大団円
蘭児たちは董陽へたどり着いた。
都へ入るのはおよそ十年ぶりである。南部では大規模な戦があったが、大都は西夷氏の造反と珂家の降伏で無血開城され、略奪や破壊をまぬがれた。しばらくは戒厳令が出ていたが解除され、今は落ち着きを取り戻していた。往来は大勢の人間が闊歩していた。
白は初めて見る都の賑わいに目を丸くし、しきりにはしゃいだ。蘭児は初めて都へ来た時のことを思い出した。あの時は、丁になるために雷に連れてこられたのだった。不安でいっぱいだったが、今はそうではない。蘭児の胸は期待に高鳴った。
壇弓の馬車は、宮城にほど近い西の区画へ入った。通りには大勢の兵士がたむろしている。
壇弓を見ると、彼らはいっせいに道を開けた。
あちこちに雌雄同体の鳳凰を描いた赤い旗がなびいている。「官軍だ。廃嫡殿下の軍だ」と白は嬉しそうに叫んだ。南黎の高氏をあらわす黒鳥を描いた旗も見えた。
一行は軍が接収したらしき壮麗な屋敷に入った。ここにも警護の兵がひしめいていた。蘭児と白は、入り口でいったん雷たちと別れた。
壇弓が先に立って奥へ案内する。蘭児は白の手を引いて後をついていった。小門をくぐり、長い回廊を抜けた先の部屋の前で、壇弓は立ち止まった。
「中へどうぞ。殿下がお待ちです」
蘭児は戸を開けて、白と共に中に滑り込んだ。
部屋は薄暗かった。
蘭児は辺りを見渡し、奥に人影を認めた。中央には書籍が積まれた机があった。机の端には白檀の杖が立てかけられている。その前の安楽椅子にかの人はゆったりと腰かけていた。正鵠だった。
「殿下」
彼を見た瞬間、蘭児は言葉では言いあらわせない感激を覚えた。正鵠も蘭児を見た。十年前と何も変わらない面貌にうっすらと笑みを浮かべた。
「殿下……」
蘭児は再び呼んだ。感無量だった。
不意に声がした。
「蘭児」
少ししゃがれてはいるが、はっきりと発音されている。
部屋には正鵠の他には誰もいない。彼は声を出して蘭児を呼んだ。蘭児は彼の口から初めて自分の名を聞いた。
「殿下、お声が……」
蘭児は感動のあまり、両手で口を覆った。信じられなかった。
円華宮にいた頃、彼とは指文字と読唇と筆談で会話をした。この三つでも意思疎通はできたし、正鵠を愛するようになってからは、日常の些細なやりとりにも幸福を見出だした。日々生活するだけなら、声が出せなくてもさして問題はなかった。
しかし、政治の表舞台に復帰するならそうはいかない。
正鵠は血が滲むような努力をして、声を取り戻したに違いなかった。
「ああ」
と正鵠は頷いた。
「今は声を出して話せるようになった。都を出て以来、各地で名医を訪ね歩き、治療と発声の訓練を根気よく続けた。特に鍼灸の治療が効いたようだ。……とはいっても、連続して話せるのは一刻程度が限界だ。以降は声が枯れて出なくなる。喉を休めなくてはならん」
「それでも嬉しいです。殿下と声でお話できるようになるなんて」
蘭児は両手の親指を交差させ、鳥の翼のような形を作ると胸に押し当て、ゆっくりと正鵠へ向けた。正鵠は左手の人差し指で椅子の手すりを一回打った。
指文字を知らない白は、正鵠と蘭児を交互に見、ぽかんとしている。殿下と姉がただならぬ関係であることはなんとなくわかるが、完全に置いてきぼりだった。
蘭児は白を前に出した。話したいことは山ほどあったが、胸がいっぱいでうまく言葉が出てこない。
「殿下、これは私が村に帰ったあとに生まれた弟です」
正鵠は白に視線を向けた。部屋に入って来た時から、この子のことはわかっていた。
「そうか、育てるのは大変だったろう」
蘭児はうっすらと含羞んだ。
「そうでもありません。父母もいましたし、雷も助けてくれました」
蘭児は白に挨拶を促した。白は緊張で身を固くしながら、なんとか口を開いた。
「陛下、戦の勝利と都へのご帰還おめでとうございます」
正鵠は苦笑した。
「私は皇帝ではない」
「でもみんなそう言っています。殿下が即位されて、皇帝陛下にお成りになるって」
白の目は期待で輝いている。正鵠は尋ねた。
「名はなんという?」
「白菜豆。みんな面倒くさがって白って呼びます」
白ははきはきと答えた。正鵠の柔和な目が細められた。
「よい名だ。私も白菜豆は好きだ」
白の頬はパッと紅潮した。殿下は野菜の豆のことを言っている。それでも自分を好きだと言ってくれたようで嬉しかった。思わず変な質問が口をついた。
「白菜豆以外はどんな食べ物が好きですか」
正鵠は少し考えてから言った。
「あひるだな。焼いたのも煮たのも好きだ」
白は蘭児に振り返って無邪気に言った。
「姉……じゃなかった、兄ちゃんは知ってた? 殿下が好きな食べ物」
「もちろん」
蘭児は即答した。御膳番が主の好物を失念するわけがない。
正鵠が尋ねた。
「白、腹が空いたのか」
「はい」
白は照れながらも、素直に頷いた。
「では厨房で何か食べるといい。ここには御膳房出身の一流の料理人しかいない。なんでも作ってくれる」
白は喜んで部屋を出た。外に控えていた壇弓が、白を離れの方へ連れていった。
白の姿が見えなくなると、正鵠は優雅な手つきで蘭児を手招きした。
「おいで」
優しい声だった。蘭児は炎に引き寄せられる羽虫のように、ふらふらと正鵠に近づいた。これは夢ではないかと思う。夢ならばどうか一生醒めないで欲しい。
正鵠の前まで行くと、するりと手が伸びてきた。蘭児はいざなわれるままに、ひしとしがみついた。正鵠も蘭児をかき抱いた。二人はお互いを抱きしめた。
正鵠の高い体温を感じ、蘭児は大きく息を吐いた。
「殿下、お会いしたかったです。本当に……」
「私もだ」
二人は至近距離で見つめ合った。近くで見ても正鵠は驚くほどに若々しかった。円華宮にいたときと何も変わらないように見える。蘭児は自分だけが年をとったような気さえした。
「まったくお変わりなくて驚きました。殿下と出会った頃で時が止まったようです」
「隆善たちにも同じことを言われた。神経毒で半身が麻痺してしまったが、案外これには老化を止める作用でもあるのかもしれんな」
では隆善たちも生きていて、ここに呼ばれたのだろうか。蘭児は嬉しくなった。円華宮で出会った仲間たちが、再び正鵠のもとに集い始めている。
正鵠も十年ぶりに見る蘭児の、素朴で清らな美しさに驚いていた。閉鎖された宮にいた頃は凰琳に似ていることに気をとられたが、外に出た今はわかる。
蘭児は、市井においても男たちの目を引き、魅了してやまない美しい女だった。幼さがとれてもどこか初々しいものを感じさせる面貌に、水が滴るようななまめかしさが乗っている。清廉でありながら、そこはかとない色香が漂う。凰琳にはなかったものだ。
まったく、これを見つけた李子鳴は慧眼の持ち主としかいえない。瑞々しいつぼみを開いたのは正鵠であるが、彼は今更ながらに従兄弟であり義兄でもあった男の見る目に感心した。もう離れたくない、自分の凰はこれだけでいいと思った。密かな焦燥感に駆られながら、柔らかな頬に触れた。
「お前が阿蘭村にいることは知っていた。四年ほど前になるか。南黎に移って落ち着いたときに、お前を呼び寄せようと思った。壇弓を東部にやって調べさせたら、お前に弟がいることがわかった。随分悩んだが……その時は会うことを断念した。私のかつての妃、崔妃の父は伯父の高一徳だ。南黎の実質的な支配者でもある。もしお前と弟の存在を知られたら……お前たちは殺されると思った」
正鵠は悲しそうな目をした。
「私が住まう世界はそういうところだ。今も昔も」
蘭児は正鵠の胸に顔をうずめた。この十年、彼のことを思わない日は一日もなかった。逢いたかった。常に傍に侍って、御膳番として彼を守りたかった。もし身代わりで死んだとしても、彼の命が助かるならそれでよかった。
都を脱出して以来、廃嫡殿下は「開都にいる」「北部へ行った」「南黎にいる」など、さまざまな噂や憶測が流れ、阿蘭村にも伝わってきた。
彼が生きていることは確かだったし、行けるものなら這ってでも行きたかったが、正確な居場所はわからなかった。正鵠は治療と刺客の手を逃れるため、各地を転々としていた。もし見つけ出せたとしても、行けば彼の重荷にしかならなかっただろう。それは蘭児の本意ではなかった。だからぐっと堪えて阿蘭村にとどまった。
正鵠は蘭児の耳元に顔を寄せて囁いた。
「迎えに行くのが遅くなってすまなかった」
「いいえ……ずっと信じていました。生きている限り、また殿下にお会いできると」
蘭児は確信した。この人は、あえて距離を置くことで自分と幼い白を守ってくれた。ここ数年、壇弓が定期的に阿蘭村へやってきたのは、自分たちの様子を伺うためでもあったのだ。やっと都へ入り、安全圏を確保できたから呼び寄せたのだと。
蘭児は安堵のため息をついた。ここはもう大丈夫だろう。この屋敷が仮住まいなのか本宅なのかはわからないが、正鵠が生活する場所であるのは間違いない。まだ来て日が浅いなら、邸内に仕事は山のようにあるだろう。
それならばと、蘭児はお願いした。
「殿下、私をここで働かせてください。私は殿下の御膳番としてお傍にいたいです」
「当然だ」
正鵠は不思議そうな顔をし、何の躊躇もなく言った。
「初めて契った日、お前は私にすべてを投げ打つと言った。ならばお前は死ぬまで私の御膳番だ。白と共にずっとここにいればいい。私も一緒に食事がしたいし、閨ではお前に無体を働きたい」
蘭児は息が止まった。顔が発火したように熱くなり、真っ赤になるのがわかった。自分ばかりが淫らな想像に浸り、彼を求めていたわけではなかった。やっぱりあの時もそういうことを言っていたのだとわかると、嬉しいやら恥ずかしいやらで頭が爆発しそうになった。
さらに正鵠は大真面目に言った。
「この十年、お前を夢の淵で何度抱いたことか。ようやく逢えたのだ。とてもじゃないが今夜は寝かせてやれそうにない。昼寝でもして備えてくれ」
「……」
もう勘弁してくれと蘭児は思った。
女みたいな顔をしていても、正鵠はどこまでも男だった。それも無意識なのか、とんでもない女殺しだ。円華宮にいた頃も薄々気づいていたが、こんなことを言われ続けては死ぬ。いい加減死んでしまう。
……違う、死んでいる場合ではない。蘭児はこれから起こりうる恐ろしい可能性を思って戦慄した。だめだ。絶対にだめだ。ここは男しかいない円華宮ではない。正鵠は政敵に勝利して自由の身となった。これからはどこでも好きなところへ出かけられるし、会いたい人間に会える。
少しでも油断したら、この人はあっという間に他の女にかっさらわれてしまう。かつて自分がそうしたように、女たちに拝み倒されたら慈悲を与えてしまうだろう。そんなことは、絶対にさせてなるものか。
「どうした?」
正鵠は耳まで真っ赤にした蘭児を面白そうに眺めている。蘭児は悶々としながらも、あの時と同じ答えを返した。
「……私もです、殿下。殿下に、思いつく限りの無礼を働きたいです」
蘭児は早速無礼を働いた。正鵠の唇に、自分のそれを重ねた。彼は蘭児のものだった。蘭児は誓った。もう絶対にこの人を離さない。けして誰にも渡さない……。
正鵠もすぐに応えた。二人は湿った音をたてながら、お互いの唇を遠慮なく貪りあった。蘭児はこの上なく幸福だった。もう死んでもいいと思った。
……いや、死ねない。とてもじゃないが、死んでなどいられない。なにせ十年も離れていたのだ。今から十年分の想いの丈を伝えなくてはいけない。十年分を愛さなくてはならない。
ひととおり貪ってから唇を離すと、正鵠は言った。
「ところで、お前は今も男のなりをしているのだな」
はい、と蘭児は頷き、決意を込めて言った。
「殿下、私はこのまま男として生きるつもりです。男のなりの方が動きやすし、働きやすいので好きなのです。女であるというだけで襲ってくる輩もいますし。私は殿下以外の男とどうにかなる気はありませんから」
蘭児は貞女でいたかった。それに、と彼女は切なげに睫毛を震わせた。
「私が女のなりをしたら、殿下は亡くなったお妃さまのことを思い出してしまうでしょう。人としては当然ですが、私はそれがたまらなく苦しくて辛いのです」
「……」
そこでようやく、正鵠はこれが存外嫉妬深かったことを思い出した。
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