短編たくさん
墓太郎
「潮の夜明け」
東空に薄白い光が差しはじめるころ、杉浦常高はひとり浜辺を歩んでいた。砂の粒は夜来の潮気を吸って重たく、足を下ろすたびにかすかな音をたてて沈む。朝とも夜とも判じがたい、その曖昧な時刻に吹く風はどこか湿り気を孕み、人の胸中の哀愁を呼び覚ますようでもあった。
父・常定が危篤にあると聞いたのは、まだ暗がりの中を灯火だけが頼りだった刻限である。武家の都として隆盛を極めつつある鎌倉の街にあって、常高もまた御家人の端くれとして、ささやかな官務に携わっていた。夜更けの執務を終えて仮眠をとろうとした折、急報を運んできた使者が「今宵こそ危うし」と声を詰まらせたのだ。常定はかつて先の将軍に忠を尽くし、その功により小さな所領を与えられ、以後は鎌倉の政に目を凝らしながら晩年を送ってきた。しかし近頃は病を得て床に伏せる日が続き、いよいよ今夜が峠と医師が告げたという。
常高は慌ただしく陣羽織を払って屋敷を出たが、重苦しい予感に足を急かされながらも、なぜか馬を求める気にはなれなかった。あるいは、父が最後に示したかった想いを、己の足で噛みしめるように辿りたいと望んだのかもしれぬ。薄暗い町を抜け、木戸を越え、やがて海辺へ出ると、あたりは仄白く明けかかりつつある。
だが、波打際にさしかかっても常高の胸は乱れたままであった。海鳴りははるか遠いところでとどろき、夜の夢を引きずるように重く響く。北条の館に仕える身とはいえ、常高は未だ一介の若輩にすぎない。剣の腕も未熟ではないが、世の荒波を泳ぐ知略や度胸には乏しい部分がある。そんな己への焦りと、父が刻んだ年月の重みとが、相克するように胸を締めつけていた。
夜の名残を溶かすように、淡い光のベールが海面をほの赤く染めはじめる。京の雅びとは違う、関東の粗野で力強い風景が、常高のまなざしの奥に焼きつく。鎌倉幕府に身を投じて以来、彼は何度も海沿いを往来したが、父の生命が消え入りそうだと知る今ほど切実に、この波と砂の響きが胸を裂くように迫ることはなかった。朝の息吹に合わせ、常高は砂を踏みしめる足を速める。
父の屋敷は町の西寄り、ひなびた大路を抜けた先にある。前庭には立派とは言えぬながらも、蘇鉄と松が植えられ、その陰に隠れるような小ぶりの門がかかっている。父の築いた屋敷は、金銀の飾りや絢爛さはなく、ただ質実剛健に武門の家風を示すのみであった。
門口にたどり着いた常高は、軽く息を吐いて背筋を伸ばす。門をくぐるとすぐに侍女が来て、「旦那様は昏々として意識が定まりませぬ」と言葉少なに案内する。廊下の板は夜の寒気で冷え、足の裏を刺すように痛んだ。かつては父自らが倅の剣術を試そうと、この廊下で竹刀を振って待ち構えたこともあったが、それはもう遠い昔の話に思われる。
襖を開くと、床の上に細く敷かれた寝台に、常定が横たわっている。傍らには母や家人たちが控え、必死に声をかけているものの、父はときおり微かな声を漏らすのみで、瞼を上げることもできぬようだ。さながら燈火の芯が尽きゆく前の、とろりと鈍い揺らぎ。
「父上、常高にございます。今参りました……」
小さく声を掛けても、父はわずかに唇を震わせるばかりだった。どれほど耳が聴こえているのかは定かではない。だが、常高はその手をそっと握りしめた。荒れ地を何度も馬で駆け抜け、刀を振るい、雨風に耐えてきたであろう父の手だというのに、今は生気を失って痩せ衰え、青白い骨ばかりが浮き上がっている。
幼いころ、常高は父をまるで巨人のように感じていた。どんな無茶な相手にも正々堂々と挑む勇気、将軍に仕えながら決して媚びへつらわぬ誇り――それらが少年の目には眩しく映った。父の振るう太刀筋は鋭く、飾り気のない居合いの稽古場で、常高は何度も投げ飛ばされた。けれどそのたび、父は手を差し伸べ、諭すように語ってくれたものだった。己の足で立て、と。
あの剛毅な姿が今ここに横たわり、息も絶え絶えになりながら、なお常高の手を探ろうとしている。かすかに浮かぶ指の動きに、息子としてどうしようもない無力さを噛みしめる。
「父上……どうか、もう一度だけ、お言葉をかけてはいただけませぬか」
声を絞り出すと、父のまぶたがわずかに動いたように思えた。しかしそれも儚い期待であったか、あるいは真に反応があったのか。するとしんとした空気の中、常定の呼吸がわずかに強まって、しゅうと息を吐く。どのような言葉にもならぬ声がかすかに漏れ、常高は耳を澄ませてそれを聞こうと身を乗り出す。
「……の……」
それは、潮の音にかき消されそうなほど小さく、いままさに光を失いつつある者の呻きに等しかった。だが常高には、その断片を確かに聞き取ることができた。
「……捨てるな……」
一息ごとに千切れてゆくような父の声。そのふた言が何を指すのか、常高には悟れる気がした。父が遺してきた家名を守れ。あるいは武士としての道を忘れるな。そうした切なる願いであると同時に、その思いを汲んで常高が歩んでいけ、という最期の教えではないか。父はさらに何事かを言おうと唇を開いたようだが、かすれた息が虚空に消えた。
家人の一人が震える声で「ただいま、お医師を」と叫び、慌てた足音が奥の間へと走る。それでも父の瞳はゆるりと閉じられ、もう二度と開くことはないかのように静まっている。何かが決定的に遠ざかっていく――常高はそう感じた。まるで浜辺の薄闇に消えていく潮のように、父の魂はゆっくりとこの世を後にするのだろう。自らの指の中に残る父の温もりが、失われる瞬間を知るのが怖かった。
やがて父はごく小さく唇を震わせると、それきり長い呼吸を止めてしまった。何者も口を開くことができず、部屋の中は凍ったように沈黙する。泣き崩れる母の声のみが、微かな木霊となって板間に響いた。
父の死から三日目の早朝、常高は再び浜辺に立っていた。葬儀の準備や官への届けなど、煩雑な務めに追われるうち、心は荒れるばかりだった。深夜にふと目を覚ましては、父の「捨てるな」という言葉が脳裏を離れず、己は一体何を捨てず、何を守るべきなのかと、答えのない問いに苦しんだ。
夜明け前の海は、暗い波間と淡い光が交錯しながら、世界の端から新しい日を呼び込もうとしている。常高はこれまでも幾度となくここを歩いた。父から教わった剣術の稽古に疲れ、己の未熟さに腹を立て、ひとり海岸に来ては苛立ちをぶつけた日もあれば、御家人の衆とともに早駆けの馬を試したこともある。どの思い出にも、父の存在が重く大きく影を落としていた。
これから己は、鎌倉武士としてどう生きるべきか。豪奢な衣は好まぬし、官位にしがみつく性分でもない。父が目指したもの――それは、名声や財ではなく、まことの忠節を尽くさんとする己の心根だった。かつて先の将軍の陣にありながらも、どの権勢にも媚びずに生きた父の姿こそ、常高の憧れであり、それこそが捨ててはならぬものではなかったか。
海辺には、あちこちに岩が露出している。荒波がそれを叩き、白い飛沫が舞い上がる。常高は足を止めて、潮風に襟を打たれながら、遠い水平線を見つめた。あたかも鎌倉という土地は、都の雅な文化を受け継ぐには粗削りなまま、しかし新しい政権を築く力は確かに宿している。それは、父が必死に守ろうとした「誇り」とも通じる気がした。
かつて常高は、京へと上る道中で見た華やかな行列に心奪われたことがあった。錦をまとい、笛や鼓が響き渡るあでやかな列。だが、あのきらびやかさの裏には、父が嫌った退廃や権謀が渦巻いている。そう教えられてから、常高は武士が貫くべき本質とは何であるかを、ずっと考えてきた。
常定が最後に口にした「捨てるな」とは、父から息子への形見として託された誇りそのものではなかったか。自分が不器用にも握りしめてきた太刀には、祖先代々の魂が刻まれ、武士が命よりも尊ぶべき矜持がある。父は死の間際にも、それを放棄してはならぬと遺したのだろう。
ふと、岩間に打ち寄せる潮の音が心なしか静まったように聞こえた。朝日が昇りはじめ、浜辺は赤金の色に染められる。その光の中で、常高は胸に手を当てる。もし今、自分が父の教えに背き、ただ世の流れに身を委ねて楽を得ようとするならば、父の亡骸は決して安らぐことはないだろう。逆に、己が父の遺志を胸に抱き、武士として揺るぎなき歩みを進めるならば、その魂はこの空に溶け、海に染み入りながら、自分を見守ってくれるに違いない。
やがて、何処からともなく鴉の鳴く声が響いた。朝焼けを背に受け、漆黒の翼が一瞬、視界を横切る。常高はその姿を追いながら、肩の力を抜いて大きく息をついた。詮ずるところ、この若さで得られる答えなど、ささやかなものかもしれない。しかし、いずれ迷い続けようと、旅を続けようと、父が遺した「捨てるな」という言葉は道標となる。
故人の供養を果たし、己の人生を切り拓くことこそが、父への何よりの弔いであり、また自らを生かす術ではなかろうか。そう思えば、一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。夜明けのうちに沈んでいた闇も、いまは陽光に照らされはじめ、浜辺の景色は一変してきらめいている。生きる者は、その光のもとを歩まねばならない。
常高は、うっすら潮が乾きかけた砂の上に跪き、両掌を組んで静かに目を閉じた。波打際の音が遠く、けれど確かに胸に響く。あの父の最後の声を、ありのままに受け入れるには時間がかかるだろう。それでも、己が武士として生き続ける限り、父が育んだものは死なない。父の死を嘆く心の奥底で、燃え残った炭火のような思いが、やがては熱い炎となって己を奮い立たせるに違いない。
そうして祈りを終えた常高は、手のひらの砂を払い、まっすぐに立ち上がる。浜辺を見やれば、小舟が一艘、波間に揺れながら朝日に反射してきらりと光った。
すべては移ろう。身分や権力、時代の趨勢、そして人の命も。だが、そこにこそ武士としての覚悟が試される。母が待つ屋敷へ戻らねばならないが、父亡きあとも家は存続し、御家人としての務めは続く。いずれ新たな争いや、権力の抗いが鎌倉を蝕むこともあろう。だが、常高は父が遺した言葉――「捨てるな」を胸に、何よりも尊いものを抱えて生きたいと思う。
もう一度、小舟を見つめると、常高は波の音に背を押されるように歩を進めた。朝の空は金色に輝き、今日という一日をはじまりの色で染めている。気づけば、うっすらと頬を伝った涙は潮風に晒され、もう乾いてしまった。
かつて父がこの海を愛で、荒磯に打ち寄せる波を肴に酒を酌んだという小話を、常高は今さらながらに思い出す。見慣れた風景が、失ってはじめてその深い魅力と悲哀を含んで輝くのだろう。父はもういない。だが、だからこそ己は生きる意味を問いつづけねばならぬ。
そうして、浅く淡い雲がかかった朝陽を仰ぎ見て、常高は新たな一歩を踏み出した。父の声は遥か遠く波間に溶け、やがて自分の胸の奥で小さな焔となって燃えつづけるに違いない。この鎌倉の地で、荒々しくも尊き生を織りなしていくために――。
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