施しが、どれほど我々を傷付けることになるのか、身をもって実感しました。
彼らは上から目線で憐れみ、同情し、そして見下している。そこに優越感さえ感じている。
私達を自身の自己陶酔ゲームの駒としか見做さず、一人前に人助けしたつもりになっている。
彼も、さぞかし心の中で私達を嘲嗤っていたことでしょう。
背に腹が変えられず、あんな偽善活動で悦に浸るおぞましい場に仕方なくのこのこ訪ねて行く私達を利用していたのです。
悔しかった。殺したいほど悔しかった。
本当に殺そうかとも思ったけど、私にそんな力も計画性もないので、代わりに私達が死んでやります。
人を馬鹿にしたことを一生後悔しろ。
お前の罪は何をしても贖えない。
私は、お前だけは絶対許さない。永遠に。
これが、私が奴にできる最大にして唯一の復讐です。
私から自尊心を奪い、再起の力を奪い、自立の可能性を奪ったあいつを地獄に堕としてやろう。
私達の死は、全て成澤吉仁のせいです。
どうかどうか、絶え間なく苦しんでほしい。
私たちにした重罪の裁きを受けてほしい。
それが、命を賭けてでも成し遂げたい私の最後の願いです。
二月十一日
相田奈々美・亮
※
読んでいる間もずっと、二人はそこにいた。
吉仁が顔を上げると、目の前には何十人ものぼやけた影が立ち並び、赤い波を揺らめかせながら対峙していた。
吉仁は、彼ら全てに見覚えがあった。
借金の保証人に逃げられて自己破産した際に、無利子で金を貸した
凍死寸前になっているところを病院に運び、その後の面倒も見たホームレスの
振り込め詐欺に遭って全財産失ったところを相談に乗り、無期限で融資した
家庭環境が複雑で、奨学金制度にも漏れてしまったために学費を肩代わりした
父親のDVから逃れ、家出をしてあてもなく放浪していたのを一定期間社員用のアパートに匿った
痴漢の冤罪で仕事をクビになり、家族にも出て行かれたと聞いて正社員として雇った
社内の不祥事が株価の暴落につながり、倒産寸前の会社を言い値の倍で買い取った時の社長、
筋ジストロフィーだと知り、治療費が払えない両親に代わって費用を負担して延命が叶った
全員、吉仁が助けて、そして命を絶った人々だった。
吉仁に生きる希望と自立の可能性を奪われた人々だ。
と言っても、その半数以上、吉仁は死んだことすら知らなかった。援助や施しをして、持ち直したところまでしか見ていなかったからだ。だが、彼らがみんな既にこの世ならざる者であることは一瞬で理解できた。
頭の中に怨念のこもった呪詛が入り込んでくる。
お前のせいだ。
あんたがあんなことさえしなけりゃ。
人を死に追いやっといて。
この人殺し。
惨めな人を見て楽しいですか?
貴様だけは許せない。
なんでそんなことしたの?
ふざけるな。
わたしってそんなに惨め?
君には絶望させられたよ。
悦に浸ってるのか?偽善者め。
なんで生きてるの?
なんで生きてるの?
なんで生きてるの?
彼らの声なき声は、一丸の不協和音となって吉仁の頭蓋に溢れた。
けたたましい頭痛がする。今にも割れそうだ。
そうか。それが彼らの真意なのだな。
良かれと思って、ただ彼らの幸せを願って起こした行動が、彼らの自信を奪い、自尊心を傷つける真逆の作用を齎したのだ。
人は余裕がなくなると、物事を歪ませて捉え、助けの手に対して憎しみの情さえ抱くのである。
人間の存在状態があまりにかけ離れていると、価値観や人生観をコモン・センスのうちにすり合わせることは不可能となる。
彼らにとっての真実は、鏡反転のように他人のそれと対照的なものとなる。真実が主観である限り。
ありがた迷惑だとか、余計なお世話などといったレベルではない。吉仁は図らずも、不幸な人々に"とどめを刺した"張本人だったのである。
だとして、どうすればよかったのか?吉仁には見当がつかなかった。彼の目的は、施しをして自己満足を得ることではない。あくまでみんなが幸せになることだった。何もせず見過ごすことがそこに繋がるとは思えない。かと言って、彼自身の行動の結果は幸せどころか彼らを不幸のどん底まで突き落とし、死にまで追いやったのだ。
僕は、間違っていた。少なくとも現状を見れば、確実なのはそれだけだった。
「わかった。」
吉仁は静かに目を閉じると、全てを委ねるように両腕を広げた。
眼前の怨霊たちは、彼に向かって赫紅の魔の手を伸ばしていった。
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