第3話 感情を奪う影

 遥が立っている場所は、まるで夢と現実の狭間にあるようだった。

 崖の上にそびえ立つ無音の城。

 その外壁は無機質な灰色で、どんな光も吸い込むかのように冷たく鈍い光沢を放っている。

 周囲には霞が漂い、風が吹くたびにそれが人の嘆きの声のように聞こえた。


 崖の下を覗けば、底が見えないほど深い暗闇が広がり、遥は自然と身体を引いてしまう。

目の前の扉は大きく、無数の古い傷跡が刻まれている。

 まるでこの城が長い年月にわたって、何かを拒絶し続けてきたかのようだった。


「ここが……『無音の城』」


 遥は足を踏み入れるたび、床の冷たさを靴越しに感じた。

 廊下は広く、高い天井には装飾のない黒い梁が並んでいる。

 照明の代わりに、壁に取り付けられた不自然な青白い光がぼんやりと空間を照らしていた。

 人の気配はあるのに、どこからも声が聞こえない――それが遥を不安にさせた。


 城内を案内する住人たちは無表情で、何かを伝えようとはしない。

 ただ、彼女が進む道を静かに指し示すだけだ。途中、遥は住人たちが廊下の壁に描かれた肖像画を一瞬だけ見つめるのを目にした。


 その中の一枚――一人の男性が王冠を被り、冷たい視線でこちらを見つめている肖像画に、遥も思わず足を止めた。


「……この人が、この城の王?」


 しかし、誰も答えない。無言のまま、先へと促される。


 住人たちに導かれた先は、異様な広さを持つ謁見の間だった。

 天井は高く、壁は無地で装飾もほとんどない。

 ただ中央にだけ、威厳を感じさせる豪華な椅子が置かれている。

 それは細かな金細工で彩られているが、周囲の殺風景な空間に不釣り合いなほど輝いて見えた。


 椅子に座っている男――この城の王は、長い黒髪と深い瞳を持つ青年だった。

 その姿は冷たくも堂々としており、彼の周囲だけ時間が止まっているような錯覚を覚える。


 王はじっと遥を見つめ、ゆっくりと口を開いた。


「お前が女神に選ばれし者か。」


 その声は低く響き渡り、遥の体に緊張を走らせた。

 彼の眼差しには冷徹さが宿っているが、どこか奥底に別の感情――悲しみか後悔のようなものがかすかに見えた。


「この城に迫る霧を、お前の力で払え」


「霧……?」


 王は手を軽く振ると、窓の外に広がる灰色の霧が見えるようになった。

 その中には人影のようなものが漂い、こちらへと迫ってきている。


「奴らは『感情を奪う影』住人たちはそれに触れられれば、すべてを失う」


 遥は言葉の意味がよく分からなかったが、王の声に含まれる冷たい断言が、彼女の胸に不安を引き起こす。


「触れることで、精神が完全に奪われ、存在すら消し去られる。肉体だけが残り、もはや何者にもならない。」


 その瞬間、遥の胸に恐怖が走る。


「消える……?」


「消える。」


 王は短く答えると、再び窓の外に目を向けた。霧の中から、淡く光るものがゆっくりと現れてきた。


 それは確かに人の形をしているが、顔はぼやけており、目の前の住人たちの意識を奪っていくようだった。


 霧が城内に侵入し始め、影はさらに近づいてきた。

 住人たちは恐怖に震えながら、必死に逃げようとするが、その動きも次第に鈍くなり、視線が虚ろになっていく。


 遥は慌てて彼らを守ろうとするが、影が近づくにつれて、住人たちが恐怖と無力さに満ちた目で彼女を見つめていることに気づく。

 その視線は、どこか遠く、空虚なものだった。


 影が触れる瞬間、住人の体は一瞬で硬直し、目の前でその顔が無表情に変わり、何の感情も持たぬ空のような存在へと変わっていく。

 肉体は残っているが、その精神や命は奪われていた。


「こんな……!?」


 遥は背後で響く、無感情な声に振り向く。

 住人たちはその場で無気力に崩れ落ち、まるで動かなくなったかのように見えた。

 しかしその目には、何の輝きもなく、ただ虚無が広がっているだけだった。


 遥の胸には、あまりの恐怖に息が詰まるような圧倒的な感覚が広がった。


 影を消し去るたびに遥の心には重みが増していく。

 しかし、彼女の中には救われた住人たちの表情が確かに焼き付いていた。


 その姿を見ていた王は、微かに笑みを浮かべたようだった。


「ふん……覚悟はあるようだな。」


 しかしその直後、さらに濃密な霧が城内を覆い始めた。遥はその異常な気配に身構える。


「こんなの……まだ終わってないの?」


 彼女の問いに答える者はいない。ただ、次なる危機が迫るのみだった――。


(次回へ続く)

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