かごんまのアオ

カルボヌス

序章 「涙の先に見えたもの」

三月下旬の夕暮れ時、仏桑花高校の体育館は薄暗く、外の桜がそよ風に揺れる音がかすかに聞こえていた。浩次郎は忘れ物を取りに戻るため、静かに体育館の扉を開けた。その瞬間、微かなシャトルの音と、短く切れた息遣いが耳に飛び込んでくる。


「誰かおるとけ?」


彼は足音を忍ばせ、コートの隅に目を向けた。そこにいたのは、一人の女子生徒。茶髪のショートヘアが汗で張り付いた彼女は、力強いスイングを繰り返しながら、涙をぬぐう間もなくシャトルを追い続けていた。


彼女の動きには迷いがなく、むしろその悔しさを振り払おうとするような激しさがあった。だが、その顔に浮かぶ苦悩と涙の跡が、浩次郎の胸を強く締めつけた。


(なんちゅう真剣さや……俺、あん人みたいに打ち込めてるやろか?)


浩次郎は、しばらくその場から動けず、ただ見つめるしかなかった。彼女が何に涙しているのか、それを問う権利が自分にないことはわかっていた。だが、同時にこの光景を胸に刻まずにはいられなかった。


その時、ふとシャトルが彼女のラケットをすり抜け、コートの端まで飛んだ。浩次郎は反射的に手を伸ばし、拾い上げる。


「……あん人、えらい頑張っとるな」


声をかけるべきか迷ったその瞬間、彼女がこちらに気づく気配を感じた。慌てて目をそらし、足早に体育館を後にする。


「……ごめん、邪魔したつもりはなかったとけど……」


その呟きは誰にも届かないまま、体育館の扉の向こうでかき消された。


次の日の朝、浩次郎は食卓で母・照子とともにテレビを見ていた。いつものニュース番組のスポーツコーナーが流れると、浩次郎の手が止まる。


「志布志美伽選手、惜しくも初戦敗退。それでも次世代のホープとして注目されています」


画面に映し出されたのは、昨日のあの女子生徒だった。負けた試合の後、インタビューを受ける彼女の姿が映し出される。


「悔しかです。でも、次は絶対勝ちます」


彼女の瞳に宿る強い意志が、浩次郎の中でくすぶっていた何かに火をつけた。


(あん人は……自分の弱さと向き合うとる……俺も見習わんといかんど)


それは彼にとって、初めて「誰かに追いつきたい」と思った瞬間だった。


再び仏桑花高校を訪れたのは、春休みの練習が始まったばかりのある朝だった。浩次郎はいつものように体育館の扉を開け、自主練の準備を始める。だが、その日、すでに先客がいた。


「……あ、あん時の……」


体育館の隅でラケットを振る美伽の姿が目に入った瞬間、浩次郎の心臓が高鳴る。再び目にしたその真剣な姿は、彼の中で何かを確信させた。


「俺も……負けられんど」

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