シンジケート

長井景維子

第一話

長い眠りから目がさめると、真っ暗な部屋にいた。裸電球ひとつない。暗闇に目が慣れると、その部屋には私の他に三、四人の男女がいることがわかった。聞き慣れない言語でヒソヒソ話している。どうも朝鮮語のようだ。ジメッとした湿気の蒸れたような悪臭と、人いきれで部屋は蒸し暑く、汗の匂いが充満している。


私はその中でただ一人の日本人だった。えっと昨日はどこにいたんだっけ。思い出そうとするが、どうしても思い出せない。


それもそのはず、私は三日三晩眠り続けたのだった。クロロホルムを嗅がされて、意識を失い、強い睡眠薬を注射されて、眠ってしまった。その間に、ノアの方舟のような窓のない船の船底に押し込められて、日本海を渡り、この北朝鮮の港に運ばれたのだった。


暗い視界から突然、ドアが開いて、光が差し込む。一人の軍人が火のついた蝋燭を持って入ってきた。何やら早口の朝鮮語でまくし立てる。


「カムサハムニダ」


私以外の男女は四人いることがわかった。その四人が口々にお礼を言う。私はなんのことやら分からず、ただ黙って様子を窺っていた。そして、蝋燭が部屋の中央の床の上に置かれ、ほんのりと明るくなり、お互いの顔をみて、皆、ちょっと驚いたように、そして、小さく会釈した。


「パプモクチャ」


ご飯を食べよう、と言っているのだ。そうか。急に空腹が襲ってきた。お腹がグーっと鳴る。軍人は外に出て、ドアを閉め、外側から鍵を掛けた。そしてしばらくすると、食べ物らしきものを持って入って来た。


粗末なお盆の上にグレーっぽい炊いた米が茶碗に半分くらいと、お椀に入ったほとんど具の無い汁物。それだけだ。人数分が運ばれて、またもや四人は、


「カムサハムニダ。チャルモッケスミダ。」


と、お礼を言い、確かいただきますだったと思うが、口々に言う。随分と従順だ。四人は粗末な食事を前に祈り始めた。私は空腹を耐えかねて、灰色のコメを口に含み、そして一口噛んでひどい味に思わず吐き出した。パサパサとして、まるでプラスチックのような味がする。食べられたものではない。

汁物はわずかに塩味が付いているだけで、なんのだしも効いていない。キャベツだか白菜だかの小さな青物がわずかに浮かんでいる。私は喉が渇いていたので、汁物をぐっと飲み干した。プラスチック味のコメには閉口し、隣で大きな口でコメをかき込んで食べている男に、いるか?と目で合図すると、ウンウンと頷くので、その男の前に置いてやった。


よく見ると、部屋の隅の方に便器がある。ここから悪臭が漂うのだった。私は絶望的な気持ちになり、しかしここで死んでたまるか、絶対生きて日本に帰ると思った。自分が北に拉致されたらしいことは容易く想像がついた。そして、あまりの絶望で、涙ひとつこぼれなかった。


空腹は凄まじかった。しかし、私は耐えた。あの、気持ち悪いコメを食べるくらいなら、何も食べずにいようと思った。まだ私の体には脂肪の層がある。これが削げるくらいまでは多分飢え死にはしないだろう。


そして、横になっていると、いつの間にか眠ってしまった。眠っている間が天国だった。そして、目が覚めて、相変わらずの窓のない暗い部屋に四人の朝鮮人といることがわかると、またいたたまれない絶望感に襲われた。多分、一夜が明けたのだ。


昨日、飲んだ汁物の水分は、すべて汗となって蒸発したようだ。便器に向かって用を足そうとしたが、何も出なかった。私は水を飲まないと、このままでは危ないと思った。


そう思ったところで、ドアが開き、昨夜の軍人がコップに入った水を人数分持って来た。誰もが、


「おー!カムサハムニダ!」


と言いながら、争って飲み干した。私も水を飲み、空になったコップを軍人に返すときは、


「カムサハムニダ」


と言った。屈辱的だと思う前に、命を救われたと、有り難かったのだ。そして朝食が配られた。乾パンと脱脂粉乳だった。これは、私も平らげた。


その日、朝食が終わると、作業着を配られた。木綿の粗末なシャツとズボンだった。

それを着て、待っていると、ようやく部屋から外へ出された。そして、炎天下の下、五、六時間休みなしで、軍人の監督の下、野良仕事が続いた。


昼飯だけは、豪華だった。コッペパン一つにゆで卵が二つ、それから脱脂粉乳がついた。

私はようやく、飢え死には免れたと思った。ゆで卵の殻はカルシウムだと思い、少しは食べてみた。


夜は四人の朝鮮人と窓のない真っ暗な部屋で休み、昼間は野良仕事の毎日が、確か三十日続いた。そして、私ともう一人、朝鮮人の女が模範生に選ばれて、工場で働くことになった。工場では化粧品を作っていた。工場からはバスで粗末なアパートに連れてゆかれ、同じく工場で働く韓国から拉致された男と二人で住んだ。このカン・ジフンという男は、私に朝鮮語を教えるミッションを与えられていたらしい。


このアパート生活では支給された材料を使って、自分たちで自炊した。米は相変わらずのグレーの米だったが、プラスチックの味はしなかったので、なんとか食べられた。私は新潟の出身なので、コメにはうるさいのだ。


工場で作っている化粧品は、朝鮮人参のエキスの入った化粧水だった。これは、驚くなかれ、本当に品質が良く、中国に向けて輸出していた。自国民はよっぽどの富裕層でもない限り、買うことは出来なかったと思う。私は化粧水の入った瓶に蓋をする仕事だった。男の私にしては、力の要らない楽な仕事だった。


工場でも軍服を着た軍人が私たち工員を監督していた。その表情は、まるで能面のようにのっぺりと感情表現がなく、金正恩をまるで神のように崇めている。彼らとは、私は吐き気を堪えながら接していた。


カン・ジフンが脱北を計画しているらしいことを私に打ち明けた。そして、彼は私に一緒に韓国まで逃げようと誘って来た。板門店まで逃げれば、あとは国境を越えれば、無事に韓国の地を踏める。そうすれば、私も日本に帰れる。彼の作戦はこうだ。工場にいる軍人に上手く取り入って、軍服を2着手に入れて、それを着て、北軍のフリして板門店まで南下する。食糧は支給される乾パンを食べずに取っておいて、カバンに詰めて逃げる。軍人にスマホを一瞬借りて、GPSで現在地を割り出した。すると、板門店まではわずかに40キロであることがわかった。


劇寒気の二月だったので、ジフンは、冬は無理だから、若葉が生え揃い、目隠しにもなる五月まで待とうと言った。


五月までに、ジフンと私は軍人の二人に取り入って、軍服を手に入れた。僅かな給料で、タバコを買い、この二人に貢いで取り入った。酒も貢いだ。マッコリを十本、焼酎を一ダース貢いだ。すると、簡単に軍服は手に入った。私もその頃にはカタコトの朝鮮語が話せるようになっていた。


軍服を手に入れてからも、タバコを渡し続けた。二人の軍人は全く怪しむ様子はなく、冗談を言い合う仲になっていた。

五月のある曇り空の日を選んで、私とジフンはアパートを出発した。軍服に身を包み、風呂敷で作った簡単なカバンに水筒と乾パンと毛布を入れた。靴も安い給料を貯めて、新しく運動靴を買った。


街中の道を出来るだけ避けて、山に入り、尾根伝いに歩く。木々には若葉が茂り、私とジフンを隠してくれていた。迷彩柄の軍服を着ているし、めったに人目にはつかないだろうと思った。途中、クワの実を食べて喉を潤した。私は脱北がこんなに楽しいとは思ってもみなかった。韓国の自由な世界が待ってくれている。


板門店までの道のりを半分来たところで、夜になった。私たちは毛布を広げて横になって、星空を見上げた。流れ星がスーッと流れた。二人で願い事をしたものだった。


北の夜は電気の供給が悪く、真っ暗だった。星と月明かりが頼りだったが、もう睡眠を取ろうと、二人で眠り込んだ。マッチもろうそくもない。寝るしかなかった。


そして、朝が明けてくると、川に降りて行って、顔を洗い、水筒に水を汲んだ。乾パンを食べて、空腹を凌いだ。そして、私たちは歩き出した。


山を尾根伝いにしばらく行くと、目の前が開けた。大きな川が流れている。あの川の向こうは多分韓国だろう。川を渡れば、板門店に行けるのか。それとも、非武装地帯に潜り込めるか。


川を泳いで渡ろうと思った。川の水はまだ冷たいかもしれないが、船などあるはずもない。五月の北緯三十八度はまだ寒かった。


二人は川まで小走りに走り出した。人目につかないよう、顔には泥を塗った。そして川に辿り着くと、一緒に泳ぎ出した。


私は泳ぎには自信があった。ジフンは泳げなかった。ジフンに顔を出して平泳ぎで行けと教え、二人で流れに流されながらも、対岸に渡ること20分。そして、ついに韓国の国境に辿り着いた。


板門店には着かず、国境の非武装地帯に辿り着いた。私たちは、韓国に入った。


韓国人を見つけて、ジフンが訳を話し、私が日本からの拉致被害者であると話していた。

人の良いハルモニが、握り飯をくれた。そして、すぐに警察を呼んでくれて、私たちは無事韓国警察に保護された。


軍服を脱ぎたいので、服が欲しいというと、警察官が準備してくれて、小ぎれいな韓国製の衣服を着ることができた。私は日本に連絡したいと言い、スマホを借りて、新潟の実家に電話をかけた。なんと、両親は、私の葬式を済ませたと言っていた。私は驚かなかったが、母の声を聞いて、今まで出なかった涙が初めて頬を伝った。


ジフンと私はホテルに部屋を用意してもらい、その夜はゆっくりと風呂に入って、韓国料理に舌鼓を打った。そして、部屋で寝ようとすると、マスコミが待ち構えていた。警察からは、私の身の安全が確保されるまで、ホテルを離れるな、と言われた。


韓国の警察がある朝、私を迎えに来た。ソウルの日本大使館まで護送してくれるという。私は、これで本当に安全だ、と胸をなでおろした。日本大使館に着くと、現地から成田行きの日本航空の便を手配してくれた。私は帰国の途に就いた。新潟の両親は成田まで迎えに来てくれて、翌日の新幹線で一緒に新潟に向かった。


東京のホテルでは、記者会見を行い、慣れないことで驚いたが、なんとも祖国は温かく、石破首相からも労いの電話をいただいたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る