星空とチューリップ
カミオ コージ
(短編No.5)星空とチューリップ
〜剣士N.Nさんに捧ぐ〜
28歳の春、ナツミは竹刀を押し入れにしまった。
剣道一筋で18年間。小さな道場から始まり、中学、高校、大学と剣道漬けの日々を送った。大学では主将として全国大会にも出場し、実業団でも剣道を続けた。けれど、28歳の春、それが終わりを迎えた。
竹刀を丁寧に手入れし、押し入れの奥にしまい込む。扉を閉めた瞬間、部屋の中に広がった静けさが耳に刺さった。道場の音や試合場のざわめきが消え、残ったのはただの空気。
その夜、ナツミはコーヒーを淹れ、ベランダに出た。曇り空が広がり、星は一つも見えない。街灯がぼんやりと路面に滲み、風が少し湿っている。
部屋に戻ると、テーブルの上に赤いチューリップが一輪飾られていた。月の初めに花を買う習慣だけは、剣道を辞めた今も続いている。それがなぜなのか、自分でもわからない。ただ、それをしていないと、自分が崩れてしまいそうな気がした。
「花は何も語らない。」
ナツミは椅子に腰掛け、チューリップをじっと見つめた。花びらが静かに開き、茎が揺れもしないままそこにある。それはまるで剣道場の道具たちのようだった。竹刀や防具は、使う者がいなくてもそこにあり、ただ時間を吸い込んでいる。
剣道の稽古では、一本を決める瞬間に「無」を感じた。その感覚は、試合が終わり静かになった道場にも流れていた。そして、目の前のチューリップもまた、同じ「無」の静けさを宿しているように見えた。
☆
ナツミが剣道を始めたのは、父の影響だった。
子供の頃、父はよく道場にナツミを連れて行った。剣道が上手いわけではなかったが、道場の空気を楽しむ人だった。父の隣で竹刀を握り、道場の隅から稽古を見ている時間がナツミの原点だった。
「剣道は、ただ勝つためのものではない。」
父がよく口にしていた言葉。その意味は子供の頃のナツミには難しかったが、竹刀を握るうちに少しずつその言葉が染み込んでいった。
☆
ナツミが主将となった実業団は全国大会を控えていた。九州での遠征中、母から電話がかかってきた。
「お父さんが倒れたの。」
母の声は静かだったが、その奥にある緊張を感じ取った。
「今すぐ帰る。」
そう言ったナツミに、母はゆっくりと言った。
「お父さんも、試合に集中してほしいと思うはずよ。」
帰るべきか、試合に向かうべきか――ナツミは迷った。だが、父なら「最後までやり遂げろ」と言うだろうと思い、試合を優先した。
試合が始まっても、どこか心が浮ついている自分に気づいた。相手の打突をかわすたびに、父の言葉が頭をよぎった。
「一本にすべてを込めろ。」
だが、その声は自分を励ますものではなく、どこかで責めるように聞こえた。父のそばにいられない自分が、竹刀を握る資格を失っている気がした。結局、試合は完敗に終わった。
試合後、ホテルの部屋で母からの電話を受けた。
「お父さん、さっき亡くなったわ。」
耳が遠くなるような感覚だった。母の言葉がただ音として胸の中に落ちていく。「間に合わなかった」――その言葉だけが、ナツミの中で何度も繰り返された。
☆
葬儀の後、ナツミはふと道場を訪れた。
誰もいない静かな空間に立つと、父が座っていたベンチが目に入った。そこにはもう誰もいない。その空白が、すべてを物語っていた。
竹刀を手に取ろうとしたが、手が止まった。竹刀を握る意味がわからなくなっていた。
「剣道を続けても、父はもういない。」
☆
父の死後、少しづつ体調を崩したナツミは、主将としての責任を果たすどころか、稽古場に顔を出すこともできなくなった。
そんな中、チームは地方大会で優勝を果たした。
「ナツミさんがいない間、みんなで頑張りました!」
その言葉に、ナツミは胸の奥に冷たい風が吹き抜けるのを感じた。
「私がいなくても、いや、いない方が良いのかもしれない。」
心の奥にあった何かが音を立てて崩れた。自分の限界が目の前に現れたことが恐ろしかった。
その思いが心に根を張り、ナツミは竹刀を置く決意をした。
押入れに竹刀を収めた夜、ナツミは朝が近づくまでチューリップを見つめ続けていた。
☆
剣道を辞めてから数か月、ナツミは空虚な日々を過ごしていた。
布団から出ることすら億劫な日もあり、物流会社の席が残されていることを思い出しても、そこに戻る気力は湧かなかった。
「剣道をしていない私は、何なんだろう。」
ある日、街を歩いていると、目に入ったのはプラネタリウムのスタッフ募集のポスターだった。
「プラネタリウム…?」
そこには星空の写真と、案内係の業務内容が簡潔に書かれていた。
ナツミはふと、剣道の練習帰りに電車から夜空を見上げていた日々を思い出した。星が見えなくても、そこにあることを信じられたのは、剣道で鍛えられた集中力と精神力があったからだ。
履歴書を書きながら、ナツミは少し迷っていた。剣道以外に何もしてこなかった自分が、人前に立って星を案内するなんてできるのだろうか。けれど、どこかで「新しいことを始めてみたい」という気持ちが、少しだけ顔を覗かせていた。
面接当日、プラネタリウムの建物に足を踏み入れたナツミは、その暗さと静けさに圧倒された。スタッフの前で志望動機を話すときも、何度も言葉に詰まりそうになった。
「志望動機は…特別なことはないんです。ただ、星が好きで…。それに、自分を変えたくて応募しました。」
その言葉が採用担当者に響いたのかどうかはわからない。ただ、面接が終わるとき、一人のスタッフが声をかけてきた。
「履歴書に書いてあった剣道、実業団までやってたんですね。素晴らしいです。」
「え…?」
予想外の言葉に、ナツミは驚いた。剣道をしていたことは自分にとって過去のことだった。それが評価されるなんて思いもしなかった。
「剣道で培った精神や集中力は、この仕事にもきっと活きると思いますよ。」
その言葉が、ナツミの心に静かに響いた。剣道を辞めたことで何も残らないと思っていたのに、その経験が今、新しい扉を開く助けになっている。
後日、内定の連絡を受けたとき、ナツミは思わず電話を握りしめた。
「剣道が、私を支えてくれているなんて。」
電話を切ったあと、ナツミは押し入れにしまった竹刀を思い出した。剣道を辞めた自分はもう何者でもないと思っていたが、その竹刀はまだ自分の中に生きている。
☆
プラネタリウムでの初出勤の日、ナツミは投影される星空を見上げた。
都会の空では見えない無数の星たちが、暗闇を埋め尽くすように輝いている。星座の線が繋がるたびに、その無数の光が過去と現在、そして未来を結びつけているように感じられた。
「星は、見えなくてもそこにある。」
その言葉が、ふと心に浮かんだ。目には見えなくても、空の向こうに確かに在り続ける星のように、剣道で積み重ねた日々もまた、自分の中に生き続けていることを実感した。
初めての業務は緊張の連続だった。機械の操作に戸惑い、説明する星座の名前を忘れかけることもあった。しかし、館内の静けさや薄暗い光に包まれると、不思議と剣道場にいた頃の感覚が蘇った。あの頃、試合前の緊張や、竹刀を振るたびに心を鎮めていったあの「無」の感覚。それが、今の自分を支えてくれていると感じた。
スタッフ研修では、星座の由来や名前を学ぶ機会が多かった。ナツミはその一つ一つが剣道で技を習得した過程に似ていることに気づいた。星座の形を覚えるのは、竹刀の構えを練習するようなもので、星の神話を語るのは試合の駆け引きとどこか通じるものがあった。
星座の一つひとつが、目には見えないけれど確かに繋がっている線を描く。その線を見つけるには、空に目を凝らし、心を落ち着ける必要がある。それはまるで剣道の稽古で、一本を決めるために集中を研ぎ澄ませる感覚と同じだった。
ある日、初めて観客に星座を案内する機会を任された。言葉に詰まることもあったが、静かに聞き入る子供たちの目や、小さな拍手の音が、ナツミの中に新しい感覚を芽生えさせた。それは、剣道場で一本を決めたときの達成感と似ているが、少し違っていた。自分の言葉や行動が、他人の心に光を灯す――それが、剣道では得られなかった新しい喜びだった。
館内の業務が終わり、最後にもう一度星空を見上げた。暗闇の中で静かに輝く星々が、ナツミの中の記憶や感情と重なり合い、新たな力を与えてくれる気がした。
☆
忘年会で剣道仲間と再会したのは、ナツミが剣道を辞めて4年後の冬だった。
剣道を辞めた直後は、誰にも会う気が起きなかった。「剣道を諦めた自分」として顔を合わせることが怖かったのだ。だが、プラネタリウムの仕事を通じて少しずつ日々に喜びを見出し、新しい自分を受け入れられるようになったことで、ようやく会う勇気を持てたのだった。
「ナツミ先輩! 久しぶり!」
扉を開けると、懐かしい声と笑顔が迎えてくれた。
「4年ぶりだね! 元気だった?」
「先輩、変わらないね!」
剣道を辞めた後、ずっと会えなかった仲間たち。後ろめたさや疎外感が、足を遠ざけていた。自分だけが剣道を辞めてしまったという思いが、胸に重くのしかかっていた。
宴もたけなわになった頃、一人の後輩がナツミに声をかけてきた。
「ナツミ先輩、少しお話してもいいですか?」
二人きりになると、後輩は少し照れくさそうに笑いながら言った。
「先輩が辞めた後、正直すごく不安だったんです。でも、最後に先輩が言ってくれた言葉にずっと助けられてきました。」
「私の言葉?」
「『一本に全てを込める』って言葉です。あの言葉がずっと心に残ってて、どんなときも私の支えになってたんです。」
その言葉に、ナツミは驚き、そして胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が辞めても、剣道で過ごした日々や言葉が、誰かの中に生き続けていた。それに気づいた瞬間、長い間抱えていた孤独感が少しずつ溶けていくようだった。
帰り道、ナツミは冬の夜空を見上げた。4年ぶりに会った仲間たちとの時間が、胸の中に確かな光を灯していた。
剣道を辞めた後、何も残らないと思っていた。だが、自分の言葉が誰かの人生に光を与えていたことを知ったとき、剣道が自分の中で生き続けていることを確信した。
☆
忘年会から家に戻り、ナツミはリビングの小さなソファーに座り、テーブルに飾られたチューリップを見つめていた。その赤い花びらは静かに、けれど確かな存在感でそこにあった。ふと思った。もしこの花が言葉を持っていたら、何を語るのだろうか、と。だがすぐに、その答えが無意味だと気づいた。
「花は語らない。」
その代わりに、そこに在るだけだ。咲き、そして散る。それでも誰かの目に映り、誰かの手に触れ、知らず知らずのうちに人の心に何かを刻みつけていく。竹刀もまた、そうだったのかもしれない。自分が振らなくてもそこにあり、誰かがそれを受け継ぎ、また振る。
「無言の教えって、こういうことなのかな。」
ナツミは思った。剣道で感じた「無」の静けさ、それは無力ではなく、余計なものが削ぎ落とされた純粋な存在だった。今目の前にあるチューリップもまた、その象徴のように思えた。剣道での敗北、父を看取れなかった後悔、それを経て得た新しい仕事――すべてが、今この瞬間につながっている。
夜空の星々も、花びらも、剣道場の竹刀も、決して何かを訴えはしない。ただ静かに、そこに在り続けるだけだ。それでも、それは確かに力となる。
ナツミはそっと手を伸ばし、チューリップの茎に触れた。その冷たさと柔らかさに、生きる力を感じた。
「星空も、チューリップも、剣道も、そして看取れなかった父も、すべて私の中にあるんだ。」
ナツミは立ち上がり、ベランダに出てから星の見えない都会の空を見上げ、深く息を吸い込んだ。
星空とチューリップ カミオ コージ @kozy_kam
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます