第5話 霧の中の記憶

「母さん……?」


 遥の声が謁見の間に響く。

 しかしその声は、自分の耳にも頼りなく、震えていることが分かった。


 霧の中にぼんやりと現れた影。

 その輪郭は次第に明確になり、確かに人の姿をしていた。影は穏やかに微笑み、遥に向けて手を伸ばしている。


「遥……会いたかったわ。」


 その声、その仕草――遥の記憶に刻み込まれている母の姿そのものだった。


「本当に……母さんなの?」


 遥は疑いと希望が入り混じった感情を抱えながら一歩踏み出した。

 しかし、背後から冷たい声が彼女を制止した。


「待て。」


 王の鋭い声が彼女の動きを止める。


「それは影だ。お前の記憶を利用して揺さぶろうとしている。」


「そんな……嘘よ。母さんは私を助けに来てくれたんだ!」


 遥は振り返りながらも、目の前の影から目を離せなかった。

 影はさらに一歩近づき、優しい声で囁く。


「遥、怖がらなくていいのよ。あなたはずっと一人で頑張ってきたでしょう?でももう大丈夫。ここに来て、私と一緒にいましょう。」


 その声に遥の心は揺れた。

 孤独と絶望に押しつぶされそうだった彼女の胸には、母の言葉が温かい救いのように感じられたのだ。


 しかし、次の瞬間、影の表情が一瞬だけ歪んだ。その顔には嘲笑のような不気味さが浮かび、霧の中から伸びた手が遥の肩に触れようとする。


「愚か者め。」


 王は遥の肩を掴み、強引に引き戻した。

 その瞬間、影の手は空を掠め、冷たい霧が舞い散った。


「それに触れたら終わりだ。」


 王の言葉は冷たく厳しいものだったが、その中に遥を守ろうとする意志が感じられた。


「でも……母さんの声がしたんです!」


 遥は涙を浮かべながら叫んだ。


「それが奴らの狙いだ。お前の弱さにつけ込んで、自分に引き込もうとする。」


 王の言葉が鋭く突き刺さる。

 しかし、遥は胸の中に湧き上がる感情を押し殺しながら、目の前の影を見つめ直した。


「遥……どうして私を拒むの?私はあなたを愛しているのに……。」


 影は再び遥に向かって手を伸ばす。その声には今度は怒りと恨みが混ざり合い、不気味さを増していた。


 遥は震えながらも、王が渡してくれた書物を握りしめた。

 その中に書かれていた呪文を思い出し、静かに口ずさむ。


「私は……私は、あなたに負けない!」


 光が再び遥の手のひらに集まり、それが霧を切り裂くように広がっていく。

 影がその光に触れると、悲鳴を上げながら後退し始めた。その姿は次第に崩れ、霧の中へと溶け込んでいった。


「やった……の?」


 遥は息を切らしながら王の方を振り返る。王は何も言わず、静かに窓の外を見つめていた。


「お前は少しずつ力を使いこなしている。しかし、これで終わりではない。」


 王の声には冷徹さの中にわずかな安堵が混じっていた。


「さっきの影……本当に母さんではなかったんですね。」


 遥が問いかけると、王は短く頷いた。


「影はお前の記憶を餌にする。次に現れる時は、さらにお前を惑わすだろう。」


 遥はその言葉に、次第に自分の中で何かが強くなるのを感じた。それは恐怖ではなく、次は負けないという覚悟だった。


「これから先、もっと多くの試練が待っている。」


王の言葉に、遥は唇を噛みながら頷いた。


 しかしその時、霧の中から別の声が聞こえてきた。それは今度は男性の声――

 そして遥にとって、さらに忘れられない人の声だった。


「遥、助けてくれ……。」


遥の胸が締め付けられる。その声は、遥の夫のものだった――。


(次回へ続く)

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