三題噺 『雪の朝』『レシート』『飲む』
甚殷
香り
冬の夜は長い。
マフラーを首に巻き、襟をたてたコートを着た僕は、瞼を伏せ、そのまま一歩玄関から出る。
僕の身体に取り込まれるものが、静かな緊張感と澄んでいる香りへと変わった。
「気持ちがいいな……」
同じ世界で同じ季節を巡っているはずなのに、同じ香りは一度としてなかった。
僕は、朝の寒さに身体が馴染むと、背筋を伸ばし前をまっすぐと見つめる。
寝ぼけた太陽の光は少ないのにも関わらず、差し込む光はとても力強い。これから朝が来る、と予告状を突きつけられているようだ。
「なにを考えているんだ」
そんなことを思っている自分に気付き、鼻で笑ってしまった。
「歳を取ったな」
その僅かな朝陽と地面の感触を堪能しつつ、歩みを進める。
今年は、例年より凍てついた空気が身体を刺してくる。それはそれで、楽しい。
休日の今日。
ルーティンで行きつけの喫茶店へ引き寄せられるように歩き出した。
いつも、休日はこの喫茶店の珈琲とアークロイヤルで始まる。
マスターが入れた珈琲をカウンターで頂く。
「美味い……」
「良かったです」
マスターの冷静な声の中に優しさが隠されているのを気付いている自分。その自分を知っているマスター。
言葉にしない意思疎通。このやり取りも、この喫茶店でしか味わえない醍醐味でもあった。
この聡明なマスターだからこそ、出来るやり取りでもあるだろう。
マスターは、珈琲好きを通り越して、珈琲狂いと言っても過言ではない。そんなことを言えば、普段のポーカーフェイスもとろけてしまうだろう。
僕は、そんなマスターが淹れる珈琲が美味しくて仕方がない。
アークロイヤルの煙を見つめながら、今週の出来事を俯瞰する。この時も、また、大好きだ。
この喫茶店でも、年に一度だけ期間限定メニューが出る。
12月31日から1月2日までの期間限定メニューというものだから、いつもの店とは思えない行列を毎年拝むことができた。
今年は例年より雪が積もっていない。それなのに、視界が奪われるほどの雪が舞っているためか、不思議な世界に迷い込んでしまった感覚に襲われる。
そんな今年の期間限定メニューは『雪の朝』という名をつけたらしい。。仕組まれたかのように、今年の冬ぴったりだ。
並ぶ人は皆、取り憑かれているかのように『雪の朝』を頼んでいく。あまりにも長い行列だから、レジはフル回転で仕事をさせられている。従業員より忙しく見えてくる。
例年より遥かに多忙なため、幾度となくレシートの紙ががなくなり、新しいレシートロールと交換する様を僕は一人で見つめていた。
「忙しいそうだけど……」
カウンターに右肘をつき、顎を乗せて動き回る従業員を横目で見る。
見た目からして、女性ウケしそうな洒落た、且つ甘ったるそうなメニュー。
うーん、と地味な葛藤の末、僕は‘’常連‘’というチートを使って、長蛇の列にに並ばず颯爽と『雪の朝』をテイクアウトをしてみた。「なんだかなぁ」
今日の僕は、いつもとなにか違うのかもしれない。僕として認識している僕が取らない選択をしている。
「あっ……と」
その時、何か僕に言いたそうに雪吹雪が強く僕の身体を押した。
ふと、空を見上げると、店内から見えた雪雲は去っており、雪もやんでいる。
なんとも幻想的な世界だった。
やはり外は寒く、ホットの『雪の朝』の珈琲の蓋を外し、覚悟を決めて飲む。
じっと『雪の朝』を眺め、ふと笑みが零れた。
「たまには、こういうのもいいかもしれないな」
明日は日曜日だ。
大手飲食会社に勤めて、早八年。
今では、本社で働くただの会社員で、まさに冬休みの真っ只中。
もういい歳にさしかかっているというのに、学生の頃を振り返ってしまうのは、すべて、この『雪の朝』のせいなのかもしれない。
三題噺 『雪の朝』『レシート』『飲む』 甚殷 @canaria_voice
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