果てなき孤独




 



 ものごころがついた時から、正鵠は毎日大勢の人間に囲まれていた。賑やかに囲まれてはいたが、彼はいつも一人ぼっちだった。

 住居は生まれた日から、宮城の東にある香宮だった。

 彼一人のために広大な香宮と多数の従僕が用意された。軍属の中でも精鋭の百名からなる護衛官が、昼夜問わず彼の身辺を守った。

 三人の乳母と従僕たちが正鵠の世話をした。乳離れすると御膳番がついて、彼の口に入るものすべてを毒見した。お腹が空いても喉が渇いても、毒見を経なくては何も口にできなかった。

 毎日医師の診察を受け、少しでも異変があると上へ下への大騒ぎになった。正鵠の体調などの詳細は、すべて父である皇帝に報告されていた。

 香宮に同年代の子供は一人もいなかった。大人たちが彼の遊び相手になった。正鵠は乳母や従僕たちに懐いたが、彼らは半年ごとに総入れ替えとなった。幼い皇太子を手なずけて取り入る者が出ることを防ぐためだった。

 新しい者が来て毎日世話され、ようやく慣れて親しみ始めた頃にまた替わる、この繰り返しだった。正鵠は落ち着かなかった。頻繁に人が来ては去ってゆくため、誰とも良好な人間関係を築けなかった。

 週に一度、後宮にいる母の鄭皇后に会いに行った。生母であるにも関わらず、鄭皇后はいつも正鵠から一定の距離を置き、他人行儀にお決まりの挨拶だけを述べた。

 息子は皇帝への捧げものであって、世継ぎを産んだ瞬間に彼女の役目は終わっていた。ただでさえ酷薄な夫の「正鵠をけして甘やかしてはいけない」という厳命を忠実に守っていた。息子に無用な接触をして、夫の怒りを買うことを恐れた。正鵠は母親に抱きしめられた記憶すらない。

 父の皇帝にも会った。父はよく香宮へ様子を見にやってきたが、その眼差しは冷たかった。息子に言葉をかけることはなかった。身体的接触もしなかった。正鵠を前にして、周囲の者たちに厳しく下問した。「これはいつになったら朕の役に立つのか」と言った。

 医師たちは必死に正鵠の生育状況を説明した。ひれ伏した乳母の肩は微細に震えていた。彼らはいつも恐怖で委縮していた。皇帝の不興を買ったり、皇太子へ粗相があったりすれば、自分のみならず一族郎党に塁が及ぶ。正鵠も父が怖かった。怯えながら乳母にしがみついていた。


 正鵠には子供時代というものがなかった。子供として扱われることもなかった。皇帝となる者は、常人であってはならなかった。

 四歳から学問が始まった。通常は六歳からだが、父の命令で二年前倒しになった。皇太子の教育のために、燕老師ら五人の著名な学者が集められた。燕老師は皇太子専属の学問の師、学監に任命された。

 夜明けと共に起き、上七ツ刻から授業が始まる生活となった。手習いを始めとして四書五経や詩文を習った。計算や測量、経済学、農学、工学、軍事などの実学も学んだ。

 燕学監は毎日同席したが、講師は日によって変わった。政務官や技官、医務官、薬事官などの専門家が呼ばれて講義を行うこともあった。豆腐のような柔らかい頭に、多種多様な知識を詰め込まれた。否応なく、また選り好みすることも許されなかった。

 燕学監はことあるごとに言った。

「皇帝とは天に選ばれし至高の存在。万物を知り、万民を愛し、万世ばんせいの国の繁栄を創出すべく努めなくてはなりません。香宮は皇帝になる者だけが住まうことの許される御殿であり、香宮殿下は皇帝になるべくしてお生まれになったのです。殿下が進むべき道はただ一つです。官民よりも学を極め、学を生業なりわいとする者たちをも導く存在とならなければなりません。日々皇帝の資質を磨き、研鑽を惜しまぬならば、必ずや天頂から神獣の王たる鳳凰が舞い降り、聖天子の祝福と加護を授けることでしょう」

 正鵠は師の言葉を信じた。皇帝の子に生まれ、皇太子となったのは己の宿命であり天命である。万民を愛し、導き、鳳凰に認められる聖天子にならなくてはいけないと思った。

 午後になると師は下がり、父の異母弟で叔父の黎偲狼れいしろう教範が迎えに来た。軍属たちが集う教練場に連れていかれ、乗馬や武道などで身体を鍛えた。

 馬に乗れるようになると都の郊外に出て戦闘を模した軍事訓練も始めた。川や湖にも連れていかれ水泳を覚えた。父は皇太子たるものは、まずは人一倍強健であり、武術の素養がなくてはならないと考えていた。軍属にも正鵠をしっかり鍛えるよう厳命していた。

 日が暮れると鍛錬を終え、宮城へ戻った。万陽宮へ行くと、大抵は深夜まで執務室の父の傍にいた。父の傍で政務を覚えるということだったが、当初は何をすればいいのかわからなかった。ぼうっと突っ立っていると叱責される。働かなくてはならないようで、掃除や書類の整理などをした。尚書官たちがしている雑務も、見様見真似で始めた。父が叱責すれば止め、されなければ続けた。とにかく怒られないように手探りで立ち動いた。

 執務室には入れ替わり立ち替わり官がやってくるが、右往左往する正鵠に同情的な視線を向けるだけで助けてはくれなかった。彼らはうっかり皇太子に構って、皇帝の逆鱗に触れることを恐れた。正鵠は極度の緊張感に包まれながら、実地で仕事を覚えるしかなかった。弱音を吐くことは許されなかった。許されたところで、吐き出せる相手もいなかった。

 へとへとになり、日が替わる頃にようやく香宮に戻ることを許された。倒れるように寝所に入って泥のように眠り、また夜明けと共に起こされる。毎日がこの繰り返しだった。休日はなかったが、雨風雪などの破天の日は鍛錬が中止になることがあった。そうなると午後は自由時間になったので、ひたすらに寝て過ごした。正鵠の小さな身体は疲れきっていた。

 七歳になると、御前会議にも同席するようになった。父の座る玉座の一段下に椅子が置かれて座らされた。発言権はなかったが、最初から最後まで難しい会議を聞いていなくてはならない。会議が終わると書記官たちが残され、父の厳しい下問が始まる。会議がどういう議題で進行し、誰が発言してどういう結論になったのかを順序立てて説明しなくてはならなかった。書記官が議事録と照らし合わせながら内容を確認してゆく。うまく説明できなかったり、間違えたりすると父から容赦ない叱責が飛んだ。

 あまりにも辛くて泣いてしまったりすると、父は「お前は女か。これしきのことで泣くような軟弱者はいらぬ。弱き者は黎氏にあらず。恥を知れ」と言った。今度は燕学監ら教師たちが呼び出されて叱責された。

 正鵠は自分が不出来な場合、他の者が罰を受けることを知った。師や従僕たちが罰せられないよう、学業にも政務にも必死に取り組むしかなかった。


 食事はいつも一人だった。

 味覚というものが育ってくると、正鵠は御膳房が供する食事は大変に美味であることに気がついた。狩りでしとめた獣肉や、歯が折れそうなほど固い干し肉や炒っただけの豆が中心の軍の糧食も食べたが、御膳房の味とは雲泥の差だった。

 大黎の御膳房は、かつては粉食や羊、乳製品、乾物、東との交易で手に入る茶が中心だった。中国東部のや蜀の都・成都から戦乱を避けたり招聘しょうへいされたりで料理人たちが移住してくると、一気に多様性に富んだものになった。

 交易路や交通網が発達するにつれて、東西南北の様々な地域の食材が入ってくるようになり、米、野菜、果物、魚介類などの種類や内容が豊かになった。さらに美食家だった光憲帝の時代に切磋琢磨して発展し、宋の宮廷料理と変わらない水準の御膳を提供するようになった。

 正鵠は華餐や間食を食べるたびに、これは誰かと共に楽しみたいと思った。うまいうまいと言い合いながら食べたかった。いくらおいしくても、一人で食べるのはつまらないし味気なかった。

 ある日、甘辛く煮つけたあひるの肉と炙った薄切りの葱をたっぷり挟んだ肉包が出た。これが大層うまかったので、正鵠は他の者にも食べさせたくなった。

 傍らに控えた御膳番たちに皿を差し出して、

「これはうまいぞ。そなたたちも食すがよい」

 と勧めた。御膳番は、毒見で必ず正鵠と同じものを食べる。だから彼らは食べてもいいだろうと思ったのである。

 御膳番たちは正鵠の申し出に困惑した。どう答えればいいのかわからず黙って俯いてしまった。肉包を受け取ることも食べることもなかった。正鵠はがっかりした。

 翌日、御膳番たちの顔触れは一新され、別の者に替わっていた。

 正鵠が驚いて尋ねると、香宮官で側近の元思駕は

「あの者たちは、殿下の御膳を物欲しげに見た罪でお役御免となりました」

 と言った。彼らの誰も物欲しげになど見てはいなかった。

 正鵠は自分が余計なことを言ったせいで、御膳番たちが罷免されたことを知った。それからは何も言わず黙々と食べるようになったが、心の内では寂しく思っていた。


 周囲に同年代の者はおらず、誰かと打ち解けて遊んだこともなかった。友と呼べる者もいない。

 詩を読めば、杜甫とほ李白りはく白居易はくきょいもみな遠方にいる友のことを案じている。友と再会を願い、再会すれば酒を酌み交わしてまた詩作に励んでいる。自分は皇太子で、いかなる望みもかなうはずなのに、友人や仲間や同志は一人としていない。これからも持てないのだろうと思うと悲しかった。

 友が持てないなら、せめてきょうだいと話したり遊んだりしたいと思った。

 父の妃嬪たちは、毎年誰かしら子を産んでいた。正鵠は幼い弟妹たちが成長して一緒に遊べるようになるのを待った。

 後宮にいるきょうだいたちは、みないつの間にか姿を消した。誰一人として育たず、公や公主に叙されなかった。身体や精神に瑕疵があって間引かれたわけではなかった。

 父は奴を解放し、各地の夷狄を退けて国土を防衛し、内政にも力を入れていた。名君と言ってよかった。

 しかし、よい施政者が必ずしもよい家庭人であるとは限らなかった。父が家庭を一切顧みないために、後宮は女たちの怨嗟と嫉妬の坩堝と化していた。本来統括すべき鄭皇后は深い失望から宗教へ傾倒してしまい、息子も含めて俗世の事象から目を背け続けた。現世の幸福よりも来世での救いを求めた。

 香宮に隔離され、護衛官や従僕や御膳番に守られていた正鵠と違い、幼い弟妹たちは守られなかった。正鵠はきょうだいと慣れ親しむこともかなわなかった。


 同じ頃、正鵠は大公の子である子鳴と逸琳の兄妹を知った。

 輿に乗って移動していた時に、この二人を見かけた。

 二人は手を繋いで朝の散歩をしていた。兄妹の後を兵士や女官がついて歩いていた。すでに大公共々蟄居幽閉の身の上だったが、住居周辺の散歩だけは許されていた。

 子鳴は正鵠の行列に気がつくと顔を強張らせ、妹を庇うような仕草を見せた。正鵠はなぜ子鳴が警戒するのかわからなかった。兄妹というが、歳の差があるようには見えなかった。従僕に聞くと二人は同年で、いつも一緒にいるという。

 正鵠は二人と仲良くしたいと思った。従兄妹であるし、歳も近い。香宮で話をしたり、菓子を食べたりするくらいはいいだろうと思った。

 元思駕に二人を呼ぶように言った。思駕は少し逡巡してから言った。

「大公さまの御子たちと関わってはなりません。子供であっても殿下に仇なす恐れがございます。皇帝陛下もお許しにはなりません」

 正鵠はがっかりした。父の意向は絶対である。皇帝が許さないのであればどうにもならない。

 その頃の皇帝は、大公の謀反のこともあって非常に神経を尖らせていた。実兄に裏切られたのである。黎氏であっても信用できず、猜疑心を深めていた。他の公たちも息子や娘を正鵠に会わせたがっていたが、用心を重ねて許さなかった。

 その後も正鵠は、たびたび宮城内で子鳴と逸琳を見かけた。二人は大抵手をつないで散歩しているか、庭園で仲睦まじく遊んでいた。正鵠は子鳴が羨ましかった。子鳴には、正鵠が欲しくても得られないきょうだいがいた。


 学業は優秀で、武道もよく出来た。

 剣術、槍術、弓術、体術、馬術など武術はひととおりやらされたが、正鵠は特に弓術に優れていた。

 目がとてもよく、一丁(約百九メートル)先の的も正確に打ち抜くことができた。騎射も得意で、馬で駆けながら兎や野鼠などの小動物をしとめた。狩りでも軍事訓練でも木製の軽い複合弓を愛用した。

 いつも弓と矢筒を背負って、馬で駆けに駆けた。疾走するたびに、このままどこか遠くへ行ってしまいたい衝動に駆られたが、冷静に周囲を見渡せば、どんなに早駆けしても護衛や軍属たちがぴったりとついてきている。子供の足ではどこへも行けなかった。

 偲狼教範を始めとして、軍属の公たちは正鵠の馬術や弓の腕前を褒め称えた。黎氏の男としては十二分の出来栄えであり、体力の向上や武技の上達は指導した者の手柄でもあった。公たちは喜々として、正鵠の才能や成長を報告した。父も教範らに褒美を与えた。

 父とは毎日短くない時間を過ごしたが、何年経っても親子の交流は皆無だった。厳しい教育的指導と政に関すること以外の会話はなく、あとは無味乾燥の冷ややかな空気と沈黙が二人を隔てるばかりだった。

 父が正鵠に求めるのは政の役に立つことと、後継として期待に応えることだけだった。二人の関係はあくまでも皇帝とその部下だった。

 正鵠は思った。端から親子の情愛は介在しないのである。もし期待に背けば、父は自分を容赦なく廃嫡するだろう。廃嫡後は賜死の恩寵を与えるか追放する。また皇太子となる男子をもうけて教育するだけだろうと。


 十歳を過ぎると、正鵠は公務や行事で都の外や地方へ出るようになった。

 夏になると、恒例行事として地方から公や公子たちがやってきて大規模な狩りが行われた。黎氏の男たちが一堂に会し、十数日をかけて各地を移動する。馬に乗って山野を駆け、しとめた獲物の数を競いあった。夜は野営した。

 皇帝は参加しないので、皇太子である正鵠が主賓しゅひんだった。

 いつも叔父や従兄弟たちから丁重な挨拶を受けた。子鳴の姿は一度も見かけなかった。夜になると無礼講となり、あちこちで酒盛りが始まった。近隣の女たちや芸人、歌い手や踊り子も呼ばれて盛り上がった。

 正鵠が楽しげな酒盛りや宴に参加することはなかった。人の輪に入りたくても入れなかった。共食は禁じられており、皇太子に失礼や粗相があってはいけないとされた。

 親族に囲まれていても距離を置かれてしまう。孤立したいわけではないのに、結果として孤立してしまう。我儘を言っても周囲を困らせるだけである。外の歓声や歌声に惹かれながらも、天幕で静かに過ごすほかなかった。

 公子らはかなり自由にやっていた。東遼公の息子たちは人目があるところではしきたりを守ったが、ないところでは革袋に入った牛だか羊だかの酪漿らくしょう(乳汁)を回し飲みしたり、同じ肉や果実を齧り合ったりしていた。正鵠は兄弟で豪快に飲食し、屈託なく談笑する彼らが羨ましかった。

 都でも地方でも、民衆は暖かくなると家の外に卓や椅子を出して飲み食いをする。家族や親戚、仕事や趣味の仲間と集まって食べたり、近所の者たちと料理を持ち寄ったりして賑やかに過ごしていた。

 食べているものといえば麦の饅頭や漬物、具があるかなきかの汁という粗末なものだったが、正鵠の目にはどれもうまそうに映った。粗末な食事でも、誰かと食べればうまいのではなかろうかと思った。好きな相手と好きに食事ができる庶民が羨ましかった。共食や団欒は正鵠にとって憧れだった。

 視察で町や村を回れば、どこでも大歓迎をうけた。

 民衆は皇太子の姿を見て歓喜した。文武両道で容姿端麗、性格も温和な正鵠は賞賛しかされなかった。何を言っても何をしても全肯定された。厳しいことを言うのは父だけで、その父も官民の模範となる正鵠の出来には満足し、あまり口うるさく言わなくなった。

 正鵠は阿諛追従には慣れていた。

 みなの言うことが、必ずしも本心でないこともわかっていた。誰も自分に本当の心を明かさない。けして本音で向き合ってはくれないが、そのことを悲観しても仕方がないし、指摘するのも野暮である。

 真に受けず、突き放しもしないで鷹揚に受け流すのが皇太子のあるべき姿だと考えた。割り切ってはいたが、時々無性に寂しくなった。

 誰かと触れ合いたくてもままならない、絶対零度の孤独を感じた。自分は皇太子、そして皇帝という絶対的な権力を振るえるかわりに、一生一人ぼっちなのだろうと思った。


 母の鄭皇后が亡くなると、珂栖遠が立后し、正鵠の継母となった。栖遠は母というより、姉のような若さだった。

 栖遠の元へ初めて挨拶に行った時のことである。

 栖遠は挨拶が終わると、正鵠に茶と菓子を出した。成さぬ仲とはいえ、母子の縁を結んだのである。母親が子に菓子などのおいしいものを食べさせるのは当然だと考えていた。

 正鵠は出てきたものを見て固まってしまった。

 飲食のもてなしを受けるのは初めてで、どうすればいいのかわからなかった。母であるからには断れないが……これは口をつけていいのか迷った。

 宦官が香宮へ御膳番を呼びに行こうとするのを栖遠は止めた。

 彼女は口元に微笑を浮かべて言った。

「殿下はこの国の後継たる大事なお身体。何かあっては陛下に申し訳が立ちません。今は私が殿下の御膳番となりましょう」

 栖遠は正鵠の前で茶を飲み、菓子を食べてみせた。敵意も害意もなかった。それを見て正鵠も安心した。初めて御膳番を通さずに飲食をした。菓子は食べ慣れた味なのに、なぜかとてもおいしく感じられた。

 正鵠がことのほか食べるのを見て、栖遠は目を細めた。宦官に揚げ餅や果物、乾物などを次々と持ってこさせた。新しい皿も栖遠が毒見してから出した。正鵠はそれらもよく食べた。食べながら二人は少しずつ話をした。

 これが父の最愛の妃か……と正鵠は思った。

 胸にじわじわと温かなものがこみ上げてきた。初めて親子としての交流がかなった。栖遠は正鵠が実母や実父から得られなかったものを、ごく自然に当たり前のように与えてくれた。

 栖遠はその場を照らすような絢爛な美貌の持ち主ながら、内面はしっかりとして芯が強く、いかなることにも自分の意見を持っていた。誰にも媚を売ることなく生きていた。

 皇帝である父には一切逆らわず従順だったが、阿諛追従というよりは信頼と尊敬から来るものであるように感じられた。

 父も栖遠は大のお気に入りであるようだった。誰に対しても冷淡で酷薄な父が、栖遠にだけは幾分柔らかな空気を醸し出す。下問という形ではあるが、彼女に政の意見を求め、栖遠もそれに的確に答える。どこで学んだのか、栖遠には政の知識があった。

 美しくて賢い、それが栖遠だった。正鵠は思った。自分もいずれ何十人と妻を娶るだろうが、何人妻がいたとしても正妻は別格である。皇后は、継母のような賢くしっかりとした女人を選ばなくてはならないと。


 父の命令で成人年齢が二年前倒しになると、正鵠は結婚しなくてはならなくなった。急に結婚しろと言われても困ってしまったが、しきたりを破るわけにはいかない。

 燕学監らは、急いで正鵠に房中術の講義を行った。男女の交合の仕方を学び、懐胎に至るための真面目な学問だったが、正鵠は閨ではこんな面倒なことをしなくてはならないのかと思った。房事も務めなのだろうと割り切った。

 最初の妃は自由に選べるが、特に気になる女はいなかった。そもそも女人との接触自体があまりなかった。

 香宮にも女官はいたが、年頃の未婚の娘は外されていた。

 公たちも貴族も官僚もなんとかして娘を皇太子に近づけようと画策していたが、後宮を開くまで抜け駆けは厳禁とされており、香宮官らが接触を阻んでいた。

 選べるほど知った女はいない。かといって、誰でもいいわけではない。正鵠も、顔や名前を知らない相手と結婚するほど冒険心に富んではいなかった。見知った親族の娘から選ぶのが妥当だろうと考えた。

 正鵠は郷主たちを中心に検討し、元郷主の崔逸琳を第一の妃にすることにした。父と尚書官の安貴符が、逸琳について話しているのを偶然耳にした。彼女は降嫁先が決まらず、このままでは尼寺行きになるという。父はしきたり通りに処理するよう貴符に命じた。

 逸琳は謀反人の大公の娘で現在も軟禁下にあるとはいえ、子供の頃から顔は知っているし、仲良くしたいとも思っていた。他の郷主たちは自分でなくとも結婚できるだろうが、逸琳はそうではない。瑕疵がないのに出家させられるのは哀れである。ならば自分が娶って助けてあげようと思った。

 正鵠は逸琳に憐れみをかけた。皇族の生まれで宮中の複雑なしきたりもわかっているだろうし、三歳年上だからしっかりしているだろうと思った。香宮主官の元思駕に崔逸琳を第一の妃にしたい旨を伝えると、あとは順調にことが進んだ。

 実際に結婚して、名前も凰琳となった妃に接してみると彼女は正鵠が想像していたのとは違った性格の持ち主だった。素直で優しいのだが、繊細で傷つきやすく、何事も深く思いつめてしまうたちだった。彼女には誰かに依存して生きるのを是とする気質があった。これまでは父や兄を頼りにして心酔していたのが、夫に変わっただけのようにも感じられた。年上なのに、同年かそれよりも幼く見えた。

 正鵠は、当初はかなり戸惑った。継母の栖遠とはまるで真逆の女である。しっかりしているどころか、どうにも危なっかしくて、正鵠の方が気を使って疲れてしまう。

 とはいっても、か弱い女が男を頼りにするのは当然であるし、これまでの辛い境遇を考えれば何かと悲観的になってしまうのも無理はないと考えた。何より彼女を妃として所望したのは自分である。思っていた女と違うからといって放り出すわけにはいかない。責任を取らなくてはならないと思った。

 正鵠は凰琳を愛そうと努力した。実際毎日通って床を共にしていると、段々と情も移って愛おしくなった。いつ行っても、話し相手がいるというのもよかった。

 生まれてこの方、友人や気の置けない仲間は一人も得られなかったが、家庭を持ったことで正鵠の孤独は癒された。二人の蜜月が続いた。

 夫婦なのだから文字通り寝食を共にしたいと思い、こっそりと共食も始めた。凰琳は当初皇室典範で禁じられている共食に拒否反応を示し、皇帝や皇后から罰を受けるのではないかとひどく怯えた。けれども正鵠の強い希望を知ると、腹を括った。華餐も間食ということにして合わせてくれた。

 凰琳が子を身籠ったと知った時は嬉しかった。こんなに早くできるとは思わなかったが、息子でも娘でも我が子が生まれてくる日が待ち遠しかった。

 妻と子を得て正鵠は幸せだった。

 あの美しい秋晴れの日、毒を盛られたあの日まで、この幸せが永遠に続くような気がしていた。


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