先輩
赤井朝顔
第1話
私は生まれた時から人よりも大きかったらしい。それは身長や体重だけの話ではなく、掌や足の幅なんかにも当てはまっていて、当然のように健康でいたため、両親は大層喜んでいたようである。生まれた時から大きいのだから、周りの子らよりも一回りも二回りも大きくて、よく羨ましがられた。今にして思えば、体の大きさなぞ、なんの自慢にもならないのだが、ひどく幼かった私は図体ばかりが大きくなり、心はちっとも大きくならなかった。無駄に大きな体を威張らせ、無駄に太い声を響かせ、同級の子たちをよく怖がらせ、萎縮させ、自分の思うままにしていた。
小学校にあがっても、その気質は変わらず、体の大きいのをいいことに野球を始め、また威張り散らした。年上の子たちとは流石にそこまでの体格差が無かったため、同じ年頃か、または年下の子どもに悪態度をとり、年長者には機嫌をとるというような、子供ながらの渡世術を発揮した。
先輩に出会ったのは中学校に入学してからである。
その時の私は少々、困ったことになっていた。同級生の子たちは入学の少し前からぐんと体が大きくなり、頭ひとつ飛び抜けていた私の体格は、ほとんど凡庸なものと変わらぬようになっていた。それどころか上級生については、私よりも大きいのが当たり前であるかのように振る舞った。人より大きな体躯だけが取り柄だった私はすっかり怯えてしまい、もはや通常となった体を縮こまらせるように日々を過ごした。
入学して幾日か経った頃、私は野球部に入部した。その他にやることが、というよりも出来ることが無かったからである。
同じ時期に入部した同級たちは私よりも多少は小さく、私の心を安心させたが、数十人いる先輩らは皆総じて、二回り以上大きいのだから恐怖の対象でしかない。あの太くて低い声など私を怖がらせるために態々出しているのに違いないと、毎夜震えたくらいである。
ある日、放課後の練習が終わり、心身共にクタクタになっている私に声をかけてきた先輩がいた。その先輩は部長を務めている人で、当然ながら私よりも大分大きかった。彼は学校には慣れたかだの、友人は出来たかだのと話し始め、私が疲れた頭で適当に返事をしていると最後に「明日の朝練、1時間早く来るように」と言い、どこかへ行ってしまった。疲れ切っていた私は思わず首肯いてしまい、しまったと思った時にはすでに先輩の姿はなかった。
次の日の朝、私は眠い体を引きずりながら登校し、先輩に言われた通りに1時間早く来た。すると既に先輩は昇降口にいて私を待っていた。
先輩は荷物を教室に置いて、着替えてくるようにと私に言うと、さっさと校舎内に入り、上級生の教室へと向かった。私は憂鬱になりながらも荷物を持って教室に向かい、練習着に着替えた。その後、再び昇降口に向かうと、相変わらずすでに先輩はいたが、なんだか様子が変わっているように見えた。腕を組み、右手で顎を触りながら頻りに何か考え事をしているような格好だった。私に気づくとぱっと明るく表情が変わり、「待ってたぞ」なんて言って、組んでいた腕を解いた。「今日はバッティングをするぞ」と続けて言い、野球場に向けて歩き出した。先輩の表情が変わる瞬間を見て、私の緊張は幾分ほぐれたと同時に、先輩は野球がとても好きな事と、私がいることによって、バッティング練習が出来ることを大いに喜んでることがわかった。
私が、そんなことを思っていると、先輩は練習場に歩き出し、私も後に続いた。先輩はまるでスキップでもしているかのような足取りに見えて、実際その体格差からも後から歩いている私はどんどん引き離されていった。私は慌てて早歩きをして、時折小走りするようにして先輩についていく。するといきなり先輩は立ち止まり、ぱっとこちらを振り向いた。
「足遅いのな」
ほのかな微笑をたたえ、少しだけ優しい目をした後、それだけ言った先輩はまた前を向いて歩き出した。その瞬間、私の中の血潮がほんの少し暖かくなるのを感じた。
先輩との朝練はその後も続いた。他の部員よりも1時間早く来て、2人で練習する。私と先輩以外には誰もいない、何をしているのかも知らない、2人だけの秘密を持っているようでなんだか嬉しかった。先輩が私を呼ぶ太い声、ボールを追う先輩の少しだけ垂れた目、服の上からでもわかるしなやかで強靭な筋肉、先輩が私に何かを教える時に顔を近づけた時の吐息。私は逢い引きを心待ちにしているような気持ちで朝の時間を待った。
先輩との朝練がひと月ほど続いた頃、私はやっと同級生たちに馴染んできた。もはや体格差が変わらない彼らに対して普通に接するということが困難であったためである。
同級生たちの人柄が分かり始めた頃、私はクラスメイトの一人の少女が気にかかっていた。朝練が終わり、教室に行くと必ず本を読んでいる少女だ。彼女は私の隣の席のため嫌でも目に入る。私が席に着くと必ずこちらを向き「やあ」とだけ言って本に目を戻す。私も挨拶を返すのだが、その時には既に彼女の目は本に向けられているため、私は側から見れば無視されているように見えるだろう。気にかかっていたのは、その声である。同級生と比べて少々低すぎる気もする声だが、教室の喧騒の中でもはっきりと聞き取れるよく通る声だ。
彼女はたまに話しかけてきては、なんだか理解し難いことを喋っては私を混乱させる。それは何かしらの理論とか、言語学とか伝統文化とか、専門的な話が多くてとてもついてはいけなかった。理解できないなりに相槌をうつのだが、彼女は私が理解できていないことは承知の上であっただろうし、私のその反応を楽しんでいる風でもあった。彼女の声と仕草は私を困惑させ、同時に魅惑した。
ある日、先輩が私の所属する教室を訪ねてきた。用件は部活に関することだったのだが、私は丁度その時、隣の彼女と話をしていた。先輩に声をかけられて振り向いた時、私はたまらなく恥ずかしいと感じた。先輩と話をするため、廊下へと連れられたが、用件を伝えられている間、私は先輩の顔をきちんと見ることができなかった。自分勝手な罪悪感と底にある不純を見られてしまったように思った。話が終わり、先輩の顔をちらりと見ると、先輩はいつもと変わらない表情で私の目を見つめていた。
教室に戻ると彼女は本を読んでいて、私が席に着くと嘲笑のような表情をして、こちらを向いた。私の動揺を見透かす様な目で見ると、「仲が良いのだね」と言った。
それからというもの彼女は私にあからさまに近づいてくるようになった。いや、私がそう感じているだけなのかもしれない。わざと手が触れるくらいに体を寄せたり、必要もないのに耳元で話す。目が合えば困惑させる微笑を浮かべる。私はとてつもなく魅惑され、何をしている時にでも彼女を思い浮かべるようになってしまった。
それは先輩との二人きりの朝練のときも例外ではなく、全くもって集中できないでいた。先輩はそのことに気づいているのか、いないのか分からなかったが、私の心象には彼女による継続的な打撃が加えられ、ある日とうとう崩れ落ちるのを確信した。
私は酷く落胆した。
先輩 赤井朝顔 @Rubi-Asagao0724
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