大鷲の国
@satomi-akira
序章
リズの母が今際の際に残した言葉は、たった一言だった。
「オズウェル」
亡き夫への呼びかけでも、一人残される娘に対する懺悔でもない。それは彼女が十年以上前に失った、息子の名だった。
病魔に冒された体のどこに、そんな力が残されていたのだろう。寝台に仰臥しながら、彼女は骨と皮ばかりの腕を天に伸ばした。まるで、我が子を抱きとめようとするかのように。
母の命の灯火が消える瞬間を、リズは深い悲しみと共に見送った。
秋の終わりの寒風が荒れ地を吹き抜ける。
山間の谷から、黒煙があがった。
すり鉢状の火葬場で、リズは灰から母の骨を拾い集めた。
骨箱を墓地に埋め、上に石を積む。埋葬を終えたリズを、近所の老夫婦が労った。
「リズ。あとは私たちで片付けておくから、もう休みなさい」
「ありがとう」
とうに枯れたと思っていた涙が、また溢れそうになる。リズはメニエとその夫に深く頭を下げ、墓地をあとにした。
風になびく鮮やかな赤い髪を見送ったあと、メニエは口元を押さえて嗚咽を漏らした。
「どうすればいいの、あなた。リズ一人になってしまって……これから、どうすれば……」
メニエの夫は沈痛な面持ちで首を振った。
「悪いことばかり数えたら駄目だ。リズは、自分のことは自分で決められる。みんなでそう育ててきたじゃないか……」
彼は周囲に立つ墓標を見渡し、妻の肩に手を回した。
彼らの暮らす村は、生きる人間より墓の数のほうが多い。石を積み上げた墓標が並ぶ丘で、夫婦はどちらともなく身を寄せ合った。
山脈の向こう、人跡未踏の地を探索する足がかりとして切り拓かれた北方最果ての土地は、もともと暮らすのに適した環境ではない。土は水が滑るほど乾いている。そのため作物は育ちが悪く、生活の要である家畜も、なかなか子を産まない。
それでも昔は、墓の数以上の人々がここで暮らしていた。
過去、辺境の開拓を指揮した指導者は若く、人徳に恵まれ、村は活気に満ちあふれていた。だが、多くの人を魅せた夢は、彼の死と共に泡沫のごとく消え去った。
いずれも、十年以上も前のことである。
家に帰りついたリズは、水瓶から水を汲んで飲んだ。ギシギシいう寝台に腰掛け、床を見つめてぼんやりする。
今は薄暗くて寒々しいばかりだが、この家にも昔は、温かな火が灯っていた。
頭が重く、体がだるい。
だが眠る前にまだ、することがあった。リズは家畜の様子を見に厩舎へ向かった。
カーン、カーン。
甲高い音が、窓から風に乗ってやって来る。岩掘りのガントが、山でつるはしを振るっている。リズが物心をつく前から毎日、十年以上変わらずに鳴り続ける音だ。
四、五歳の頃から、リズはガントのあとをついて回り、生きる術を学んだ。山登りの技術や縄結び、野生動物の習性、火おこしのやり方まで。亡くなった父にかわり病身の母を守るため、彼女はなんでも自分で出来るようにならなければならなかった。
十年もそうして暮らして来たのだ。たとえ一人きりになろうと、畑や家畜の世話は彼女の日常の一部である。
リズは子ヤギがいる一番奥の仕切りを覗いた。
藁の上に横たわった小さな体を、親ヤギが鼻先でつついている。リズは急いで柵を乗り越え、子ヤギに触れた。しかし、もはや手遅れだった。幼子はとうに冷たくなっていた。
リズは唇を噛みしめた。
夏に生まれたばかりの子ヤギだった。やんちゃな悪戯好きで、リズの髪や服を咥えて引っ張り、そこら中を跳ね回って、さんざん手を焼かされた。
熱の去った子ヤギの頭を撫でる。
(……ああ。この子はもう、鳴くことも跳ねることもないのだ)
死者の国の使いが、母と一緒に、子ヤギまでも連れて行ってしまった。うつむいたリズの頬を、涙が伝った。子を亡くした親ヤギの傍らに身を寄せて、彼女は手を祈りのかたちに組んだ。
カーン、カーン。
ガントが変わらぬ力強さでつるはしを振るっている。
厩舎で長いこと膝を抱えていたリズは、ゆるゆると顔をあげた。
父と母が死に、隣近所に住まう住人も、いまや老夫婦とガントだけになった。老夫婦は数ヶ月前から、よその町で暮らす息子に呼ばれている。ガントは山で死ぬのが本望だ。遅かれ早かれ、ここは廃村となるだろう。
窓から、薄く日が差し込んだ。
リズは子ヤギの亡骸を厩舎から運び出し、家の裏で解体した。内臓を抜き、皮と肉を切り離す。剥ぎ取った皮は木の枝に干した。脂身をそぎ落として煙で燻し、なめしてやれば、いい毛皮になる。
子ヤギの肉を野菜と一緒に鍋で煮込み、竈の火に当たりながら、リズは初めて一人で食事を取った。
そうして今度こそ、寝台に横になる。
明日から片付けだ。
家畜はここに残るガントに譲り、鉄製の道具は馴染みの行商人に売る。もともと余分な財産はない。両親の遺品は、指輪を残してすべて焼いた。手元に残すものはわずかな硬貨と食料だけでいい。
家の中が綺麗さっぱり片付いたら、リズは都へ行くつもりだった。
両親が眠る土地を離れるのは辛いことだったが、ここに残っても、一人では生きていけない。墓守として余生を過ごすには、彼女はまだ若すぎた。
孤独という悲しみの沼に囚われぬよう、リズは眠りにつくまで、これから先のことを考え続けた。
胸の底に封じ込めた、一筋の希望を握りしめる。
未だ見ぬ都、コル・ファーガル。
そこへ行けば会えるかもしれない。
十四年前、都の使者に連れて行かれたという兄、オズウェルに。
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