六枚の花びら

ヒカラビロウ

美しい信仰 1






 修道女は聖杯に口をつけた。

 死にゆく彼女を、眺めていた。







 人々は崇めていた。大聖堂の玉座に座る幼い少年を。少年は躊躇なくひれ伏す彼らを一瞥する。

 ステンドグラスから射し込む光とオルガンの音色。飽き飽きした光景に小さく溜息をついた。誰も気づきはしない。この大聖堂を埋めつくすほど、人で溢れているはずなのに。

「我らをお救いください」

「我らをお導きください」

「我らをお守りください」

「我らを…」

 大勢の中で、僕だけが独り。

 拝み縋る君たちに問いたい。その眼に映る僕は何者なのか。

 これからも、この先も続く未来にそっと絶望する。

 誰か連れ出してくれたら…。思うほどに虚しさが増すばかり。

 鐘の音が響き、人々は聖堂から出ていく。暗黙の了解であるかのように側近の者たちが次々に労りの言葉を言う。返事の代わりに頷いた。声は出さない。僕が持つ、声の力と信徒への印象が理由だった。

「お疲れですか?」

 小さな庭で不意に声を掛けられた。

 風に靡くウィンプルと茶髪が印象的な修道女だった。

「無意味な質問だな」

 話すつもりなどなかった。けれど言葉が出ていた。

「…そうかもしれません」

 修道女は少し驚いてから言った。無視されると思ったのだろう。

 しばらく誰とも口を聞いていなかったからか、彼女が変人に見えた。

 何か質問されることなど今までになかった。

「この場所が好きなんですか?」

「行くところがないだけだ」

 言っていて虚しくなる。思ったことを声に出しただけのはずが、無意識のうちに墓穴を掘っている。

「ちっぽけだろう。ここが私の世界だ」

 自嘲気味に言った。いっそのこと嗤ってくれ。

 彼女は僕を見つめていた。人と目が合うのは初めてだった。信徒はもちろん、側近でさえ目が合ったことがなかった。

 思わず目をそらす。合わせてはいけない、そんな気がした。全てを見透かされているかのような感覚があった。


 それからも彼女、エリーと会話をするようになった。会話と言えるかは分からない。彼女の他愛のない話に、僕は頷き相槌を打っているだけ。毎日毎日、話しても話題が尽きないことに関心する。僕にとってはつまらない日でも、彼女にとっては楽しく感じるのだろう。

「――ということがあったんです」

「……」

「どうかしたんですか?」

「…君は毎日楽しそうだね」

 コツを教えてもらおう。このくだらない日々の変え方を知っているかもしれない。

「僕にとって毎日は心底くだらなくてどうでもいいことさ。同じことの繰り返しだし、変わったことなんて君を除けばひとつも無い。みんなみんなつまらないし笑えない」

「…それなのにどうして、君はいつまでも楽しそうなの?」

 エリーは腕を組み、考えるようなポーズを取る。

「どうして、ですか」

 かなり考え込んでいるようだった。

 少しして、言いずらそうに口を動かした。

「実は私、もうすぐここからいなくなるんです」

「え…」

「だからかもしれませんね」

 どうしてだろう。彼女はどこか切なそうに微笑み続ける。

「期限があるからこそ、その日が来るまでに何か残したいと思うんです。時間にも人生にも、当然限りがあります。一日を無駄にしたくない…それで楽しそうに見えたのかも」

 期限があるから、なにか残したいから、無駄にしたくないから。今まで考えたことがないことだった。いや、それより――。

「いなくなるって?」

「………」

 返事をするように風が吹く。優しく冷たい風。

 エリーは過ぎていく毎日のなかで唯一の変化だった。エリーという変化の終わりと別れが忽然こつぜんと頭に浮かんだ。

「―――様、そろそろ私は失礼します」

 去りゆく彼女の背中をしばらく見つめていた。直前に何か大切なことを言っていた気がした。







「我らをお救いください」

「我らをお導きください」

「我らをお守りください」

 信徒らの声がやけに響いている。

 誰か助けてくれたなら。ここから連れ出してくれたのなら。

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