2章 コル・ファーガル


 北方辺境領の都、コル・ファーガルの城門は閉ざされていた。

 リズはフードを深く被り直した。

「明日まで待つしかないようですね」

「いえ、すぐに入りましょう」ダレルは城壁に寄り添うように軒を連ねる天幕を見渡した。「外は危険です。ああして朝を待つ旅人を狙う野盗も多い」

 周囲をはばかるように、彼はことさら声を低くした。

「秘密の抜け道を使います」

 怪訝に上目遣いをするリズに、ダレルは微笑んだ。

「大丈夫、必ず城壁の中へお連れしますよ」

 どのみち、朝を待ったところで身分証を持たないリズが検問を通過できる保証はない。思案の末、彼女は腹をくくった。

「……わかりました。あなたを信じます」

「では、今からわたしがいいと言うまで、声を出されませぬよう」

 彼のあとについて歩きながら、リズは城壁を見上げた。

 コル・ファーガルはもともと、北方辺境領の開拓を手がけたコーウェン家の拠点として発展した都市である。その歴史を、リズは母から教わって知っていたが、検問があるという話は聞いたことがなかった。おそらく、二十年のあいだに制度が変わったのだろう。

 西回りに進んでいくと深い茂みに行き当たった。

 繁茂する灌木の隙間を抜けるのに、ダレルはひどく苦労していた。ようやく茂みを抜け出たとき、彼の頬には、張りだした小枝に引っかかれた、みみず腫れが出来ていた。

 リズはダレルの横から顔を出して前のほうを見た。

 川が城壁の中へ引き込まれている。壁に穿たれた水路には鉄格子がはまっていた。石組みの護岸に、雨期の水量を示すかのように苔が生えている。

 ダレルは何かを探すように水路わきの壁面を指先でなぞった。何度かそんな動きを繰り返したあと、彼はある一ヶ所で手を止め、次に足下を掘り始めた。

 茂みの陰にしゃがんで、リズはダレルの挙動を見守った。

 森を抜けてから、リズは結んだ髪をマントの中にしまい、人がいるところでは常にフードを被るようにしていた。ダレルの提案だった。冬着を着込んだリズは、長い髪を隠せば少年にも見える。追いはぎが旅人から奪うのは、命や財産だけとは限らない。法によって規制されているとはいえ、人間を商品として売買する輩は、いまだ各地に存在する。

「女性と子どもは特に、気をつけなければなりません。都に入るまでリズ殿は少年のふりをするのがいいでしょう。いざというときは、わたしが盾となってお守りします」

 こうして主人と従者の二人連れを装いながら、リズたちはコル・ファーガルまでやって来た。

 行き倒れていたところを助けた。宿場での宿代、食事代も、リズが払った。しかし、それでもダレルのしていることは、恩返しにしては大げさだ。リズはしばしばそう感じていた。

 ダレルが起き上がった。彼は土中から掘り返した鎖を幾重にも腕に巻きつけていた。城壁に片足をかけ、体を後ろに倒し、全体重をかけて鎖を引く。

 壁の内部で、何かが引っかかる音がした。

 リズは目を見はった。

 ズズ、という音を立てて、水門の鉄格子が沈んだ。

 ダレルは鎖を元通り地面に埋め直し、リズに先に中へ入るよう、仕草で促した。

 一寸先も見えない闇の向こうから、湿った空気が流れてくる。リズは真っ黒い水面を見下ろし、壁に背中をつけるようにして中へ入った。その後にダレルが続く。彼は「ここにいるように」と言うようにリズの両肩に触れて、単身、奥へと進んていった。

 リズは闇に目を慣らそうと瞼を閉じた。

 奥から鎖がこすれる音がした。鉄格子が再び閉じていく。背中から伝わる微かな震動が止んでから、彼女は薄く目を開いた。

 外から差し込む月の光が、足下をほんのり青く照らしていた。水路を流れる水は常に一定の速さで流れている。長いこと闇の中に閉ざされてきた石壁は、まるで濡れているように冷たかった。

 不意に、記憶がフラッシュバックする。臨終の母の手も、こんなふうに冷たかった。

 息絶える寸前、末期の力を振り絞ってオズウェルの名を呼んだ母。痩けた頬、やせ衰えた腕。流れる涙だけが、元気だった頃と同じ熱を持っていた。

(ああ、母上)

 リズの目に涙が浮かんだ。

(オズウェルはきっと、ここにいますよね……)

 視界の端に、明るい光が灯った。

 ダレルが先の曲がり角から戻ってきた。

「お待たせしました。もう喋っても構いません」

 彼は魔法で生み出した光の球を、空中に浮かべた。

「どうかされましたか、リズ殿」

「いえ。光が眩しくて」リズは急いで涙を拭き、ダレルのほうへ向き直った。「びっくりしました。この仕掛けは何なんです?」

「要人の非常用通路といったところですな」

「ダレルさんは前にも、この通路を使ったことがあるのですか?」

「秘密は魔道士の力の源です。このことは、どうかご内密に」

 片目をつぶって戯けるダレルに、リズは笑みを返した。お互いに相手の秘密に踏み込まない。それは二人のあいだで、すでに暗黙の了解となっていた。

 魔法の光が水路を明々と照らす。狭い範囲とはいえ、まるで昼のような明るさだ。緩やかな下り坂の先から、水が逆巻く音が響いていた。水しぶきで濡れた地面を跨いで避け、リズは先導するダレルの手を頼りに階段を下りた。

 入り組んだ通路を歩きながら、リズは奥へ奥へと流れていく水の動きを見ていた。

「この都は、地下に水を引き込んでいるんですね。何かの動力源になっているんでしょうか」

「なぜそう思われます?」

 リズは少し考えてから言った。

「このあいだ舟に乗ったとき……川を下った先に、小屋があったでしょう。流れる水を受けて、車輪のようなものが回っていました。あんな大がかりなものが、ただの飾りとは思えません。ここにも同じような仕掛けがあるのではないですか?」

「ご明察です」

 ダレルはわざわざ足を止めて振り返った。

「ここから地下の溜め池に引き込まれた水は、工場の自動化に一役買っています。コル・ファーガルを発展させた技術のひとつです」

 リズは素直に感心した。彼女が暮らしていた村では、水を何かの動力に利用することはなかった。井戸から汲み上げた水を、毎日水瓶に溜めて大事に使っていた。

 コル・ファーガルの地下には、ひらけた空間が広がっていた。

 地底の溜め池は回転翼によって渦を巻いていた。壁面には水を通す太い管が何本も張りついている。細い通路が入り組んだ頭上は、不思議な幾何学模様を描いていた。

 リズは足を止めた。

「どうしました?」

 先を歩いていたダレルが引き返して尋ねる。リズは頭上を見上げ、水音に混じる異音を拾おうと、耳に髪をかけた。

 微かにだが、聞こえる。

「ダレルさん。明かりを消して下さい」

 リズはダレルの腕を両手で掴んだ。

「上に誰かいます。明かりを消して、早く!」

 頭上を仰ぎ見たダレルの姿を最後に、視界がフッと閉ざされた。

 ダレルがリズを腕の中に抱き込み、壁に手をついて息を殺す。

 リズは首をひねり、見えないながらも辺りに注意を払った。ダレルの心臓の音、渦の轟き。そして。

 ほのかな光が、遥か頭上を照らした。

 魔法で生み出された光とは違う、空気の揺らぎによって明滅する燃えさかる炎。照らし出された壁面に、人の影が躍った。リズを庇うダレルの腕に、ひときわ力がこもる。

 影は立ち止まったまま、しばらく動かなかった。辺りの様子を探るかのように、その場に留まっている。

 リズはダレルの背中に腕を回した。なんの慰めにもならないが、せめて自分が怯えてはいないということを、彼に伝えたかった。

 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 壁面に映った人影が、踵を返した。炎の揺らぎが遠ざかり、空洞に完璧な暗闇が戻る。リズは耳をすまして、足音が聞こえなくなってから口を開いた。

「行ったようですね」

「面目ない」ダレルが暗闇の中で長い息を吐く。「まさか、ここに人が来ようとは思いもしませんでした」

 ダレルから体を離しながら、リズは思案して言った。

「上のほうで……城で何かあったんでしょうか」

「なぜ?」

「ここは要人が非常時に使う通路なのでしょう?」

「ふむ……」ダレルはやや間を置いて、小さく声をあげた。「わたしとしたことが、つい失念していました」

「どういうことです?」

「コル・ファーガルは今まさに、祭りの前夜なのですよ」

 彼の語るところによれば、おおむねこういう事情らしい。

 コル・ファーガルの城主には一人、息子がいる。彼の名は、オズワルド=ヴァン=コーウェン。文武に優れた真っ直ぐな気性の持ち主で、その人柄ゆえ、父親よりも市民から慕われているという。

「オズワルドは今年で二十歳になります。年明けにはサナンに交換留学生として発つそうです」

「留学?」

「ヨーム=サナン間の友好を国内外に示す、一種の儀式のようなものですな。〈親善大使〉というやつです。この役目は王がじきじきに任命するため、極めて名誉なものだと言われています」

 つまるところ、オズワルドの成人祝いと渡南を控えて、都は今、一時的な躁状態にあるのだった。

 市民が祭りの準備に浮かれる中、警官たちは治安維持と安全対策のため昼夜町中を駆け回り、神経をピリピリさせている。後日、ヨーム本国で行われる会談には王族も出席するのだ。大事を目前とするこの時期に不祥事があってはならない。

 さすれば、地下に見回りがいたとしても不思議ではなかった。

 ダレルは暗闇の中で、恭しくリズの手を取った。

「何はともあれ、気を取り直して参りましょう。大丈夫、出口はもうすぐですよ」

出会ってからというもの、ダレルはたびたび「大丈夫」と口にする。口癖かしら、と人知れず微笑みながら、リズは彼の手を握った。

 円形の通路を半周し、細い路地に入る。二人は手元を照らすささやかな明かりのもと、梯子を登った。

 時刻は真夜中に近かったが、リズは不思議と目が冴えていた。

 ダレルが押し開いた扉の先からは、人々の生活の匂いがした。



 月明かりが夜の底を青く照らしている。

 星が散らばる空を見上げて、リズは大きく息を吸った。押し開いた石の扉を、ダレルが元通り城壁にはめ直す。町外れなのか明かりはなく、辺りはすっかり夜の暗さに溶け込んでいた。

 地下での慎重な足取りとは打って変わって、ダレルは早足で歩いた。まるで、わずかでも人目につくことを恐れているようだ。話しかける隙すらない。手を引かれるリズは、歩幅の違いから小走りになっていた。

 大通りに出て左右を見渡し、ダレルは《鳩の翼》亭という看板に目をとめた。道路を横断して脇道から裏に回り、《鳩の翼》亭の勝手口を魔法で開く。唖然とするリズを先に中に入れて、自分も隙間から体を滑り込ませると、彼は音を立てぬよう静かにドアを閉めた。

 室内に淡い明かりが灯る。そこは綺麗に掃除された厨房だった。

「ダレルさん。勝手に入ったら」

 小声で咎めるリズに対して、ダレルは悪びれなかった。

「ここが知人の家です。やっと一息つけますよ。ちょっとだけ待っていて下さい。話をつけてきますから」

「そういうことなら私も行きます」

「いえ。危険があるやも……」彼は前後の発言の矛盾を誤魔化すように咳払いした。「大丈夫、すぐ戻ります」

 そう言い残して、ダレルは厨房を出て行った。

 一人になり、気がつけば、リズは溜息をついていた。

 他人の家に図々しくあがりこんだダレルに呆れた、というわけではない。背中の荷物が、突然重く感じられたのだ。思えば、コル・ファーガルに入る前からずっと歩き通しである。彼女は空腹だったし、ひどく疲れていた。

 リズは荷物を背負い直し、意識して背筋を伸ばした。

(ダレルさんは私のために、冒す必要のない危険を冒してくれたのだ。しっかりしなければ)

 いくら城壁の外に夜盗が出るといっても、ダレルは魔法使いだ。一人なら、城壁の外で朝を待つほうが、結果的に危険は少ないのではないはずである。

 もし彼に出会わなかったら、自分はどうなっていたのだろう。

 まず検問に引っかかり、取り調べを受け、そして。

 リズは瞑目した。そこから先のことは、想像もつかなかった。

 待ち続け、静寂と闇が混ざりあい、両者の境が曖昧になった頃。

 二階から男の野太い怒鳴り声と、それを諫める女性の声が続けて聞こえた。直後に何かが階段を転げ落ちる音まであって、不安を覚えたリズは、忍び足で厨房を出た。

 店内を見渡すカウンターを回り込み、音のしたほうへ向かう。

 ドアを開いた先にあったのは、階段下で取っ組み合いになって揉み合う男たちの姿だった。

「よくものこのこ顔を出せたもんだ」

 熊のような体躯をした男が、ダレルを下に組み敷いて怒鳴る。

「二十年で時効だと思ったら大間違いだ。弟子の分も合わせて、たまりにたまったツケを払わせてやる!」

「ちゃんと払う。いずれは払う。まずは話をな」

「今すぐに警察に突き出されたいか?」

 明かりを手にした女性が、階上から男二人を照らした。

「あんた、もうやめなさいよ。お腹の子がびっくりして飛び出しちまったらどうすんのさ」

 彼女は寝間着の下で大きく膨らんだ腹を撫でながら、階段を数歩降りた。彼女はふと、ドアの前で立ちつくリズに明かりを向けた。

「あら、可愛いお客さんだこと」

「なにぃ?」男はリズの姿を目に留めると、ダレルの首に腕を回して凄んだ。「坊主、妙な動きはするなよ。おまえがまじないを唱えるより、俺がこいつを絞めあげるほうが早い」

 どうやらリズのことを、ダレルの新しい弟子だと思い込んでいるらしい。えびぞりの体勢で首を固められたダレルが、訴えるように男の腕を激しく叩いた。

 まずは誤解を解かなければと思い、リズは口を開いた。

「真夜中にお騒がせして申し訳ありません。どうか、その人を放しては下さいませんか」

「肝の据わったやつだ」

 男の腕が緩んだ瞬間、ダレルの姿が闇に溶けた。

 なにもかも一瞬のことだった。床に伸びた影の中を黒いものがザッとよぎり、その直後、翻ったマントがリズの視界を覆った。

「バート。この方に手出しは許さん」

 ダレルはリズを背中に庇い、男と睨み合った。

 一触即発の雰囲気のなか、リズは後ろからダレルの腕を掴み、彼が不用意に魔法を使わないことを願った。

「いいかげんにしな!」

 不意に沈黙を破ったのは、身重の夫人だった。

 壁に手をつきながら、彼女はゆっくり階段を降りてきた。肩までの長さの柔らかな毛先が、ランプの光で白く浮かび上がっている。夫とダレルを押しのけて、夫人は真正面からリズと向き合った。

 壮年の夫と比べて、まだ若い。三十にもなっていないだろう。

「あんた、女の子だね。顔を見せてくれる?」

 リズはフードを外した。

「リズ=ラッセルと申します。奥様」

「ステラよ」笑った頬に小さなえくぼが浮かんだ。「いい子じゃないの。ねえ、あんた?」

 目を白黒させる店主に、リズは頭を下げた。

「北方辺境領の果てより参りました。このたびの無礼を、心よりお詫び申し上げます」

「……おう」

 バートは、ばつが悪そうに頭をかいた。

 一階に男たちを残して、ステラはリズを二階へ連れて行った。

「話は爺さんから聞くから、あんたはもう休みなさい。疲れた顔してるよ」

「ありがとうございます。けれど、奥様」

「『でも』も『だって』も聞かないよ。あと、あたしのことはステラでいいからね」

 通された奥の部屋は、狭いながらも物置というふうではなく、壁ぎわにベッドまであった。シーツや毛布を持って来て、「あとは自分でやりな」というステラに、リズは深く頭を下げた。

 夫人が出て行ったあと、マントと靴を脱いでベッドに腰掛けた。ひとたび座ってしまうと、立ちあがるのがひどく億劫だった。

 それでも、ダレルより先に自分だけ休むのは悪い気がして、リズはしばらくベッドに座ったまま、彼が戻るのを待った。しかし清潔なシーツの匂いと、真夜中の静けさは、いつしか彼女のもとに堪えがたい睡魔を呼び込んだ。

 空が白んできた頃、ダレルがリズのいる部屋をそっと覗いた。

 リズはベッドに倒れ込むようにして眠っていた。

 ダレルは少女をきちんとベッドに寝かし、服の襟元を緩めてやった。体が冷えぬよう肩口まで毛布をかけ、荷物を壁ぎわに寄せる。靴を揃えて置き、マントを畳んだ。彼が片付けをしているあいだも、リズの安らかな寝息が途切れることはなかった。

 すっかり部屋を整えたダレルは、ベッドの傍らに膝をつき、リズの寝顔を見つめた。

 前髪の下から手を差し入れて、守りのまじないを唱える。

「しばし、お側を離れます。リズ殿」

 ダレルはバートから受け取った餞別を肩に担ぎ、部屋を出た。

 朝日の眩しさにリズが目を覚ましたとき、ダレルはすでに《鳩の翼》亭を発ったあとだった。

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