4章 夜を駆ける
いてもたってもいられず、リズは手早く身支度をすませて部屋を飛び出した。一階の窓からこっそり外へ出て、ジョエルと合流するなり彼女は急き込んで尋ねた。
「本当? オズウェルのことを……」
「ああ。今、うちに来てもらってるんだ」
ジョエルが住み込みで働く《河岸の宿》は、《鳩の翼》亭と同じ通りに面している。歩いて十分もかからない。
月が見下ろす路地をリズはジョエルと走った。
「どういう人?」
「役人の家の下男だって。もしかしたら別人かもしれないけど、聞くだけ無駄じゃないと思ってさ」
ほどなく、《河岸の宿》の明かりが見えた。
煉瓦塀に囲まれた、この界隈で一番大きな宿泊施設である。塀の陰にうずくまる浮浪者をリズが気にしていると、ジョエルは物乞いだよ、と慣れた様子で言った。
従業員用のドアから中に入る。待合室は表の入り口から向かって右、リズたちからみて左側にあった。待合室といっても、受付と空間が区切られているわけではない。ぽつぽつと席を埋める顔を、リズは落ち着かない気持ちで見渡した。
「ギアッチさん。お待たせしました」
ジョエルが声をかけた相手は、ハンチング帽をかぶった男性だった。彼は帽子をとって会釈した。下がり眉で目の小さな風貌は、大人しそうな印象がある。リズと目が合うと、ギアッチ氏は慌てて目を伏せた。
「なにか飲みますか」
「いえ、お構いなく。あとは二人にしていただければ」
ジョエルは笑顔で応じた。
「じゃ、俺は仕事に戻るよ」去り際、彼は小声でリズに言った。「兄さんのこと、何かわかるといいな」
「ありがとう、ジョエル」
リズはギアッチ氏の向かいに座った。
善意からこの場を設けてくれたジョエルには悪いが、ギアッチ氏がさきほど一瞬目をそらしたときから、彼女はこの男を信用できないと思っていた。彼は帽子を胸に当てて、後ろめたそうにテーブルに目を落としていた。
「……はじめに、どうか謝らせて下さい」
「何に対して、でしょうか」
ギアッチは小動物を思わせる目をしぱしぱさせた。
「善良な若者を利用して、あなたをここにお呼びしたことを……です。主人の命令でした。やり通せると思っていました。あなたの……目を見るまでは」
昼間の出来事もあって、リズは心が凍てついていくのを感じた。《鳩の翼》亭を飛び出したときに抱いていた希望や期待は、早くも霧散していた。
「あなたの主人というのは、テナールですか?」
「いいえ」ギアッチ氏の驚いた顔に嘘はなかった。「旦那様は今、上の部屋でお嬢様をお待ちになっています」
「お会いします。……案内して下さい」
即断したのは逃げ切れないという現実的な事情からだったが、捨て鉢な気持ちもあった。兄の行方がわかるかもしれない、という期待が空振りに終わったことで、リズは自分でも戸惑うほど厭世的な気分に陥っていた。
上等客室のある三階は、各階のなかでも特に瀟洒な調度品がしつらえられていた。ギアッチ氏は三○七号室の前で足を止めた。彼がドアを二回ノックすると、中から「どうぞ」と男の声が答えた。
「では、わたしはこれで……隣の部屋におりますです、はい」
ギアッチ氏は頭を下げ、そそくさと隣の部屋に引っ込んだ。
リズは目の前の扉を見上げた。
溜息をついて、ドアノブに手をかける。
「失礼します」
三〇七号室は、上等客室の名に恥じない内装をしていた。広々とした空間を埋める家具類と暖色の照明が調和した室内は、幻想的ですらあった。床一面に敷かれた絨毯には、緻密な刺繍が縫い込まれている。翼を広げた大鷲、輝石を抱く鉤爪。大鷲はこの国を、ヨームを象徴する動物である。
窓際の差し向かいのソファに、男性が座っていた。
そばに控えていた少女が、軽い足取りでリズのほうへと近づいて来た。年の頃は十代半ば。ふわりとした栗色の巻き毛に、レースのドレスがよく似合っている。彼女は芝居がかった仕草で、ドレスの裾をつまみあげた。
「ミリアム=シュルツと申します。あそこにおります、リッツォーリの目付役でございます」
ミリアムはちらりとソファのほうを盗み見て、クスクスと忍び笑いした。リズの耳元に唇を寄せ、悪戯っぽくささやく。
「実はあれ、叔父ですの。らしくもなくコソコソするものだから、気になってついてきたんです。まさか密会の相手が、あなたのような方だとは想像もしませんでしたわ」
リッツォーリ氏は手元の本をぱたんと閉じた。
「ミリアム。席を外してくれないか」苛立ちを隠さぬ声だった。「私はこのお嬢さんと、大切な話があるのでね」
「あら、私がいたら困るのですか?」
「すこぶる邪魔だ」
「望むところですわ」ミリアムはリズの腕に抱きついた。「私、この子が気に入りました。叔父様が不調法を働かないよう見張らせていただきます」
ミリアムの強引さに呑まれて、リズは誘われるままソファに腰を下ろした。ここで彼女はようやく、リッツォーリ氏の顔をまともに見ることができた。
年齢は、四十代の半ばを過ぎたあたりだろうか。険しい皺が刻まれた眉間と、暗い眼光が、なんとも陰気である。しかし造りそのものは端正で、愛想良くしていれば美男で通る顔立ちだった。
リッツォーリ氏はリズの顔をしばらく黙って見つめた。
「……無関係の者を人捜しに使ったのは賢明ですが、名を出したのは軽率でしたな」
出し抜けにそう言われて、リズは居住まいを正した。
「リズ=ラッセルです。あなたが何者か、お聞きしてよろしいでしょうか」
「失礼。エリオ=リッツォーリと申します。コル・ファーガル先代城主の治世より、書記官の任に就いております」
ミリアムが紅茶を入れながら補足する。
「書記官というとややこしいけれど、要するに外交のお仕事をなさっているんです。リズ、お砂糖は二つで足りますか?」
「ありがとう。いただきます」
「叔父様は三つでしたっけ。それとも四つ?」
「ミリアム。せめて黙っていてくれ」
姪の出しゃばりに辟易してはいても、リッツォーリ氏の声には、身内に対する甘さがある。日常の延長のような二人のやりとりは、リズを丸め込むための演技ではなさそうだった。
「ご用件は何でしょう」
「もちろん、オズウェルのことです」
口をつけたティーカップを皿に戻して、彼は言った。
「酷なことを申し上げますが、あなたの兄……オズウェルのことは、死んだものと思って諦めていただきたい」
呆然とするリズの目を見つめて、彼は淡々と続けた。
「オズウェルの名は我々の禁句です。引き際を見誤れば、あなたが身を置いている食堂の者たちとてただではすみませぬぞ」
そう言われた瞬間、急所のわきを刺し貫かれたような衝撃に襲われて、リズは正気に返った。同時に彼女は激しい怒りを感じた。
「それは脅迫ですか」
「警告です」
リッツォーリ氏の瞳が憂いで陰る。
「あなたはお母上に似すぎている。ご自分の心配をなさるべきだ」
彼は若き日の母を知っているのだ。思い返せば、昼間に会ったテナール氏がまず確かめたことも、フィオナの娘であるか、ということだった。なぜ彼らがこうも『フィオナ』にこだわるのか、リズにはわからなかった。
そんなことよりも今は、オズウェルのことだ。
「私はオズウェルに会うためにコル・ファーガルへ来ました。それをあなたは、諦めろというのですか」
「立場を自覚なさい、リズ=ラッセル殿」リッツォーリ氏の声が叱責の響きを帯びる。「まだわかりませんか。あのジョエルとかいう若者が、いたずらにオズウェルの名を吹聴したことで……あなたの身に危機が迫っているということが」
「その点は、軽率だったと反省しています。ですが、リッツォーリさん。あなたにそれを咎められるいわれはありません」
リズは膝の上で拳を震わせる男を、正面から見据えた。
「あなたは何のために、ここへ来たのですか。オズウェルを捜す者の正体を見極めるためですか?」
「感傷ですよ」彼は自嘲と共に吐き捨てた。「それに、期待もありました。あなたはタイソン失脚の鍵となり得る」
タイソンとは、コル・ファーガルの現城主の名である。
リッツォーリ氏の発言を、リズは冷たい心持ちで聞いていた。
あなたは誰にも見つかってはいけない、という母の言葉が思い起こされる。あれは、このような考えを持つ者が現れることを予見した、一種の啓示だったのかもしれない。
彼女は席を立った。
「あなたのお話を、これ以上聞くことはできません」
そのまま立ち去ろうとしたリズの手を、ミリアムが柔らかく引き留めた。淡い薄紅色の爪が、室内の明かりを反射して光っている。
「どうかお待ちになって、リズ」
彼女は人懐っこい猫のように、リズに体を寄せた。
「私、いよいよあなたが気に入りましてよ」ミリアムはにこりと微笑んだ。「叔父様が失礼なことを言ってごめんなさい。でもね、悪い人ではないのよ。言葉が率直すぎてよく誤解されてしまうの」
リッツォーリ氏が皺の寄った眉間を押さえて瞑目する。
ミリアムは話の流れからリズの味方につくと決めたらしい。彼女は叔父の横から席を移して、リズの隣に腰掛けた。
「詳しいことはよくわかりませんけれど、リズはお兄様を捜したいのでしょう? それなら、私にいい考えがありましてよ」
「……どのような考えでしょう?」
「若様を頼ればいいのよ」
論外だ、というようにリッツォーリ氏が低くうなった。
聞く前は期待していなかったリズだが、ミリアムの自信満々な様子を見ているうちに興味を引かれた。
「確か、オズワルド……というのでしたね」
「若様はそれは出来たお方ですのよ。なんといっても、今年の〈親善大使〉に選ばれるくらいですもの」
オズワルド=ヴァン=コーウェン。彼が市民に慕われる徳の厚い人物であることは、リズもダレルから聞いていた。さらにミリアムが言うことには、オズワルドは完璧さの中にも人好きのする抜けたところがあって、何かにつけ権威を振りかざすタイソンよりも、よほど民衆から親しまれているというのだ。
「得体の知れない魔術師を側近にしていたり、ちょっと風変わりなところはありますけれど、それだって視点を変えて見れば度量の広さのあらわれというものですわ。若様なら、リズのお兄様を捜して下さると思うの。タイソンは本国に出向いて留守ですし、若様の決めたことに誰も反対なんてしないわ。ねっ、叔父様?」
「わかったふうなことを言うな」
「叔父様だって前に仰ったではありませんか」ミリアムは角砂糖をひとつ摘んで口に運んだ。「〈親善大使〉に選ばれなければ、若様は今年の誕生日で家督を相続していたはずだって」
この話に、リズは小さな引っかかりを覚えた。ミリアムの言っていることが事実なら、〈親善大使〉という名誉な役割も、オズワルドを国外に追いやる方便に思えてくる。
「オズワルドは、いつサナンに?」
「年明けには、と聞きましたわ。それから三年はあちらでお務めするのですって。そのあいだにタイソンが戦争なんて始めなければいいのですけれど。ただでさえ、本国は〈王の選定〉で……」
「ミリアム! 聞きかじりの知識を彼女に吹き込むな!」
厳しい叱責を浴びて、さすがのミリアムも口をつぐんだ。
リッツォーリ氏は深い溜息をつきながら、注ぎ足した紅茶に角砂糖を三つ落とした。
「今の話は忘れて下さい」
ミリアムが残した余韻を払うがごとく、彼は声を高くした。
「ともかく、あなたは一刻も早く、コル・ファーガルを発たれるべきだ。隠棲先の用意をします。ほとぼりが冷めるまで……」
そのとき、ノックと同時にギアッチ氏が部屋に飛び込んできた。
「旦那様。紋付きの車が一台、《河岸の宿》の前で止まりました。少ないながら手勢を連れているようで」
「数は」
「こちらと五分五分かと」
「一人たりともこの部屋に近づけるな」
リッツォーリ氏はギアッチにそう命じると、部屋の内側からドアの前に家具を寄せ、バリケードを作り始めた。
これは籠城の準備だ。紋付きの車に乗ってきた連中は、強攻策も辞さない相手ということである。リズは素早く行動した。カーテンを裂いてロープを作り、端をベッドの足に縛りつける。もう一方の端を手に窓から外の様子を窺うと、ちょうど闇の底で、二、三の黒い影が裏口から宿の中に入りこむところだった。
「何をしている!」
リッツォーリ氏の声と、ミリアムの悲鳴が重なった。
リズの手には、鞘から抜き放った短刀が握られてた。
「あなたに守られる義理はありません」
「そんなことを言っていられる状況ですか! その物騒なものをしまいなさい!」
彼女は短刀の切っ先をリッツォーリ氏に向けて威嚇しながら、後ろ手で窓を開いた。ロープを窓の外に垂らして桟に足をかける。
「……オズウェルが生きていることを教えて下さって、ありがとうございました。私にとってはもう兄だけが、たったひとりの家族なんです。死んだことになんて、できません」
リズは窓の外へ飛び降りた。ロープを命綱に、壁を蹴りつつ降下する。裏庭の芝生に無事着地して、彼女は裏門を駆け抜けていった。
三階からその様子を見ていたリッツォーリ氏は、呆然と呟いた。
「……なんという姫君だ」
深まった夜の底を、リズは駆けた。
白い息をちぎりながら腕を振って走る。
背後に追っ手が迫っていた。
数は一人。しかし、速い。
静かな息づかいと足音が、闇の奥から次第に距離を詰めてくる。
相手が何者かなど考えてはいられない。ただ、捕まったらろくなことにならないだろうという予感に急かされて、リズは逃げ続けた。
しかし、《鳩の翼》亭まで目と鼻の先、というところまで来て、彼女はためらった。
(――あなたが身を置いている食堂の者たちとて、ただではすみませぬぞ)
という、リッツォーリ氏の言葉が警鐘のように響いた。
一瞬のためらいは、彼女を危機に陥れた。
頸部を狙ったとおぼしき鋭い突きが、耳の下を掠めた。ゾッとして振り返ったリズの目の前で、右手に凶器を持った黒衣の追っ手が、一歩後ずさる。リズがとっさに横の路地へ逃げ込むと、彼はナイフを逆手に持ちかえて追跡を再開した。
いまや追っ手は、殺意を隠さぬ暗殺者へと姿を変えた。リズは遮二無二足を動かしながら、人が行き交う大通りを目指した。いくら無茶な追っ手でも、往来の真ん中で凶行に及ぶことはないだろうと考えたのである。
路地の木箱を蹴倒して距離を離そうとしたが、その試みは無駄に終わった。追っ手はさらに足を速めた。彼はリズの髪を掴んで彼女を地面に引き倒すと、振りかぶったナイフを真っ直ぐ振り下ろした。
風がヒュッと逆巻いた。
ナイフの刃先が滑って壁に突き刺さる。地面にポタポタ零れる血は、リズのものではない。追っ手の手首が、剃刀で裂かれたようにぱっくり裂けていた。
頭巾とマスクの間から覗く目が、真円に見開かれる。
リズは起き上がり、壁に手をつきながら後ずさった。
地面に打ちつけた膝が熱を持っている。擦りむいた腕がじくじく痛んだ。寒くもないのに歯の根が鳴った。
逃げなければ、と己を叱咤する。
震える両足は泥沼にはまりこんだかのように重い。何度もつまづいて転びそうになりながら、彼女はやっとの思いで大通りに出た。
通りの先に、《鳩の翼》亭の看板が見える。
慣れ親しんだ居候先を目にした瞬間、恐怖で麻痺していた頭からスッと痺れが引いていった。
あそこには自分を迎えてくれる人たちがいる。
だからこそ、こんなものを連れては帰れない。
急ぎ足で道路を渡り、彼女は一度振り返った。《鳩の翼》亭の窓からは、眩しいほどの明かりが漏れている。
光が目の中でぼやけた。
世話になった恩をなにひとつ返せなかった。
バートからもっとちゃんと料理を習いたかった。せめて、ステラの赤ん坊が産まれるまで、あそこにいられればよかった。
自分で招いた別れが思いのほか堪えた。彼女は嗚咽を噛み殺しながら、《鳩の翼》亭から顔を背けた。
フードをかぶった小柄な影は、夜の闇に吸いこまれるように、路地の奥へ消えていった。
大鷲の国 @satomi-akira
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